【予告】観測記録 ― 船が港へ入るとき
船が港へ入る。
それは、何を意味するのだろう。
夜のヴェルム=クロウ西港では、海と空の境目が失われていた。
沖から押し寄せた白い霧が防波堤を越え、石造りの埠頭を舐め、倉庫街の煉瓦壁へまとわりついている。
ガス灯の光は乳白色の闇へ滲み、係船柱から垂れた濡れた鎖だけが、黒い水面へ沈んでいた。
閘門の奥で、巨大な歯車が噛み合う。
ごうん。
低い振動が岸壁を渡り、積み上げられた木箱の金具を震わせた。
運河の水位が変わる。
黒い水が石壁を擦り、油と煤と潮の匂いを持ち上げる。
遠くで、霧笛が鳴った。
低く。
長く。
姿の見えない何かが、自らの到着を告げるように。
港で働く者は、その音を聞けば船が来たと思う。
見張り塔の記録員は時刻を記す。
水先人は船名を確かめる。
税関吏は船籍番号を照合し、倉庫番は積荷の受領欄へ印を押す。
それらが揃ったとき。
一隻の船は、海上を進む物体から、港へ入った船へ変わる。
では。
船とは、何であるのか。
水を押し分ける船体か。
船首へ掲げられ、霧の中で呼ばれる名か。
所属港と所有者を定める船籍か。
それとも。
入港簿へ残された一行か。
船体は修繕される。
外板も、機関も、甲板も替わる。
それでも名と船籍が続けば、人は以前と同じ船として扱う。
反対に。
同じ船体でも、名と船籍を替えれば、別の船になる。
ならば。
名と番号が存在することは。
その船が、いま水面に浮かんでいることまで証明するのだろうか。
わたしが観測するのは。
船体と船名の間。
船名と船籍の間。
そして。
記録された入港と、実際に港へ来たものとの間に生まれる、わずかな隙間である。
霧笛は鳴った。
船名は記された。
船籍番号は照合された。
貨物の受領印も押された。
一つずつを見れば、どれも船の到着を示している。
並べれば。
船が来たという結論になる。
だが。
誰が、その結論を確かめたのだろう。
霧の向こうで、再び低い音が鳴った。
見張り塔の男が顔を上げる。
記録員は時計を確かめ、濡れたペン先を入港簿の新しい行へ置いた。
船名。
船籍。
入港時刻。
積荷。
空欄が、一つずつ文字で埋められていく。
港の水面には、船影がなかった。
岸壁へ縄を投げる者も。
甲板から降りる船員も。
煤を吐く煙突も。
霧を切り裂く船首も。
どこにもなかった。
それでも記録には、一隻の船が存在した。
その夜。
ヴェルム=クロウへ、一隻の船が入港した。
誰も、その船を見ていなかった。
題して――
死体は運河を遡る。




