↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
53/228

第2節 ― 真鍮夫人の新しい都市

 ブラス重工商会中央記録塔は、遠くから見れば巨大な時計に似ていた。


 七階建ての黒い煉瓦壁。


 各階を縦に貫く真鍮製の気送管。


 煤霧を切るように回る、屋上の圧力調整羽根。


 正面中央には、ヴェルム=クロウ標準時を示す大時計が嵌め込まれている。


 長針と短針のほかに、細い第三の針があった。


 その針は、時間を示さない。


 都市各所から届く記録信号の量に応じて、文字盤の外周を進む。


 誰かが生まれ。


 工房へ入り。


 鉄道へ乗り。


 病院へ運ばれ。


 あるいは、死亡を認定されるたび。


 針が、わずかに動く。


 都市が。


 自分の内部で起きたことを、数えている。


 馬車から降りたミラベルは、外壁を走る気送管を見上げた。


 透明な確認窓の奥を、金属筒が走り抜けていく。


「随分、大きな記録機械ですね」


「塔は機械の外装だ」


 レオンが答えた。


「中に機械を置いたんじゃない。建物そのものを機械として作っている」


「一つ故障したら、塔全体が止まりそうです」


「一つの誤りで、塔全体が正しく動くこともある」


「それを、正しく動いたと言うんですか」


「機械にとってはな」


     *


 正面扉の前には、鉄柵で囲われた検査区画が設けられていた。


 市政官。


 銀行家。


 病院記録官。


 鉄道会社の幹部。


 新聞記者。


 都市の名と権利を動かす者たちが、列へ並び、自分の身元を証明している。


 その先頭付近で、聞き覚えのある声が響いた。


「武器を預けろと言っとるんじゃない。登録しろと言っとるんだ」


 グレアム警部だった。


 黒い外套へ市警の腕章を巻き、招待客の杖や短銃を部下に確認させている。


 式典警備用の礼装を着ていても、上流階級の集まりへ溶け込む気はないらしい。


 レオンを見つけると、眉間の皺が一つ増えた。


「来たか」


「呼んだのは兄だ」


「お前の兄貴に呼ばれたからって、何を壊してもいい理由にはならんぞ」


「壊す予定はない」


「予定になかったものを壊すから言っとる」


 グレアムは、レオンの外套の内側を調べた。


 手帳。


 鑑定レンズ。


 小さな定規。


 紙挟み。


 インク瓶。


 封蝋片を入れる金属箱。


「そのレンズも登録しろ」


「武器ではない」


「お前が持つと、大抵の物は誰かの秘密を傷つける」


「秘密の構造が弱い」


「今夜は警備責任者の命令のほうが強い」


 二人の応酬を聞いていた若い警官が、笑うべきか迷った顔をした。


 その背後で、塔の扉が開く。


 暖められた金属と機械油の匂いが流れ出した。


「お通しして」


 女性の声だった。


 大きくはない。


 それでも、検査区画にいた者たちの動きが止まった。


     *


 扉の内側に、一人のドワーフ女性が立っていた。


 人間の胸元ほどの背丈。


 だが、彼女を小柄と感じる者はいなかった。


 暗い真鍮色の礼服。


 高い襟。


 肩から胸へ流れる太い飾り鎖。


 灰金色の髪は、後頭部で一つに束ねられている。


 右手には手袋をしていない。


 人差し指に、古い真鍮の印章指輪が嵌められていた。


 モルガ=ブラス。


 ブラス重工商会総帥。


 新聞では、《真鍮夫人》と呼ばれている。


 ミラベルは、鉄道開通式や市政会議の記事で何度も肖像を見ていた。


 どの写真でも、モルガは周囲の人間より低い位置に写っている。


 それでも、写真の中心は彼女だった。


 実物には。


 紙面では伝わらない圧力があった。


 相手の顔だけを見ない。


 服。


 靴。


 手。


 同行者。


 その者が何を持ち、何によって支えられているのかまで、一度に測る目だった。


「レオン=クラウス氏」


「ブラス夫人」


「中央記録庁から外部鑑定人を招くとは聞いていました。あなたとは聞いていませんでしたが」


「知っていたら断ったか」


「いいえ」


 モルガはためらわなかった。


「あなたは優秀です。だからこそ、内部へ入れるには注意が必要です」


「歓迎されているようで何よりだ」


「歓迎と警戒は両立します」


 その目が、ミラベルへ移る。


「ミラベル=ワトリアさんですね。月硝子劇場の記事を読みました」


「ありがとうございます」


「観客の証言が、舞台上の事実によって誘導された。興味深い記事でした」


 モルガは塔の内部へ片手を向ける。


「人の証言が揺らぐなら、より正確な記録が必要です。そのための機械を、今夜お見せします」


「記録も間違います」


 ミラベルが言った。


「だから、間違いを減らす機械を作りました」


「見せるだけで済めばいいがな」


 グレアムが鼻を鳴らす。


「招待客が多すぎる。公開試験なのか、商会の見本市なのか、どっちだ」


「都市の記録を接続する機械です。都市を動かす方々に見せず、誰に見せるのです」


「動かされる市民にも見せろ」


「今夜の結果は、新聞を通じて公開されます」


「商会が見せたい面だけがな」


「そのために、クラウス氏とワトリア記者がいるのでしょう」


 モルガは、わずかに口元を緩めた。


「警部。あなたも含めて」


「俺は機械の宣伝をするために来たんじゃない」


「事故を防ぐためでしょう。目的は同じです」


「数え方が違う」


「だから、あなたが必要なのです」


 グレアムは不満そうに唸ったが、部下から合図を受け、検査区画へ戻った。


 モルガは、その背中を見送る。


 敵を見る目ではない。


 扱いにくいが、欠くことのできない部品を見る目だった。


     *


 中央記録塔の内部は、役所と工場を重ねたような空間だった。


 玄関広間から上階まで続く吹き抜け。


 その中心を、太い真鍮柱が貫いている。


 各階から伸びた気送管が柱へ集まり、内部では記録筒が絶えず上下していた。


 歯車の低い回転。


 金属票へ穴を開ける乾いた打音。


 紙を送る爪の擦れる音。


 圧力弁が吐く短い息。


 それらが重なり。


 建物全体が、小さな言葉を絶えず呟いているようだった。


「話しかけられている気分になります」


 ミラベルが言う。


「返事をするな」


「機械にですか」


「役所の機械は、一度返事をすると書類が増える」


 レオンは、通路へ引かれた黄色い線を見ていた。


 線の内側は招待客。


 外側は作業員と機械の領域。


「機械を見ないんですか」


「設計なら、あとで図面を読める」


「では、何を」


「誰が、どこへ触れられるか」


     *


 中央機関の前で、一人の男が記録板を確認していた。


 四十代ほど。


 細身。


 濃い茶色の髪には、わずかな白髪が混じっている。


 実務用の黒い上着。


 胸元には、外部安全監査官の銀章。


 エリアス=フォルン。


 その横では、淡灰色の事務服を着た若い女性が、鉛筆を走らせていた。


「病院端末の最大遅延は?」


 エリアスが聞く。


「四・一秒。患者状態の変更時です」


「鉄道は」


「一・九秒以内」


「原因票を添えてください」


「はい」


 女性は、削り方の違う鉛筆を使い分けている。


 黒。


 赤。


 青。


 通常記録。


 疑義。


 安全上の停止事項。


 モルガが近づいた。


「エリアス。外部鑑定人のクラウス氏です。こちらはワトリア記者」


「存じています」


 エリアスはレオンへ手を差し出す。


「エリアス=フォルン。市政記録局から派遣された外部安全監査官です」


「ブラス重工の出身だと聞いた」


「十三年前まで、記録機械部門にいました」


「自分が作ったものを監査するのか」


「私が設計した機械ではありません。ただ、設計者の説明を鵜呑みにしない程度には内部を知っています」


「監査官としては健全だ」


「元同僚からの評判は悪くなります」


「それも健全だ」


 エリアスは、わずかに笑った。


「こちらは、監査助手のリナ=セイルです」


 紹介された女性が、記録板を胸へ抱え直す。


「よろしくお願いします」


「機械の数字と、人が確認したことを別々に書いているんですね」


 ミラベルが尋ねる。


「同じ記録へ混ぜると、誤りが起きたときに原因が分からなくなりますから」


「いい分け方だ」


 レオンが言う。


「フォルン監査官の指示です」


「君が書いている」


 リナは、記録板の端を少し強く握った。


 エリアスが話を戻す。


「現時点で、致命的な欠陥は確認していません」


「致命的ではない欠陥は」


「あります」


 モルガの眉が、わずかに動いた。


 それでも、エリアスは続ける。


「端末ごとの書式差。古い基礎記録番号の読取りずれ。同じ状態名が、機関によって異なる意味で使われている点」


「その項目は修正済みよ」


 中央機関の下から、ドワーフ女性が姿を現した。


 短く切った赤銅色の髪。


 額には保護眼鏡。


 濃紺の作業服の上から、主任技師の白い上着を羽織っている。


 片手には油の染みた工具。


「表示書式を変えただけです」


 エリアスが言う。


「機械内部では区別している」


「利用者には同じ表示が出る」


「正式稼働までに直す」


「その前だから指摘しています」


 モルガが二人のあいだへ入る。


「主任設計技師、ベアトリス=カルムです。《レギストラ》の機械設計を統括しています」


「不具合の統括までしているようだ」


 レオンが言った。


 ベアトリスは保護眼鏡を外し、彼を正面から見る。


「不具合のない試作機を見たことがありますか」


「ない」


「では、欠陥があること自体を驚いた顔で見ないでください」


「驚いていない。隠さなかったことに感心している」


「褒めています?」


「まだ判断していない」


 ベアトリスは、レオンの鑑定レンズを見る。


「機械の分解は禁止です」


「まだ触れていない」


「触る前に言っています」


「正しい予防だ」


 ミラベルは。


 昼間、中央記録庁で会ったもう一人のクラウスを思い出した。


 判断を保留する言い回しは、兄弟共通らしい。


     *


「ベアトリス」


 モルガが呼び止めた。


「公開用の印章照合を先に済ませます」


 近くの卓上機には、掌ほどの白い板が固定されていた。


 蝋とも粘土とも異なる軟質複製材。


 押された形を保ちながら、照合針が読み取れる素材だった。


 横に立っていた年配のドワーフ男性が、機械の蓋を開ける。


 髪も髭も鉄灰色。


 礼装の袖から覗く指には、古い火傷痕がいくつも残っていた。


 工房の作業台に立つ姿のほうが、よく似合いそうな男だった。


「総帥印の現行型を登録します」


 低く、よく通る声だった。


 モルガが彼を示す。


「ブラス重工商会常務。中央記録網運用責任者、オルド=ガルム」


 オルドは丁寧に一礼した。


「中央記録塔の運用全般を預かっております。お気づきの点があれば、私かカルム主任へ」


「総帥ではなく?」


 ミラベルが聞く。


「総帥へ直接届けるべき異常かを判断するのも、運用責任者の仕事です」


「父の代から」


 モルガが言った。


「商会の運用は、彼に任せています」


 短い言葉だった。


 だが。


 単なる部下への紹介ではないことは、十分に伝わった。


「私へ直接話しても構いません」


 モルガは続ける。


「隠す必要はありません」


「もちろんです、総帥」


 オルドは自然に頭を下げた。


 長年。


 同じ信頼へ応え続けてきた者の滑らかさだった。


     *


 モルガは右手を差し出した。


 人差し指の印章指輪を、軟質複製材へ真っ直ぐ押し込む。


 白い板が沈み。


 歯車と羽根を組み合わせたブラス家の印が残った。


 印章面が離れる瞬間。


 レオンの目が細くなる。


 ミラベルも指輪を見た。


 印章の外周。


 右下に、髪の毛ほど細い亀裂が一本走っている。


 長く使われた金属印へできた傷。


 複製材には、その線まで写っていた。


 ベアトリスが板を照合機へ入れる。


 内部で細い針が何度も上下し。


 やがて、緑色の表示灯が点いた。


 ――総帥印・照合済。


「登録完了」


 オルドは複製材を取り出し、薄い金属ケースへ収めた。


 蓋に時刻と担当者名を書き。


 運用資料へ重ねる。


 ごく普通の手順だった。


「複製材は保管するのか」


 レオンが聞く。


「公開試験終了まで」


 オルドが答える。


「照合不一致が出た場合、原型と比較します。終了後は裁断し、溶剤処理します」


「誰が廃棄を確認する」


「私と、フォルン監査官です」


 エリアスが頷く。


「記録も残します」


「現段階では、手続き上の穴はない」


「現段階では?」


 オルドの笑みは崩れない。


「手続きが正しいことと、運用が正しいことは別だ」


「おっしゃるとおりです」


 ミラベルは手帳へ、人物と役割を書き込んだ。


 モルガ=ブラス。


 総帥。


 ベアトリス=カルム。


 主任設計技師。


 オルド=ガルム。


 運用責任者。


 エリアス=フォルン。


 外部安全監査官。


 リナ=セイル。


 監査助手。


 作る者。


 動かす者。


 監査する者。


 記録する者。


 責任を負う者。


 一台の機械を囲みながら。


 全員が、別の紙を持っていた。


     *


 午後九時四十分。


 招待客が、吹き抜け中央部を囲む見学台へ集められた。


 下方には《レギストラ》の主操作盤。


 壁には、各機関を示す表示板が並んでいる。


 戸籍。


 雇用。


 鉄道。


 病院。


 銀行。


 保険。


 警察。


 死亡。


 ミラベルたちは、報道関係者用の前列へ案内された。


 グレアムは見学台へ上がらず、警官を各出入口へ配置している。


 レオンも椅子へ座らなかった。


 手摺のそばに立ち。


 操作盤と、そこへ出入りする者たちを見ている。


「十一件の死亡閉鎖を入力できた人を探しているんですか」


 ミラベルが小声で尋ねる。


「入力した者と、復帰させた者が同じとは限らない」


「機械の誤作動は」


「まだ残っている」


「正式な試験手順という可能性も」


「残っている」


「意図的な操作も」


「残っている」


「全部ですね」


「だから見に来た」


 見学台前方で、真鍮の鐘が一度鳴った。


 モルガが主操作盤の前へ進む。


 演壇はない。


 彼女には必要ないのだろう。


「皆様」


 静かな声が、吹き抜けへ広がる。


「ヴェルム=クロウでは、一人の市民について複数の記録が、別々の機関で管理されています」


 戸籍。


 雇用。


 銀行。


 病院。


 鉄道。


 モルガが名を挙げるたび、対応する表示板へ灯が入る。


「一つの場所で訂正された事実が、別の場所へ届くまでには時間がかかる。その遅れが、誤りと犯罪の隙間になります」


 彼女は中央機関へ振り返った。


「人は一人です。《レギストラ》は、その一人に結びつく記録を、同じ名の下へ集めます」


 ベアトリスが操作桿を下げる。


 主機内部で歯車が噛み合い。


 床の下から、低い振動が伝わった。


 オルドが、試験用の薄い真鍮票を照合口へ挿入する。


 機械が名票を飲み込み。


 穿孔を読む。


 中央印字機から、一枚の紙が送り出された。


 ――公開試験用基礎名票・甲号。


 実在の市民ではない。


 それでも、離れた試験端末から送られた雇用、鉄道、銀行、病院の情報が、同じ紙へ並んでいる。


「基礎番号一致」


 エリアスが確認する。


「端末四か所、照会完了。最大遅延二・二秒」


 リナが時刻を記した。


 見学台から、どよめきが起きる。


「すごい」


 ミラベルは思わず身を乗り出した。


 これまでなら、別々の役所へ照会書を送り。


 返答を待ち。


 異なる書式を照合しなければならない。


 それが数秒だった。


 隣のレオンは。


 出力紙の端にある番号だけを追っていた。


「便利だとは思わないんですか」


「便利ではある」


「それだけ?」


「便利なものほど、間違ったときに遠くまで届く」


     *


 重複した銀行申請が自動で止められ。


 異なる地点で同時に使用された名票が、矛盾として表示される。


 実演のたびに。


 銀行家や鉄道関係者の席から、感嘆の声が上がった。


「偽名や二重契約は大幅に減ります」


 モルガが言う。


「死者名義の口座利用。複数の工房へ同時登録された労働者。存在しない乗客。記録の分断へ隠れる犯罪は、これまでより困難になる」


「記録に存在しない人間は?」


 ミラベルが声を上げた。


 周囲の記者が、一斉に彼女を見る。


「白紙街の住民です。基礎名票を持たない人。この機械は、そういう人をどう扱うんですか」


「基礎名票の再発行手続を整備します」


「再発行できなければ?」


「記録がなければ、照合はできません」


「つまり、機械には存在しない」


「機械が存在を決めるのではありません」


 モルガの声は穏やかだった。


「制度が、その者を保護できる状態にあるかを照合するのです」


「保護されない者は、存在していても照合されない」


「それは《レギストラ》が作った問題ではありません」


「でも、同じ誤りを都市全体へ広げることはできます」


 見学台が静かになる。


 モルガは、ミラベルを軽く見るような顔をしなかった。


 問いの重さを。


 正面から測っていた。


「正しい指摘です」


 やがて言った。


「だからこそ、基礎記録の整備と同時に導入しなければならない。記録を持たない者を放置したまま、機械だけを完成させるつもりはありません」


「すべての人を記録へ戻せますか」


「すべてを約束する者は、責任を負わない者です」


 ミラベルは、その言葉を手帳へ書いた。


 逃げではない。


 だが、答えでもなかった。


     *


「次に、記録状態の変更を実演します」


 生存。


 一時不明。


 契約停止。


 失踪。


 予備閉鎖。


 死亡閉鎖。


 状態名が表示板へ並んだ。


 エリアスが説明する。


「それぞれ、停止される権利と、解除条件が異なります。実演には、試験用の甲号名票を使用します」


 レオンは、予定表の最後へ目を留めた。


 ――将来発効記録の照会。


「将来発効記録?」


 ミラベルが聞く。


「明日から有効になる雇用契約や、時刻を指定した口座停止を、先に登録しておく機能です」


 リナが答えた。


「指定時刻になると、各機関へ反映されます」


「未来の記録を、先に機械へ入れる」


「未来に起きる事実ではありません」


 エリアスが訂正する。


「未来に効力を持つ命令です。そこは区別してください」


「未来を予言するのではなく」


 ミラベルが言う。


「未来へ予約する」


「その表現なら近いです」


 レオンがベアトリスへ尋ねる。


「命令を入力した時刻と、発効する時刻は別に残るのか」


「当然です。入力時刻、発効時刻、権限、照会履歴。全部残ります」


「訂正は」


「元の命令票を残し、訂正票を重ねます」


「削除は」


「できません。無効化するだけです」


「設計上は、綺麗だ」


 ベアトリスの眉が上がる。


「設計上は?」


「運用するのは人間だ」


「だから監査官がいる」


 エリアスが言う。


「監査官も人間だ」


「ええ」


 エリアスは、中央機関を見上げた。


「そこまで含めて、完全ではありません」


 自分がかつて働いていた商会の。


 そして今は、危険性を測るために戻ってきた機械を。


「完全でないものを、完全だと宣伝させないために私がいます」


「だから彼を依頼しました」


 モルガが言う。


「雇われたという表現は、独立性を損ねます」


「報酬は払っています」


「市政記録局を介してです」


「最終的な出所はブラス重工です」


「記者の前で強調しないでください」


 ミラベルは、すでに手帳へ書いていた。


「遅かったですね」


 モルガの口元に、小さな笑みが浮かんだ。


 場の緊張が、わずかにほどける。


 そのとき。


 見学台後方で、杖の先が床を打った。


 乾いた。


 小さな音。


 レオンの顔から。


 わずかに表情が消えた。


     *


 ノクス=モリアンは、招待客の列から離れた場所に立っていた。


 黒い外套。


 細身の杖。


 没落した高位エルフを思わせる、整った顔立ち。


 月硝子劇場で会ったときと。


 何一つ変わっていない。


 舞台上で死者が動き。


 五百人の観客が、同じ誤った記憶を作った夜。


 彼は事件の構造を理解しながら。


 レオンが答えへ辿り着く様子を観察していた。


 殺人犯ではなかった。


 だが。


 何も知らない傍観者でもなかった。


 ノクスは、モルガの前で軽く頭を下げる。


「ブラス夫人。見事な動作です」


「試験は、まだ始まったばかりです」


「機械ではなく、これほど異なる立場の方々を、一つの場所へ集めた手腕について申し上げました」


「あなたの言葉は、褒めているときほど警戒が必要ですね」


「光栄です」


「契約構文監修者として、状態変更の実演には立ち会ってください。今夜は観客ではありません」


「承知しています」


 ノクスの視線が、レオンへ移る。


「お久しぶりです、クラウス君」


「数日だ」


「興味深い記録の前では、時間は密度で数えるべきでしょう」


「役所へ提出してみろ。受理されない」


「制度に拒まれる表現ほど、真実へ近いこともあります」


 ノクスは中央機関を見上げた。


「今夜は、同じ記録を見ることになりそうですね」


「同じ結論になるとは限らない」


「だからこそ、見る価値がある」


 ミラベルは、二人のあいだへ視線を走らせた。


 グレアムとモルガは。


 同じ都市を、どう守るかで争っていた。


 レオンとノクスは。


 何を真実と呼ぶのかが違う。


「《レギストラ》は、美しい機械です」


 ノクスが言う。


「まだ何も起きていない」


「起きたことを記録するだけが、記録の役目ではありません」


「何を言いたい」


「契約は、未来の行為を先に書くでしょう」


「契約と事実記録は違う」


「ですが、この機械は両方を扱う」


 ノクスは、将来発効記録の予定表へ視線を落とした。


「過去を保存し。現在を照合し。未来へ命令する。一つの装置の中で、三つの時制が同じ名へ結ばれる」


「だから危険だと?」


「だから興味深いのです」


 ベアトリスが主操作盤から顔を上げる。


「教授。設計上の不安を煽るなら、具体的にお願いします」


「不安ではありません。評価です」


「あなたの評価は、あとから別の意味へ読めるように作られている」


「優れた記録は、複数の読み方へ耐えます」


「機械仕様書では迷惑です」


 モルガが会話を切った。


「開始時刻です」


     *


 壁の大時計が、午後十時を指した。


 鐘が十度。


 吹き抜けへ響き。


 オルドが主操作盤の鍵穴へ、運用責任者用の鍵を挿す。


「主機圧、規定値」


 ベアトリスが読み上げた。


「午後十時。公開稼働試験、開始」


 リナが時刻を記す。


「外部監査、記録開始」


 エリアスが各表示板を確認する。


 グレアムが部下へ合図を送り。


 出入口が閉じられた。


 モルガが中央へ立つ。


 その背後で。


 何百枚もの名票を受け入れるための機械が、ゆっくりと回転を始めた。


 戸籍の灯。


 鉄道。


 病院。


 銀行。


 保険。


 警察。


 死亡。


 別々だった記録が、一つの中央柱へ集まっていく。


 ミラベルは、その光景へ見入った。


 街中の人間の名が。


 働いた記録も。


 移動した記録も。


 病んだ記録も。


 生きているという記録も。


 いつかは、ここへ結ばれる。


 便利で。


 正確で。


 巨大な。


 新しい都市。


 その隣で。


 レオンは機械ではなく。


 機械を見上げる人々の顔を見ていた。


「何か分かりましたか」


「まだ何も」


「十一件との関係も?」


「試験端末が、ここへつながっている。それだけだ」


「ノクス教授も?」


「今は、監修者の一人だ」


「疑ってはいる」


「ああ」


「でも、決めてはいない」


 レオンは、中央柱の中を上昇する記録筒を目で追った。


「今ここにあるのは、可能性だけだ」


 金属筒が最上部へ届く。


 分岐弁が切り替わり。


 どこか別の階へ吸い込まれていった。


 機械は止まらない。


 都市の名を一つへ集めながら。


 まるで。


 まだ届いていない記録のために。


 空いた場所を、先に用意しているかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。