↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
59/228

第8節 ― 十二年前に死んだ女

 白紙街には、住所がなかった。


 道も。


 家も。


 そこに暮らす人間も存在している。


 ただ。


 それらを都市の制度へ結びつける番号がない。


 石段の脇へ煤で書かれた印。


 割れた煉瓦へ刻まれた矢印。


 軒下に結ばれた色違いの布。


 中央記録庁の地図では空白になっている街を。


 住民たちは、自分たちだけが読める記号で歩いていた。


     *


 朝の煤霧が、高架線の下へ溜まっている。


 始発の貨物列車が通るたび。


 鉄橋から落ちた煤が、細かな雨のように降った。


 ミラベルは帽子の鍔を押さえ、リュシアン=アストのあとを追った。


 倒壊した工房の脇。


 湯気を吐く排水溝。


 木箱と煉瓦壁の隙間。


 リュシアンは迷わず、道には見えない場所へ入っていく。


「本当に、こちらですか」


「二度目ですね」


「数えていたんですか」


「古書商は、客が同じ質問を何度したか覚えています」


「答えを変えるために?」


「値段を変えるために」


「今は買い物ではありません」


「なら、答えも変わりません。こちらです」


 彼は、壁へ掛けられた古い鉄輪の手前で曲がった。


 ミラベルの胸元には。


 リナが最後に渡した一枚の所在覚えがある。


 ――白紙街。


 ――旧廃液渠沿い。


 ――左腕に蒸気火傷。


 ――左耳、聴力なし。


 ――十二年前の名、イーダ=メルク。


 現在の名前は記されていない。


 必要なのは。


 今、その人が使っている名ではなかった。


 十二年前に。


 都市が死者として閉じた名だった。


     *


 リュシアンが足を止めた。


 使われなくなった蒸気乾燥所。


 屋根の半分は崩れ。


 窓には板が打ちつけられている。


 扉に名札も番号もない。


 横へ、白い布が二つ折りに結ばれていた。


 リュシアンは扉ではなく、石段を杖で叩く。


 二度。


 間を置いて、一度。


「役人ではない、という合図です」


 内側で。


 何かが床を擦った。


「誰」


 低い女の声。


「アスト古書堂の者です」


 返事はない。


「フォルン氏から預かった話があります」


「帰って」


「彼は帰れません」


 リュシアンの声は静かだった。


「昨夜、亡くなりました」


 扉の向こうで。


 小さな金属音がした。


     *


 開いた隙間から。


 濃い灰色の片目が、二人を見た。


「警察?」


「違います」


 ミラベルが答える。


「新聞記者です」


 扉が閉じかけた。


「もっと悪い」


「そう思われるのは分かります」


「分からない」


「名前を書かれて、困ったことが?」


「名前を書かれたことがない」


 隙間が細くなる。


「書かれた名前は、もう死んでるから」


 ミラベルは扉へ手を掛けなかった。


「イーダ=メルクさん」


 扉が止まる。


「その名前の人へ、話を聞きに来ました」


「いない」


「十二年前に亡くなっています」


「なら墓へ行けばいい」


「墓には、何も埋まっていません」


 高架線の上を、列車が通過した。


 振動で扉がかすかに揺れる。


「誰に聞いたの」


「エリアス=フォルンさんです」


「死んだって言った」


「はい」


「私を見つけたから?」


「まだ分かりません」


 ミラベルは、扉の向こうの目を見た。


「あなたを見つけたことが、狙われた理由かもしれない。でも、あなたの証言だけで、今夜の殺人犯を決めるつもりはありません」


「新聞記者が?」


「証拠のない名前を書けば、その人も紙の上で犯人になります」


 沈黙のあと。


 扉が、人一人通れる幅まで開いた。


「入って」


     *


 室内には。


 小さな暖炉。


 簡素な寝台。


 欠けた食器。


 撤去された乾燥機の跡へ、板壁を継ぎ足して作った生活があった。


 女は、右耳を二人へ向けて立つ。


 ドワーフ族。


 白髪の混じった髪。


 厚手の灰色い上着。


 左腕の袖だけが、手の甲近くまで伸びていた。


 ミラベルが左側から話しかける。


 反応はない。


「ワトリアさん」


 リュシアンが言う。


「右へ」


 ミラベルは位置を変えた。


「左耳が」


「聞こえない」


 女は自分で答えた。


 左袖をまくる。


 手首から肘まで。


 皮膚が大きく引きつれていた。


 古い蒸気火傷。


 十二年経っても。


 熱が通った形を残している。


「これで満足?」


「確認の一つです」


 ミラベルは正直に答えた。


 火傷。


 左耳の聴力。


 エリアスが残した特徴と一致する。


 だが。


 身体的特徴だけで。


 彼女がイーダ=メルク本人だとは断定できない。


 リュシアンが古い木箱を机へ置いた。


「フォルン氏が、私の店へ残した照会記録です」


 中には。


 十二年前の薬品購入記録の写しが入っていた。


 事故の三日後。


 蒸気火傷用軟膏。


 鎮痛剤。


 化膿止め。


 受取人。


 ――イーダ=メルク。


 女の表情が消えた。


「覚えていますか」


 ミラベルが聞く。


「現場の医者が持ってきた」


「あなたのために?」


「ほかに、あれだけ焼けた人はいなかった」


「正式記録では、その時点でイーダ=メルクは死亡しています」


「知ってる」


「それでも薬が買われた」


「転記間違いってことになった」


「でも」


 ミラベルは記録と、女の左腕を見た。


「事故後に、イーダ=メルクのための薬が必要だった」


 女の右手が。


 紙へ触れかけ。


 途中で止まる。


「紙には、間違いだって書いてある」


「紙のほうが間違っています」


「役所へ言えば、証拠を出せって言われる」


「だから、証拠を集めています」


「十二年前にも、そう言われた」


 リュシアンが。


 薬品記録の端を、傷つけないよう整えた。


「イーダさん」


 彼は、現在の名前を尋ねなかった。


「フォルン氏は、あなたの証言を報告書へ残すつもりでした」


「頼んでない」


「ええ」


「生き返りたいとも言ってない」


「死んでいません」


「紙では死んでる」


「紙のほうが誤っている」


 女の顔に、初めて怒りが浮かんだ。


「紙は間違っても困らない」


 焼けた左腕の袖を、右手で掴む。


「困るのは人間だけ」


 ミラベルは。


 すぐには答えられなかった。


     *


「事故の夜について、聞かせてください」


「嫌」


「エリアスさんを殺した者へ、つながる可能性があります」


「話したら、また記録にされる」


「はい」


 ミラベルは手帳を持ったまま答えた。


「新聞も紙です。私が書いたことで、あなたが傷つくこともあります」


 女は、少し意外そうに彼女を見る。


「今の名前と、ここでの暮らしは書きません。居場所も、あなたが許可するまで公表しない」


「十二年前のことは?」


「隠しません」


「勝手ね」


「はい」


「正直に言えば許されると思ってる?」


「思っていません」


 長い沈黙。


 やがて。


 女は暖炉前の椅子へ座った。


「聞くだけ聞いて」


     *


 十二年前。


 ブラス重工旧第六記録工房で、圧力式記録筒の試験が行われた。


 作業員は四人。


 イーダ=メルクも、その一人だった。


「最初に床が跳ねた」


 イーダは暖炉の火を見ながら言った。


「次に扉が閉じた。蒸気で、何も見えなくなった」


「左耳は、そのときに?」


「何かが爆ぜた。そこから聞こえない」


「救助は来ましたか」


「最初は」


 短い返答だった。


「扉の向こうで、鉄を叩く音がした。四人いるって叫んでた。名前も呼ばれた」


「そのあと?」


「音が止まった」


「救助が?」


「扉の外に、人がいた音が消えた」


 イーダの右手が、椅子の縁を強く握る。


「二人は、もう動かなかった。もう一人も返事をしなくなった」


「どうやって外へ」


「廃液渠」


 工房の汚水を外へ流すための狭い管。


 圧力で外蓋が外れ。


 人がようやく這える隙間ができていた。


「左腕の皮が張りついてた」


 イーダは火傷を見なかった。


「引けば剥がれた。だから引いた」


 ミラベルの鉛筆が止まりかける。


「一人で?」


「ほかは連れていけなかった」


 慰める言葉を。


 ミラベルは飲み込んだ。


「外へ出たあと、医師に見つかった?」


「排水溝で倒れてた。あの人が引き上げた」


「病院には」


「行けないと言われた」


「誰に?」


 イーダは。


 初めてミラベルの手帳を見た。


 書かれることを恐れながら。


 書かなければ、また消えると知っている目だった。


「オルド=ガルム」


 名前が、狭い部屋へ落ちた。


「当時の工房責任者?」


「そう」


「何と言われましたか」


「私は、もう死んでるって」


 イーダの声は平らだった。


「四人とも死亡閉鎖された。補償も処理も始まってる。今さら生きてると言えば、死者の名で金を取る詐欺になるって」


「補償金は受け取っていない」


「家族へ払ったことになってた」


「家族へ連絡は?」


「するなと言われた」


「なぜ」


「私が生きてたと訴えれば、家族も事故隠しの共犯にするって」


「そんな権限は」


「本当にできるかなんて知らない」


 イーダは吐き捨てるように言った。


「できるって信じさせれば、同じでしょう」


 オルドは。


 偽名と少額の金を渡し。


 イーダを白紙街へ送った。


 過去の名を使わなければ。


 誰にも見つからない場所へ。


「それから十二年?」


「そう」


「オルドさんと再び会ったことは」


「ない」


「連絡も?」


「ない」


 ミラベルは、ここで一度鉛筆を止めた。


「今の証言で分かるのは」


 イーダが険しい顔を向ける。


「何」


「十二年前。オルド=ガルムが、あなたの生存を隠し、白紙街へ送ったということです」


「それだけ?」


「エリアスさんの殺害まで証明するには、今夜の命令とオルドさんを結ぶ証拠が必要です」


「庇うの」


「違います」


 ミラベルは手帳を閉じなかった。


「あなたが生きていることは、十二年前の記録を崩します。でも、現在の殺人犯まで、証拠なしに同じ名前へ置くことはできません」


「証拠」


「はい」


「私が生きてるだけじゃ足りない?」


「十二年前の事件を開くには、十分です」


 イーダは不満そうに顔を背けた。


 それでも。


 少しだけ。


 その答えを受け入れたように見えた。


     *


「もう一つあります」


 リュシアンが、木箱から古い羊皮紙を取り出した。


 古いエルフ式の境界台帳。


 その横へ。


 十二年前の死亡閉鎖記録の写しを置く。


 人名の脇に。


 よく似た記号があった。


 中央の縦線。


 それを囲む、二本の半円。


「同じ印です」


 ミラベルが言う。


「形は、ほぼ同じです」


 リュシアンの指が、羊皮紙の記号へ触れない距離で止まる。


「ただし、意味が違います」


「死亡の印では?」


「現代では、そう読まれています」


「古い意味は」


「中央の線は、人名ではありません。台帳の列です」


 次に。


 それを囲む二本の線。


「これは閉じる囲いではない。別の列へ移す道筋です」


 イーダが、右耳をわずかに彼へ向けた。


「この印は」


 リュシアンが言う。


「森の境界を越えた者。長い旅へ出た者。現在の台帳では所在を確定できない者へ使われました」


「死者ではない」


「ええ」


 彼は、現代の死亡閉鎖記録を示した。


「これは死者の印ではありません」


 普段の柔らかな皮肉が、声から消えていた。


「数える場所を変えた印です」


 ミラベルは、二枚の記録を見た。


「現在の数から外す」


「そして、本来は別の台帳で数える」


「でも、今の制度には」


「移された先がありません」


 リュシアンの口元へ、冷たいものが浮かぶ。


「病院も。銀行も。工房も。救助記録も。その名を、現在の生者から外された者として受け取る」


 ミラベルの中で。


 エリアスの最後の声が戻った。


 ――板には……誰も、いなかった。


 記録筒室には。


 エリアスの身体があった。


 呼吸があり。


 声があり。


 職員名票鍵も差されていた。


 だが。


 生者照合板には、誰の名もなかった。


「誰もいなかったんじゃない」


 ミラベルが呟く。


「何?」


 イーダが聞く。


「エリアスさんは、自分が見えなくなったと言ったんじゃない」


 古い記号を指す。


「数える場所を変えられた」


 リュシアンが目を上げた。


「記録筒室にいる人間を、生者を数える板から外した」


「そう考えるのが自然です」


「十二年前も」


 ミラベルはイーダを見る。


「四人の名が死亡閉鎖され。救助記録から、生きた作業員が消えた」


「私たちは中にいた」


「はい」


「紙が死者にしたから、助けに来なくなった?」


「紙だけでは、人は死にません」


 ミラベルは言った。


「でも、その紙を信じて救助を止めれば、人は死にます」


 イーダは、焼けた左腕を見た。


「昨夜の人も」


「機械が、同じように記録へ従った」


「同じ犯人?」


「同じ構造です」


 ミラベルは、はっきり分けた。


「犯人が同じかどうかは、まだ証明されていません」


     *


「警察へ話すの」


 イーダが尋ねた。


「はい」


「私の今の名前も?」


「書きません」


「ここも?」


「記録しません」


「それで、どうやって証言するの」


「あなたが安全だと思える条件を決めます」


「安全な場所なんてある?」


 ミラベルは答えられなかった。


 リュシアンが口を開く。


「私の店を使ってください」


「古書堂?」


「警察官は一人。あなたの現在の名は伏せたまま。十二年前の証言だけを取る」


「信用しろって?」


「いいえ」


 リュシアンは微笑まなかった。


「信用できるまで、条件を増やしてください」


 イーダは、長く黙った。


「フォルンは」


 暖炉の火を見つめる。


「私を生き返らせるって言った」


「記録を直すと?」


「違う」


 イーダは首を振った。


「死んでなかったことにするって」


 死者を、生者へ戻すのではない。


 最初から生きていた人間を。


 ようやく。


 生きていたと認めさせる。


「エリアスさんは、できませんでした」


 ミラベルは言った。


「でも、記録は残っています」


「私は紙を信用しない」


「それでも」


 ミラベルは。


 薬品記録。


 古い閉鎖記号。


 自分の手帳を見た。


「あなたが生きていたことを、紙にも認めさせなければなりません」


 イーダの右目が、わずかに細くなる。


「あなた、変な記者ね」


「よく言われます」


「誰に」


「主に探偵へ」


 イーダの口元へ。


 ほんの小さな笑みが浮かんだ。


     *


 白紙街を出るころ。


 朝は、煤煙の向こうまで来ていた。


 高架線の下には、夜と変わらない灰色の光しか届かない。


 それでも。


 工房へ向かう人々が動き始め。


 遠くで始業番号機が鳴っている。


 都市は今日も。


 雇用名簿へ載った人数を数え。


 鉄道へ乗った人数を数え。


 病院へ運ばれた人数を数える。


 だが。


 ミラベルの後ろにある小さな部屋では。


 十二年前に死亡したことにされた女が。


 自分の足で立ち。


 外へ出る支度をしていた。


 その女を。


 都市は、まだ数えていない。


 ミラベルの手帳には。


 現在の名前も。


 住所も書いていない。


 ただ。


 一つの事実だけが残されていた。


 ――イーダ=メルクは、生きている。


 死亡記録より。


 十二年遅れて作られた。


 生存の記録だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。