終幕後 ― 探偵と教授
中央記録塔の屋上では、停止した圧力調整羽根が、朝の煤霧に濡れていた。
眼下の街では高架鉄道が走り、工房の煙突が煙を吐いている。
《レギストラ》が止まっても、ヴェルム=クロウは動いていた。
ノクス=モリアンは屋上の縁に立ち、黒檀の杖へ両手を重ねていた。
「オルド=ガルムへ、殺人を命じた証拠は見つかりませんでしたか」
「命じていないんだろう」
レオンは答えた。
命令票。
複製印。
非常索。
どこにも、ノクスが直接触れた痕跡はない。
「私は、閉鎖記録の理論を教えただけです」
ノクスは穏やかに言った。
「使い方を選んだのは、ガルム氏だ」
「人を殺せる理論だと知っていた」
「危険な理論は、珍しくありません」
「彼が十二年前に使ったことも知っていた」
「疑っていました」
「それでも黙っていた」
「疑いを、罪として記録するおつもりですか」
レオンは答えなかった。
ノクスがオルドの理解を知っていたことは、言葉の綻びから読める。
だが。
閉鎖記録を教えたこと。
オルドを覚えていたこと。
探偵を観察していたこと。
そのどれも、殺人への関与を法的には証明しない。
「刃物を教えた者が、すべての刺殺に責任を負うのですか」
「刃物を、人の首へ向けて置いたならな」
ノクスは微笑んだ。
煤霧の向こうで、中央時計が次の時刻を打つ。
「では次は、置いたことまで証明してください」
「証明する」
「期待していますよ、探偵役」
ノクスは帽子の縁へ指を添え、屋上の扉へ向かった。
レオンは呼び止めなかった。
今は逮捕できない。
今は。
扉が閉じたあとも。
黒檀の杖が石床を打つ音だけが、しばらく塔の中へ残っていた。
【クラウス家の末妹】
数日後。
レオンが黒鴉館二階へ戻ると、探偵事務所の扉には鍵が掛かっていた。
錠前に傷はない。
窓も閉じている。
外壁の避難梯子にも、使われた跡はなかった。
それでも、扉の下からは細い灯りが漏れていた。
レオンは鍵を開け、静かに扉を押した。
革張りの応接椅子に、一人の少女が座っていた。
長い濃茶の髪を地味な黒紐でまとめ、使用人が着るような安価なケープを肩へ掛けている。
片手には、レオンの鑑定レンズ。
もう一方の手には、林檎と胡桃を焼き込んだ菓子。
机の上には、中央記録塔事件を報じたミラベルの記事が広げられていた。
「返せ」
少女は、鑑定レンズ越しにレオンを見た。
「久しぶりに会った妹へ、最初に言うことがそれ?」
「レンズと菓子の両方だ」
「菓子はもう返せないわ」
「妹の顔より先に、錠前を気にするのね」
「顔を見れば、無断で入ったことは分かる」
エレノア=クラウスは、レンズ越しに兄の顔を眺めた。
「記録上、私は今も女学校の寄宿舎にいるわ」
そして、悪戯を成功させた少女のように笑った。
「だから、ここにいたって、誰にも見つからないでしょう?」
レオンの目が細くなった。
「家出か」
「失礼ね。自主的な所在地変更よ」
「届け出ていない所在地変更を、家出と言う」
「記録に縛られすぎよ、兄さま」
「君が記録から逃げすぎている」
「ちょうどいいわね。平均すれば普通になるわ」
レオンは、少女の手から鑑定レンズを取り上げた。
「エドガーは知っているのか」
「エドガー兄さまへ知らせたら、ここへ来る前に記録庁の馬車へ詰め込まれるでしょう?」
「当然だ」
「だから、先に来たの」
「帰れ」
「まだ帰れないわ」
エレノアの表情から、笑みが消えた。
「ルチア=フェインが消えたの」
その名前を口にした瞬間。
エレノアの声から、冗談の名残がすべて失われた。




