終幕 ― 幕が下りたあと
月硝子劇場の正面には、白い休演幕が垂らされていた。
事件から五日。
夜ごと乳白色の窓を輝かせていた建物は、煤霧の中へ静かに沈んでいる。
黒い石段には、市警の封鎖紐。
正面扉には二枚の告知。
――殺人事件捜査および設備保全検査のため、一時閉鎖。
――今後の公演予定は、決定次第お知らせいたします。
廃館とは書かれていない。
再開とも書かれていない。
その余白へ、雨と煤が細い染みを作っていた。
◇
客のいない劇場では、裏側の音だけがよく響いた。
金槌。
鋸。
帳簿を運ぶ警官の靴。
衣装箱の金具。
舞台では、第三幕の王宮が解体されている。
黒い柱は横倒しにされ。
床へ散っていた硝子糖は掃き集められ。
王の玉座は、警察の検査を終えた部品から順に、ブロム=ガドルの手で分解されていた。
「その歯車は別箱だ!」
ブロムの怒声が飛ぶ。
「右腕補助と支持具を混ぜるな! 次に組むときは、操作する全員へ構造を見せる!」
「舞台の秘密が減るわね」
黒い作業着を着たヴァネッサが、舞台柱の端を抱えながら言った。
髪は後ろで一つに束ねられ。
頬には白い埃。
主演女優の面影は、立ち姿にだけ残っている。
「客に見せないのは秘密だ!」
ブロムが答える。
「仲間へ教えないのは欠陥だ!」
「ずいぶん言葉が上手になったのね」
「誰のせいだと思っている!」
「私ではないことだけは確かね」
ヴァネッサは大道具係の若者とともに、柱を舞台袖へ運んだ。
以前なら。
女優が持つ必要はないと止められただろう。
今も止める声はあった。
けれど彼女は。
主演女優だから運ばないとも。
劇場を救う者だから運ぶとも言わなかった。
手が足りないから持つ。
ただ、それだけだった。
衣装台では、イリス=セーヴァが黒い王衣装を整理している。
オズリックが着ていた本番用ではない。
再現へ使われた予備衣装だった。
銀鎖を外し。
腕甲を分け。
一つずつ番号札をつけ、木箱へ収めていく。
「処分するの?」
ヴァネッサが尋ねた。
「支配人は、その方がいいと」
「ローウェルは、困ったものを捨てれば帳簿が軽くなると思っているのよ」
「でも、これを見ると」
イリスの手が、黒い布の上で止まった。
「思い出します」
「何を?」
「知らないまま、何へ使われたか」
銀鎖が、指先で小さく鳴る。
「だから、残したいです」
「なら残しましょう」
「支配人が反対したら?」
「主演女優が許可したと伝えて」
「休演中では?」
「都合のよいときだけ復帰するわ」
イリスは、ほんの少し笑った。
衣装台の端には。
新しい名札が置かれている。
白い厚紙。
硬い黒文字。
――イリス=セーヴァ。
《リリア=ノア》ではない。
市警は、殺人事件と死者名義による雇用を別の案件として保全した。
労働救済局は、記録を失った者たちへの仮証明書を作り始めている。
売却契約は停止されたが、借金は残っている。
劇場を去った者もいる。
本名を話すことを拒んだ者も。
まだ決められずにいる者もいた。
イリスの手元にも。
三十日間だけ有効な薄い仮証明書がある。
正式な身分には遠い。
それでも。
そこには、彼女が選んだ名が記されていた。
「その札、自分で書いたの?」
ヴァネッサが訊いた。
「はい」
「ずいぶん硬い字ね」
「間違えたくなかったので」
「誰が読むの?」
「私です」
イリスは答えた。
「私が、ここへ来たときに」
ヴァネッサは名札へ手を伸ばした。
文字には触れず。
札の位置だけを、衣装台の中央へ直す。
ほかの札の陰にならない場所。
誰かの役名の下へ置かれない場所へ。
◇
昼を過ぎる頃。
残っている劇場職員が、舞台前へ集められた。
ローウェル支配人。
ブロム。
イリス。
衣装係。
大道具係。
楽団員。
清掃係。
人数は、事件前より少ない。
ヴァネッサは舞台へ立った。
衣装も。
照明も。
演説のための台本もない。
「再開できるかは分からないわ」
最初に、そう告げた。
「借金は残っている。売却も中止されたわけではない。以前の名簿は使えない。ここで働ける者が、何人残るかも分からない」
誰も声を発しなかった。
「だから、残れとは言いません」
ヴァネッサは続ける。
「去る者を責めない。本名を話す者も、話さない者も。別の仕事を探す者も。この劇場へ戻らないと決める者も」
大道具係の若者が尋ねた。
「リード様は?」
「私は残るわ」
「劇場のために?」
「いいえ」
ヴァネッサは、解体途中の舞台を見た。
「まだ、舞台へ立ちたいから」
飾りのない答えだった。
「それに」
白い休演幕の向こう。
煤霧の街へ顔を向ける。
「この劇場の終幕を、オズリックとマティアスだけに決めさせたくない」
衣装台の前で。
イリスが自分の名札を胸へ抱いた。
「私も残ります」
声は小さい。
それでも、劇場の奥まで届いた。
「自分の名前で」
ヴァネッサは頷いた。
大きな拍手は起きなかった。
全員が残るとも言わなかった。
ただ。
何人かが、自分の足元を見た。
何人かが、隣にいる者の顔を見た。
誰の合図もなかった。
それぞれが、自分の次の動きを考え始めていた。
◇
その日の夕刻。
《煤鳩亭》の扉が開いた。
真鍮の鈴が鳴る。
黒い外套を着たヴァネッサが入ってくると、店内の客たちが一斉に顔を向けた。
事件以来。
彼女の顔は何度も新聞へ載っている。
死者へ剣を向けた女優。
被害者と密会していた女。
一時は容疑者とまで書かれた、鏡の王妃。
囁きが起きる。
ヴァネッサは聞こえないふりをせず。
客たちへ軽く頭を下げた。
舞台挨拶ほど深くはない。
ただの客としての礼だった。
窓際の目立たない席ではなく。
カウンターの中央へ腰を下ろす。
マルタ=グレインが厨房から出てきた。
「何にする」
「濃い珈琲を」
「砂糖は」
「いらないわ」
「疲れてる顔だ。入れな」
「甘いものは得意ではないの」
「好みは聞いてないよ」
厚い陶器のカップ。
黒い珈琲。
角砂糖を二つ。
さらに、胡桃を載せた小さな焼き菓子。
「頼んでいないわ」
「店主が出した」
「特別扱い?」
「代金は取る」
ヴァネッサは珈琲を一口飲み。
わずかに眉を寄せた。
「濃いわね」
「注文どおりだ」
「舞台裏の機械油より苦い」
「機械油を飲んだことがあるのかい」
「比喩よ」
「女優は、何でも台詞にしたがるね」
マルタは、彼女の袖についた木屑を見た。
「劇場で働いてきたのかい」
「少し」
「腰を痛めるよ」
「ブロムにも言われたわ」
「なら聞きな」
「同じ言葉でも、話す人によって聞こえ方が違うのね」
「屁理屈を言う元気はあるらしい」
マルタは、事件について尋ねなかった。
可哀想な女を見る顔も。
有名な女優を迎える笑顔も見せない。
カウンターへ落ちた砂糖の粉を、布巾で拭き取っただけだった。
店の奥。
いつもの卓では、レオンが新聞を読んでいる。
向かいにはミラベル。
五百人分の証言記録を、小さな束へ分け直していた。
「こんにちは、ヴァネッサさん」
「こんにちは、記録者さん」
「まだ見習い記者です」
「新聞に名前が載っていたわ」
「取材協力と、小さくです」
事件と。
死者名義で働いていた者たちの問題は、別の記事として報じられた。
煤霧日報は、マティアスを義人とも怪物とも書かなかった。
ミラベルの証言整理は、その記事の土台になっている。
「こちらへ座りますか」
ミラベルが訊いた。
ヴァネッサはカップを持ち。
レオンの隣ではなく。
ミラベルの隣へ座った。
「こちらにするわ」
「どうしてですか」
「あなたの手帳が見えるから」
ミラベルは慌てて頁を伏せる。
「見ないでください」
「記者は他人の記録を読むのに?」
「許可を取ります」
「いつも?」
「できる限り」
「正直ね」
レオンが新聞を畳んだ。
「事情聴取の続きか」
「ここは喫茶店でしょう?」
「俺の事務所でもある」
「家賃を払ってから言いな!」
カウンターからマルタの声が飛ぶ。
ヴァネッサが、カップの陰で小さく笑った。
「変わっていないのね」
「何が」
「あなたの居場所だけが、あなたを特別扱いしないところ」
「家賃と信用は別だ」
「名言のつもり?」
「事実だ」
◇
「劇場は、どうなるんですか」
ミラベルが尋ねた。
「分からないわ」
ヴァネッサは即答した。
「売却は停止中。借金は残っている。設備と名簿は作り直し。職員も半分ほどになるでしょうね」
「イリスさんは?」
「残ると言っている」
「自分の名前で?」
「そのために、今は自分で役所と話しているわ」
「ヴァネッサさんが代わりにではなく?」
「私は、求められたときに隣へ立つだけ」
珈琲を飲む。
今度は苦さに顔をしかめなかった。
「残ることも。去ることも。本当の名前を話すことも。話さないことも。彼女が決める」
ミラベルは、しばらく考えた。
「ひとつ」
伏せていた手帳から手を離す。
「訊いてもいいですか」
「記者として?」
「私として」
ヴァネッサの目が細くなる。
「その区別は、いつもできるの?」
「今はできます」
「なら、どうぞ」
「《赤薔薇仮面舞踏会事件》で」
レオンの手が、新聞の上で止まった。
ヴァネッサは、珈琲へ視線を落としている。
「あなたは」
ミラベルが言った。
「本当は、誰を守ったんですか」
店内には。
厨房で湯が沸く音。
食器が触れる音。
通りを走る馬車の音。
日常だけが続いていた。
ヴァネッサは答えない。
否定も。
笑って逸らすこともしなかった。
やがて。
ミラベルの顔を見て言う。
「あなたは、彼より上手に質問するのね」
「答えではありません」
「ええ」
「まだ、その人を守る必要がありますか」
「今も生きている者だけが、守られるとは限らないわ」
それ以上は話さなかった。
ミラベルも、問いを重ねなかった。
手帳は伏せたまま。
答えないという事実さえ。
本人の許可なく、記事の答えへ変えようとはしなかった。
ヴァネッサは、それを見ていた。
「書かないの?」
「今の質問は、私として訊きました」
「記者と分けられるのね」
「今のところは」
「いつか、分けられなくなるわ」
「そのとき考えます」
「よい答えね」
「ヴァネッサさんに言われると、不安です」
ヴァネッサが笑った。
今度は。
相手が望む顔を選んだ笑みには見えなかった。
◇
「ミラベル!」
マルタが厨房から呼ぶ。
「新聞社から気送管だよ!」
「今、行きます」
ミラベルは資料をまとめて立ち上がった。
「レオンさんも」
「俺は呼ばれていない」
「カップを片づけるから、あんたはそこにいな!」
マルタの声が続く。
「なぜ」
「客の相手をしな」
「誰が客だ」
「代金を払う方だよ」
ヴァネッサは硬貨を卓へ置いた。
「私ね」
ミラベルは厨房へ入りかけ。
一度だけ二人を振り返った。
レオンは畳んだ新聞を見ている。
ヴァネッサは窓の外を見ている。
互いへ顔を向けてはいない。
それでも。
どちらも、席を立たなかった。
厨房の扉が閉じる。
やがて店内の客も、一人ずつ帰っていった。
夕方と夜の間。
霧燈通りへ街灯が点く。
煤鳩亭には。
厨房で食器を洗う音と。
二人の沈黙だけが残った。
「今回も」
ヴァネッサが訊いた。
「私を疑った?」
「疑った」
レオンは答えた。
「だから、君の証言を調べた」
ヴァネッサが彼を見る。
「信じた?」
「調べ終わった部分だけは」
しばらく。
どちらも言葉を足さなかった。
ヴァネッサは、カップの縁へ指を添えた。
「昔も、そうしてくれればよかったのに」
「昔も調べた」
「私が話した部分だけを?」
「君が隠した部分まで」
「見つけられなかった」
「今もな」
責める声ではなかった。
許す声でもない。
ただ。
まだ終わっていない事実を。
二人の間へ置く声だった。
「悔しい?」
ヴァネッサが尋ねる。
「未解決は嫌いだ」
「私が嫌いなのではなく?」
レオンは答えなかった。
すぐに違うとも。
そうだとも言わない。
ヴァネッサは、かすかに息を吐いた。
「安心したわ」
「何に」
「答えなかったことに」
「君も答えていない」
「ええ」
認める。
「だから、また来るわ」
「珈琲を飲みに?」
「質問されに」
「嘘をつくためか」
「内容によるわ」
「なら、また調べる」
ヴァネッサは立ち上がった。
外套を羽織る。
「信じる?」
「調べ終わった部分だけは」
「同じ答えね」
「質問が同じだ」
「いいえ」
扉へ向かい。
真鍮の取っ手へ手を置く。
「今のは、次も会うことを前提にした質問よ」
レオンが顔を上げる。
ヴァネッサは答えを待たなかった。
「珈琲代は」
マルタが厨房から顔を出す。
「置いたわ」
「菓子代もかい」
「特別扱いでは?」
「代金を取ると言っただろう」
ヴァネッサは銀貨を一枚追加した。
「これで?」
「次は砂糖を入れな」
「考えておくわ」
「答えになってないよ」
「この店では、それでも帰してくれるでしょう?」
「代金を払えばね」
ヴァネッサは笑い。
扉を開けた。
真鍮の鈴。
冷たい夕霧。
黒い外套が、街灯の光へ溶けていく。
レオンは窓の外を追わなかった。
彼女が使ったカップを見る。
底には。
溶かされなかった角砂糖が、一つ残っていた。
◇
夜。
黒鴉館二階の探偵事務所。
机の上に、三つ目の事件記録を作るための紙が広げられている。
第一の記録。
『署名なき死体』。
第二の記録。
『存在しない七号車』。
その隣へ置かれる、第三の記録。
ミラベルは取材手帳を並べた。
月硝子劇場の公演冊子。
五百人分の証言集計。
座席図。
検死記録。
玉座の構造図。
上演記録簿の写し。
黒い紙片の鑑定結果。
ヴァネッサの訂正供述。
マティアス=ロウの自白。
犯人は分かっている。
方法も。
動機も。
それでも。
白い紙の前で、硬筆が止まっていた。
「手が動いていない」
長椅子からレオンが言った。
顔の上へ資料を載せている。
「起きていたんですか」
「考えていた」
「寝息が聞こえました」
「蒸気管だ」
「蒸気管は、レオンさんの声で言い訳をしません」
レオンは、顔の上の紙を外した。
「書き出しで迷っているのか」
「はい」
「第三幕から書けばいい」
「死体が動いたところから?」
「分かりやすい」
「分かりやすすぎます」
「読者は、分かりやすい方がいい」
「先に書かれた物語が、人の記憶を作った事件ですよ」
ミラベルは公演冊子へ触れた。
「私が書く記録も、読んだ人の記憶を作ります」
「だから書かない?」
「いいえ」
硬筆を持ち直す。
「どこまでが見たことか。どこからが考えたことか。それを分けて書きます」
「五百人分?」
「必要なだけ」
「長くなる」
「家賃を払わない人に、紙代を心配されたくありません」
「俺の家賃と記録は関係ない」
階下から声が響いた。
「関係あるよ!」
レオンが床を見る。
「耳がいい」
「建物が古いんです」
ミラベルは笑い。
最初の行へ硬筆を置いた。
「題名は?」
レオンが訊く。
「決めました」
「《五百人の目撃者》」
「違います」
「《月硝子劇場殺人》」
「新聞記事のようです」
「《鏡王の終幕》」
「演目の題名です」
「では、何だ」
ミラベルは。
白い紙へ、ゆっくりと文字を書いた。
誰かが先に決めた筋書きを写すのではなく。
自分が調べたことを。
見つけた順番で。
見えなかった部分があることも、忘れずに。
黒いインクの題名が現れる。
**『死者は第三幕を演じる』**
レオンが机の横から覗き込んだ。
「死者は演じていない」
「分かっています」
「腕を上げたのは玉座。声は蝋管。血は血袋。身体を倒したのは支持具だ」
「それも書きます」
「題名として不正確だ」
「五百人には、そう見えました」
「君は違うと知っている」
「だから、この題名にするんです」
ミラベルは次の行へ硬筆を移した。
「死者が演じたのではないなら」
最初の文章を書く。
「誰が、死者へ役を与えたのか」
窓の外を。
夜の高架列車が走っていく。
鉄輪の響き。
蒸気の白い尾。
煤霧の中を流れる窓明かり。
ヴェルム=クロウでは今夜も。
無数の記録が作られている。
出生届。
死亡届。
雇用名簿。
契約書。
乗車券。
配役表。
新聞記事。
そのどこかへ、誰かの名が載り。
どこかから、誰かの名が落ちる。
記録は。
人が存在したことを残す。
同時に。
書き方を誤れば。
人を、誰かが用意した役の中へ閉じ込める。
「ヴァネッサさんは」
ミラベルが、硬筆を動かしながら尋ねた。
「また来ると思いますか」
「本人が、そう言った」
「信じます?」
「来たときに確認する」
「調べ終わった部分だけ?」
「そうだ」
ミラベルは小さく笑った。
完全な和解ではない。
昔の偽証も。
守られた誰かの名も。
閉じられた記録も、残っている。
それでも。
二人は互いを、過去の事件の中だけへ閉じ込めることをやめた。
次に会えば。
また疑い。
また隠し。
また調べる。
未解決のまま終わるのではなく。
未解決のまま、次の物語へ進むために。
ミラベルは、第三の記録を書き始めた。
今度は。
誰かが決めた結末へ。
事実を合わせないために。




