第13節 ― 歯車を止める者
ブラス重工商会中央記録塔の最上階には。
機械音の届かない会議室があった。
厚い壁。
深い絨毯。
煤煙と振動を遮る、二重の窓硝子。
この部屋で決められたことは。
契約書へ印を残し。
気送管を通り。
やがて下の階にある歯車や弁を動かす。
だが。
機械の側から。
ここへ音が戻ってくることはなかった。
*
「正式稼働の延期には反対です」
長机の右側。
ブラス重工商会の取締役が言った。
「延期期間は、どの程度を想定していますか」
「定めません」
モルガ=ブラスは答えた。
「安全構造の再検証。過去の死亡閉鎖記録の調査。外部監査制度の再構築。そのすべてが終わるまでです」
「それでは、事実上の中止だ」
「延期です」
「市場は、言葉の違いを評価しません」
向かい側に座る市政官が、資料を開いた。
「鉄道局は《レギストラ》との接続を前提に、次期運行計画を組んでいます。市立病院も、患者記録の統合に合わせて人員配置を変更した。銀行組合と保険組合からも、予定どおりの稼働を求められています」
「予定どおり動かし」
ミラベルが言った。
「また誰かの名が、生者の数から消えても?」
彼女は長机の端に座っていた。
会議へ参加する権限はない。
ただ。
モルガから、記録を残す者として同席を求められていた。
「犯人は逮捕された」
取締役が答える。
「事故は、オルド=ガルムによる不正命令が原因です。機械そのものは、与えられた命令へ正しく従った」
「だから危険なのです」
モルガは言った。
「一人の不正によって。生きている人間を記録上の死者へ移し。安全装置の保護から外し。危険工程を始められる機械が、正しく動いた」
「問題の箇所だけを修正すればよい」
「修正します」
「ならば、稼働予定を維持したまま――」
「延期します」
声は大きくなかった。
それでも。
長机の両側から、言葉が消えた。
モルガは。
三枚の記録を机へ並べた。
エリアス=フォルンの死亡記録。
十二年前の旧第六記録工房事故報告。
イーダ=メルクの生存証言。
「これは、一人の犯罪者だけが作った問題ではありません」
モルガは言った。
「オルドは、制度と機械を殺人へ利用した。しかし。利用できる構造を作り。過去の異常を調べず。正式稼働を急いだ責任は、彼一人のものではない」
「その発言を議事録へ残せば」
取締役が声を低くする。
「商会は、自ら過失を認めることになります」
「残してください」
「市政との契約を失うかもしれない」
「再審査を受けます」
「何万人の雇用があると思っているのです」
モルガの目が、わずかに細くなった。
「数えています」
「ならば――」
「数えたうえで、止めます」
市政官が、机へ両手を置いた。
「都市は止まれない」
その言葉に。
モルガの視線が止まった。
鉄道敷設へ反対する地主へ。
工房統合を拒む組合へ。
記録機械を恐れる官僚へ。
かつて。
彼女自身が、何度も向けてきた言葉だった。
一人の不幸で。
千人の明日を止めることはできない。
その正しさを。
彼女は疑わなかった。
長机の上には。
死ぬ前に届いた死亡記録がある。
「ええ」
モルガは静かに答えた。
「そう言い続けてきました」
「ならば」
「だからこそ」
椅子から立ち上がる。
「自分の手で止めます」
*
モルガは昇降機を使わず。
中央階段を、一階ずつ下りていった。
取締役。
市政官。
レオン。
ミラベル。
グレアム。
エドガー。
その後ろを。
記録官と商会技師が続く。
契約照合層。
銀行・保険記録層。
病院・警察照会層。
鉄道・雇用記録層。
階段を下るほど。
壁を走る真鍮管は太くなる。
《レギストラ》は停止している。
それでも。
冷えた金属が収縮し。
弁の内側で蒸気が水へ戻り。
塔のあちこちから、小さな軋みが聞こえていた。
機械が。
再び動く時を待っているように。
*
主弁室は、中央機関の地下にあった。
円形の石室。
天井を貫く、太い蒸気管。
その根元に。
人の背丈を超える赤銅色の弁輪がある。
《レギストラ》へ送られる主蒸気を。
物理的に断つための弁だった。
事故後。
主動力は止められている。
ただし。
緊急再起動に備え、主弁そのものは待機位置に残されていた。
ベアトリス=カルムが。
弁輪の前で、モルガを待っていた。
「閉鎖すれば」
彼女は言った。
「再加圧の前に、全配管の検査が必要です」
「承知しています」
「弁軸が冷え切れば、部品交換も必要になります」
「交換してください」
「正式稼働は」
「延期します」
ベアトリスは、弁輪へ手を掛けた。
「私が閉めます」
「いいえ」
モルガは作業上着の袖を上げた。
両手には。
エリアスの救出作業で負った傷が残っている。
「総帥がする作業ではありません」
「この機械を動かすと決めたのは、私です」
「設計したのは私です」
「補助凝縮管を止めなかった責任を、一人で背負わないでください」
ベアトリスの顔が強張る。
「あなたは、停止命令に背きました」
モルガは続けた。
「その責任は、別に問います」
慰めではない。
免罪でもない。
「しかし。機械を守ろうとした判断を、殺人へ利用されたことと。殺人を命じたことは、同じではありません」
ベアトリスは何も言えず。
弁輪から一歩下がった。
*
モルガは。
工具掛けから、長い回転棒を取った。
弁輪の穴へ差し込み。
両手で握る。
体重を掛けると。
長く全開位置へ固定されていた弁が、低く軋んだ。
最初の一歯が動く。
技師が近づこうとした。
「必要になったら呼びます」
モルガは短く言った。
もう一度。
回転棒へ肩を入れる。
弁輪が回り。
内部の閉鎖板が、主蒸気管へ入っていく。
「まだ取締役会の決議は終わっていません!」
後方から声が上がった。
「基幹設備を長期停止する権限は――」
「緊急安全規定により」
エドガーが答えた。
「中央記録庁は、再検証が終わるまで再稼働を許可しない」
「では、庁の命令だと?」
「違います」
回転棒を握ったまま。
モルガが振り返った。
「これは、私の命令です」
「下請け工房が止まる」
「補償します」
「鉄道局との契約違反になる」
「再交渉します」
「株主は納得しない」
「説明します」
「都市全体へ損失が――」
「壊れた歯車を回し続けることを」
モルガは言った。
「運転とは呼びません」
石室が静かになった。
彼女は弁輪へ向き直る。
最後の抵抗を越え。
回転棒を押し下げた。
弁軸の奥から。
深い金属音が響く。
表示針が。
全開から、完全閉鎖へ移った。
「主弁閉鎖、確認」
ベアトリスが言う。
記録官が時刻を書き留めた。
モルガは回転棒から手を離す。
薄い包帯へ。
わずかに血が滲んでいた。
*
「これで責任を取ったつもりか」
レオンが尋ねた。
取締役と市政官が退出したあと。
主弁室には。
レオン。
ミラベル。
グレアム。
エドガー。
モルガ。
ベアトリスが残っていた。
「いいえ」
モルガは答えた。
「機械を止めただけです」
「十二年前の記録が封鎖されていたことを」
レオンは言った。
「本当は知っていたな」
ベアトリスがモルガを見る。
グレアムの目が険しくなる。
「ええ」
モルガは認めた。
「事情聴取では、知らないと答えた」
「封鎖された内容を知らなかった、と答えるべきでした」
「言葉で逃げるな」
「逃げません」
モルガは。
包帯へ滲んだ血を見た。
「記録が封鎖されていることは知っていました。父の代の事故です。遺族補償と責任処理のためだと説明されていた」
「開こうと思わなかったのですか」
ミラベルが尋ねた。
「思いませんでした」
それが。
最も重い答えだった。
「なぜですか」
「解決済みだと考えていたからです」
「誰の報告で」
「オルドの」
停止した機械の奥で。
冷えた金属が鳴った。
「彼は父の代から商会を支えていた。事故対応も、補償も。私より詳しかった」
「だから信じた」
レオンが言う。
「ええ」
「違うな」
モルガが顔を上げた。
「信じたかった」
彼女は否定しなかった。
「記録を開けば」
レオンは続ける。
「商会の過去に。責任を負わなければならないものが残っているかもしれなかった」
「そうです」
「《レギストラ》計画を進めるには、十二年前の事故が解決済みであるほうが都合がよかった」
「そうです」
「都市を守るためか」
「いいえ」
モルガは。
自分で閉じた主弁を見た。
「商会と。自分の計画を守るためです」
オルドと同じではない。
彼女は死亡閉鎖を命じていない。
非常索へ細工もしていない。
エリアスを殺してもいない。
だが。
見なかった。
開かなかった。
信頼という言葉を使い。
都合の悪い記録を、封鎖されたままにした。
「無罪ではないぞ」
グレアムが言った。
「ええ」
「刑事責任があるかは、これから調べる」
「すべて提出します」
「商会に不利な記録も?」
「封鎖記録を含めて」
「取締役が止める」
「止めさせません」
グレアムは、しばらくモルガを見た。
「今度は」
低く言う。
「本当に、止める側へ立つんだな」
モルガは答えなかった。
閉じた主弁が。
代わりに、その答えを示していた。
*
十二年前の事故記録は。
中央記録塔の地下保管庫へ移されていた。
鉄扉。
三重錠。
封印札。
表面には。
――旧第六記録工房事故。
――処理完了。
と記されている。
「処理完了」
ミラベルが読んだ。
「誰にとってでしょう」
「商会にとってです」
モルガは答えた。
「少なくとも。私は、そう受け取りました」
三つの鍵が使われる。
ブラス重工商会。
市警。
中央記録庁。
最後に。
モルガが封印札を切った。
乾いた音。
十二年間。
開かれなかった扉が動く。
保管庫には。
灰色の文書箱が並んでいた。
事故報告。
死亡閉鎖票。
救助記録。
補償契約。
薬品照会。
職員名票。
四人分の人生が。
整理番号を付けられ。
終わったものとして、棚へ置かれていた。
「事故記録を公開します」
モルガが言った。
「個人情報の保護が必要だ」
エドガーが答える。
「イーダの現在の名と、居場所は伏せます」
ミラベルが言う。
「事故と死亡閉鎖の事実は?」
「公開します」
モルガは、一つ目の文書箱へ手を掛けた。
「それだけではありません。ブラス重工製の旧記録機械を導入した全施設へ、過去の死亡閉鎖記録の再点検を求めます」
「範囲は広い」
「承知しています」
「時間も損失も出る」
「それも承知しています」
「市政官は、混乱を恐れる」
「混乱は起きるでしょう」
「それでも開くのか」
「それを理由に」
モルガは答えた。
「もう一度、閉じるつもりはありません」
*
保管庫の外。
小さな記録卓へ。
一枚の申立票が置かれた。
氏名。
――イーダ=メルク。
現在状態。
――死亡。
異議内容。
――本人の生存確認。
再審理由。
――遺体照合記録なし。
――死亡後の薬品購入記録あり。
――本人証言および身体的特徴の一致。
記録官が、署名欄の前で手を止めた。
「申立人は」
「ブラス重工商会」
モルガが答える。
「事故記録を提出した側として。記録訂正と、生存再審手続の開始を求めます」
「本人の同意が必要です」
「もちろんです」
「現在の氏名を提出しなければ、通常の照合ができません」
「現在の名は」
ミラベルが言った。
「本人が同意するまで、記録庁の外へ出しません」
「例外処理になります」
記録官がエドガーを見る。
「例外ではない」
エドガーは答えた。
「死亡したことにされた本人が、生存を申し立てている。制度が想定すべき事案だ」
「ですが、現行書式では」
「書式が足りないなら、補足票を作れ」
記録官の手が止まる。
「生きている人間を、書式へ合わせるな」
エドガーは言った。
「書式を、人間へ合わせろ」
ミラベルが思わず彼を見る。
レオンも、わずかに眉を上げた。
エドガーは。
二人の視線へ気づいていたが、説明しなかった。
新しい補足票が出される。
本人証言の保護。
現在の氏名の非公開。
未確定事項。
照合を必要とする記録。
一つずつ。
空欄が埋められていく。
「死亡取消ではありません」
ミラベルが言った。
「ええ」
モルガが答える。
「彼女は、死者から生き返るのではない」
署名欄へ。
自分の名を書く。
モルガ=ブラス。
かつて。
父の代の事故を解決済みとして受け取った名。
今。
その記録を開く責任者として。
「最初から生きていたと認めるための手続です」
本物の総帥印は。
まだ警察の証拠として保管されている。
そのため。
一人の権力者の印の代わりに。
市警。
中央記録庁。
ブラス重工商会。
三者の立会署名が、申立票へ並んだ。
*
手続を終えたあと。
モルガは、中央機関の前へ戻った。
《レギストラ》は暗い。
表示板にも。
生者照合板にも。
誰の名も出ていない。
都市の人間を、一人残らず数えるために作られた機械が。
今は。
何も数えていなかった。
「惜しいですか」
ミラベルが尋ねた。
「何が?」
「十年以上かけた計画を、止めることが」
「惜しいですよ」
モルガは即答した。
「私の人生の大半です」
「それでも延期した」
「動かせば」
暗い表示板を見上げる。
「次に記録から外される人間がいるかもしれないと、私は知っていることになる」
ミラベルは手帳を開いた。
「その言葉も記事にします」
「どうぞ」
「商会に不利です」
「知っています」
「責任から逃げない人として、よく見えるかもしれません」
モルガが、ミラベルを見る。
「私を善人に書かないでください」
静かな声だった。
「私は、十二年前の記録を開かなかった」
「はい」
「エリアスへ監査を依頼しながら。彼が何を見つけたのか、公開試験を止めるほど深くは聞かなかった」
「はい」
「機械が都市を良くすると信じ。その前提を守るために、見ないものを選びました」
ミラベルは手帳へ鉛筆を置いた。
「そのまま書きます」
「お願いします」
「でも」
停止した主機を見る。
「主弁を閉じたことも書きます」
モルガは何も言わない。
「責任を取ったとは書きません」
「ええ」
「責任を取り始めた、と書きます」
真鍮夫人は。
長いあいだ。
暗い表示板を見つめていた。
「それなら」
やがて答える。
「事実です」
*
塔を出ると。
ヴェルム=クロウは動いていた。
高架鉄道が走り。
工房の煙突から煤煙が上がり。
病院の搬入口へ蒸気車が着き。
新聞売りが、朝刊を抱えて通りを駆ける。
《レギストラ》が止まっても。
都市は止まっていない。
不便は生じる。
遅れも。
損失も。
人の手で照合し直さなければならない記録も増える。
それでも。
人々は、自分の足で動いていた。
「都市は止まれない」
ミラベルが呟く。
レオンが隣を歩く。
「止まらないことと」
前を見たまま答えた。
「止めてはいけないことは違う」
「歯車を一つ止めても、都市は動く」
「歯車のために、都市があるわけじゃない」
「人間のために?」
「そうでなければ」
レオンは言った。
「何を数える機械なのか分からない」
ミラベルは、中央記録塔を振り返った。
屋上の圧力調整羽根は止まり。
外壁を走る気送管にも、記録筒の影はない。
巨大な時計の下。
モルガ=ブラスが。
塔の入口へ立っている。
取締役。
市政官。
技師。
労働者。
記者。
これから。
自分へ責任を求める者たちを。
逃げずに迎えるために。
止まった歯車の前へ。
自分の名を残していた。




