第11節 ― 都市が従った命令
中央記録塔の正面扉には。
三本の封鎖帯が渡されていた。
市警。
ヴァルテリア中央記録庁。
ブラス重工商会。
異なる印章を持つ三者が。
互いを信用していないことを示すように。
同じ扉を、別々に閉じている。
グレアムが警察印を切り。
エドガーが記録庁の封を解く。
最後に。
モルガ=ブラスが、自ら商会印の紐を外した。
「再稼働ではありません」
真鍮夫人は、扉へ手を掛けたまま言った。
「事故原因を確認するための閉鎖試験です。外部端末との接続は戻しません。主蒸気弁も開かない。試験終了後、《レギストラ》は再び停止します」
「誰へ説明しとる」
グレアムが尋ねた。
「ここにいる全員へ」
モルガは答える。
それから。
扉の向こうにある巨大な機械を見た。
「この機械へも」
扉が開く。
冷えた金属。
機械油。
まだ完全には抜けていない蒸気。
事故の夜と同じ匂いが、塔の内部から流れ出した。
*
公開試験室は。
ほとんど、あの夜のままだった。
半円形の見学台。
中央を貫く真鍮柱。
戸籍。
雇用。
鉄道。
病院。
銀行。
保険。
警察。
死亡。
各記録系統の表示板は、すべて消えている。
床には、警察の番号札。
エリアスが死亡記録を読んだ場所。
リナが紙を受け取った場所。
オルドが停止作業を指揮していた場所。
人間の代わりに。
小さな数字だけが、そこへ残されていた。
記録筒室へ続く通路には。
木製の人形が置かれている。
胴体には、人間とほぼ同じ重さになるよう砂袋。
関節には鉄棒。
顔には。
何も描かれていない。
「顔くらい付けられなかったの?」
ベアトリス=カルムが言った。
作業服姿の目元には。
眠っていない者の濃い影がある。
「必要か」
グレアムが聞き返す。
「必要ではないけど、気分が悪いわ」
「人間を入れるよりましだ」
「それはそう」
ベアトリスは、人形から目を逸らした。
その背後。
黒い硝子の生者照合板には。
まだ、誰の名も表示されていない。
差入口の前には。
一枚の複製職員名票鍵が置かれていた。
表面の穿孔は。
事故当夜、エリアスが使ったものと同じ。
ただし。
外部の戸籍や銀行へ影響を与えないよう。
中央記録塔内の隔離試験記録だけへ接続されている。
刻まれた名は。
――エリアス=フォルン。
ミラベルは。
その文字を見ただけで。
蒸気に曇った確認窓を思い出した。
「別の名前では、駄目だったんですか」
「機構を動かすだけなら、誰の名でもいい」
レオンが答えた。
「だが、事故と異なる穿孔を使えば。名票が違ったから結果が変わった、と言い逃れられる」
「だから、同じ名前を」
「ああ」
本人は。
もういない。
名前だけが。
死後もなお。
もう一度、機械へ差し込まれようとしていた。
*
試験へ立ち会う者は、制限されていた。
レオン。
ミラベル。
グレアム。
エドガー。
モルガ。
ベアトリス。
オルド=ガルム。
ノクス=モリアン。
リナは、エリアスの監査記録を抱え。
見学台の端へ立っている。
人形を見ず。
生者照合板だけを見ていた。
作業員は三名。
市警の機械鑑定官が二名。
実際の蒸気が流れないよう。
補助凝縮管の弁には、太い鉄棒が通されている。
「これが外れんかぎり、蒸気は入らん」
グレアムが自分の手で固定を確かめた。
「洗浄弁が開いても、動くのは閉鎖歯車と表示機構だけです」
ベアトリスが答える。
「圧力扉は」
「十センチで止めます」
「何があってもだ」
「分かっています」
「分かっとる者が、補助管を残した」
ベアトリスの顔が強張る。
「責任の追及は、試験後にしてください」
モルガが言った。
「忘れさせんためだ」
「忘れる者は、ここにいません」
モルガの声は低かった。
グレアムは何も返さず。
鉄棒を、もう一度強く押した。
*
「開始します」
ベアトリスが主操作盤へ立つ。
左右には。
市警の鑑定官と、中央記録庁の技師。
一人の判断だけで、操作できない配置だった。
オルドは。
運用卓へ近づくことを許されていない。
少し離れた場所で。
両腕を背後へ組み、無表情に見守っている。
「隔離試験記録を起動」
記録庁の技師が確認票へ署名する。
「対象番号。試験記録・フォルン号」
警察鑑定官が読み上げる。
「状態。生存」
「職員名票鍵を挿入します」
ベアトリスが、複製名票を差入口へ入れる。
薄い真鍮票が半分ほど飲み込まれ。
内部の歯が穿孔を読んだ。
かち。
かち。
黒い硝子板へ。
白い文字が浮かび上がる。
――エリアス=フォルン。
――生存。
――記録筒室・入室確認。
リナが、小さく息を呑んだ。
事故の夜と。
同じ表示だった。
「名票鍵、読取り正常」
ベアトリスが言う。
「在室遮断は」
グレアムが尋ねる。
「作動しています」
生者照合板の下。
赤い表示窓には。
――自動工程禁止。
作業員が、木製人形を記録筒室へ運び込む。
エリアスが保守索引を調べていた位置へ立たせ。
鉄扉は開いたままにする。
「洗浄工程を待機状態へ」
ベアトリスが操作鍵を回した。
記録庁の技師が。
二分後に発効する試験用洗浄命令票を差し込む。
主動力は使わない。
命令を読む制御歯車だけを。
手回しの補助軸で動かす。
「回します」
作業員が回転棒を押した。
歯車が噛み合い。
自動洗浄機構へ命令が送られる。
だが。
圧力扉は動かなかった。
洗浄弁も、閉じたまま。
操作盤の警告鈴が鳴る。
――在室者あり。
――工程停止。
「止まりました」
ミラベルが言った。
「生存中の職員がいると照合されたためです」
ベアトリスが答える。
「人形を見たわけじゃない」
レオンが言う。
「重さも、熱も、呼吸も測っていない」
「名票鍵と、中央記録を照合した」
ミラベルが続ける。
「そこで生存中と判断されたから、洗浄が止まった」
「ああ」
「機械は、身体ではなく」
「名の状態を見ている」
ノクスが答えた。
黒檀の杖へ両手を重ね。
生者照合板を眺めている。
「実に忠実な安全装置です」
「誰に対して忠実かが問題だ」
レオンの声は冷たかった。
*
最初の洗浄命令が無効化された。
生者照合板には。
エリアスの名が残っている。
ベアトリスが、次の命令票を持ち上げた。
左端に。
将来発効記録を示す、三つの穿孔。
事故当夜の死亡記録と。
同じ位置にある。
「予備死亡閉鎖命令」
グレアムが読み上げる。
「対象。試験記録・フォルン号」
「発効時刻、午前八時四十分」
ミラベルが時計を見る。
あと二分。
「事故当夜と同じく、発効前の試験表示を有効にします」
命令票が保守筒へ入れられた。
補助軸が回る。
穿孔を読む乾いた音。
その直後。
中央印字機が動いた。
がしゃん。
一文字。
がしゃん。
また、一文字。
白い紙が。
排出口から送り出される。
内容を知っていても。
ミラベルの胸が、強く締めつけられた。
死亡記録。
氏名。
――エリアス=フォルン。
死亡時刻。
――午前八時四十分。
死因欄には。
検証記録を示す横線だけが引かれている。
「本人が死ぬ前に、死亡記録が出た」
リナが呟いた。
「事故の夜と同じです」
「未来を予言したわけじゃない」
レオンが言う。
「将来発効命令を、先に表示しただけだ」
「名前は、まだ残っています」
生者照合板には。
――エリアス=フォルン。
――生存。
紙は出た。
だが。
命令は、まだ効力を持っていない。
「事故当夜も」
ミラベルが言った。
「午後十時三十一分に死亡記録が印刷された。でも、午後十一時十分までは、生者のままだった」
「ああ」
「なら、どうして発効前の紙を見える場所へ出したんですか」
「通常、予備死亡閉鎖を一般出力へ送る必要はない」
エドガーが答えた。
「事故当夜の命令には、試験表示が指定されていた」
「誰かが、わざと本人へ見せた」
リナが顔を上げる。
「エリアス監査官なら、自分で入力元を調べに行きます」
その声には。
悔しさが混じっていた。
「機械の異常を、ほかの人へ任せない」
「犯人は、それを知っていた」
グレアムが言う。
「死亡記録は、あいつを記録筒室へ誘い込む罠だった」
*
壁時計が。
発効時刻へ近づく。
複製名票鍵は、差されたまま。
生者照合板には、名がある。
木製人形は、記録筒室の中央。
自動洗浄命令は待機状態。
ただ。
生者照合によって、実行を止められている。
「全員、表示を見て」
ベアトリスが言った。
声が。
わずかに震えていた。
午前八時四十分。
大時計の長針が動く。
生者照合板の文字が。
音もなく消えた。
最初に。
――生存。
次に。
――記録筒室・入室確認。
最後に。
――エリアス=フォルン。
名票鍵は、差されたまま。
木製人形も。
同じ場所にある。
だが。
黒い硝子板は空白へ戻った。
下部の赤い表示も消える。
――自動工程禁止。
代わりに。
琥珀色の文字が浮かんだ。
――在室者なし。
機械の内部で。
連結棒が動く。
かちり。
安全装置の遮断爪が外れた。
「洗浄工程」
ベアトリスが言う。
「待機解除」
誰も操作棒には触れていない。
事前に設定された命令だけが。
時刻に従って進んでいく。
閉鎖歯車が動いた。
ごり。
圧力扉が。
木製人形を中へ残したまま閉じ始める。
「止めろ」
グレアムが命じた。
作業員が、鉄製の停止具を落とす。
扉は十センチ動いたところで。
大きな音を立てて止まった。
それでも。
洗浄弁の表示器は。
閉鎖から開放へ移りつつある。
補助凝縮管へ通じる機械腕が動き。
鉄棒で固定された弁へ、力を掛ける。
金属同士が軋んだ。
もし。
弁が固定されていなければ。
蒸気が記録筒室へ流れ込む。
事故の夜と。
同じように。
「試験停止!」
ベアトリスが制御票を抜く。
警察鑑定官が、非常停止杆を下げた。
歯車の回転が止まる。
中央記録塔へ。
重い沈黙が落ちた。
*
人形は。
最初から最後まで。
記録筒室の中に立っていた。
名票鍵も、一度も抜かれていない。
変わったのは。
中央記録にある名の状態だけだった。
「方法は証明できた」
レオンが言った。
試験用の死亡記録を持ち上げる。
「この紙は、未来を知らせるための文書ではない」
記録筒室。
空白の生者照合板。
開こうとした洗浄弁。
それらを、順に見る。
「エリアスを入力元のある部屋へ誘い込み。指定時刻に生者照合から外し。待機していた洗浄工程を動かす」
「殺人命令だった」
グレアムが言った。
レオンは短く答える。
「人間を、殺人機械へ渡すための命令だ」
それ以上の説明は必要なかった。
木製人形は。
何も変わらず、同じ場所に立っている。
それでも機械は。
生者と記されたときには守り。
死者の側へ移されたときには。
中に誰もいないものとして、扉を閉じた。
*
エドガーが。
封印された保守命令票を、証拠台へ置いた。
事故当夜。
中央保守系統へ投入された命令。
将来発効の穿孔。
死亡閉鎖。
試験表示。
自動洗浄の時刻指定。
右下には。
中央記録庁で、すでに読み取った運用番号が残されている。
――《B―0》。
「同じ番号です」
ミラベルが言った。
中央記録庁で見た保守命令索引と。
目の前の命令票。
二つの穿孔は一致していた。
オルドが。
ほんのわずかに姿勢を変えた。
背後で組んでいた右手が。
左の手首を強く掴む。
「改めて聞く」
グレアムが言った。
「《B―0》は何の番号だ」
「ブラス零号機」
オルドは答えた。
声は落ち着いている。
「旧試作機系統を示す機械番号です」
「《レギストラ》は零号機ではない」
「保守構文に、旧系統の番号が残ることがあります」
「私は、この表記を使いません」
ベアトリスが言った。
命令票から目を離さない。
「現行の設計資料にも、《B―0》を機械番号とする定義はない」
「若い技師は、使わないでしょう」
「では、どの運用記録に残っているんです」
「旧保管庫を調べれば見つかります」
「調べる前から、よく知っているんですね」
グレアムの声が低くなる。
「記憶に基づいて説明しています」
「十二年前のことを、ずいぶんよく覚えとる」
オルドは黙った。
モルガは。
父の代から仕えてきた古参の男を見つめていた。
疑い。
拒絶。
それでも。
証拠より先に結論を出してはならないと、自分へ命じる硬さ。
すべてが。
ほんの一瞬だけ。
その目に現れた。
「《B―0》は、犯人の名前ですか」
リナが尋ねる。
「まだ違う」
レオンが答えた。
「運用番号が二つの記録へ残った。それだけだ」
「オルドさんは、機械番号だと」
「そう説明した」
「信じるんですか」
「記録と照合する」
「何の記録と?」
レオンは。
事故当夜の命令票から。
十二年前の旧第六記録工房事故報告へ視線を移した。
「この番号が、過去に誰のために使われていたか」
*
試験用の死亡閉鎖が解除された。
生者照合板へ。
白い文字が戻る。
――エリアス=フォルン。
――生存。
――記録筒室・入室確認。
木製人形は。
名が消える前も。
消えたあとも。
同じ場所に立っていた。
違っていたのは。
都市が。
その身体を、どちら側へ数えたかだけだった。
「機械は、間違えたんでしょうか」
ミラベルが尋ねる。
レオンは、戻った名を見上げた。
「機械だけを見れば。命令どおりに動いた」
「正しく動いた」
「ああ」
「正しく動いて、人を殺した」
「だから」
レオンは。
《B―0》の穿孔が残る命令票を見た。
「命令した人間を見つける」
中央記録塔は。
未来を見ていなかった。
死を予言してもいなかった。
人間が置いた時刻を読み。
人間が選んだ名を閉じ。
人間が用意した洗浄工程を始めた。
ただ。
従っただけだった。
そして。
その命令には。
名前の代わりに。
《B―0》という番号が残されていた。




