第3節 ― 十三人目の点呼
白鐘女学園の夜は、丘の下の都市よりも静かだった。
ヴェルム=クロウでは夜半を過ぎても、工場の汽笛と高架鉄道の走行音が絶えない。だが、厚い石壁と黒い鉄柵に囲まれた学園まで届くころには、遠い雷鳴ほどに薄れていた。
灰百合寮の窓を、細かな雨が叩いている。
昼から漂っていた霧は夕刻に雨へ変わり、庭の植え込みも、旧東棟へ続く渡り廊下も、白い幕の向こうへ沈んでいた。
消灯十五分前。
寮生たちは二階の中央廊下へ並んでいた。
灰色の寝間着に薄い室内着を重ね、胸元の釦を留め、髪をまとめている。
列にいる少女は十一人。
だが、寮母の抱える点呼簿には、十二人の名が記されている。
廊下の壁には、太い真鍮の暖房管が延びていた。
蒸気が通るたび、金属が低く軋む。
ごう。
かん。
壁の向こうで、何かが身じろぎするような音だった。
ミラベルは列から少し離れた壁際に立っていた。
取材客である彼女は点呼の対象ではない。手帳も持たず、寮生活の見学という名目で、その場にいる少女たちの顔を見ていた。
書かれていると思えば、人は言葉を選ぶ。
何も持っていない相手には、表情の方が先に語ることがある。
エレノアは列の後ろから三番目にいた。
姿勢は崩していない。
だが、その目だけが動いていた。
窓。
階段。
暖房管。
旧東棟側の壁。
そして、同じ列に並ぶ少女たち。
ミラベルと目が合うと、ごく小さく顎を引いた。
見たこと。
聞いたこと。
自分で考えたこと。
それらを混ぜない。
兄の助言へ従っているつもりはなくとも、有効な方法なら使う。エレノアは、そういう少女だった。
「姿勢」
廊下の端から低い声が飛んだ。
少女たちの背筋が一斉に伸びる。
寮母マグダ=クロフトが、点呼簿を抱えて立っていた。
ドワーフ族らしい低い背丈と厚い肩。濃茶色の髪には銀が混じり、腰には鍵束、胸元には小さな時計を下げている。
「クラウス」
「はい」
「まだ呼んどらん」
「練習です」
「点呼に練習はいらん」
列の何人かが、小さく息を漏らした。
マグダが目を上げると、すぐに静まる。
「昨夜の騒ぎで、規則を規則とも思わん者がいると分かった」
視線がエレノアへ向く。
「今夜は、名前を呼ばれた者だけが答えろ。返事が終わっても動くな。消灯後に廊下へ出た者は、一週間、暖房室の磨き掃除だ」
「暖房室は危険区域では?」
「口を開くなと言ったそばから開くな」
「規則の適用範囲を確認しただけです」
「クラウス」
「はい」
「今ので点呼は終わりだ。もう黙っとれ」
少女たちの肩が、また小さく揺れた。
列の先頭に立つイザベル=ノインだけは笑わない。
灰百合寮の寮長。
両手を腹の前で重ね、背筋をまっすぐ伸ばしている。
昼間、エレノアとミラベルがルチアについて尋ねたときも、イザベルは同じ姿勢で答えた。
帰郷したと聞いている。
学園の説明を疑う理由はない。
怪談を広めるべきではない。
どれも誤りとは言い切れない。
だが、確かめた事実でもなかった。
マグダが壁時計を見る。
九時。
点呼簿が開かれた。
「始める」
最初の名が呼ばれる。
「イザベル=ノイン」
「はい。おります」
落ち着いた声が、石壁へ吸い込まれた。
次の少女。
その次。
一人ずつ名が呼ばれ、返事が続く。
「はい。おります」
「はい」
「おります」
ミラベルは、声とともに少女たちの顔を見た。
自分の名を待つ者。
呼ばれる前に唇を湿らせる者。
返事のあと、息を吐く者。
毎晩繰り返されているはずの点呼。
それでも今夜は、誰もが次の名を警戒していた。
怪談を恐れているのか。
エレノアが持ち帰った疑いが、寮内へ広がっているのか。
あるいは。
呼ばれない少女の名を、全員が意識しているのか。
「エレノア=クラウス」
「はい。ここにおります」
エレノアの返事は、ほかの少女より明瞭だった。
自分が記録の上だけでなく、現実にもここにいると確かめるような声だった。
マグダの筆先が止まる。
「今夜は、な」
「明朝もいる予定です」
「予定ではなく、いろ」
名前の脇に印が付けられる。
点呼は続いた。
十一人の少女。
十一の返事。
だが、点呼簿にはもう一つ、ここにいない者の名が残っている。
最後から二番目の名が呼ばれたあと。
マグダは一呼吸置いた。
「オーレリア=ベルモント」
誰も答えなかった。
列の中に、オーレリアはいない。
それでもマグダは、顔を上げずに待った。
一拍。
二拍。
イザベルが答える。
「療養中です」
本人の返事ではない。
寮長による代理の確認。
マグダは、オーレリアの名の脇へ斜線を引いた。
丸ではない。
不在を、別の者の言葉で埋める印だった。
「確認した」
最後の少女の名が呼ばれる。
返事が返る。
十二の名前。
十一人の生徒。
一人分の不在を、寮長の言葉が補う。
点呼簿の中では。
それで十二人全員の所在が確認されたことになる。
マグダが帳面を閉じた。
「点呼、終了」
その瞬間。
暖房管が低く鳴った。
ごう。
蒸気が、どこか遠くへ引いていく。
金属の奥で、何かが震えた。
かん。
かん。
少女たちが息を止める。
「また配管か」
マグダが吐き捨て、鍵束へ手を伸ばした。
その前に。
声がした。
「十三番」
少女の声だった。
高くはない。
幼くもない。
暖房管の奥。
壁の向こう。
あるいは床の下。
どこから響いているのか分からない。
細い声なのに。
廊下にいる全員へ、同じ近さで届いた。
「ここにおります」
誰も動かなかった。
十二の名前を読み終えたあと。
呼ばれていない者が。
自分の返事をした。
列の中央から、短い悲鳴が上がった。
少女たちが互いへ身を寄せる。
「静かにしろ!」
マグダの怒声と同時に。
廊下の灯りが消えた。
一つずつではない。
壁に並んだガス灯が、ほとんど同時に光を失った。
細い音だけが重なる。
しゅっ。
しゅっ。
廊下が闇へ沈む。
少女たちの息遣い。
衣擦れ。
誰かの名を呼ぶ声。
「動くな!」
マグダが叫ぶ。
「その場にしゃがめ! 押すな!」
ミラベルは壁へ手を付いた。
反対の手を、先ほどまでエレノアがいた方角へ伸ばす。
「エレノアさん」
返事がない。
「エレノアさん?」
「ここ」
すぐ近くから囁きが返る。
指先へ、エレノアの冷たい手が触れた。
「動かないでください」
「見えたの」
「何が?」
「廊下の奥」
窓の外の霧だけが、薄く明るい。
雲の向こうに月があるのだろう。
灰色の光が硝子を透かし、廊下の輪郭をかろうじて浮かべていた。
旧東棟へ続く側。
閉鎖渡り廊下の手前。
そこに。
一人の少女が立っていた。
灰色の衣。
白い布に覆われた顔。
両腕を下ろし、こちらを見ている。
風はない。
それでも衣の裾だけが、床の上で揺れていた。
背丈はエレノアと同じほどに見える。
だが、距離と闇のため、確かなことは言えない。
「誰だ!」
マグダの声が飛ぶ。
灰衣の少女が動いた。
音もなく身を翻し、廊下の奥へ滑る。
「待って」
エレノアが、ミラベルの手を離した。
「エレノアさん!」
灰色の寝間着が闇へ消える。
ミラベルも追った。
「クラウス! 戻れ!」
背後からマグダが叫ぶ。
「確認するだけです!」
「戻れと言っとる!」
エレノアの足音が廊下を打つ。
灰衣の少女からは、靴音がしなかった。
ミラベルは壁を片手で探りながら走る。
途中、落ちていた室内履きに足を取られかけた。
廊下の奥へ近づくほど、暖房管の音が大きくなる。
ごう。
かん。
湿った冷気が漂う。
旧東棟側の石壁は黒く湿り、天井近くの漆喰が剥がれていた。
灰衣の少女が角を曲がる。
エレノアも続く。
ミラベルが角へ着いたとき。
廊下の先に、一瞬だけ白い布が見えた。
「止まって!」
相手は止まらない。
灰衣は、閉鎖渡り廊下の手前へ向かった。
そこには、横木と鎖で封じられた大きな扉がある。
だが。
少女が向かったのは、扉ではなかった。
その脇の石壁。
何もない壁面へ、まっすぐ進んでいく。
エレノアが数歩後ろへ迫る。
「ルチア!」
初めて、名を呼んだ。
灰衣の少女が肩越しに振り返る。
白い布の奥に。
目が見えた気がした。
次の瞬間。
少女は壁の前で消えた。
影に紛れたのではない。
横の扉へ入ったのでもない。
角を曲がったわけでもない。
石壁の直前にいた灰色の姿が。
布を引き抜くように、視界から消えた。
エレノアが壁へ駆け寄り、両手を石へ付く。
「どこへ――」
ミラベルも追いついた。
冷たい石壁。
左右に扉はない。
古い木枠の収納棚らしいものが壁へ埋め込まれているが、固く閉ざされている。
足元には、細い水の跡。
そして。
濡れた足跡が残っていた。
廊下の奥から、壁へ向かって続いている。
エレノアが膝をつく。
「触らない方が」
「触らない」
顔を近づけるだけで、床へ手は付けない。
「壁まで続いている」
「戻った跡は?」
「ない。壁の直前で終わっている」
「では、本当に壁の中へ?」
「まだ分からない」
エレノアは、本人が嫌がるほど兄に似た言い方をした。
「隠し扉かもしれない。床が開くのかもしれない。暗闇で横へ動いたのを見落とした可能性もある」
「幽霊の可能性は?」
「否定できる証拠はないわ」
「意外ですね」
「最初から除外する方が、探偵らしくないでしょう?」
エレノアは足跡の一つを見つめた。
小さい。
踵の区別がほとんどなく、靴底全体が平らだった。室内履きか、薄い靴で歩いた跡に見える。
そのすぐ横へ。
別の足跡が重なっていた。
細い踵。
前方と後方がはっきり分かれた革靴。
先ほどのものより大きく、床へ沈んだ水も深い。
「ミラベルさん」
「はい」
「ここを見て」
エレノアは床へ触れず、二つの跡を示した。
「同じ人の足跡ではありませんね」
「ええ。片方には踵がある。もう片方には、ほとんどない」
「歩幅も違うわ。踵のある方が広い。平らな方は狭くて、右側だけ少し乱れている」
「二人が同じ場所を通った?」
「少なくとも、この床を歩いた履物は二種類」
エレノアは、言える範囲を慎重に区切った。
「同時だったかは分からない。どちらも今夜の跡かどうかも、まだ決められない。でも」
壁の前で消えた灰衣。
二種類の靴底。
二つの歩幅。
異なる水の深さ。
「私たちが追った人とは別に、誰かがここへ来ていた可能性がある」
「そう」
エレノアが立ち上がる。
その目にあるのは、怪談への恐怖ではなかった。
矛盾を見つけた者の光だった。
背後から、鍵束を鳴らす足音とマグダの怒声が近づいてくる。
「クラウス!」
エレノアは振り返らなかった。
壁の前で途切れた二つの足跡を見つめたまま、ミラベルへ言う。
「幽霊が一人だなんて、誰が決めたの?」




