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蒸都ヴァルテリアと偽装記録の探偵〜記録が嘘をつく街で〜  作者: 秋月キアラ
【予告】第9話 死体は運河を遡る
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【予告】観測記録 ― 船が港へ入るとき

 船が港へ入る。


 それは、何を意味するのだろう。


 夜のヴェルム=クロウ西港では、海と空の境目が失われていた。


 沖から押し寄せた白い霧が防波堤を越え、石造りの埠頭を舐め、倉庫街の煉瓦壁へまとわりついている。


 ガス灯の光は乳白色の闇へ滲み、係船柱から垂れた濡れた鎖だけが、黒い水面へ沈んでいた。


 閘門の奥で、巨大な歯車が噛み合う。


 ごうん。


 低い振動が岸壁を渡り、積み上げられた木箱の金具を震わせた。


 運河の水位が変わる。


 黒い水が石壁を擦り、油と煤と潮の匂いを持ち上げる。


 遠くで、霧笛が鳴った。


 低く。


 長く。


 姿の見えない何かが、自らの到着を告げるように。


 港で働く者は、その音を聞けば船が来たと思う。


 見張り塔の記録員は時刻を記す。


 水先人は船名を確かめる。


 税関吏は船籍番号を照合し、倉庫番は積荷の受領欄へ印を押す。


 それらが揃ったとき。


 一隻の船は、海上を進む物体から、港へ入った船へ変わる。


 では。


 船とは、何であるのか。


 水を押し分ける船体か。


 船首へ掲げられ、霧の中で呼ばれる名か。


 所属港と所有者を定める船籍か。


 それとも。


 入港簿へ残された一行か。


 船体は修繕される。


 外板も、機関も、甲板も替わる。


 それでも名と船籍が続けば、人は以前と同じ船として扱う。


 反対に。


 同じ船体でも、名と船籍を替えれば、別の船になる。


 ならば。


 名と番号が存在することは。


 その船が、いま水面に浮かんでいることまで証明するのだろうか。


 わたしが観測するのは。


 船体と船名の間。


 船名と船籍の間。


 そして。


 記録された入港と、実際に港へ来たものとの間に生まれる、わずかな隙間である。


 霧笛は鳴った。


 船名は記された。


 船籍番号は照合された。


 貨物の受領印も押された。


 一つずつを見れば、どれも船の到着を示している。


 並べれば。


 船が来たという結論になる。


 だが。


 誰が、その結論を確かめたのだろう。


 霧の向こうで、再び低い音が鳴った。


 見張り塔の男が顔を上げる。


 記録員は時計を確かめ、濡れたペン先を入港簿の新しい行へ置いた。


 船名。


 船籍。


 入港時刻。


 積荷。


 空欄が、一つずつ文字で埋められていく。


 港の水面には、船影がなかった。


 岸壁へ縄を投げる者も。


 甲板から降りる船員も。


 煤を吐く煙突も。


 霧を切り裂く船首も。


 どこにもなかった。


 それでも記録には、一隻の船が存在した。


 その夜。


 ヴェルム=クロウへ、一隻の船が入港した。


 誰も、その船を見ていなかった。


 題して――


 死体は運河を遡る。

挿絵(By みてみん)

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