観測余録 ― 第三記録、配役完了
夜の月硝子劇場には、もう誰もいない。
正面扉には、白い休演札。
舞台機械からは蒸気が抜かれ、照明も落とされている。
大道具は片づけられ。
王の玉座が置かれていた場所には、四角い床の跡だけが残っていた。
拍手も。
台詞も。
木片を打ち合わせる合図もない。
ただ。
煤霧を透かした月の光だけが、乳白色の硝子窓から客席へ流れ込んでいる。
その光さえ届かない最後列に。
一人の男が座っていた。
黒い礼装。
細身の杖。
夜よりも黒いシルクハット。
人間より小柄でありながら。
空になった劇場のすべてを、自分の席としているような男。
エル=ネフリド。
彼の膝の上には。
二枚の黒い入場券が置かれていた。
一枚目には、銀の文字で。
**レオン=クラウス。**
二枚目には。
**ノクス=モリアン。**
エル=ネフリドは、懐から真鍮の鋏を取り出した。
最初の券を、指先で挟む。
静寂の中へ。
小さな音が落ちた。
――ぱちん。
「探偵役、入場」
レオン=クラウスの券へ。
ひとつの穴が開く。
次に。
ノクス=モリアンの名が記された券を持ち上げる。
――ぱちん。
「教授役、入場」
二枚の黒い券を。
月硝子から差し込む淡い光へ透かす。
穿たれた二つの穴から。
白い光が覗いていた。
それぞれ別の場所へ開けられた穴。
けれど。
二枚を静かに重ねると。
離れていた光は、ひとつの輪郭を結んだ。
それが何を示す形なのか。
エル=ネフリドは、語らない。
ただ。
確かめるように目を細めた。
「第三記録、配役完了」
その声が、空の劇場へ溶けていく。
次の瞬間。
最後列には、誰も座っていなかった。
二枚の入場券も。
真鍮の鋏も。
最初から、そこには存在しなかったかのように消えている。
舞台は終わった。
事件も、記録された。
だが。
探偵と教授の物語は。
ここから始まる。




