第4節 ― 二人の灰衣
翌朝の灰百合寮では、誰も幽霊の話をしていなかった。
正確には。
誰も、教師へ聞こえる声では話していなかった。
食堂には焼いた黒パンと乳粥の匂いが漂い、昨夜から続く雨が窓硝子を細く伝っている。
少女たちは、いつもどおり食器を動かしていた。
だが、暖房管が鳴るたびに何人かの肩が揺れた。
使用人が廊下を横切れば、視線が一斉に扉へ向かう。
誰も口にしないからといって。
誰も意識していないことにはならない。
「食事中の私語は慎むこと」
入口に立ったマグダ=クロフトが言った。
話していた者はいない。
それでも寮母は、少女たちの間を流れている言葉にならない会話へ釘を刺した。
「昨夜の件について、勝手な憶測を広めるな。暖房設備の不調は、営繕係へ報告した」
エレノアが匙を置く。
「暖房設備は、廊下を歩くんですか?」
マグダの太い眉が上がった。
「クラウス」
「人影まで配管の不調では説明できません」
「暗闇で見たものを、勝手に幽霊へするなと言っとる」
「私は幽霊だとは言っていません」
エレノアは平然と答えた。
「誰かが、幽霊のふりをしていた可能性もあります」
少女たちの食器が止まる。
「だから、憶測を広めるな」
「確かめれば、憶測ではなくなります」
「そのために夜の廊下を走り回ったのか?」
「立入禁止の扉には触れていません」
「そういう問題ではない!」
マグダの声で、卓上のカップが震えた。
彼女はしばらくエレノアを睨み。
やがて、深く息を吐いた。
「授業後はまっすぐ寮へ戻れ。旧東棟側へ近づくな。ワトリアさんもです」
「分かりました」
ミラベルが答えた。
「エレノアさんにも、私からよく言っておきます」
「頼みますよ。この子は、言葉で止めると、言葉の隙間を探し始める」
「よくご存じですね」
「昨日今日の話じゃない」
マグダは鍵束を鳴らし、食堂を出ていった。
扉が閉じる。
エレノアが乳粥へ匙を戻した。
「味方をするふりをして、ずいぶん悪く言いましたね」
「ふりではありません。私も同じ意見です」
「どの部分?」
「言葉の隙間を探すところです」
「規則には、守るものと、穴を探すものがあるわ」
「レオンさんも言いそうですね」
「兄さまと一緒にしないで」
返事が少しだけ早かった。
ミラベルは笑いを抑え、声を落とす。
「昨夜の足跡については、まだ誰にも?」
「話していないわ。相手を選んでいるの」
「では、人影を見た方から聞きましょう」
「取材として?」
「白鐘女学園の怪談を、生徒がどう受け止めているか」
「便利な肩書ね」
「嘘はついていません」
エレノアは食堂を見回した。
目撃者は、すでに二人まで絞っていた。
*
一人目の少女は、午前の授業前に図書室へ来た。
昨夜、点呼で最初に悲鳴を上げた生徒だった。
教科書を抱えたまま、廊下に教師がいないことを何度も確認する。
「声は聞きました」
少女は囁いた。
「『十三番。ここにおります』って」
「どこから聞こえたと思いますか?」
ミラベルが訊く。
「暖房管から。でも、管へ近づくと遠くなって……耳元で聞こえたみたいなのに、場所が分かりませんでした」
声の位置を特定できない感覚は、エレノアたちの観察と一致する。
ただし。
暖房管の内部で反響した可能性は残る。
声を聞いたことと。
発声場所への推測は、同じ事実ではない。
「灰色の人影も見たの?」
エレノアが訊く。
「昨夜ではなく、二日前に」
少女の指が教科書の角へ食い込んだ。
「消灯前、渡り廊下の方へ歩いていくところを見ました」
「背は?」
「エレノアさんより高かったと思います」
「歩き方は?」
「背筋を伸ばして、ゆっくり。逃げる感じではありませんでした」
「靴音は?」
「硬い靴です。かつ、かつ、って」
「足を引きずっていた?」
少女は首を振った。
「まっすぐ歩いていました」
「誰かに話した?」
「イザベル寮長に」
少女はさらに声を落とす。
「見間違いだから、誰にも言うなって。怪談を広めれば、寮全体が叱られるから」
授業開始の鐘が鳴る。
少女は椅子から立ち上がった。
「私が話したことは、寮長には――」
「名前は出しません」
ミラベルが答える。
少女は小さく礼をし、図書室を出ていった。
「背が高く、硬い踵を鳴らし、まっすぐ歩く灰衣」
エレノアが机を指先で叩く。
こつ。
こつ。
「壁の前に残っていた、大きな方の足跡と合う」
「近い、という段階です」
ミラベルが言った。
「靴音だけでは、靴底の形までは分かりません」
「ええ。でも、昨夜追った人影とは違う」
あの灰衣からは。
ほとんど足音がしなかった。
*
二人目の少女とは、昼休みの裁縫室で話した。
細身の少女は刺繍枠から目を上げず、針を動かしながら答えた。
「私は、背が高いとは思いませんでした」
「昨夜見たんですか?」
「点呼が始まる少し前です。洗面室から戻る途中、旧東棟側の壁の近くにいました」
「背丈は?」
エレノアが自分の頭の高さへ手を置く。
「私くらい?」
「同じくらいだと思います」
「歩き方は?」
少女の針が止まった。
「右へ傾いていました」
「右足を引いていた?」
「少し進んで、止まって。また進む感じです」
「靴音は?」
「聞こえませんでした」
「足元は見えた?」
「裾に隠れていました」
エレノアとミラベルは視線を交わした。
小柄。
右足を引く。
ほとんど音を立てない。
昨夜二人が追った灰衣と、平らな小さい足跡に近い。
「そのことを、誰かへ?」
「イザベル寮長に」
また同じ名だった。
「何と言われたの?」
「怪談を口にすると、本当に見えるようになるから、忘れなさいって」
「本当に見えるようになる?」
エレノアの声が硬くなる。
「昔から、そう言われているそうです」
廊下の向こうから教師の声が聞こえた。
少女は刺繍枠へ顔を伏せる。
ミラベルとエレノアは、それ以上質問しなかった。
*
午後。
二人は中庭へ面した回廊の柱陰で、証言を整理した。
雨は上がり、濡れた石床が灰色の空を鈍く映している。
「一人目」
ミラベルが手帳を読む。
「エレノアさんより背が高い。背筋を伸ばし、硬い革靴を鳴らして歩く」
「大きい足跡に近い」
「二人目」
「私くらいの背。右足を引く。音を立てない」
「昨夜追った人影と、小さい足跡に近い」
ミラベルは手帳を閉じなかった。
「一人が、靴と歩き方を変えている可能性は残ります」
「背丈も姿勢で変えて見せられる」
「それでも、二人だと?」
エレノアは旧東棟の黒い屋根を見た。
「同じ幽霊を演じるなら、姿は揃えた方がいいわ」
「同一の怪談だと思わせるために」
「ええ。でも、この二つは正反対よ」
エレノアは指を一本立てた。
「背が高く、革靴を鳴らし、まっすぐ歩く灰衣」
もう一本を立てる。
「小柄で、音を立てず、右足を引く灰衣」
「衣と、白い布だけが同じ」
「一人が別の日に靴を替えたとしても、背丈と歩き方まで変える理由がない」
「理由が分からないだけで、ないとは言えません」
「そうね」
エレノアは素直に認めた。
「だから断定ではない。でも、今いちばん単純なのは、同じ怪談を使っている人物が二人いるという仮説よ」
「目的も同じでしょうか」
「分からない」
返答は早かった。
「生徒を旧東棟へ近づけたくない者と、誰かをそこへ呼びたい者かもしれない」
「ルチアさんは、どちらだと思います?」
エレノアはすぐには答えなかった。
昨夜。
名を呼んだとき、白い布の顔が振り返った。
あの一瞬を思い出しているのだろう。
「ルチアだったと、思いたいだけかもしれない」
「思ったことは証拠ではない?」
「ええ」
「レオンさんの言い方ですね」
「違うわ」
「かなり似ています」
「その話は終わり」
エレノアは歩きだした。
「では、イザベルさんは?」
ミラベルの問いに、足が止まる。
「二人とも、灰衣を見たあと寮長へ相談した」
「イザベルは、どちらにも口止めした」
「寮長として騒ぎを抑えただけかもしれないわ」
「確かめますか?」
エレノアが振り返る。
「もちろん」
*
夕食後。
灰百合寮の談話室で白鐘祭の取材をしていたミラベルへ、一人の下級生が近づいた。
「昨日、寮長を見ました」
少女は刺繍糸を握ったまま、周囲を気にしていた。
「どこで?」
エレノアが先に訊く。
「洗濯室です。消灯後に」
談話室の空気が静まる。
「何をしていたの?」
「奥へ入っていきました。手に、布のような包みを持って」
「服は?」
「寝間着の上に、暗い色の上着を着ていました」
「出てくるところは?」
「見ていません。怖くなって戻りました」
分かるのは。
イザベルが消灯後、何かを持って洗濯室へ入ったこと。
それだけだった。
忘れ物かもしれない。
寮長としての確認かもしれない。
だが。
灰衣の目撃を伏せさせた人物が、夜の洗濯室へ布を運んでいる。
「直接訊きましょう」
エレノアが立ち上がった。
「証言者の名は出さないでください」
「分かっているわ」
「私も行きます」
「止めるため?」
「質問と追及が混ざらないようにするためです」
*
イザベルの部屋は、二階の階段に近い位置にあった。
扉を叩くと、少し遅れて返事がある。
「どうぞ」
室内は、寮長本人のように整っていた。
寝台。
勉強机。
衣装棚。
小さな書架。
窓辺には裁縫箱と、白鐘祭に使う白い布。
イザベルは机の前で、寮の当番表を確認していた。
「何か用?」
「昨夜、洗濯室へ行った?」
エレノアは挨拶を省いた。
イザベルの目が、一度だけ動く。
「誰から聞いたの?」
「行ったかどうかを訊いているの」
「消灯後の聞き込みは、寮則違反よ」
「今は消灯前だわ」
「そういう意味ではないでしょう」
「では、行ったのね?」
イザベルは当番表を閉じた。
「寮長には、寮内を確認する責任があります」
「布を持って?」
沈黙。
「ルチアと関係がある?」
「あなたに説明する義務はありません」
「二人の生徒が、灰衣を見たあと、あなたへ相談している」
エレノアは一歩近づいた。
「あなたは二人とも黙らせた」
「怪談で寮を混乱させないためです」
「二人が見た灰衣は別人かもしれない」
「幽霊を数える話なら、ほかでして」
「足跡も二種類あった」
イザベルの視線が。
ほんの一瞬、エレノアの足元へ落ちた。
すぐに戻る。
だが。
エレノアは見逃さなかった。
「知っていた?」
「何を」
「灰衣が二人いること」
イザベルが立ち上がる。
「出ていってください」
「ルチアが無事だと思う?」
ミラベルが静かに訊いた。
イザベルは答えなかった。
冷たく拒絶しているのではない。
言葉へすれば、何かが崩れることを恐れている。
そんな沈黙だった。
「ルチアから何か預かったの?」
エレノアが訊く。
「出ていって」
イザベルが扉を示した。
その袖が、窓辺の裁縫箱へ触れた。
蓋がずれる。
白い糸巻きが床へ落ち、エレノアの足元まで転がった。
拾おうと屈んだ彼女の動きが止まる。
半開きの箱。
重ねた糸の下に。
灰色の布が見えていた。
白と銀の糸。
小さな鐘。
それを囲む百合の花。
イザベルが蓋を閉じようとした。
エレノアの手が先に、箱の縁へ掛かる。
「それ」
声が低くなった。
「ルチアの刺繍よ」
ミラベルが箱へ近づく。
「分かるんですか?」
「百合の茎。ルチアは曲線の途中で、一針だけ外へ逃がす。鐘の右上も、いつも間隔が狭くなる」
布へは触れない。
縫い目だけを見ている。
「裁縫の課題で作っていたものよ。完成前に見せてもらった」
白鐘の輪郭は少し歪み。
百合の花弁は左右で揃っていない。
違う色の糸が混ざり。
結び目が表へ出ている場所もある。
刺繍を苦手とするルチアの作品なら。
ただの失敗作に見えただろう。
だが。
帰郷したとされる少女の布が。
夜の洗濯室へ出入りした寮長の部屋に隠されている。
「なぜ持っているの?」
イザベルは答えない。
「ルチアから預かった?」
沈黙。
「部屋から持ち出した?」
沈黙。
「ルチアがどこにいるか知っているの?」
イザベルの唇が動く。
声にはならなかった。
「答えて」
「エレノアさん」
ミラベルが、彼女の腕へそっと触れた。
「今、分かったのは、イザベルさんがこの布を持っていることだけです」
「十分に怪しいでしょう?」
「怪しいことと、理由が分かったことは違います」
イザベルが一瞬、ミラベルを見る。
「盗んだのか。預かったのか。隠したのか。守っているのか。まだ決められません」
「守っている?」
エレノアが繰り返した。
イザベルは箱と二人の間へ立っていた。
布を奪い返そうとはしない。
言い訳もしない。
ただ。
教師や寮母のもとへ、その箱が渡ることだけを恐れているように見えた。
「その布を預かるわ」
エレノアが言う。
「できない」
イザベルが初めて、はっきり答えた。
「なぜ?」
「答えません」
「なら、マグダ寮母へ見せる」
「やめて」
抑えられていた感情が、一瞬だけ声へ出た。
エレノアの目が細くなる。
「どうして?」
イザベルは口を閉じた。
もう何も語らないと決めた顔だった。
「行きましょう」
ミラベルが言う。
「でも」
「これ以上は、話を聞くのではなく、追い詰めることになります」
「何か知っているのよ」
「ええ」
ミラベルは否定しなかった。
「だから、次は知っていることを話せる理由が必要です」
エレノアはイザベルと刺繍布を見比べた。
やがて、箱から手を離す。
「分かったわ」
扉へ向かい。
出る直前に、振り返った。
「イザベル」
寮長は顔を上げない。
「私は、ルチアを探しているの」
返事はない。
「あなたを犯人にしたいわけではない」
それでも。
イザベルは何も語らなかった。
*
廊下へ出ると、消灯前の鐘が鳴り始めた。
エレノアは閉じた扉の前で腕を組む。
「怪しいわ」
「はい」
ミラベルも否定しなかった。
「夜の洗濯室。灰衣の口止め。ルチアの刺繍」
「灰衣の一人かもしれない」
「可能性はあります」
「ルチアの失踪へ関わっているかもしれない」
「それも否定できません」
「でも、あなたは犯人ではないと思っている」
ミラベルは扉を見る。
「自分を守る沈黙には、見えませんでした」
「証拠は?」
「ありません。印象です」
「なら、まだ容疑者よ」
「はい」
ミラベルは認めた。
背後で。
小さく、鍵の掛かる音がした。
イザベルは二人を閉め出したのか。
それとも。
扉の外にいる誰かから。
ルチアの残したものを守ろうとしたのか。
まだ、分からない。
ただ。
灰色の衣を使う者は、一人ではない可能性が高い。
そして、その怪談の周囲では。
すでに何人もの少女が、何かを守るために口を閉ざしていた。




