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第7節 ― ヴァネッサの偽証

 月硝子劇場に朝が来ても、窓は明るくならなかった。


 正面を覆う乳白色の硝子は、外の光を受けて灰色に濁っている。


 夜には月光のように見えた照明も落とされ、玄関広間には冷えたガス灯と、湿った衣装と、眠らない人間の匂いが残っていた。


 五百人の観客は、第一供述を終えた者から帰された。


 楽団員も。


 脇役の俳優も。


 舞台へ直接触れていない者は、住所と連絡先を記録されたうえで解放されている。


 それでも舞台裏には、多くの人間が残っていた。


 衣装係。


 舞台技師。


 支配人。


 舞台監督。


 仮面支度室へ入ることのできた者。


 玉座へ触れた者。


 蝋管へ触れた者。


 殺人犯である可能性を持つ者たち。


 あるいは。


 殺人犯に、何も知らないまま使われた者たち。


 彼らは互いの顔を見ようとしなかった。


 止まった舞台時計。


 閉ざされた楽屋。


 警察の白い封印札。


 自分の役ではないものばかりを見ている。


 上演の終わった劇場には、普段から奇妙な静けさがある。


 台詞を終え。


 衣装を脱ぎ。


 役者が自分の名前へ戻るまでの空白。


 だが、今朝は誰も役から降りられなかった。


 昨夜、何をしていたのか。


 誰の合図を受けたのか。


 どの名で記録されていたのか。


 それぞれが、警察の前でもう一度、自分の役を説明しなければならなかった。


     ◇


 ヴァネッサ=リードの事情聴取には、劇場二階の来賓控室が使われた。


 楕円形の小卓。


 深紅の長椅子。


 壁には、歴代の主演女優を描いた肖像画が並んでいる。


 亡国の姫。


 毒杯を持つ未亡人。


 敵王へ嫁いだ王女。


 鏡から現れる精霊。


 どの女も、最も美しく見える瞬間へ固定されていた。


 その下に座るヴァネッサは、もう《鏡の王妃》ではない。


 白い舞台衣装は証拠品として市警に預けられている。


 今は、簡素な黒い部屋着。


 化粧も落としていた。


 目元には薄い疲労の影。


 長い黒髪は結い直されず、片側の肩へ流れている。


 舞台上で見た女王より、はるかに無防備な姿だった。


 それでも。


 背筋だけは、真っ直ぐに伸びていた。


 小卓の正面にグレアム。


 その右に警察書記。


 レオンは、窓のない壁際へ立っている。


 椅子へは座らない。


 ミラベルも、少し離れた場所にいた。


 本来、新聞記者が警察の事情聴取へ同席することはない。


 だが、彼女はヴァネッサがオズリックから手紙を受け取るところを見ている。


 事件直前の状況を確認するための証人として、グレアムに呼ばれていた。


「もう一度、最初から確認する」


 グレアムが言った。


 卓上には、昨夜ヴァネッサが書いた供述書がある。


「第一幕終了後。オズリック=ヘイルから手紙を受け取った」


「ええ」


「内容は」


「第三幕の立ち位置を確認したい、と」


「それだけか」


「劇場の売却についても、話があると」


 グレアムが供述書へ視線を落とす。


「昨夜は、売却の話を書いていない」


「殺人と関係があるとは思わなかったので」


「関係があるかを決めるのは警察だ」


「今は、そう理解しています」


「手紙を受け取ったあと、仮面支度室の近くまで行った」


「はい」


「オズリックとは会っていない」


「会っていません」


「部屋へは入らなかった」


「ええ」


「扉も開けていない」


「開けていません」


「声をかけたが、返事がなかった」


「そのとおりです」


「そのまま王妃支度室へ戻った」


「はい」


 ヴァネッサの声に迷いはない。


 答えるまでの間も、ほとんど一定だった。


 書記の硬筆が紙を擦る。


 レオンは壁際から、彼女を見ていた。


 顔だけではない。


 手の置き方。


 呼吸。


 足の向き。


 答えを口にする直前の、ほんの小さな沈黙。


「以前も」


 ヴァネッサが言った。


「あなたは、そこに立っていたわね」


 レオンは答えない。


「机の横。窓の反対側。証言者が光を背負わない位置」


「今は、昔の話をしていない」


「あなたの目は、ずっと昔を見ているようだけれど」


「質問をしているのは警部だ」


「必要なら、口を挟むつもりでしょう?」


「必要なら」


「必要になってほしい顔をしているわ」


「リード嬢」


 グレアムが低く言った。


「舞台の外でも、その喋り方しかできんのか」


「舞台の外の方が、台詞を選ぶ必要がありますから」


「なら今は、事実に近い台詞を選べ」


 扉が叩かれた。


 若い警官が入り、小さな証拠箱と書類をグレアムへ渡す。


「検死院から、衣服の予備検査です」


「何が出た」


「香料です」


 ヴァネッサの指が、わずかに動いた。


 膝へ重ねていた右手が。


 左手の下へ隠れる。


 レオンは、それを見ていた。


「オズリックの王役用下衣」


 警官が書類を読む。


「右襟の内側。胸元。それから左袖へ、同一配合の香料が付着しています」


「種類は」


「白霧花。薄荷樹脂。夜薔薇。銀杉」


 ミラベルは、その香りを覚えていた。


 ヴァネッサが近くを通ったあと。


 花よりも、冷たい薄荷が長く残る。


 舞台用の濃い香油とは違う、近づいた者にしか分からない香り。


「比較試料は」


 グレアムが尋ねる。


「リード嬢の楽屋にあった私物です。調香師の製造番号も一致しています。特注品です」


「付着の状態は」


「右襟の内側へ、繊維が擦れた痕があります。香水をつけた人物が、近距離で衣服へ触れた可能性が高いとのことです」


「分かった。下がれ」


 警官が一礼し、部屋を出る。


 扉が閉じた。


「説明を」


 グレアムが言った。


「開演前に挨拶をしました」


 ヴァネッサは答える。


「そのとき、オズリックは外套を着ていた」


 レオンが口を開いた。


「香料が残っていたのは、その下の王役用下衣だ」


「外套を通して移ったのかもしれないわ」


「右襟の内側へ?」


「衣装係を介して」


「君の特注香水をつけた衣装係がいるのか」


「劇場では、衣装へ香りが移ることくらい」


「どこでオズリックへ触れた」


「覚えていないわ」


「嘘だ」


 レオンの声は、あまりにも早かった。


 グレアムが彼を見る。


「まだ俺が聞いている」


「彼女はオズリックと会っている」


「香水だけで断定するな」


「手紙を受け取り、仮面支度室へ向かった。衣服へ直接香料を残している。それでも会っていないと言う」


 レオンはヴァネッサを見る。


「扉を開けたな」


「開けていないわ」


「中へ入った」


「入っていない」


「彼の服を掴んだ」


「想像ね」


「君は、事実を一つずつ否定して、最後に残った形だけを真実と呼ぶ」


「昔も、そう思った?」


 部屋の空気が張り詰めた。


 レオンの目から、わずかな温度が消える。


「昔の話へ逃げるな」


「逃げているのは、どちらかしら」


「俺は今夜の嘘を調べている」


「本当に?」


「二人とも黙れ」


 グレアムが卓を指先で叩いた。


 一度。


 大きな音ではない。


 それでも、二人の言葉を止めるには充分だった。


「事実を先にする」


 グレアムは証拠書類を閉じた。


「リード嬢。会っていないという供述を維持するか」


「ええ」


「香料の付着を説明できなくても?」


「劇場内で移った可能性はあります」


「では、その可能性を一つずつ調べる」


 グレアムが警官へ合図した。


 扉が開く。


 入ってきたのは、イリス=セーヴァだった。


 昨夜と同じ作業着。


 髪はほどけ、目の縁が赤い。


 眠っていないのだろう。


「イリス」


 ヴァネッサの声が柔らかくなる。


「どうして」


「私が話しました」


 イリスは床を見たまま答えた。


「何を?」


「ヘイル卿から手紙が届いたあと」


 唇を湿らせる。


「ヴァネッサ様が、仮面支度室へ入ったことです」


 室内から音が消えた。


「あなたは、王妃支度室へ残っていたはずよ」


「残るよう言われました」


「なら、見ていないでしょう」


「あとを追いました」


 イリスの指が震えている。


「心配だったんです。ヘイル卿が、またあなたへ何かするのではないかと」


「廊下のどこまで行った」


 グレアムが尋ねる。


「角までです。ヴァネッサ様が扉を開けるところを見ました」


「中にいたのは」


「ヘイル卿です」


「顔を見た?」


「はい。まだ仮面をつけていませんでした。王役の下衣を着て、机の前に立っていました」


「会話は」


「扉が閉まったので、ほとんど聞こえません」


「ほとんど?」


 イリスはヴァネッサを見る。


「話して」


 ヴァネッサが静かに言った。


 もう止めようとはしなかった。


「ヴァネッサ様が」


 イリスは息を吸う。


「《あの記録を、誰かへ渡すつもりなの》と」


「誰か、とは?」


「分かりません」


「オズリックは」


「売却へ協力すれば、記録は見せないと」


 グレアムの目が細くなる。


「そのあと」


「何かが倒れる音がしました」


「中へ入ったか」


「怖くて、できませんでした」


「ヴァネッサが出たのは」


「二、三分後です」


「オズリックは、生きていた?」


「はい」


 イリスは、今度は迷わなかった。


「ヴァネッサ様が廊下へ出たあと、ヘイル卿が扉の奥から言いました」


「何と」


「《第二幕が終わるまでに考え直せ》と」


 ヴァネッサが退室したあと。


 オズリックは、言葉を発している。


 少なくとも。


 その時点では生きていた可能性が高い。


「なぜ昨夜、話さなかった」


 グレアムが尋ねる。


「ヴァネッサ様が、会っていないと」


「供述を合わせた?」


 イリスは答えなかった。


 沈黙が答えだった。


「イリス」


 ヴァネッサが呼ぶ。


「ごめんなさい」


「あなたが謝らないでください」


 イリスは、ようやく彼女を見る。


「嘘をつけば、もっと疑われるのに」


「分かっていたわ」


「なら、どうして」


 ヴァネッサは答えなかった。


 グレアムが警官へ合図する。


「いったん外で待て。あとで正式な供述を取る」


 イリスが立ち上がる。


 扉へ向かう途中。


「私の登録名のことなら」


 ヴァネッサが言った。


「あなたが守る必要はないわ」


 イリスの足が止まる。


「でも」


「自分の名は、自分で守りなさい」


 イリスは何も答えず、部屋を出た。


     ◇


「会ったな」


 グレアムが言った。


「ええ」


 ヴァネッサは、今度は否定しなかった。


「なぜ嘘をついた」


「会ったことを認めれば、話さなければならないことが増えるから」


「何を」


「過去の事件を」


 ヴァネッサはレオンを見た。


「《赤薔薇仮面舞踏会事件》」


 その名が落ちた瞬間。


 レオンの姿勢が、わずかに硬くなった。


 ミラベルは、煤鳩亭でマルタが一度だけ口にした事件名を思い出す。


 レオンが、それ以上を話すなと制した名。


「オズリックが何を持っていた」


 レオンが尋ねた。


「私の最初の供述書」


「正式記録へ入る前の原供述か」


「ええ」


「何が違う」


 グレアムが聞く。


 ヴァネッサは、しばらく黙った。


「ある人物を、西回廊で見た時刻」


「最初の供述では?」


「鐘が鳴ったあと」


「訂正後は」


「鐘が鳴る前」


「それで」


 グレアムは言う。


「その人物には、殺人時刻のアリバイができた」


「ええ」


「誰だ」


「言えません」


「今も?」


「今もです」


「犯人を庇ったのか」


「違う」


 ヴァネッサの返答は速かった。


「その人は殺していない」


「なぜ断言できる」


「それ以上は話さないわ」


 レオンが一歩、小卓へ近づく。


「君は時刻を変えた」


「ええ」


「俺は、その証言を信じて捜査を変えた」


「知っている」


「誰を守った」


「言わない」


「俺を騙してまで?」


「ええ」


「今も、守る必要がある?」


「あるわ」


「死者か」


「答えない」


「生きている?」


「答えない」


 レオンの手が、小卓の縁へ触れる。


 白くなるほど強く握ってはいない。


 だが。


 感情を押さえるため、そこへ手を置いたことは分かった。


「オズリックは、その原供述を使った」


 グレアムが割って入る。


「何を要求した」


「劇場売却への協力です」


「劇場の顔である君が、売却を支持する」


「後援者会議で発言し、新聞へ寄稿するように、と」


「断れば、偽証を公表する」


「ええ」


「守った者の名も?」


「おそらく」


「だから、仮面支度室で口論になった」


「そうです」


「衣服へ触れたな」


「供述書を取り戻そうとして、右襟を掴みました」


「香水は、そのときに」


「移ったのでしょう」


「殺意は」


「ありました」


 書記の硬筆が一瞬止まり。


 また動き始める。


「殺してはいない」


 ヴァネッサは続けた。


「私が部屋を出たあとも、オズリックは話していた。イリスが聞いている」


「イリスが嘘をついている可能性は」


 レオンが言う。


「あるでしょうね」


「君を守るために」


「ええ」


「君は過去にも、誰かを守るため証言を変えた」


「ええ」


「なら」


「レオンさん」


 ミラベルの声が、二人の間へ入った。


 レオンが振り返る。


 ミラベルは壁際から動いていない。


 だが、視線を逸らさなかった。


「あなたは、この人が嘘をついたことを調べているんですか」


 部屋が静まる。


「それとも」


 ミラベルは続けた。


「昔あなたを騙したことを、責めているんですか」


 レオンの表情が止まった。


「同じことだ」


「違います」


「過去に偽証した証人だ。現在の供述の信用性へ関わる」


「今夜の嘘は、もう分かりました」


「まだ全部とは限らない」


「だから調べるんです」


「調べている」


「昔の答えを聞こうとしているように見えます」


 ミラベルの声は大きくなかった。


 それでも、一歩も引かなかった。


「ヴァネッサさんは、オズリックさんと会ったことを隠した。香水が残っていた。脅迫され、殺意もあった」


 そこで区切る。


「でも、部屋を出たあとにオズリックさんが話したという証言もある」


「イリスの証言だ」


「なら、イリスさんの証言を調べる」


「彼女も偽名を」


「偽名を使った人は、見たことまで全部嘘になるんですか」


 レオンは答えなかった。


「嘘をついた部分と」


 ミラベルは言う。


「本当の部分を分けましょう。あなたが、いつもほかの証人へしているように」


 短い沈黙。


 レオンの手が、小卓から離れた。


 ヴァネッサがミラベルを見ている。


 笑ってはいない。


 相手の望む表情を作る女が。


 今だけは、どの顔を見せるべきか決められないように見えた。


「あなた」


 やがて言う。


「彼より厳しいのね」


「なぜですか」


「信じるとも、許すとも言わない」


「どちらも、まだ調べていませんから」


 ヴァネッサの口元へ、ごく小さな笑みが現れた。


「よい記者になるわ」


「今は証人です」


「そういうところがよ」


 グレアムが椅子へ座り直した。


「現在の事件へ戻す」


 レオンへ一度だけ視線を向ける。


「異論は」


「ない」


 声は、まだ硬かった。


 だが。


 質問の向きは、過去から今夜へ戻っていた。


     ◇


「仮面支度室での会話を、最初から」


 グレアムが言った。


「オズリックは、王役の下衣を着ていました」


 ヴァネッサが答える。


「机の上へ、私の原供述書を置いていた」


「原本と確認したのか」


「自分の署名を見ました。紙の端に、当時つけた小さな傷もあった」


「取り返そうとした」


「ええ」


「それで襟を掴んだ」


「オズリックが書類を引き、机の燭台が倒れました。イリスが聞いた音は、それでしょう」


「首へ手をかけた?」


「いいえ」


「紐を持っていた?」


「いいえ」


「部屋を出たとき、オズリックは」


「立っていました」


「怪我は」


「ありません」


「何と言われた」


「第二幕が終わるまでに、売却への協力を決めろと」


「ほかに、誰かを見たか」


「黒布を運んでいた係員が二人。顔は見ていません」


「舞台監督席は」


「マティアスがいました」


「本人と確認した?」


「遠くからです。灰色の服と、帳面が見えた」


「顔は」


「はっきりとは」


 レオンが反応した。


 だが口は挟まなかった。


 見えたものと。


 そこにいると思った人物。


 観客たちの証言と同じだった。


 ここでも、二つを分けなければならない。


「もう一つ」


 グレアムが言った。


「第三幕の声について、昨夜より詳しく話せ」


 ヴァネッサの目が変わった。


 過去を問われた女の目ではない。


 自分の仕事について話す、舞台女優の目だった。


「あれは、午後の音響確認で記録した声です」


「似ていた、ではなく?」


 ミラベルが尋ねる。


「同じだったわ」


「なぜ、断言できるんですか」


 ヴァネッサは少し考え。


 卓上の水差しを見た。


「一杯いただける?」


 書記が硝子杯へ水を注ぐ。


 ヴァネッサは一口だけ飲んだ。


 それから。


 オズリックの台詞を再現した。


 声色は、まったく似ていない。


 女の声。


 だが。


 呼吸と間だけが、昨夜の第三幕と重なった。


 言葉を発する直前。


 喉の奥で、ごく小さな音が鳴る。


「名は滅びぬ」


 短い息。


「役に」


 一拍。


「残る」


 最後の音で、わずかに息が抜ける。


「午後の確認で」


 ヴァネッサは説明した。


「オズリックは、最初は台詞を続けて読んだ。でも共鳴管を通すと、《役に残る》の部分が潰れた。音響係が、文と文の間を長く取るよう指示したの」


「第三幕でも同じ間だった」


 レオンが言う。


「ええ」


「稽古どおりに話しただけでは」


「同じ人間が同じ台詞を言っても、完全に同じ音にはならないわ」


 ヴァネッサは、自分の喉へ指を当てる。


「呼吸は毎回変わる。身体の緊張。相手の顔。客席の静けさ。喉の乾き。舞台では、同じ台詞を二度言っても、同じにはならない」


「何が一致した」


「最初の喉鳴り」


「癖では?」


「午後の一度だけよ。音響確認の前に香料入りの葉巻を吸って、喉が乾いていた」


「ほかには」


「《滅びぬ》の最後が、共鳴管の金属音へ重なるところ」


 ヴァネッサは目を閉じる。


 舞台上の音を思い出している。


「二つの文の間に、遠くで小さな金属音が入っていた」


「金属音?」


「工具を落としたような音。午後の確認で、舞台下から聞こえたものよ」


「第三幕の声にも入っていた」


「同じ位置に。同じ長さで」


 ミラベルの背筋へ、冷たいものが走る。


 話す者の癖だけではない。


 偶然混じった雑音まで、同じ。


「午後に蝋管へ記録された声が」


 ミラベルが言う。


「第三幕で再生された」


「そう」


 ヴァネッサは断言した。


「オズリックが似た台詞を言ったのではない。あれは、午後のオズリックだった」


 室内が静まる。


 レオンは彼女を見ている。


 昔の証人を追及する目ではなかった。


 女優の職能から得られた証言を、手掛かりとして測る目。


「蝋管そのものは、まだ見つかっていない」


 彼は言った。


「分かっているわ」


「音響係の証言と、保管記録も必要だ」


「ええ」


「それでも、今の証言は記録する」


 レオンは手帳を開いた。


 喉鳴り。


 二文の間。


 息の抜け方。


 金属音。


 一つずつ書き留める。


 ヴァネッサは、その鉛筆の動きを見ていた。


 過去の事件でも。


 レオンは、同じ手で彼女の証言を書いたのだろう。


 あのとき。


 彼は彼女の言葉を信じた。


 今回は違う。


 信じたから書くのではない。


 疑っているから捨てるのでもない。


 検証すべき証言として残す。


 それが今の二人にできる、最も正確な応答だった。


     ◇


 事情聴取が終わったあと。


 ヴァネッサは扉の前で足を止めた。


「警部」


「何だ」


「私を逮捕する?」


「今の段階ではしない」


「今の段階」


「香水。殺意。偽証。充分疑わしい」


「正直ね」


「だが、部屋を出たあとにオズリックが生きていたという証言もある。殺人の証拠は、まだない」


「イリスが私を庇っているかもしれないわ」


「それも調べる」


 グレアムは答えた。


「過去に誰を守ったかも?」


 レオンが尋ねる。


 ヴァネッサは彼を見る。


「今は言わない」


「いつなら言う」


「あなたが、答えを聞くことと、答えを得ることを分けられたとき」


「また台詞か」


「いいえ」


 ヴァネッサの表情から、微笑みが消える。


「これは拒絶よ」


 扉を開ける。


 廊下には、イリスが待っていた。


 二人は、すぐには言葉を交わさない。


 イリスが黒い外套を持ち上げ。


 ヴァネッサの肩へかける。


 女優と衣装係ではなく。


 一晩を共に耐えた二人の女として。


 そのまま、廊下を歩いていった。


     ◇


「どうする」


 グレアムが尋ねた。


「音響係と蝋管保管庫を調べ直す」


 レオンは手帳を閉じる。


「共鳴管の経路も」


「ブロムを呼び戻すか」


「その前に、煤鳩亭へ戻る」


「寝るのか」


「資料を見る」


「お前の部屋に、月硝子劇場の音響図があるのか」


「俺の部屋にはない」


「では、どこに」


 ミラベルが気づいた。


「マルタさんですね」


「亡夫が、月硝子劇場の蒸気配管を修理していた」


 煤鳩亭を出る前に聞いた話。

 古い儀礼堂の壁の中で音が返る。


 舞台下の圧が合わない。


「ドランさんの修理記録に、音響管も残っているかもしれない」


 ミラベルが言う。


「少なくとも、現在の図面にない配管を知っていた可能性がある」


「俺も行く」


 グレアムが立ち上がった。


「警部は休まなくていいんですか」


「殺人犯が寝ているかもしれんのに、警察が先に寝られるか」


「犯人は、もう充分眠ったかもしれない」


 レオンが言う。


「縁起でもないことを言うな」


 三人は来賓控室を出た。


 廊下の窓へ。


 朝の灰色の光が滲んでいる。


 舞台ではまだ。


 空の玉座が、警察の白い境界線に囲まれていた。


 声を失った仮面。


 人を失った王衣装。


 動きを止めた舞台機械。


 ヴァネッサの証言が正しければ。


 第三幕で五百人が聞いたのは。


 死者が、その場で発した最後の言葉ではない。


 彼がまだ生きていた午後。


 蝋管の上へ残した、過去の声だった。


 ならば。


 次に調べるべきものは、死者の喉ではない。


 その声を保存し。


 正しい瞬間に仮面へ送り込んだ。


 劇場の仕組みだった。

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