第1節 ― 記録上、私は寄宿舎にいる
霧燈通り十三番地へ戻ったとき、通りのガス灯は夜霧の中へ半ば沈んでいた。
黒鴉館の煤けた煉瓦壁を、滲んだ琥珀色の光が舐めている。高架を貨物列車が通過するたび、二階の窓硝子が細かく震え、屋根飾りの黒鴉が金属質な声を立てた。
一階の《煤鳩亭》には、まだ灯りが残っていた。
正面の硝子戸には閉店札が下がり、細く開いた換気窓から、珈琲と焼き林檎の匂いが霧へ流れ出している。
レオン=クラウスは店へ入らず、建物脇の階段を上った。
中央記録塔の事件が収束してから、まだ数日しか経っていない。
停止した《レギストラ》。
生きている人間を、死者として扱った機械。
ノクス=モリアンの静かな笑み。
それらは目を閉じるたび、順序を変えて浮かんだ。
二階へ着く。
探偵事務所の扉には、鍵が掛かっていた。
鍵穴に傷はない。
扉と枠にも、こじ開けた跡はない。
窓は閉じている。
外壁の避難梯子にも、使われた痕跡はなかった。
それでも。
扉の下から、細い光が漏れている。
出かけるとき、ランプも暖炉も消した。
鍵は今もレオンの手元にある。
彼は音を立てずに鍵を差し込み、錠を回した。
応接兼事務室には、暖かなランプの光が満ちていた。
小型暖炉には新しい薪がくべられ、赤い炎が静かに揺れている。
その前の応接椅子に。
一人の少女が座っていた。
長い濃茶の髪をリボンでまとめ。
片脚を椅子の上へ上げ。
レオンの鑑定レンズを片手に、広げた新聞を読んでいる。
もう一方の手は、勝手に開けた菓子箱へ入っていた。
「返せ」
少女は新聞から目を上げた。
レンズ越しに、琥珀色の瞳が大きく歪む。
「久しぶりに会った妹へ、最初に言うことがそれ?」
「そのレンズは精密器具だ。菓子の油が付く」
「安心して。持っている指は分けているわ」
「返せ」
「菓子はもう返せないわ」
少女は残っていた焼き菓子を一口かじった。
年の離れた妹。
エレノア=クラウス。
最後に会ったときより頬の幼さは薄れていたが、何かを企んでいるときだけ左の眉がわずかに上がる癖は変わっていない。
「どうやって入った」
「妹の顔より先に、錠前を気にするのね」
「顔を見れば、無断で入ったことは分かる」
レオンは少女の指から鑑定レンズを抜き取った。
縁をハンカチで拭きながら、視線だけを彼女の全身へ滑らせる。
地味なケープは、市内の使用人がよく着る安価な品。
その袖口から覗くブラウスは、白鐘女学園の制服と同じ上質な布地だった。
銀色のリボンは外され、斜め掛け鞄へ押し込まれている。
編み上げ靴には、高架下の排水路に溜まる黒い泥。
右手の人差し指には、新しい擦り傷。
爪の脇には、錠前油が薄く残っていた。
「使用人に変装して学園を出た。高架下を通ってここまで来た。最後に、細い金属で鍵を開けた」
「傷を残さなかったでしょう?」
「自慢するな」
「古い錠だったもの」
「古いのではない。君が壊しかけたんだ」
「少し説得しただけよ」
「錠前を説得する人間は、一般に侵入者と呼ばれる」
「では、一般が不正確なのね」
レオンはレンズを引き出しへ戻し、今度は鍵を掛けた。
エレノアが不満そうにそれを見送る。
「記録上、私は今も女学校の寄宿舎にいるわ」
彼女は椅子の背へ身を預けた。
「だから、ここにいたって、誰にも見つからないでしょう?」
「記録の矛盾を、住居侵入の免責に使うな」
「兄さまの仕事を尊重しているの」
「食べ終えたら学園へ戻る」
エレノアの口元から笑みが消えた。
「帰るために来たのではないわ」
「家出の宣言なら、エドガーへ送れ。兄さんなら、鉄道と郵便と市警へ君の特徴を配る」
「だから知らせていないのよ」
「十七歳の妹が、夜のヴェルム=クロウを一人で横断している」
「十七歳なら、街くらい歩けるわ」
「歩けることと、安全であることは別だ」
「守ることと、閉じ込めることも別でしょう?」
暖炉の中で、薪が小さく弾けた。
レオンは妹を見る。
先ほどまでの悪戯めいた軽さは、もうその顔にはなかった。
「家出か」
「自主的な所在地変更よ」
「届け出ていない所在地変更を、家出と言う」
「記録に縛られすぎよ、兄さま」
「君が記録から逃げすぎている」
「ちょうどいいわ。平均すれば普通になる」
レオンは眉間へ指を当てた。
「明朝、俺が学園へ連れていく」
「まだ戻れない」
エレノアは椅子から立ち、斜め掛け鞄を机へ置いた。
「寄宿舎から抜け出したのは私よ」
留め具へ指を掛ける。
「でも、学園から消されたのは、私じゃない」
レオンの手が止まった。
「ルチア=フェインが消えたの」
その名前を口にした瞬間。
エレノアの声から、冗談の名残がすべて失われた。
「誰だ」
「同級生。灰百合寮の寄宿生。私の友人よ」
「いつからいない」
「四日前」
「授業にも、食事にも、点呼にも?」
「一度も出ていない」
「学園の説明は」
「最初は『家庭の事情です』。次は『あなたには関係ありません』。昨日は『不穏な噂を広めないように』」
「帰郷したとは?」
「家族が迎えに来たと言った先生はいたわ。でも、いつ来たのかも、誰が迎えに来たのかも答えなかった。ルチアの部屋を片づけるのか訊いたら、今度は口を閉じた」
「説明が曖昧なのは事実だ。だが、家庭の事情を友人へ明かせない場合もある」
「ルチアは、何も言わずに帰る人ではない」
「それは君の評価だ」
「友人としての観察よ」
「証拠にはならない」
「証拠が揃うまで待っていたら、いなくなった人は戻らないわ」
レオンは答えなかった。
中央記録塔で。
肉体より先に、エリアス=フォルンの名が生者照合板から消えた瞬間が脳裏をよぎった。
今回は、死体がない。
死亡記録もない。
だからこそ。
まだ、結末を変えられる可能性がある。
「教師の説明以外に、ルチアの失踪と関係があると考えた理由は」
レオンが訊いた。
エレノアは、すぐには答えなかった。
暖炉の炎へ目を向け。
三日前の夜を、もう一度聞き直すように目を伏せる。
「灰百合寮では、毎晩、点呼をするの」
「それがどうした」
「三日前。寮母が全員の名を呼び終えたあと、もう一人、返事をした」
レオンの指が止まった。
「誰の声だ」
「分からない。若い女の声」
「どこから」
「旧東棟側の壁。でも、壁へ近づくと遠くなる。廊下の中央へ戻ると、すぐそばから聞こえた」
「何と言った」
エレノアは、あの夜の声へ耳を澄ませるように答えた。
「『十三番。ここにおります』」
暖炉の炎が揺れた。
「点呼簿には何人いる」
「十二人」
「実際に寮で生活しているのは」
「私を含めて十一人。一人は、長期療養中ということになっている」
「声を聞いた者は」
「寮生全員と、マグダ寮母。悲鳴を上げた子もいたし、寮母は暖房管の音だと言った。翌朝には、誰もその話をするなと命じられた」
「全員が同じ言葉を聞いたと確認したのか」
「そこまでは。先生たちに部屋へ戻されて、話し合わせてもらえなかったから」
「なら確かなのは、点呼後に複数人が何らかの声を聞いたことだけだ。発声者も、場所も、方法も不明。ルチアとの関係も、まだ仮説だ」
「関係がないと思う?」
「思う、思わないで事件は決まらない」
「便利な答えね」
「必要な区別だ」
レオンは机へ指を置いた。
「友人が姿を消したこと。教師の説明が曖昧であること。名簿にない十三番を名乗る声が聞こえたこと。それぞれは事実でも、同じ原因とは限らない」
「だから、調べてもらうの」
「君を学園へ戻すことと、調査することは別だ」
「お兄さまに解いてほしいわけではないの」
エレノアはきっぱりと言った。
「記録院と郵便局と、学園の外を調べてほしいだけ」
「それを一般には、助けを求めると言う」
「では、一般が間違っているのね」
「君の役割は」
「学園の中を調べること」
「却下だ」
「どうして?」
「すでに教師から警戒されている。無断外出までした。戻れば監視される」
「だから、私にしか気づけないことがあるのよ」
「監視を受けることと、捜査能力は関係ない」
「あるわ。先生たちは私に見られたくないものを、隠すでしょう?」
「君は隠されたものを探す」
「よく分かっているじゃない」
「だから危険だと言っている」
エレノアが言い返そうとしたとき。
廊下から軽い足音が近づいた。
二度、扉が叩かれる。
「レオンさん?」
ミラベル=ワトリアの声だった。
扉が開く。
「下まで声が聞こえて――」
ミラベルは室内を見て、言葉を止めた。
レオン。
その向かいに立つ見知らぬ少女。
空になった菓子箱。
机の上の鞄。
視線が順番に動く。
「お客様ですか?」
「侵入者だ」
「妹よ」
二人が同時に答えた。
ミラベルは顔を見比べた。
目元。
眉の形。
相手の言葉へ即座に異議を唱えるときの表情。
「……妹さん」
エレノアは先ほどまでの態度を収め、学園で教えられたらしい優雅な礼をした。
「エレノア=クラウスです。いつも兄がお世話になっています、ワトリアさん」
「どうして彼女の名を知っている」
「新聞を読むもの。兄さまより大きく名前が載っている記事もあるわ」
「ミラベル=ワトリアです」
ミラベルは戸惑いながらも礼を返した。
「こちらこそ、レオンさんには……いろいろと、お世話をしています」
「正しい表現ね」
「妙なところで意気投合するな」
ミラベルは二人の間へ半歩入った。
「何があったんですか?」
「学園で、友人が四日前から姿を見せていない」
レオンが簡潔に答える。
「教師の説明は曖昧。三日前の夜間点呼では、名簿にない十三人目を名乗る声が聞こえた」
ミラベルの表情が変わった。
「ご友人は、ご家族のもとへ帰ったのでは?」
「学校はそう言っているわ。でも、誰が迎えに来たのかも、いつ出たのかも答えない」
エレノアは鞄へ手を入れた。
「それに、消える一週間前、ルチアは妙なことを言ったの」
「先にそれを出せ」
「出そうとしたら、ワトリアさんが来たのよ」
小さく折り畳まれた紙片が、机へ置かれる。
学園の練習帳から切り取ったものだった。
「ルチアさんが書いたものですか?」
ミラベルが訊く。
「私が書き留めたの。話した直後に」
「一字一句同じか」
「言葉は同じ。句読点までは保証しないわ」
レオンは紙片を取った。
急いで記したらしく、文字の線は細く走り、最後の一字だけが強く紙へ食い込んでいる。
そこには、一行だけ記されていた。
――名簿には、いる人といない人が逆に書かれている。
ミラベルが、レオンの肩越しに読む。
「いる人と、いない人が……逆?」
「ルチアは、何を見た」
「分からない。訊く前に先生が来たの」
「誰だ」
エレノアの唇が止まる。
「今は言えない」
「重要かどうかは、聞いてから決める」
「ルチアが、その先生を疑っていたとは限らないわ」
「君は疑っている」
「誰を信じてよいのか、まだ決められないだけ」
エレノアの声が、初めて揺れた。
友人を探したい。
だが、学園を壊したいわけではない。
教師を疑っている。
同時に、その中に信じたい者もいる。
レオンは、それ以上追及しなかった。
代わりにミラベルが訊く。
「ルチアさんは、その言葉をどんな様子で言ったんですか?」
「怒っていたわ」
「怯えていた?」
「少し。でも、助けを待っている顔ではなかった。自分で何かを確かめるつもりだった」
「エレノアさんを巻き込まないように、全部は話さなかったのでしょうか」
「たぶん」
「仮説だ」
レオンが言う。
「分かっているわ」
エレノアは言い返さなかった。
「でも、ルチアはそういう人よ」
ミラベルは紙片を見つめた。
「話を調べる必要はあると思います」
「現時点では、事件が存在するかも確定していない」
「分からないことが多いんですね」
「そう言っている」
「それなら、なおさらです」
「君まで怪談に興味を持ったのか」
「怪談にではありません」
ミラベルはエレノアを見る。
「友人が消えたと訴えている人の話にです」
エレノアは、少し驚いた顔をした。
すぐに表情を整えたが、レオンは見逃さなかった。
教師には関係がないと言われた。
不穏な噂を広めるなと命じられた。
自分一人で調べ、外出禁止にされ。
それでも黒鴉館まで来た。
エレノアは保護されたいわけではない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
だが。
話を聞いてもらうことまで、拒んでいるわけではなかった。
「友人が消えているのに?」
エレノアは兄へ向き直った。
「死体がなければ、事件とは呼ばないの?」
レオンは眉間へ指を当てた。
「死体がないことを、喜ぶべきだとは思っている」
「では、死体になる前なら?」
「飛躍するな。ルチアが危険な状態にある証拠はない」
「安全だという証拠もないわ」
「ないことを証明に使うな」
「兄さまは、いつも記録されなかったものを探すでしょう?」
「詭弁だ」
「家族の影響ね」
ミラベルが小さく息を漏らした。
レオンは彼女を見る。
「ワトリア嬢」
「すみません。でも、今すぐエレノアさんを学園へ戻すとしても、事情を確かめてからの方がよいと思います」
「何も起きていなければ?」
「それが分かります」
「ルチアが本当に帰郷していれば?」
「エレノアさんも納得できます」
「納得する顔に見えるか」
「しないかもしれません」
「正直だな」
「でも、何も調べずに戻したら、もう一度抜け出します」
「もちろん」
エレノアが即答した。
レオンは目を閉じた。
学園へ引き渡すことはできる。
校長へ連絡し、寮母へ戻せばよい。
だが、エレノアは扉を閉じられれば窓を探す。
窓を塞がれれば屋根裏へ上がる。
道がなければ、壁を叩いて空洞を探す。
能力がないから危険なのではない。
見つけてしまうから、危険なのだ。
レオンは紙片を折り直した。
エレノアが付けた折り目へ、正確に合わせる。
「明朝、学園へ戻る」
「私は今夜のうちに――」
「戻るのは明朝だ」
「命令?」
「調査の予定だ」
エレノアが目を瞬いた。
「君一人では戻さない。俺も行く」
「女学園へ?」
「保護者として、応接室までは入れる」
「ずいぶん不似合いね」
「君ほどではない。寄宿生が他人の事務所で焼き菓子を食べている」
「マルタさんがくださったのよ」
「いつ会った」
「それは侵入方法に関わるから秘密」
レオンは再び目を閉じた。
「私も同行します」
ミラベルが言った。
「君は関係ない」
「女学園の内部で話を聞くなら、レオンさんより役に立ちます」
「そこまで言っていない」
「言っているようなものです」
エレノアがミラベルへ近づく。
「ワトリアさん。兄さまは、いつもこうやって人の協力を断るの?」
「だいたいは」
「それでも一緒にいるの?」
「だいたいは」
「興味深いわ」
「俺の取材を始めるな」
エレノアは、初めて年相応の明るい笑みを見せた。
だが、その笑みはすぐに消えた。
視線が、レオンの手の中の紙片へ戻る。
「ルチアは、まだ生きていると思う」
「根拠は」
「ないわ」
エレノアは答えた。
「だから、確かめるの」
レオンは否定しなかった。
紙片を自分の手帳へ挟む。
黒鴉館の外で、遠い時計塔が時刻を打った。
重なるように、高架鉄道の汽笛が霧を裂く。
名簿の上では。
エレノア=クラウスは、今夜も白鐘女学園の灰百合寮にいる。
規則正しく点呼を受け。
決められた寝台で眠り。
朝を待っている。
だが実際の彼女は。
霧燈通り十三番地の探偵事務所で、友人が消えたと訴えていた。
記録の外側から。
兄を事件へ引きずり込もうとしている。
レオンはランプの芯を上げた。
強くなった光の中で、手帳から紙片の端が白く覗く。
名簿には、いる人といない人が逆に書かれている。
少女の思い込みか。
怪談に与えられた意味か。
あるいは。
学園の中で、すでに人間と名前が別々の場所へ置かれているのか。
判断するには、まだ証拠が足りなかった。
だからこそ。
朝を待つ理由ができた。




