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第9節 ― 教授の講義

 ノクス=モリアンへの事情聴取は、月硝子劇場の最奥にある古い稽古室で行われた。


 半円形の小部屋だった。


 床には、舞台と同じ黒木が使われている。


 壁際には三列だけ、段状の見学席が設けられていた。かつて、新人俳優へ発声や古典構文を教えた場所らしい。


 正面には、罅の入った大きな鏡。


 その横には黒板。


 何年も前に書かれたエルフ古語の活用表が、消しきれない白い筋となって残っている。


 ――名を持つ者。


 ――名を捨てる者。


 ――役の中でのみ名を持つ者。


 窓から差し込む朝の光は弱かった。


 煤煙を通った灰色の光が斜めに入り、普段は見えない古い文字だけを浮かび上がらせている。


 その黒板の前に、ノクス=モリアンは立っていた。


 事情聴取へ呼ばれた重要参考人ではなく。


 講義を始める前の教授のように。


 深緑の礼服。


 銀の鎖で留められた黒い石。


 黒檀の杖。


 一晩中、劇場へ留め置かれていたはずなのに、襟にも髪にも乱れがない。


「座れ」


 グレアムが言った。


「立っている方が話しやすいのですが」


「講義を頼んだ覚えはない」


「では、事情聴取を受けるのに適した姿勢を教えていただけますか」


「椅子へ座り、質問に答えろ」


「警察の構文は、ずいぶん簡潔ですね」


「縄を使えば、もっと簡潔にできるぞ」


 ノクスは微笑んだ。


「それは遠慮しましょう」


 用意された椅子へ腰掛ける。


 背もたれへは寄りかからない。


 杖を両膝の間へ立て、両手をその上へ重ねた。


 正面にはグレアム。


 壁際にレオン。


 ミラベルは黒板近くの小卓へ、記録用紙と硬筆を置いている。


「新聞記者も同席するのですか」


 ノクスが尋ねた。


「目撃者であり、証言整理の協力者だ」


 グレアムが答える。


「市警の書記ではない」


「お前も、今は大学教授ではないだろう」


 ノクスの笑みが、少しだけ深くなる。


「皆さん、《元》という一字をつけることへ熱心ですね」


「現在の肩書を確認するためだ」


 レオンが言った。


 ノクスの視線が、彼へ移る。


「私の職業に興味がおありで?」


「職業ではない」


「では、呼び名ですか」


 レオンは答えなかった。


 グレアムが机へ三枚の書類を置く。


 ドラン=グレインが残した玉座の修理明細。


 音響管の構造図。


 『鏡王の終幕』復元台本。


「昨夜の事件について聞く」


「どうぞ」


「玉座の右腕補助機構を知っていたか」


「知っていました」


「演者の力を借りず、右腕を上げられることも?」


 ノクスは、ドランの修理明細へ目を落とした。


「そこまでの機能が残っているとは、知りませんでした」


「背面の支持具は」


「重い衣装を着た王役の姿勢を保つものです」


「舞台下から緩めれば、自力で動けない身体も前へ傾く」


「先ほどの検証結果は聞いています」


「音響管へ蝋管の声を流し、仮面から聞こえたようにできることは」


「当然、知っていました」


「当然?」


 グレアムの眉が寄る。


「私は、演目の復元監修です」


 ノクスは机上の台本を見る。


「『鏡王の終幕』は、完全な戯曲が一冊残っていたわけではありません。祭祀記録。地方ごとの台詞。古い配役表。衣装の断片。舞台機構の使用記録。それらを組み合わせ、現代の劇場で上演できる形へ戻した」


「聞いているのは、機械の話だ」


「機械もまた、演目の文法です」


「人間の腕を機械で上げることが?」


「古い儀礼では、老いた祭司が王役を務めました。重い仮面と衣装を身につけ、長時間玉座へ座る」


 ノクスは穏やかに説明した。


「王が手を掲げる場面では、黒衣に隠れた従者が腕を支えた、と記録されています。後世、その役割を機械へ置き換えた」


「知識はあった」


「否定する理由はありません」


「その知識で、昨夜の舞台を作れるか」


「知識だけでは無理でしょう」


「なぜだ」


「私が舞台下へ入り、レバーを引けば、ブロムに見つかる。音響室で蝋管を交換すれば、担当者に止められる。王役の衣装へ触れれば、衣装係が不審に思う」


「それでも方法は分かる」


「方法を知る者なら、この劇場には何人もいます」


「名前を」


「機械についてはブロム。進行については舞台監督と副舞台監督。音響については担当技師。衣装については王役の支度係」


「お前は、そのすべてを知っている」


「概要は」


「実行できたな」


 ノクスは、ほんの少し首を傾けた。


「知識を持つことが罪であるなら、この街の大学は監獄へ改装した方がよい」


「実行したかを聞いている」


「していません」


 初めて。


 ノクスは飾らず、短く否定した。


     ◇


 グレアムは、別の書類を開いた。


 ノクスの座席番号。


 一階中央、前から七列目。


 周囲にいた観客の名。


 市政文化局長。


 劇場保存委員。


 市議会議員。


 契約法院顧問。


 いずれも、ノクスとの会話を証言している。


「第一幕終了後、どこにいた」


「自分の席の近くです」


「誰と」


「文化局長と、劇場を保存建築へ指定する件について」


「第二幕後は」


「市議二名と、売却について意見を交わしました」


「彼らは口論と話している」


「政治家は、自分が負けた議論を口論と呼ぶことがあります」


「席を離れたか」


「葡萄酒を取るため、通路へ一度」


「時間は」


「一分に満たない」


「仮面支度室まで行けるか」


「急げば、途中の階段までは」


「オズリックを殺し、着替えさせ、玉座へ運ぶ時間は」


「ありません」


 ノクスは断言した。


「複数の証人が、お前を見ている」


 グレアムが言う。


「ありがたいことです」


「全員が、休憩中ずっと見続けていたわけではない」


 レオンが口を開いた。


「それでも」


 ノクスは、ミラベルへ一度視線を向ける。


「三階席の王よりは、よく見えていたでしょう」


 目のない仮面の視線。


 見えたことと。


 そこにあると判断したこと。


 観客証言に現れた異常を、彼も知っている。


「証言の弱点を、自分のアリバイへ利用する気ですか」


 ミラベルが尋ねた。


「利用はしません」


「なら、なぜ今その話を」


「証言が完全ではないことと、証言が無価値であることは違うからです」


 ノクスは答えた。


「複数の者が、異なる時刻に私を見ている。継続した監視ではない。しかし、殺害と準備に必要な長い空白もない」


「事実を分けている?」


「あなたの方法を借りました」


「授業料を取ります」


「新聞一部でよろしいですか」


「質問へ戻れ」


 レオンが言った。


 ノクスは、わずかに笑う。


「彼女が考える時間まで管理するのですか」


「必要のない会話を止めた」


「必要かどうかを、すぐに決める」


「以前から俺を知るように話すな」


「記録の中で会ったと申し上げたでしょう」


「その話をしよう」


 レオンは壁から離れた。


 半円形の稽古室の中央へ進む。


「《教授》」


 その呼称を、一語だけ口にする。


 ノクスは表情を変えなかった。


「大学にいた頃の肩書だと、君は言った」


「事実です」


「大学を去ったあとも使われている」


「古い呼び名は、職を失っても残るものです」


「劇場だけではない」


 レオンは手帳から、二枚の写しを取り出した。


 署名なき死体の事件で見つかった、契約文書の余白注記。


 存在しない七号車の事件で押収された、訂正命令書の構文記号。


 どちらにも署名はない。


 しかし。


 関係者の一部は、その指示を出した人物を同じ呼称で呼んでいた。


 ――教授。


「正しい文書だけを並べ、誤った結論を作る方法」


 レオンが言う。


「契約の意味を変える順番。消去ではなく、記録の読み方を変える技術」


「興味深い研究ですね」


「白紙街の記録仲介人も、《教授》という名を口にした」


「大学の卒業生かもしれない」


「君の教え子か」


「教え子が卒業後に何をしたか、すべて把握する教授はいません」


「否定しないのか」


「何をでしょう」


「裏社会で記録犯罪を設計する《教授》が、君であることを」


 ノクスは、杖の上へ置いていた手を解いた。


 黒い石の胸飾りへ。


 灰色の光が、細く差し込む。


「クラウス君」


 声は穏やかだった。


「教授というのは肩書です」


 背後の黒板には。


 役の中でのみ名を持つ者。


 消え残った文字が浮かんでいる。


「肩書だけで人を逮捕できるなら、記録院はずいぶん楽になるでしょう」


「質問へ答えていない」


「私の名で否定すれば、信じますか」


「証言の一つにはする」


「なら、否定した方が私には得ですね」


「得かどうかは聞いていない」


「では、肯定しましょうか」


 ノクスの口元へ、静かな笑みが現れる。


「教授です」


 ミラベルの硬筆が止まった。


 グレアムの眉が動く。


 レオンだけは、表情を変えない。


「かつて大学で、そう呼ばれていました」


 ノクスは続ける。


「今も劇場で、そう呼ぶ者がいる。古典記録を教えれば教授。契約構文を教えれば教授。犯罪者が、何かを教えた人物を教授と呼ぶこともあるでしょう」


「君は犯罪者へ教えたのか」


「何を教えたか、という質問なら」


 ノクスは黒板へ視線を向けた。


「記録の読み方を」


「犯罪の作り方ではなく?」


「読み方を教えれば、作り方へたどり着く者もいます」


「責任はないと?」


「教師が刃物の使い方を説明し、聞いた者が人を刺したなら、教師も殺人者ですか」


「刺すと知って教えたなら」


「知っていた証拠が必要です」


「気づいていた場合は」


 ノクスの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


「それは法ではなく、倫理の問いでしょう」


「逃げるな」


「逃げてはいません」


 返答は穏やかだった。


 だが、その一言だけは。


 それ以前より慎重に選ばれていた。


     ◇


「オズリック=ヘイルとの関係を聞く」


 グレアムが、現在の事件へ話を戻した。


「対立していたな」


「公然と」


「理由は」


「『鏡王の終幕』の所有権です」


 ノクスは、机上の復元台本を見た。


「オズリックは、演目を月硝子劇場後援会の資産として登録しようとしていました」


「売却先へ渡すために?」


「台本。衣装意匠。音響構造。役名。上演手順。それらを一つの商品として」


「違法なのか」


「現在の法律では、争う余地があります」


「感情を聞いている」


「嫌悪しました」


 ノクスは静かに答えた。


「古い儀礼劇は、一人の作者が書いた作品ではありません。何世代もの演者と観客が、台詞を変え、役を継ぎ、意味を足してきた共有記録です」


「資金を出した後援者のものではない?」


「資金を出した者が記憶の所有者になるなら」


 黒板の古い文字へ目を向ける。


「貧しい者は、自分の歴史を持てなくなる」


「殺したいと思ったか」


「思いました」


 グレアムの口髭が動く。


「昨夜から、正直な容疑者ばかりだな」


「殺意を持ったことと、実行したことを分けるのが警察でしょう」


「方法を考えたことは」


「契約を無効にする方法なら」


「死体を玉座へ座らせる方法だ」


「考えていません」


「玉座の仕組みを知っていた」


「仕組みを知る者は多い」


「声の記録も」


「音響係なら、私より詳しい」


「観客のアリバイがあるから、余裕なのか」


「私が狼狽すれば、無実らしく見えますか」


「お前は、人が死んだ事件を面白がっている」


 グレアムの声が低くなる。


 ノクスは、すぐには答えなかった。


「構造には興味があります」


「人が死んでいる」


「承知しています」


「なら、言葉を選べ」


 ノクスはグレアムを見た。


 警部の目には、飾りのない怒りがある。


 しばらくして。


 ノクスはわずかに頭を下げた。


「失礼しました」


 先ほどまでの社交的な謝罪とは違った。


「殺人を称賛する意図はありません」


「意図ではなく、言い方を改めろ」


「承知しました」


 グレアムは次の書類を開く。


「劇場の配役表について聞く」


「どの部分を?」


「実際に働いている者と、記録上の名が一致しない箇所がある」


 イリス=セーヴァ。


 登録名、リリア=ノア。


 同じ登録名を、別の衣装係も使っていた。


「知っていたな」


「気づいていました」


「何人いる」


「正確には知りません」


「嘘だ」


 レオンが言う。


「なぜ、そう思うのです」


「君は過去の配役表を復元した。現在の出演者と照合している」


「役名と登録名は見ました」


「顔も」


「劇場へ出入りしていれば」


 ノクスは、わずかに間を置いた。


「配役表に残る名と、舞台裏で働く顔が一致しないことには気づきます」


「誰が名義を割り当てている」


「それは劇場へ聞くべきでしょう」


「答えを知っているな」


「推測はあります」


「言え」


「この事件の殺人犯を捜す質問ですか」


 グレアムが机へ指を置く。


「関係があるか決めるのは警察だ」


「では、警察が調べてください」


「協力する気は」


「偽名の問題と、殺人の問題を混ぜないという保証があれば」


「保証を要求できる立場か」


「それを決めるのも警察ですか」


「モリアン」


 グレアムの声が、さらに低くなる。


 ノクスは笑わなかった。


「配役表と顔が一致しない」


 それだけを繰り返す。


「私が確実に申し上げられるのは、そこまでです」


 レオンは、しばらくノクスを見た。


 それ以上。


 この場では追及しなかった。


 名義の異常がある。


 誰が管理し。


 なぜ残され。


 殺人とどう関わるのか。


 まだ、その答えを得る段階ではなかった。


     ◇


「一つ、質問があります」


 ミラベルが言った。


 ノクスが顔を向ける。


「昨夜の機構は、複数の係員によって動きました」


「ええ」


「ブロムさんは腕を上げた。音響係は蝋管を再生した。支持具を動かした人もいる」


「それぞれ、自分の仕事をした」


「全員が同じ計画を知っていたとは思いますか」


「思いません」


「なぜです」


「全員が知っていたなら」


 ノクスは答えた。


「一人くらいは、昨夜の王が返事をしないことへ疑問を持ったでしょう」


「では、一人の犯人が全部を操作した?」


「それも違う」


「理由は」


「機械室へ外部の人間が入れば、技師に見つかる。音響室で勝手に蝋管へ触れれば、担当者が止める」


「なら、どうやって」


 ノクスは答えず。


 机上の修理明細を見た。


 右腕。


 支持具。


 音響管。


 三つの仕組み。


 三人以上の係員。


「教授」


 レオンが呼ぶ。


「回りくどい講義は要らない」


「では、一文だけ」


 ノクスは杖先を黒い床へ置いた。


 硬い音が、一度だけ響く。


「舞台を動かしたのは、機械技師ではありません」


 グレアムも。


 ミラベルも。


 彼を見る。


「機械技師へ」


 ノクスは続けた。


「いつ動かすかを教えた者です」


 それだけだった。


 犯人の名は言わない。


 動機も。


 誰が守られたのかも。


 どこで死体を着せ替えたのかも。


 一つの視点だけを、机の上へ置いた。


「誰だ」


 グレアムが尋ねる。


「それを調べるために、皆さんがいるのでしょう」


「舞台監督だと言いたいのか」


 レオンが言う。


「私は、役職名も口にしていません」


「舞台の時刻を管理する者は限られる」


「ならば、その限られた者たちを調べればよい」


「助言をする理由は」


 ノクスは、レオンを見た。


「君が、そこへいつ気づくか見たかった」


「人の死を試験に使うな」


「なら、試験ではなく」


 口元へ、ごく薄い笑みが戻る。


「共同研究と呼びましょうか」


「断る」


「残念です」


     ◇


 グレアムは、事情聴取の終了時刻を書記へ告げた。


「劇場から出るな」


「容疑者として?」


「重要参考人としてだ」


「呼び名で扱いが変わる?」


「勝手に出れば、容疑者へ変わる」


「分かりやすい構文です」


 ノクスは立ち上がった。


 椅子を元の位置へ戻す。


 礼服の裾を整え。


 黒檀の杖を手に取る。


 扉へ向かいかけ。


 途中で足を止めた。


「クラウス君」


「何だ」


「上演記録簿は、もう読みましたか」


「時刻と合図は確認した」


「それだけ?」


「何が言いたい」


 ノクスは、古い稽古室を見渡した。


「舞台の上演記録は」


 静かに言う。


「舞台で起きたすべてを記すものではありません」


「では、何を記す」


「演目が、正しく進んだことです」


「同じことだ」


「いいえ」


 ノクスは首を振った。


「現実を残す記録と、成功を証明する記録は違う」


「具体的に言え」


「これ以上は、講義になります」


「もう充分している」


「でしたら、残りは読者ご自身で」


 ノクスは扉を開けた。


「待て」


 レオンが呼び止める。


「今のも助言か」


「いいえ」


 ノクスは肩越しに振り返る。


「記録学の基礎です」


「授業料は払わない」


「すでにいただいております」


「何を」


「優秀な読者が」


 ノクスの視線が、レオンの手帳へ落ちる。


「どの頁を、最後まで読み飛ばすのか」


 答えを待たず。


 稽古室を出ていった。


 廊下を進む杖の音。


 一定の間隔。


 迷いのない歩調。


 やがて、その音も聞こえなくなった。


     ◇


「嫌な男だ」


 グレアムが言った。


「同意します」


 ミラベルが答える。


「それで」


 グレアムはレオンを見る。


「あいつをどう思う」


「今回の殺人については、実行時間が足りない」


「共犯なら」


「可能性は残る」


「《教授》については」


「何も否定しなかった」


「肯定もしていません」


 ミラベルが言う。


「そこが厄介だ」


 レオンは、ノクスが座っていた椅子を見る。


「どの意味で読んでも、嘘にならない言葉だけを選ぶ」


「ヴァネッサと似ているな」


 グレアムが言った。


「違う」


 レオンは即座に答えた。


「ヴァネッサは、誰かへ信じさせる顔を作る。ノクスは、読む者が自分で意味を選ぶよう仕向ける」


「どちらが悪い」


「比較する意味はない」


「つまり両方悪い?」


 ミラベルが尋ねる。


「そうは言っていない」


「否定もしませんね」


 レオンは彼女を見た。


「教授の真似をするな」


 グレアムが口髭の奥で笑う。


 だが。


 レオンは、すでに別のことを考えていた。


 機械技師へ。


 いつ動かすかを教えた者。


 ブロムは合図に従った。


 音響係も。


 支持具の操作係も。


 誰もが、決められた時刻に自分の仕事をした。


「上演記録簿はどこだ」


 レオンが尋ねた。


「支配人室だ」


 グレアムが答える。


「証拠保管室へ移す前に、封印してある」


「もう一度見る」


「昨夜、見たはずだ」


「予定された合図の時刻だけをな」


「今度は何を見る」


 レオンは、黒板へ残された文字を見る。


 名を持つ者。


 名を捨てる者。


 役の中でのみ名を持つ者。


 そして。


 記録された時刻にだけ、正しく動いた舞台。


「何が起きたかではない」


 レオンは言った。


「何を正しく進んだことにしたのかを見る」


     ◇


 支配人室では。


 黒革の上演記録簿が、白い証拠布の上へ置かれていた。


 グレアムが封印を確認する。


 警察書記立会いのもと、紐を解く。


 レオンは帳面を開いた。


 第一幕。


 月灯点灯。


 王妃入場。


 鏡搬入。


 第一幕終了。


 第二幕。


 王妃入場。


 鏡の裁き。


 空白鏡落下。


 終幕台詞。


 第二幕終了。


 第三幕。


 王座搬入。


 黒布上昇。


 右腕挙上。


 音響開始。


 剣。


 血糊。


 支持解除。


 幕。


 すべての項目に。


 時刻と担当が記されている。


 整然としていた。


 舞台で男が死んでいたことなど。


 帳面のどこにも存在しない。


「正しく進んだように見えます」


 ミラベルが言った。


「記録の上では」


「記録の上ではな」


 レオンは第三幕の頁を読み返す。


「何がおかしい」


 グレアムが訊く。


「まだ分からない」


「分からないのに、見直すのか」


「分からないから見る」


 レオンは帳面を閉じなかった。


 犯人の名は。


 まだ、どこにも書かれていない。


 それでも。


 死者の腕が上がる時刻。


 過去の声が流れる時刻。


 王が前へ倒れる時刻。


 それらはすべて。


 殺人が発覚する前から、この帳面の中へ並んでいた。


 上演記録簿が。


 本当に起きた舞台を記したものなのか。


 それとも。


 舞台が正しく進んだと信じさせるための、もう一冊の台本なのか。


 それを確かめるのは。


 次の仕事だった。

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