第1節 ― 黒椅子からの依頼
ヴァルテリア中央記録庁には、待合室というものが存在しなかった。
来庁者が立たされる場所には、《照合前滞在区画》。
長椅子には、《未処理者着席設備》。
受付で名前を告げても、記録官は顔より先に提出書類を見る。
人間が紙を持って役所へ来るのではない。
紙に付随して、人間が運ばれてくる。
そう考えたほうが、この建物の作法は理解しやすかった。
*
ヴェルム=クロウ中央官庁街。
朝から空は煤煙に曇り、記録庁舎の白い外壁を鈍い灰色へ変えていた。
磨かれた石床。
等間隔に並ぶ真鍮柱。
壁際を上下する書類昇降機。
透明な管の中を走る気送筒。
番号機が鳴るたび、市民たちが一斉に手元の札を確かめる。
出生証明。
相続照会。
工房資格。
婚姻記録。
死亡閉鎖。
人間の一生が、窓口ごとに分解されて並んでいた。
ミラベルは、受付で渡された臨時通行証を胸元へ留め直した。
薄い鉄板には、
――ミラベル=ワトリア。
と刻まれている。
その下に、
――新聞関係者。
さらに赤い印で、
――随行者。
「随行者」
ミラベルは歩きながら、その文字を指先で叩いた。
「誰の随行ですか」
「俺だろう」
前を歩くレオンが答えた。
「どうして私が、あなたの付属物みたいに記録されているんです」
「役所に言え」
「受付で『クラウス氏と一緒だ』と言ったのは、あなたです」
「別々に説明するより早い」
「私の立場が一語で消えました」
「中央記録庁ではよくあることだ」
「その言い方、冗談に聞こえません」
「冗談ではない」
レオンの通行証には、
――外部記録鑑定人。
と記されていた。
私立探偵でも。
元記録院調査官でもない。
この建物へ通すため、誰かが最も都合のよい肩書きを選んだのだ。
二人を案内していた若い記録官が、長い廊下の角で足を止めた。
「ここから先は、上級顧問室の専用区画です」
記録官は台帳へ時刻を書き込み、細長い誓約票を差し出した。
「入室中に閲覧した文書について、公開区分が確定するまで口外することはできません。新聞、私的書簡、講演、酒場を含みます」
「酒場まで指定するんですね」
「酒場で失われた機密の件数は、会議室を上回ります」
記録官は真顔だった。
ミラベルも真顔になり、誓約票へ手を伸ばす。
その横から、レオンが紙を取った。
「第三項」
「はい?」
「公開区分を決定する者が書かれていない」
「通常は、閲覧を許可した部署が――」
「通常ではなく、この文書では誰だ」
記録官の口元が固くなる。
「標準書式ですが」
「標準的に不備がある」
「全部読むんですか」
ミラベルが尋ねた。
「署名するならな」
「役所へ来るたびに、それを?」
「だから呼ばれなくなった」
「納得しました」
記録官は廊下の奥へ目を向けた。
白い壁の中に、黒い木製扉が一つある。
「上級顧問から、書式への異議は入室後に受けるよう指示されています」
レオンの目が細くなった。
「俺が止めると分かっていたのか」
「そのようです」
レオンは署名しないまま、誓約票を机へ戻した。
「なら、中で話す」
「私も署名しなくていいんですか」
ミラベルが聞く。
「庁舎管理規則により、守秘義務そのものは適用されます」
記録官が答えた。
「署名しなくても、建物へ入った時点で?」
「中央記録庁へようこそ」
レオンが言った。
*
黒い扉の向こうは、役所の部屋には見えなかった。
最初に目へ入ったのは、暖炉だった。
石炭火が赤く燃え、厚い鉄格子の奥で小さく爆ぜている。
壁一面の書架には、法律書だけでなく、都市統計、鉄道運行報告、商会年鑑、警察月報、病院の薬品使用記録まで並んでいた。
背表紙の色も大きさも揃っていない。
ただし、棚へ収められた順序には、異様なほどの正確さがある。
部屋の中央には大きな机があった。
だが、机の主はそこにいなかった。
暖炉の前。
窓を背にした場所に、黒い革張りの椅子が置かれている。
幅の広い肘掛け。
側面の書類箱。
引き出し式の筆記台。
紅茶の保温器。
呼出用の真鍮鈴。
人が座る椅子というより、一つの執務室だった。
その中心に、一人の男が座っている。
年齢は四十代前半ほど。
黒に近い濃茶の髪。
よく整えられた口髭。
煤一つついていない濃紺の上着。
身体はレオンよりわずかに大きく、肩にも厚みがある。
顔立ちは似ていた。
目元。
鼻筋。
相手を観察するとき、わずかに顎を引く癖。
だが、受ける印象は正反対だった。
レオンが雨と煤煙の中に立つ男なら。
その人物は、暖炉と書類の内側から都市を眺める男だった。
「遅かったね」
男は椅子から立たなかった。
「指定時刻の三分前だ」
レオンが答える。
「私の計算では、君は五分前に建物へ入り、入口で書式へ難癖をつけ、二分前に到着する予定だった」
「難癖じゃない。不備を指摘した」
「区別しているのは君だけだよ」
男は、レオンの隣へ視線を移した。
「それで。こちらが、弟の記録係かな」
「記者です」
ミラベルは即座に訂正した。
「ミラベル=ワトリア。ヴェルム=クロウ日報の記者です。レオンさんが関わった事件を記録していますが、レオンさんの所有物でも、中央記録庁の備品でもありません」
男の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「一息でよくそれだけ訂正できる」
「訂正箇所が多かったので」
「それは失礼した。ワトリア記者」
謝罪の形は整っている。
しかし、本当に悪いと思っているかは分からない。
レオンより愛想がある。
その分だけ、ミラベルには警戒すべき相手に見えた。
彼女はレオンを見る。
「弟、とおっしゃいました?」
「ああ」
「こちらの方が?」
「兄だ」
「兄」
ミラベルの視線が、二人のあいだを往復する。
似ている。
言われてみれば、疑いようがなかった。
「お兄さんがいたんですか」
「いる」
「どうして教えてくれなかったんです」
「聞かれなかった」
「兄がいるかなんて、普通は確認しません」
「なら、確認されなかった情報が残っていただけだ」
ミラベルはしばらく口を開かなかった。
暖炉前の男が、喉の奥で小さく笑う。
「相変わらずだな、レオン。人間関係まで未申告記録に分類する」
「兄さんは相変わらず、申告されていないことまで管理したがる」
兄さん。
その一語によって、ミラベルの中に残っていた疑いが消えた。
男は椅子の肘掛けへ手を置く。
「エドガー=クラウス。ヴァルテリア中央記録庁上級顧問。ほかにも肩書きはあるが、今日の話には必要ない」
「必要かどうかは、こちらで判断します」
ミラベルが言う。
エドガーは先ほどより長く、彼女を見た。
「君は、思っていたより弟に似ているらしい」
「それは褒め言葉ですか」
「まだ判断していない」
「なら、私も保留にします」
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
*
「用件は」
レオンが立ったまま尋ねた。
「座りたまえ」
「ここでいい」
「君は昔から、頼まれたことへ素直に従うと能力が落ちると信じているね」
「兄さんは、椅子から立つと権威が落ちると信じている」
「立つ必要がないだけだよ」
「都市のほうから、椅子の前へ来るからか」
「少なくとも、問題のほうからはね」
エドガーが片手を上げた。
それだけで、壁際に控えていた年配の書記官が動いた。
ミラベルは、部屋へ入ったときから彼がいたことに気づいていなかった。
書記官は十一冊の薄い綴りを運び、机へ並べた。
十冊は等間隔に。
最後の一冊だけは、エドガーの右肘に近い場所へ置かれた。
指二本ぶん。
ほかの綴りから離れている。
エドガーは、その一冊の表紙へ指先を置いたまま言った。
「三か月前から昨日まで。中央記録庁が把握した、異常な死亡閉鎖記録だ」
「死亡記録ではなく?」
ミラベルが聞く。
「正確には、基礎記録上の死亡閉鎖処理だ」
「十一人が、誤って死者にされたんですか」
「誤って、という部分は確定していない」
レオンは最も左の綴りを取った。
表紙には整理番号だけ。
氏名、住所、職業、所属。
個人を特定できる箇所は、黒い遮蔽帯で覆われている。
記録は三段だった。
死亡閉鎖。
処理保留。
生存状態への復帰。
「死亡が取り消された?」
ミラベルが尋ねる。
「死亡そのものではない」
レオンは紙を暖炉の光へ透かした。
「死因も、確認者も、遺体照合番号もない。正式な死亡記録は作られていない」
「では、この人は死んでいなかった」
「少なくとも、肉体の状態はこの紙から分からない」
「それでも、記録上は一度死者として扱われた」
「死亡閉鎖されているあいだはな」
ミラベルは隣の綴りを開いた。
同じ処理。
ただし、日付と時刻が違う。
レオンはさらに二冊を抜き、時刻欄を並べた。
数分で生存へ戻った記録。
一時間近く閉鎖された記録。
日付をまたいだものはない。
だが、その時間だけは。
十一人の名が、生者の記録から外されていた。
「全員、今も生きているんですか」
「確認できる範囲では」
エドガーが答えた。
「閉鎖解除後も、雇用、病院、鉄道、納税の各記録は通常どおり動いている」
「本人たちは?」
「試験処理を説明された者もいる。知らない者もいる」
「試験?」
レオンが紙の左下を指で叩いた。
小さな角印。
歯車の中央に、開かれた帳面。
――統合照合試験端末。
「十一件すべてに、同じ印がある」
「そのとおり」
「試験端末から死亡閉鎖を入力し、同じ系統から戻している」
レオンは別の綴りを開いた。
「解除理由がない」
ミラベルも訂正欄を見る。
通常なら。
誤記。
重複処理。
本人確認。
生存照会。
何らかの理由が記されるはずだった。
だが、十一件すべて空白。
人間の署名もない。
自動処理を示す細い打刻線だけが残っている。
「通常の訂正申請を通っていない」
レオンが言った。
「死亡閉鎖も復帰も、機械処理として通されている」
「機械の故障でしょうか」
「可能性はある」
レオンは閉鎖時刻と復帰時刻を見比べた。
「だが、単純な故障なら、閉鎖から復帰までの間隔がここまで違う理由が弱い」
「では、誰かが試している」
「何を?」
問い返され。
ミラベルは口を閉じた。
死亡閉鎖を入力できるか。
どれほど維持できるか。
生者へ戻せるか。
考えられることはいくつもある。
どれも、まだ紙の上からは断定できない。
「分かりません」
「今はそれでいい」
「珍しく優しいですね」
「分からない部分を、想像で埋めなかったからだ」
エドガーが椅子の中で脚を組み替えた。
「弟は、一枚の紙に時間をかけすぎる」
「兄さんは、十一人を一つの統計にするのが早すぎる」
「統計にしなければ、十一件が同じ異常だとは分からない」
「一人ずつ見なければ、同じ異常が起きた理由は分からない」
「だから君を呼んだ」
その言葉だけが、少し低かった。
レオンが顔を上げる。
兄弟の視線がぶつかった。
似た目をしている。
だが、見ているものが違う。
エドガーの背後には、都市全体の統計がある。
レオンの指先には、一人分の記録がある。
エドガーの右手は。
ほかから離された十一冊目の表紙に、まだ触れていた。
*
「中央記録庁で調べれば済む話だ」
レオンが言った。
「庁内照合では、試験端末の作動はすべて正式な権限下にある」
「権限が正しいことと、処理が正しいことは別だ」
「同感だ。だが、正式監査を始めれば試験そのものが止まる」
「止めればいい」
「証拠も止まる」
エドガーが暖炉脇の小卓を指した。
書記官が、一枚の招待状を机へ運ぶ。
象牙色の厚紙。
縁には細い真鍮箔。
中央には、七階建ての塔と巨大な歯車の図案。
――ブラス重工商会中央記録塔。
――都市統合記録機。
――公開稼働試験。
「今夜、ブラス重工商会が新しい都市統合記録機の公開試験を行う」
エドガーが言った。
「現在は別々に管理されている市民記録を、気送管と穿孔式名票で接続する機械だ」
「十一件の端末は」
「《レギストラ》へ接続するために設置された試験端末だ」
ミラベルは、机の上の綴りを見た。
理由もなく閉じられ。
生者へ戻された十一の名。
「公開試験を続けるんですか」
「現時点で、肉体的な被害は確認されていない」
「記録上、人を死者にしています」
「短時間の試験処理だったと説明されれば、法的にはそれで終わる」
「本人の同意がなくても?」
「それを含め、内部を見る必要がある」
「危険があるかもしれないのに、止めないんですか」
エドガーは暖炉の火を見た。
「危険の形が分からないまま停止命令を出せば、原因は軽微な試験不備として処理される。記録は修正され、責任者は交代し、機械は別の日に同じ状態で動き始める」
「だから、今夜」
「異常が生じる場所で、異常が生じる瞬間を見る」
あまりにも静かな声だった。
人間が巻き込まれる可能性まで。
一つの条件として計算されているように聞こえた。
「誰かが傷つく可能性は」
レオンが尋ねる。
「現時点では、死亡閉鎖以外の異常はない」
「答えになっていない」
「予測できる危険には、すでに警備を置いている」
「予測できないから、俺を呼んだんだろう」
エドガーは、ほんのわずかに目を伏せた。
「そうだ」
短い返答だった。
初めて。
この男がすべてを把握しているわけではないと分かる声だった。
「依頼は何だ」
「今夜の公開試験へ出席しろ。外部記録鑑定人として」
「私も?」
「報道関係者用の通行権を用意してある」
エドガーがミラベルを見る。
「随行者ではなく、ワトリア記者として」
「訂正は記録されたんですね」
「すでに」
冗談なのか。
本当に受付記録が書き換えられたのか。
ミラベルには判断できなかった。
「試験中、十一件と同じ死亡閉鎖処理が、どこから入力されるかを探れ」
エドガーは続ける。
「機械の誤作動か。試験手順の一部か。特定の人間による操作か。現段階では、どれも除外できない」
「内部資料は」
「公開範囲の設計資料と、試験端末の運用記録を閲覧できる」
「公開範囲では足りない」
「必要なら現場で増やせ。君は許可を得るより、必要性を証明するほうが得意だろう」
「追い出された理由を、長所のように言うな」
「役立つ性質は、処分歴がついても役立つ」
レオンは招待状を手に取った。
紙を撓ませ。
透かしを確かめ。
裏面の出席者一覧へ目を走らせる。
ブラス重工商会総帥。
モルガ=ブラス。
中央記録網運用責任者。
オルド=ガルム。
主任設計技師。
ベアトリス=カルム。
外部安全監査官。
エリアス=フォルン。
契約構文監修。
そこで。
レオンの指が止まった。
ミラベルは、その下にある名を読んだ。
――ノクス=モリアン。
月硝子劇場。
五百人の観客。
死者の動作を、人々の記憶へ本物として残した事件。
殺人犯ではなかった。
だが、事件の構造を誰より早く理解し。
レオンが答えへ辿り着くまで、静かに観察していた教授。
「ノクス教授が」
「《レギストラ》の構文監修者だ」
エドガーが言った。
「死亡閉鎖、相続凍結、失踪記録。異なる制度を一台の機械へ接続するため、法記録構文の統一に関わっている」
「いつから知っていた」
レオンが聞く。
「最初から」
「最後に見せた理由は」
「十一件だけで、君が出席する価値を認めるか確認したかった」
「試したのか」
「確認した」
「同じことだ」
「記録上は違う」
レオンは招待状を持ったまま、もう一度ノクスの名を見る。
「教授が十一件を処理した証拠はない」
「ない」
「端末へ直接触れた証拠も」
「確認されていない」
「なら、今は監修者の一人だ」
「疑わないのか」
「疑っている」
レオンは顔を上げた。
「だからこそ、証拠より先に名前へ結論を所属させない」
エドガーはしばらく弟を見ていた。
やがて、黒い椅子の背へ身体を預ける。
「なるほど」
暖炉の火が崩れた。
赤い光が一度だけ大きくなり。
机の上の十冊と。
エドガーの手元に残る一冊を照らした。
「では、見てきたまえ」
エドガーは言った。
「ブラス重工が作ろうとしている、新しい都市を」
「都市を見に行くんじゃない」
レオンは招待状を内ポケットへ収めた。
「その都市が、何を数え落としているかを見に行く」
エドガーの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「やはり君は、一つの死体に時間をかけすぎる男だ」
「まだ死体はない」
「そうだね」
エドガーは静かに答えた。
右手の下にある、十一冊目の綴りを閉じた。
「今のところは」




