第2節 ― 白鐘女学園
翌朝、鐘霧丘へ向かう馬車の中で、エレノアは三度、自分一人で戻れると主張した。
「正確には、戻るつもりだった、よ」
向かいに座るレオンは、窓の外を見たまま答えた。
「昨夜、その案は棄却された」
「誰に?」
「俺に」
「それは決定ではなく、お兄さまの意見でしょう?」
「保護者の判断だ」
「いつから私の保護者になったの?」
「兄さんがここにいないあいだ」
「エドガー兄さまが聞いたら、職権を巡って争いそうね」
「議論する役目は譲る」
レオンの隣で、ミラベルが取材鞄を抱え直した。
「エレノアさん。一人で帰ったら、無断外出をどう説明するつもりだったんですか?」
「学園は、生徒の自主性を重んじています」
「その言い方は、規則を破った人がよくします」
穏やかに指摘され、エレノアが目を細める。
「ワトリアさん。兄さまの影響を受け始めていない?」
「レオンさんなら、もっと感じの悪い言い方をします」
「否定できないわね」
「二人で意気投合するな」
車輪が石畳の継ぎ目を越え、馬車が揺れた。
窓の外では、ヴェルム=クロウの景色が少しずつ変わっていく。
霧燈通りを離れたころには、煤けた煉瓦家屋が道の両側へ並んでいた。やがて新聞社の看板や記録官の事務所が減り、黒い鉄柵と庭を持つ邸宅が増えていく。
高台へ近づくにつれ、工場の煙は足元へ沈んだ。
丘の下に溜まった煤煙が、灰色の湖のように都市を覆っている。その中から、高架鉄道の鉄橋と煙突の先だけが、島のように突き出していた。
「同じ街なのに、空まで違って見えますね」
ミラベルが窓へ顔を寄せる。
「煤煙が少ないだけだ」
レオンが答えた。
「高台に住める者は、下で燃やされた石炭の恩恵だけを受けられる」
「朝から皮肉ね」
「事実だ」
「そういうところは、エドガー兄さまと同じ」
レオンは窓から目を離した。
「取り消せ」
「嫌よ」
馬車が坂を上りきる。
霧の向こうに、白鐘女学園の尖塔が現れた。
黒い鉄柵に囲まれた広い敷地。
濃灰色の石を積んだ校舎。
細長い窓が規則正しく並び、その上には白い鐘を収めた鐘楼がそびえている。
華美な宮殿ではない。
だが石柱も窓枠もよく手入れされ、古い建物を大切に使い続けてきたことが分かる。
校舎の奥には寄宿舎の翼棟が伸び、その向こうに、屋根の黒ずんだ古い建物が半ば隠れていた。
エレノアが、そちらへ一瞬だけ目を向ける。
旧東棟。
レオンは視線の動きだけを記憶し、口には出さなかった。
正門前へ馬車が止まる。
扉が開ききる前に、エレノアが降りようとした。
レオンが外套の背をつかむ。
「何をするの」
「止まるまで待て」
「もう止まっているわ」
「御者がまだ手綱を引いている」
「これくらい――」
「昨夜、高架下を一人で歩いた人間に、安全判断を任せる気はない」
「辿り着いたでしょう?」
「結果と判断の正しさを混同するな」
「やはり、お二人はよく似ていますね」
ミラベルが呟いた。
兄妹が同時に彼女を見る。
「誰と誰が?」
「今のは忘れてください」
正門脇の詰所から、濃紺の制服を着た女性職員が出てきた。
エレノアを認めた顔へ、安堵より先に緊張が浮かぶ。
「クラウスさん。昨夜から、寮母先生が――」
「ご心配をお掛けしました」
エレノアは、馬車の中での態度が嘘のように、隙のない礼をした。
「兄と一緒に戻りました」
職員の視線がレオンへ移る。
目元を見て。
表情を見て。
最後に、二人の間に流れる険のある沈黙を見た。
兄妹だと納得したらしい。
「レオン=クラウスです」
レオンは名乗った。
「妹の無断外出について、校長へ説明します。それとは別に、確認したいことがあります」
「確認、ですか」
「ルチア=フェイン嬢の所在について」
職員の顔が、わずかに固まった。
すぐ職務的な表情へ戻ったが、ミラベルもその変化に気づいたらしい。
「こちらでお待ちください。校長先生へお知らせします」
職員が詰所へ戻っていく。
「今の顔、見た?」
エレノアが小声で言った。
「見た」
「ルチアの名に反応した」
「君が戻った話の途中で、別の生徒の名を出されたことに戸惑った可能性もある」
「便利ね。どんな反応にも別の理由を付けられる」
「反応だけで相手を疑うよりはましだ」
ミラベルは詰所の扉を見つめていた。
「少なくとも、名前を聞いてすぐ誰のことか分かったようには見えました」
「在籍名簿を覚えている職員なら不自然ではない」
「はい。証拠ではありません」
ミラベルは頷く。
「でも、ルチアさんの事情を知っていた人を調べるなら、覚えておく価値はあります」
レオンは一度、彼女を見た。
「悪くない」
「今、褒めました?」
「訂正する前に受け取っておけ」
「そういうところよ、お兄さま」
*
男性であるレオンが通されたのは、正面玄関に近い応接室までだった。
磨かれた石床の廊下を、灰色の制服を着た少女たちが行き交っている。
胸元には銀糸の百合章。
髪もリボンも整えられ、足音まで控えめだった。
見知らぬ成人男性が珍しいのだろう。
少女たちは、露骨にならない程度にレオンへ視線を送り、隣にいるエレノアとの類似を確かめていく。
廊下の角で、エレノアは同級生らしい少女とすれ違った。
少女は彼女を見て、何かを言いかけた。
しかし後ろから教師が来ると、書物へ目を落として通り過ぎた。
「今の方は?」
ミラベルが訊く。
「寮の子よ」
「話さなくてよかったんですか?」
「今は」
エレノアは短く答えた。
誰を警戒しているのか。
誰なら信頼できると考えているのか。
まだ本人にも、完全には整理できていないのだろう。
応接室は、学園そのもののような部屋だった。
古く。
清潔で。
無駄がない。
壁には創設者らしい女性の肖像。
窓際には白い百合を挿した細い花瓶。
書棚には、学園史、礼法書、女子教育論、卒業生名簿が年代順に並ぶ。
暖炉の上に掛けられた真鍮製の時計だけが新しく、その秒針が静かな室内へ規則正しい音を刻んでいた。
ほどなく、扉が開く。
最初に入ってきたのは、長身のエルフ女性だった。
白銀に近い髪を後ろへまとめ、深緑の長衣を身につけている。細い顔立ちには疲れが見えたが、立ち姿には柔らかな品位があった。
白鐘女学園校長、セラフィナ=アルド。
その後ろに、もう一人の女性が続く。
ヒト族。
黒い髪を隙なく結い上げ、装飾のない濃灰色の服を着ている。胸元には小さな鍵束。視線は鋭く、表情から感情を読むことは難しい。
学籍主任兼会計責任者、ヘレナ=ヴァルク。
「クラウスさん」
セラフィナは、まずエレノアへ歩み寄った。
「無事でよかった」
声には、はっきりと安堵があった。
「ご心配をお掛けしました、校長先生」
「無断外出については、あとで寮母先生と話しましょう」
セラフィナはエレノアの肩から靴までを見た。
「怪我はありませんか?」
「ありません」
「本当に?」
「指に擦り傷が一つだけ」
「それを怪我と言います」
ヘレナが言った。
低く、よく通る声だった。
「あなたがいなくなったことで、昨夜から何人の職員と生徒が捜索へ動いたか、分かっていますか」
「そのことについては謝罪します」
「そのことについては、ですか」
「ルチアを探したことについて、謝るつもりはありません」
室内の空気が変わった。
セラフィナの表情へ翳りが差す。
ヘレナは顔色を変えず、手にした書類をわずかに持ち直した。
「エレノアさんは想像力が豊かすぎます」
ヘレナは静かに言った。
「寄宿舎の怪談と、ご友人の家庭事情を結びつけるべきではありません」
「私は怪談だけを理由にしているのではありません」
「夜の壁から十三人目の声がした。灰衣の少女を見た。だから、帰郷したご友人が旧東棟にいる――そう訴えたのでしょう?」
「ルチアが帰った証拠を、誰も見せてくれなかったからです」
「他の生徒の家庭事情は、あなたが確認するものではありません」
「本人がいなくなったのに?」
「本人は、いなくなったのではありません」
ヘレナの声は穏やかだった。
だからこそ。
エレノアの訴えを、怪談へ熱中した少女の思い込みとして閉じようとしていることが明確だった。
レオンは立ち上がった。
「レオン=クラウスです。妹の兄として、無断外出については謝罪します」
「私がもう謝ったわ」
「保護者としての謝罪は別だ」
「だから、いつから――」
「あとにしろ」
妹の言葉を切り、二人の女性へ向き直る。
「同時に、エレノアが無断外出へ至った理由を確認させていただきたい」
セラフィナがレオンを見た。
「ルチア=フェインさんのことでしょうか」
「妹は、彼女が四日前から姿を見せていないと話しています」
「ルチアさんは、ご家族の都合で帰郷しました」
答えたのはヘレナだった。
「急な事情でしたので、生徒たちへ挨拶をする時間がなかったのでしょう」
「誰が迎えに来たのですか」
エレノアが訊く。
「あなたへお話しすることではありません」
「家族の誰かですか」
「家庭の事情です」
「いつ出発したのですか」
「エレノア」
セラフィナが穏やかに制した。
「友人であっても、すべてを知る権利があるわけではありません」
「では、本人が無事だと確認できるものを見せてください」
エレノアの声は荒くない。
だが、一歩も引く気はなかった。
「学園は、生徒の家庭情報を他の生徒へ開示できません」
ヘレナが答える。
「私は保護者です」
レオンが言った。
ヘレナの視線が移る。
「妹は学園の説明へ疑念を抱き、夜の街を一人で横断しました。再び寄宿舎へ預ける以上、その疑念を生じさせた説明が妥当だったか確認する必要があります」
「妹君が規則を破った責任を、学園へ転嫁なさるのですか」
「転嫁はしません。無断外出の責任はエレノアにある」
「そこは認めるのね」
「黙っていろ」
レオンは続けた。
「ただし、ルチア嬢が帰郷したという説明と、退学手続きへ入っていることは別です」
セラフィナが、ヘレナへ目を向けた。
ほんの一瞬。
学籍に関する詳細を、校長が彼女の判断へ委ねていることが見て取れた。
「退学は、まだ成立しておりません」
ヘレナが答える。
「ご家族の意向を受け、必要な手続きを進めている段階です」
「本人の意向は?」
「書面で確認しています」
「その書面を見せていただけますか」
ヘレナの眉が、わずかに動いた。
「学籍記録は部外者へ公開するものではありません」
「本人が退学へ同意したことを示す部分だけで構いません」
「あなたは警察でも、記録庁の調査官でもないはずです」
「現在は私立探偵です」
「なおさら、閲覧を許す理由がありません」
「なら、妹をすぐ寄宿舎へ戻す理由もない」
「お兄さま」
エレノアが振り返る。
「口を挟むな」
「今のは少しよかったわ」
「黙れ」
セラフィナは兄妹を交互に見た。
やがて、静かに息を吐く。
「ヴァルク先生。署名部分だけなら、確認していただいてもよいのではありませんか」
「前例になりかねません」
「生徒が一人、学園を抜け出すほど不安を抱いたのです。私たちの説明が足りなかったことも事実でしょう」
ヘレナはすぐには答えなかった。
動揺ではない。
何を見せれば、これ以上の追及を防げるかを計っているような沈黙だった。
「学籍室から該当書類を持ってまいります」
やがて彼女は言った。
「閲覧はこの部屋で。書き写しも持ち出しも認めません」
「十分です」
*
ヘレナが部屋を出る。
「レオンさん」
ミラベルが声を落とした。
「退学書類があれば、ルチアさんが自分の意思で辞めたことになるんですか?」
「正式に成立していればな」
「まだ手続き中だと言っていました」
「だから、今の時点で確定できるのは、学園が退学書類を作成していることだけだ」
「本人の署名があっても?」
「署名した文面を理解し、自由な意思で同意したと確認できて、初めて意味を持つ」
レオンは閉じた扉を見る。
「文字が本人のものでも、それだけでは足りない」
待つあいだ。
セラフィナは、エレノアがどの道を通り、誰かの馬車を使ったのかを尋ねた。
エレノアは必要なことしか答えない。
反抗というより。
学園の中で、誰へ何を伝えてよいのかを量っているようだった。
会話が途切れたところで、ミラベルが口を開く。
「校長先生。白鐘祭が近いそうですね」
セラフィナの表情が、少し和らいだ。
「ええ。三日後です」
「学園史の展示や、生徒の皆さんによる合唱もあると伺いました」
「よくご存じですね」
「新聞社で、『近代女学校と女性教育』という記事を担当できないか考えていたんです」
ミラベルは取材鞄から手帳を取り出した。
「ヴェルム=クロウでは、女性が学べる場所は増えています。でも、上流家庭の令嬢と奨学生が同じ場所で学ぶ学校は、まだ多くありません」
セラフィナは静かに頷いた。
「本校の理念を理解してくださるのであれば、うれしく思います」
「授業や寄宿舎生活を、取材させていただけないでしょうか。可能なら、白鐘祭まで学園へ滞在して、生徒の方々からもお話を伺いたいんです」
レオンがミラベルを見る。
彼女は視線を返さなかった。
「新聞社のお名前を伺っても?」
ミラベルが所属と氏名を告げる。
セラフィナは、その名を知っていたらしい。
「あなたが、クラウスさんと事件を記録している記者なのですね」
「事件だけを書いているわけではありません」
「今回は事件ではない」
レオンが言った。
ミラベルは横目で彼を見る。
「まだ、ですね」
エレノアの口元に笑みが浮かんだ。
「生徒の私生活へは、十分に配慮してください」
セラフィナが言う。
「本人が話したくないことを、無理に聞くつもりはありません。記事へ載せる際も、実名や家庭事情は確認します」
「授業を妨げないこと。寮内の規則へ従うこと。それが条件です」
「従います」
エレノアが小声で言った。
「本当に?」
「あなたよりは」
「失礼ね」
セラフィナが、わずかに微笑んだ。
「来賓用の部屋が一つ空いています。ヴァルク先生と寮母先生へ伝えたうえで、滞在を許可しましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、取材であっても旧東棟へは入らないでください。老朽化と蒸気配管の不具合があります」
エレノアが顔を上げる。
ミラベルは表情を変えず、頷いた。
「承知しました」
旧東棟。
十三人目の声が聞こえた方角。
だが、取材者へ危険区域を知らせること自体は、何も不自然ではない。
その言葉だけへ、意味を加えるべきではなかった。
扉が開く。
ヘレナが戻ってきた。
手には、薄い革表紙の書類挟み。
「こちらです」
机へ置かれたのは、一枚の退学申請書だった。
上部には白鐘女学園の紋章。
中央には、退学理由として《家庭上の事情》と記されている。
下部の本人署名欄には、ルチア=フェインの名。
保護者確認欄は空白。
学園の受理印もない。
退学がまだ成立していないという説明とは、矛盾しなかった。
「触れないでください」
ヘレナが言った。
「署名の見本はありますか」
レオンは書類へ手を伸ばさず尋ねた。
「本人のものです」
「比較できる資料を」
「必要ありません」
「一致しているなら、見せても問題はないはずです」
セラフィナが言う。
「学籍原票に、入学時の署名がありますね」
ヘレナは一度だけ校長を見た。
やがて、再び部屋を出た。
戻ってきた彼女は、古い学籍原票を一枚持っていた。
レオンは二つの署名を見比べる。
名の最初の線を長く引く癖。
姓の末尾を、わずかに上へ跳ねる癖。
文字の傾きと間隔。
「署名は、ルチア本人のものと見てよい」
エレノアの顔がこわばった。
「ルチアが、自分で書いたの?」
「署名はな」
レオンは窓から差す光を示した。
「書類の右側を、少し上げてください」
ヘレナが不快そうに書類を傾ける。
本文のインクには、まだ青みとわずかな光沢が残っている。
対して署名は、色が褐色へ沈み、紙へ深く馴染んでいた。
「署名は、本文より前に書かれている」
「どのくらい前ですか」
ミラベルが訊く。
「正確な期間は、インクの成分を調べなければ分からない。だが、続けて書かれたものではない」
「先に署名し、あとから本文を書いた?」
「その可能性がある」
レオンは答えた。
「別の手続きで提出された署名票を、退学書類へ転用した可能性もある」
「可能性だけでしょう」
ヘレナが言う。
「そのとおりです」
レオンは否定しなかった。
「今、断定できるのは三つです。署名は本人の筆跡である。署名は本文より古い。そして、この署名だけでは、ルチア嬢が退学の文面を読み、同意した証明にはならない」
セラフィナの顔から、わずかに血の気が引いた。
「署名票を利用することはあります」
ヘレナが言った。
「病気や長期不在の場合、あらかじめ確認された署名を必要な申請へ添付することがあります」
「その運用記録を見せてください」
「学内手続きです」
「ルチア嬢が、何のために署名したかを確認する記録があるはずだ」
「閲覧の範囲を越えています」
「本人の同意を証明するために必要です」
「これ以上は認められません」
ヘレナは書類挟みを閉じた。
ルチアの署名が、革表紙の下へ隠れる。
「ヴァルク先生」
セラフィナが呼ぶ。
「校長先生。妹君の無断外出について説明するため、例外的に学籍書類をお見せしました。私立探偵による監査を受け入れたわけではありません」
表面上は、筋の通った言葉だった。
生徒の個人記録を守るのは、学籍主任の職務でもある。
だが。
署名と本文の時間差は消えなかった。
「ルチア嬢の家族へ連絡します」
レオンが言った。
「家族の平穏を乱す行為はお控えください」
「彼女が帰郷しているなら、確認はすぐ終わります」
「本校の生徒を、許可なく調査なさるおつもりですか」
「学園の許可は必要ありません。学外の記録を調べるだけです」
ヘレナとレオンの視線がぶつかった。
エレノアは、その間へ入らなかった。
閉じられた書類を見ている。
署名は本人のもの。
だが。
何へ同意して書かれた署名なのかは、証明されていない。
ルチアが自分の意思で去ったという説明は。
まだ成立していなかった。
*
応接室を出ると、授業開始の鐘が鳴った。
澄んだ音が石造りの廊下を渡り、生徒たちの姿が教室へ吸い込まれていく。
玄関前で、セラフィナがミラベルへ告げた。
「滞在については、ヴァルク先生と寮母先生へ正式に伝えます。取材は午後から始めてください」
「ありがとうございます」
「エレノアさんは、まず寮母先生のもとへ。それから授業へ戻ること。無断外出については、今夜お話しします」
「はい、校長先生」
セラフィナが去る。
ヘレナは書類を抱えたまま、別の廊下へ消えていった。
その姿が見えなくなると、エレノアが息を吐く。
「素直に返事ができるんだな」
レオンが言った。
「校長先生は、お兄さまより話を聞いてくださるもの」
「昨夜の件については、何も聞いていないようだったが」
「その点は、兄妹で変わりませんね」
ミラベルが言う。
「ワトリアさんまで」
「私は数日ここにいます。エレノアさんや、ほかの生徒の方から話を聞けます」
「校長先生には、怪談を調べるとは言わなかったわね」
「嘘はついていません。女学校で学ぶ生徒の生活を取材します。その中に、友人がいなくなったことを心配している生徒がいるだけです」
「記者というのも便利な仕事ね」
「便利ではありません。記事にできる証拠が見つかるまでは」
レオンは外套掛けから帽子を取った。
「ワトリア嬢。一人で旧東棟へ近づくな」
「分かっています」
「エレノアと一緒でもだ」
「私を危険物のように言わないで」
「危険物は規格どおりに扱えば安全だ。君は規格に従わない」
「悪口としては回りくどいわね」
ミラベルは手帳を開いた。
「今、分かっていることを確認してもいいですか」
レオンは帽子をかぶる手を止めた。
「ルチアさんは四日前から、生徒たちの前へ姿を見せていない。学園は家族の事情で帰郷したと説明している」
「ああ」
「退学手続きは始まっているけれど、まだ成立していない」
「そうだ」
「署名は本人の筆跡。ただし、本文より前に書かれている」
「そのとおり」
「だから、退学の文面を読んで同意した証明にはならない。でも、無理に退学させられたことも、まだ証明していない」
レオンは頷いた。
「それでいい」
「褒めました?」
「確認しただけだ」
「お兄さまは、素直に褒めると死ぬの?」
「死なないが、必要もない」
「自分が恥ずかしいだけでしょう」
レオンは答えず、玄関扉を開いた。
朝の光が差し込む。
丘の下には、ヴェルム=クロウの街が灰色に広がっていた。
「お兄さま」
石段へ出たレオンを、エレノアが呼び止める。
振り返る。
エレノアは玄関の内側に立っていた。
灰色の制服。
銀色の百合章。
今度こそ。
記録どおり、白鐘女学園にいる少女の姿だった。
「ルチアの家へ行くの?」
「その前に、帰郷の記録を調べる」
「鉄道?」
「馬車、鉄道、郵便。学外から確認できるものを先に見る」
「私たちは?」
「話を聞け。見たことと、聞いたことと、自分で考えたことを分けて記せ」
「命令?」
「調査上の助言だ」
「参考にしてあげる」
「それと」
レオンはミラベルを見る。
「彼女から目を離すな」
「私が見張られる側なの?」
「お互いに、ということで」
ミラベルが答える。
エレノアは不満そうだったが、反論しなかった。
レオンだけが正門を出る。
黒い鉄柵が閉じた。
内側には。
エレノアとミラベル。
外側には。
レオン。
男である彼が自由に調べられるのは、学園を取り巻く制度と記録までだった。
校内の廊下。
寄宿舎の夜。
少女たちの噂。
教師へ見せる顔と、友人にだけ見せる沈黙。
その内側へ入れるのは、残った二人である。
レオンは門越しに校舎を見上げた。
白い鐘は鳴り終えている。
古い石壁の窓は、朝の光を均等に返していた。
誰かが閉じ込められている痕跡も。
十三人目の少女の影も。
外からは見えない。
残ったのは、一枚の退学書類だった。
本人の署名。
本人が読んだとは限らない文面。
それは、ルチアが学園を去った証明ではない。
同時に。
まだ学園にいる証明でもなかった。
レオンは坂を下り始める。
背後では、鉄柵の向こうへ少女たちの足音が遠ざかっていく。
記録の外側を調べる者と。
記録の内側を歩く者。
三人の調査は。
そこで初めて、二つの道へ分かれた。




