第10節 ― 観客が作った記憶
五百人の証言は、ひとつの真実を五百倍にしたものではなかった。
一枚の紙なら、指先で持てる。
十枚なら、端を揃えて綴じられる。
百枚を越えれば、机へ置いたとき鈍い音がする。
五百枚ともなれば。
それはもう、同じ光景を見た五百人の記録ではない。
異なる席。
異なる視力。
異なる知識。
異なる言葉。
それらを、ひとつの事件として束ねた紙の群衆だった。
月硝子劇場の玄関広間には、長卓が三列に並べられていた。
前夜には葡萄酒と軽食を載せ、着飾った観客を迎えていた卓である。
今、その上へ置かれているのは。
市警が取った五百人分の第一供述。
煤霧日報による座席別参考調査。
公演冊子。
座席図。
そして、赤、青、紫に塗り分けられた集計表だった。
市警による第一供述が終わったあと。
煤霧日報はグレアムの許可を得て、帰宅前の観客へ一枚の補足票を配っていた。
最初に行った三人への詳細な聞き取りとは異なる。
質問を必要な項目だけへ絞った、短い用紙だった。
開演前に公演冊子を読んだか。
同行者から筋書きや台詞の説明を受けたか。
第三幕の王を、どのような言葉で記憶しているか。
声を、どの方向から聞いたと感じたか。
回答は任意であり、市警の正式供述とは別に保存された。
その場で記入できなかった者には。
翌朝、市警へ届け出られた連絡先を通じて、同じ質問への確認を行っている。
詳細な再聴取ではない。
証言を誘導しないよう、選択肢ではなく短い自由記述を求めた。
その結果を、市警の第一供述と座席番号へ照合したものが。
今、卓上へ並ぶ五百人分の集計だった。
煤霧日報の夜番記者たちは、交代で煤鳩亭から届けられた珈琲を飲みながら作業を続けている。
ミラベルは、集計表の最後の数字を確かめた。
「五百人」
向かいに座る整理員が言った。
「全員分です」
「欠落は?」
「ありません。座席番号と第一供述が一致しなかった二件も、警察書記へ確認しました」
「公演冊子については」
「開演前に読んだ者が四百四十一人。同行者から筋書きや台詞の説明を受けた者が二十八人」
「合わせて、四百六十九人」
「はい」
「冊子を読まず、筋書きの説明も受けていない者は」
「三十一人です」
ミラベルは、三十一枚の灰色の補足票を、別の束へまとめた。
公演冊子を持たなかった菓子売りの少年も、その三十一人に含まれていた。
「一致した表現は?」
整理部長が、背後から尋ねた。
ミラベルは赤鉛筆で囲まれた三つの文を見た。
――王は、鏡の王妃を見つめた。
――王は、右手を高く掲げた。
――王は、最後の言葉を告げた。
「この三つのうち、ひとつ以上を使った証言は四百六十二人です」
「九割を越えるわね」
「はい」
「五百人が同じ舞台を見たのだから、表現が似るのは当然では?」
「そう考えました」
ミラベルは、公演冊子を開いた。
第三幕。
名なき王の最期。
印刷された筋書きの中には、次のように書かれている。
――王は右手を掲げる。
――鏡の王妃を見つめ、最後の言葉を告げる。
ほとんど同じ文章だった。
「問題は、冊子を読んでいない三十一人です」
ミラベルは別の集計表を示した。
「《王妃を見つめた》と話した者は四人」
「少ないわね」
「《右手を高く掲げた》が六人。《最後の言葉を告げた》が三人」
「代わりに、何と?」
ミラベルは回答欄を読む。
「《顔が王妃の方へ向いていたように見えた》」
次。
「《黒い手が、明るい場所へ上がった》」
次。
「《男の声が聞こえた》」
次。
「《王の胸が赤くなった》」
次。
「《前へ倒れた》」
整理部長は、公演冊子を手に取った。
「見えた形のままね」
「完全にそのままとは言えません」
「どうして?」
「見たものを言葉へ変えた時点で、すでに解釈が入っています」
ミラベルは答えた。
「ただ、冊子を読んだ人たちより、具体的ではない」
「冊子を読んだ人は?」
「王の目が見えない席でも、《王妃を見つめた》」
仮面には目がない。
観劇鏡を使っても、瞳の向きは見えない。
「肩や肘が王妃の衣装へ隠れた席でも、《右腕を掲げた》」
見えたのは、照明の中へ現れた黒い手袋だけ。
「剣先が袖に隠れた席でも、《剣が胸へ深く突き刺さった》」
実際に見えたのは。
剣が王へ向けられ。
その直後、胸元が赤く染まったことだけだった。
「声についても、聞こえ方は一致していません」
ミラベルは別の表を開いた。
「《仮面から聞こえた》が二百八十一人」
「半分以上」
「《舞台中央から》が百十二人。《劇場全体から響いた》が六十四人。《右側の壁から》が十八人。《方向は分からない》が二十五人」
「合計五百」
「同じ音響管から流れた声でも、座席によって聞こえた方向は違う」
「それなのに」
整理員が言った。
「ほとんどの人が、オズリック本人が仮面の中で喋ったと」
「オズリックさん本人の声を、以前から知っていた者は百四十六人でした」
「残りは?」
「配役表に名前があった。近くの者が、オズリックの声だと言った。だから、そう理解した」
声そのものが偽物だったわけではない。
蝋管へ残されていたのは、オズリック本人の声である。
ただ。
その声を聞いた時刻と。
声が発せられた時刻が違っていた。
「五百人は、嘘をついていません」
ミラベルは言った。
「王の右手が上がったことも。声がしたことも。胸元が赤くなったことも。身体が倒れたことも、本当に起きた」
「では、何が違ったの」
「見えなかった途中です」
黒い手袋が上がった。
だから、王が自分の腕を上げた。
声がした。
だから、仮面の中の王が喋った。
剣が向けられ、血が流れた。
だから、剣が身体を貫いた。
王の身体が倒れた。
だから、剣を受けて死んだ。
「観客は、途切れた事実を」
ミラベルは公演冊子へ手を置いた。
「見る前から知っていた筋書きでつなぎました」
整理部長が集計表を見る。
「だから、違う席で違うものを見たのに、同じ言葉になった」
「はい」
「五百人の目が一致したのではなく」
ミラベルは頷いた。
「五百人が、同じ文章を読んでいたんです」
窓を打つ雨の音が、少し強くなった。
乳白色の硝子へ、灰色の筋が流れていく。
「見出しが決まったわね」
整理部長が言う。
「まだ記事ではありません」
「仮の見出しよ」
ミラベルは少し考えた。
五百人の偽証。
死者を見た観客。
仮面の王の殺人。
どれも新聞を売るには充分だろう。
だが、どれも正しくない。
「《観客が作った記憶》」
ミラベルは言った。
「怪奇譚みたいね」
「怪異ではありません」
「だから怖いのよ」
整理部長は、五百枚の証言を見た。
「誰にでも起きることでしょう?」
「はい」
人は、世界のすべてを見ることなどできない。
見えない背中。
聞こえない言葉。
途切れた動作。
その間を、知識と経験で埋めて生きている。
それ自体は、誤りではない。
そうしなければ。
人は、目の前の出来事をひとつの物語として理解できない。
犯人は。
その働きを知っていた。
五百人へ嘘を信じ込ませたのではない。
五百人が、自分で正しい舞台を完成させるように仕向けたのだ。
◇
同じ頃。
支配人室では、レオンが上演記録簿を開いていた。
机の左には、劇場の進行表。
右には、楽団指揮者の進行譜と、照明室から回収された自記圧力記録紙。
中央には、黒革の帳面。
グレアムは腕を組み、その向かいへ立っている。
「二十七秒」
レオンが言った。
「第二幕でヴァネッサが止まっていた時間だな」
「俺の懐中時計では二十七秒」
「楽団の記録も同じだ」
グレアムは、指揮者の進行譜を見る。
第二幕終盤。
空白の鏡を落とす直前。
本来なら存在しない二十四拍が、鉛筆で書き足されていた。
低音弦を引き延ばした時間。
二十六秒から二十八秒。
「照明室の圧力記録では」
レオンは煤紙の線を指した。
「空白鏡落下時の月灯減圧が、予定より二十七秒遅れている」
「舞台全体が遅れた」
「休憩は十五分を下回れない。遅れは取り戻されず、そのまま第三幕へ持ち越された」
「帳面は?」
黒い頁。
白いインク。
マティアス=ロウの整った筆跡。
第二幕の終了も。
第三幕の開始も。
予定表と同じ分が記されている。
「分単位の記録なら」
グレアムが言った。
「二十七秒遅れても、同じ分へ収まる場合はある」
「だから、分をまたいだ合図だけを見る」
レオンは、第三幕の三項目へ紙片を挟んでいた。
一つ目。
王の右腕挙上。
進行表上の予定時刻。
午後九時二十三分五十二秒。
二十七秒遅れた実時刻。
午後九時二十四分十九秒。
照明室の圧力記録には。
王の手を照らす月灯が一段強められた時刻が、自動的に刻まれている。
――九時二十四分十九秒。
だが、上演記録簿には。
――右腕挙上、九時二十三分。
「予定された分だ」
グレアムが言う。
「実際の舞台を見て書けば、二十四分になる」
二つ目。
剣・血糊合図。
予定。
九時二十五分四十八秒。
実際。
九時二十六分十五秒。
剣が王の胸へ触れる瞬間。
衣装の内側へ仕込まれた血袋が破れ。
それに同期して、舞台上では赤色灯の弁が開かれる。
自記圧力計が残していたのは。
血袋そのものの作動ではない。
剣と血糊へ重ねられた、赤色灯の同期合図だった。
――九時二十六分十五秒。
上演記録簿には。
――剣・血糊、九時二十五分。
三つ目。
支持具解除。
予定。
九時二十六分四十三秒。
実際。
九時二十七分十秒。
王が崩れる際。
背面灯を落とし、玉座の前方だけへ月灯を残す。
圧力記録の変化は。
――九時二十七分十秒。
上演記録簿には。
――支持解除、九時二十六分。
三つとも。
実際の舞台では、予定の次の分へ入っている。
だが。
黒い帳面は、予定表と同じ分を記していた。
「時計の故障ではない」
グレアムが言う。
「劇場の四つの時計は、開演前に鉄道標準時へ校正されている」
「誤差は最大二秒」
「自記圧力計も」
「同じ標準時計へ接続されていた」
「では、この三か所は間違いだ」
「単なる書き間違いなら」
レオンは頁を指でなぞらず、目だけで追った。
「三つとも偶然、予定表と同じ分へ間違えたことになる」
「進行表を写した」
「少なくとも」
レオンは答えた。
「実際の舞台を観測して書いた時刻ではない」
扉が開く。
証言集計を抱えたミラベルが、支配人室へ入ってきた。
「終わりました」
「そちらは?」
グレアムが尋ねる。
「五百人の証言は、見えた内容では一致していません」
ミラベルは公演冊子を机へ置いた。
「一致したのは、冊子へ書かれていた表現です」
「見えない部分を、筋書きで補った」
レオンが言う。
「はい」
「こちらも似たようなものだ」
上演記録簿を示す。
「舞台で実際に起きた時刻ではなく、進行表へ書かれていた時刻が残っている」
ミラベルは三か所を確認した。
右腕挙上。
剣・血糊。
支持解除。
「この帳面も」
ミラベルが言う。
「実際の舞台を見て、書かれたものではない」
「そうだ」
「事前に書いてあったんですか」
レオンは、すぐには頷かなかった。
「可能性はある」
「断定できない?」
「公演前に書いたのかもしれない」
黒い頁を見る。
「公演後、進行表から写したのかもしれない」
「実際の時刻を知りながら、予定どおりだったことにした可能性もある」
グレアムが付け加える。
「どれであっても」
レオンは言った。
「今、証明できたのは一つだけだ」
白いインクで並ぶ時刻。
「この帳面は、マティアスが合図のたびに監督席へいて、舞台を見ながら記録した証拠にはならない」
室内が静かになる。
「これまでマティアスは」
ミラベルが言う。
「休憩中も監督席と合図盤の周辺で記録をつけていたと話していました」
「上演記録簿が、その供述を支えていた」
グレアムの声が硬くなる。
「帳面が証明にならないなら」
「舞台監督席を離れられた時間が生まれる」
「仮面支度室へ行く時間も」
ミラベルは言った。
「可能性としてはな」
レオンが答える。
「それでも、殺した証明ではない」
「玉座の仕組みを知る」
グレアムが数える。
「蝋管の使用を指示できる。衣装係へ王役の支度を割り振れる。舞台機械へ合図を出せる。そして、監督席にいたという記録が崩れた」
「疑う理由としては充分だ」
「拘束する理由にもなる」
「だが、まだ事件全体を一人へ戻せていない」
「何が足りない」
レオンは、上演記録簿を閉じなかった。
「オズリックを殺した場所へ」
静かに答える。
「マティアス自身を置くものだ」
◇
しばらく。
誰も帳面へ触れなかった。
雨の音。
廊下を歩く警官の靴。
遠くで、舞台機械の圧力を抜く蒸気音。
それらが、支配人室の沈黙へ入ってくる。
ミラベルは、第二幕と第三幕の境目へ視線を落とした。
「ここ」
頁の下隅。
黒い紙の色が、ごくわずかに違っている。
正面から見れば、ほとんど分からない。
だが、窓からの灰色の光が斜めに当たると。
紙の表面へ、細い段差が浮かんでいた。
「補修されています」
グレアムが顔を近づける。
「破れたのか」
「黒く染めた薄紙を、裏側から貼っている」
レオンは触れずに観察した。
同じ黒。
同じ厚みに見せている。
しかし。
繊維の向きが、周囲の頁とは違う。
「いつ修理した」
グレアムが尋ねる。
「分からない」
「補修紙を剥がせば」
「専門官の立会いまで剥がすな」
レオンが止めた。
「下に文字が残っているかもしれない」
「帳面の管理者はマティアスだ」
「だからこそ、こちらで壊すな」
「本人を呼んで聞くか」
「まだだ」
「まだ待つのか」
「頁が破れていることと、殺人は同じではない」
「疑うものばかり増えるな」
「それが捜査だ」
そのとき。
支配人室の外を、誰かが走ってきた。
扉が強く叩かれる。
「グレアム警部!」
「入れ」
若い巡査が、息を切らして入ってきた。
外套の肩が雨に濡れている。
手には、検死院の封印を押した革筒。
「検死官から、至急の報告です」
「何があった」
「ヘイル氏の左手から、異物が発見されました」
レオンが顔を上げる。
「左手」
昨夜の初回検分で。
オズリックの左手だけが、不自然なほど強く握られていた。
死後硬直と断定せず。
証拠を傷つけないため、検死院で記録しながら開くことになっていた手。
「何が出た」
グレアムが尋ねる。
「紙です」
「色は」
レオンが訊く。
「黒」
巡査は革筒を卓へ置いた。
「白いインクで、文字の一部が残っています」
グレアムが封印番号を確かめる。
警察書記が呼ばれ。
立会いのもと、革筒が開かれた。
中には。
二枚の硝子板で挟まれた、小さな紙片が入っていた。
親指の爪ほどの大きさ。
黒く染めた厚紙。
一辺は直線。
残る二辺は、不規則に引き裂かれている。
毛羽立った繊維。
中央には、白いインク。
文章のすべては残っていない。
それでも。
二行だけ読むことができた。
――第二幕終了――
その下。
――仮面支度……
誰も声を発しなかった。
ミラベルは。
上演記録簿の、第二幕と第三幕の境目を見る。
補修された黒い頁。
硝子板の中にある黒い紙片。
「オズリックさんが握っていたんですね」
巡査が検死報告を開く。
「左の内手袋を外す際、紙片が握り込まれた状態で発見されました。紙には手袋の繊維と汗の染み、それに強く握られた指の圧痕が残っています」
「死後に、外から差し込まれた可能性は」
レオンが尋ねる。
「手袋と指の位置に乱れがなく、低いとのことです」
「外側の腕甲は」
グレアムが訊く。
「掌側が開いた構造です。腕甲をつけたあとでも、物を握ることは可能だったと」
「殺されるときに」
グレアムが言う。
「手袋を着けたまま、相手の持っていた紙を掴んだ」
「まだ断定するな」
レオンは硝子板へ手を触れなかった。
「紙質。染料。白インク。裂け目。すべて比較する」
「帳面へ重ねないのか」
「専門官が来るまで動かさない」
「見れば分かるだろう」
「分かった気になることと」
レオンは黒い紙片を見る。
「証明することは違う」
その言葉に。
ミラベルは五百枚の証言を思い出した。
王妃を見つめた王。
高く掲げられた右手。
最後の言葉。
見えなかったものを。
筋書きで完成させた観客たち。
今。
自分たちもまた。
欠けた記録と、死者の手に残った紙片の間を。
ひとつの答えで埋めようとしている。
「マティアスを拘束する」
グレアムが言った。
「劇場から出すな。証拠への接触を禁じる」
「それでいい」
レオンが答えた。
「逮捕は?」
「まだだ」
「紙が一致すれば」
「記録簿が、殺害場所にあったことは証明できる」
「管理者はマティアスだ」
「管理者が持っていたとは限らない」
「どこまで疑い直す気だ」
「疑わなくてよくなるまで」
グレアムは大きく息を吐いた。
「面倒な男だ」
「知っているだろう」
「ああ。昔からな」
警部は巡査へ指示を出し、部屋を出ていった。
警察書記も。
紙片と帳面を監視するため、扉の脇へ立つ。
支配人室に残されたのは。
レオン。
ミラベル。
黒い上演記録簿。
そして。
死者が最後まで握り続けた、黒い紙片だった。
五百人の観客は。
見えなかったものを、ひとつの物語へ完成させた。
上演記録簿は。
観測していない舞台を、正しい時刻で進んだことにした。
だが。
オズリック=ヘイルの左手だけは。
誰かが完成させた筋書きへ従わなかった。
男は死ぬ直前。
自分を殺した者の顔ではなく。
その者が持っていた記録の一部を。
内手袋越しに引き裂き。
最後まで握りしめていた。




