第11節 ― イル=ヴァスの問い
ここで、物語を止めよう。
月硝子劇場の窓を流れていた雨粒が、乳白色の硝子の途中で静止する。
舞台へ向かおうとするレオンの靴も。
記録を抱え、そのあとを追うミラベルの足も。
劇場関係者の拘束を命じるグレアムの手も。
開かれた黒い上演記録簿も。
二枚の硝子板に挟まれた、死者の黒い紙片も。
すべてを、その場へ留め置く。
蒸気管の唸りが消える。
高架鉄道の響きも遠ざかる。
誰も座っていない玉座だけが、暗い舞台の中央へ残される。
ごきげんよう、読者よ。
わたしは、イル=ヴァス。
矛盾を観測する者。
記録された事実と。
記録されたように見える事実。
その境界へ潜むものを読む神格である。
この事件に、亡霊は必要ない。
死者は蘇っていない。
古代エルフの呪いも。
死体を操る魔術も。
まだ明かされていない奇跡の機械も存在しない。
必要な人物は、すでに舞台へ現れた。
必要な手掛かりも、すでに提示されている。
では。
ここまでに残された記録を、物語ではなく証拠として読み直していただきたい。
◇
最初の問いは。
「オズリック=ヘイルは、いつ死んだのか。」
第三幕の剣は、彼の身体へ入っていない。
首には、細く滑らかな紐による圧迫痕。
背中には、死後しばらく仰向けに寝かされていたことを示す死斑。
検死官が示した死亡時刻の範囲は、第一幕終了後から第二幕前半まで。
ならば。
第三幕で玉座に座っていた男は。
いつ、どこで殺されたのか。
そして。
殺害後、どこへ寝かされていたのか。
◇
第二の問い。
「右肩を上げられない男の右手を、誰が掲げたのか。」
オズリックの右肩には古傷があった。
自力では、胸より高く腕を上げることが難しい。
それでも第三幕の王は。
五百人の前で、右手を高く掲げた。
右の内手袋には、機械油。
右の腕甲は、玉座の補助棒へ接続されていた。
ドラン=グレインの修理明細には。
床下からの操作による《全量挙上》と記されている。
では。
王の右手を上げた者は、殺人犯なのか。
それとも。
いつもの合図に従い、自分の仕事を果たしただけなのか。
◇
第三の問い。
「なぜ、鏡面仮面の内側は乾いていたのか。」
第三幕の間。
王は重い仮面を着けていた。
生きた人間が、その内側で呼吸を続ければ。
冷たい真鍮板には、吐息の曇りや湿気が残るはずである。
しかし。
仮面の内側には、呼吸の痕がなかった。
それにもかかわらず。
観客は、仮面の奥からオズリックの声を聞いた。
ならば。
声が聞こえたことは。
仮面の中の男が、生きていた証明になるだろうか。
◇
第四の問い。
「第三幕で聞こえた声は、いつ発せられたものだったのか。」
オズリックは午後の音響確認で、唯一の台詞を蝋管へ残している。
――名は滅びぬ。役に残る。
ヴァネッサは。
喉鳴り。
言葉の間。
最後に抜ける息。
遠くで工具が落ちる小さな金属音まで。
午後の録音と第三幕の声が同じであったと証言した。
その蝋管は、保管箱から消えている。
音響係は。
指定された番号の蝋管を、指定された合図で再生した。
では。
誰が蝋管を持ち出したのか。
誰が、本番で使用するよう指示したのか。
そして。
過去に記録された声を。
現在の声として、正しい瞬間へ置いたのは誰か。
◇
第五の問い。
「玉座は、何を動かすための装置だったのか。」
右腕を上げる補助棒。
身体を座位へ保つ革帯と背板。
舞台下から、上半身を前へ傾ける解除索。
それらは本来。
重い衣装をまとった生きた演者を助けるためのものだった。
だが検証では。
筋力も。
呼吸も。
意志も持たない重さを、座らせ。
動かし。
前へ沈ませることができた。
ならば。
死体を第三幕へ出演させるために必要だったのは。
死者を操る技術だったのか。
それとも。
通常の舞台装置を、通常どおり動かすための合図だったのか。
◇
第六の問い。
「二十七秒は、何を壊したのか。」
第二幕で。
ヴァネッサは予定より二十七秒長く沈黙した。
その遅れは、楽団の譜面と照明室の自記記録へ残っている。
第三幕の三つの合図。
右腕挙上。
剣・血糊合図。
支持解除。
いずれも実際には、予定された次の分へ入っていた。
だが。
上演記録簿に書かれたのは、進行表どおりの分だった。
この帳面は。
実際の舞台を観測して記したものなのか。
公演前に書かれたのか。
公演後に予定表から写されたのか。
あるいは。
現実の遅れを知りながら、予定どおり成功したことにしたのか。
まだ、それは確定していない。
ただし。
ひとつだけ確かなことがある。
この上演記録簿は。
マティアス=ロウが、すべての合図の時刻に監督席へいた証明にはならない。
では。
帳面がそこにある間。
その管理者は、どこにいたのか。
◇
第七の問い。
「死者の左手は、何を掴んだのか。」
オズリックの左手は。
全身の硬直とは釣り合わないほど、強く握られていた。
検死院で左の内手袋を外す際。
握り込まれた黒い紙片が発見された。
白いインク。
残された文字は。
――第二幕終了――
――仮面支度……
上演記録簿の第二幕と第三幕の境には。
裏側から黒い紙を貼った、不自然な補修がある。
紙片と帳面が同じものであるかは。
まだ、専門家による比較を待たなければならない。
だが。
死者は最後に。
なぜ、この文字が書かれた黒い紙を握ったのか。
その紙は。
誰によって仮面支度室へ持ち込まれたのか。
◇
そして。
最後の問い。
「なぜ、死者の名が配役表に残っているのか。」
《リリア=ノア》。
十二年前の上演記録にも存在する名。
その名の持ち主は、すでに死亡している。
それでも。
イリス=セーヴァを含む複数の者が、現在もその登録名を使用していた。
ひとつの名前を。
異なる顔が使っている。
過去の配役表へ記された名と。
現在、舞台裏で働く人間が一致しない。
これは。
昨夜の殺人のため、急に作られた仕掛けではない。
以前から。
月硝子劇場の記録の中へ存在していた。
誰が、この名義を割り当てていたのか。
なぜ彼らは、自分の名前で働けなかったのか。
オズリックが劇場を売却し。
過去の雇用記録が調べられたなら。
誰が。
何を失うはずだったのか。
◇
読者よ。
改めて、問いを並べよう。
誰が、オズリック=ヘイルを殺したのか。
誰が、死体へ王の衣装を着せ、玉座へ固定できたのか。
誰が、午後の蝋管を本番へ置いたのか。
誰が、複数の係員へ正しい順番で合図を与えたのか。
誰が、自分の不在を証明するために上演記録簿を使ったのか。
死者の左手に残された黒い紙片は、誰の記録から破られたのか。
そして。
誰が、死者の名を生きた者へ与えていたのか。
必要な手掛かりは、すべて提示された。
新しい人物は現れない。
秘密の通路もない。
替え玉の双子も。
第二の王役も。
死者を操る魔術も存在しない。
答えは。
右肩に。
乾いた仮面に。
消えた蝋管に。
古い玉座に。
二十七秒に。
黒い紙片に。
そして。
死者の名が並ぶ配役表の中にある。
それでは。
物語を再び動かそう。
雨粒が、乳白色の窓を滑り落ちる。
蒸気管が、低い唸りを取り戻す。
支配人室の時計が、次の一秒を刻む。
レオンは舞台へ向かう。
ミラベルは五百人の証言を抱え、そのあとを追う。
グレアムは、劇場関係者を客席へ集めるよう部下へ命じる。
第三幕は、すでに終わった。
これから始まるのは。
上演記録簿へ書かれていない、最後の一幕である。




