第8節 ― 十二年前に死んだ女
白紙街には、住所がなかった。
道も。
家も。
そこに暮らす人間も存在している。
ただ。
それらを都市の制度へ結びつける番号がない。
石段の脇へ煤で書かれた印。
割れた煉瓦へ刻まれた矢印。
軒下に結ばれた色違いの布。
中央記録庁の地図では空白になっている街を。
住民たちは、自分たちだけが読める記号で歩いていた。
*
朝の煤霧が、高架線の下へ溜まっている。
始発の貨物列車が通るたび。
鉄橋から落ちた煤が、細かな雨のように降った。
ミラベルは帽子の鍔を押さえ、リュシアン=アストのあとを追った。
倒壊した工房の脇。
湯気を吐く排水溝。
木箱と煉瓦壁の隙間。
リュシアンは迷わず、道には見えない場所へ入っていく。
「本当に、こちらですか」
「二度目ですね」
「数えていたんですか」
「古書商は、客が同じ質問を何度したか覚えています」
「答えを変えるために?」
「値段を変えるために」
「今は買い物ではありません」
「なら、答えも変わりません。こちらです」
彼は、壁へ掛けられた古い鉄輪の手前で曲がった。
ミラベルの胸元には。
リナが最後に渡した一枚の所在覚えがある。
――白紙街。
――旧廃液渠沿い。
――左腕に蒸気火傷。
――左耳、聴力なし。
――十二年前の名、イーダ=メルク。
現在の名前は記されていない。
必要なのは。
今、その人が使っている名ではなかった。
十二年前に。
都市が死者として閉じた名だった。
*
リュシアンが足を止めた。
使われなくなった蒸気乾燥所。
屋根の半分は崩れ。
窓には板が打ちつけられている。
扉に名札も番号もない。
横へ、白い布が二つ折りに結ばれていた。
リュシアンは扉ではなく、石段を杖で叩く。
二度。
間を置いて、一度。
「役人ではない、という合図です」
内側で。
何かが床を擦った。
「誰」
低い女の声。
「アスト古書堂の者です」
返事はない。
「フォルン氏から預かった話があります」
「帰って」
「彼は帰れません」
リュシアンの声は静かだった。
「昨夜、亡くなりました」
扉の向こうで。
小さな金属音がした。
*
開いた隙間から。
濃い灰色の片目が、二人を見た。
「警察?」
「違います」
ミラベルが答える。
「新聞記者です」
扉が閉じかけた。
「もっと悪い」
「そう思われるのは分かります」
「分からない」
「名前を書かれて、困ったことが?」
「名前を書かれたことがない」
隙間が細くなる。
「書かれた名前は、もう死んでるから」
ミラベルは扉へ手を掛けなかった。
「イーダ=メルクさん」
扉が止まる。
「その名前の人へ、話を聞きに来ました」
「いない」
「十二年前に亡くなっています」
「なら墓へ行けばいい」
「墓には、何も埋まっていません」
高架線の上を、列車が通過した。
振動で扉がかすかに揺れる。
「誰に聞いたの」
「エリアス=フォルンさんです」
「死んだって言った」
「はい」
「私を見つけたから?」
「まだ分かりません」
ミラベルは、扉の向こうの目を見た。
「あなたを見つけたことが、狙われた理由かもしれない。でも、あなたの証言だけで、今夜の殺人犯を決めるつもりはありません」
「新聞記者が?」
「証拠のない名前を書けば、その人も紙の上で犯人になります」
沈黙のあと。
扉が、人一人通れる幅まで開いた。
「入って」
*
室内には。
小さな暖炉。
簡素な寝台。
欠けた食器。
撤去された乾燥機の跡へ、板壁を継ぎ足して作った生活があった。
女は、右耳を二人へ向けて立つ。
ドワーフ族。
白髪の混じった髪。
厚手の灰色い上着。
左腕の袖だけが、手の甲近くまで伸びていた。
ミラベルが左側から話しかける。
反応はない。
「ワトリアさん」
リュシアンが言う。
「右へ」
ミラベルは位置を変えた。
「左耳が」
「聞こえない」
女は自分で答えた。
左袖をまくる。
手首から肘まで。
皮膚が大きく引きつれていた。
古い蒸気火傷。
十二年経っても。
熱が通った形を残している。
「これで満足?」
「確認の一つです」
ミラベルは正直に答えた。
火傷。
左耳の聴力。
エリアスが残した特徴と一致する。
だが。
身体的特徴だけで。
彼女がイーダ=メルク本人だとは断定できない。
リュシアンが古い木箱を机へ置いた。
「フォルン氏が、私の店へ残した照会記録です」
中には。
十二年前の薬品購入記録の写しが入っていた。
事故の三日後。
蒸気火傷用軟膏。
鎮痛剤。
化膿止め。
受取人。
――イーダ=メルク。
女の表情が消えた。
「覚えていますか」
ミラベルが聞く。
「現場の医者が持ってきた」
「あなたのために?」
「ほかに、あれだけ焼けた人はいなかった」
「正式記録では、その時点でイーダ=メルクは死亡しています」
「知ってる」
「それでも薬が買われた」
「転記間違いってことになった」
「でも」
ミラベルは記録と、女の左腕を見た。
「事故後に、イーダ=メルクのための薬が必要だった」
女の右手が。
紙へ触れかけ。
途中で止まる。
「紙には、間違いだって書いてある」
「紙のほうが間違っています」
「役所へ言えば、証拠を出せって言われる」
「だから、証拠を集めています」
「十二年前にも、そう言われた」
リュシアンが。
薬品記録の端を、傷つけないよう整えた。
「イーダさん」
彼は、現在の名前を尋ねなかった。
「フォルン氏は、あなたの証言を報告書へ残すつもりでした」
「頼んでない」
「ええ」
「生き返りたいとも言ってない」
「死んでいません」
「紙では死んでる」
「紙のほうが誤っている」
女の顔に、初めて怒りが浮かんだ。
「紙は間違っても困らない」
焼けた左腕の袖を、右手で掴む。
「困るのは人間だけ」
ミラベルは。
すぐには答えられなかった。
*
「事故の夜について、聞かせてください」
「嫌」
「エリアスさんを殺した者へ、つながる可能性があります」
「話したら、また記録にされる」
「はい」
ミラベルは手帳を持ったまま答えた。
「新聞も紙です。私が書いたことで、あなたが傷つくこともあります」
女は、少し意外そうに彼女を見る。
「今の名前と、ここでの暮らしは書きません。居場所も、あなたが許可するまで公表しない」
「十二年前のことは?」
「隠しません」
「勝手ね」
「はい」
「正直に言えば許されると思ってる?」
「思っていません」
長い沈黙。
やがて。
女は暖炉前の椅子へ座った。
「聞くだけ聞いて」
*
十二年前。
ブラス重工旧第六記録工房で、圧力式記録筒の試験が行われた。
作業員は四人。
イーダ=メルクも、その一人だった。
「最初に床が跳ねた」
イーダは暖炉の火を見ながら言った。
「次に扉が閉じた。蒸気で、何も見えなくなった」
「左耳は、そのときに?」
「何かが爆ぜた。そこから聞こえない」
「救助は来ましたか」
「最初は」
短い返答だった。
「扉の向こうで、鉄を叩く音がした。四人いるって叫んでた。名前も呼ばれた」
「そのあと?」
「音が止まった」
「救助が?」
「扉の外に、人がいた音が消えた」
イーダの右手が、椅子の縁を強く握る。
「二人は、もう動かなかった。もう一人も返事をしなくなった」
「どうやって外へ」
「廃液渠」
工房の汚水を外へ流すための狭い管。
圧力で外蓋が外れ。
人がようやく這える隙間ができていた。
「左腕の皮が張りついてた」
イーダは火傷を見なかった。
「引けば剥がれた。だから引いた」
ミラベルの鉛筆が止まりかける。
「一人で?」
「ほかは連れていけなかった」
慰める言葉を。
ミラベルは飲み込んだ。
「外へ出たあと、医師に見つかった?」
「排水溝で倒れてた。あの人が引き上げた」
「病院には」
「行けないと言われた」
「誰に?」
イーダは。
初めてミラベルの手帳を見た。
書かれることを恐れながら。
書かなければ、また消えると知っている目だった。
「オルド=ガルム」
名前が、狭い部屋へ落ちた。
「当時の工房責任者?」
「そう」
「何と言われましたか」
「私は、もう死んでるって」
イーダの声は平らだった。
「四人とも死亡閉鎖された。補償も処理も始まってる。今さら生きてると言えば、死者の名で金を取る詐欺になるって」
「補償金は受け取っていない」
「家族へ払ったことになってた」
「家族へ連絡は?」
「するなと言われた」
「なぜ」
「私が生きてたと訴えれば、家族も事故隠しの共犯にするって」
「そんな権限は」
「本当にできるかなんて知らない」
イーダは吐き捨てるように言った。
「できるって信じさせれば、同じでしょう」
オルドは。
偽名と少額の金を渡し。
イーダを白紙街へ送った。
過去の名を使わなければ。
誰にも見つからない場所へ。
「それから十二年?」
「そう」
「オルドさんと再び会ったことは」
「ない」
「連絡も?」
「ない」
ミラベルは、ここで一度鉛筆を止めた。
「今の証言で分かるのは」
イーダが険しい顔を向ける。
「何」
「十二年前。オルド=ガルムが、あなたの生存を隠し、白紙街へ送ったということです」
「それだけ?」
「エリアスさんの殺害まで証明するには、今夜の命令とオルドさんを結ぶ証拠が必要です」
「庇うの」
「違います」
ミラベルは手帳を閉じなかった。
「あなたが生きていることは、十二年前の記録を崩します。でも、現在の殺人犯まで、証拠なしに同じ名前へ置くことはできません」
「証拠」
「はい」
「私が生きてるだけじゃ足りない?」
「十二年前の事件を開くには、十分です」
イーダは不満そうに顔を背けた。
それでも。
少しだけ。
その答えを受け入れたように見えた。
*
「もう一つあります」
リュシアンが、木箱から古い羊皮紙を取り出した。
古いエルフ式の境界台帳。
その横へ。
十二年前の死亡閉鎖記録の写しを置く。
人名の脇に。
よく似た記号があった。
中央の縦線。
それを囲む、二本の半円。
「同じ印です」
ミラベルが言う。
「形は、ほぼ同じです」
リュシアンの指が、羊皮紙の記号へ触れない距離で止まる。
「ただし、意味が違います」
「死亡の印では?」
「現代では、そう読まれています」
「古い意味は」
「中央の線は、人名ではありません。台帳の列です」
次に。
それを囲む二本の線。
「これは閉じる囲いではない。別の列へ移す道筋です」
イーダが、右耳をわずかに彼へ向けた。
「この印は」
リュシアンが言う。
「森の境界を越えた者。長い旅へ出た者。現在の台帳では所在を確定できない者へ使われました」
「死者ではない」
「ええ」
彼は、現代の死亡閉鎖記録を示した。
「これは死者の印ではありません」
普段の柔らかな皮肉が、声から消えていた。
「数える場所を変えた印です」
ミラベルは、二枚の記録を見た。
「現在の数から外す」
「そして、本来は別の台帳で数える」
「でも、今の制度には」
「移された先がありません」
リュシアンの口元へ、冷たいものが浮かぶ。
「病院も。銀行も。工房も。救助記録も。その名を、現在の生者から外された者として受け取る」
ミラベルの中で。
エリアスの最後の声が戻った。
――板には……誰も、いなかった。
記録筒室には。
エリアスの身体があった。
呼吸があり。
声があり。
職員名票鍵も差されていた。
だが。
生者照合板には、誰の名もなかった。
「誰もいなかったんじゃない」
ミラベルが呟く。
「何?」
イーダが聞く。
「エリアスさんは、自分が見えなくなったと言ったんじゃない」
古い記号を指す。
「数える場所を変えられた」
リュシアンが目を上げた。
「記録筒室にいる人間を、生者を数える板から外した」
「そう考えるのが自然です」
「十二年前も」
ミラベルはイーダを見る。
「四人の名が死亡閉鎖され。救助記録から、生きた作業員が消えた」
「私たちは中にいた」
「はい」
「紙が死者にしたから、助けに来なくなった?」
「紙だけでは、人は死にません」
ミラベルは言った。
「でも、その紙を信じて救助を止めれば、人は死にます」
イーダは、焼けた左腕を見た。
「昨夜の人も」
「機械が、同じように記録へ従った」
「同じ犯人?」
「同じ構造です」
ミラベルは、はっきり分けた。
「犯人が同じかどうかは、まだ証明されていません」
*
「警察へ話すの」
イーダが尋ねた。
「はい」
「私の今の名前も?」
「書きません」
「ここも?」
「記録しません」
「それで、どうやって証言するの」
「あなたが安全だと思える条件を決めます」
「安全な場所なんてある?」
ミラベルは答えられなかった。
リュシアンが口を開く。
「私の店を使ってください」
「古書堂?」
「警察官は一人。あなたの現在の名は伏せたまま。十二年前の証言だけを取る」
「信用しろって?」
「いいえ」
リュシアンは微笑まなかった。
「信用できるまで、条件を増やしてください」
イーダは、長く黙った。
「フォルンは」
暖炉の火を見つめる。
「私を生き返らせるって言った」
「記録を直すと?」
「違う」
イーダは首を振った。
「死んでなかったことにするって」
死者を、生者へ戻すのではない。
最初から生きていた人間を。
ようやく。
生きていたと認めさせる。
「エリアスさんは、できませんでした」
ミラベルは言った。
「でも、記録は残っています」
「私は紙を信用しない」
「それでも」
ミラベルは。
薬品記録。
古い閉鎖記号。
自分の手帳を見た。
「あなたが生きていたことを、紙にも認めさせなければなりません」
イーダの右目が、わずかに細くなる。
「あなた、変な記者ね」
「よく言われます」
「誰に」
「主に探偵へ」
イーダの口元へ。
ほんの小さな笑みが浮かんだ。
*
白紙街を出るころ。
朝は、煤煙の向こうまで来ていた。
高架線の下には、夜と変わらない灰色の光しか届かない。
それでも。
工房へ向かう人々が動き始め。
遠くで始業番号機が鳴っている。
都市は今日も。
雇用名簿へ載った人数を数え。
鉄道へ乗った人数を数え。
病院へ運ばれた人数を数える。
だが。
ミラベルの後ろにある小さな部屋では。
十二年前に死亡したことにされた女が。
自分の足で立ち。
外へ出る支度をしていた。
その女を。
都市は、まだ数えていない。
ミラベルの手帳には。
現在の名前も。
住所も書いていない。
ただ。
一つの事実だけが残されていた。
――イーダ=メルクは、生きている。
死亡記録より。
十二年遅れて作られた。
生存の記録だった。




