第3節 ― 午後十一時十分の死者
午後十時を過ぎても、中央記録塔の内部には夜が訪れなかった。
吹き抜けを囲む蒸気灯は白く燃え。
真鍮柱を走る表示灯は、都市の各所から届く記録に応じて明滅を続けている。
戸籍。
雇用。
鉄道。
病院。
銀行。
保険。
警察。
死亡。
別々の場所で作られた記録が気送筒へ詰められ、壁の中を走り、《レギストラ》の中央機関へ集まっていた。
同じ基礎番号による二重申請が止められる。
異なる場所で同時に使用された名票が、矛盾として弾かれる。
遠く離れた病院と保険組合の記録が、数秒で一枚の紙へ並ぶ。
実演のたびに、見学台から感嘆の声が上がった。
「便利ですね」
ミラベルは手摺へ身を寄せた。
「さっきも聞いた」
隣のレオンは、機械ではなく主操作盤の周囲を見ていた。
「便利だという感想は、一度しか言ってはいけないんですか」
「二度言っても、機械の性質は変わらない」
「感想を共有したかっただけです」
「便利だとは認めている」
「そのあとに、必ず危険性を付け加えますけど」
「危険性を差し引くのが鑑定だ」
「感心するにも帳簿が必要なんですね」
レオンは答えなかった。
ベアトリス=カルムは、主操作盤の圧力計から目を離さない。
オルド=ガルムは運用票へ時刻を記し、各部署へ回している。
エリアス=フォルンは、機械が出した結果と、外部端末から返された照会記録を一件ずつ比較していた。
その横で、リナ=セイルが三色の鉛筆を使い分けている。
黒は通常記録。
青は確認事項。
赤は停止を検討すべき異常。
今のところ。
赤い文字は一行もなかった。
少し離れた場所では、ノクス=モリアンが招待客に交じり、穏やかな顔で中央機関を眺めている。
ただし。
彼が見ているのは、紙が出る瞬間ではなかった。
紙が出たあと。
誰が最初に触れ。
誰が内容を読み上げ。
周囲の人間が、どのようにその記録を受け入れるか。
レオンとよく似ている。
そのことが、ミラベルにはひどく落ち着かなかった。
*
午後十時二十七分。
主操作盤の前へ、一枚の試験票が置かれた。
「次は、将来発効記録の実演です」
モルガ=ブラスの声が吹き抜けへ通る。
「雇用開始、契約満了、口座停止、運送許可。現在はまだ効力を持たなくても、指定された時刻から確実に反映させる必要のある記録があります」
オルドが試験票を掲げた。
実在しない基礎番号。
試験用の雇用契約。
発効時刻は、翌朝六時。
「命令票は今夜入力します。ただし、雇用状態が変わるのは午前六時です」
「明日の記録を、今夜入れるんですね」
ミラベルが小声で言った。
「明日起きる出来事じゃない」
レオンが訂正する。
「明日から効力を持つ命令だ」
「予言ではない」
「ああ」
「予約された変更」
「そう考えればいい」
ベアトリスが発効時刻を確認し。
リナが入力時刻を記す。
エリアスが試験票を読み上げた。
「入力時刻、午後十時二十八分。発効時刻、翌日午前六時。対象、試験用甲号名票。未雇用から雇用中へ変更」
オルドが票を差入口へ入れる。
穿孔機が、乾いた音を立てた。
かちり。
かちり。
かちり。
やがて中央表示板へ文字が浮かぶ。
――発効待機。
見学者から拍手が起きた。
「記録は、過去を保存するだけのものではありません」
モルガが言う。
「契約がそうであるように、未来の社会状態を、あらかじめ正しい位置へ置く役目も持ちます」
「正しい位置ならば、ですが」
ノクスの声が聞こえた。
モルガが顔を向ける。
「何か問題が?」
「いいえ。今のところは」
ノクスは微笑んでいた。
その視線が、ほんの一瞬だけレオンへ流れる。
レオンは応じなかった。
ミラベルは手帳へ書く。
午後十時二十九分。
将来発効記録、入力成功。
その下へ線を引こうとしたとき。
中央柱の奥で。
硬いものが跳ねる音がした。
*
最初は、誰も異常だと思わなかった。
金属筒が管を走る音。
分岐弁が切り替わる音。
紙送りの爪が擦れる音。
塔の内部では。
絶えず何かが動いている。
だが。
低い警告鐘が、一度だけ鳴った。
主操作盤の右端。
それまで暗かった表示板へ、白い光が入る。
――死亡記録。
ベアトリスが顔を上げた。
「誰が死亡系統を開いたの?」
返事はない。
彼女は切替器を確認する。
「主操作盤からは入力していない」
オルドが運用票をめくった。
「実演予定にもありません」
「外部端末は?」
エリアスが聞く。
「照会します」
リナが死亡系統の表示器へ向かう。
その途中で。
圧力式印字機が動いた。
鋼鉄の腕が落ちる。
がしゃん。
一文字。
がしゃん。
紙が一行送られる。
先ほどまでの拍手が止まった。
吹き抜けに残ったのは。
規則正しく。
迷いなく。
最初から書く内容を知っているような打音だけだった。
がしゃん。
がしゃん。
がしゃん。
ミラベルは手摺を握る。
「予定された実演ですか」
「違う」
レオンの声は短かった。
紙の上端が、排出口から現れる。
白い用紙。
濃い罫線。
死亡記録用の正式書式。
印字腕が最後の一行を打ち終えた。
音が止まる。
紙は排出口から半分だけ垂れ下がり、《レギストラ》の微振動に合わせて揺れていた。
誰も、すぐには触れなかった。
リナがエリアスを見る。
エリアスはモルガへ目を向けた。
モルガが一度、頷く。
「取り出してください」
リナは両手で紙を持ち。
破らぬよう、真っ直ぐに引き抜いた。
印字面を見た瞬間。
彼女の指が止まった。
「リナ?」
エリアスが呼ぶ。
返事がない。
彼女の顔から、血の気が引いていた。
「何が出た」
ベアトリスが操作盤を離れようとする。
「動くな」
レオンの声が飛んだ。
大きくはない。
それでも、彼女の足を止めた。
「誰も機械へ触れるな。今の配置を変えれば、誰がどこにいたか分からなくなる」
「あなたに指揮権はありません」
モルガが言う。
「ない。だから警部に頼む」
グレアムが見学台の下から声を張った。
「全員、その場を動くな! 出入口を閉じろ!」
警官たちが動く。
招待客から、戸惑いと不満の声が上がった。
「ただの故障ではないのか」
「誰の死亡記録だ」
「本人確認はできているのか」
ざわめきの中。
エリアスがリナへ手を差し出した。
「見せてください」
「でも……」
「リナ」
彼女を落ち着かせる、穏やかな声だった。
だが。
差し出された指先は、わずかに強張っている。
リナは紙を渡した。
エリアスが、一行ずつ読む。
表題。
記録番号。
氏名。
その目が止まった。
ミラベルの位置からでも、印字された名前が見えた。
――エリアス=フォルン。
中央記録塔の白い灯が、その文字を鮮明に照らしている。
エリアスは、もう一度最初から読み直した。
氏名。
生年月日。
基礎記録番号。
登録住所。
職業。
どの欄も。
彼自身のものだった。
「私の記録です」
低く言った。
会場のざわめきが、一瞬だけ消え。
先ほどより大きく戻った。
「本人が生きているぞ」
「同姓同名では?」
「番号まで一致しているのか」
「死亡記録が、なぜ先に出る」
レオンは階段を下り。
グレアムも警官を伴ってエリアスのもとへ向かった。
ノクスだけは動かなかった。
人々の向こうから。
自分の死亡記録を読む男を、静かに見ている。
*
「どこまで一致している」
レオンが尋ねた。
「氏名。生年月日。基礎記録番号。住所。職業分類」
「死因は」
エリアスの喉が動く。
「工業設備内における圧力事故」
ベアトリスが反射的に圧力計を見る。
「主機圧は正常です。塔内警報も出ていない」
「死亡場所は」
グレアムが聞く。
「ブラス重工商会中央記録塔」
紙に書かれているのは。
今。
彼らが立っている建物だった。
無数の圧力管と蒸気弁を抱えた。
巨大な機械の内部。
グレアムがエリアスの腕を掴み、主操作盤から離す。
「機械から距離を取れ」
「警部」
「圧力設備のない場所へ移す」
「まだ確認が――」
「自分の死亡記録に、この塔で圧力事故に遭うと書いてあるんだぞ」
「紙に書いてあるだけです」
「紙に書かれたせいで人が死ぬ街を、俺は何度も見とる」
グレアムは周囲へ命じた。
「圧力区画を封鎖。招待客を外周通路へ移せ。技師以外、配管にも操作盤にも触れるな」
モルガはエリアスの手元を見ていた。
「死亡時刻は」
エリアスはすぐに答えなかった。
紙の数字を確認し。
壁の大時計を見上げる。
長針は、六をわずかに過ぎていた。
午後十時三十一分。
秒針が、冷たい音を刻んでいる。
エリアスは死亡記録を持ち上げた。
「午後十一時十分」
ミラベルは、頭の中で時刻を引く。
「三十九分後……」
リナが唇を震わせた。
ベアトリスは首を振る。
「ありえない。死亡時刻は死亡確認のあとに入力する。死亡を、将来の予定として登録する機能はありません」
「将来発効記録では?」
ミラベルが尋ねる。
「雇用や口座停止とは違います。死亡記録は、未来へ予約するものではない」
「なら」
グレアムが言った。
「機械の故障か。誰かの悪趣味な脅迫だ」
オルドが運用票を確認する。
「主操作盤の記録に、死亡系統への入力はありません」
「別の端末からは」
レオンが聞く。
「照会中です」
「入力元は、紙にないのか」
「詳細履歴は、中央記録筒側に残ります」
エリアスが答えた。
レオンは手を差し出す。
「紙を」
エリアスは一瞬、ためらった。
自分の名。
死因。
死亡時刻。
それらが記された紙を手放すことが。
自分の死を認める行為のように感じられたのかもしれない。
だが。
すぐにレオンへ渡した。
レオンは文字面へ触れず、紙の両端だけを持つ。
「取り出してから触れたのは」
「私とリナだけです」
「落としていないな」
「はい」
リナが答えた。
レオンは印字の深さ。
インクの光沢。
罫線。
処理印。
紙の端。
一つずつ確認する。
「正式な死亡記録ですか」
ミラベルが聞いた。
「正式な書式で出力されている」
「内容は?」
「本人情報は一致している。場所と死因は、まだ起きていない」
「未来の死亡時刻も」
「正しいかは、十一時十分になるまで分からない」
「間違いだと証明するには?」
レオンは紙から顔を上げ。
エリアスを見た。
「彼が生きていればいい」
簡単な答えだった。
だが、その言葉によって。
午後十一時十分という時刻が。
その場にいる全員の前へ置かれた。
あと三十九分。
大時計の秒針が、一つ進んだ。
*
「全設備を停止します」
モルガの声が響いた。
ざわめきの中でも、明瞭に聞こえた。
「カルム主任。主動力を停止。全圧力設備を安全位置へ。ガルム常務は気送系統を閉鎖し、外部端末からの入力を遮断してください」
「総帥、公開試験は――」
招待客の一人が声を上げる。
モルガは振り返らなかった。
「中止です」
短い一言だった。
「原因を確認するまで、《レギストラ》へ一件の記録も通しません」
ベアトリスが操作桿を下げる。
「主機停止。循環系統、順次閉鎖」
塔の底から続いていた低い振動が弱くなる。
表示板の灯が、端から消えていく。
戸籍。
雇用。
鉄道。
病院。
銀行。
保険。
警察。
最後まで残っていた死亡記録の白い灯も、やがて消えた。
オルドが各部署へ指示を飛ばす。
「外部受信を遮断。送信筒は現在位置で停止。記録票には触れるな。すべて現状保存だ」
分岐弁が切り替わり。
壁の中を走っていた金属筒の音が、一つずつ止まる。
都市の名前を集めていた巨大な機械が。
急速に沈黙していった。
それでも。
壁の大時計だけは動いている。
午後十時三十四分。
死亡予定時刻まで。
三十六分。
*
「エリアス」
モルガが彼の名を呼んだ。
「警部の指示に従って。安全が確認されるまで、圧力区画へ近づいてはなりません」
「独立監査官として、停止記録を確認します」
「別の者にさせます」
「別の者では証拠保全になりません」
エリアスは答えた。
「中央記録筒に残る保守命令の履歴は、独立監査官本人が開封し、確認しなければ、監査証拠として認められない。私を外したまま内部記録が動けば、今夜の監査そのものが無効になります」
「市警が封鎖する」
グレアムが言った。
「誰にも記録を触らせん。お前は保護室へ来い」
「警察の封鎖は、現場保存です。命令履歴の監査とは別です」
「自分が死ぬと書かれた場所へ、わざわざ行く気か」
「紙の記述を恐れて監査を放棄すれば、この死亡記録を事実として扱ったことになります」
「命を守ることと、記録を認めることは違う」
「分かっています」
エリアスは、止まりつつある中央機関を見上げた。
死亡記録はレオンが保管している。
主機は止められた。
圧力設備も閉じられようとしている。
これ以上。
紙に書かれた事故が起きる理由はない。
少なくとも。
表面上は。
「入力元を追えるのは、中央記録筒の履歴だけです」
エリアスが言う。
「確認すべき場所は一つです」
「記録筒室か」
レオンが聞いた。
エリアスは頷く。
「主機へ送られた命令票と、その経路が残っています」
「技師を行かせろ」
グレアムが言う。
「技師には、監査命令の開封権限がありません」
「お前を一人で行かせると思うか」
「一人で行くとは言っていません」
グレアムは、エリアスの顔を睨んだ。
恐れていないわけではない。
額には薄い汗が浮かび。
呼吸も、わずかに浅くなっている。
それでも。
声は崩れていなかった。
「私の記録です」
エリアスは言った。
「私が入力元を確認します」
グレアムの顔が、さらに険しくなる。
モルガが止めようと口を開く。
だが。
エリアスはリナへ手を差し出していた。
「独立監査官用の鍵を」
リナは動かなかった。
「監査官……」
「渡してください」
彼女は革鞄から、細長い鍵箱を取り出した。
箱の中には、真鍮鍵と職員名票鍵が並んでいる。
エリアスは封印と番号を確認し。
上着の内側へ収めた。
「警官を付ける」
グレアムが言う。
「扉の外までだ。少しでも異常があれば戻れ」
「承知しました」
「承知した顔に見えん」
「監査官は、警部に安心していただくための職業ではありません」
「知っとる。だから嫌いなんだ」
エリアスの口元に。
ほんのわずかな笑みが浮かび。
すぐに消えた。
彼は、記録筒室へ続く通路へ向かう。
リナが追おうとした。
「あなたはここへ残って、停止時刻と操作記録を保存してください」
「でも」
「記録する人が必要です」
リナは足を止めた。
手にした鉛筆が、かすかに震えている。
グレアムが二人の警官へ顎を動かし、エリアスを追わせた。
モルガは何も言わず。
オルドは停止記録を持ったまま。
ベアトリスは圧力計を見上げたまま。
ノクスは遠くから。
それぞれの場所で。
記録筒室へ向かう男の背中を見ていた。
ミラベルは壁の時計を見た。
午後十時三十五分。
あと三十五分。
レオンの手には。
まだ生きている男の死亡記録がある。
そこには。
これから向かう場所があり。
死ぬ原因があり。
死ぬ時刻があった。
機械は止まった。
圧力設備も閉じられようとしている。
事故は、防げるはずだった。
それなのに。
通路の奥へ遠ざかるエリアスの姿は。
自分の死亡記録に書かれた場所へ。
一行ずつ。
近づいているように見えた。




