投票箱には一票多い
大人になった者の信念には、始まりの日が記されているとは限りません。
いつ、最初の疑問を抱いたのか。
いつ、正しいと教えられたものを疑ったのか。
いつ、誰も困っていないのだから構わない、という言葉へ納得できなくなったのか。
人は、自分が変わった瞬間を、案外覚えていないものです。
ましてや、その少年は。
正義を語りませんでした。
誰かを救おうとも考えていませんでした。
ただ。
四十七人しかいない教室に、四十八票あることを。
見なかったことにできなかったのです。
――ナミ=エル
ヴァルテリア中央記録学院の講堂には、紙を折る音が満ちていた。
四十七人の学生が、同じ大きさの投票用紙へ目を落としている。
春季公開講義の論題を決めるための投票だった。
候補は二つ。
《記録は事実を証明する》
《記録は事実を選別する》
学院の創立記念日に、市政官、記録官、商会書記、法学生を招いて討論を行う。高等予科の学生たちは、どちらか一方へ票を投じることになっていた。
「投票用紙を折る必要はない」
教壇に立つローデン教官が言った。
痩せた長身のヒト族で、黒い学院服の襟を喉元まで留めている。
「無記名投票ではあるが、票は集計器へ直接入れる。筆記面を伏せ、順番に前へ出なさい」
学生たちが席を立つ。
講堂前方には、真鍮と黒鉄で作られた小型の蒸気式集計器が置かれていた。
投入口は一つ。
正面には二つの数字窓。
用紙へ黒鉛筆で記された印を読み取り、左右の数字を一つずつ進める仕組みだった。
集計器の脇には、アルノ=フェルが立っている。
淡い茶色の髪。
細い肩。
学院の規定どおりに整えられた制服。
彼は機械記録実習の成績が優秀で、その日の集計器の準備と作動確認を任されていた。
「次」
アルノが呼ぶ。
学生が一人ずつ用紙を投入口へ差し込む。
内部で送りローラーが回る。
紙を呑み込む音。
読み取り針が票面へ触れる軽い音。
数字窓の歯車が一つ進む。
かちり。
かちり。
かちり。
講堂の最後列に座っていたレオン=クラウスは、自分の番が来てもすぐには立たなかった。
投票用紙を机へ置き、二つの論題を見比べている。
「まだ決めていないのか」
隣の学生が訊いた。
「決めている」
「では早く行け。後ろがつかえている」
「論題の書き方が不正確だ」
「投票が始まってから言うことか?」
レオンは黒鉛筆を取った。
《記録は事実を選別する》の横へ印をつける。
「記録は事実を証明する場合もある。選別する場合もある。二つを対立させる前提に無理がある」
「なら棄権すればいい」
「不正確な問いへ答えないことと、選択肢のうち、より誤りの少ない方を選ぶことは別だ」
「君と話していると、何も決まらなくなるな」
「不正確に決めるよりはいい」
レオンは席を立った。
十七歳。
黒い髪。
学生としては細身で、顔色もあまりよくない。
学院内では、成績優秀者として知られている。
同時に。
授業中であろうと教官の誤りを指摘し。
規則を守りながら、規則を定めた者の不備を問い。
褒められても喜ばず、嫌われても直そうとしない学生としても知られていた。
レオンは用紙を集計器へ差し込んだ。
紙が内部へ引き込まれる。
左側の数字窓は、二十四。
右側は、二十三。
レオンの票で右が一つ進み、二十四となった。
「同数か」
誰かが言った。
「まだ最後の一人がいる」
ローデン教官が講堂を見渡した。
一番前の席にいた女子学生が立ち上がり、最後の票を投じる。
紙が呑み込まれた。
数字窓が動く。
左、二十四。
右、二十四。
講堂がざわついた。
「同票?」
「四十七人で?」
「どちらかが二十四なら、もう片方は二十三のはずだ」
ローデン教官が手を上げる。
「静かに」
声が収まる。
教官は数字窓を確かめ、アルノへ尋ねた。
「投票者は全員か」
「はい。高等予科第二組、在籍四十七名。欠席者はいません」
「投票者名簿を」
アルノは机に置いていた名簿を差し出した。
四十七の名前。
それぞれの横に、投票済みを示す小さな確認印がある。
ローデン教官は上から下まで目を通した。
「重複は?」
「ありません」
「集計器の始動前確認は」
「左右とも零でした。教官にも確認していただきました」
「そうだったな」
講堂にいる全員が、集計器を見た。
二十四。
二十四。
合計、四十八。
「投票箱には、一票多い」
誰かが小さく言った。
アルノの顔から血の気が引いた。
集計器へ最後に触れたのは、彼だった。
朝、機械室から運び出し。
給気管を接続し。
試運転を行い。
講堂へ設置した。
投票中も、機械のすぐ隣にいた。
「フェル」
ローデン教官が呼ぶ。
「はい」
「試運転には何を使った」
「校正用の白紙です。読み取り針と数字送りをそれぞれ一度動かし、最後に数字を零へ戻しました」
「校正用紙は」
「試運転後に破棄箱へ入れました」
「確認した者は?」
アルノは答えられなかった。
試運転を任されたのは一人だった。
優秀だから任された。
信頼されていたから、立会人はつかなかった。
その信頼が。
一票多いという数字によって、疑いへ変わり始めていた。
「教官」
レオンが言った。
「何だ、クラウス」
「投票用紙を数えてください」
「数字窓が四十八を示している」
「機械が四十八を示していることと、用紙が四十八枚あることは同じではありません」
ローデン教官は一瞬、レオンを見た。
それから集計器下部の排出箱を開けさせた。
アルノが用紙を取り出す。
十枚ずつに分けて数える。
「十」
二束目。
「二十」
三束目。
「三十」
四束目。
「四十」
残りを一枚ずつ机へ並べる。
「四十一。四十二。四十三。四十四。四十五。四十六。四十七」
アルノの指が止まった。
最後に、もう一枚ある。
「四十八」
講堂のざわめきが戻る。
ローデン教官は、四十八枚の用紙を見下ろした。
「全票を無効とする」
即座に決定した。
「明日、別の用紙を使い、再投票を行う。集計は手作業で行う」
「原因を調べないのですか」
レオンが訊いた。
「投票者四十七名に対し、票は四十八枚。不正票を特定できなければ、結果は成立しない」
「誰かが不正票を入れたと?」
「その可能性はある」
「集計器が一票を作った可能性は」
数人が笑った。
ローデン教官は笑わなかった。
「機械は紙を増やさない」
「人間も、見られている前で紙を増やすのは難しい」
「不可能ではない」
「では、誰が入れたのですか」
「それを今から調べる」
教官の視線が、アルノへ向いた。
ほんの一瞬だった。
だが、それだけで十分だった。
学生たちの視線も、同じ方向へ集まった。
レオンはアルノを見た。
怯えた顔をしている。
ただしレオンが見ていたのは、その表情ではなかった。
アルノの袖口。
指先。
集計器の鍵。
投票用紙の束。
そして、机に並ぶ四十八枚目だった。
「四十七人全員が投票した」
レオンが言った。
「だから何だ」
「なら、一枚は学生が投じた票ではありません」
◇
投票は無効とされた。
学生たちは午後の講義へ戻され、集計器と投票用紙は学院書記室へ移された。
事件ではない。
金銭は動いていない。
成績にも進級にも関係しない。
公開討論会の論題が、今日決まらなかっただけだ。
翌日に再投票すれば済む。
誰も損をしない。
少なくとも、学院側はそう判断した。
授業終了後。
レオンは書記室の前に立っていた。
扉の脇には、仮処理票が掲示されている。
春季公開講義論題選定投票。
投票者数、四十七名。
排出票数、四十八枚。
処理。
投票無効。翌日再実施。
備考。
《集計担当生徒による重複投入の可能性あり。確認継続》
レオンは、その一文を読んでいた。
「まだ帰っていなかったのか」
背後からローデン教官の声がした。
「この記述は誰が書いたのですか」
「学院書記だ。私の報告をもとにしている」
「重複投入の証拠は?」
「可能性あり、と書いてある」
「可能性なら、集計器の故障もあります」
「機械が用紙を一枚作ることはない」
「同じ言葉を先ほど聞きました」
「なら理解しただろう」
「理解できないので、もう一度訊いています」
ローデン教官は息を吐いた。
「フェルを処分するつもりはない。本人へ事情を聞き、異常が確認できなければ、それで終わりだ」
「終わりません」
「投票はやり直す」
「結果の話ではありません」
レオンは備考欄を指した。
「この記録では、アルノ=フェルが不正をした可能性だけが残ります」
「だから、可能性と書いてある」
「疑った事実は残る」
「処分をしなければ実害はない」
「処分されなかったことと、疑われなかったことは同じではありません」
廊下の奥に人影が立っていた。
アルノだった。
書記室へ呼ばれていたらしい。
会話を聞いていた。
「クラウス」
アルノが近づいてくる。
「もういい」
「何がだ」
「再投票をすれば済む。教官も処分しないと言っている」
「この記録が残っても?」
「僕がやっていないことは、僕が知っている」
「記録を読む者は知らない」
「読む者なんていないよ。公開講義の投票記録だ」
「なら、なぜ記録する」
アルノは言葉を失った。
レオンは続けた。
「読まれない記録なら、何を書いてもいいのか」
「そういう意味では」
「君が構わなくても、四十八という数字は残る」
「君は、僕を助けようとしているのか」
レオンは少し考えた。
「違う」
アルノの顔が固くなる。
「数字が合わないのが不愉快なだけだ」
「クラウス」
ローデン教官が低く呼んだ。
「言い方というものがある」
「誤解される言い方はしていません」
「君は誤解されない代わりに、人を傷つける」
レオンはアルノを見た。
なぜ傷ついたのか。
すぐには理解できなかった。
事実を述べた。
助けるという目的ではなかった。
それを正確に伝えた。
何が問題なのか。
「集計器を調べさせてください」
レオンは教官へ向き直った。
「学生だけで学院備品を分解させるわけにはいかない」
「教官が立ち会えばいい」
「なぜ私が」
「調べずに生徒を疑った記録を残した責任があります」
ローデン教官の眉が動いた。
アルノが小さく息を呑む。
廊下にいた学院書記は、聞こえなかったふりをして机へ目を落とした。
「……日没までだ」
教官は言った。
「機械室で確認する。勝手に部品へ触るな。フェルも来なさい。自分が整備した機械だ」
「はい」
「クラウス」
「何です」
「何も見つからなければ、仮処理票の記述に従う」
「見つからなければです」
◇
書記室の長机へ、四十八枚の投票用紙が並べられた。
窓の外では、学院時計塔の長針が午後五時へ近づいている。
レオンは一枚ずつ用紙を確かめた。
投票内容ではない。
紙の色。
裁断幅。
厚さ。
透かし。
角の潰れ。
送りローラーが残した細い圧痕。
黒鉛の沈み方。
「筆跡を比べるのではないのか」
ローデン教官が訊いた。
「印を一つつけただけです。誰の手かは判別できません」
「では何を見る」
「誰の手でもない票です」
レオンは四十八枚目を持ち上げた。
「これだけ幅が狭い」
アルノが定規を当てる。
現在の投票用紙より、ほんのわずかに狭かった。
二ミリにも満たない差。
重ねて比べなければ分からない。
「裁断機のずれでは?」
「今年の用紙は一括裁断されています。四十七枚は同じ幅です」
レオンは紙を窓の光へ透かした。
「年度透かしがない」
学院の投票用紙には、年度ごとに異なる小さな透かしが入る。
不正な再使用を防ぐためだ。
だが問題の一枚には、今年の透かしがなかった。
代わりに。
紙の端近くへ、薄く潰れた古い学院章が見えた。
「以前の用紙?」
アルノが言う。
「少なくとも、今年の票ではない」
レオンは黒い印を拡大鏡で見る。
「黒鉛ではありません」
ローデン教官も覗き込んだ。
「何だ」
「印刷用の黒色顔料です。鉛筆なら繊維の表面が削れる。これは紙の奥へ均一に沈んでいる」
「誰かが以前の用紙を使い、印刷機で印をつけた?」
「公開講義の論題一つのために?」
「不可能ではない」
「可能性だけなら、神が投票した可能性も残せます」
「クラウス」
「ですが、必要がない。これは投票するために作られた票ではありません」
レオンは紙の一角を指した。
古い機械油の染み。
細く強い折れ跡。
折れ目に沿って、紙の繊維が毛羽立っている。
「長いあいだ、機械の内部で圧迫されていた」
アルノが集計器を見る。
「校正票……?」
「去年の整備台帳はありますか」
アルノは機械室の書棚へ向かった。
年度ごとに束ねられた整備記録を探す。
前年。
春季公開講義。
論題選定投票。
集計器、第二号機。
試運転。
読み取り針、正常。
数字送り、正常。
排出機構――。
アルノの指が止まった。
「ここです」
台帳を長机へ置く。
そこには、前年の学生整備担当者による記録があった。
《校正票一枚、排出確認不能》
その下へ、教官の筆跡で追記されている。
《機構内残留なしと判断。試運転完了》
「確認した、とは書かれていない」
レオンが言った。
「残留なしと判断した」
「言葉の違いだ」
ローデン教官が答える。
「違います。排出されたことを確認していないから、判断したと書いた」
レオンは集計器へ視線を向けた。
「前年の校正票が、まだ中にあった」
「一年間も?」
「この集計器は、公開行事の投票にしか使われない。通常は機械室で保管されている」
アルノが頷いた。
「去年の投票後は一度も動かしていません。今日、僕が試運転するまで」
「朝の試運転では出なかったのか」
「校正紙を一枚ずつ通しました。数字送りの確認だけだったので、低圧で」
「本番では四十七枚を連続して通した」
レオンは集計器の外装へ手を近づけた。
まだ少し温かい。
「蒸気管が熱を持ち、送りローラーが連続して回った。内部へ貼りついていた票が剥がれ、今年の票と一緒に排出された」
「内部を確認する」
ローデン教官が言った。
アルノが給気弁を閉じる。
圧力計が零へ落ちるのを待ち、側面板の封印ねじを外した。
レオンは触れずに見ている。
黒鉄の送りローラー。
読み取り針。
二方向へ票を判別する案内板。
その裏側。
細い隙間に、古い紙の繊維が残っていた。
油で黒ずんだ、象牙色の毛羽立ち。
アルノが小さな鑷子で採取する。
四十八枚目の折れ目へ残る繊維と、色も太さも一致していた。
「ここに挟まっていた」
アルノが言った。
「それが今日、剥がれた」
ローデン教官は整備台帳を見た。
前年の記録。
《排出確認不能》
《機構内残留なしと判断》
そして今年。
四十七人。
四十八票。
「では、不正投票ではない」
「最初から、その証拠はありませんでした」
レオンが答えた。
「クラウス」
「何です」
「今は、私が認めようとしたところだ」
「事実は、認められる前から事実です」
ローデン教官は額へ手を当てた。
「君は、いつか必ず上官を怒らせる」
「間違っていれば訂正します」
「上官を?」
「記録を」
アルノが笑った。
緊張が解けたためか。
ほんの短い笑いだった。
「君は本当に、数字が合わなかっただけなんだな」
「そう言った」
「僕が疑われていたことは?」
「それも数字が合わなかった結果だ」
「心配はしていなかった?」
「何を」
「僕が処分されるかもしれないことを」
レオンは少し考えた。
「証拠がない以上、処分は成立しない」
「そういう意味じゃない」
「では、どういう意味だ」
アルノはまた笑った。
今度は、少し呆れたような笑いだった。
「分からないなら、いい」
レオンは眉を寄せた。
分からないままにされることを、彼は好まなかった。
だがアルノは、それ以上説明しなかった。
◇
四十八枚目は、前年の校正票だった。
票面には、《記録は事実を選別する》側へ試験印がついていた。
それを除くと、正しい集計は。
《記録は事実を証明する》 二十四票。
《記録は事実を選別する》 二十三票。
翌日の再投票は中止され、公開討論会の論題は、《記録は事実を証明する》に決定した。
「君の選んだ方は負けたな」
アルノが言った。
機械室から書記室へ戻る途中だった。
「そうだな」
「不満ではないのか」
「論題には同意していない」
「なら、再投票にした方がよかったんじゃないか」
「投票結果が正しいことと、選ばれた論題が正しいことは別だ」
「一票差だ。もう一度投票すれば変わるかもしれない」
「変わるだろうな」
「それでも、この結果を採用する?」
「これは今日、四十七人が投じた結果だ。明日の四十七人が投じる結果とは違う」
「同じ学生だよ」
「今日の騒ぎを知った時点で、同じ条件ではない」
アルノはしばらく考えた。
「君は《記録は事実を選別する》へ投票したんだろう?」
「ああ」
「その投票記録を守るために、《記録は事実を証明する》が選ばれる結果を確定させた」
「矛盾はない」
「僕には、少し皮肉に見える」
「皮肉は事実の側に言ってくれ」
◇
学院書記は仮処理票を書き直した。
最初の備考。
《集計担当生徒による重複投入の可能性あり。確認継続》
その一文へ、赤い訂正線を引く。
だがレオンは首を横に振った。
「消すだけでは不十分です」
「訂正線を引き、訂正印を押す」
書記が答える。
「それでは、疑いが誤りだった理由が分からない」
「詳細は整備記録へ残す」
「この記録を読む者が、整備記録まで照会するとは限りません」
「では、どう書けと?」
レオンは答えた。
「《前年校正票が集計機構内へ残存し、現行票へ混入。集計担当生徒の操作に異常なし》」
「長すぎる」
「必要な長さです」
「投票結果の処理票だぞ」
「だから、投票結果へ関係する事実を書くべきです」
書記はローデン教官を見る。
教官は一日の疲労をすべて吐き出すように、長く息をついた。
「書いてやれ」
「しかし」
「書かなければ、この学生は日が暮れても帰らん」
「もう暮れています」
レオンが窓を見る。
煤霧に沈む学院の中庭では、ガス灯が灯り始めていた。
「分かっている。だから言っている」
書記は新しい処理票を取り出した。
一文字ずつ。
レオンが指定した内容を記していく。
《前年校正票が集計機構内へ残存し、現行票へ混入》
《集計担当生徒の操作に異常なし》
最後に。
ローデン教官の確認印。
学院書記の訂正印。
アルノ=フェルの立会署名。
レオンは、すべてを確かめた。
「これでいい」
「君の許可を求めた覚えはない」
教官が言った。
「では、独り言です」
「君の独り言は、相手を怒らせるためにあるのか」
「その意図はありません」
「意図がなければ許されると思うな」
アルノが署名を終え、ペンを置いた。
「クラウス」
「何だ」
「ありがとう」
レオンは訂正済みの処理票を見た。
「君のために調べたわけではない」
「知っている」
「数字が合わなかっただけだ」
「それも聞いた」
「なら、礼を言う理由がない」
「それでも、助かった」
レオンは答えなかった。
アルノが何を求めているのか分からなかった。
礼を受け取ればいいのか。
助かったという事実へ頷けばいいのか。
数字の不一致を直しただけだと、もう一度説明すべきなのか。
考えているうちに。
アルノは鞄を持ち上げた。
「明日から、機械の試運転には立会人をつけるそうだ」
「当然だ」
「僕一人では信用できないから?」
「君一人を守るためでもある」
言葉は、考えるより先に出た。
アルノが足を止める。
レオン自身も、わずかに目を動かした。
「作業が正しかったと証明する者がいれば、次は君だけを疑えない」
「それを、最初に言ってくれればよかったのに」
「今、気づいた」
「君にも、あとから気づくことがあるんだな」
「ある」
「少し安心したよ」
アルノは笑い、廊下を去っていった。
レオンは、その背中を見送った。
何に安心したのかは。
やはり、よく分からなかった。
◇
学院の正面玄関には、一人の若い男が待っていた。
上等な濃灰色の外套。
白い手袋。
黒い革鞄。
まだ二十代半ばほどだが、学生とは明らかに違う落ち着きを身につけている。
エドガー=クラウス。
レオンの兄だった。
「遅い」
弟の姿を認めると、最初にそう言った。
「学院から連絡があった」
「何と」
「君が、公開講義の投票結果を止め、集計器を開けさせ、教官と書記へ報告書の訂正を要求していると」
「事実だ」
「もう少し、誤解の余地がある説明を期待したよ」
エドガーはレオンの肩越しに、学院内を見た。
「怪我人は?」
「いない」
「盗難は」
「ない」
「金銭上の損害は」
「ない」
「成績への影響は」
「ない」
「では、何が起きた」
「一票多かった」
エドガーは黙った。
「一票?」
「投票者は四十七人。票は四十八枚」
「それで学院を半日止めたのか」
「止まってはいない。午後の授業は通常どおり行われた」
「君は出ていないだろう」
「必要な調査があった」
「学生の本分について、学院と見解が違うようだな」
二人は玄関を出た。
夕方の煤霧が、学院前の石段を覆っている。
通りでは、帰宅する学生たちが蒸気乗合車へ乗り込んでいた。
エドガーは弟から訂正済みの処理票の写しを受け取る。
歩きながら目を通した。
「前年校正票の残留」
「ああ」
「集計担当者への疑いは訂正済み」
「ああ」
「投票結果も確定した」
「二十四対二十三」
「なら、再投票でもよかっただろう」
レオンは兄を見た。
「再投票では、四十八票あった理由は消えない」
「結果は出し直せる」
「疑われた記録は残る」
「処分されなければ、実務上の影響は少ない」
「少ないだけで、ないわけではない」
「君は相変わらず、一つの言葉へ時間を使いすぎる」
「兄さんは相変わらず、一つくらいなら数から消しても構わないと思っている」
「消すとは言っていない」
エドガーは処理票を折り、弟へ返した。
「正しい場所へ戻すだけだ」
「誰が正しい場所を決める?」
「規則と責任者だ」
「責任者が間違えた場合は?」
「上位の責任者が訂正する」
「その上が間違えた場合は?」
「さらに上だ」
「一番上が間違えた場合は?」
エドガーは立ち止まった。
煤霧の向こうから、学院の時計塔が見える。
決められた時刻を。
決められた針で。
決められた文字盤の上へ示している。
「それを学ぶために、君は学院へ通っているんじゃないのか」
エドガーが言った。
「学院が間違えた」
「だから、君が訂正したんだろう」
「学院の規則に従って」
「なら制度は動いている」
「今日は」
「君は制度が一度間違えただけで、すべてを疑うつもりか」
「一度間違えたことを、間違えなかったことにはしない」
エドガーは弟を見た。
面倒そうに。
しかし、呆れているだけではない目だった。
「レオン」
「何だ」
「学院で友人はできたか」
「今、その話に関係があるのか」
「ない」
「なら訊くな」
「答えで分かったよ」
二人は再び歩き出した。
「アルノ=フェルは友人ではない」
「私は名前を聞いていない」
「集計担当の学生だ」
「その学生の疑いを訂正させた?」
「数字が合わなかっただけだ」
「そうか」
エドガーは小さく笑った。
「何がおかしい」
「君が将来、同じ言葉を何度使うことになるのかと思ってね」
「同じ状況が何度も起きるとは限らない」
「起きるよ」
「なぜ分かる」
「君が、見つけに行くからだ」
レオンは答えなかった。
学院前を離れ、二人は霧の深い通りへ入った。
兄は歩く速度を少し落とした。
弟に合わせたとは言わない。
弟も、気づいたとは言わなかった。
「君は本当に、面倒な学生だな」
エドガーが言う。
「学院が不正確なんだ」
「その返答が面倒だと言っている」
「兄さんの質問も不正確だ」
「訂正する気はない」
「記録しておく」
「好きにしろ」
若い兄弟の声が、煤霧の通りへ遠ざかっていった。
◇
その日の学院記録には。
集計器第二号機、整備不備。
前年校正票一枚、機構内残留。
投票結果、二十四対二十三。
集計担当生徒の操作に異常なし。
そう記されました。
誰も処分されず。
誰も傷つけられず。
投票は正しく終わりました。
後に、偽装記録の探偵と呼ばれる少年が。
なぜ最後まで訂正を求めたのか。
それを記した紙はありません。
少年自身も。
誰かを守ったとは考えていなかったでしょう。
彼が見ていたのは、四十七と四十八の間にある、たった一つの矛盾だけでした。
けれど。
その一票を正しい時刻へ戻したことで。
一人の学生の名もまた、疑いの欄から元の場所へ戻りました。
人は、ときに。
何を守ったのか知らないまま、それを守ることがあります。
だから私は。
誰のものでもなかった、その一票を憶えています。
――ナミ=エル




