第7節 ― 刺繍は嘘をつかない
レオンが外部記録を書類箱へ戻し終えるまで、エレノアは一度も椅子から立たなかった。
机から紙は消えている。
それでも。
オーレリア=ベルモントと、ルチア=フェイン。
二人の名だけが、応接室の中央へ残されているようだった。
現実には一年以上学園へ来ていないのに、出席と成績を記され続けるオーレリア。
どこかにいるはずなのに、白鐘祭の日には学籍から消されるルチア。
一人を成立させ。
一人を消す。
「刺繍布を見せてもらうわ」
エレノアが言った。
レオンは書類箱の留め金を閉じる。
「イザベルが拒んだものを、どうやって」
「説得する」
「君の説得は、相手が頷くまで問いを重ねることだ」
「一度断られただけで引き下がるのは、説得とは呼ばないでしょう?」
「尋ねることと、追い詰めることを混同するな」
「兄さまに言われたくないわ」
ミラベルが二人の間へ視線を置いた。
「今回は、イザベルさんにも話す理由ができたと思います」
「オーレリアの記録か」
「はい。ルチアさんの疑いが、怪談に影響された思い込みではなかった可能性を示せます」
「記録そのものは見せられない」
「内容だけで十分です」
「どこまで話す」
「オーレリアさんが一年以上ドック=セリムにいること。学園では、その間も出席と成績が記録されていること。ルチアさんの退学が、白鐘祭の日に発効すること」
「代理筆記があったとは断定するな」
「分かっています」
「オーレリア本人が加担しているとも言うな」
「それも」
「刺繍が暗号だとも決めるな」
ミラベルはエレノアを見た。
「最後の点は、ご本人へ」
「昨日から言っている」
「私は暗号だと決めていないわ」
エレノアは立ち上がった。
「課題作品として不自然な理由を知りたいだけ」
「不自然だとする根拠は」
「刺繍の基礎から説明しましょうか?」
「断る」
「では、任せて」
「論理がつながっていない」
「お二人とも、もうよろしいですか?」
ミラベルが尋ねる。
「終わっていない」
二人の声が重なった。
ミラベルは小さく息を吐く。
「私が、イザベルさんと話してきます」
「俺も行く」
「男性は寄宿舎へ入れません」
「校長へ同席を求める」
「教師の前では、話さないと思います」
「君たちだけなら話す保証があるのか」
「ありません。ただ」
ミラベルは静かに続けた。
「イザベルさんが守ろうとしている相手と、同じ立場の者にしか話せないこともあります」
「同じ立場?」
「ここを失えば、学ぶ場所を失う少女です」
レオンは答えなかった。
イザベルは寮長として規則を守る側にいる。
同時に。
奨学生として、規則へ逆らえば教育も寝床も将来も失う側にいた。
制度を外から読むことと。
制度の中で、明日の居場所を賭けることは違う。
「午後に報告しろ」
レオンは書類箱を持ち上げた。
「一人で旧東棟へ入るな」
「二人なら?」
「人数の問題ではない」
「三人?」
「減点方式で退学へ近づくのはやめろ」
「退学書類なら、学園が勝手に作ってくれるでしょう?」
レオンの表情が固まった。
エレノアも、冗談として軽すぎたことに気づいたらしい。
目を逸らす。
「悪かったわ」
レオンは叱責しなかった。
「今夜までに戻らなければ、俺が迎えに入る」
「どうやって?」
「正門からだ」
「探偵らしくないわね」
「妹を迎えに行くのに、探偵らしさは必要ない」
レオンが部屋を出る。
足音が遠ざかってから、エレノアが呟いた。
「本当に入ってきそう」
「来るでしょうね」
「女学園の規則を破って?」
「あなたを連れ戻すためなら」
「兄さまの方が、規則に従わないじゃない」
「似ていますね」
「それは、もう言わないで」
*
イザベル=ノインは、灰百合寮の談話室にいた。
白鐘祭の座席表を長机へ広げ、細い枠の中へ一人ずつ名前を書き込んでいる。
来賓。
保護者。
寄付者。
在校生。
人間が、決められた場所へ整然と配置されていた。
エレノアが向かいへ立っても、イザベルは筆を置かなかった。
「昨日と同じ話なら、答えは変わりません」
「今日は別の話よ」
「授業の時間でしょう」
「取材の補助を頼まれているわ」
「頼まれた?」
ミラベルが口を挟む。
「命じてはいません」
「本人が同意すれば同じでしょう?」
「違うわ」
イザベルが顔を上げた。
「お願いは断れる。命令は、断れば罰を受ける」
その言葉は、エレノアではなく。
座席表に並ぶ名へ向けられているようだった。
ミラベルが椅子を引く。
「少しだけ、話を聞かせてください」
「取材なら、校長先生を通してください」
「記事には書きません」
「では、なおさら話す理由がありません」
イザベルが筆を戻す。
エレノアは、座席表の余白へ手を置いた。
墨には触れない。
「オーレリア=ベルモントは、一年以上ドック=セリムにいる」
筆先が止まった。
「鉄道と医療の記録が一致している。学園へ戻った形跡はない。それでも、ここでは出席し、課題を提出し、試験を受け、優秀な成績を取ったことになっている」
イザベルの顔から、わずかに色が失われた。
「誰から聞いたの」
「兄さまが学外の記録を調べた」
「勝手に?」
「正規の照会だそうよ。本人は、そこを重視していたわ」
イザベルは筆を紙から上げた。
墨の線が、座席の枠から少しはみ出している。
「それで、何が言いたいの」
「オーレリアの課題を書いた人を知っている?」
答えはない。
「試験を受けた人は?」
沈黙。
「ルチア?」
イザベルの指が、筆を強く握った。
「エレノアさん」
ミラベルが静かに呼ぶ。
「順番に」
「遠回りしている時間はないわ」
エレノアはイザベルを見たまま言う。
「ルチアの退学は、白鐘祭の日に正式になる」
イザベルの表情が崩れた。
「そんなはずは」
「発効予定通知が出ている。家庭上の事情による自主退学として」
「ルチアは同意していない」
反射的に答え。
イザベルは自分の口を閉ざした。
エレノアは追及しなかった。
ゆっくりと、向かいの椅子へ座る。
「そう」
声から鋭さが少し消えた。
「あなたも、そう思っているのね」
イザベルが立とうとする。
ミラベルは扉の前を空けた。
逃げ道を塞がない。
それでもイザベルは動かなかった。
「ルチアから、何を預かったの?」
「何も」
「刺繍布を持っている」
「昨日も答えませんでした」
「今日は、退学の日付を知った」
「あなたに関係はない」
「友人よ」
「友人なら、学園を壊してもいいの?」
イザベルの声が強くなった。
「一人を助けるためなら、ほかの奨学生が学校を失っても構わないの?」
「それを決めるのは私ではないわ」
「あなたは何も失わないから言えるのよ」
イザベルは、もう言葉を抑えられなかった。
「クラウス家の娘なら、退学しても家庭教師を雇える。別の学校にも行ける。私は違う。ルチアも違う。ここを追い出されたら、次はない」
「だから、ルチアが消されても黙るの?」
「黙らなければ、全員が消されるかもしれない!」
声が談話室へ響いた。
イザベルは我に返り、扉を見た。
ミラベルが静かに閉める。
「全員、とは?」
イザベルは答えなかった。
エレノアも、今度は待った。
壁時計の秒針だけが、乾いた音を刻んでいる。
やがて。
イザベルは椅子へ座り直した。
「去年」
声は掠れていた。
「私は、ある生徒の課題を清書するよう命じられた」
「誰に?」
イザベルは首を振った。
「今は言えない」
「なぜ?」
「名前を一つ出せば、その人だけがしたことにされる。その上にいる者も、知りながら黙った者も逃げる」
ミラベルがエレノアへ視線を送る。
押すべきではない。
エレノアは口を閉ざした。
「最初は、字を読みやすく直すだけだと言われた。次は文章の間違いを直した。引用を足した。そのうち、最初から私が書くようになった」
イザベルは右手を見る。
寮長として当番表を書き。
かつては、別の少女の成績を成立させるために使った手。
「私が書いた作文が、その生徒の名で評価された。私の奨学金は続いた」
「断れば?」
「奨学金を再審査すると言われた」
「脅迫ね」
「言い方は、もっと正しかったわ」
イザベルは自分を庇わなかった。
「学園の財政は厳しい。寄付がなければ奨学生制度を維持できない。少し協力すれば、もっと多くの少女が学べる。そう説明された」
「それを脅迫と呼ぶのよ」
「呼び方を変えても、従った事実は変わらない」
イザベルの声は低かった。
「自分の文章が誰の名で残っても、ここで学べるなら構わないと思った。ほかの奨学生も救われるなら、悪いことではないと思おうとした」
「ルチアも?」
ミラベルが訊く。
「最初は従った」
イザベルは目を伏せた。
「作文。歴史。契約法。読書記録。それから、試験も」
エレノアの膝の上で、手が強く握られる。
「オーレリアの?」
「名前は知らされていなかった。でも、ルチアは気づいた」
「何に?」
「自分の作文が、オーレリア=ベルモントの名で表彰候補になっていたことに」
イザベルは座席表の寄付者席を見た。
「ルチア自身の成績には、文章構成に難ありと記されていた」
「同じ文章が」
ミラベルが言う。
「別の名前なら、優秀になる」
「名前を替えただけで?」
エレノアの声が冷えた。
「記録の上では」
イザベルは答えた。
「そうなる」
窓の外から、白鐘祭の準備をする少女たちの声が聞こえた。
学園を守るため。
奨学生を学ばせるため。
その言葉の下で。
一人の少女が学んだ事実は、別の名前へ移されていた。
「刺繍布を見せて」
エレノアが言った。
「ルチアから預かったのでしょう?」
長い沈黙のあと。
イザベルは制服の隠しポケットへ手を入れた。
昨日まで裁縫箱にあった灰色の布を、今は自分で持ち歩いていた。
「いつ?」
「姿を見なくなる前日」
「何と言われたの?」
「自分に何かあれば、これを守ってほしい。教師には渡さず、信じられる相手が見つかるまで隠してほしい、と」
「暗号だとは?」
「聞いていない。意味も分からない」
「それで洗濯室へ?」
「部屋へ置けば、検査で見つかるかもしれない。洗濯物へ紛れさせるつもりだった」
「誰かへ渡したのではない?」
「違う」
「灰衣の一人でも?」
「違う。靴を調べてもいい」
イザベルは布へ置いた手を離さなかった。
「なぜ昨日は話さなかったの?」
「あなたが何をするか、分からなかったから」
「今は?」
「今も分からない」
正直な答えだった。
「でも、明日にはルチアの退学が成立する。私が持っているだけでは、守ったことにならない」
イザベルは手を離した。
「ルチアのものよ」
「図書館で調べるわ」
「図書館?」
「これは失敗作ではない」
エレノアは、布の端をそっと持ち上げた。
「少なくとも。失敗した部分と、わざと乱した部分は違う」
*
刺繍布には、小さな白鐘と四輪の百合が縫われていた。
灰色の布。
白い鐘。
銀糸の輪郭。
一見すれば、白鐘祭へ提出する課題作品である。
ただし。
同じ模様のはずなのに、糸の色が違う。
百合の花弁が、別々の方向を向いている。
針目の数も揃っていない。
白鐘女学園の図書館で、エレノアは布を閲覧机へ広げた。
ミラベルとイザベルが向かいへ座る。
「ルチアは、本当に刺繍が苦手だったの?」
ミラベルが訊いた。
「ええ。糸を引く力も、曲線の幅も揃わない」
エレノアは百合を一輪示した。
「でも、ここだけは針目が正確に六つ並んでいる」
次の花。
「こちらは九つ」
「数を伝えるために、意図して揃えた?」
「そう考える方が自然よ」
エレノアは図書館の分類表を開いた。
各部門には、色の付いた小さな札が割り当てられている。
白は校史。
銀は創設者関係文書。
薄青は施設記録。
「糸の色が、分類」
ミラベルが書き留める。
「花弁の向きは?」
「棚の位置よ。図書館の案内図と同じ。上向きなら北側。右なら東側」
「針目の数が、棚の中の冊番号」
イザベルが言う。
「複雑ではないのね」
「複雑にする時間がなかったのでしょう」
エレノアは二つの模様を分類表へ当てはめた。
白糸。
東向きの花弁。
六針。
校史棚の第六冊。
銀糸。
北向きの花弁。
九針。
創設者文書棚の第九冊。
「二冊です」
ミラベルが立ち上がる。
「まだ、本があることを確かめるだけよ」
エレノアも布を畳んだ。
「書かれている内容まで、ルチアの意図と同じとは限らない」
「今の言い方」
「本を探して」
*
校史棚は、図書館の最も奥にあった。
白鐘祭で展示する新しい学園史は入口近くへ移されていたが、創立初期の記録は、煤色の背表紙を並べたまま埃をかぶっている。
白い分類札。
東側の棚。
六冊目。
エレノアが踏み台へ上り、革表紙の本を抜いた。
金文字で、
《白鐘女学園創立五十年史》
と記されている。
もう一冊は、鍵付きの硝子棚にあった。
銀の分類札。
北側。
九冊目。
《エレナ=ベルフォード日誌抄》
創設者の手書き日誌から、教育に関する記述を抜粋した校内写本だった。
イザベルが、白鐘祭の展示準備で預かっている鍵を差し込む。
「便利ね、寮長」
「あなたには渡さないわ」
「頼んでいない」
「顔が頼んでいる」
「私の顔は、それほど分かりやすい?」
「かなり」
硝子戸が開く。
三人は二冊を閲覧机へ運んだ。
学園史の索引には、東棟の創設とともに、小さな項目が残されていた。
――仮在籍制度。
頁を開く。
創立当初。
旧東棟の療養室は、病弱な生徒だけでなく。
家庭上の保護を必要とする少女のためにも使われていた。
「家庭上の保護」
ミラベルが指で行を追う。
「病気とは別に書かれています」
同じ頁には、詳しい経緯を創設者日誌へ譲る注記があった。
エレノアは写本の索引を開く。
仮在籍。
保護生。
東棟。
関連する頁は、すぐに見つかった。
――本日、《第十三在籍者》を東棟へ迎える。
――実名は記さず。追跡者へ所在を明かさぬこと。
イザベルが息を止める。
「追跡者?」
前後の記述には。
家族の許可なく学びたいと願った少女。
望まぬ婚姻から逃れた少女。
奉公先から助けを求めた少女。
居場所を知られれば、連れ戻される者たちのことが記されていた。
創設者は、彼女たちの本名を在籍簿へ残さなかった。
十二人の正規生徒とは別に。
保護中の一人へ、一時的に与えた仮番号。
それが。
《第十三在籍者》だった。
「怪談では」
イザベルが呟く。
「名前を奪われた少女が、旧東棟で死んだと」
「死んだとは書いていない」
エレノアは、同じ項目の続きへ目を落とした。
――第十三在籍者、本日退所。
――本人の望む名を選び、西方へ向かう。
――学びし文字が、彼女の糧となることを願う。
別の年の記録にも。
第十三在籍者が教師の助手として旅立ったこと。
商会の書記見習いとなったこと。
看護人の訓練所へ移ったことが残っていた。
誰も死んでいない。
壁の中へ消えたのでもない。
追う者の記録から名を隠され。
自分で生きる場所を得たあと。
学園を出ていった。
「怪談の十三人目は、死者ではなかった」
ミラベルが言った。
「ええ」
エレノアは創設者の日誌を見つめた。
「名を伏せて守られた、生きた少女だった」
白鐘女学園が名を記さなかったのは。
少女の存在を奪うためではない。
家族。
婚約者。
雇い主。
少女を所有物のように扱う者から、逃がすためだった。
「今は逆ね」
エレノアが言う。
「ルチアの名は、守るためではなく、消すために扱われている」
「まだ、旧東棟にいるとは決められません」
ミラベルが答える。
「分かっている。でも、十三番と名乗った意味は見えた」
「ルチアは、この記録を読んでいた」
イザベルが刺繍布を見る。
「それで、自分を《第十三在籍者》と?」
「可能性は高いわ」
「東棟にいると、直接言わなかったのは?」
「聞いている者の中に、敵がいると思ったのかもしれない」
十三番なら。
事情を知らない生徒には怪談に聞こえる。
創設者の記録を知る者には。
旧東棟へ置かれた、名を明かせない少女を意味する。
「保護生と同じ番号を使っているのに」
イザベルの声に苦い響きが混じる。
「今のルチアは、守られていない」
「本人の意思に反して閉じ込めることは、保護ではないわ」
エレノアは答えた。
「昔の少女は、追う者から隠された。ルチアは、探す者から隠されている」
同じ部屋。
同じ仮番号。
同じように、本当の名を名簿の外へ置かれた少女。
だが。
守るために隠すことと。
支配するために隠すことは違う。
違いを決めるのは。
隠した者の善意ではない。
隠される本人が、それを望んでいるかどうかだった。
*
「まだ模様が残っています」
ミラベルが布の端を指した。
本を示す二組とは別に。
三つの短い図柄が縫われている。
一つ目。
すべての花弁が、東を向いた百合。
二つ目。
黒と赤茶の糸で作られた、小さな炉の形。
三つ目。
三重の輪に囲まれた白い鐘。
「これは分類番号ではない」
エレノアが言った。
「図柄そのものね」
東向きの百合。
炉。
白鐘祭の飾りと同じ三重の鐘。
ミラベルが手帳へ書く。
東棟。
炉。
白鐘祭。
「文章にはなっていません」
「つながりも、まだ分からない」
イザベルの顔が強張る。
「東棟の炉を、白鐘祭に使う?」
「旧東棟の炉は止められているはずよ」
「祭の日には、古い在籍記録を整理する予定があります」
エレノアが案内冊子を開いた。
「整理と焼却は同じではありません」
ミラベルが言う。
「でも、ルチアは炉を残した」
「何かが燃やされると考えていた可能性はあります。ただ、何を、誰が、なぜ燃やすのかは不明です」
「ルチアが東棟にいるなら」
イザベルが立ち上がりかける。
「決めつけないで」
エレノアが止めた。
それは、レオンから何度も向けられた言葉だった。
「声は旧東棟側から聞こえた。灰衣は壁の前で消えた。刺繍も東棟を示している。いる可能性は高い。でも、まだ本人を見ていない」
「なら、確かめるんですね」
ミラベルが訊く。
「ええ」
「レオンさんには?」
「報告する」
エレノアは、ほんの少し間を置いた。
「入る前に」
ミラベルが目を瞬く。
「成長しましたね」
「兄さまに怒鳴り込まれると、邪魔になるだけよ」
「理由はともかく、よい判断です」
「でも」
エレノアは図書館の窓から、旧東棟を見た。
雨雲の下。
使われていない煙突が、黒い屋根から細く伸びている。
「白鐘祭まで、待つつもりはないわ」
*
三人は日誌を棚へ戻し、刺繍布を折り畳んだ。
イザベルが布を差し出す。
だが。
エレノアは受け取らなかった。
「あなたが持っていて」
「なぜ?」
「ルチアが預けたのは、あなたよ」
「でも、意味を読んだのはあなたでしょう?」
「書き取った。布そのものは、あなたが守って」
イザベルは、灰色の布を両手で受け取った。
「私を、まだ疑っているでしょう?」
「ええ」
エレノアは隠さなかった。
「灰衣の一人ではない証明はない。洗濯室へ行った理由も、あなたの証言だけ。代理筆記についても、記録とは照合していない」
「それでも、預けるの?」
「疑うことと、信じることは両立するわ」
「矛盾しています」
「人間は、記録簿ではないもの」
イザベルは布を見つめ。
やがて、小さく頷いた。
「今夜、私も行きます」
「駄目」
エレノアが即答する。
「なぜ?」
「寮長までいなくなったら、誰が点呼をごまかすの?」
「ごまかす前提ですか?」
ミラベルが訊く。
「調査が長引いた場合の備えよ」
「レオンさんへ報告するのでしょう?」
「報告と許可は違うわ」
「成長したと思った私が間違っていました」
三人は図書館を出た。
廊下には、白鐘祭の飾りが増えている。
白い布。
銀糸の百合。
その下を、灰色の制服を着た少女たちが歩いていく。
名を与えられ。
成績を記され。
将来を決められていく少女たち。
九十年前。
同じ校舎には。
本名を隠すことで、自分の人生を選び直した少女たちがいた。
彼女たちは死ななかった。
壁の中へ消えたのでもない。
名を伏せて学び。
自分の足で、新しい場所へ歩いていった。
怪談は。
十三人目が死んだ話ではなかった。
生き延びた少女の、その後だけが忘れられた話だった。
そして今。
旧東棟には、再び一人の少女の名が隠されているかもしれない。
ただし今度は。
彼女を守るためではない。
エレノアは手帳へ記した三つの言葉を見る。
東棟。
炉。
白鐘祭。
祭まで、あと一日。
古い白鐘が、夕刻を告げた。
その音の下。
使われていないはずの旧東棟の煙突から。
煤のように黒い鳥が一羽、飛び立った。




