第2節 ― 真鍮夫人の新しい都市
ブラス重工商会中央記録塔は、遠くから見れば巨大な時計に似ていた。
七階建ての黒い煉瓦壁。
各階を縦に貫く真鍮製の気送管。
煤霧を切るように回る、屋上の圧力調整羽根。
正面中央には、ヴェルム=クロウ標準時を示す大時計が嵌め込まれている。
長針と短針のほかに、細い第三の針があった。
その針は、時間を示さない。
都市各所から届く記録信号の量に応じて、文字盤の外周を進む。
誰かが生まれ。
工房へ入り。
鉄道へ乗り。
病院へ運ばれ。
あるいは、死亡を認定されるたび。
針が、わずかに動く。
都市が。
自分の内部で起きたことを、数えている。
馬車から降りたミラベルは、外壁を走る気送管を見上げた。
透明な確認窓の奥を、金属筒が走り抜けていく。
「随分、大きな記録機械ですね」
「塔は機械の外装だ」
レオンが答えた。
「中に機械を置いたんじゃない。建物そのものを機械として作っている」
「一つ故障したら、塔全体が止まりそうです」
「一つの誤りで、塔全体が正しく動くこともある」
「それを、正しく動いたと言うんですか」
「機械にとってはな」
*
正面扉の前には、鉄柵で囲われた検査区画が設けられていた。
市政官。
銀行家。
病院記録官。
鉄道会社の幹部。
新聞記者。
都市の名と権利を動かす者たちが、列へ並び、自分の身元を証明している。
その先頭付近で、聞き覚えのある声が響いた。
「武器を預けろと言っとるんじゃない。登録しろと言っとるんだ」
グレアム警部だった。
黒い外套へ市警の腕章を巻き、招待客の杖や短銃を部下に確認させている。
式典警備用の礼装を着ていても、上流階級の集まりへ溶け込む気はないらしい。
レオンを見つけると、眉間の皺が一つ増えた。
「来たか」
「呼んだのは兄だ」
「お前の兄貴に呼ばれたからって、何を壊してもいい理由にはならんぞ」
「壊す予定はない」
「予定になかったものを壊すから言っとる」
グレアムは、レオンの外套の内側を調べた。
手帳。
鑑定レンズ。
小さな定規。
紙挟み。
インク瓶。
封蝋片を入れる金属箱。
「そのレンズも登録しろ」
「武器ではない」
「お前が持つと、大抵の物は誰かの秘密を傷つける」
「秘密の構造が弱い」
「今夜は警備責任者の命令のほうが強い」
二人の応酬を聞いていた若い警官が、笑うべきか迷った顔をした。
その背後で、塔の扉が開く。
暖められた金属と機械油の匂いが流れ出した。
「お通しして」
女性の声だった。
大きくはない。
それでも、検査区画にいた者たちの動きが止まった。
*
扉の内側に、一人のドワーフ女性が立っていた。
人間の胸元ほどの背丈。
だが、彼女を小柄と感じる者はいなかった。
暗い真鍮色の礼服。
高い襟。
肩から胸へ流れる太い飾り鎖。
灰金色の髪は、後頭部で一つに束ねられている。
右手には手袋をしていない。
人差し指に、古い真鍮の印章指輪が嵌められていた。
モルガ=ブラス。
ブラス重工商会総帥。
新聞では、《真鍮夫人》と呼ばれている。
ミラベルは、鉄道開通式や市政会議の記事で何度も肖像を見ていた。
どの写真でも、モルガは周囲の人間より低い位置に写っている。
それでも、写真の中心は彼女だった。
実物には。
紙面では伝わらない圧力があった。
相手の顔だけを見ない。
服。
靴。
手。
同行者。
その者が何を持ち、何によって支えられているのかまで、一度に測る目だった。
「レオン=クラウス氏」
「ブラス夫人」
「中央記録庁から外部鑑定人を招くとは聞いていました。あなたとは聞いていませんでしたが」
「知っていたら断ったか」
「いいえ」
モルガはためらわなかった。
「あなたは優秀です。だからこそ、内部へ入れるには注意が必要です」
「歓迎されているようで何よりだ」
「歓迎と警戒は両立します」
その目が、ミラベルへ移る。
「ミラベル=ワトリアさんですね。月硝子劇場の記事を読みました」
「ありがとうございます」
「観客の証言が、舞台上の事実によって誘導された。興味深い記事でした」
モルガは塔の内部へ片手を向ける。
「人の証言が揺らぐなら、より正確な記録が必要です。そのための機械を、今夜お見せします」
「記録も間違います」
ミラベルが言った。
「だから、間違いを減らす機械を作りました」
「見せるだけで済めばいいがな」
グレアムが鼻を鳴らす。
「招待客が多すぎる。公開試験なのか、商会の見本市なのか、どっちだ」
「都市の記録を接続する機械です。都市を動かす方々に見せず、誰に見せるのです」
「動かされる市民にも見せろ」
「今夜の結果は、新聞を通じて公開されます」
「商会が見せたい面だけがな」
「そのために、クラウス氏とワトリア記者がいるのでしょう」
モルガは、わずかに口元を緩めた。
「警部。あなたも含めて」
「俺は機械の宣伝をするために来たんじゃない」
「事故を防ぐためでしょう。目的は同じです」
「数え方が違う」
「だから、あなたが必要なのです」
グレアムは不満そうに唸ったが、部下から合図を受け、検査区画へ戻った。
モルガは、その背中を見送る。
敵を見る目ではない。
扱いにくいが、欠くことのできない部品を見る目だった。
*
中央記録塔の内部は、役所と工場を重ねたような空間だった。
玄関広間から上階まで続く吹き抜け。
その中心を、太い真鍮柱が貫いている。
各階から伸びた気送管が柱へ集まり、内部では記録筒が絶えず上下していた。
歯車の低い回転。
金属票へ穴を開ける乾いた打音。
紙を送る爪の擦れる音。
圧力弁が吐く短い息。
それらが重なり。
建物全体が、小さな言葉を絶えず呟いているようだった。
「話しかけられている気分になります」
ミラベルが言う。
「返事をするな」
「機械にですか」
「役所の機械は、一度返事をすると書類が増える」
レオンは、通路へ引かれた黄色い線を見ていた。
線の内側は招待客。
外側は作業員と機械の領域。
「機械を見ないんですか」
「設計なら、あとで図面を読める」
「では、何を」
「誰が、どこへ触れられるか」
*
中央機関の前で、一人の男が記録板を確認していた。
四十代ほど。
細身。
濃い茶色の髪には、わずかな白髪が混じっている。
実務用の黒い上着。
胸元には、外部安全監査官の銀章。
エリアス=フォルン。
その横では、淡灰色の事務服を着た若い女性が、鉛筆を走らせていた。
「病院端末の最大遅延は?」
エリアスが聞く。
「四・一秒。患者状態の変更時です」
「鉄道は」
「一・九秒以内」
「原因票を添えてください」
「はい」
女性は、削り方の違う鉛筆を使い分けている。
黒。
赤。
青。
通常記録。
疑義。
安全上の停止事項。
モルガが近づいた。
「エリアス。外部鑑定人のクラウス氏です。こちらはワトリア記者」
「存じています」
エリアスはレオンへ手を差し出す。
「エリアス=フォルン。市政記録局から派遣された外部安全監査官です」
「ブラス重工の出身だと聞いた」
「十三年前まで、記録機械部門にいました」
「自分が作ったものを監査するのか」
「私が設計した機械ではありません。ただ、設計者の説明を鵜呑みにしない程度には内部を知っています」
「監査官としては健全だ」
「元同僚からの評判は悪くなります」
「それも健全だ」
エリアスは、わずかに笑った。
「こちらは、監査助手のリナ=セイルです」
紹介された女性が、記録板を胸へ抱え直す。
「よろしくお願いします」
「機械の数字と、人が確認したことを別々に書いているんですね」
ミラベルが尋ねる。
「同じ記録へ混ぜると、誤りが起きたときに原因が分からなくなりますから」
「いい分け方だ」
レオンが言う。
「フォルン監査官の指示です」
「君が書いている」
リナは、記録板の端を少し強く握った。
エリアスが話を戻す。
「現時点で、致命的な欠陥は確認していません」
「致命的ではない欠陥は」
「あります」
モルガの眉が、わずかに動いた。
それでも、エリアスは続ける。
「端末ごとの書式差。古い基礎記録番号の読取りずれ。同じ状態名が、機関によって異なる意味で使われている点」
「その項目は修正済みよ」
中央機関の下から、ドワーフ女性が姿を現した。
短く切った赤銅色の髪。
額には保護眼鏡。
濃紺の作業服の上から、主任技師の白い上着を羽織っている。
片手には油の染みた工具。
「表示書式を変えただけです」
エリアスが言う。
「機械内部では区別している」
「利用者には同じ表示が出る」
「正式稼働までに直す」
「その前だから指摘しています」
モルガが二人のあいだへ入る。
「主任設計技師、ベアトリス=カルムです。《レギストラ》の機械設計を統括しています」
「不具合の統括までしているようだ」
レオンが言った。
ベアトリスは保護眼鏡を外し、彼を正面から見る。
「不具合のない試作機を見たことがありますか」
「ない」
「では、欠陥があること自体を驚いた顔で見ないでください」
「驚いていない。隠さなかったことに感心している」
「褒めています?」
「まだ判断していない」
ベアトリスは、レオンの鑑定レンズを見る。
「機械の分解は禁止です」
「まだ触れていない」
「触る前に言っています」
「正しい予防だ」
ミラベルは。
昼間、中央記録庁で会ったもう一人のクラウスを思い出した。
判断を保留する言い回しは、兄弟共通らしい。
*
「ベアトリス」
モルガが呼び止めた。
「公開用の印章照合を先に済ませます」
近くの卓上機には、掌ほどの白い板が固定されていた。
蝋とも粘土とも異なる軟質複製材。
押された形を保ちながら、照合針が読み取れる素材だった。
横に立っていた年配のドワーフ男性が、機械の蓋を開ける。
髪も髭も鉄灰色。
礼装の袖から覗く指には、古い火傷痕がいくつも残っていた。
工房の作業台に立つ姿のほうが、よく似合いそうな男だった。
「総帥印の現行型を登録します」
低く、よく通る声だった。
モルガが彼を示す。
「ブラス重工商会常務。中央記録網運用責任者、オルド=ガルム」
オルドは丁寧に一礼した。
「中央記録塔の運用全般を預かっております。お気づきの点があれば、私かカルム主任へ」
「総帥ではなく?」
ミラベルが聞く。
「総帥へ直接届けるべき異常かを判断するのも、運用責任者の仕事です」
「父の代から」
モルガが言った。
「商会の運用は、彼に任せています」
短い言葉だった。
だが。
単なる部下への紹介ではないことは、十分に伝わった。
「私へ直接話しても構いません」
モルガは続ける。
「隠す必要はありません」
「もちろんです、総帥」
オルドは自然に頭を下げた。
長年。
同じ信頼へ応え続けてきた者の滑らかさだった。
*
モルガは右手を差し出した。
人差し指の印章指輪を、軟質複製材へ真っ直ぐ押し込む。
白い板が沈み。
歯車と羽根を組み合わせたブラス家の印が残った。
印章面が離れる瞬間。
レオンの目が細くなる。
ミラベルも指輪を見た。
印章の外周。
右下に、髪の毛ほど細い亀裂が一本走っている。
長く使われた金属印へできた傷。
複製材には、その線まで写っていた。
ベアトリスが板を照合機へ入れる。
内部で細い針が何度も上下し。
やがて、緑色の表示灯が点いた。
――総帥印・照合済。
「登録完了」
オルドは複製材を取り出し、薄い金属ケースへ収めた。
蓋に時刻と担当者名を書き。
運用資料へ重ねる。
ごく普通の手順だった。
「複製材は保管するのか」
レオンが聞く。
「公開試験終了まで」
オルドが答える。
「照合不一致が出た場合、原型と比較します。終了後は裁断し、溶剤処理します」
「誰が廃棄を確認する」
「私と、フォルン監査官です」
エリアスが頷く。
「記録も残します」
「現段階では、手続き上の穴はない」
「現段階では?」
オルドの笑みは崩れない。
「手続きが正しいことと、運用が正しいことは別だ」
「おっしゃるとおりです」
ミラベルは手帳へ、人物と役割を書き込んだ。
モルガ=ブラス。
総帥。
ベアトリス=カルム。
主任設計技師。
オルド=ガルム。
運用責任者。
エリアス=フォルン。
外部安全監査官。
リナ=セイル。
監査助手。
作る者。
動かす者。
監査する者。
記録する者。
責任を負う者。
一台の機械を囲みながら。
全員が、別の紙を持っていた。
*
午後九時四十分。
招待客が、吹き抜け中央部を囲む見学台へ集められた。
下方には《レギストラ》の主操作盤。
壁には、各機関を示す表示板が並んでいる。
戸籍。
雇用。
鉄道。
病院。
銀行。
保険。
警察。
死亡。
ミラベルたちは、報道関係者用の前列へ案内された。
グレアムは見学台へ上がらず、警官を各出入口へ配置している。
レオンも椅子へ座らなかった。
手摺のそばに立ち。
操作盤と、そこへ出入りする者たちを見ている。
「十一件の死亡閉鎖を入力できた人を探しているんですか」
ミラベルが小声で尋ねる。
「入力した者と、復帰させた者が同じとは限らない」
「機械の誤作動は」
「まだ残っている」
「正式な試験手順という可能性も」
「残っている」
「意図的な操作も」
「残っている」
「全部ですね」
「だから見に来た」
見学台前方で、真鍮の鐘が一度鳴った。
モルガが主操作盤の前へ進む。
演壇はない。
彼女には必要ないのだろう。
「皆様」
静かな声が、吹き抜けへ広がる。
「ヴェルム=クロウでは、一人の市民について複数の記録が、別々の機関で管理されています」
戸籍。
雇用。
銀行。
病院。
鉄道。
モルガが名を挙げるたび、対応する表示板へ灯が入る。
「一つの場所で訂正された事実が、別の場所へ届くまでには時間がかかる。その遅れが、誤りと犯罪の隙間になります」
彼女は中央機関へ振り返った。
「人は一人です。《レギストラ》は、その一人に結びつく記録を、同じ名の下へ集めます」
ベアトリスが操作桿を下げる。
主機内部で歯車が噛み合い。
床の下から、低い振動が伝わった。
オルドが、試験用の薄い真鍮票を照合口へ挿入する。
機械が名票を飲み込み。
穿孔を読む。
中央印字機から、一枚の紙が送り出された。
――公開試験用基礎名票・甲号。
実在の市民ではない。
それでも、離れた試験端末から送られた雇用、鉄道、銀行、病院の情報が、同じ紙へ並んでいる。
「基礎番号一致」
エリアスが確認する。
「端末四か所、照会完了。最大遅延二・二秒」
リナが時刻を記した。
見学台から、どよめきが起きる。
「すごい」
ミラベルは思わず身を乗り出した。
これまでなら、別々の役所へ照会書を送り。
返答を待ち。
異なる書式を照合しなければならない。
それが数秒だった。
隣のレオンは。
出力紙の端にある番号だけを追っていた。
「便利だとは思わないんですか」
「便利ではある」
「それだけ?」
「便利なものほど、間違ったときに遠くまで届く」
*
重複した銀行申請が自動で止められ。
異なる地点で同時に使用された名票が、矛盾として表示される。
実演のたびに。
銀行家や鉄道関係者の席から、感嘆の声が上がった。
「偽名や二重契約は大幅に減ります」
モルガが言う。
「死者名義の口座利用。複数の工房へ同時登録された労働者。存在しない乗客。記録の分断へ隠れる犯罪は、これまでより困難になる」
「記録に存在しない人間は?」
ミラベルが声を上げた。
周囲の記者が、一斉に彼女を見る。
「白紙街の住民です。基礎名票を持たない人。この機械は、そういう人をどう扱うんですか」
「基礎名票の再発行手続を整備します」
「再発行できなければ?」
「記録がなければ、照合はできません」
「つまり、機械には存在しない」
「機械が存在を決めるのではありません」
モルガの声は穏やかだった。
「制度が、その者を保護できる状態にあるかを照合するのです」
「保護されない者は、存在していても照合されない」
「それは《レギストラ》が作った問題ではありません」
「でも、同じ誤りを都市全体へ広げることはできます」
見学台が静かになる。
モルガは、ミラベルを軽く見るような顔をしなかった。
問いの重さを。
正面から測っていた。
「正しい指摘です」
やがて言った。
「だからこそ、基礎記録の整備と同時に導入しなければならない。記録を持たない者を放置したまま、機械だけを完成させるつもりはありません」
「すべての人を記録へ戻せますか」
「すべてを約束する者は、責任を負わない者です」
ミラベルは、その言葉を手帳へ書いた。
逃げではない。
だが、答えでもなかった。
*
「次に、記録状態の変更を実演します」
生存。
一時不明。
契約停止。
失踪。
予備閉鎖。
死亡閉鎖。
状態名が表示板へ並んだ。
エリアスが説明する。
「それぞれ、停止される権利と、解除条件が異なります。実演には、試験用の甲号名票を使用します」
レオンは、予定表の最後へ目を留めた。
――将来発効記録の照会。
「将来発効記録?」
ミラベルが聞く。
「明日から有効になる雇用契約や、時刻を指定した口座停止を、先に登録しておく機能です」
リナが答えた。
「指定時刻になると、各機関へ反映されます」
「未来の記録を、先に機械へ入れる」
「未来に起きる事実ではありません」
エリアスが訂正する。
「未来に効力を持つ命令です。そこは区別してください」
「未来を予言するのではなく」
ミラベルが言う。
「未来へ予約する」
「その表現なら近いです」
レオンがベアトリスへ尋ねる。
「命令を入力した時刻と、発効する時刻は別に残るのか」
「当然です。入力時刻、発効時刻、権限、照会履歴。全部残ります」
「訂正は」
「元の命令票を残し、訂正票を重ねます」
「削除は」
「できません。無効化するだけです」
「設計上は、綺麗だ」
ベアトリスの眉が上がる。
「設計上は?」
「運用するのは人間だ」
「だから監査官がいる」
エリアスが言う。
「監査官も人間だ」
「ええ」
エリアスは、中央機関を見上げた。
「そこまで含めて、完全ではありません」
自分がかつて働いていた商会の。
そして今は、危険性を測るために戻ってきた機械を。
「完全でないものを、完全だと宣伝させないために私がいます」
「だから彼を依頼しました」
モルガが言う。
「雇われたという表現は、独立性を損ねます」
「報酬は払っています」
「市政記録局を介してです」
「最終的な出所はブラス重工です」
「記者の前で強調しないでください」
ミラベルは、すでに手帳へ書いていた。
「遅かったですね」
モルガの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
場の緊張が、わずかにほどける。
そのとき。
見学台後方で、杖の先が床を打った。
乾いた。
小さな音。
レオンの顔から。
わずかに表情が消えた。
*
ノクス=モリアンは、招待客の列から離れた場所に立っていた。
黒い外套。
細身の杖。
没落した高位エルフを思わせる、整った顔立ち。
月硝子劇場で会ったときと。
何一つ変わっていない。
舞台上で死者が動き。
五百人の観客が、同じ誤った記憶を作った夜。
彼は事件の構造を理解しながら。
レオンが答えへ辿り着く様子を観察していた。
殺人犯ではなかった。
だが。
何も知らない傍観者でもなかった。
ノクスは、モルガの前で軽く頭を下げる。
「ブラス夫人。見事な動作です」
「試験は、まだ始まったばかりです」
「機械ではなく、これほど異なる立場の方々を、一つの場所へ集めた手腕について申し上げました」
「あなたの言葉は、褒めているときほど警戒が必要ですね」
「光栄です」
「契約構文監修者として、状態変更の実演には立ち会ってください。今夜は観客ではありません」
「承知しています」
ノクスの視線が、レオンへ移る。
「お久しぶりです、クラウス君」
「数日だ」
「興味深い記録の前では、時間は密度で数えるべきでしょう」
「役所へ提出してみろ。受理されない」
「制度に拒まれる表現ほど、真実へ近いこともあります」
ノクスは中央機関を見上げた。
「今夜は、同じ記録を見ることになりそうですね」
「同じ結論になるとは限らない」
「だからこそ、見る価値がある」
ミラベルは、二人のあいだへ視線を走らせた。
グレアムとモルガは。
同じ都市を、どう守るかで争っていた。
レオンとノクスは。
何を真実と呼ぶのかが違う。
「《レギストラ》は、美しい機械です」
ノクスが言う。
「まだ何も起きていない」
「起きたことを記録するだけが、記録の役目ではありません」
「何を言いたい」
「契約は、未来の行為を先に書くでしょう」
「契約と事実記録は違う」
「ですが、この機械は両方を扱う」
ノクスは、将来発効記録の予定表へ視線を落とした。
「過去を保存し。現在を照合し。未来へ命令する。一つの装置の中で、三つの時制が同じ名へ結ばれる」
「だから危険だと?」
「だから興味深いのです」
ベアトリスが主操作盤から顔を上げる。
「教授。設計上の不安を煽るなら、具体的にお願いします」
「不安ではありません。評価です」
「あなたの評価は、あとから別の意味へ読めるように作られている」
「優れた記録は、複数の読み方へ耐えます」
「機械仕様書では迷惑です」
モルガが会話を切った。
「開始時刻です」
*
壁の大時計が、午後十時を指した。
鐘が十度。
吹き抜けへ響き。
オルドが主操作盤の鍵穴へ、運用責任者用の鍵を挿す。
「主機圧、規定値」
ベアトリスが読み上げた。
「午後十時。公開稼働試験、開始」
リナが時刻を記す。
「外部監査、記録開始」
エリアスが各表示板を確認する。
グレアムが部下へ合図を送り。
出入口が閉じられた。
モルガが中央へ立つ。
その背後で。
何百枚もの名票を受け入れるための機械が、ゆっくりと回転を始めた。
戸籍の灯。
鉄道。
病院。
銀行。
保険。
警察。
死亡。
別々だった記録が、一つの中央柱へ集まっていく。
ミラベルは、その光景へ見入った。
街中の人間の名が。
働いた記録も。
移動した記録も。
病んだ記録も。
生きているという記録も。
いつかは、ここへ結ばれる。
便利で。
正確で。
巨大な。
新しい都市。
その隣で。
レオンは機械ではなく。
機械を見上げる人々の顔を見ていた。
「何か分かりましたか」
「まだ何も」
「十一件との関係も?」
「試験端末が、ここへつながっている。それだけだ」
「ノクス教授も?」
「今は、監修者の一人だ」
「疑ってはいる」
「ああ」
「でも、決めてはいない」
レオンは、中央柱の中を上昇する記録筒を目で追った。
「今ここにあるのは、可能性だけだ」
金属筒が最上部へ届く。
分岐弁が切り替わり。
どこか別の階へ吸い込まれていった。
機械は止まらない。
都市の名を一つへ集めながら。
まるで。
まだ届いていない記録のために。
空いた場所を、先に用意しているかのように。




