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第5節 ― 届き続ける手紙

 ルチア=フェインの家では、娘は失踪していなかった。


 少なくとも。


 食卓の端へ積まれた手紙だけを信じるならば。


 フェイン家は、ヴェルム=クロウの煤煙が薄くなる外縁部にあった。


 石造りの集合住宅の二階。


 狭い階段。


 何度も塗り直された手摺。


 室内には豪華な調度品こそなかったが、繕われたカーテンも、磨かれた食器も、丁寧に使われている。


 机には帳簿と、削って短くなった筆記具。


 書記の家だった。


 文字を書くことで暮らしを立て、その娘を名門女学園へ通わせている家。


「エレノアさんが、そんなことを?」


 ルチアの父は眼鏡を直しながら、食卓の向かいに座るレオンを見た。


「四日前から、学園でルチア嬢の姿を見ていないそうです」


「学園で?」


「学園側は、ご家族の都合で帰郷したと説明しています」


「帰郷……?」


 父親の声が止まる。


 暖炉のそばにいた母親も、手にしていた布を膝へ落とした。


「こちらへは戻っていないのですね」


「戻っておりません」


 父親が答えた。


「体を悪くして、学園で静養していると聞いています」


「誰から?」


「ルチア本人です」


 父親は食卓の端へ置かれた小箱を引き寄せた。


 中には、折り畳まれた手紙が何通も収められている。


「毎週届いております」


「四日前よりあとにも?」


「昨日、届きました」


 母親の声には、まだ安堵が残っていた。


 娘の手紙が届いている。


 ならば、少なくとも手紙を書いた時点では無事だった。


 家族がそう考えるのは自然だった。


「拝見しても?」


「どうぞ」


 レオンは手袋を外し、一番新しい封筒を光へ傾けた。


 不自然に開封された跡はない。


 宛名は流れるような筆記体。


 姓の末尾をわずかに上へ跳ねる癖も、入学時の署名と一致している。


 便箋を開く。


 両親の健康を気遣う書き出し。


 学園生活は順調。


 少し体調を崩したため、しばらく面会はできない。


 学園の医務担当者が診ているので、心配はいらない。


 白鐘祭が近く、周囲は忙しくなっている。


 礼儀正しく。


 簡潔で。


 家族を安心させるための手紙として、よく整っていた。


 整いすぎているほどに。


「その前の便りも見せてください」


 父親が二通を追加する。


 レオンは三通を日付順に並べた。


 書き出しは少しずつ違う。


 だが、書かれていることはほとんど同じだった。


 学園生活は順調。


 体調は快方へ向かっている。


 面会は、もう少し待ってほしい。


 心配はいらない。


「ご両親からも、返事を送っていますね」


「もちろんです」


 母親が答えた。


「最近、家から伝えたことへ答えている箇所はありますか」


「伝えたこと?」


「家で起きた出来事や、今後の予定です。ルチア嬢だけが意味を分かる話でも構いません」


 父親が便箋へ目を走らせる。


 一通。


 次の一通。


 その表情から、少しずつ確信が失われていった。


「そう言われると……」


 母親が棚から別の箱を持ってきた。


「以前は、もっといろいろ書いてありました」


 古い手紙には、学園指定の便箋だけでなく、薄い色の私用紙も混ざっていた。


 その一通を開く。


 家から届いた便りへの返事。


 送られた品物への礼。


 友人との小さな出来事。


 授業への不満。


 刺繍がうまくいかないという愚痴。


 話題は途中で逸れ。


 一つの話を書き終える前に、別のことを思い出している。


 文章としては、新しい手紙の方が整っていた。


 だが。


 古い手紙の方には、書いた少女の姿があった。


「筆跡は、同じに見えます」


 父親が言った。


「同じ書き手の文字と考えてよいでしょう」


 文字の傾き。


 筆圧。


 線を折り返す癖。


 句読点を置く位置。


 別人が似せて書いた粗雑な偽筆ではない。


 ルチア本人が書いた文字。


 あるいは。


 本人が過去に書いた文字や文章を利用したもの。


 現時点で言えるのは、そこまでだった。


「では、ルチアは無事なのですね」


 母親が身を乗り出す。


 レオンは、すぐには答えなかった。


「文字が本人のものであることと、昨日、本人が自由な状態でこの手紙を書いたことは同じではありません」


 母親の顔から血の気が引く。


「どういうことです?」


「以前に書かれた文章が、あとから送られた可能性があります。文面を指定されて書いた可能性もある。まだ、どちらとも決められません」


「学園が、そんなことをする理由が――」


「理由があるとは言っていません」


 レオンは手紙を元の順序へ戻した。


「可能性を分けています」


 昨日まで。


 届き続ける手紙は、安心の根拠だった。


 今は。


 誰が。


 いつ。


 何のために送ったものなのかを確かめなければならない記録へ変わっている。


「封筒をお借りできますか」


「どこを調べるのです?」


「郵便へ入れられた場所です」


 父親が封筒の裏を示した。


 差出住所には、白鐘女学園、灰百合寮と記されている。


「娘は学園で静養していると書いておりますから」


「学園は、生徒たちへ家族のもとへ帰ったと説明しています」


 両親は黙った。


 家族には。


 学園で静養している。


 生徒には。


 家庭の都合で帰郷した。


 二つの説明は、同時には成立しない。


     *


 フェイン家の署名を得た照会書を持ち、レオンは最寄りの郵便取扱所へ向かった。


 午前の集配を終えた室内には、濡れた革袋と紙の匂いが籠もっている。


 壁には、市内と近郊を結ぶ郵便路線図。


 奥では職員たちが、封書を地区ごとの棚へ仕分けていた。


 レオンは借りた封筒を窓口へ並べる。


「この手紙が入っていた郵便袋を確認したい」


 職員は照会書を読み、封筒の隅へ押された小さな集配印を確かめた。


 郵便は内容までは記録しない。


 だが。


 どの郵便袋へ入り。


 どの取扱所を通り。


 どの便で運ばれたのかは記録される。


 官庁、商会、学校のように一括して郵便を出す施設には、専用の袋も用意されていた。


 職員が運送簿を持って戻る。


「一通目。鐘霧丘集配所、白鐘女学園定期袋」


 次の封筒。


「こちらも同じです」


 三通目。


「同じですね」


「別の地区から転送された記録は?」


「ありません。最初の受入れが、白鐘女学園の郵便袋です」


「差出日は」


 毎週、同じ曜日だった。


 学園の事務郵便が出される日。


「つまり、三通とも白鐘女学園から発送された」


「記録上は、そうなります」


 郵便記録は、手紙を書いた者を示さない。


 袋へ入れた者も示さない。


 ただ。


 手紙が学園の管理する郵便袋から出されたことだけは、記録として残っていた。


     *


 午後遅く。


 レオンが白鐘女学園の応接室へ戻ると、ほどなくエレノアとミラベルが入ってきた。


 エレノアは扉を閉めるより先に言った。


「イザベルは、まだ何も話さないわ」


「訊いていない」


「報告よ」


「なら、聞いたことと考えたことを分けろ」


「兄さまに言われなくても分けている」


「昨日から、ずっと同じことを言い合っています」


 ミラベルが二人の後ろから入り、扉を閉める。


「成長がないな」


「どちらが?」


「妹が」


「兄さまのことよ」


 レオンは封筒と便箋を机へ置いた。


 エレノアの目が変わる。


「ルチアの?」


「ああ。家族には、毎週手紙が届いていた」


「いつまで?」


「昨日まで」


 エレノアが手を伸ばす。


「手袋をしろ」


「家族の手紙よ」


「借り物だ」


「家族の手紙にも鑑定規則を使うの?」


「汚せば、調べられなくなる」


 エレノアは不満そうに薄手の手袋を着けた。


 ミラベルも隣へ座る。


「筆跡は?」


「本人の文字と考えてよい」


「では、ルチアさんが書いた?」


「そうとは限らない」


 レオンは最新の手紙を開いた。


「本人の文字であることと、本人が昨日、自分の意思で、この文面を書いたことには距離がある」


 ミラベルが便箋を読む。


「学園生活は順調。少し体調を崩した。面会はしばらく待ってほしい。心配はいらない」


 次の便箋へ移る。


「こちらも同じですね」


「家族だけが知る話題への返事がない」


「文章は整っています」


「整っていることと、自然なことは違う」


 エレノアは三通を読み進めていた。


 やがて本文ではなく、便箋の末尾だけを見る。


「古い手紙も借りてきた?」


「比較用に一通だけ」


 レオンが差し出す。


 エレノアはすぐ文末を開いた。


「やっぱり」


「何がですか?」


 ミラベルが覗き込む。


 ルチアの署名。


 その直前。


 文章の終わりに、小さな点が三つ並んでいた。


 横へ。


 同じ間隔で。


 注意しなければ、インクがわずかに滲んだようにも見える印だった。


「新しい手紙にはない」


 三通とも、一つの句点で終わっている。


「ただの書き方の癖では?」


「家族への手紙だけに入れる合図よ」


 エレノアが答えた。


「手紙の書式の授業で、ルチアが先生に注意されたことがあるの。公的な文章へ、勝手な点を並べてはいけないって」


「ルチアさんは何と?」


「公的な手紙には入れません、と。家族へ書く手紙だけの合図だからって」


「意味は?」


「詳しくは聞いていない。でも、自分が家族へ書くなら必ず置く。幼いころから決めているから、忘れないと言っていたわ」


 レオンは新旧の手紙を並べた。


 三つの点がある手紙。


 ない手紙。


「三点がないから、本人が書いていないと?」


「筆跡は本人なのでしょう?」


「ああ」


「なら、ルチアの文字を使っている。でも、家族へいつもどおり書いた手紙ではない」


「病気で忘れた可能性はある」


「三週続けて?」


「可能性は残る」


「誰かに文面を指定され、入れられなかった可能性もあります」


 ミラベルが言う。


「以前、別の目的で書いた文章が使われた可能性も」


 その言葉に。


 エレノアが顔を上げた。


「別の目的」


「白鐘女学園には、《手紙と公文書の書式》の授業があるでしょう?」


 ミラベルは取材中に受け取った教育課程表を鞄から出した。


 授業項目の一つへ指を置く。


 ――家族へ宛てた模範書簡の作成。


 ――提出文の学内保管。


「課題で書いた手紙を、学校が保管しているの?」


 レオンがエレノアへ訊く。


「ええ。教師が添削した文は、次の年度の見本や、書式評価の記録として学籍課へ保管される」


「ルチアさんの文章も?」


「提出しているはずよ。あの三つの点を入れずに」


 レオンは教育課程表を取った。


「つまり、学園には、ルチア本人が書いた家族宛ての文章が保存されている」


「使える文字と文面が、最初からあった」


 ミラベルが言う。


「材料があったことは確かだ」


 レオンは課程表を机へ戻した。


「だが、保管された文章が、この手紙へ使われたとはまだ証明していない」


「また、そこなのね」


「重要な区別だ」


「でも」


 エレノアは三つの点がない手紙を見た。


「ルチアが自由に書いた家族宛ての手紙ではない可能性は、さらに高くなった」


「そうだ」


 今度は、レオンも否定しなかった。


「郵便は?」


 ミラベルが訊く。


「三通とも、白鐘女学園の定期郵便袋から出されている」


 エレノアの顔から色が引く。


「故郷からではないのね」


「ああ」


「なら、ルチアは帰っていない」


「それはまだ断定できない。手紙を学園へ残し、定期的に送るよう頼んだ可能性はある」


「でも、ご家族には学園で静養していると書いてある」


 ミラベルが封筒と便箋を交互に見る。


「生徒には、家族のもとへ帰ったと説明している」


「二つは同時に成立しない」


「手紙は学園から出ている」


「それは確定している」


「文字は本人のもの」


「そう考えてよい」


「家族だけの話題への返事がなく、本人の合図もない」


「それも事実だ」


 ミラベルは、整った文章を見つめた。


「本人の文字なのに、本人の手紙ではない」


「正確には」


 レオンが言う。


「本人が、現在、自由な状態で家族へ書いた手紙とは認められない」


「同じことでは?」


「違う。本人へ書かせた可能性も、過去の文章を利用した可能性も残る」


「でも、少なくとも」


 エレノアは三通を重ねた。


「これは、ルチアが無事だという証明にはならない」


「ああ」


「むしろ」


 ミラベルが静かに続けた。


「手紙が届き続けることで、ご家族は学園へ確かめに来なかった」


 室内が沈黙した。


 心配はいらない。


 面会は待ってほしい。


 体調は回復している。


 その言葉が、娘本人の文字で毎週届けば。


 両親は待つ。


 学園へ押しかけない。


 警察へ相談しない。


 失踪を疑わない。


 家族が娘を信じる気持ちそのものが。


 娘を探させないために利用されている。


「手紙は、ルチアの居場所を伝えるためではない」


 レオンが言った。


「居場所を探させないために送られている可能性が高い」


 エレノアの指へ力が入る。


 便箋が小さく鳴った。


「力を抜け」


 レオンが手首を押さえる。


「証拠を皺にするな」


「友人の手紙よ」


「だからだ」


 エレノアは兄を睨んだ。


 だが、指の力を緩める。


 ミラベルが便箋の端を整えた。


「誰が送ったのでしょう」


「まだ分からない」


「ヘレナ先生は、学籍課と郵便を管理しています」


 エレノアが言う。


「権限があることと、実行した証明は別だ」


「イザベルは?」


「刺繍布を持っていたことは事実だ。手紙とのつながりはない」


「お兄さまは、何も決めないのね」


「決めるために調べている」


 レオンは手紙を一通ずつ封筒へ戻した。


 順序を崩さず。


「今、分かっていることは四つだ」


 エレノアとミラベルが彼を見る。


「学園は、生徒と家族へ異なる説明をしている」


 一通目。


「手紙は、すべて白鐘女学園から発送された」


 二通目。


「文字はルチア本人のものと考えられるが、家族へ自由に書いた証しである三つの点がない」


 三通目。


「そして学園は、ルチア本人が過去に書いた模範書簡を保管している」


 教育課程表へ手を置く。


「これらは、手紙の作り方や、送った人物を直接証明するものではない。だが、手紙がルチアの無事や帰郷を示すものではないことは分かる」


「不足しているものは?」


 ミラベルが訊いた。


「誰が文面を用意したか。いつ書かれたか。誰が郵便袋へ入れたか。そして」


 レオンは封筒の束を見る。


「なぜ、ルチアを探されたくないのか」


 応接室の外から、白鐘祭の合唱練習が聞こえてきた。


 少女たちの声が、閉じた扉の向こうで重なる。


 同じ旋律。


 同じ言葉。


 誰か一人の声が欠けても、外からは分からない。


 エレノアは、三つの点が消えた便箋を見つめた。


 文章は届いている。


 筆跡も残っている。


 家族は毎週、それを読んでいる。


 それなのに。


 そこには、ルチアがいなかった。

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