第6節 ― 在学している不在者
翌朝。
白鐘女学園では、白い鐘が鳴るより先に人々が動き始めていた。
白鐘祭を二日後に控え、正面玄関には白布を巻いた柱飾りが運び込まれ、中庭では生徒たちが長机を並べている。
開け放たれた講堂から、合唱の音階練習が途切れ途切れに聞こえていた。
曇った空の下で。
祭に使われる白い花だけが、妙に明るく見える。
レオン=クラウスは黒い外套を翻し、正門をくぐった。
右手には細長い革鞄。
左手には、二つの行政印で封じられた書類箱を抱えている。
応接室へ入ると、ミラベルが窓際の机で取材原稿を整理していた。
エレノアは向かいの椅子へ横向きに座り、白鐘祭の案内冊子を読んでいる。
正確には。
冊子の間へ、別の紙を挟んでいた。
「何を隠した」
レオンが言った。
「おはよう、お兄さま」
「挨拶で質問を無効にするな」
「妹と一晩ぶりに会って、最初の言葉がそれ?」
「一晩で変わったのは、規則違反の数くらいだ」
「兄をしている時間と、兄らしいことをした時間は違うでしょう?」
レオンは答えず、書類箱を机へ置いた。
重い音がする。
エレノアの視線が、すぐにそちらへ移った。
「学外の調査?」
「ああ」
「オーレリア=ベルモントさんについてですか?」
ミラベルが訊いた。
「なぜそう思う」
「実際には点呼の列にいないのに、名簿にはいる方です。ルチアさんの言葉は、いる人といない人が逆に書かれている、でしたから」
「筋は通っている」
「今日は訂正しないんですね」
「これからする。今の段階では推測だ」
ミラベルは慣れた様子で頷いた。
「だから、確かめてきたんですね」
レオンは椅子を引く。
「座れ」
「命令?」
エレノアが訊く。
「立ったまま覗くと、書類へ髪が触れる」
「私の髪は証拠を壊さないわ」
「君が壊す」
「ひどい偏見ね」
「経験則だ」
エレノアは不満そうに座り直した。
ミラベルも隣へ腰掛ける。
レオンは封印を切り、記録の束を机へ並べた。
「まず、学園の記録からだ」
*
一番上は、白鐘女学園から市政教育記録局へ提出された、オーレリア=ベルモントの在籍記録だった。
氏名。
十八歳。
上級課程。
居住地、灰百合寮。
「月次の出席確認」
レオンが表を示す。
春。
夏。
秋。
冬。
すべての月へ、学籍担当者の確認印が押されている。
「長期療養中ではないの?」
エレノアが訊いた。
「寮の点呼では、イザベルさんがそう答えていました」
ミラベルも表へ目を落とす。
「それは現在の寮内点呼だ。こちらでは、過去一年を通じて、学習へ参加した生徒として処理されている」
「登校していたという意味?」
「少なくとも、全期間を欠席した生徒の記録ではない」
次の頁。
文学。
歴史。
算術。
契約法。
語学。
課題はすべて提出済み。
遅延はない。
返却確認も記されている。
「病気でも、課題は郵送できますよね」
ミラベルが言う。
「遠隔修学なら可能だ」
「なら、課題を出したことだけでは、学園にいた証拠にはならない」
「そのとおり」
レオンが次の紙を置く。
成績査定。
文学、優。
契約法、優。
歴史、優。
語学、良。
算術、良。
総合評価は、上級課程でも上位だった。
「この名前、授業で聞いたことがある」
エレノアの声が低くなる。
「作文の模範例として。文章構成がよく、史料の引用も正確だと」
「本人の作品を見たのか」
「教師が読み上げただけ。療養先から提出されたと言っていたわ」
「ルチアさんも、文学と歴史が得意でしたね」
ミラベルが言う。
「ええ」
エレノアは成績表から目を離さなかった。
「同じ教科が得意というだけでは、同じ成果だとは言えない」
レオンが釘を刺す。
「まだ何も言っていないわ」
「顔が言っている」
「靴だけでなく、顔も見るようになったのね」
「君の顔は、靴より嘘が下手だ」
学園側にはほかにも、灰百合寮の居住費や教材費を、オーレリアの在寮を前提に計上した記録が残っていた。
学園の帳面だけを見れば。
オーレリア=ベルモントは灰百合寮で暮らし。
授業を受け。
課題を提出し。
優秀な成績を積み重ねている。
だが、エレノアは彼女を一度も見たことがない。
「学園に入って三年。灰百合寮へ入って二年」
レオンが確認する。
「その間、一度も?」
「一度も。病気で戻れない上級生がいるとは聞いたけれど、本人を見た生徒も知らない」
「ほかの生徒への聞き取りは必要だ」
「今から?」
「勝手に全寮生を尋問するな」
「話を聞くだけよ」
「君の場合、相手が答えるまで帰さないことを聞き取りと呼ぶ」
エレノアは否定しなかった。
*
「次は、鉄道記録だ」
レオンが別の束を開く。
ヴェルム=クロウから、西岸の港湾都市ドック=セリムへ向かう旅客照合記録。
ベルモント家の母娘が、療養のために西方本線を利用した記録が残っている。
出発は、一年以上前。
病弱な娘のため個室車を使用し、医療器具と付き添い人の輸送申請も提出されていた。
「戻った記録は?」
エレノアが訊く。
「鉄道では確認できない」
「なら、一年以上ドック=セリムにいる」
「鉄道記録だけなら、そう断定はできない。馬車や私設車両で戻った可能性はある」
「病気の令嬢が、何度も半日以上の道を往復して、誰にも見られず寮へ戻る?」
「可能性は低い」
レオンは、それ以上の逃げ道を並べなかった。
「だが、鉄道記録だけでは足りない。だから医療記録も照合した」
*
最後の封印を開く。
中にあるのは診療内容そのものではない。
本人の受診日と、療養地だけを示す照合書だった。
オーレリア=ベルモント。
ドック=セリム海浜療養院。
過去一年間、月に二度の定期診察。
数日間の入院が三度。
医師の署名。
本人確認印。
母親の付き添い確認。
ミラベルが一つの日付を指した。
「この日は、春学期の文学試験と同じです」
白鐘女学園の記録では。
オーレリアは午後の文学試験を受け、優の評価を得ている。
同日の午前。
本人はドック=セリムの療養院で、診察を受けていた。
「急行でも間に合わないわ」
エレノアが言う。
「療養院から駅までの時間を含めなくても、半日以上かかる」
「別の日もある」
レオンが頁をめくった。
歴史の口頭試問。
学園では受験済み。
評価、優。
同日、オーレリアは療養院へ入院中。
どちらか一方が、現実と一致していない。
「本人確認は確実ですか?」
ミラベルが訊く。
「医師と母親が確認している。完全な確定には本人への面会が必要だが、鉄道と医療という独立した記録が、一年以上、同じ場所を示している」
レオンは机を二つに分けた。
右側に。
白鐘女学園の出席、課題、成績記録。
左側に。
鉄道の出発記録と、ドック=セリムの医療記録。
「学園では、オーレリアはヴェルム=クロウにいる」
右手を置く。
「学園の外では、一年以上ドック=セリムにいる」
左手。
「どちらも正式な記録だ」
「同じ人間が、二つの都市で同じ日に試験と診察を受けることはできません」
ミラベルが言う。
「それは確定してよい」
「なら、学園の方が嘘なのね」
エレノアが言う。
「学園側の記録が現実と一致していない可能性が極めて高い」
「極めて?」
「外部記録をすべて偽造した大規模な共謀を考えない限りな」
「十分でしょう」
「今回はな」
「オーレリアさん自身が、学園の記録を作らせた可能性は?」
ミラベルが訊いた。
「今のところ、本人が内容を知っていた証拠はない」
レオンは明確に答えた。
「彼女は課題を郵送し、遠隔修学していると思っているかもしれない。父親や学園から、何を説明されているかも分からない」
「つまり」
ミラベルはオーレリアの名を見た。
「彼女も、自分の名前を使われている側かもしれない」
「ああ。少なくとも、今は容疑者ではない」
*
「遠隔修学だと思っていたなら」
エレノアが学園の記録を引き寄せる。
「通信履修の印があるはずでは?」
レオンは一枚の書式見本を取り出した。
「そこが問題だ」
病気や長期旅行で登校できない生徒には。
通常の出席印ではなく。
《通信履修》を示す印が使われる。
オーレリアの記録には。
その印が一度もなかった。
「課題を郵送した生徒ではなく」
ミラベルが言う。
「普通に教室へ通い、試験を受けた生徒として処理されている」
「そうだ」
「でも、本人はいない」
エレノアが答える。
「なら、誰かが課題を書いた」
「課題が実在するなら」
「誰かが試験を受けた」
「試験記録そのものが捏造されていなければ」
「本当に、簡単には認めないのね」
「簡単に認めれば、簡単に間違える」
ミラベルはオーレリアの成績表を見た。
「実際には受けていない試験で、優秀な成績が付いているなら」
視線が。
机の端へ置かれた、ルチアの手紙へ移る。
「誰かの学んだ結果が、オーレリアさんの記録へ入っている可能性があります」
「ある」
「ルチアの?」
エレノアが訊く。
「まだ証拠はない」
「ルチアは文学と歴史が得意。オーレリアも同じ科目で優秀。ルチアは、いる人といない人が逆だと言った」
「状況は合う」
「なら――」
「課題の原本と筆跡を照合するまでは決められない」
レオンは、短く区切った。
「ほかの奨学生かもしれない。教師が成績だけを作った可能性もある。今、言えるのは、オーレリア本人の実績とは考えにくい成績が記録されていることだ」
「原本は学園の中ですね」
ミラベルが言う。
「おそらく学籍室か、担当教師の保管棚」
エレノアの瞳が光る。
「学籍室へ入れとは言っていない」
「まだ何もしていないわ」
「鍵の位置を考える顔をやめろ」
「どんな顔よ」
「昨日、事務所へ侵入していた顔だ」
ミラベルが小さく笑う。
「本当に分かるんですね」
「分かるから困っている」
*
レオンは革鞄から、最後の一枚を取り出した。
市政教育記録局が発行した学籍異動予定通知。
上部には。
ルチア=フェインの名。
エレノアの表情から、笑みが消える。
「退学書類?」
「学園から、事前申請が出されている」
「まだ成立していないと言っていたわ」
「発効前だ」
異動種別。
自主退学。
理由。
家庭上の事情。
発効予定日。
白鐘祭当日。
「二日後」
ミラベルが顔を上げる。
「なぜ、祭の日に?」
「理由は記されていない」
「式典の日に、生徒を退学させる必要なんてないわ」
「行事や学期の区切りへ、学籍異動日を合わせる場合はある」
「お兄さまは、それで納得する?」
「しない」
レオンは予定通知の端を押さえた。
「重要なのは、期限が分かったことだ」
「白鐘祭が終われば、ルチアは正式に生徒ではなくなる」
ミラベルが言う。
「学園の記録上はな」
「戻ってきても?」
「無断で校内へ入った退学者として扱われる可能性がある。寮の寝台も、奨学金も、授業を受ける権利も失う」
「家族には?」
「本人が自主退学したと通知できる」
「毎週、本人の文字で手紙が届いていた」
ミラベルの声が沈む。
「ご家族は、信じてしまうかもしれない」
「正式記録へ異議を申し立てるまでには、時間がかかる」
エレノアは、白い紙を見つめた。
まだ発効していない予定記録。
だが、二日後には。
その一枚が、ルチアを白鐘女学園の外へ押し出す。
「声を追った生徒は、翌朝、名簿から名前が消える」
エレノアが呟く。
「怪談との関係は、まだ分からない」
「分かっている。でも」
エレノアは、机の左右へ置かれた二人の名を見る。
「オーレリアは、実際にはいないのに在学している」
「ああ」
「ルチアは、実際には学園にいるかもしれないのに、退学することになっている」
レオンは否定しなかった。
ミラベルが手帳を開く。
別々の頁へ、二つの名を書く。
オーレリア=ベルモント。
一年間、出席。
ルチア=フェイン。
二日後、退学。
「一人を在学させるために」
ミラベルが言う。
「もう一人の成果と名前を、消そうとしているのでしょうか」
「順序は、まだ分からない」
レオンが答えた。
「オーレリアの在籍を成立させるため、誰かの成果が必要になったのか。ルチアが不正へ気づいたから、退学させる必要が生じたのか」
「結果は同じでしょう?」
「動機を見極めるには違う」
ルチアを消すことが目的なのか。
オーレリアを在学させることが目的なのか。
あるいは。
二人の記録が、別の何かを守るために利用されているのか。
現時点では、まだ決められない。
ただ。
時間だけは決まっていた。
「白鐘祭まで、あと二日」
ミラベルが言った。
「それまでに、ルチアさんを見つけなければ」
「見つけるだけでは足りない」
レオンは記録をまとめ始めた。
「本人を見つけても、学園が自主退学の書類を示せば、家庭の事情として処理される」
「署名と本文の時間は違った」
「不自然だが、それだけでは偽造の証明にならない」
「必要なのは?」
エレノアが訊く。
「オーレリアの学籍が、誰の成果によって成立しているのか。そして、ルチアの退学とどうつながっているのかを示す記録だ」
「学園の中にある」
「可能性が高い」
「なら、私たちの仕事ね」
「鍵の掛かった部屋へ入る仕事ではない」
「私はこの学園の生徒よ。校内を歩くのは普通でしょう?」
「壁の中まで校内に含めるな」
「条件が多いわ」
「君には足りないくらいだ」
ミラベルは、オーレリアの成績表を見た。
「イザベルさんが持っていた刺繍布は」
エレノアが顔を上げる。
「ルチアさんが、誰かに書き換えられない方法で残した記録かもしれません」
「手紙は、家族への合図を消されていた」
エレノアが続ける。
「正式な学籍も、本人の意思とは違う形にされている。刺繍なら、文章として検査されない」
「ただの課題作品として見過ごされる」
「まず」
レオンが二人の言葉を止めた。
「暗号だと決める前に、普通の刺繍と何が違うかを確かめろ」
「はい」
ミラベルが答える。
エレノアも、少し遅れて頷いた。
「参考にするわ」
「命令だ」
「学外調査員に、学園内での指揮権はないでしょう?」
「兄としてある」
「その権限は、どの記録に書いてあるの?」
「今から作る」
「偽造ね」
白い鐘が鳴った。
授業の鐘ではない。
白鐘祭の記念打鐘を確かめる、試し打ちだった。
一度だけ。
大きく。
石壁が震え。
机の上の紙が、かすかに揺れた。
学園の記録では。
オーレリア=ベルモントは、今日もここにいる。
授業を受け。
課題を書き。
優秀な成績を積み重ねている。
だが現実の彼女は。
一年以上、西岸の港町にいた。
一方。
ルチア=フェインは、まだ白鐘女学園の生徒だった。
少なくとも。
あと二日間は。
いるはずのない少女が、正しく在学し。
いるはずの少女が、正しく消える。
その入れ替わりを完成させる鐘が。
二日後に、鳴ろうとしていた。




