怪盗の似顔絵は誰にも似ていない
人の顔を記録する方法はいくつもあります。
名を書く。
特徴を書く。
似顔絵を描く。
写真板へ焼きつける。
それらを大勢の証言と照らし合わせれば、記録は少しずつ正しい顔へ近づいていく。
人は、そう信じています。
けれど。
一人は、男を見たと言いました。
一人は、女だったと言いました。
一人は、白い外套を見ました。
一人は、外套などなかったと言いました。
彼らは、嘘をついていたのでしょうか。
それとも。
同じ名で呼ばれる、別々の姿を見たのでしょうか。
――ナミ=エル
「どれがルヴェールですか」
ミラベル=ワトリアが尋ねると、グレアム警部は机の上を見回した。
ヴェルム=クロウ市警の聞き取り室。
彼の前には、三枚の似顔絵が並んでいた。
一枚目は、頬の細い若い男。
二枚目は、角張った顎と豊かな口髭を持つ壮年男性。
三枚目は、長い耳と鋭い目を持つエルフ族。
どれも、怪盗紳士ルヴェールを描いたものだという。
「今のところ、全部だ」
グレアムは答えた。
「怪盗というのは、ずいぶん忙しいんですね」
「昨日の晩だけで、種族を二度、年齢を三度変えとる」
聞き取り室の外には、怪盗を見たという市民が列を作っていた。
王冠事件から一夜。
怪盗ルヴェールがヴェルム=クロウ市立古美術館へ侵入し、七葉銀冠を盗み出したという報道は、朝刊が刷られるより早く街中へ広まっていた。
白い外套。
銀色の仮面。
旧王家の冠を狙う予告状。
夜霧へ消えた怪盗紳士。
ミラベルの記事には、《白鴉》という呼び名が使われた。
本人が名乗ったわけではない。
黒鴉館の探偵に対する白い鴉。
見出しへ収まりやすく、読者にも覚えやすいという理由で採用された名だった。
その呼び名は、一晩で街のものになった。
聞き取り室の扉が開く。
大きな画板を脇へ抱えたドワーフ族の女性が入ってきた。
五十代ほど。短く切った灰色の髪。指先には黒鉛が染み込んでいる。
市警の似顔絵師、イーダ=ベルクだった。
「四枚目だ」
イーダは新しい似顔絵を机へ置いた。
今度のルヴェールは、小柄な老人だった。
深い皺。
垂れた瞼。
薄い唇。
頭には、古い夜会帽のようなものを被っている。
グレアムは額を押さえた。
「一晩で三十年ほど老けたか」
「証人がそう言った」
「証人は本当に怪盗を見たのか」
「それを調べるのは、あんたの仕事だろう」
イーダは椅子へ腰を下ろし、黒鉛の棒を削り始めた。
「私は、見たと言われた顔を描く。誰と誰が同じ人物を見たのかまでは描けない」
ミラベルは四枚の絵を見比べた。
「共通するところはないんですか」
「目が二つある」
「それ以外は」
「鼻が一つある」
「イーダさん」
「冗談じゃないよ」
イーダは黒鉛の粉を紙から払った。
「鼻は細い。顎は四角い。頬は丸い。耳は長い。額は狭い。髪は多いが、頭頂部は薄い」
四枚の似顔絵を指先で順番に叩く。
「全部を一枚へ入れろと言われたら、怪盗ではなく化け物を描くことになる」
グレアムは、廊下へ向かって声を張った。
「次を入れろ」
◇
最初に入ってきたのは、美術館の老警備員だった。
昨夜、展示室へ通じる階段で、ルヴェールと短時間向き合ったという。
「若い男です」
警備員は断言した。
「二十五、いや、三十前後。背が高く、顔は細い。声も男でした」
イーダが新しい紙を画板へ留めた。
「目は大きかったか、細かったか」
「鋭い目でした」
「大きいか細いかを訊いている」
「鋭かったんです」
「目尻は上がっていた?」
「仮面で見えませんでした」
「眉は」
「それも仮面で」
「鼻筋は」
「仮面の下から少し」
「まっすぐだった?」
「おそらく」
「おそらくは描けない」
警備員の声から、少しずつ確信が抜け落ちていった。
イーダは質問を続ける。
「自分より背が高かったんだね」
「はい」
「同じ床に立っていた?」
警備員は黙った。
「階段でした」
「どちらが上」
「怪盗です」
「では、実際の身長差は分からない」
グレアムが記録係へ言った。
「《証人より高身長》を消せ。《階段上段より証人を見下ろしていた》と書け」
記録係がペンを止めた。
「ですが警部、新聞には長身と」
「新聞の記者は今ここにおる」
グレアムは、親指でミラベルを示した。
「本人の前で新聞を証拠にする気か」
ミラベルは小さく姿勢を正した。
イーダがさらに訊く。
「声は低かった?」
「若い男の声です」
「本人の声だと、どうして分かる」
「喋ったからです」
「劇場には、老人を演じる若者も、男を演じる女もいる。あんたは声を聞いた。声の持ち主の身体までは見ていない」
「しかし、男の服でした」
「それは服の証言だ」
警備員は困ったようにグレアムを見た。
「私は、間違ったことを言っているんでしょうか」
「いや」
グレアムは首を振った。
「あんたは見たことを話しとる。ただ、見たことと、そこから思ったことを分けているだけだ」
「では、確かなのは何です」
警備員は考えた。
「白い手袋です。あれは間違いありません。手摺へ触れたとき、近くで見ました」
「外套は?」
「白です」
「照明は」
「展示灯と、窓からの月明かりです」
「新聞を読む前も、白だったと覚えていたか」
警備員の口が止まった。
「灰色だったような気もします」
ミラベルは、手元の取材帳へ目を落とした。
朝刊の挿絵では、ルヴェールの外套は真っ白に描かれている。
記事にも、《白い外套を翻し》という一文があった。
市警の初期発表と、二人の目撃証言をもとに選んだ表現だった。
ただし、その二人も、同じ照明の下で同じ外套を見たわけではない。
ミラベルは嘘を書いたつもりはなかった。
けれど、紙面で一つの色に固定された外套は、目撃者の記憶の中まで白く染めていた。
「白い手袋」
グレアムは記録係へ告げた。
「それだけは確定へ入れろ。外套は《明色。白または灰色》だ」
警備員が退室したあと、イーダは紙へ、仮面の下から確認できた目元と口だけを描いた。
「これでは顔になりませんね」
ミラベルが言う。
「顔を見ていないんだから、当然だ」
イーダは答えた。
◇
二人目の証人は、美術館裏を通りかかった馬車御者だった。
屋根から通りへ降りてきた人物を見たという。
「女でした」
椅子へ座るなり、御者は言った。
「間違いありません」
「顔を見たのか」
グレアムが訊く。
「暗くて、顔までは」
「では、なぜ女だと分かった」
「走り方です。軽かった。男なら、もっと肩が揺れます」
「すべての男が同じ走り方をするのか」
「そういう意味じゃありません。ただ、女のようだった」
グレアムは記録係へ告げた。
「《女性》ではない。《走行姿勢を証人が女性的と解釈》だ」
「長いですね」
「短くして意味を変えるな」
黒髪に見えたものは、帽子の下の影だった可能性がある。
杖だと思ったものも、御者が確認したのは細長い形だけだった。
傘か、工具か、折り畳み式の棒かは分からない。
「私は役に立たないんでしょうか」
御者が不安そうに訊いた。
「そんなことはない」
グレアムは答えた。
「暗い場所で、顔を見ていない人物が、軽い走り方をして、細長い物を持っていた。そこまでは役に立つ」
「それだけですか」
「それ以上にすると、あんたの証言ではなくなる」
イーダは御者の証言だけを使い、細身で中性的な輪郭を一枚描いた。
老警備員の似顔絵とは、目元も顎も一致しない。
さらに、先に集められた証言者ごとの似顔絵を机へ並べる。
イーダは、その上へ薄い透写紙を重ねた。
若い男の輪郭。
老人の皺。
エルフの耳。
女のように見えた口元。
それぞれを別の透写紙へ写し取り、順番に重ねる。
線は一本にもならなかった。
目は四つの位置へずれ、顎は細くも四角くもなり、耳の長さは重なるたびに変わった。
「これを一枚へまとめることはできますか」
ミラベルが訊いた。
「できる」
イーダは答えた。
「一枚へまとめれば、誰の証言にも少しずつ似る」
透写紙を重ねたまま持ち上げる。
そこには、人の顔らしい何かが浮かんでいた。
だが、実在する誰かの顔には見えなかった。
「そして、誰にも似なくなる」
イーダは透写紙を離し、それぞれの似顔絵へ戻した。
「別の人間を見た可能性があるなら、別々に残す。それが一番正確だ」
◇
三人目の証人は、十歳ほどの少年だった。
胸には白い紙羽根を留め、銀色の紙を切り抜いた仮面を頭に載せている。
「ぼくは全部見ました」
少年は誇らしげに言った。
「怪盗は美術館の屋根に立っていたんです。真っ白な外套で、銀色の仮面をつけて、長い杖を持っていました」
「顔は」
グレアムが訊く。
「仮面の下は、すごくきれいな男の顔です」
「見えたのか」
「少しだけ」
「どこから見た」
「美術館前の広場です」
「何時ごろだ」
少年は詰まった。
「夜です」
「夜のいつだ」
「鐘が……十回くらい」
「昨日の夜、君はどこにいた」
グレアムが机の上の紙へ目を落とす。
「母親の話では、西環区の叔母の家で夕食を食べていたそうだな。美術館までは子どもの足で一時間かかる」
少年の胸が縮んだ。
「でも、見たんです」
「新聞でか」
「ちがいます」
「では、誰から聞いた」
「友達が見たって。それから朝刊にも絵が」
少年は、そこまで言って黙った。
ミラベルは少年の語った姿を思い返した。
白い外套。
銀色の仮面。
長い杖。
屋根の上。
舞い散る白い羽根。
すべて、朝刊の挿絵に描かれていた。
「それから、夜霧へ消えたんです」
少年が言った。
ミラベルの指が、取材帳の上で止まった。
《怪盗は白い外套を翻し、夜霧へ消えた》
自分が記事に書いた一文だった。
「怪盗ごっこをしたの?」
ミラベルが柔らかく訊いた。
少年は警戒しながら頷いた。
「ぼくがルヴェール役でした」
「何回くらい?」
「五回。ううん、七回」
「毎回、屋根から飛び降りた?」
「荷車の上からです」
「白い羽根も投げた?」
「みんなで作りました」
少年は胸につけた紙羽根を外した。
新聞の広告欄を切って作ったものだった。
裏側には、石炭店の値引き案内が残っている。
「何度も演じているうちに、本当に見たような気がしたのね」
「嘘じゃありません」
少年は強く言った。
泣きそうな顔だった。
「そうね」
ミラベルは答えた。
「嘘をつこうとしたわけではないと思う」
グレアムが記録係へ告げた。
「《本人による直接目撃なし。新聞挿絵および伝聞に由来する再構成》」
「再構成、ですか」
ミラベルが聞き返す。
「嘘と書けば、この子が悪いことになる」
グレアムは言った。
「だが、見たとも書けん」
少年が退室したあと、聞き取り室には短い沈黙が落ちた。
ミラベルは机上の朝刊を見た。
少年の記憶を作った怪盗。
その姿を作る言葉の一部は、自分が書いたものだった。
「警部」
「なんだ」
「記事に書かれたことは、証言に使えないんですか」
「使える」
グレアムは答えた。
「新聞を読んだという証言にはな」
◇
午後。
《ヴェルム=クロウ日報》の編集室には、怪盗ルヴェールに関する投書が山積みになっていた。
正体を予想する手紙。
怪盗を称賛する詩。
自称目撃者による長文。
予告状を真似た、脅迫にも冗談にもならない文章。
白い紙羽根も、十数枚届いている。
新聞用紙。
菓子の包み紙。
宿題用紙。
どれも、本物のルヴェールが残した紙羽根とは似ても似つかない。
それでも投書には、
《白鴉の羽根を拾いました》
と書かれていた。
「ワトリア、ちょうどいいところへ来た」
広告担当が、一枚の原稿を差し出した。
《銀仮面、本日入荷》
《白鴉外套、子ども用あり》
劇場用品店の広告だった。
「明日の朝刊へ載せたいそうだ」
「白鴉外套?」
「白くて長ければ、何でも白鴉外套になるらしい」
窓の外から、子どもたちの声が聞こえた。
一人が白い寝具布を肩へ巻き、別の子どもが木の枝を警棒にして追いかけている。
「待て、白鴉!」
「捕まえられるものなら、捕まえてみたまえ!」
怪盗役の子どもが荷箱の上へ飛び乗る。
その言葉も身振りも、朝刊に描かれた怪盗に似ていた。
ミラベルは、挿絵を描いた絵師を探した。
彼は次の紙面に使う図版を彫っていた。
「この怪盗の顔は、誰の証言を使ったんですか」
ミラベルが朝刊を広げる。
挿絵のルヴェールは、白い外套を翻し、銀色の仮面をつけ、屋根の上へ立っていた。
「顔はほとんど描いていないだろう」
絵師は作業を止めずに答えた。
「仮面と影だけだ」
「でも、街ではこれがルヴェールの姿になっています」
「絵が悪いのか」
「そういうわけでは」
「記事に、白い外套と銀の仮面と書いてあった。夜霧へ消えたともな。だから、そのとおりに描いた」
絵師は版木から顔を上げた。
「違うものを描けばよかったのか」
ミラベルは答えられなかった。
挿絵師が勝手に怪盗を作ったわけではない。
彼は、記事に書かれた要素を一枚の絵へまとめただけだった。
「《白鴉》の記事、ずいぶん評判がいいぞ」
オルセン編集長が言った。
「明日も見出しへ使う。短くて目立つ」
「本人は、その名を名乗っていません」
「街がそう呼んでいるなら、もう名前だ」
「私たちが広めたんです」
「最初に書いたのはうちかもしれん。だが、今朝だけで他紙が五社使っている」
編集長は窓の外を示した。
白い布をまとった子どもたち。
銀色の仮面を並べる露店。
紙羽根を帽子へ差した新聞売り。
「もう新聞だけの言葉ではない」
「だから、正しいことになりますか」
「正しいかどうかと、定着したかどうかは別だ」
編集長はそう答え、次の紙面へ視線を戻した。
一度紙面へ置いた顔は、記事を離れて歩き始めていた。
その顔を見た者が、今度は目撃者として市警へ並んでいる。
◇
夕方。
ミラベルが再び市警を訪れると、聞き取り室の机には十枚近い似顔絵が並んでいた。
細い青年。
老紳士。
仮面の女。
耳の長いエルフ。
髭のないドワーフ。
どの絵も、一人以上の証言に忠実だった。
だからこそ、並べるほど同一人物には見えなかった。
イーダは新しい紙へ、薄い輪郭だけを描いていた。
「これが最新ですか」
ミラベルが訊く。
「確実に分かっているところだけ描いた」
紙には、顔の外周と仮面の位置だけがある。
目も鼻も口もない。
「顔がありません」
「見えていないからね」
イーダは輪郭を眺めた。
「仮面の形も証言が違う。丸い、細い、片目だけ、両目。銀、白、黒」
消し布で、仮面を消す。
「輪郭も、衣装で変えられる」
外周を消す。
紙には、何も残らなかった。
「これが一番正確だ」
イーダは白紙をグレアムへ渡した。
グレアムは怪盗記録を開いた。
顔貌欄へ書く。
《顔貌、特定不能》
性別欄には、《男性》と記されていた。
王冠事件以前の犯行記録から、何度も転記され続けてきた一語だった。
グレアムは線を引き、その上へ訂正印を押す。
《未確認》
年齢。
《未確認》
種族。
《未確認》
身長。
《衣装、履物、立ち位置による偽装の可能性あり》
「何も分かっていないのと同じですね」
ミラベルが言った。
「違う」
グレアムはペンを置いた。
「分かっていないことが分かった」
「新聞には、顔のない怪盗とは書けません」
ミラベルは机上の白紙を見た。
「見出しには名前が要るし、挿絵には輪郭が要ります」
「なら、分からん輪郭まで勝手に作るな」
グレアムの言葉は、責める調子ではなかった。
机上の似顔絵へ向けられているようでもあり、市警が長く使い続けてきた記録へ向けられているようでもあった。
「でも、顔がなければ、どうやって探すんです」
入口に立っていた若い警官が訊いた。
壁へ貼るための手配書を持っている。
顔貌欄の空いた手配書だった。
グレアムは答えた。
「顔以外を見ろ」
「顔以外?」
「あいつは予告した時刻を守った。王冠だけでなく、その所有を証明する記録へ手を出した」
グレアムは十枚の似顔絵をまとめた。
「顔は変えられる。服も、声も、背丈も変えられる」
一番上の絵を裏返す。
「だが、何を盗むかは、その人間が選ぶ」
若い警官は、顔のない手配書を壁へ貼った。
空白の下に、怪盗ルヴェールの行動特徴だけが並んでいる。
ミラベルはその紙を見ながら、取材帳を開いた。
翌朝の記事の見出しを書く。
《白鴉の正体に迫る》
しばらく見つめ、線を引いて消した。
代わりに、
《十人が見た怪盗に、同じ顔はなかった》
と書く。
挿絵欄には、
《似顔絵掲載せず》
と記した。
さらに、《白鴉》という呼び名の横へ注記を加える。
《新聞各紙が使用する呼称。怪盗本人の自称ではない》
窓の外から、子どもたちの声が聞こえた。
明日も白い外套は街を歩くだろう。
銀色の仮面も売られる。
新しい目撃者も市警へ現れる。
それでも。
新聞が、誰も見ていない新しい顔を一つ加えることだけはなかった。
◇
## 観測余録 描かれなかった顔
市警の記録には。
怪盗ルヴェールの似顔絵が、十枚添付されました。
若い男。
老いた男。
エルフ。
ヒト族。
あるいは、女だったかもしれない者。
どの似顔絵にも。
誰かの証言がありました。
しかし。
すべての証言が、目撃だったわけではありません。
誰かが見たもの。
見たと思ったもの。
新聞で知ったもの。
あとから記憶の中で組み立てられたもの。
それらを、同じ重さの目撃として重ねることはできません。
最後に市警が残したのは。
似顔絵ではなく。
《顔貌、特定不能》
という一行でした。
顔を描けなかったことを、失敗と呼ぶ者もいるでしょう。
しかし、ときには。
分からないものへ、分からないと記すことが。
もっとも正確な記録になるのです。
――ナミ=エル




