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投票箱には一票多い

 大人になった者の信念には、始まりの日が記されているとは限りません。


 いつ、最初の疑問を抱いたのか。


 いつ、正しいと教えられたものを疑ったのか。


 いつ、誰も困っていないのだから構わない、という言葉へ納得できなくなったのか。


 人は、自分が変わった瞬間を、案外覚えていないものです。


 ましてや、その少年は。


 正義を語りませんでした。


 誰かを救おうとも考えていませんでした。


 ただ。


 四十七人しかいない教室に、四十八票あることを。


 見なかったことにできなかったのです。


 ――ナミ=エル

 ヴァルテリア中央記録学院の講堂には、紙を折る音が満ちていた。


 四十七人の学生が、同じ大きさの投票用紙へ目を落としている。


 春季公開講義の論題を決めるための投票だった。


 候補は二つ。


 《記録は事実を証明する》


 《記録は事実を選別する》


 学院の創立記念日に、市政官、記録官、商会書記、法学生を招いて討論を行う。高等予科の学生たちは、どちらか一方へ票を投じることになっていた。


「投票用紙を折る必要はない」


 教壇に立つローデン教官が言った。


 痩せた長身のヒト族で、黒い学院服の襟を喉元まで留めている。


「無記名投票ではあるが、票は集計器へ直接入れる。筆記面を伏せ、順番に前へ出なさい」


 学生たちが席を立つ。


 講堂前方には、真鍮と黒鉄で作られた小型の蒸気式集計器が置かれていた。


 投入口は一つ。


 正面には二つの数字窓。


 用紙へ黒鉛筆で記された印を読み取り、左右の数字を一つずつ進める仕組みだった。


 集計器の脇には、アルノ=フェルが立っている。


 淡い茶色の髪。


 細い肩。


 学院の規定どおりに整えられた制服。


 彼は機械記録実習の成績が優秀で、その日の集計器の準備と作動確認を任されていた。


「次」


 アルノが呼ぶ。


 学生が一人ずつ用紙を投入口へ差し込む。


 内部で送りローラーが回る。


 紙を呑み込む音。


 読み取り針が票面へ触れる軽い音。


 数字窓の歯車が一つ進む。


 かちり。


 かちり。


 かちり。


 講堂の最後列に座っていたレオン=クラウスは、自分の番が来てもすぐには立たなかった。


 投票用紙を机へ置き、二つの論題を見比べている。


「まだ決めていないのか」


 隣の学生が訊いた。


「決めている」


「では早く行け。後ろがつかえている」


「論題の書き方が不正確だ」


「投票が始まってから言うことか?」


 レオンは黒鉛筆を取った。


 《記録は事実を選別する》の横へ印をつける。


「記録は事実を証明する場合もある。選別する場合もある。二つを対立させる前提に無理がある」


「なら棄権すればいい」


「不正確な問いへ答えないことと、選択肢のうち、より誤りの少ない方を選ぶことは別だ」


「君と話していると、何も決まらなくなるな」


「不正確に決めるよりはいい」


 レオンは席を立った。


 十七歳。


 黒い髪。


 学生としては細身で、顔色もあまりよくない。


 学院内では、成績優秀者として知られている。


 同時に。


 授業中であろうと教官の誤りを指摘し。


 規則を守りながら、規則を定めた者の不備を問い。


 褒められても喜ばず、嫌われても直そうとしない学生としても知られていた。


 レオンは用紙を集計器へ差し込んだ。


 紙が内部へ引き込まれる。


 左側の数字窓は、二十四。


 右側は、二十三。


 レオンの票で右が一つ進み、二十四となった。


「同数か」


 誰かが言った。


「まだ最後の一人がいる」


 ローデン教官が講堂を見渡した。


 一番前の席にいた女子学生が立ち上がり、最後の票を投じる。


 紙が呑み込まれた。


 数字窓が動く。


 左、二十四。


 右、二十四。


 講堂がざわついた。


「同票?」


「四十七人で?」


「どちらかが二十四なら、もう片方は二十三のはずだ」


 ローデン教官が手を上げる。


「静かに」


 声が収まる。


 教官は数字窓を確かめ、アルノへ尋ねた。


「投票者は全員か」


「はい。高等予科第二組、在籍四十七名。欠席者はいません」


「投票者名簿を」


 アルノは机に置いていた名簿を差し出した。


 四十七の名前。


 それぞれの横に、投票済みを示す小さな確認印がある。


 ローデン教官は上から下まで目を通した。


「重複は?」


「ありません」


「集計器の始動前確認は」


「左右とも零でした。教官にも確認していただきました」


「そうだったな」


 講堂にいる全員が、集計器を見た。


 二十四。


 二十四。


 合計、四十八。


「投票箱には、一票多い」


 誰かが小さく言った。


 アルノの顔から血の気が引いた。


 集計器へ最後に触れたのは、彼だった。


 朝、機械室から運び出し。


 給気管を接続し。


 試運転を行い。


 講堂へ設置した。


 投票中も、機械のすぐ隣にいた。


「フェル」


 ローデン教官が呼ぶ。


「はい」


「試運転には何を使った」


「校正用の白紙です。読み取り針と数字送りをそれぞれ一度動かし、最後に数字を零へ戻しました」


「校正用紙は」


「試運転後に破棄箱へ入れました」


「確認した者は?」


 アルノは答えられなかった。


 試運転を任されたのは一人だった。


 優秀だから任された。


 信頼されていたから、立会人はつかなかった。


 その信頼が。


 一票多いという数字によって、疑いへ変わり始めていた。


「教官」


 レオンが言った。


「何だ、クラウス」


「投票用紙を数えてください」


「数字窓が四十八を示している」


「機械が四十八を示していることと、用紙が四十八枚あることは同じではありません」


 ローデン教官は一瞬、レオンを見た。


 それから集計器下部の排出箱を開けさせた。


 アルノが用紙を取り出す。


 十枚ずつに分けて数える。


「十」


 二束目。


「二十」


 三束目。


「三十」


 四束目。


「四十」


 残りを一枚ずつ机へ並べる。


「四十一。四十二。四十三。四十四。四十五。四十六。四十七」


 アルノの指が止まった。


 最後に、もう一枚ある。


「四十八」


 講堂のざわめきが戻る。


 ローデン教官は、四十八枚の用紙を見下ろした。


「全票を無効とする」


 即座に決定した。


「明日、別の用紙を使い、再投票を行う。集計は手作業で行う」


「原因を調べないのですか」


 レオンが訊いた。


「投票者四十七名に対し、票は四十八枚。不正票を特定できなければ、結果は成立しない」


「誰かが不正票を入れたと?」


「その可能性はある」


「集計器が一票を作った可能性は」


 数人が笑った。


 ローデン教官は笑わなかった。


「機械は紙を増やさない」


「人間も、見られている前で紙を増やすのは難しい」


「不可能ではない」


「では、誰が入れたのですか」


「それを今から調べる」


 教官の視線が、アルノへ向いた。


 ほんの一瞬だった。


 だが、それだけで十分だった。


 学生たちの視線も、同じ方向へ集まった。


 レオンはアルノを見た。


 怯えた顔をしている。


 ただしレオンが見ていたのは、その表情ではなかった。


 アルノの袖口。


 指先。


 集計器の鍵。


 投票用紙の束。


 そして、机に並ぶ四十八枚目だった。


「四十七人全員が投票した」


 レオンが言った。


「だから何だ」


「なら、一枚は学生が投じた票ではありません」


     ◇


 投票は無効とされた。


 学生たちは午後の講義へ戻され、集計器と投票用紙は学院書記室へ移された。


 事件ではない。


 金銭は動いていない。


 成績にも進級にも関係しない。


 公開討論会の論題が、今日決まらなかっただけだ。


 翌日に再投票すれば済む。


 誰も損をしない。


 少なくとも、学院側はそう判断した。


 授業終了後。


 レオンは書記室の前に立っていた。


 扉の脇には、仮処理票が掲示されている。


 春季公開講義論題選定投票。


 投票者数、四十七名。


 排出票数、四十八枚。


 処理。


 投票無効。翌日再実施。


 備考。


 《集計担当生徒による重複投入の可能性あり。確認継続》


 レオンは、その一文を読んでいた。


「まだ帰っていなかったのか」


 背後からローデン教官の声がした。


「この記述は誰が書いたのですか」


「学院書記だ。私の報告をもとにしている」


「重複投入の証拠は?」


「可能性あり、と書いてある」


「可能性なら、集計器の故障もあります」


「機械が用紙を一枚作ることはない」


「同じ言葉を先ほど聞きました」


「なら理解しただろう」


「理解できないので、もう一度訊いています」


 ローデン教官は息を吐いた。


「フェルを処分するつもりはない。本人へ事情を聞き、異常が確認できなければ、それで終わりだ」


「終わりません」


「投票はやり直す」


「結果の話ではありません」


 レオンは備考欄を指した。


「この記録では、アルノ=フェルが不正をした可能性だけが残ります」


「だから、可能性と書いてある」


「疑った事実は残る」


「処分をしなければ実害はない」


「処分されなかったことと、疑われなかったことは同じではありません」


 廊下の奥に人影が立っていた。


 アルノだった。


 書記室へ呼ばれていたらしい。


 会話を聞いていた。


「クラウス」


 アルノが近づいてくる。


「もういい」


「何がだ」


「再投票をすれば済む。教官も処分しないと言っている」


「この記録が残っても?」


「僕がやっていないことは、僕が知っている」


「記録を読む者は知らない」


「読む者なんていないよ。公開講義の投票記録だ」


「なら、なぜ記録する」


 アルノは言葉を失った。


 レオンは続けた。


「読まれない記録なら、何を書いてもいいのか」


「そういう意味では」


「君が構わなくても、四十八という数字は残る」


「君は、僕を助けようとしているのか」


 レオンは少し考えた。


「違う」


 アルノの顔が固くなる。


「数字が合わないのが不愉快なだけだ」


「クラウス」


 ローデン教官が低く呼んだ。


「言い方というものがある」


「誤解される言い方はしていません」


「君は誤解されない代わりに、人を傷つける」


 レオンはアルノを見た。


 なぜ傷ついたのか。


 すぐには理解できなかった。


 事実を述べた。


 助けるという目的ではなかった。


 それを正確に伝えた。


 何が問題なのか。


「集計器を調べさせてください」


 レオンは教官へ向き直った。


「学生だけで学院備品を分解させるわけにはいかない」


「教官が立ち会えばいい」


「なぜ私が」


「調べずに生徒を疑った記録を残した責任があります」


 ローデン教官の眉が動いた。


 アルノが小さく息を呑む。


 廊下にいた学院書記は、聞こえなかったふりをして机へ目を落とした。


「……日没までだ」


 教官は言った。


「機械室で確認する。勝手に部品へ触るな。フェルも来なさい。自分が整備した機械だ」


「はい」


「クラウス」


「何です」


「何も見つからなければ、仮処理票の記述に従う」


「見つからなければです」


     ◇


 書記室の長机へ、四十八枚の投票用紙が並べられた。


 窓の外では、学院時計塔の長針が午後五時へ近づいている。


 レオンは一枚ずつ用紙を確かめた。


 投票内容ではない。


 紙の色。


 裁断幅。


 厚さ。


 透かし。


 角の潰れ。


 送りローラーが残した細い圧痕。


 黒鉛の沈み方。


「筆跡を比べるのではないのか」


 ローデン教官が訊いた。


「印を一つつけただけです。誰の手かは判別できません」


「では何を見る」


「誰の手でもない票です」


 レオンは四十八枚目を持ち上げた。


「これだけ幅が狭い」


 アルノが定規を当てる。


 現在の投票用紙より、ほんのわずかに狭かった。


 二ミリにも満たない差。


 重ねて比べなければ分からない。


「裁断機のずれでは?」


「今年の用紙は一括裁断されています。四十七枚は同じ幅です」


 レオンは紙を窓の光へ透かした。


「年度透かしがない」


 学院の投票用紙には、年度ごとに異なる小さな透かしが入る。


 不正な再使用を防ぐためだ。


 だが問題の一枚には、今年の透かしがなかった。


 代わりに。


 紙の端近くへ、薄く潰れた古い学院章が見えた。


「以前の用紙?」


 アルノが言う。


「少なくとも、今年の票ではない」


 レオンは黒い印を拡大鏡で見る。


「黒鉛ではありません」


 ローデン教官も覗き込んだ。


「何だ」


「印刷用の黒色顔料です。鉛筆なら繊維の表面が削れる。これは紙の奥へ均一に沈んでいる」


「誰かが以前の用紙を使い、印刷機で印をつけた?」


「公開講義の論題一つのために?」


「不可能ではない」


「可能性だけなら、神が投票した可能性も残せます」


「クラウス」


「ですが、必要がない。これは投票するために作られた票ではありません」


 レオンは紙の一角を指した。


 古い機械油の染み。


 細く強い折れ跡。


 折れ目に沿って、紙の繊維が毛羽立っている。


「長いあいだ、機械の内部で圧迫されていた」


 アルノが集計器を見る。


「校正票……?」


「去年の整備台帳はありますか」


 アルノは機械室の書棚へ向かった。


 年度ごとに束ねられた整備記録を探す。


 前年。


 春季公開講義。


 論題選定投票。


 集計器、第二号機。


 試運転。


 読み取り針、正常。


 数字送り、正常。


 排出機構――。


 アルノの指が止まった。


「ここです」


 台帳を長机へ置く。


 そこには、前年の学生整備担当者による記録があった。


 《校正票一枚、排出確認不能》


 その下へ、教官の筆跡で追記されている。


 《機構内残留なしと判断。試運転完了》


「確認した、とは書かれていない」


 レオンが言った。


「残留なしと判断した」


「言葉の違いだ」


 ローデン教官が答える。


「違います。排出されたことを確認していないから、判断したと書いた」


 レオンは集計器へ視線を向けた。


「前年の校正票が、まだ中にあった」


「一年間も?」


「この集計器は、公開行事の投票にしか使われない。通常は機械室で保管されている」


 アルノが頷いた。


「去年の投票後は一度も動かしていません。今日、僕が試運転するまで」


「朝の試運転では出なかったのか」


「校正紙を一枚ずつ通しました。数字送りの確認だけだったので、低圧で」


「本番では四十七枚を連続して通した」


 レオンは集計器の外装へ手を近づけた。


 まだ少し温かい。


「蒸気管が熱を持ち、送りローラーが連続して回った。内部へ貼りついていた票が剥がれ、今年の票と一緒に排出された」


「内部を確認する」


 ローデン教官が言った。


 アルノが給気弁を閉じる。


 圧力計が零へ落ちるのを待ち、側面板の封印ねじを外した。


 レオンは触れずに見ている。


 黒鉄の送りローラー。


 読み取り針。


 二方向へ票を判別する案内板。


 その裏側。


 細い隙間に、古い紙の繊維が残っていた。


 油で黒ずんだ、象牙色の毛羽立ち。


 アルノが小さな鑷子で採取する。


 四十八枚目の折れ目へ残る繊維と、色も太さも一致していた。


「ここに挟まっていた」


 アルノが言った。


「それが今日、剥がれた」


 ローデン教官は整備台帳を見た。


 前年の記録。


 《排出確認不能》


 《機構内残留なしと判断》


 そして今年。


 四十七人。


 四十八票。


「では、不正投票ではない」


「最初から、その証拠はありませんでした」


 レオンが答えた。


「クラウス」


「何です」


「今は、私が認めようとしたところだ」


「事実は、認められる前から事実です」


 ローデン教官は額へ手を当てた。


「君は、いつか必ず上官を怒らせる」


「間違っていれば訂正します」


「上官を?」


「記録を」


 アルノが笑った。


 緊張が解けたためか。


 ほんの短い笑いだった。


「君は本当に、数字が合わなかっただけなんだな」


「そう言った」


「僕が疑われていたことは?」


「それも数字が合わなかった結果だ」


「心配はしていなかった?」


「何を」


「僕が処分されるかもしれないことを」


 レオンは少し考えた。


「証拠がない以上、処分は成立しない」


「そういう意味じゃない」


「では、どういう意味だ」


 アルノはまた笑った。


 今度は、少し呆れたような笑いだった。


「分からないなら、いい」


 レオンは眉を寄せた。


 分からないままにされることを、彼は好まなかった。


 だがアルノは、それ以上説明しなかった。


     ◇


 四十八枚目は、前年の校正票だった。


 票面には、《記録は事実を選別する》側へ試験印がついていた。


 それを除くと、正しい集計は。


 《記録は事実を証明する》 二十四票。


 《記録は事実を選別する》 二十三票。


 翌日の再投票は中止され、公開討論会の論題は、《記録は事実を証明する》に決定した。


「君の選んだ方は負けたな」


 アルノが言った。


 機械室から書記室へ戻る途中だった。


「そうだな」


「不満ではないのか」


「論題には同意していない」


「なら、再投票にした方がよかったんじゃないか」


「投票結果が正しいことと、選ばれた論題が正しいことは別だ」


「一票差だ。もう一度投票すれば変わるかもしれない」


「変わるだろうな」


「それでも、この結果を採用する?」


「これは今日、四十七人が投じた結果だ。明日の四十七人が投じる結果とは違う」


「同じ学生だよ」


「今日の騒ぎを知った時点で、同じ条件ではない」


 アルノはしばらく考えた。


「君は《記録は事実を選別する》へ投票したんだろう?」


「ああ」


「その投票記録を守るために、《記録は事実を証明する》が選ばれる結果を確定させた」


「矛盾はない」


「僕には、少し皮肉に見える」


「皮肉は事実の側に言ってくれ」


     ◇


 学院書記は仮処理票を書き直した。


 最初の備考。


 《集計担当生徒による重複投入の可能性あり。確認継続》


 その一文へ、赤い訂正線を引く。


 だがレオンは首を横に振った。


「消すだけでは不十分です」


「訂正線を引き、訂正印を押す」


 書記が答える。


「それでは、疑いが誤りだった理由が分からない」


「詳細は整備記録へ残す」


「この記録を読む者が、整備記録まで照会するとは限りません」


「では、どう書けと?」


 レオンは答えた。


「《前年校正票が集計機構内へ残存し、現行票へ混入。集計担当生徒の操作に異常なし》」


「長すぎる」


「必要な長さです」


「投票結果の処理票だぞ」


「だから、投票結果へ関係する事実を書くべきです」


 書記はローデン教官を見る。


 教官は一日の疲労をすべて吐き出すように、長く息をついた。


「書いてやれ」


「しかし」


「書かなければ、この学生は日が暮れても帰らん」


「もう暮れています」


 レオンが窓を見る。


 煤霧に沈む学院の中庭では、ガス灯が灯り始めていた。


「分かっている。だから言っている」


 書記は新しい処理票を取り出した。


 一文字ずつ。


 レオンが指定した内容を記していく。


 《前年校正票が集計機構内へ残存し、現行票へ混入》


 《集計担当生徒の操作に異常なし》


 最後に。


 ローデン教官の確認印。


 学院書記の訂正印。


 アルノ=フェルの立会署名。


 レオンは、すべてを確かめた。


「これでいい」


「君の許可を求めた覚えはない」


 教官が言った。


「では、独り言です」


「君の独り言は、相手を怒らせるためにあるのか」


「その意図はありません」


「意図がなければ許されると思うな」


 アルノが署名を終え、ペンを置いた。


「クラウス」


「何だ」


「ありがとう」


 レオンは訂正済みの処理票を見た。


「君のために調べたわけではない」


「知っている」


「数字が合わなかっただけだ」


「それも聞いた」


「なら、礼を言う理由がない」


「それでも、助かった」


 レオンは答えなかった。


 アルノが何を求めているのか分からなかった。


 礼を受け取ればいいのか。


 助かったという事実へ頷けばいいのか。


 数字の不一致を直しただけだと、もう一度説明すべきなのか。


 考えているうちに。


 アルノは鞄を持ち上げた。


「明日から、機械の試運転には立会人をつけるそうだ」


「当然だ」


「僕一人では信用できないから?」


「君一人を守るためでもある」


 言葉は、考えるより先に出た。


 アルノが足を止める。


 レオン自身も、わずかに目を動かした。


「作業が正しかったと証明する者がいれば、次は君だけを疑えない」


「それを、最初に言ってくれればよかったのに」


「今、気づいた」


「君にも、あとから気づくことがあるんだな」


「ある」


「少し安心したよ」


 アルノは笑い、廊下を去っていった。


 レオンは、その背中を見送った。


 何に安心したのかは。


 やはり、よく分からなかった。


     ◇


 学院の正面玄関には、一人の若い男が待っていた。


 上等な濃灰色の外套。


 白い手袋。


 黒い革鞄。


 まだ二十代半ばほどだが、学生とは明らかに違う落ち着きを身につけている。


 エドガー=クラウス。


 レオンの兄だった。


「遅い」


 弟の姿を認めると、最初にそう言った。


「学院から連絡があった」


「何と」


「君が、公開講義の投票結果を止め、集計器を開けさせ、教官と書記へ報告書の訂正を要求していると」


「事実だ」


「もう少し、誤解の余地がある説明を期待したよ」


 エドガーはレオンの肩越しに、学院内を見た。


「怪我人は?」


「いない」


「盗難は」


「ない」


「金銭上の損害は」


「ない」


「成績への影響は」


「ない」


「では、何が起きた」


「一票多かった」


 エドガーは黙った。


「一票?」


「投票者は四十七人。票は四十八枚」


「それで学院を半日止めたのか」


「止まってはいない。午後の授業は通常どおり行われた」


「君は出ていないだろう」


「必要な調査があった」


「学生の本分について、学院と見解が違うようだな」


 二人は玄関を出た。


 夕方の煤霧が、学院前の石段を覆っている。


 通りでは、帰宅する学生たちが蒸気乗合車へ乗り込んでいた。


 エドガーは弟から訂正済みの処理票の写しを受け取る。


 歩きながら目を通した。


「前年校正票の残留」


「ああ」


「集計担当者への疑いは訂正済み」


「ああ」


「投票結果も確定した」


「二十四対二十三」


「なら、再投票でもよかっただろう」


 レオンは兄を見た。


「再投票では、四十八票あった理由は消えない」


「結果は出し直せる」


「疑われた記録は残る」


「処分されなければ、実務上の影響は少ない」


「少ないだけで、ないわけではない」


「君は相変わらず、一つの言葉へ時間を使いすぎる」


「兄さんは相変わらず、一つくらいなら数から消しても構わないと思っている」


「消すとは言っていない」


 エドガーは処理票を折り、弟へ返した。


「正しい場所へ戻すだけだ」


「誰が正しい場所を決める?」


「規則と責任者だ」


「責任者が間違えた場合は?」


「上位の責任者が訂正する」


「その上が間違えた場合は?」


「さらに上だ」


「一番上が間違えた場合は?」


 エドガーは立ち止まった。


 煤霧の向こうから、学院の時計塔が見える。


 決められた時刻を。


 決められた針で。


 決められた文字盤の上へ示している。


「それを学ぶために、君は学院へ通っているんじゃないのか」


 エドガーが言った。


「学院が間違えた」


「だから、君が訂正したんだろう」


「学院の規則に従って」


「なら制度は動いている」


「今日は」


「君は制度が一度間違えただけで、すべてを疑うつもりか」


「一度間違えたことを、間違えなかったことにはしない」


 エドガーは弟を見た。


 面倒そうに。


 しかし、呆れているだけではない目だった。


「レオン」


「何だ」


「学院で友人はできたか」


「今、その話に関係があるのか」


「ない」


「なら訊くな」


「答えで分かったよ」


 二人は再び歩き出した。


「アルノ=フェルは友人ではない」


「私は名前を聞いていない」


「集計担当の学生だ」


「その学生の疑いを訂正させた?」


「数字が合わなかっただけだ」


「そうか」


 エドガーは小さく笑った。


「何がおかしい」


「君が将来、同じ言葉を何度使うことになるのかと思ってね」


「同じ状況が何度も起きるとは限らない」


「起きるよ」


「なぜ分かる」


「君が、見つけに行くからだ」


 レオンは答えなかった。


 学院前を離れ、二人は霧の深い通りへ入った。


 兄は歩く速度を少し落とした。


 弟に合わせたとは言わない。


 弟も、気づいたとは言わなかった。


「君は本当に、面倒な学生だな」


 エドガーが言う。


「学院が不正確なんだ」


「その返答が面倒だと言っている」


「兄さんの質問も不正確だ」


「訂正する気はない」


「記録しておく」


「好きにしろ」


 若い兄弟の声が、煤霧の通りへ遠ざかっていった。


     ◇


 その日の学院記録には。


 集計器第二号機、整備不備。


 前年校正票一枚、機構内残留。


 投票結果、二十四対二十三。


 集計担当生徒の操作に異常なし。


 そう記されました。


 誰も処分されず。


 誰も傷つけられず。


 投票は正しく終わりました。


 後に、偽装記録の探偵と呼ばれる少年が。


 なぜ最後まで訂正を求めたのか。


 それを記した紙はありません。


 少年自身も。


 誰かを守ったとは考えていなかったでしょう。


 彼が見ていたのは、四十七と四十八の間にある、たった一つの矛盾だけでした。


 けれど。


 その一票を正しい時刻へ戻したことで。


 一人の学生の名もまた、疑いの欄から元の場所へ戻りました。


 人は、ときに。


 何を守ったのか知らないまま、それを守ることがあります。


 だから私は。


 誰のものでもなかった、その一票を憶えています。


 ――ナミ=エル

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