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45/61

警部は昼食を食べ終えない

 事件は、記録されます。


 誰が傷ついたのか。


 何が失われたのか。


 どれほどの損害が出たのか。


 誰を捕らえ、どの法を適用したのか。


 けれど。


 誰かが手を伸ばしたために、起きなかった事件は記録されません。


 迷子が失踪者にならなかったことも。


 口論が傷害事件にならなかったことも。


 小さな訴えが、誰かの手によって拾われたことも。


 それらは、何も起きなかった一日として処理されます。


 だから私は。


 何も起きなかった、その一日を観測することにしました。


 ――ナミ=エル

 ヴェルム=クロウ市警察本部では、正午を知らせる鐘が鳴ると、書類の山が一斉に人間の敵となる。


 午前中ならば捜査記録だった紙束も。


 正午を過ぎれば、昼食を妨げる障害物でしかない。


 少なくとも、バルトラム=グレアム警部はそう考えていた。


「今日は食うぞ」


 彼は宣言した。


 机の向こうにいた若い巡査が、書類から顔を上げる。


「何をでしょうか」


「昼飯だ」


「毎日召し上がっているのでは?」


「食い始めてはいる」


 グレアムは机の中央を占領していた報告書を、右と左へ押し分けた。


 現れたのは、煤けた金属製の昼食箱だった。


 市警本部前の食堂から届けられたものだ。


 蓋の隙間から、牛肉と根菜を煮込んだ匂いが漏れている。


 黒麦酒を使った濃い煮汁。


 灰蕪。


 黄豆。


 厚切りの燻製肉。


 黒パンが二枚。


 さらに今日は、香草を混ぜた小さな腸詰まで入っていた。


「昨日は、最初の一口を食べたところで工房街の騒ぎでしたね」


 若い巡査が言った。


「その前は、蓋を開ける前に鉄道事故です」


 隣の机から別の警官が加える。


「三日前は、昼食箱そのものを忘れて現場へ」


「よく覚えているな」


「警部の昼食は、分署内の賭けになっていますから」


 グレアムの手が止まった。


「何の賭けだ」


 部屋が静かになる。


 書記たちが一斉に紙へ目を落とした。


 若い巡査だけが、逃げ遅れた。


「警部が、温かいうちに何口食べられるかです」


「誰が始めた」


「申し上げられません」


「警察官が、捜査への協力を拒むのか」


「情報提供者の保護です」


「覚えていろ」


 グレアムは昼食箱の蓋を開けた。


 湯気が立ち昇る。


 煮込みの表面では、脂がまだ小さく揺れている。


 警部は腸詰へ伸ばしかけた手を止め、若い巡査を睨んだ。


「今日は最後まで食う」


「五口に一票です」


「お前だったのか」


 受付の呼び鈴が鳴った。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


 若い巡査は、気まずそうに立ち上がった。


「受付へ行ってまいります」


「逃げるな」


「職務です」


 巡査は早足で部屋を出ていった。


 グレアムは鼻を鳴らし、腸詰を持ち上げる。


 口へ運ぶ直前。


 廊下から巡査の声がした。


「警部。少々よろしいでしょうか」


 グレアムは目を閉じた。


「少々とは、どれくらいだ」


「おそらく、警部が腸詰を食べるよりは長く」


「帰れと言え」


「すでに受付へ来ています」


「そいつを家へ帰せ」


「帰るための物をなくしたそうです」


 グレアムは腸詰を昼食箱へ戻した。


     ◇


 受付の長椅子に、老いたエルフの女性が座っていた。


 灰色の髪を後ろで束ね、古い深緑色の外套を着ている。


 服は丁寧に繕われていた。


 両手には、小さな布鞄を抱えている。


 鞄の口を何度も開き、何もないことを確かめては、また閉じていた。


 若い巡査が受付票を手に立っている。


「遺失物の届け出です」


「見れば分かる」


 グレアムは女性の正面ではなく、少し斜めの椅子へ腰を下ろした。


 身体の小さなドワーフであっても、正面から向き合えば威圧感がある。


 怯えている市民と話すとき、彼は少しだけ位置をずらす。


「名前を伺っても?」


「リディア=メルンと申します」


 老女の声は細かった。


「なくした物は」


「真鍮の札です」


「大きさは?」


「これくらいの」


 リディアは親指と人差し指を広げた。


 三インチほど。


「薄い札です。角が丸くなっていて、端に小さな穴があります」


「文字は」


「エドラム=メルン、と」


 グレアムは巡査が持つ受付票へ目を向けた。


 品名の欄には、


 ――真鍮片。


 と記されている。


「真鍮片ではない」


 グレアムが言った。


「しかし、形状としては」


「名前が彫ってあるんだろう」


「はい」


「なら名札だ」


 巡査は書き直した。


「金銭的な価値は、どれほどでしょうか」


 老女の手が、鞄の上で固くなる。


「ほとんど、ありません」


 小さく答えた。


「古い物ですから。真鍮も薄くて、売ってもお金には」


「値段を聞いてるんじゃない」


 グレアムの声が低くなった。


 若い巡査が背筋を伸ばす。


「なくした本人が、何をなくしたと思っているかを聞け」


「……はい」


 グレアムは老女へ向き直った。


「どういう札だ」


 リディアは、しばらく答えなかった。


 説明するほどのものではないと思っているのか。


 説明しても理解されないと思っているのか。


 やがて、布鞄の留め金を指で撫でながら言った。


「夫の、昼食箱についていた札です」


「昼食箱?」


「若い頃、鉄環工房で働いていました。工房では皆、同じ形の昼食箱を使っていましたから、取り違えないよう名前の札をつけていたんです」


 リディアは、わずかに笑った。


「夫は忘れ物の多い人でした。でも昼食箱だけは、毎日必ず持って帰ってきました」


「飯が入っていたからか」


「私が、持って帰らなければ翌日の昼食は作らないと言ったからです」


 グレアムの口髭が少し動いた。


「賢明だ」


「夫は十年前に亡くなりました」


 老女の指が止まる。


「明日、孫が工房の見習いになります。それで、あの札を渡そうと思って」


「昼食箱ではなく?」


「箱は壊れてしまいました。札だけ残ったんです」


 受付の奥では、書類を運ぶ足音が続いている。


 気送管の受信鐘が鳴る。


 誰かが上階から警官の名を呼ぶ。


 市警は動き続けていた。


 だがグレアムは急かさなかった。


「最後に見たのは、いつだ」


「今朝、家を出る前です。布に包んで、鞄の内側へ入れました」


「今日、どこを通った」


「南市場へ行って。それから環状蒸気車に乗りました。中央郵便局で手紙を出して、煤羽通りのパン屋へ寄って……」


「順番に聞こう」


 グレアムは巡査へ顎を向けた。


「都市図を持ってこい。行った場所と時刻を書け」


「警部が担当されるのですか」


「俺が担当するとは言っていない。お前が聞くんだ」


「承知しました」


「同じことを三度言わせるな。今聞いた話も書け」


 巡査は慌てて都市図を取りに走った。


 入れ替わるように、受付の扉が開く。


「こんにちは、警部」


 明るい女の声だった。


 グレアムの眉間に皺が増える。


 濃紺の外套。


 革鞄。


 小さな帽子。


 片手には記者手帳。


 ミラベル=ワトリアが、当然のように受付へ入ってきた。


「今日は、どちらの死体ですか」


「帰れ」


「まだ何も訊いていません」


「死体はない」


「では、何の事件です?」


「事件もない」


 ミラベルは受付を見回した。


 長椅子の老女。


 空白の多い遺失物届。


 都市図を抱えて戻ってきた若い巡査。


 そして、昼食を食べる前よりさらに不機嫌そうなグレアム。


「遺失物ですか」


「新聞記事にはならん」


「記事になるかどうかは、聞いてから決めます」


「警察の縄を越えるだけでは足りず、今度は受付票まで越える気か」


「今日は縄がありませんから」


 ミラベルは老女へ向かって軽く会釈した。


「ヴェルム=クロウ日報のミラベル=ワトリアです。取材ではありません」


「記者が最初に言う『取材ではない』は、信用するな」


 グレアムが言った。


「今のところは、取材ではありません」


「悪化したな」


 老女は、少しだけ表情を緩めた。


 ミラベルは隣に座る。


「お探しの物について、もう一度伺っても?」


「同じことを言わせるなと、今言ったところだ」


「では、警部が教えてください」


「お前へ教えるとは言っていない」


「巡査さんの書類を見るより早いです」


 グレアムが若い巡査を見る。


 巡査は、都市図で顔を隠した。


     ◇


 正午から二十分後。


 グレアムの昼食は、市警本部の机の上で湯気を失い始めていた。


 その頃。


 警部本人は、リディアが歩いた道を南市場へ向かっていた。


「なぜ、お前まで来る」


 グレアムは隣を歩くミラベルへ訊いた。


「リディアさんが、私にも探してほしいと」


「警察へ頼んだんだ」


「新聞記者へ頼んではいけないという規則がありますか」


「ないことを理由にするな」


「警部も、事件ではないのに自分で来たでしょう」


「新人の教育だ」


 二人の少し後ろを、若い巡査が歩いている。


 都市図。


 遺失物届。


 鉛筆。


 証拠袋。


 必要かどうか分からない道具まで持たされ、両手が塞がっていた。


「警部」


 巡査が呼んだ。


「何だ」


「真鍮札一枚に、証拠袋は必要でしょうか」


「落とした物を見つけて、そのまま素手で持ち帰る気か」


「しかし、事件では」


「事件でなければ、他人の物を雑に扱っていいのか」


「いいえ」


「なら持て」


「はい」


 南市場には、午後の客が集まり始めていた。


 天幕の下に野菜が積まれている。


 黒紫色の蕪。


 黄豆。


 乾燥茸。


 燻製魚。


 香辛料。


 蒸気鍋から吹き出す湯気が、煤霧へ混ざっていく。


 通路では荷車と買い物客が互いに道を譲らず、売り子の声と車輪の音が重なっていた。


「ここで、リディアさんは豆を買ったそうです」


 ミラベルが手帳を見る。


「灰蕪と豆。それから、孫の初仕事祝いに肉を少し」


「よく聞いているな」


「警部が巡査さんを叱っているあいだに」


「叱られた理由も書け」


「新聞にですか?」


「お前の手帳にだ」


「もう書いてあります」


 グレアムは答えるのをやめた。


 豆屋の女主人は、リディアを覚えていた。


「ああ、メルン婆さんなら朝一番に来たよ。明日、孫が工房入りするって、ずいぶん嬉しそうでね」


「鞄を開けたか」


「財布を出すときにね」


「何か落とさなかった?」


「落としたなら拾ってるよ。うちの床は豆一粒落ちても分かる」


 女主人は樽の下まで見せた。


 名札はなかった。


 次の肉屋にも。


 乾物屋にも。


 市場の管理詰所にも届いていない。


 グレアムは一軒ずつ尋ねた。


 同じ質問を、必要な分だけ。


 相手が知らないと答えれば、それ以上は押さない。


 だが、曖昧な返答をすれば、必ず聞き直した。


「見ていない、のか。覚えていない、のか。どっちだ」


「たぶん見ていない」


「たぶんはいらん」


「覚えていない」


「なら、そう書く」


 ミラベルの鉛筆が動く。


「それも記事にする気か」


「聞き込みの方法として参考になります」


「警察教本を買え」


「警察教本には、警部の口調まで載っていません」


「載せる必要がない」


「そこが重要なんです」


 市場の中央へ差しかかったとき。


 子どもの泣き声が聞こえた。


 五歳ほどの男の子が、通路の端で立ち尽くしている。


 帽子は片方の耳までずれ、片手には折れた砂糖菓子を握っていた。


 周囲の大人は忙しく通り過ぎる。


 グレアムは足を止めた。


「巡査」


「はい」


「迷子だ」


「ですが、遺失物の捜索中です」


「だから何だ」


 巡査は子どもの前へ行き、しゃがんだ。


「お名前は?」


 子どもは泣きながら首を振る。


「家はどこかな」


 さらに泣き声が大きくなる。


 グレアムが巡査の肩を押し、横へ退かせた。


 子どもの前へ片膝をつく。


 大きな声は使わなかった。


「菓子を買ったのは誰だ」


 子どもが鼻をすすった。


「かあさん」


「母親の帽子は、何色だ」


「きいろ」


「服は」


「ちゃいろ」


「どこで手を離した」


 子どもは市場の奥を指した。


「魚の、においのところ」


「名前は」


「フィン」


「よし、フィン。お前はここにいろ。母親を探すのは警察の仕事だ」


 巡査へ向き直る。


「魚売り通りへ行け。黄色い帽子、茶色い外套。子どもを探している女だ」


「名札の捜索は」


「真鍮札は逃げない。母親は走り回っている」


「はい」


 巡査は駆け出した。


 グレアムは近くの果物屋から空箱を借り、フィンを座らせる。


「ここから動くな」


「おじさん、けいさつ?」


「警部だ」


「えらい?」


「この市場で泣いている子どもを座らせる程度にはな」


 ミラベルが笑った。


「何がおかしい」


「いいえ」


「書くなよ」


「まだ何も書いていません」


「今、書いただろう」


「見たことを残しただけです」


「それを書くと言うんだ」


 数分後。


 黄色い帽子の女性が巡査とともに走ってきた。


 フィンは空箱から飛び降り、母親へ抱きつく。


 女性は何度も頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます。ほんの少し、財布を出している間に」


「次からは袖を掴ませろ」


「はい」


「子どもには、親の名前と家の通りを教えておけ」


「必ず」


「もういい。帰れ」


 母子が人混みへ消える。


 巡査が手帳を開いた。


「迷子保護として記録しますか」


「母親へ引き渡した。保護時間、約七分。市場管理詰所にも伝えろ」


「失踪届は出ていませんが」


「出る前に見つけたんだ」


 グレアムは立ち上がった。


「出なかった書類ほど、いい書類もある」


 ミラベルの鉛筆が止まる。


「今の言葉、記事に使っても?」


「駄目だ」


「では、警部の名前を伏せます」


「言葉ごと伏せろ」


     ◇


 南市場を出た三人は、環状蒸気車の停留所へ向かった。


 途中。


 荷馬車と小型蒸気車が、交差点の中央で向かい合っていた。


 車輪同士が接触し、どちらも動けなくなっている。


 荷馬車の御者はヒト族。


 蒸気車の運転手はドワーフ。


 互いに相手が先に進路を塞いだと怒鳴っていた。


「そっちが急に曲がった!」


「信号腕木はこっちが優先だった!」


「嘘をつけ!」


「記録計を見せてやる!」


 二人の声に、野次馬が集まり始めている。


 グレアムは歩調を変えなかった。


「警部」


 巡査が呼ぶ。


「見えている」


「交通警らしき姿はありません」


「見れば分かる」


「止めますか」


「俺たちの前で殴り合いを始めたら、余計に時間がかかる」


 グレアムは二人の間へ入った。


「どけ」


 御者が振り返る。


「何だ、今は――」


 濃紺の外套。


 警部章。


 赤銅色の髭。


 グレアムの顔を認め、言葉が消えた。


「警部」


「荷馬車は半車分下がれ。蒸気車は圧を落とせ」


「ですが、こいつが」


「先に喋ったほうを正しいことにはしない」


「記録計を見れば」


「ここは検証場じゃない。交差点だ」


 グレアムは路面へ残った車輪跡を一度見た。


「接触したのは低速だ。怪我人なし。車体の損傷は荷台の擦り傷と蒸気車の泥除けだけ。互いの連絡先を交換し、午後に交通課へ来い」


「どちらが悪いかは」


「交通を塞ぎ続ければ、今から両方悪くなる」


 二人は黙った。


「巡査。名前を控えろ。野次馬を下がらせろ」


「はい」


「ワトリア嬢」


 グレアムが振り返る。


「何でしょう」


「お前は手帳を閉じろ」


「なぜ私だけ」


「御者より楽しそうな顔をしている」


「日常の警察活動を取材しています」


「取材ではないと言っていただろう」


「今のところは、と言いました」


「悪化したと言ったはずだ」


 荷馬車が下がる。


 蒸気車が白い息を吐きながら横へ寄る。


 通りが開くと、待たされていた荷車や歩行者が一斉に動き始めた。


 五分もしないうちに。


 そこに口論があったことを示すものは、路面へ残った細い擦過痕だけになった。


     ◇


 環状蒸気車の停留所には、小さな遺失物受付があった。


 窓口の向こうには、傘。


 手袋。


 帽子。


 布包み。


 工具袋。


 片方だけの靴。


 持ち主の分からない品々が、棚へ分類されている。


「今朝の南市場発、中央郵便局経由の便です」


 巡査が時刻を伝えた。


 受付係は帳簿を開く。


「忘れ物は三件ですね。子どもの手袋。空の薬瓶。それから金属片」


「金属片?」


 グレアムが訊き返す。


「はい。座席の下に落ちていたそうです。危険物ではなかったので、雑品棚へ」


「見せろ」


 受付係は奥へ行き、小さな木箱を持って戻った。


 中には、曲がった針金。


 歯車の欠片。


 錆びた留め金。


 壊れた鍵。


 用途の分からない金属類がまとめて入っている。


 グレアムの眉間が深くなる。


「これでは、届け出があっても照合できないでしょう」


 ミラベルが言った。


「金属製品は種類が多すぎますので」


 受付係が答える。


「明確な特徴がなければ、一括して」


「特徴は、拾ったときに記録したのか」


 グレアムが訊いた。


「薄い真鍮片。穴一つ。表面に傷あり」


「文字は」


「煤けていて、分かりませんでした」


「拭いたか」


「拾得物を、こちらで加工するわけには」


「乾いた布で表面を確かめることは、加工とは言わん」


 グレアムは手袋をはめ、木箱の中を一つずつ確かめた。


 五つ目。


 黒ずんだ真鍮の小片を取り上げる。


 角は丸い。


 端に穴がある。


 表面は煤と古い油で曇っている。


 受付係から布を借り、軽く拭う。


 汚れの下から、細い刻印が現れた。


 EDRAM MERN。


 エドラム=メルン。


「ありました」


 ミラベルが声を上げた。


「見れば分かる」


 グレアムは札を証拠袋へ入れ、封をした。


 巡査へ渡す。


「拾得時の便、座席番号、拾得者名を追記させろ」


「返却するだけでは?」


「返したあと、また別の届け出と混ざったらどうする」


「しかし、所有者の名前と一致しています」


「だからこそだ。どの品を、誰へ返したか残せ」


 受付係は申し訳なさそうに頭を下げた。


「今後、刻印の有無まで確認します」


「全部を細かく調べろとは言わん」


 グレアムは木箱を見た。


「だが、金属片と書く前に、それが誰かの持ち物ではないか一度は見ろ」


「はい」


「値段のつかん物ほど、持ち主しか探さない」


 ミラベルの鉛筆が動いた。


 グレアムは横目で睨む。


「それも書くな」


「まだ何も言っていません」


「お前が静かなときは、だいたい書いている」


     ◇


 市警本部へ戻ったのは、午後二時を過ぎていた。


 リディアは、同じ長椅子で待っていた。


 その隣には、十六歳ほどのエルフの少年が座っている。


 痩せた身体。


 まだ新しい作業着。


 膝の上に、革製の工具袋を抱えていた。


 老女の孫だろう。


 グレアムが証拠袋を取り出すと、リディアは立ち上がった。


「これで間違いないか」


 封を開け、真鍮札を掌へ載せる。


 老女は両手で受け取った。


 煤を拭われた札には、古い傷がいくつも残っている。


 文字の一部は擦れ。


 穴の周囲は薄く変形している。


 新品の頃から、美しい物ではなかったのだろう。


 それでもリディアは。


 高価な宝石でも戻ってきたように、その札を見つめた。


「間違いありません」


 声が震えていた。


「夫の名前です」


 少年が老女の肩越しに札を見る。


「これが、祖父さんの?」


「そうよ」


「俺にくれるって言っていた?」


「明日、渡すつもりだったの」


 リディアは孫の手を取り、その掌へ真鍮札を置いた。


「昼食箱につけなさい」


「今は、工房から番号札が支給されるよ」


「では、その隣につけなさい」


「二つも?」


「名前は、多いくらいでちょうどいいの」


 少年は困ったように笑った。


 だが、札を返そうとはしなかった。


 作業着の胸ポケットへ、慎重に収める。


「ありがとうございます、警部」


「見つけたのは蒸気車の車掌だ」


「でも、探してくださったのは」


「手続をしただけだ」


 グレアムは巡査へ顎を向けた。


「返却の署名を」


 リディアは受付票へ名前を書いた。


 ゆっくりと。


 一文字ずつ。


 書き終えるまで、グレアムは急かさなかった。


 少年が老女の鞄を持つ。


 二人が扉へ向かいかけたところで、リディアが振り返った。


「警部」


「何だ」


「お昼のお時間に、申し訳ありませんでした」


 グレアムの眉が動いた。


「なぜ知っている」


 老女は、受付の奥を見た。


 昼食箱のことを話した若い巡査が、目を逸らした。


「……昼飯は、あとでも食える」


 グレアムは言った。


 リディアは深く頭を下げた。


 扉が閉まる。


 真鍮の鈴が一度鳴り。


 祖母と孫の姿が、煤霧の通りへ消えていった。


     ◇


 遺失物届には、次のように記された。


 品目。


 真鍮製名札一枚。


 刻印。


 エドラム=メルン。


 拾得場所。


 環状蒸気車、中央郵便局前到着便、三号座席下。


 本人確認。


 刻印および形状により一致。


 処理。


 届出人リディア=メルンへ返却。


 午後二時十一分。


 処理終了。


 それだけだった。


 夫が毎日持ち帰った昼食箱のことも。


 明日、初めて工房へ向かう孫のことも。


 老女が、名前の刻まれた札を両手で受け取ったことも。


 記録には書かれなかった。


「これでいい」


 グレアムは返却票を確認し、署名した。


「よくありません」


 向かいの椅子に座ったミラベルが言った。


「何がだ」


「金属片という分類です。刻印を確認していれば、もっと早く見つかっていました」


「蒸気車の遺失物係には、今後の手順を変えさせる」


「記事にしても?」


「誰を責める記事にする気だ」


「責めるのではなく、名前のある物を、名前のない物として扱わないための記事です」


 グレアムは、ミラベルを見た。


「リディア婆さんと孫の名は出すな」


「もちろんです」


「工房名もだ」


「はい」


「蒸気車の係員を無能扱いするな。あそこには、一日に何百件も届く」


「分かっています」


「それから、俺の言葉を勝手に整えるな」


「どの言葉です?」


「全部だ」


「では、警部の発言は載せません」


「それがいい」


「警部が昼食を食べ損ねたことだけ」


「それも載せるな」


 グレアムは執務室へ戻った。


 机の上には、朝と同じ昼食箱が置かれている。


 ただし、もう湯気はなかった。


 煮込みの脂は白く固まり。


 黒パンは水分を失い。


 腸詰は、冷えた金属のように硬くなっている。


 壁時計は午後二時二十分。


 昼食と呼ぶには遅い。


 夕食と呼ぶには、まだ早い。


 グレアムは椅子へ座り、冷えた腸詰を持ち上げた。


「温めてもらえばいいのでは?」


 いつの間にか、ミラベルが向かいへ座っていた。


「なぜ、まだいる」


「警察発表をいただいていません」


「今日は重大事件なしだ」


「それが発表ですか」


「好きに書け」


「では、《本日、市警管内において重大事件の発生なし》」


「それでいい」


「本当に、それだけですか」


 グレアムは腸詰を一口噛んだ。


 冷えている。


 だが食えないほどではない。


「迷子一名、母親へ引き渡し」


 彼は言った。


「交通上の口論一件。怪我人なし。双方、午後に交通課へ出頭予定」


 煮込みを一匙。


「遺失物一件、本人へ返却」


「三件もあったじゃないですか」


「重大事件ではない」


「でも、警部は昼食を食べられなかった」


「俺の昼飯を事件へ数えるな」


 ミラベルは昼食箱を覗き込んだ。


「その腸詰、おいしそうですね」


「見るな」


「二本あります」


「俺のだ」


「一本くらい」


「記者への供応は禁止されている」


「取材協力費です」


「警察から記者へ支払う制度はない」


「では、情報提供への謝礼で」


「お前が提供した情報は何だ」


「警部の昼食が冷めているという事実です」


「見れば分かる」


 ミラベルの指が伸びる。


 グレアムは昼食箱を引き寄せた。


「触るな」


「警部一人では、食べ終わる前に次の用事が来ます」


「今日はもう来ない」


 受付の呼び鈴が鳴った。


 一度。


 部屋の全員が動きを止めた。


 グレアムは壁時計を見る。


 昼食箱を見る。


 扉を見る。


 若い巡査が、廊下から顔を出した。


「警部」


「聞こえている」


「酔った男性が、停留所の長椅子で眠っているそうです」


「交通警へ回せ」


「胸元に、鉱山用の発破雷管を持っていると」


 グレアムは昼食箱の蓋を閉めた。


「触らせるな。周囲を空けろ。発破処理班を呼べ」


「はい」


 立ち上がる。


 制帽を被る。


 警棒と短銃を確かめる。


 濃紺の外套を肩へ掛けたところで、ミラベルが腸詰へ手を伸ばした。


「一口だけ」


「戻るまで待て」


「戻ったときには、もっと冷えていますよ」


「それでも俺のだ」


 グレアムは廊下へ出た。


 重い足音が、受付の方向へ遠ざかっていく。


 ミラベルは、開きかけた昼食箱を見た。


 少し考え。


 腸詰ではなく、端に残っていた黒パンを一切れだけ取った。


「これは、取材協力費です」


 誰もいない椅子へ言い訳する。


 そして手帳を開いた。


 新しい頁の上へ、記事の仮題を記す。


 ――重大事件のなかった一日。


     ◇


 その日。


 ヴェルム=クロウ市警察本部の重大事件記録には、何も加えられませんでした。


 殺人はなく。


 大規模な火災もなく。


 鉄道事故もなく。


 失踪者も出なかった。


 警部の昼食が冷えたことも。


 最後まで食べ終えられなかったことも。


 公式記録には残されていません。


 ただ。


 ひとりの子どもは、失踪者にならず。


 二人の御者は、傷害事件の当事者にならず。


 ひとつの名前は、金属片として忘れられる前に、持ち主のもとへ戻りました。


 何も起きなかった一日とは。


 本当に、何もなかった一日なのでしょうか。


 それとも。


 誰かが間に合い続けた結果なのでしょうか。


 私は答えを記しません。


 ただ観測します。


 冷えた昼食箱の蓋を閉じ。


 次の呼び鈴へ向かって歩いていく、小柄な警部の背中を。


 ――ナミ=エル

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