↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
73/228

第4節 ― 二人の灰衣

 翌朝の灰百合寮では、誰も幽霊の話をしていなかった。


 正確には。


 誰も、教師へ聞こえる声では話していなかった。


 食堂には焼いた黒パンと乳粥の匂いが漂い、昨夜から続く雨が窓硝子を細く伝っている。


 少女たちは、いつもどおり食器を動かしていた。


 だが、暖房管が鳴るたびに何人かの肩が揺れた。


 使用人が廊下を横切れば、視線が一斉に扉へ向かう。


 誰も口にしないからといって。


 誰も意識していないことにはならない。


「食事中の私語は慎むこと」


 入口に立ったマグダ=クロフトが言った。


 話していた者はいない。


 それでも寮母は、少女たちの間を流れている言葉にならない会話へ釘を刺した。


「昨夜の件について、勝手な憶測を広めるな。暖房設備の不調は、営繕係へ報告した」


 エレノアが匙を置く。


「暖房設備は、廊下を歩くんですか?」


 マグダの太い眉が上がった。


「クラウス」


「人影まで配管の不調では説明できません」


「暗闇で見たものを、勝手に幽霊へするなと言っとる」


「私は幽霊だとは言っていません」


 エレノアは平然と答えた。


「誰かが、幽霊のふりをしていた可能性もあります」


 少女たちの食器が止まる。


「だから、憶測を広めるな」


「確かめれば、憶測ではなくなります」


「そのために夜の廊下を走り回ったのか?」


「立入禁止の扉には触れていません」


「そういう問題ではない!」


 マグダの声で、卓上のカップが震えた。


 彼女はしばらくエレノアを睨み。


 やがて、深く息を吐いた。


「授業後はまっすぐ寮へ戻れ。旧東棟側へ近づくな。ワトリアさんもです」


「分かりました」


 ミラベルが答えた。


「エレノアさんにも、私からよく言っておきます」


「頼みますよ。この子は、言葉で止めると、言葉の隙間を探し始める」


「よくご存じですね」


「昨日今日の話じゃない」


 マグダは鍵束を鳴らし、食堂を出ていった。


 扉が閉じる。


 エレノアが乳粥へ匙を戻した。


「味方をするふりをして、ずいぶん悪く言いましたね」


「ふりではありません。私も同じ意見です」


「どの部分?」


「言葉の隙間を探すところです」


「規則には、守るものと、穴を探すものがあるわ」


「レオンさんも言いそうですね」


「兄さまと一緒にしないで」


 返事が少しだけ早かった。


 ミラベルは笑いを抑え、声を落とす。


「昨夜の足跡については、まだ誰にも?」


「話していないわ。相手を選んでいるの」


「では、人影を見た方から聞きましょう」


「取材として?」


「白鐘女学園の怪談を、生徒がどう受け止めているか」


「便利な肩書ね」


「嘘はついていません」


 エレノアは食堂を見回した。


 目撃者は、すでに二人まで絞っていた。


     *


 一人目の少女は、午前の授業前に図書室へ来た。


 昨夜、点呼で最初に悲鳴を上げた生徒だった。


 教科書を抱えたまま、廊下に教師がいないことを何度も確認する。


「声は聞きました」


 少女は囁いた。


「『十三番。ここにおります』って」


「どこから聞こえたと思いますか?」


 ミラベルが訊く。


「暖房管から。でも、管へ近づくと遠くなって……耳元で聞こえたみたいなのに、場所が分かりませんでした」


 声の位置を特定できない感覚は、エレノアたちの観察と一致する。


 ただし。


 暖房管の内部で反響した可能性は残る。


 声を聞いたことと。


 発声場所への推測は、同じ事実ではない。


「灰色の人影も見たの?」


 エレノアが訊く。


「昨夜ではなく、二日前に」


 少女の指が教科書の角へ食い込んだ。


「消灯前、渡り廊下の方へ歩いていくところを見ました」


「背は?」


「エレノアさんより高かったと思います」


「歩き方は?」


「背筋を伸ばして、ゆっくり。逃げる感じではありませんでした」


「靴音は?」


「硬い靴です。かつ、かつ、って」


「足を引きずっていた?」


 少女は首を振った。


「まっすぐ歩いていました」


「誰かに話した?」


「イザベル寮長に」


 少女はさらに声を落とす。


「見間違いだから、誰にも言うなって。怪談を広めれば、寮全体が叱られるから」


 授業開始の鐘が鳴る。


 少女は椅子から立ち上がった。


「私が話したことは、寮長には――」


「名前は出しません」


 ミラベルが答える。


 少女は小さく礼をし、図書室を出ていった。


「背が高く、硬い踵を鳴らし、まっすぐ歩く灰衣」


 エレノアが机を指先で叩く。


 こつ。


 こつ。


「壁の前に残っていた、大きな方の足跡と合う」


「近い、という段階です」


 ミラベルが言った。


「靴音だけでは、靴底の形までは分かりません」


「ええ。でも、昨夜追った人影とは違う」


 あの灰衣からは。


 ほとんど足音がしなかった。


     *


 二人目の少女とは、昼休みの裁縫室で話した。


 細身の少女は刺繍枠から目を上げず、針を動かしながら答えた。


「私は、背が高いとは思いませんでした」


「昨夜見たんですか?」


「点呼が始まる少し前です。洗面室から戻る途中、旧東棟側の壁の近くにいました」


「背丈は?」


 エレノアが自分の頭の高さへ手を置く。


「私くらい?」


「同じくらいだと思います」


「歩き方は?」


 少女の針が止まった。


「右へ傾いていました」


「右足を引いていた?」


「少し進んで、止まって。また進む感じです」


「靴音は?」


「聞こえませんでした」


「足元は見えた?」


「裾に隠れていました」


 エレノアとミラベルは視線を交わした。


 小柄。


 右足を引く。


 ほとんど音を立てない。


 昨夜二人が追った灰衣と、平らな小さい足跡に近い。


「そのことを、誰かへ?」


「イザベル寮長に」


 また同じ名だった。


「何と言われたの?」


「怪談を口にすると、本当に見えるようになるから、忘れなさいって」


「本当に見えるようになる?」


 エレノアの声が硬くなる。


「昔から、そう言われているそうです」


 廊下の向こうから教師の声が聞こえた。


 少女は刺繍枠へ顔を伏せる。


 ミラベルとエレノアは、それ以上質問しなかった。


     *


 午後。


 二人は中庭へ面した回廊の柱陰で、証言を整理した。


 雨は上がり、濡れた石床が灰色の空を鈍く映している。


「一人目」


 ミラベルが手帳を読む。


「エレノアさんより背が高い。背筋を伸ばし、硬い革靴を鳴らして歩く」


「大きい足跡に近い」


「二人目」


「私くらいの背。右足を引く。音を立てない」


「昨夜追った人影と、小さい足跡に近い」


 ミラベルは手帳を閉じなかった。


「一人が、靴と歩き方を変えている可能性は残ります」


「背丈も姿勢で変えて見せられる」


「それでも、二人だと?」


 エレノアは旧東棟の黒い屋根を見た。


「同じ幽霊を演じるなら、姿は揃えた方がいいわ」


「同一の怪談だと思わせるために」


「ええ。でも、この二つは正反対よ」


 エレノアは指を一本立てた。


「背が高く、革靴を鳴らし、まっすぐ歩く灰衣」


 もう一本を立てる。


「小柄で、音を立てず、右足を引く灰衣」


「衣と、白い布だけが同じ」


「一人が別の日に靴を替えたとしても、背丈と歩き方まで変える理由がない」


「理由が分からないだけで、ないとは言えません」


「そうね」


 エレノアは素直に認めた。


「だから断定ではない。でも、今いちばん単純なのは、同じ怪談を使っている人物が二人いるという仮説よ」


「目的も同じでしょうか」


「分からない」


 返答は早かった。


「生徒を旧東棟へ近づけたくない者と、誰かをそこへ呼びたい者かもしれない」


「ルチアさんは、どちらだと思います?」


 エレノアはすぐには答えなかった。


 昨夜。


 名を呼んだとき、白い布の顔が振り返った。


 あの一瞬を思い出しているのだろう。


「ルチアだったと、思いたいだけかもしれない」


「思ったことは証拠ではない?」


「ええ」


「レオンさんの言い方ですね」


「違うわ」


「かなり似ています」


「その話は終わり」


 エレノアは歩きだした。


「では、イザベルさんは?」


 ミラベルの問いに、足が止まる。


「二人とも、灰衣を見たあと寮長へ相談した」


「イザベルは、どちらにも口止めした」


「寮長として騒ぎを抑えただけかもしれないわ」


「確かめますか?」


 エレノアが振り返る。


「もちろん」


     *


 夕食後。


 灰百合寮の談話室で白鐘祭の取材をしていたミラベルへ、一人の下級生が近づいた。


「昨日、寮長を見ました」


 少女は刺繍糸を握ったまま、周囲を気にしていた。


「どこで?」


 エレノアが先に訊く。


「洗濯室です。消灯後に」


 談話室の空気が静まる。


「何をしていたの?」


「奥へ入っていきました。手に、布のような包みを持って」


「服は?」


「寝間着の上に、暗い色の上着を着ていました」


「出てくるところは?」


「見ていません。怖くなって戻りました」


 分かるのは。


 イザベルが消灯後、何かを持って洗濯室へ入ったこと。


 それだけだった。


 忘れ物かもしれない。


 寮長としての確認かもしれない。


 だが。


 灰衣の目撃を伏せさせた人物が、夜の洗濯室へ布を運んでいる。


「直接訊きましょう」


 エレノアが立ち上がった。


「証言者の名は出さないでください」


「分かっているわ」


「私も行きます」


「止めるため?」


「質問と追及が混ざらないようにするためです」


     *


 イザベルの部屋は、二階の階段に近い位置にあった。


 扉を叩くと、少し遅れて返事がある。


「どうぞ」


 室内は、寮長本人のように整っていた。


 寝台。


 勉強机。


 衣装棚。


 小さな書架。


 窓辺には裁縫箱と、白鐘祭に使う白い布。


 イザベルは机の前で、寮の当番表を確認していた。


「何か用?」


「昨夜、洗濯室へ行った?」


 エレノアは挨拶を省いた。


 イザベルの目が、一度だけ動く。


「誰から聞いたの?」


「行ったかどうかを訊いているの」


「消灯後の聞き込みは、寮則違反よ」


「今は消灯前だわ」


「そういう意味ではないでしょう」


「では、行ったのね?」


 イザベルは当番表を閉じた。


「寮長には、寮内を確認する責任があります」


「布を持って?」


 沈黙。


「ルチアと関係がある?」


「あなたに説明する義務はありません」


「二人の生徒が、灰衣を見たあと、あなたへ相談している」


 エレノアは一歩近づいた。


「あなたは二人とも黙らせた」


「怪談で寮を混乱させないためです」


「二人が見た灰衣は別人かもしれない」


「幽霊を数える話なら、ほかでして」


「足跡も二種類あった」


 イザベルの視線が。


 ほんの一瞬、エレノアの足元へ落ちた。


 すぐに戻る。


 だが。


 エレノアは見逃さなかった。


「知っていた?」


「何を」


「灰衣が二人いること」


 イザベルが立ち上がる。


「出ていってください」


「ルチアが無事だと思う?」


 ミラベルが静かに訊いた。


 イザベルは答えなかった。


 冷たく拒絶しているのではない。


 言葉へすれば、何かが崩れることを恐れている。


 そんな沈黙だった。


「ルチアから何か預かったの?」


 エレノアが訊く。


「出ていって」


 イザベルが扉を示した。


 その袖が、窓辺の裁縫箱へ触れた。


 蓋がずれる。


 白い糸巻きが床へ落ち、エレノアの足元まで転がった。


 拾おうと屈んだ彼女の動きが止まる。


 半開きの箱。


 重ねた糸の下に。


 灰色の布が見えていた。


 白と銀の糸。


 小さな鐘。


 それを囲む百合の花。


 イザベルが蓋を閉じようとした。


 エレノアの手が先に、箱の縁へ掛かる。


「それ」


 声が低くなった。


「ルチアの刺繍よ」


 ミラベルが箱へ近づく。


「分かるんですか?」


「百合の茎。ルチアは曲線の途中で、一針だけ外へ逃がす。鐘の右上も、いつも間隔が狭くなる」


 布へは触れない。


 縫い目だけを見ている。


「裁縫の課題で作っていたものよ。完成前に見せてもらった」


 白鐘の輪郭は少し歪み。


 百合の花弁は左右で揃っていない。


 違う色の糸が混ざり。


 結び目が表へ出ている場所もある。


 刺繍を苦手とするルチアの作品なら。


 ただの失敗作に見えただろう。


 だが。


 帰郷したとされる少女の布が。


 夜の洗濯室へ出入りした寮長の部屋に隠されている。


「なぜ持っているの?」


 イザベルは答えない。


「ルチアから預かった?」


 沈黙。


「部屋から持ち出した?」


 沈黙。


「ルチアがどこにいるか知っているの?」


 イザベルの唇が動く。


 声にはならなかった。


「答えて」


「エレノアさん」


 ミラベルが、彼女の腕へそっと触れた。


「今、分かったのは、イザベルさんがこの布を持っていることだけです」


「十分に怪しいでしょう?」


「怪しいことと、理由が分かったことは違います」


 イザベルが一瞬、ミラベルを見る。


「盗んだのか。預かったのか。隠したのか。守っているのか。まだ決められません」


「守っている?」


 エレノアが繰り返した。


 イザベルは箱と二人の間へ立っていた。


 布を奪い返そうとはしない。


 言い訳もしない。


 ただ。


 教師や寮母のもとへ、その箱が渡ることだけを恐れているように見えた。


「その布を預かるわ」


 エレノアが言う。


「できない」


 イザベルが初めて、はっきり答えた。


「なぜ?」


「答えません」


「なら、マグダ寮母へ見せる」


「やめて」


 抑えられていた感情が、一瞬だけ声へ出た。


 エレノアの目が細くなる。


「どうして?」


 イザベルは口を閉じた。


 もう何も語らないと決めた顔だった。


「行きましょう」


 ミラベルが言う。


「でも」


「これ以上は、話を聞くのではなく、追い詰めることになります」


「何か知っているのよ」


「ええ」


 ミラベルは否定しなかった。


「だから、次は知っていることを話せる理由が必要です」


 エレノアはイザベルと刺繍布を見比べた。


 やがて、箱から手を離す。


「分かったわ」


 扉へ向かい。


 出る直前に、振り返った。


「イザベル」


 寮長は顔を上げない。


「私は、ルチアを探しているの」


 返事はない。


「あなたを犯人にしたいわけではない」


 それでも。


 イザベルは何も語らなかった。


     *


 廊下へ出ると、消灯前の鐘が鳴り始めた。


 エレノアは閉じた扉の前で腕を組む。


「怪しいわ」


「はい」


 ミラベルも否定しなかった。


「夜の洗濯室。灰衣の口止め。ルチアの刺繍」


「灰衣の一人かもしれない」


「可能性はあります」


「ルチアの失踪へ関わっているかもしれない」


「それも否定できません」


「でも、あなたは犯人ではないと思っている」


 ミラベルは扉を見る。


「自分を守る沈黙には、見えませんでした」


「証拠は?」


「ありません。印象です」


「なら、まだ容疑者よ」


「はい」


 ミラベルは認めた。


 背後で。


 小さく、鍵の掛かる音がした。


 イザベルは二人を閉め出したのか。


 それとも。


 扉の外にいる誰かから。


 ルチアの残したものを守ろうとしたのか。


 まだ、分からない。


 ただ。


 灰色の衣を使う者は、一人ではない可能性が高い。


 そして、その怪談の周囲では。


 すでに何人もの少女が、何かを守るために口を閉ざしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。