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蒸都ヴァルテリアと偽装記録の探偵〜記録が嘘をつく街で〜  作者: 秋月キアラ
【予告】第7話 王冠は二度盗まれる
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【予告】観測記録 ― 所有者の証明

 物を持っている者を、持ち主と呼ぶ。


 それは、たいてい正しい。


 店で代価を払い。


 品物を受け取り。


 自らの家へ運び込んだ者。


 親から譲られ。


 遺言に名を記され。


 正しい手続きを経て受け継いだ者。


 契約を結び。


 署名を置き。


 印章を押し。


 その物を持ってよいと認められた者。


 それを、所有者と呼ぶ。


 だが。


 物を持っている者と。


 物を保管している者は、同じだろうか。


 物を譲り受けた者と。


 譲り受けたと記録された者は、同じだろうか。


 長く管理し。


 修復し。


 失われないよう守り続けた時間は。


 その物を所有する資格の証明になるだろうか。


 所有とは、物そのものの状態ではない。


 人と物とのあいだに結ばれた関係である。


 そして、その関係を社会が認めたとき。


 初めて。


 所有者という名が記録される。


 では。


 その記録が誤っていたなら。


 物は、誰のものになるのだろう。


 ごきげんよう、読者諸君。


 わたしは、イル=ヴァス。


 契約の裏面を読み。


 記録の余白へ置き去りにされた条件を観測する者。


 今宵、わたしが開くのは。


 一つの王冠と。


 一枚の土地権利書。


 そして。


 それらを持ってよいと認められてきた、都市の記録である。


    ◇


 ヴェルム=クロウ市立古美術館の正面階段には、朝から長い列ができていた。


 煤霧に濡れた黒灰色の石壁。


 真鍮の窓枠。


 尖塔のあいだへ張り渡された、深紅の告知幕。


 白い蒸気が石造りの鴉像の足元を這い、鉄骨と硝子で組まれた中央円蓋を薄く曇らせている。


 告知幕には、大きな金文字が並んでいた。


 ――ヴェルム=クロウ市制百二十七年記念。


 ――旧エルフ王国最後の王冠《七葉銀冠》。


 ――王国領の正式譲渡を証明する《灰炉譲渡証書》。


 ――初の同時公開。


 開館の鐘が鳴る。


 待っていた市民たちが、湿った石段を上り始めた。


 上等な外套をまとった市政官。


 懐中時計を気にする商会人。


 教師に引率された学生。


 古美術を見に来た者。


 王冠の値段を知りたい者。


 都市の歴史が正しく始まったと、確かめに来た者。


 そして。


 その正しさを、疑いに来た者。


 蒼硝子円蓋室の中央には、七葉銀冠が置かれていた。


 薄い銀の葉が七枚。


 それぞれの先端を異なる方向へ伸ばしながら、ひとつの円環を作っている。


 宝石を重ねた豪奢な王冠ではない。


 銀葉の縁には、枝脈に似た細い彫刻が走っていた。


 煤色の都市の中で。


 それだけが、切り取られた月光のように白い。


 隣の権利文書室には、《灰炉譲渡証書》が展示されていた。


 低い蒸気灯の下。


 古エルフ語で書かれた原文と、その翻訳。


 そして、市の解説札が並んでいる。


 百二十七年前。


 旧エルフ王国最後王は、王冠と七つの王領を、ヴェルム=クロウ建設評議会の前身組織へ譲り渡した。


 戦争による略奪ではなく。


 双方の合意による、平和的な譲渡だった。


 そう、解説札には記されていた。


 疑問符はない。


 留保もない。


 現在の都市が、この土地と王冠を所有することは。


 すでに決着した過去として説明されていた。


    ◇


 同じ朝。


 霧燈通り十三番地。


 黒鴉館二階の窓辺で、ミラベル=ワトリアは新聞を両手いっぱいに広げていた。


 まだ乾ききっていない印刷インクの匂いが、珈琲と煙草の残り香へ混じっている。


 紙面の半分を、七葉銀冠の挿絵が占めていた。


「見てください、レオン」


 返事はなかった。


 レオン=クラウスは鑑定机へ向かい、依頼人から預かった古い契約書の封蝋を、拡大レンズ越しに眺めている。


 ミラベルは新聞を少し下げた。


「ヴェルム=クロウ市立古美術館で、旧エルフ王国の王冠が公開されたそうです」


「そうか」


「土地権利書も一緒にです」


「そうか」


「市制百二十七年で、初めての同時展示です」


「記事の見出しは読める」


 レオンは顔を上げなかった。


 ミラベルは新聞を畳む代わりに、彼の机の上へ差し出した。


 紙面の王冠が、鑑定中の契約書を覆う。


 拡大レンズの中へ、銀葉の挿絵が大きく歪んで映った。


「取材へ行きませんか」


「行かない」


「まだ何も考えていませんよね」


「考える必要がない」


「王冠ですよ」


 レオンは、ようやく顔を上げた。


 新聞の挿絵を一瞥する。


「王冠は、値段の高い帽子だ」


 ミラベルは、予想していた以上に身も蓋もない返答に瞬きをした。


「歴史的価値があります」


「歴史的価値というのは、値段を決められない者が、値札の代わりに使う言葉だ」


「では、土地権利書は?」


「誰かが土地を持っていると主張するための紙だ」


「あなたの専門ではありませんか」


「争われていない権利書に用はない」


 レオンは新聞を二本の指で押し返した。


 その動きで、紙面の端が鑑定机を滑る。


 ミラベルは受け止めながら、記事へ視線を戻した。


 特別展示を伝える記事の下には、市政関係者の談話が載っている。


 七葉銀冠と灰炉譲渡証書は、ヴェルム=クロウ成立の正当性を証明する。


 旧王国から新都市へ。


 神話の時代から産業の時代へ。


 土地と権利は、正式な契約によって受け継がれた。


「争われていないというより」


 ミラベルは、紙面の隅に載った短い記事を指で押さえた。


「争っている人の記事が、小さすぎるだけでは?」


 そこには、旧エルフ家の一部が展示内容へ抗議したと、わずか数行だけ記されていた。


 レオンの視線が、その記事へ落ちる。


 ほんの一瞬。


 だが、すぐに鑑定中の封蝋へ戻った。


「抗議と権利争いは違う」


「何が必要なんです?」


「権利を主張する者。根拠となる記録。現在の所有者。それぞれの利害」


「全部揃ったら?」


「紙を読む」


「揃わなければ?」


「新聞記者が記事を書く」


「便利な分担ですね」


「君が望んだ職業だ」


 ミラベルは唇を尖らせた。


 それでも新聞を畳まず、王冠の記事をもう一度読む。


 最後王が、自ら王冠を差し出した。


 七つの領地を、永久に譲り渡した。


 平和的な契約だった。


 印刷された文章は、すでに確定した事実のように並んでいる。


「自分から渡した物なら」


 ミラベルは呟いた。


「もう、持ち主ではないんですよね」


 レオンの手が止まった。


 封蝋へ向けられていた拡大レンズが、机の上でわずかに傾く。


「契約が有効ならな」


「有効ではない可能性がありますか」


「知らない」


「調べないんですか」


「争われていない」


 レオンは同じ言葉を繰り返した。


 だが、今度は先ほどより少しだけ低い。


 ミラベルはそれ以上追及せず、新聞を脇へ置いた。


 窓の外を、高架鉄道が通過する。


 黒鴉館の硝子が震え。


 霧燈通りのガス灯から、朝の湿気が細く滴った。


 その日。


 レオンは美術館へ行かなかった。


 ミラベルも、取材予定を別の記事へ振り替えた。


 七葉銀冠は一日中、蒼硝子円蓋室の中央へ置かれていた。


 市民は硝子越しに眺め。


 係員は閉館後に展示品を確かめ。


 警備員は扉へ鍵を掛け。


 記録係は、すべてが所定の位置にあると帳簿へ記した。


 王冠は、そこにあった。


 灰炉譲渡証書も、そこにあった。


 市は、それらを保管していた。


 記録は、市を所有者としていた。


 保管しているという事実と。


 所有しているという記録。


 その二つが同じ意味なのかを。


 まだ、誰も確かめてはいなかった。


    ◇


 翌朝。


 美術館の正面扉が開かれるより早く。


 一通の封書が、館内の事務机へ置かれた。


 差出人の名はない。


 宛名だけが、整った文字で記されている。


 ヴェルム=クロウ市立古美術館御中。


 封を解かれた紙は、館長室から警備室へ。


 警備室から市警本部へ。


 市警本部から、霧燈通り十三番地へ運ばれることになる。


 だが、その前に。


 まず、記録された全文を読もう。


> ヴェルム=クロウ市立古美術館御中

>

> 今夜。

> 煤霧標準時、午前零時。

>

> 王であった者が、最後まで手放さなかったものを、

> それを正当に所有すると記された皆様の前より頂戴いたします。

>

> 扉を破らず。

> 封印を傷つけず。

> 灯りを消さず。

> 番人の見守る前で。

>

> 代わりに。

> 百二十七年間、一度も展示されることのなかった一文を、

> この街のすべての者へお返しいたしましょう。

>

> 所有とは、持っていることではない。

> 持ってよいと、誰かに記されたことである。

>

> L’Ouvere

> ――ルヴェール


 王冠を盗むとは、書かれていない。


 土地権利書を盗むとも、書かれていない。


 ただ。


 王であった者が、最後まで手放さなかったものを頂戴するとある。


 都市の記録では。


 最後王は、王冠を手放した。


 七つの領地も手放した。


 自ら署名し。


 証人の前で譲渡し。


 ヴェルム=クロウは、それらを正当に受け継いだ。


 ならば。


 怪盗が盗むと記したものは、王冠なのか。


 それとも。


 王冠を所有しているという、都市の確信なのか。


 わたしは答えない。


 答えを語れば、これはすでに終わった記録になる。


 問いを残せば。


 ここから、事件が始まる。


 題して――


 王冠は二度盗まれる。

挿絵(By みてみん)

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