第8節 ― 玉座を動かす者
《煤鳩亭》へ戻った頃。
霧燈通りには、朝と呼ぶには弱すぎる光が満ちていた。
夜の黒が消えたのではない。
高架鉄道の向こうにある空が、煤煙を溶かした灰色へ変わっただけだった。
街灯はまだ点いている。
工場の煙突は眠らず、低い雲へ煤を吐き続けていた。
新聞配達の自転車が濡れた石畳を走り。
夜勤を終えた労働者と、朝の工場へ向かう労働者が、同じ通りを反対方向へ歩いていく。
レオンとミラベルとグレアムも、その流れへ混じっていた。
三人とも、一晩眠っていない。
グレアムの警察外套には、劇場の埃。
レオンの袖口には、王の右腕から採取した黒い機械油。
ミラベルの取材手帳には、目のない王の視線を見たと語る証言が並んでいる。
誰も口を開かなかった。
月硝子劇場で起きたことが、まだ頭の中で幕を下ろしていなかった。
黒鴉館の前へ着く。
三人が扉へ手を伸ばすより先に。
中から、マルタの声が飛んできた。
「外で死体みたいな顔を並べてないで、入りな!」
レオンが扉を開ける。
真鍮の鈴が、眠たげな音を立てた。
◇
喫茶室には、珈琲と焼いたパンの匂いが満ちていた。
暖炉には火が入り。
厨房の小窓から、玉葱と塩漬け肉を炒める音が聞こえている。
マルタ=グレインは、カウンターの内側から三人を見た。
ミラベル。
グレアム。
レオン。
その順番で、頭から靴まで確かめる。
「死人は」
「一人だ」
グレアムが答えた。
「増えてないね」
「今のところは」
「朝の店で、その言い方はやめな」
三つのカップが並べられた。
訊かれる前から、濃い珈琲が注がれる。
さらにミラベルの前には、蜂蜜入りの温かい乳と焼きパン。
グレアムには、肉を挟んだ黒パン。
レオンへも、珍しく同じものが置かれた。
「家賃へ加算するよ」
「捜査経費だ」
「警察へ請求する」
グレアムがパンへ手を伸ばしかけ、止まった。
「俺か?」
「警部なんだろう」
「クラウスの朝飯まで市警へ回すな」
「なら本人に払わせな」
「事件のあとにする」
レオンは即座に答えた。
「毎回、同じ台詞だね」
マルタはそれ以上追及せず、レオンの袖口を指差した。
「腕を出しな」
「何のために」
「油を見る」
レオンが右腕を差し出す。
マルタは、布へ付着した黒い油を指で軽く擦った。
匂いを確かめる。
「獣脂油。黒鉛。それから銀杉の防錆剤」
「分かるのか」
ミラベルが尋ねる。
「何年、蒸気技師の作業着を洗ったと思ってるんだい」
マルタは指を布巾で拭った。
「月硝子劇場の古い機械だね」
「同じ油を使う設備は、ほかに?」
グレアムが訊く。
「今じゃほとんどない。古い石造りの儀礼設備へ、金属の歯車や蒸気管を継ぎ足した機械には、鉱油を使うと石と革を傷めることがある」
「オズリックの右手袋と腕甲の内側へ付着していた」
レオンが言った。
「玉座の補助機構と接続された箇所だ」
マルタの手が止まった。
「死んだのは、あの王役かい」
「ああ」
「舞台では、死ぬ前と同じように右手を上げた」
ミラベルが説明する。
「本人は、肩の古傷で胸より高く腕を上げられなかったんです。でも、第三幕では五百人の前で」
「玉座を調べたのかい」
「右肘掛けに補助棒がある」
グレアムが答える。
「ブロムは演者の動きを助ける機構だと言っている。だが、現在の整備図には《右腕補助》としか書かれていない」
「どこまで機械だけで動くのか、分からないんです」
ミラベルが言った。
マルタは三人を見た。
それから、壁の向こうにある過去へ耳を澄ますように、少し黙った。
「ドランの箱を見よう」
「残っているのか」
レオンが訊く。
「あの人は、交換した螺子一本まで紙へ書く男だった」
「正しい習慣だ」
「生きてるうちに本人へ言ってやれば、喜んだだろうね」
「会ったことがない」
「そうだったね」
マルタはカウンターの下から鍵束を取り出した。
「食べながら聞きな。劇場の仕掛けは逃げないよ」
「犯人は逃げるかもしれない」
「警部が劇場へ人を置いてるんだろう?」
「置いてある」
グレアムが答える。
「なら食べな。寝てない人間が空腹で考えた推理なんて、酔っ払いの遺言より信用できないよ」
三人は反論しなかった。
それぞれ、目の前のパンを手に取った。
温かい食事が胃へ入る。
ミラベルは、そのとき初めて。
昨夜から自分の身体が、ずっと小刻みに震えていたことへ気づいた。
◇
食事を終えると。
マルタは厨房奥の扉を開けた。
その先に、地下倉庫へ続く狭い階段がある。
壁は剥き出しの煉瓦。
天井は低く、グレアムとレオンは頭を下げなければならなかった。
マルタが真鍮の手提げ灯を持ち、先頭を歩く。
「三段目が沈むよ」
「直さないのか」
レオンが尋ねる。
「家賃が入ったらね」
三段目を踏むと。
本当に、木が低く軋んだ。
地下倉庫には。
珈琲豆の袋。
瓶詰めの果実。
壊れた椅子。
古い暖炉格子。
使わなくなった食器。
生活の中で役目を終えたものが、捨てられずに積み重ねられていた。
その最奥。
木箱の山の下へ。
黒ずんだ鉄の留め金を持つ、大きな箱があった。
蓋の角へ、薄く文字が残っている。
――D・G。
「ドランの道具箱だ」
マルタは膝をついた。
錠へ鍵を差し込む。
一度目は回らない。
少し持ち上げ、角度を変えて二度目。
内部で、古い金属音がした。
「癖まで覚えているんですね」
ミラベルが言う。
「夫婦だからって、何でも覚えてるわけじゃないよ」
マルタは蓋へ手を置いた。
「毎日使ったものは、頭が忘れても手が覚えてるだけさ」
箱が開いた。
中にあるのは。
大きさの違うレンチ。
煤で黒くなった革手袋。
圧力計。
真鍮管の接続具。
切れた革帯。
短くなった鉛筆。
そして。
紐で束ねられた、黄ばんだ書類の山。
「仕事をした証拠は捨てるな」
マルタが言う。
「ドランの口癖だった。直したのに壊したと言われる。部品を替えたのに、頼んでいないと言われる。だから、何を外し、何を足したか、全部残した」
紙束を繰る。
鉄環駅。
貨物倉庫。
古い浴場。
契約法院南棟。
新聞社の輪転機室。
そして。
月硝子劇場。
三つの封筒が見つかった。
ひとつ目。
――舞台下主蒸気管漏洩修理。
ふたつ目。
――儀礼音響管・近代式再生装置接続改修。
みっつ目。
――《名なき王の玉座》演者補助装置修繕。
マルタが油のついていない布を箱の蓋へ広げる。
封筒の中身を、一枚ずつその上へ置いた。
請求書。
部品一覧。
現場で描いた構造図。
ドラン=グレインの、角張った筆跡。
公式図面ではない。
舞台機構の外観を保存するための設計書でもない。
実際に壁を開き。
床下へ潜り。
歯車へ手を入れた技師だけが残せる、仕事の記録だった。
「右側です」
ミラベルが図を指した。
玉座の右肘掛け。
内部には、長い金属棒。
先端は、演者の腕甲へ接続される。
下端は歯車を介し、舞台下のレバーへ続いていた。
横に注釈がある。
――右上肢挙上補助。
――演者の自力動作困難時、床下操作による全量挙上可。
「全量挙上」
グレアムが読み上げた。
「補助ではないな」
「本人が力を入れなくても、腕は上がる」
レオンが答えた。
ミラベルは別の図を見る。
玉座の背面。
肩甲骨から腰を支える薄い板。
身体を固定する革帯。
板の中央には、複数の留め金。
それぞれが、舞台下へ延びる細索とつながっている。
――長時間座位保持。
――第一索、腰部固定解放。
――第二索、肩部固定緩和。
――第三索、背板前傾。
――演者の終幕動作を補助。
「人間を座らせ続けることも」
ミラベルが言う。
「前へ倒すこともできる」
「演者自身が動けることを前提にした仕掛けだろう」
グレアムが図面を見る。
「だが、重ささえあれば」
「自分で姿勢を保てない身体にも使える」
レオンが答えた。
マルタは、二枚目の封筒から音響管の図を出した。
古い石壁へ空けられた、儀礼用の共鳴穴。
その背後へ接続された真鍮管。
舞台下の再生機。
王座の仮面。
三階席の壁面にある反響口。
「ドランが苦労したと言っていた配管だ」
マルタは図を指でなぞる。
「古い石の穴へ、金属管を無理に合わせてる。舞台から出した音が、壁の中で分かれ、仮面の後ろと客席の反響口へ届く」
「声を仮面から聞こえたようにする」
ミラベルが言う。
「同時に、遠い席へも送る」
「音は目に見えないからね」
マルタは答えた。
「客は、見えている口から聞こえたと思う」
だが、すぐに首を振る。
「あたしが事件を解くんじゃない。紙に書いてあることを読んだだけだよ」
レオンは三枚の図面を見比べていた。
右腕。
背部支持。
音響管。
同じ玉座へ組み込まれながら。
それぞれ独立した機構だった。
図面の端へ。
ドランの筆跡で、短い文が残されている。
――客に見せない仕掛けは、演出である。
――仲間へ知らせない仕掛けは、事故になる。
「これを、ブロムは知っているか」
グレアムが尋ねる。
「今の整備簿へ引き継がれているなら」
マルタは答えた。
「だが、劇場ってところは、客へ秘密にするうち、働く者同士でも秘密が増える」
「公式図面から消えた理由は」
「修理として処理したからだろうね」
玉座の図面を示す。
「儀礼用の古い木枠は残した。その内側へ、ドワーフの金具を入れた。正式な改築として届ければ、古典様式を壊したと騒ぐ連中もいる。だから外から見える形は変えていないことにした」
「図面の上では、元の玉座のまま」
ミラベルが言う。
「現場には、別の機構が残った」
「記録へ残らないものは」
レオンが呟いた。
「人が変われば、意味も失われる」
マルタが彼を見る。
「紙が残っても、読む人間がいなきゃ同じさ」
グレアムは警察手帳を取り出した。
「三通とも、捜査資料として預かる」
「預かり証を」
「分かっている」
「今、ここで書きな」
「信用していないのか」
「警察だから記録するんだろう?」
グレアムは何も言い返せず。
箱の蓋を机代わりにして、預かり証を書いた。
◇
地上へ戻る。
窓の外は、先ほどより少しだけ明るくなっていた。
ヴェルム=クロウの朝は白くならない。
夜の黒が、煤煙の灰へ変わるだけである。
マルタは三つの封筒を油紙で包み、紐を十字に結んだ。
「水へ落とすな」
「落とさない」
「血もつけるな」
「警察が責任を持つ」
グレアムが包みを受け取る。
「なら、クラウスへ渡すよりは安心だ」
「俺も警察にいた」
「いた、だろう」
マルタは、今度はミラベルの襟を整えた。
「嬢ちゃん。終わったら寝な」
「事件が終わったら」
「クラウスと同じことを言うようになったね」
「悪い影響でしょうか」
「かなりね」
「聞こえている」
「聞かせてるんだよ」
三人が店を出ようとしたとき。
マルタがレオンを呼び止めた。
「クラウス」
「何だ」
「ドランの機械は、人を舞台へ立たせるために作られた」
「ああ」
「機械は、自分で使い道を選ばない」
レオンは一度だけ頷いた。
「分かっている」
「なら」
マルタは、油紙の包みを見る。
「壊す相手を間違えるんじゃないよ」
◇
月硝子劇場は、前夜とは違う建物に見えた。
青白く輝いていた硝子窓は、曇った朝を鈍く返している。
正面階段の黒い絨毯は撤去。
馬車も。
花も。
観客もいない。
入口へ掲げられた看板には、白布がかけられていた。
――本日休演。
その下へ、支配人名義の告知。
――出演者急病のため。
「急病」
ミラベルが読む。
「劇場が、新聞より先に都合のよい言葉を選びました」
「警察発表前だ」
グレアムが言う。
「殺人と書くわけにはいかん」
「絞殺を急病とは呼ばない」
レオンは告知から目を離した。
「記事の話は、あとだ」
劇場内部には。
昨夜の観客が落とした公演冊子。
割れた観劇鏡。
椅子の下へ転がった手袋。
普段なら片づけられるはずのものが、そのまま残されている。
舞台には、第三幕の王宮。
中央には、オズリックを乗せていた玉座。
遺体と衣装は検死と証拠保全のため外されている。
それでも玉座は、白墨で囲まれた昨夜の位置から動かされていなかった。
ブロム=ガドルが、舞台下の開口部から顔を出す。
「遅い!」
開口一番、怒鳴った。
「二時間前に呼んだぞ」
「捜査資料を探していた」
グレアムが油紙の包みを掲げる。
「朝飯の匂いもするぞ」
「資料を探していた」
「口髭にパン屑がある」
グレアムは無意識に口元を払った。
「捜査だ」
「二度言うと余計に怪しい」
ブロムは舞台へ上がった。
眠っていない。
目は赤く。
赤褐色の髭の編み目も乱れている。
だが、工具だけは、いつもどおりの順番で並べられていた。
「ドラン=グレインの修理明細だ」
グレアムが包みを開く。
ブロムは最初、不機嫌そうに紙を受け取った。
だが。
玉座の図へ目を落とした瞬間。
目つきが変わった。
「これを、どこで」
「煤鳩亭の地下」
「外部技師の記録か」
「名前は整備簿に?」
「あった。俺が劇場へ入る前だ」
ブロムは図を、実物の玉座と見比べる。
「今の整備図には、部品番号しかない。右腕補助棒。背板。解除索。交換部品と油の種類だけだ」
「全量挙上という機能は」
レオンが訊く。
「聞いていない」
「できるか」
ブロムはすぐには答えなかった。
右肘掛けの蓋を開く。
内部の歯車。
補助棒。
舞台下へ延びる索。
一つずつ図面と照合する。
「試す」
「現場を動かす前に記録だ」
グレアムが止めた。
警察書記が呼ばれる。
玉座の状態。
歯車の位置。
油の付着。
索の張り。
すべてを図と写真板へ残したあと。
ようやく、ブロムは工具を手にした。
「完全な王衣装は使わない」
グレアムが言う。
「証拠品だからな」
「腕の検証だけなら、予備の腕甲と同じ重さの袖で足りる」
ブロムが答える。
「支持具は別に試す」
「一つずつだ」
レオンが言った。
「同時に動かすな」
第三幕を再び演じるためではない。
何が可能なのか。
一つの機構につき、一つの事実だけを確かめる。
◇
最初は、右腕補助機構だった。
衣装部から運ばれた予備の腕甲。
黒い袖。
手袋。
本番と重量を揃えるため、腕甲の内側へ細い鉛板を追加する。
「重さは」
グレアムが尋ねる。
「本番用と同じ、右腕全体で十二斤半」
ブロムが秤を示した。
「人間の腕の重さは入っていない」
「死体の腕があれば、さらに重い」
「この機構は、その重さを補うためにある。空の袖を上げられなければ、人間の腕も上げられん」
腕甲を、右肘掛け内部の補助棒へ接続する。
肩側は、玉座の背へ設置した簡単な木枠で支えた。
人の胴体はない。
王衣装も。
仮面も。
血袋もない。
玉座の右側へ。
切り離された黒い腕だけが置かれている。
「昨夜と同じ油だ」
ミラベルが、接続部を見る。
黒い獣脂油。
腕甲内側へ薄く伸び。
手袋の手首へ触れる位置にある。
「オズリックさんの右手袋へ残っていた擦れ跡と合います」
「採取した油は検査へ回している」
グレアムが言う。
「今は、接触する位置だけを確認する」
ブロムは舞台下へ下りた。
「通常は、演者が腕を上げ始める。俺はレバーで重さを取る」
「今日は」
「腕の力はない」
「どこまで上がるかを見る」
グレアムが警察書記へ頷く。
開始位置が記録される。
「動かすぞ」
ブロムがレバーを引いた。
肘掛けの内側で、歯車が回る。
補助棒がせり上がる。
黒い腕甲が持ち上がった。
肘が曲がる。
手袋が胸の高さを越える。
さらに。
肩の位置より高く。
手の甲が客席へ向く。
人間は座っていない。
筋肉も。
意思も。
命令を受け取る耳もない。
それでも。
黒い右手は、第三幕で見たものと同じ高さまで掲げられた。
ミラベルは息を止めていた。
完全な王の姿ではない。
袖の先に仮面も身体もない。
だからこそ。
機械が上げたのだと、疑いようがなかった。
「止めろ」
グレアムが言う。
レバーが固定される。
腕は、空中に掲げられたまま止まった。
「演者の力は」
レオンが尋ねる。
「一切加えていない」
ブロムが舞台下から答える。
「全量挙上は可能だ」
「昨夜も?」
「可能だった」
「実際に全量だったかは」
「分からん」
ブロムは舞台へ戻った。
掲げられた腕を見上げる。
「普段は、演者が少し動かす。俺は重さを支えるだけだと思っていた」
「装置は、もっと動いた」
「ドランの明細を知っていれば、最初から確認した」
ブロムの声に怒りが混じる。
「どうして引き継がれていない」
「客へ見せない仕掛けだったからでは」
ミラベルが言う。
「客に見せる秘密と」
ブロムは、ドランの図面を強く握りかけ。
紙であることに気づいて、手を緩めた。
「仲間へ隠す秘密は別だ」
低く言う。
「客に知られりゃ舞台が壊れる。だが整備する者に隠せば、人が壊れる」
マルタが地下で読んだ言葉と。
ほとんど同じだった。
◇
次に調べたのは、姿勢保持具だった。
玉座の座面へ。
衣装部で使う木製の胴型を置く。
中へ砂袋と鉄片を詰め。
オズリックの体重と、王衣装の重量を合わせる。
肩。
腰。
胸。
革帯を、遺体が固定されていた位置と同じ高さへ通す。
胴型には頭も腕もない。
黒い布も被せない。
人に見せるためではなく。
重さを支えられるかだけを試すためだった。
「固定前」
警察書記が記録する。
「自立しません」
支えを離すと。
胴型は、すぐに前へ倒れかける。
ブロムが受け止めた。
「死体と同じだ」
グレアムが言う。
「自分で姿勢を保てない」
ブロムは胴型を玉座へ戻す。
腰帯。
肩の固定。
背板。
順番に締める。
最後の金具が閉じる。
支えていた手を離した。
木製の胴型は。
まっすぐに座っていた。
「外から力を加えます」
書記が記録を読む。
グレアムが胴型の肩を押す。
左右。
前後。
重い砂が内部でわずかに動く。
だが。
革帯と背板は、姿勢を崩さない。
「生きているようには見えない」
ミラベルが言う。
「だが、座っている人間の形は保てる」
レオンが答えた。
「黒衣と仮面があれば、客席から固定具は見えない」
次は、解除機構。
ブロムが舞台下へ移る。
「第一索」
レバーを少し引く。
腰の留め金が外れた。
胴型が、座面の上で一寸ほど前へずれる。
「第二索」
肩の帯が緩む。
上半身が少し傾く。
ただし。
まだ背板が支えている。
「第三索は、最後まで引くな」
グレアムが言う。
「完全に倒す必要はない。前傾が機械で起きると分かればいい」
ブロムが頷く。
第三索を、半分まで引いた。
背板が前へ傾いた。
木製の胴型も。
自ら動いたように、ゆっくり前へ沈む。
途中で停止。
完全な倒伏はさせない。
黒い王衣装も着せない。
第三幕の最期には見えない。
ただ。
自力で動けない重さを。
玉座が座らせ続け。
舞台下からの操作で、前へ傾けられる。
その事実だけが残った。
「死体であっても」
ミラベルが言う。
「姿勢を保たせ、動かすことができる」
「可能性は証明された」
グレアムが答える。
「昨夜、誰がどの段階まで操作したかは、別に調べる」
ブロムが舞台へ戻る。
途中まで傾いた胴型を見た。
「俺は第三幕で、最後まで引いた」
「マティアスの合図で?」
「ああ」
「そのとき、王役が自分でも身体を倒したと思ったか」
「そう思っていた」
「確認は」
「できるわけがない」
ブロムは苛立った声で答えた。
「俺は床下だ。王の背中も顔も見えん。索の重さが変わる。役者が体重をかければ、少し軽くなる。それだけだ」
「昨夜は」
レオンが尋ねる。
「いつもより重かったか」
ブロムは考えた。
「分からん」
「重要だ」
「だから分からんと言ってる!」
拳を握る。
「第三幕の最中だ。楽団が鳴り、昇降機も動いていた。索の重さが一斤違ったとして、死体が乗ってると思うか?」
誰も答えなかった。
「思わん」
ブロムは自分で言った。
「舞台の上には、王役がいる。そう聞いていた。だから、そう思った」
◇
最後に調べるのは、音響管だった。
舞台下の音響室。
石壁へ、太さの異なる真鍮管が何本も通っている。
古いエルフ儀礼堂の共鳴穴へ。
後世の技師が金属管と再生機を継ぎ足した構造。
管には番号札がある。
舞台中央。
上手祭壇。
下手回廊。
王座口元。
三階反響口。
壁際へ、小型の蝋管再生機が設置されている。
発条。
針。
速度調整用の錘。
漏斗状の音声口。
オズリックの午後の蝋管は、まだ見つかっていない。
保管箱には番号札だけが残り。
肝心の蝋管は消えていた。
「別の試験管を使う」
ブロムが棚から一本取り出した。
「昨年の共鳴試験用。内容は俺の数唱だ」
記録札をグレアムへ渡す。
――舞台中央共鳴試験。
――声者、ブロム=ガドル。
――一から五までの数唱。
「昨夜と同じ再生機か」
「同じだ」
「管は」
「王座口元へつながるものを使う」
「再生速度は」
「記録札の指定どおり。変更しない」
すべてを確認したあと。
三人は客席へ戻った。
舞台上の玉座には。
胴型も。
右腕もつけない。
鏡面仮面だけを、本番と同じ高さの支柱へ固定した。
黒い顔。
口のない仮面。
その背後へ、真鍮管の出口が隠されている。
ブロムが音響室で発条を巻く。
劇場は静まり返った。
かすかな擦過音。
針が蝋管へ落ちる。
砂を擦るような雑音。
そのあと。
『一』
声がした。
舞台下からではない。
鏡面仮面の奥から。
『二』
口はない。
喉も。
肺も。
息もない。
それでも声は、黒い顔から発せられているように聞こえる。
『三』
ミラベルは目を閉じた。
音だけを聞く。
仮面の方向。
舞台上部。
右側の壁。
石の中で響きが分かれ、どこが始点なのか曖昧になる。
目を開く。
仮面が見える。
『四』
見えている顔へ。
耳が声の出所を合わせてしまう。
『五』
声が終わった。
発条の回転音も。
やがて止まる。
「三階へ」
レオンが言った。
三人は座席を移した。
菓子売りの少年が座っていた、三階右端。
もう一度、蝋管を再生する。
『一』
今度は。
声の最初が、右壁の月形装飾から聞こえた。
すぐに客席を回り。
仮面の方向へ重なる。
『二』
「少年の証言どおりです」
ミラベルが言う。
「壁から返る」
『三』
「だが、仮面を見ていれば」
グレアムが答える。
「仮面が喋っているように聞こえる」
『四』
レオンは舞台と壁を交互に見た。
「声の持ち主を知っていれば」
『五』
声が消える。
「その人間が、仮面の中にいると思う」
ミラベルは、ヴァネッサの証言を思い出した。
喉鳴り。
二文の間。
金属音。
昨夜、五百人が聞いた声は。
間違いなくオズリックのものだった。
ただし。
それが第三幕のその瞬間に生まれたとは限らない。
「音響係は、何をした」
グレアムが尋ねる。
「指定された蝋管へ針を落とした」
ブロムが舞台下から戻りながら答える。
「マティアスから、《本番では午後の音声を補助として重ねる》と指示されていた」
「本人の台詞へ録音を重ねる予定だった?」
「ああ。仮面で声が潰れるから、と」
「実際には」
レオンが言う。
「オズリックが黙っていても、録音だけで台詞は成立した」
ブロムの顔が歪んだ。
「音響係は知らなかった」
「分かっている」
グレアムが答える。
「だが、指示を出した者は」
「今は、そこまでだ」
レオンが止めた。
グレアムが彼を見る。
「なぜ」
「証明したのは、音響管を使えば仮面から録音を流せることだけだ」
「オズリックの蝋管は消えている」
「誰が持ち出したかは分かっていない」
「指示書は」
「通常の音響補助として記録されている」
「マティアスが書いた」
「だからといって、殺人まで証明したことにはならない」
レオンの視線は、空の舞台監督席へ向いていた。
「機構と犯人を、一度に結びつけるな」
ミラベルは、少しだけ驚いた。
ヴァネッサへの事情聴取で。
自分が彼へ言ったことを、レオンは守ろうとしていた。
◇
検証が終わると。
三つの結果が、別々の記録用紙へまとめられた。
第一。
右腕補助装置は、演者の筋力を使わず、腕甲と袖を肩より高く挙上できる。
第二。
姿勢保持具は、自立できない重量物を座位へ固定し、舞台下からの操作で前傾させられる。
第三。
蝋管へ記録された声は、共鳴管を通し、玉座の仮面から発せられたように客席へ届けられる。
右腕。
身体。
声。
それぞれについて。
死者であっても可能であることが証明された。
だが。
腕を上げるだけでは、王にはならない。
身体を前へ傾けるだけでは、死の演技にはならない。
声を流すだけでは、そこにオズリックがいるとは証明できない。
昨夜。
それらは同じ舞台の上で。
ひとつの演目として連続していた。
誰が。
どの順番で。
どの時刻に。
それぞれを動かしたのか。
その答えは、まだ出ていない。
「腕のレバーを引いたのは、俺だ」
ブロムが言った。
「支持具の索も」
「音響係は、指定された蝋管を再生した」
グレアムが確認する。
「ああ」
「全員、通常の仕事だと思っていた」
「そうだ」
「どこから合図を受けた」
ブロムは舞台袖を指した。
薄暗い監督席。
黒革の帳面が置かれていた机。
木片の音が鳴る場所。
「そこだ」
「誰を見た」
ブロムはすぐには答えなかった。
「第三幕では、マティアスを見た」
「毎回?」
「合図のたびに顔を確認したわけじゃない」
「では」
「木片の音と、手信号だ」
「別の者でもできる?」
「合図の順番を知っていれば」
ブロムは、空の舞台監督席を睨んだ。
「だが、俺たちは疑わなかった」
「なぜ」
「舞台監督席から合図が出れば」
ブロムは答えた。
「舞台監督が出したと思うからだ」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
五百人の観客は。
仮面から声が聞こえれば、仮面の中の王が喋ったと思った。
舞台下の技師は。
監督席から合図が来れば、舞台監督が命じたと思った。
似ている。
だが。
まだ同じだとは断定できない。
「機械は」
ミラベルが、煤鳩亭での言葉を思い出す。
「自分で動く時刻を選びません」
「そうだ」
レオンは答えた。
「腕甲には、いつ腕を上げるべきか分からない」
玉座を見る。
「支持具には、いつ身体を倒すべきか分からない」
音響管を見る。
「蝋管にも、いつ過去の声を流すべきか分からない」
「誰かが合図を出した」
グレアムが言う。
「あるいは」
レオンの視線が、舞台監督席へ移る。
「合図を出した者へ、正しい順番を与えた」
玉座の機構は。
死者の腕を上げられる。
死者の身体を支えられる。
死者の声を、仮面から響かせられる。
だが。
機械は、事件を計画しない。
舞台の時刻を選ばない。
誰を王へ座らせるのかも決めない。
月硝子劇場に残された三つの機構は。
殺人犯の手ではなかった。
手へ命令を伝えるための。
道具にすぎなかった。




