↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
64/228

第13節 ― 歯車を止める者

 ブラス重工商会中央記録塔の最上階には。


 機械音の届かない会議室があった。


 厚い壁。


 深い絨毯。


 煤煙と振動を遮る、二重の窓硝子。


 この部屋で決められたことは。


 契約書へ印を残し。


 気送管を通り。


 やがて下の階にある歯車や弁を動かす。


 だが。


 機械の側から。


 ここへ音が戻ってくることはなかった。


     *


「正式稼働の延期には反対です」


 長机の右側。


 ブラス重工商会の取締役が言った。


「延期期間は、どの程度を想定していますか」


「定めません」


 モルガ=ブラスは答えた。


「安全構造の再検証。過去の死亡閉鎖記録の調査。外部監査制度の再構築。そのすべてが終わるまでです」


「それでは、事実上の中止だ」


「延期です」


「市場は、言葉の違いを評価しません」


 向かい側に座る市政官が、資料を開いた。


「鉄道局は《レギストラ》との接続を前提に、次期運行計画を組んでいます。市立病院も、患者記録の統合に合わせて人員配置を変更した。銀行組合と保険組合からも、予定どおりの稼働を求められています」


「予定どおり動かし」


 ミラベルが言った。


「また誰かの名が、生者の数から消えても?」


 彼女は長机の端に座っていた。


 会議へ参加する権限はない。


 ただ。


 モルガから、記録を残す者として同席を求められていた。


「犯人は逮捕された」


 取締役が答える。


「事故は、オルド=ガルムによる不正命令が原因です。機械そのものは、与えられた命令へ正しく従った」


「だから危険なのです」


 モルガは言った。


「一人の不正によって。生きている人間を記録上の死者へ移し。安全装置の保護から外し。危険工程を始められる機械が、正しく動いた」


「問題の箇所だけを修正すればよい」


「修正します」


「ならば、稼働予定を維持したまま――」


「延期します」


 声は大きくなかった。


 それでも。


 長机の両側から、言葉が消えた。


 モルガは。


 三枚の記録を机へ並べた。


 エリアス=フォルンの死亡記録。


 十二年前の旧第六記録工房事故報告。


 イーダ=メルクの生存証言。


「これは、一人の犯罪者だけが作った問題ではありません」


 モルガは言った。


「オルドは、制度と機械を殺人へ利用した。しかし。利用できる構造を作り。過去の異常を調べず。正式稼働を急いだ責任は、彼一人のものではない」


「その発言を議事録へ残せば」


 取締役が声を低くする。


「商会は、自ら過失を認めることになります」


「残してください」


「市政との契約を失うかもしれない」


「再審査を受けます」


「何万人の雇用があると思っているのです」


 モルガの目が、わずかに細くなった。


「数えています」


「ならば――」


「数えたうえで、止めます」


 市政官が、机へ両手を置いた。


「都市は止まれない」


 その言葉に。


 モルガの視線が止まった。


 鉄道敷設へ反対する地主へ。


 工房統合を拒む組合へ。


 記録機械を恐れる官僚へ。


 かつて。


 彼女自身が、何度も向けてきた言葉だった。


 一人の不幸で。


 千人の明日を止めることはできない。


 その正しさを。


 彼女は疑わなかった。


 長机の上には。


 死ぬ前に届いた死亡記録がある。


「ええ」


 モルガは静かに答えた。


「そう言い続けてきました」


「ならば」


「だからこそ」


 椅子から立ち上がる。


「自分の手で止めます」


     *


 モルガは昇降機を使わず。


 中央階段を、一階ずつ下りていった。


 取締役。


 市政官。


 レオン。


 ミラベル。


 グレアム。


 エドガー。


 その後ろを。


 記録官と商会技師が続く。


 契約照合層。


 銀行・保険記録層。


 病院・警察照会層。


 鉄道・雇用記録層。


 階段を下るほど。


 壁を走る真鍮管は太くなる。


 《レギストラ》は停止している。


 それでも。


 冷えた金属が収縮し。


 弁の内側で蒸気が水へ戻り。


 塔のあちこちから、小さな軋みが聞こえていた。


 機械が。


 再び動く時を待っているように。


     *


 主弁室は、中央機関の地下にあった。


 円形の石室。


 天井を貫く、太い蒸気管。


 その根元に。


 人の背丈を超える赤銅色の弁輪がある。


 《レギストラ》へ送られる主蒸気を。


 物理的に断つための弁だった。


 事故後。


 主動力は止められている。


 ただし。


 緊急再起動に備え、主弁そのものは待機位置に残されていた。


 ベアトリス=カルムが。


 弁輪の前で、モルガを待っていた。


「閉鎖すれば」


 彼女は言った。


「再加圧の前に、全配管の検査が必要です」


「承知しています」


「弁軸が冷え切れば、部品交換も必要になります」


「交換してください」


「正式稼働は」


「延期します」


 ベアトリスは、弁輪へ手を掛けた。


「私が閉めます」


「いいえ」


 モルガは作業上着の袖を上げた。


 両手には。


 エリアスの救出作業で負った傷が残っている。


「総帥がする作業ではありません」


「この機械を動かすと決めたのは、私です」


「設計したのは私です」


「補助凝縮管を止めなかった責任を、一人で背負わないでください」


 ベアトリスの顔が強張る。


「あなたは、停止命令に背きました」


 モルガは続けた。


「その責任は、別に問います」


 慰めではない。


 免罪でもない。


「しかし。機械を守ろうとした判断を、殺人へ利用されたことと。殺人を命じたことは、同じではありません」


 ベアトリスは何も言えず。


 弁輪から一歩下がった。


     *


 モルガは。


 工具掛けから、長い回転棒を取った。


 弁輪の穴へ差し込み。


 両手で握る。


 体重を掛けると。


 長く全開位置へ固定されていた弁が、低く軋んだ。


 最初の一歯が動く。


 技師が近づこうとした。


「必要になったら呼びます」


 モルガは短く言った。


 もう一度。


 回転棒へ肩を入れる。


 弁輪が回り。


 内部の閉鎖板が、主蒸気管へ入っていく。


「まだ取締役会の決議は終わっていません!」


 後方から声が上がった。


「基幹設備を長期停止する権限は――」


「緊急安全規定により」


 エドガーが答えた。


「中央記録庁は、再検証が終わるまで再稼働を許可しない」


「では、庁の命令だと?」


「違います」


 回転棒を握ったまま。


 モルガが振り返った。


「これは、私の命令です」


「下請け工房が止まる」


「補償します」


「鉄道局との契約違反になる」


「再交渉します」


「株主は納得しない」


「説明します」


「都市全体へ損失が――」


「壊れた歯車を回し続けることを」


 モルガは言った。


「運転とは呼びません」


 石室が静かになった。


 彼女は弁輪へ向き直る。


 最後の抵抗を越え。


 回転棒を押し下げた。


 弁軸の奥から。


 深い金属音が響く。


 表示針が。


 全開から、完全閉鎖へ移った。


「主弁閉鎖、確認」


 ベアトリスが言う。


 記録官が時刻を書き留めた。


 モルガは回転棒から手を離す。


 薄い包帯へ。


 わずかに血が滲んでいた。


     *


「これで責任を取ったつもりか」


 レオンが尋ねた。


 取締役と市政官が退出したあと。


 主弁室には。


 レオン。


 ミラベル。


 グレアム。


 エドガー。


 モルガ。


 ベアトリスが残っていた。


「いいえ」


 モルガは答えた。


「機械を止めただけです」


「十二年前の記録が封鎖されていたことを」


 レオンは言った。


「本当は知っていたな」


 ベアトリスがモルガを見る。


 グレアムの目が険しくなる。


「ええ」


 モルガは認めた。


「事情聴取では、知らないと答えた」


「封鎖された内容を知らなかった、と答えるべきでした」


「言葉で逃げるな」


「逃げません」


 モルガは。


 包帯へ滲んだ血を見た。


「記録が封鎖されていることは知っていました。父の代の事故です。遺族補償と責任処理のためだと説明されていた」


「開こうと思わなかったのですか」


 ミラベルが尋ねた。


「思いませんでした」


 それが。


 最も重い答えだった。


「なぜですか」


「解決済みだと考えていたからです」


「誰の報告で」


「オルドの」


 停止した機械の奥で。


 冷えた金属が鳴った。


「彼は父の代から商会を支えていた。事故対応も、補償も。私より詳しかった」


「だから信じた」


 レオンが言う。


「ええ」


「違うな」


 モルガが顔を上げた。


「信じたかった」


 彼女は否定しなかった。


「記録を開けば」


 レオンは続ける。


「商会の過去に。責任を負わなければならないものが残っているかもしれなかった」


「そうです」


「《レギストラ》計画を進めるには、十二年前の事故が解決済みであるほうが都合がよかった」


「そうです」


「都市を守るためか」


「いいえ」


 モルガは。


 自分で閉じた主弁を見た。


「商会と。自分の計画を守るためです」


 オルドと同じではない。


 彼女は死亡閉鎖を命じていない。


 非常索へ細工もしていない。


 エリアスを殺してもいない。


 だが。


 見なかった。


 開かなかった。


 信頼という言葉を使い。


 都合の悪い記録を、封鎖されたままにした。


「無罪ではないぞ」


 グレアムが言った。


「ええ」


「刑事責任があるかは、これから調べる」


「すべて提出します」


「商会に不利な記録も?」


「封鎖記録を含めて」


「取締役が止める」


「止めさせません」


 グレアムは、しばらくモルガを見た。


「今度は」


 低く言う。


「本当に、止める側へ立つんだな」


 モルガは答えなかった。


 閉じた主弁が。


 代わりに、その答えを示していた。


     *


 十二年前の事故記録は。


 中央記録塔の地下保管庫へ移されていた。


 鉄扉。


 三重錠。


 封印札。


 表面には。


 ――旧第六記録工房事故。


 ――処理完了。


 と記されている。


「処理完了」


 ミラベルが読んだ。


「誰にとってでしょう」


「商会にとってです」


 モルガは答えた。


「少なくとも。私は、そう受け取りました」


 三つの鍵が使われる。


 ブラス重工商会。


 市警。


 中央記録庁。


 最後に。


 モルガが封印札を切った。


 乾いた音。


 十二年間。


 開かれなかった扉が動く。


 保管庫には。


 灰色の文書箱が並んでいた。


 事故報告。


 死亡閉鎖票。


 救助記録。


 補償契約。


 薬品照会。


 職員名票。


 四人分の人生が。


 整理番号を付けられ。


 終わったものとして、棚へ置かれていた。


「事故記録を公開します」


 モルガが言った。


「個人情報の保護が必要だ」


 エドガーが答える。


「イーダの現在の名と、居場所は伏せます」


 ミラベルが言う。


「事故と死亡閉鎖の事実は?」


「公開します」


 モルガは、一つ目の文書箱へ手を掛けた。


「それだけではありません。ブラス重工製の旧記録機械を導入した全施設へ、過去の死亡閉鎖記録の再点検を求めます」


「範囲は広い」


「承知しています」


「時間も損失も出る」


「それも承知しています」


「市政官は、混乱を恐れる」


「混乱は起きるでしょう」


「それでも開くのか」


「それを理由に」


 モルガは答えた。


「もう一度、閉じるつもりはありません」


     *


 保管庫の外。


 小さな記録卓へ。


 一枚の申立票が置かれた。


 氏名。


 ――イーダ=メルク。


 現在状態。


 ――死亡。


 異議内容。


 ――本人の生存確認。


 再審理由。


 ――遺体照合記録なし。


 ――死亡後の薬品購入記録あり。


 ――本人証言および身体的特徴の一致。


 記録官が、署名欄の前で手を止めた。


「申立人は」


「ブラス重工商会」


 モルガが答える。


「事故記録を提出した側として。記録訂正と、生存再審手続の開始を求めます」


「本人の同意が必要です」


「もちろんです」


「現在の氏名を提出しなければ、通常の照合ができません」


「現在の名は」


 ミラベルが言った。


「本人が同意するまで、記録庁の外へ出しません」


「例外処理になります」


 記録官がエドガーを見る。


「例外ではない」


 エドガーは答えた。


「死亡したことにされた本人が、生存を申し立てている。制度が想定すべき事案だ」


「ですが、現行書式では」


「書式が足りないなら、補足票を作れ」


 記録官の手が止まる。


「生きている人間を、書式へ合わせるな」


 エドガーは言った。


「書式を、人間へ合わせろ」


 ミラベルが思わず彼を見る。


 レオンも、わずかに眉を上げた。


 エドガーは。


 二人の視線へ気づいていたが、説明しなかった。


 新しい補足票が出される。


 本人証言の保護。


 現在の氏名の非公開。


 未確定事項。


 照合を必要とする記録。


 一つずつ。


 空欄が埋められていく。


「死亡取消ではありません」


 ミラベルが言った。


「ええ」


 モルガが答える。


「彼女は、死者から生き返るのではない」


 署名欄へ。


 自分の名を書く。


 モルガ=ブラス。


 かつて。


 父の代の事故を解決済みとして受け取った名。


 今。


 その記録を開く責任者として。


「最初から生きていたと認めるための手続です」


 本物の総帥印は。


 まだ警察の証拠として保管されている。


 そのため。


 一人の権力者の印の代わりに。


 市警。


 中央記録庁。


 ブラス重工商会。


 三者の立会署名が、申立票へ並んだ。


     *


 手続を終えたあと。


 モルガは、中央機関の前へ戻った。


 《レギストラ》は暗い。


 表示板にも。


 生者照合板にも。


 誰の名も出ていない。


 都市の人間を、一人残らず数えるために作られた機械が。


 今は。


 何も数えていなかった。


「惜しいですか」


 ミラベルが尋ねた。


「何が?」


「十年以上かけた計画を、止めることが」


「惜しいですよ」


 モルガは即答した。


「私の人生の大半です」


「それでも延期した」


「動かせば」


 暗い表示板を見上げる。


「次に記録から外される人間がいるかもしれないと、私は知っていることになる」


 ミラベルは手帳を開いた。


「その言葉も記事にします」


「どうぞ」


「商会に不利です」


「知っています」


「責任から逃げない人として、よく見えるかもしれません」


 モルガが、ミラベルを見る。


「私を善人に書かないでください」


 静かな声だった。


「私は、十二年前の記録を開かなかった」


「はい」


「エリアスへ監査を依頼しながら。彼が何を見つけたのか、公開試験を止めるほど深くは聞かなかった」


「はい」


「機械が都市を良くすると信じ。その前提を守るために、見ないものを選びました」


 ミラベルは手帳へ鉛筆を置いた。


「そのまま書きます」


「お願いします」


「でも」


 停止した主機を見る。


「主弁を閉じたことも書きます」


 モルガは何も言わない。


「責任を取ったとは書きません」


「ええ」


「責任を取り始めた、と書きます」


 真鍮夫人は。


 長いあいだ。


 暗い表示板を見つめていた。


「それなら」


 やがて答える。


「事実です」


     *


 塔を出ると。


 ヴェルム=クロウは動いていた。


 高架鉄道が走り。


 工房の煙突から煤煙が上がり。


 病院の搬入口へ蒸気車が着き。


 新聞売りが、朝刊を抱えて通りを駆ける。


 《レギストラ》が止まっても。


 都市は止まっていない。


 不便は生じる。


 遅れも。


 損失も。


 人の手で照合し直さなければならない記録も増える。


 それでも。


 人々は、自分の足で動いていた。


「都市は止まれない」


 ミラベルが呟く。


 レオンが隣を歩く。


「止まらないことと」


 前を見たまま答えた。


「止めてはいけないことは違う」


「歯車を一つ止めても、都市は動く」


「歯車のために、都市があるわけじゃない」


「人間のために?」


「そうでなければ」


 レオンは言った。


「何を数える機械なのか分からない」


 ミラベルは、中央記録塔を振り返った。


 屋上の圧力調整羽根は止まり。


 外壁を走る気送管にも、記録筒の影はない。


 巨大な時計の下。


 モルガ=ブラスが。


 塔の入口へ立っている。


 取締役。


 市政官。


 技師。


 労働者。


 記者。


 これから。


 自分へ責任を求める者たちを。


 逃げずに迎えるために。


 止まった歯車の前へ。


 自分の名を残していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。