警部は昼食を食べ終えない
事件は、記録されます。
誰が傷ついたのか。
何が失われたのか。
どれほどの損害が出たのか。
誰を捕らえ、どの法を適用したのか。
けれど。
誰かが手を伸ばしたために、起きなかった事件は記録されません。
迷子が失踪者にならなかったことも。
口論が傷害事件にならなかったことも。
小さな訴えが、誰かの手によって拾われたことも。
それらは、何も起きなかった一日として処理されます。
だから私は。
何も起きなかった、その一日を観測することにしました。
――ナミ=エル
ヴェルム=クロウ市警察本部では、正午を知らせる鐘が鳴ると、書類の山が一斉に人間の敵となる。
午前中ならば捜査記録だった紙束も。
正午を過ぎれば、昼食を妨げる障害物でしかない。
少なくとも、バルトラム=グレアム警部はそう考えていた。
「今日は食うぞ」
彼は宣言した。
机の向こうにいた若い巡査が、書類から顔を上げる。
「何をでしょうか」
「昼飯だ」
「毎日召し上がっているのでは?」
「食い始めてはいる」
グレアムは机の中央を占領していた報告書を、右と左へ押し分けた。
現れたのは、煤けた金属製の昼食箱だった。
市警本部前の食堂から届けられたものだ。
蓋の隙間から、牛肉と根菜を煮込んだ匂いが漏れている。
黒麦酒を使った濃い煮汁。
灰蕪。
黄豆。
厚切りの燻製肉。
黒パンが二枚。
さらに今日は、香草を混ぜた小さな腸詰まで入っていた。
「昨日は、最初の一口を食べたところで工房街の騒ぎでしたね」
若い巡査が言った。
「その前は、蓋を開ける前に鉄道事故です」
隣の机から別の警官が加える。
「三日前は、昼食箱そのものを忘れて現場へ」
「よく覚えているな」
「警部の昼食は、分署内の賭けになっていますから」
グレアムの手が止まった。
「何の賭けだ」
部屋が静かになる。
書記たちが一斉に紙へ目を落とした。
若い巡査だけが、逃げ遅れた。
「警部が、温かいうちに何口食べられるかです」
「誰が始めた」
「申し上げられません」
「警察官が、捜査への協力を拒むのか」
「情報提供者の保護です」
「覚えていろ」
グレアムは昼食箱の蓋を開けた。
湯気が立ち昇る。
煮込みの表面では、脂がまだ小さく揺れている。
警部は腸詰へ伸ばしかけた手を止め、若い巡査を睨んだ。
「今日は最後まで食う」
「五口に一票です」
「お前だったのか」
受付の呼び鈴が鳴った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
若い巡査は、気まずそうに立ち上がった。
「受付へ行ってまいります」
「逃げるな」
「職務です」
巡査は早足で部屋を出ていった。
グレアムは鼻を鳴らし、腸詰を持ち上げる。
口へ運ぶ直前。
廊下から巡査の声がした。
「警部。少々よろしいでしょうか」
グレアムは目を閉じた。
「少々とは、どれくらいだ」
「おそらく、警部が腸詰を食べるよりは長く」
「帰れと言え」
「すでに受付へ来ています」
「そいつを家へ帰せ」
「帰るための物をなくしたそうです」
グレアムは腸詰を昼食箱へ戻した。
◇
受付の長椅子に、老いたエルフの女性が座っていた。
灰色の髪を後ろで束ね、古い深緑色の外套を着ている。
服は丁寧に繕われていた。
両手には、小さな布鞄を抱えている。
鞄の口を何度も開き、何もないことを確かめては、また閉じていた。
若い巡査が受付票を手に立っている。
「遺失物の届け出です」
「見れば分かる」
グレアムは女性の正面ではなく、少し斜めの椅子へ腰を下ろした。
身体の小さなドワーフであっても、正面から向き合えば威圧感がある。
怯えている市民と話すとき、彼は少しだけ位置をずらす。
「名前を伺っても?」
「リディア=メルンと申します」
老女の声は細かった。
「なくした物は」
「真鍮の札です」
「大きさは?」
「これくらいの」
リディアは親指と人差し指を広げた。
三インチほど。
「薄い札です。角が丸くなっていて、端に小さな穴があります」
「文字は」
「エドラム=メルン、と」
グレアムは巡査が持つ受付票へ目を向けた。
品名の欄には、
――真鍮片。
と記されている。
「真鍮片ではない」
グレアムが言った。
「しかし、形状としては」
「名前が彫ってあるんだろう」
「はい」
「なら名札だ」
巡査は書き直した。
「金銭的な価値は、どれほどでしょうか」
老女の手が、鞄の上で固くなる。
「ほとんど、ありません」
小さく答えた。
「古い物ですから。真鍮も薄くて、売ってもお金には」
「値段を聞いてるんじゃない」
グレアムの声が低くなった。
若い巡査が背筋を伸ばす。
「なくした本人が、何をなくしたと思っているかを聞け」
「……はい」
グレアムは老女へ向き直った。
「どういう札だ」
リディアは、しばらく答えなかった。
説明するほどのものではないと思っているのか。
説明しても理解されないと思っているのか。
やがて、布鞄の留め金を指で撫でながら言った。
「夫の、昼食箱についていた札です」
「昼食箱?」
「若い頃、鉄環工房で働いていました。工房では皆、同じ形の昼食箱を使っていましたから、取り違えないよう名前の札をつけていたんです」
リディアは、わずかに笑った。
「夫は忘れ物の多い人でした。でも昼食箱だけは、毎日必ず持って帰ってきました」
「飯が入っていたからか」
「私が、持って帰らなければ翌日の昼食は作らないと言ったからです」
グレアムの口髭が少し動いた。
「賢明だ」
「夫は十年前に亡くなりました」
老女の指が止まる。
「明日、孫が工房の見習いになります。それで、あの札を渡そうと思って」
「昼食箱ではなく?」
「箱は壊れてしまいました。札だけ残ったんです」
受付の奥では、書類を運ぶ足音が続いている。
気送管の受信鐘が鳴る。
誰かが上階から警官の名を呼ぶ。
市警は動き続けていた。
だがグレアムは急かさなかった。
「最後に見たのは、いつだ」
「今朝、家を出る前です。布に包んで、鞄の内側へ入れました」
「今日、どこを通った」
「南市場へ行って。それから環状蒸気車に乗りました。中央郵便局で手紙を出して、煤羽通りのパン屋へ寄って……」
「順番に聞こう」
グレアムは巡査へ顎を向けた。
「都市図を持ってこい。行った場所と時刻を書け」
「警部が担当されるのですか」
「俺が担当するとは言っていない。お前が聞くんだ」
「承知しました」
「同じことを三度言わせるな。今聞いた話も書け」
巡査は慌てて都市図を取りに走った。
入れ替わるように、受付の扉が開く。
「こんにちは、警部」
明るい女の声だった。
グレアムの眉間に皺が増える。
濃紺の外套。
革鞄。
小さな帽子。
片手には記者手帳。
ミラベル=ワトリアが、当然のように受付へ入ってきた。
「今日は、どちらの死体ですか」
「帰れ」
「まだ何も訊いていません」
「死体はない」
「では、何の事件です?」
「事件もない」
ミラベルは受付を見回した。
長椅子の老女。
空白の多い遺失物届。
都市図を抱えて戻ってきた若い巡査。
そして、昼食を食べる前よりさらに不機嫌そうなグレアム。
「遺失物ですか」
「新聞記事にはならん」
「記事になるかどうかは、聞いてから決めます」
「警察の縄を越えるだけでは足りず、今度は受付票まで越える気か」
「今日は縄がありませんから」
ミラベルは老女へ向かって軽く会釈した。
「ヴェルム=クロウ日報のミラベル=ワトリアです。取材ではありません」
「記者が最初に言う『取材ではない』は、信用するな」
グレアムが言った。
「今のところは、取材ではありません」
「悪化したな」
老女は、少しだけ表情を緩めた。
ミラベルは隣に座る。
「お探しの物について、もう一度伺っても?」
「同じことを言わせるなと、今言ったところだ」
「では、警部が教えてください」
「お前へ教えるとは言っていない」
「巡査さんの書類を見るより早いです」
グレアムが若い巡査を見る。
巡査は、都市図で顔を隠した。
◇
正午から二十分後。
グレアムの昼食は、市警本部の机の上で湯気を失い始めていた。
その頃。
警部本人は、リディアが歩いた道を南市場へ向かっていた。
「なぜ、お前まで来る」
グレアムは隣を歩くミラベルへ訊いた。
「リディアさんが、私にも探してほしいと」
「警察へ頼んだんだ」
「新聞記者へ頼んではいけないという規則がありますか」
「ないことを理由にするな」
「警部も、事件ではないのに自分で来たでしょう」
「新人の教育だ」
二人の少し後ろを、若い巡査が歩いている。
都市図。
遺失物届。
鉛筆。
証拠袋。
必要かどうか分からない道具まで持たされ、両手が塞がっていた。
「警部」
巡査が呼んだ。
「何だ」
「真鍮札一枚に、証拠袋は必要でしょうか」
「落とした物を見つけて、そのまま素手で持ち帰る気か」
「しかし、事件では」
「事件でなければ、他人の物を雑に扱っていいのか」
「いいえ」
「なら持て」
「はい」
南市場には、午後の客が集まり始めていた。
天幕の下に野菜が積まれている。
黒紫色の蕪。
黄豆。
乾燥茸。
燻製魚。
香辛料。
蒸気鍋から吹き出す湯気が、煤霧へ混ざっていく。
通路では荷車と買い物客が互いに道を譲らず、売り子の声と車輪の音が重なっていた。
「ここで、リディアさんは豆を買ったそうです」
ミラベルが手帳を見る。
「灰蕪と豆。それから、孫の初仕事祝いに肉を少し」
「よく聞いているな」
「警部が巡査さんを叱っているあいだに」
「叱られた理由も書け」
「新聞にですか?」
「お前の手帳にだ」
「もう書いてあります」
グレアムは答えるのをやめた。
豆屋の女主人は、リディアを覚えていた。
「ああ、メルン婆さんなら朝一番に来たよ。明日、孫が工房入りするって、ずいぶん嬉しそうでね」
「鞄を開けたか」
「財布を出すときにね」
「何か落とさなかった?」
「落としたなら拾ってるよ。うちの床は豆一粒落ちても分かる」
女主人は樽の下まで見せた。
名札はなかった。
次の肉屋にも。
乾物屋にも。
市場の管理詰所にも届いていない。
グレアムは一軒ずつ尋ねた。
同じ質問を、必要な分だけ。
相手が知らないと答えれば、それ以上は押さない。
だが、曖昧な返答をすれば、必ず聞き直した。
「見ていない、のか。覚えていない、のか。どっちだ」
「たぶん見ていない」
「たぶんはいらん」
「覚えていない」
「なら、そう書く」
ミラベルの鉛筆が動く。
「それも記事にする気か」
「聞き込みの方法として参考になります」
「警察教本を買え」
「警察教本には、警部の口調まで載っていません」
「載せる必要がない」
「そこが重要なんです」
市場の中央へ差しかかったとき。
子どもの泣き声が聞こえた。
五歳ほどの男の子が、通路の端で立ち尽くしている。
帽子は片方の耳までずれ、片手には折れた砂糖菓子を握っていた。
周囲の大人は忙しく通り過ぎる。
グレアムは足を止めた。
「巡査」
「はい」
「迷子だ」
「ですが、遺失物の捜索中です」
「だから何だ」
巡査は子どもの前へ行き、しゃがんだ。
「お名前は?」
子どもは泣きながら首を振る。
「家はどこかな」
さらに泣き声が大きくなる。
グレアムが巡査の肩を押し、横へ退かせた。
子どもの前へ片膝をつく。
大きな声は使わなかった。
「菓子を買ったのは誰だ」
子どもが鼻をすすった。
「かあさん」
「母親の帽子は、何色だ」
「きいろ」
「服は」
「ちゃいろ」
「どこで手を離した」
子どもは市場の奥を指した。
「魚の、においのところ」
「名前は」
「フィン」
「よし、フィン。お前はここにいろ。母親を探すのは警察の仕事だ」
巡査へ向き直る。
「魚売り通りへ行け。黄色い帽子、茶色い外套。子どもを探している女だ」
「名札の捜索は」
「真鍮札は逃げない。母親は走り回っている」
「はい」
巡査は駆け出した。
グレアムは近くの果物屋から空箱を借り、フィンを座らせる。
「ここから動くな」
「おじさん、けいさつ?」
「警部だ」
「えらい?」
「この市場で泣いている子どもを座らせる程度にはな」
ミラベルが笑った。
「何がおかしい」
「いいえ」
「書くなよ」
「まだ何も書いていません」
「今、書いただろう」
「見たことを残しただけです」
「それを書くと言うんだ」
数分後。
黄色い帽子の女性が巡査とともに走ってきた。
フィンは空箱から飛び降り、母親へ抱きつく。
女性は何度も頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。ほんの少し、財布を出している間に」
「次からは袖を掴ませろ」
「はい」
「子どもには、親の名前と家の通りを教えておけ」
「必ず」
「もういい。帰れ」
母子が人混みへ消える。
巡査が手帳を開いた。
「迷子保護として記録しますか」
「母親へ引き渡した。保護時間、約七分。市場管理詰所にも伝えろ」
「失踪届は出ていませんが」
「出る前に見つけたんだ」
グレアムは立ち上がった。
「出なかった書類ほど、いい書類もある」
ミラベルの鉛筆が止まる。
「今の言葉、記事に使っても?」
「駄目だ」
「では、警部の名前を伏せます」
「言葉ごと伏せろ」
◇
南市場を出た三人は、環状蒸気車の停留所へ向かった。
途中。
荷馬車と小型蒸気車が、交差点の中央で向かい合っていた。
車輪同士が接触し、どちらも動けなくなっている。
荷馬車の御者はヒト族。
蒸気車の運転手はドワーフ。
互いに相手が先に進路を塞いだと怒鳴っていた。
「そっちが急に曲がった!」
「信号腕木はこっちが優先だった!」
「嘘をつけ!」
「記録計を見せてやる!」
二人の声に、野次馬が集まり始めている。
グレアムは歩調を変えなかった。
「警部」
巡査が呼ぶ。
「見えている」
「交通警らしき姿はありません」
「見れば分かる」
「止めますか」
「俺たちの前で殴り合いを始めたら、余計に時間がかかる」
グレアムは二人の間へ入った。
「どけ」
御者が振り返る。
「何だ、今は――」
濃紺の外套。
警部章。
赤銅色の髭。
グレアムの顔を認め、言葉が消えた。
「警部」
「荷馬車は半車分下がれ。蒸気車は圧を落とせ」
「ですが、こいつが」
「先に喋ったほうを正しいことにはしない」
「記録計を見れば」
「ここは検証場じゃない。交差点だ」
グレアムは路面へ残った車輪跡を一度見た。
「接触したのは低速だ。怪我人なし。車体の損傷は荷台の擦り傷と蒸気車の泥除けだけ。互いの連絡先を交換し、午後に交通課へ来い」
「どちらが悪いかは」
「交通を塞ぎ続ければ、今から両方悪くなる」
二人は黙った。
「巡査。名前を控えろ。野次馬を下がらせろ」
「はい」
「ワトリア嬢」
グレアムが振り返る。
「何でしょう」
「お前は手帳を閉じろ」
「なぜ私だけ」
「御者より楽しそうな顔をしている」
「日常の警察活動を取材しています」
「取材ではないと言っていただろう」
「今のところは、と言いました」
「悪化したと言ったはずだ」
荷馬車が下がる。
蒸気車が白い息を吐きながら横へ寄る。
通りが開くと、待たされていた荷車や歩行者が一斉に動き始めた。
五分もしないうちに。
そこに口論があったことを示すものは、路面へ残った細い擦過痕だけになった。
◇
環状蒸気車の停留所には、小さな遺失物受付があった。
窓口の向こうには、傘。
手袋。
帽子。
布包み。
工具袋。
片方だけの靴。
持ち主の分からない品々が、棚へ分類されている。
「今朝の南市場発、中央郵便局経由の便です」
巡査が時刻を伝えた。
受付係は帳簿を開く。
「忘れ物は三件ですね。子どもの手袋。空の薬瓶。それから金属片」
「金属片?」
グレアムが訊き返す。
「はい。座席の下に落ちていたそうです。危険物ではなかったので、雑品棚へ」
「見せろ」
受付係は奥へ行き、小さな木箱を持って戻った。
中には、曲がった針金。
歯車の欠片。
錆びた留め金。
壊れた鍵。
用途の分からない金属類がまとめて入っている。
グレアムの眉間が深くなる。
「これでは、届け出があっても照合できないでしょう」
ミラベルが言った。
「金属製品は種類が多すぎますので」
受付係が答える。
「明確な特徴がなければ、一括して」
「特徴は、拾ったときに記録したのか」
グレアムが訊いた。
「薄い真鍮片。穴一つ。表面に傷あり」
「文字は」
「煤けていて、分かりませんでした」
「拭いたか」
「拾得物を、こちらで加工するわけには」
「乾いた布で表面を確かめることは、加工とは言わん」
グレアムは手袋をはめ、木箱の中を一つずつ確かめた。
五つ目。
黒ずんだ真鍮の小片を取り上げる。
角は丸い。
端に穴がある。
表面は煤と古い油で曇っている。
受付係から布を借り、軽く拭う。
汚れの下から、細い刻印が現れた。
EDRAM MERN。
エドラム=メルン。
「ありました」
ミラベルが声を上げた。
「見れば分かる」
グレアムは札を証拠袋へ入れ、封をした。
巡査へ渡す。
「拾得時の便、座席番号、拾得者名を追記させろ」
「返却するだけでは?」
「返したあと、また別の届け出と混ざったらどうする」
「しかし、所有者の名前と一致しています」
「だからこそだ。どの品を、誰へ返したか残せ」
受付係は申し訳なさそうに頭を下げた。
「今後、刻印の有無まで確認します」
「全部を細かく調べろとは言わん」
グレアムは木箱を見た。
「だが、金属片と書く前に、それが誰かの持ち物ではないか一度は見ろ」
「はい」
「値段のつかん物ほど、持ち主しか探さない」
ミラベルの鉛筆が動いた。
グレアムは横目で睨む。
「それも書くな」
「まだ何も言っていません」
「お前が静かなときは、だいたい書いている」
◇
市警本部へ戻ったのは、午後二時を過ぎていた。
リディアは、同じ長椅子で待っていた。
その隣には、十六歳ほどのエルフの少年が座っている。
痩せた身体。
まだ新しい作業着。
膝の上に、革製の工具袋を抱えていた。
老女の孫だろう。
グレアムが証拠袋を取り出すと、リディアは立ち上がった。
「これで間違いないか」
封を開け、真鍮札を掌へ載せる。
老女は両手で受け取った。
煤を拭われた札には、古い傷がいくつも残っている。
文字の一部は擦れ。
穴の周囲は薄く変形している。
新品の頃から、美しい物ではなかったのだろう。
それでもリディアは。
高価な宝石でも戻ってきたように、その札を見つめた。
「間違いありません」
声が震えていた。
「夫の名前です」
少年が老女の肩越しに札を見る。
「これが、祖父さんの?」
「そうよ」
「俺にくれるって言っていた?」
「明日、渡すつもりだったの」
リディアは孫の手を取り、その掌へ真鍮札を置いた。
「昼食箱につけなさい」
「今は、工房から番号札が支給されるよ」
「では、その隣につけなさい」
「二つも?」
「名前は、多いくらいでちょうどいいの」
少年は困ったように笑った。
だが、札を返そうとはしなかった。
作業着の胸ポケットへ、慎重に収める。
「ありがとうございます、警部」
「見つけたのは蒸気車の車掌だ」
「でも、探してくださったのは」
「手続をしただけだ」
グレアムは巡査へ顎を向けた。
「返却の署名を」
リディアは受付票へ名前を書いた。
ゆっくりと。
一文字ずつ。
書き終えるまで、グレアムは急かさなかった。
少年が老女の鞄を持つ。
二人が扉へ向かいかけたところで、リディアが振り返った。
「警部」
「何だ」
「お昼のお時間に、申し訳ありませんでした」
グレアムの眉が動いた。
「なぜ知っている」
老女は、受付の奥を見た。
昼食箱のことを話した若い巡査が、目を逸らした。
「……昼飯は、あとでも食える」
グレアムは言った。
リディアは深く頭を下げた。
扉が閉まる。
真鍮の鈴が一度鳴り。
祖母と孫の姿が、煤霧の通りへ消えていった。
◇
遺失物届には、次のように記された。
品目。
真鍮製名札一枚。
刻印。
エドラム=メルン。
拾得場所。
環状蒸気車、中央郵便局前到着便、三号座席下。
本人確認。
刻印および形状により一致。
処理。
届出人リディア=メルンへ返却。
午後二時十一分。
処理終了。
それだけだった。
夫が毎日持ち帰った昼食箱のことも。
明日、初めて工房へ向かう孫のことも。
老女が、名前の刻まれた札を両手で受け取ったことも。
記録には書かれなかった。
「これでいい」
グレアムは返却票を確認し、署名した。
「よくありません」
向かいの椅子に座ったミラベルが言った。
「何がだ」
「金属片という分類です。刻印を確認していれば、もっと早く見つかっていました」
「蒸気車の遺失物係には、今後の手順を変えさせる」
「記事にしても?」
「誰を責める記事にする気だ」
「責めるのではなく、名前のある物を、名前のない物として扱わないための記事です」
グレアムは、ミラベルを見た。
「リディア婆さんと孫の名は出すな」
「もちろんです」
「工房名もだ」
「はい」
「蒸気車の係員を無能扱いするな。あそこには、一日に何百件も届く」
「分かっています」
「それから、俺の言葉を勝手に整えるな」
「どの言葉です?」
「全部だ」
「では、警部の発言は載せません」
「それがいい」
「警部が昼食を食べ損ねたことだけ」
「それも載せるな」
グレアムは執務室へ戻った。
机の上には、朝と同じ昼食箱が置かれている。
ただし、もう湯気はなかった。
煮込みの脂は白く固まり。
黒パンは水分を失い。
腸詰は、冷えた金属のように硬くなっている。
壁時計は午後二時二十分。
昼食と呼ぶには遅い。
夕食と呼ぶには、まだ早い。
グレアムは椅子へ座り、冷えた腸詰を持ち上げた。
「温めてもらえばいいのでは?」
いつの間にか、ミラベルが向かいへ座っていた。
「なぜ、まだいる」
「警察発表をいただいていません」
「今日は重大事件なしだ」
「それが発表ですか」
「好きに書け」
「では、《本日、市警管内において重大事件の発生なし》」
「それでいい」
「本当に、それだけですか」
グレアムは腸詰を一口噛んだ。
冷えている。
だが食えないほどではない。
「迷子一名、母親へ引き渡し」
彼は言った。
「交通上の口論一件。怪我人なし。双方、午後に交通課へ出頭予定」
煮込みを一匙。
「遺失物一件、本人へ返却」
「三件もあったじゃないですか」
「重大事件ではない」
「でも、警部は昼食を食べられなかった」
「俺の昼飯を事件へ数えるな」
ミラベルは昼食箱を覗き込んだ。
「その腸詰、おいしそうですね」
「見るな」
「二本あります」
「俺のだ」
「一本くらい」
「記者への供応は禁止されている」
「取材協力費です」
「警察から記者へ支払う制度はない」
「では、情報提供への謝礼で」
「お前が提供した情報は何だ」
「警部の昼食が冷めているという事実です」
「見れば分かる」
ミラベルの指が伸びる。
グレアムは昼食箱を引き寄せた。
「触るな」
「警部一人では、食べ終わる前に次の用事が来ます」
「今日はもう来ない」
受付の呼び鈴が鳴った。
一度。
部屋の全員が動きを止めた。
グレアムは壁時計を見る。
昼食箱を見る。
扉を見る。
若い巡査が、廊下から顔を出した。
「警部」
「聞こえている」
「酔った男性が、停留所の長椅子で眠っているそうです」
「交通警へ回せ」
「胸元に、鉱山用の発破雷管を持っていると」
グレアムは昼食箱の蓋を閉めた。
「触らせるな。周囲を空けろ。発破処理班を呼べ」
「はい」
立ち上がる。
制帽を被る。
警棒と短銃を確かめる。
濃紺の外套を肩へ掛けたところで、ミラベルが腸詰へ手を伸ばした。
「一口だけ」
「戻るまで待て」
「戻ったときには、もっと冷えていますよ」
「それでも俺のだ」
グレアムは廊下へ出た。
重い足音が、受付の方向へ遠ざかっていく。
ミラベルは、開きかけた昼食箱を見た。
少し考え。
腸詰ではなく、端に残っていた黒パンを一切れだけ取った。
「これは、取材協力費です」
誰もいない椅子へ言い訳する。
そして手帳を開いた。
新しい頁の上へ、記事の仮題を記す。
――重大事件のなかった一日。
◇
その日。
ヴェルム=クロウ市警察本部の重大事件記録には、何も加えられませんでした。
殺人はなく。
大規模な火災もなく。
鉄道事故もなく。
失踪者も出なかった。
警部の昼食が冷えたことも。
最後まで食べ終えられなかったことも。
公式記録には残されていません。
ただ。
ひとりの子どもは、失踪者にならず。
二人の御者は、傷害事件の当事者にならず。
ひとつの名前は、金属片として忘れられる前に、持ち主のもとへ戻りました。
何も起きなかった一日とは。
本当に、何もなかった一日なのでしょうか。
それとも。
誰かが間に合い続けた結果なのでしょうか。
私は答えを記しません。
ただ観測します。
冷えた昼食箱の蓋を閉じ。
次の呼び鈴へ向かって歩いていく、小柄な警部の背中を。
――ナミ=エル




