第6節 ― 五百人の目撃者
終演予定時刻を一時間過ぎても、月硝子劇場の客席から人影は消えなかった。
舞台上の王宮は、解体を禁じられている。
黒い幕も下ろされたまま。
楽団員は楽器を抱えて壁際へ座り、役者たちは化粧を落とすことも許されず、衣装の上へ外套を羽織って待っていた。
観客は、一階、二階、三階に分けて座席へ戻されている。
正面玄関は閉鎖。
側面の非常口と舞台搬入口には警官が立ち、外へ出られるのは検死官と市警の伝令だけだった。
最初のうち、観客たちは怒っていた。
馬車を待たせている。
子どもを家へ残している。
明朝には契約法院へ出なければならない。
市政議員を、いつまで拘束するつもりだ。
後援会へ寄付している者を、犯罪者のように扱うな。
だが。
舞台で死んでいたのが、オズリック=ヘイルであると知らされると。
騒ぎの質が変わった。
「まさか」
「舞台では生きていたぞ」
「私たちの目の前で殺されたというのか」
「王妃の剣が?」
「では、あの血は本物だったのか」
自分が殺人を目撃したという恐怖と。
殺人事件の証人になったという興奮。
その二つは、外から見るとよく似ていた。
人々は声を潜めながらも、隣の者へ第三幕を語った。
王が右手を掲げた。
王が最後の言葉を口にした。
王妃が剣を刺した。
血が流れた。
王が玉座へ崩れた。
語るたび。
舞台の記憶は、少しずつ輪郭を増していく。
暗かった箇所には光が入り。
遠くて見えなかったはずの動作へ形が与えられ。
隣の者の言葉が、自分の記憶にも混ざっていく。
「隣同士で話をさせるな!」
グレアムの声が客席へ響いた。
「まだ供述を終えていない者は、席を離れるな。見たことについて、同行者とも話すな!」
「もう話してしまったぞ!」
一階の男が叫ぶ。
「なら、その事実も書く!」
グレアムは舞台前へ立った。
「これから市警が取るのは第一供述だ。氏名、住所、座席番号。それから、自分が直接見たことと聞いたことだけを話せ。ほかの者が言っていたことは、別に分けろ」
客席から不満の声が上がる。
「五百人全員か」
「朝までかかるぞ」
「かかれば朝までやる!」
グレアムは怒鳴り返した。
「五百人が見たというなら、五百人分残す!」
警官たちが、白い供述用紙を配り始める。
市警の紋章。
通し番号。
氏名。
座席。
同行者。
公演中に席を立ったか。
事件を知ったあと、誰と話したか。
証言そのものだけでなく。
証言がどのような順番で作られたかも、記録されていく。
◇
「新聞社が、警察の取調べを代行することはできないわよ」
煤霧日報の夜番整理部長は、玄関広間へ入るなり言った。
五十を越えた小柄な女性。
外套の下には、仕事着のシャツと吊り紐をつけたまま。灰色の髪には、活字を直すための細いピンが一本刺さっている。
後ろには夜番記者が二人。
活字整理の若者が一人。
眠気よりも、突然大事件へ呼び出された緊張の方が勝っている顔だった。
「代行ではありません」
ミラベルが答える。
「市警が全員から第一供述を取ります。新聞社は、そのあとに参考調査をします」
「参考?」
「座席から何が見えたか、確かめるための聞き取りです。正式供述とは別に保存します」
「警察の許可は」
ミラベルは一枚の紙を差し出した。
グレアムの署名と市警印がある。
条件も書かれている。
一、市警の第一供述が終わった者だけを対象とする。
二、参加は任意。
三、新聞社の聞き取り内容は正式供述として扱わない。
四、回答者同士を同席させない。
五、捜査情報を質問の中へ含めない。
「ずいぶん細かいわね」
「警部が書きました」
「本当に?」
「半分はレオンさんです」
「でしょうね」
整理部長は、紙の最後まで目を通した。
「それで、五百人全員へ二度聞く気?」
「いいえ」
ミラベルは、玄関壁へ掲げられた座席図を指した。
一階平土間。
左右の側面席。
二階桟敷。
三階後方。
「まず、見え方が大きく違う席から選びます」
「何人」
「今夜は代表者だけ」
「やっと現実的な言葉を覚えたわね」
「全員分は、条件を整理してからです」
「寝不足のわりには慎重ね」
「まだ寝ていません」
「だからよ」
煤霧日報が用意した灰色の参考調査用紙は、市警の白い供述用紙とは、紙質も書式も異なっていた。
上部には大きく、
――捜査上の正式供述ではない。
と印刷されている。
「質問は、なるべく自由に答えてもらってください」
ミラベルが記者たちへ説明する。
「最初から《王は腕を上げましたか》とは聞かない」
「では、何と?」
「第三幕で最初に記憶していることは何か。王について何が見えたか。声はどこから聞こえたか」
「公演冊子を読んだかも?」
「最後に確認します。先に訊くと、それを意識した答えになるかもしれません」
「記事に使うの?」
「まだ使いません」
「これだけ人を呼んでおいて?」
「何が起きたのか分からないうちは、怪異の記事にしたくありません」
整理部長がミラベルを見る。
「死者が動いた、と書けば売れるわよ」
「だから、書けません」
その答えに。
整理部長は、わずかに口元を緩めた。
「その判断だけは、朝刊の締切より大事ね」
そこへ。
黒い礼装の小柄な男が近づいてきた。
エル=ネフリド。
片手には真鍮の鋏。
もう片方には、切り取られた入場券の半券を持っている。
「こちらを、お使いになりますか」
「半券?」
ミラベルが受け取る。
一階。
二階。
三階。
桟敷。
すべて座席番号順に分けられていた。
「誰が、どの席へ入ったか分かります」
「入場券は、そのためにございます」
「市警へ渡しましたか」
「写しを取ったあと、原券は警部へ」
確かに、束の上には市警の確認札がついている。
グレアムの署名まであった。
「あなたが整理したんですか」
「皆様をお席へお戻しする際に」
「頼まれる前から?」
「入場した方が、どの席から退場されるのか。確認するのは案内係の役目です」
「あなたは本当に、劇場の案内係なんですか」
エル=ネフリドは微笑んだ。
「今夜は、そのように振る舞っております」
整理部長が、彼の背中を見送る。
「誰、あれ」
「私も調査中です」
「警察の第一供述は?」
「まだ受けていないと思います」
「先にあの人を捕まえた方がよくない?」
「グレアム警部にも伝えてあります」
「それで自由に歩いてるの?」
「役に立っているので」
「あなたの周り、そういう人間が多すぎるわ」
「最近、私もそう思います」
◇
三階席は、舞台から遠かった。
階段を上るほど、劇場の装飾は簡素になる。
一階には厚い絨毯。
二階には個別の桟敷と葡萄酒用の小卓。
三階まで上がると、床は裸の木板になり、椅子の幅も狭かった。
最後列から見下ろせば。
舞台上の人間は、指ほどの大きさにしか見えない。
ミラベルが参考調査の対象に選んだ最初の証人は、三階後方左端に座っていた印刷工だった。
若いヒト族の男。
安い上着の胸ポケットへ、公演冊子を丁寧に折って入れている。
市警の第一供述は、すでに終わっている。
白い用紙には、
――王が右手を掲げ、王妃を見つめて台詞を言った。
と記録されていた。
「もう一度、同じことを話すんですか」
男は少し苛立っていた。
「警察の供述とは別です」
ミラベルは灰色の用紙を示す。
「あなたの席から、どのように見えたかを確かめます。答えたくない質問には答えなくても構いません」
「新聞へ名前は」
「同意なしでは出しません」
「なら、どうぞ」
ミラベルは舞台を指した。
「第三幕で、最初に覚えている王の動きは?」
「右手を上げた」
「どのように?」
「高く掲げた」
「どこまで上がりましたか」
男は、答えようとして止まった。
「高くです」
「頭より上?」
「そこまでは」
「肩より上?」
「上がったのは見えました」
「腕の付け根も見えましたか」
男は自分の席へ座り直し、舞台を見下ろした。
「前の客の帽子が邪魔だった」
「では、見えたのは」
「黒い袖と手袋です。明るいところへ出た」
「肘は?」
「たぶん」
「肩は?」
「だから、腕を上げたんです」
声に苛立ちが戻る。
「疑っているのではありません」
「なら、なぜ同じことを聞く」
「あなたが見た形を、できるだけそのまま残したいんです」
「手袋が上がった。黒い袖も見えた。それが腕を上げたということだ」
ミラベルは、そのまま書いた。
――黒い手袋と袖が、照明の中へ上がった。
「王の顔は?」
「王妃を見ていた」
「仮面の目が見えましたか」
「目は見えない」
「顔の向きは」
「正面から、少し左」
「その方向に王妃がいた?」
「いた」
「では、《見ていた》と判断したのは?」
男は、初めて質問の意味が分からないような顔をした。
「王妃へ顔を向けていたんだ」
「見つめていた?」
「そうです」
「目は見えていない」
「仮面だから当然でしょう」
「でも、見つめていたと供述されています」
男の手が、胸ポケットへ伸びた。
折っていた公演冊子を取り出す。
第三幕の頁を開く。
「そういう場面だからです」
「そういう場面?」
「王妃が名を返せと言う。王は王妃を見て、最後の言葉を告げる」
頁の一文を指でなぞる。
王は右手を掲げる。
鏡の王妃を見つめ、最後の言葉を告げる。
「私は、これを見た」
ミラベルは公演冊子へ目を落とした。
だが。
用紙へは、まだ何も書き足さなかった。
「声は、どこから聞こえましたか」
「舞台です」
「中央?」
「王の仮面から」
「方向を意識しましたか」
「王が喋ったんだから、王からでしょう」
「音そのものは」
男は耳を澄ますように、舞台を見た。
「少し上から回ったかもしれない。でも、この劇場は音が響く」
「台詞は覚えていますか」
「名は滅びぬ。役に残る」
淀みがない。
「そのあとの王の動きは?」
「王妃に刺され、玉座へ沈んだ」
ミラベルは、灰色の用紙へ記録した。
黒い手袋と袖が上がった。
顔の方向は、正面より少し左。
目は見えなかった。
声の方向は、はっきりしない。
それでも。
正式供述には、
――王妃を見つめた。
と書かれている。
◇
二人目は、三階中央席の老婦人だった。
銀細工の柄がついた、小型の観劇鏡を持っている。
「ヴァネッサ=リードの顔を見に来たのですもの」
老婦人は誇らしげに言った。
「第三幕では、王も観劇鏡で?」
「ええ」
「王の目が見えましたか」
「仮面ですよ」
「では、視線は?」
「王妃を見ていました」
ミラベルは観劇鏡を借り、同じ席へ座った。
舞台中央には、証拠として残された空の玉座がある。
鏡面仮面は別の台へ載せられていたため、警官へ頼んで本番と同じ高さへ掲げてもらった。
観劇鏡を覗く。
黒い仮面。
輪郭。
光を返す表面。
目に見える細い溝。
そこまでは判別できる。
だが。
瞳は見えない。
どこへ焦点を合わせているのか分かる構造ではなかった。
「王の目そのものは見えません」
ミラベルが言う。
「視線は目だけで見るものではありません」
「顔の向きで?」
「雰囲気でも分かります」
「王妃は、玉座の正面にいた」
「正面にいる愛する女を、王が見ないと思う?」
「愛していることは、戯曲で分かる」
「だから、見つめていたのです」
老婦人の答えには、疑いがなかった。
「右手は、どこまで上がりましたか」
「高く掲げました」
「腕全体を見ました?」
「観劇鏡で見ています」
ミラベルは、もう一度レンズを覗く。
舞台装飾の柱が、王の右肩と一部重なる。
本番では、白い王妃の衣装もその近くにあった。
手袋が光の中へ現れるところは見える。
だが、肩から肘までの動作すべてを追うのは難しい。
「手袋が上がったところは見えます」
「手だけが飛ぶわけではないでしょう」
「もちろんです」
「なら、王が腕を掲げたのです」
老婦人は観劇鏡を受け取った。
「あなたは、舞台を機械の図面のように見るのね」
「今夜は、そう見る必要があります」
「それでは悲劇が分からないわ」
「事件が分からないよりは」
少し強く答えてしまった。
老婦人は不快そうに眉を上げたが、それ以上は言わなかった。
ミラベルは用紙へ書く。
王の目は見えていない。
王妃の位置は見えた。
手袋は見えた。
肩と肘の一部は、柱と王妃に遮られる。
それでも供述は、
――王は王妃を見つめ、右手を高く掲げた。
◇
三人目の証人は、三階右端の少年だった。
月硝子劇場で菓子を売っている。
年は十三ほど。
第三幕の直前。
空席が一つ出たため、支配人の許可を得て、そこへ座ったという。
公演冊子は持っていなかった。
「王が、王妃を見ていたのは分かりましたか」
ミラベルが尋ねる。
「分かりません」
少年はすぐに答えた。
「仮面が光ってたから。どっち向いてるのかも、よく」
「右手は?」
「黒いものが上がった」
「腕?」
「たぶん」
「どのくらい?」
少年は自分の右手を、肩の少し上まで持ち上げた。
「このくらいに見えました。でも僕の席は上から見るから、本当の高さは分かりません」
「声は?」
「右の壁から聞こえた」
ミラベルの硬筆が止まる。
「舞台ではなく?」
「舞台にも響いてた。でも、最初はあっち」
少年は客席上部の右壁を指した。
月形の装飾。
その内側に、古い音響口が隠されている。
「どうして分かったの?」
「菓子を売るとき、開演前の声を聞いてるから。三階では、舞台の声が壁から返ってくるんです」
「隣の人も、そう言っていましたか」
「いいえ。王から聞こえたって」
「オズリックさんの声でした?」
「分かりません」
「聞いたことがない?」
「顔は新聞で見たけど、話してるところは」
「台詞は覚えていますか」
少年は考えた。
「名は……」
そこで止まる。
「すみません。忘れました」
「謝らなくていいんです」
「証人なのに?」
「覚えていないことを、覚えていないと話すのも証言です」
少年は、ほっとしたように息を吐いた。
「王妃の剣は見えましたか」
「白い服が前にあったから、先は見えませんでした」
「血は」
「急に赤くなった」
「王が倒れたところは」
「見ました。前にこう」
少年は身体を折ってみせる。
その答えには。
王が王妃を見つめた、という言葉も。
自分の声で最後の言葉を告げた、という言葉もなかった。
ただ。
黒いものが上がり。
声が右壁から聞こえ。
胸元が赤くなり。
王が前へ倒れた。
見えたものが、見えた形のまま並んでいた。
◇
三人の参考調査が終わる頃。
市警の第一供述は、ようやく半数を越えていた。
玄関広間の長卓には。
警察の白い用紙と。
新聞社の灰色の用紙が、混ざらないよう別々に積まれている。
ミラベルは三人分だけを、座席図の上へ並べた。
三階後方左。
三階中央。
三階右端。
舞台からの距離は、ほとんど同じ。
だが見え方は違う。
印刷工は、前の客の帽子に肩を遮られていた。
老婦人は観劇鏡を使ったが、王の目は見えていない。
菓子売りの少年は、顔の向きも視線も分からなかった。
声についても。
印刷工は舞台中央から聞こえたと考えた。
老婦人は王の仮面からと答えた。
少年は右の壁から聞こえたと言った。
同じ舞台を見ても。
同じ音を聞いても。
受け取った情報は同じではない。
その事実だけは、三人で充分に分かった。
「結果は?」
整理部長が訊く。
「まだ結果ではありません」
「三人とも違った?」
「見えたものは違います」
「では、五百人の証言は一致していない?」
「それも、まだ言えません」
ミラベルは、市警の第一供述から複写された数枚を見た。
一階席。
二階桟敷。
三階後方。
それぞれ異なる席。
その中に。
同じ表現が何度も現れている。
――王は、鏡の王妃を見つめた。
「これです」
ミラベルは、一文へ指を置いた。
「何が?」
「視線」
整理部長が用紙を読む。
「王妃を見つめた」
「仮面に、瞳は見えません」
「顔が王妃へ向いていたんでしょう」
「正面に立っていましたから」
「なら、おかしくない」
「印刷工の席からは、仮面の輪郭しか見えない。観劇鏡を使った婦人にも、目は見えない。少年は、どちらを向いているか分からなかった」
「少年は《見つめた》と話していない?」
「はい」
「冊子も読んでいない」
「はい」
整理部長が公演冊子へ目を向けた。
ミラベルも見た。
第三幕の頁。
だが、まだ開かなかった。
今ここで。
先に書かれた筋書きが、証言へ影響したと結論づければ。
明日の調査は、その結論を確かめるためだけの作業になる。
別の可能性を見落とすかもしれない。
「ミラベル」
回廊からレオンが現れた。
上着を脱ぎ、片腕へ掛けている。
白いシャツの袖口には、玉座を調べた際についたらしい黒い油が残っていた。
「何か見つけた顔だ」
「見つけたというより、見えなかったものがあります」
「説明しろ」
「王の視線です」
「視線?」
「複数の証人が、《王は王妃を見つめた》と話しています」
「演目では、そうなっている」
「でも、仮面には目がない。観劇鏡を使っても、どこを見ているか分からない」
「顔の向きは」
「王妃は正面に立っていました。顔が正面なら、王妃の方角ではあります」
「では、見つめたと判断した」
「判断したのか」
ミラベルは白い供述用紙を見る。
「見たのか」
言葉を分ける。
「その違いが、まだ分かりません」
レオンは、一枚の供述を手に取った。
三階最後列。
――王は右手を高く掲げ、鏡の王妃を見つめた。
「この席から、仮面の角度を確かめる」
「今から?」
「見えるかどうかは、座れば分かる」
「公演冊子は?」
ミラベルが尋ねた。
「まだ見るな」
「どうして」
「先に答えを読むと、君も同じものを見る」
ミラベルは公演冊子へ伸ばしかけた手を止めた。
◇
二人は、誰もいなくなった三階最後列へ上がった。
観客の聞き取りは、一階と玄関広間へ移されている。
三階には、警察官が一人いるだけだった。
ミラベルは、問題の供述者が座っていた席へ腰を下ろす。
レオンは一つ隣。
舞台中央には空の玉座。
証拠の鏡面仮面は、舞台脇の台へ置かれている。
警官へ頼み、本番と同じ高さへ仮面を掲げてもらった。
「王妃の位置は、舞台左寄りの正面です」
ミラベルが声をかける。
警官が仮面を、わずかに左へ向けた。
「どう見えますか」
「輪郭が少し細くなった」
「視線は?」
「分からない」
「正面へ」
仮面が動く。
月白色の作業灯が、黒い表面を滑る。
「王妃を見ているように見えますか」
「王妃の位置を知っていれば」
レオンは答えた。
「そう考えることはできる」
「見えるのではなく?」
「目は見えない」
「では、どうして《見つめた》と」
「それが第三の問いだ」
検分の際、黒い背景板へ書き出した問いが、再び浮かび上がる。
なぜ五百人は、死者を生者だと信じたのか。
レオンは席を立った。
「今夜は、ここまでにしろ」
「証言は、まだ半分です」
「警察の第一供述は続ける。新聞社の調査は、証言同士がこれ以上混ざる前に、条件を整理してから再開しろ」
「今すぐ全員へ聞かなければ、記憶が変わります」
「すでに変わり始めている」
階下から。
観客が同じ場面を語る声が、かすかに聞こえてくる。
「だからこそ」
レオンは言う。
「誰と話したあとに、どの言葉を使ったかも残せ」
「冊子を読んだ時刻も?」
「開演前か。幕間か。事件後に読み返したか」
「そこまで?」
「記憶が作られた順番を調べるなら必要だ」
「何が記憶を作ったと思っているんですか」
「まだ答えない」
「分かっている顔です」
「仮説と証明を混ぜるなと言ったのは君だ」
ミラベルは反論できなかった。
「今、確かなのは」
レオンは舞台上の仮面を見る。
「目のない王の視線を、複数の人間が見たと語っていることだけだ」
黒い鏡面には。
遠い三階席の二人は映っていない。
王妃も。
オズリックもいない。
ただ、作業灯の白い光だけが浮かんでいた。
◇
同じ頃。
舞台裏の支配人室では、劇場関係者の行動確認が続いていた。
グレアムは、容疑者を一堂に集めなかった。
一人ずつ。
別の部屋で。
ほかの者が何を話したか知らせずに聞いている。
壁には、『鏡王の終幕』の古い公演画。
机には、劇場の見取図、勤務表、鍵の貸出記録。
そして。
黒革の上演記録簿が、証拠袋へ入れられて置かれていた。
最初に呼ばれたのは、ブロム=ガドル。
革の前掛けをつけたまま、椅子へ浅く腰掛けている。
「第一幕終了後は、どこにいた」
「舞台下だ」
「ずっと?」
「途中で西側昇降機へ移った」
「理由は」
「荷台が沈んだ。第二幕の鏡を上げる前に直した」
「一人か」
「若い技師が三人」
三人は別々に、すでに同じ内容を話している。
故障した部品。
ブロムが怒鳴った言葉。
交換に使った工具。
細部には違いがある。
だが、ブロムが第二幕直前まで舞台下にいた点は一致していた。
「一人になった時間は」
「部品箱を取りに奥へ入った。三分ほど」
「三分で、人を絞められるか」
「俺の腕ならな」
グレアムの目が細くなる。
「殺したあとの話だ。王衣装へ入れ、玉座へ固定できるか」
「無理だ」
ブロムは即答した。
「王衣装は、一人で着せるように作ってない。身体が動かなけりゃ、なおさらだ。衣装枠へ乗せ、肩と腰を締め、腕甲と補助棒をつなぎ、仮面を留める」
「必要な時間は」
「慣れた二人でも十数分。一人なら、もっとだ」
「手順を知る者は」
「衣装係。舞台監督。俺」
「ローウェルは」
「あいつは自分の外套も人に着せてもらう」
書記が硬筆を止めた。
「最後も書くんですか」
「全部書け」
「支配人に怒られるぞ」
「死人が一人いる。今夜は生きた支配人の機嫌まで気にせん」
◇
イリス=セーヴァは。
部屋へ入る前に、警官から名前を尋ねられた。
「リリア=ノアです」
最初は、そう答えた。
「本名を」
警官が言う。
イリスの顔が強張る。
支配人室の中から、グレアムの声がした。
「イリス=セーヴァで記録しろ」
彼女は驚いた顔で部屋へ入った。
「座れ」
「私は何も」
「まだ、何をしたとも言っとらん」
イリスは椅子へ腰を下ろす。
両手を膝へ重ね、針傷のある指先を隠すように握った。
「第一幕終了後」
「王妃支度室にいました」
「誰と」
「ヴァネッサ様。衣装係が二人」
「途中で離れたか」
「いいえ」
「仮面支度室へは」
「行っていません」
「王役へ衣装を着せたのは誰だ」
イリスの唇が止まった。
「記録上は」
「名前ではなく、人間を聞いている」
「……分かりません」
「衣装係なのに?」
「王役の支度担当は、舞台監督が割り振ります」
「今夜の担当名は」
「リリア=ノア」
「お前の登録名だ」
「はい」
「だが、お前は王妃支度室にいた」
「はい」
「別の誰かが、その名で王役を支度した?」
イリスは答えなかった。
グレアムも、机を叩かなかった。
ただ。
声を少し落とした。
「名前の問題と、殺人の問題は分ける」
「本当に?」
イリスが顔を上げる。
「今夜の俺は、人を殺した者を探している。死人の芸名で働いた者を、まとめて犯人にする気はない」
「オズリック卿も」
彼女の声が震えた。
「最初は、同じようなことを言いました」
「何をされた」
イリスは答えない。
グレアムは、しばらく待った。
それでも口を開かないと見ると。
「今はいい」
無理に続けなかった。
「ヴァネッサが戻ったとき、何か見たか」
「手紙を胸元へ入れていました。いつもと違って」
「ほかに」
「マティアスさんが、舞台監督席にいました」
「見たのか」
「はい」
「ずっと?」
イリスは考えた。
「ずっとではありません」
「なら、なぜ席にいたと思った」
「合図が出ていたから」
グレアムは書記へ目を向ける。
「《複数回目撃。ただし継続確認なし》」
硬筆が紙を走る。
グレアムは、それ以上その答えを広げなかった。
◇
ローウェル=ハースは、椅子へ座る前から弁明を始めた。
「劇場売却は、まだ正式契約に至っていません。ヘイル卿の死で利益を得る者がいるなら、売却反対派です」
「利益の話は聞いていない」
「疑っているのでしょう」
「第一幕終了後、どこにいた」
「後援者控室。銀行家二名、興行会社の代理人、劇場会計役と話していました」
「売却価格の口論を?」
「意見交換です」
「廊下まで聞こえる意見交換か」
「金額が大きいので」
「部屋を出たか」
「一度だけ。会計帳簿を取りに執務室へ」
「一人で」
「はい」
「時間は」
「五分ほど」
「仮面支度室へは行けるな」
「行っていません」
「証明できる者は」
「いません」
「ヘイルに死んでほしかったか」
「嫌いでした」
ローウェルは、少し間を置いて答えた。
「ですが、死なれると困る」
「正直だな」
「劇場経営では、感情と損得は一致しません」
「殺意とも?」
「その言い方はやめていただきたい」
「なら、殺意はなかったと証明しろ」
「悪魔の証明です」
「警察の事情聴取だ。講義ならモリアン教授に頼め」
ローウェルの顔が引きつった。
◇
マティアス=ロウが呼ばれたのは、午前一時を回ってからだった。
事件時と同じ灰色の作業服。
ただし。
いつも携えていた黒革の上演記録簿は、証拠袋の中にある。
「座れ」
「はい」
「第一幕終了後から第二幕開始まで」
グレアムは尋ねる。
「舞台監督席にいましたか」
「原則として」
「原則?」
「席の後ろの資料棚。合図盤。舞台袖との間は移動しました」
「仮面支度室へは」
「行っていません」
「王役の支度確認は」
「担当の衣装係へ任せました」
「リリア=ノア?」
「登録上は」
「その名前を何人が使っている」
短い沈黙。
「今夜の殺人と関係があるでしょうか」
「答えるかどうかを決めるのは俺だ」
「正式な雇用記録を持たない者もおります」
「何人だ」
「今は、申し上げられません」
「舞台監督なのに把握していない?」
「把握しているから、申し上げられないのです」
マティアスの声は静かだった。
グレアムは、追及をいったん止める。
「休憩中、誰がお前を見た」
「多くの者が」
「何時に」
「正確な時刻までは」
「誰かが、ずっと見続けていたか」
「舞台裏には大勢います」
「大勢いる場所ほど、一人を見続ける者はいない」
マティアスは答えなかった。
「合図は、誰が出していた」
「第二幕の定型合図は、副舞台監督へ任せた箇所があります」
「その供述は、開演前の説明とも一致しているな」
グレアムは書記の確認票を見る。
「変更があれば、お前が判断する」
「はい」
「変更はあったか」
マティアスは考えた。
「ヴァネッサ=リードが、第二幕終盤で予定より長く間を取りました」
「何秒」
「測っていません」
「上演記録には」
「一分未満の遅れは、通常記しません」
室内の隅へ立っていたレオンが、初めて口を開いた。
「上演記録簿は、いつ書く」
「報告を受けた時点です」
「実際の時刻を」
「はい」
「予定と違えば」
「赤線で訂正し、実時刻を書きます」
「第二幕の二十七秒は」
マティアスの目が、わずかにレオンへ向く。
「演出上の範囲です」
「時刻はずれる」
「一分未満です」
「分をまたげば?」
少しの間。
「その場合は、必要に応じて記します」
レオンは、それ以上質問しなかった。
今はまだ。
記録簿の数字を検証していない。
「最後に、生きたオズリックを見たのは」
グレアムが話を戻す。
「第二幕前、舞台袖で進行を確認したときです」
「第三幕前は」
「王衣装を着て玉座へ座っている姿を確認しました」
「顔は」
「仮面の中です」
「声は」
「喉を休める予定でしたので、聞いていません」
「動いたか」
「近づいたとき、わずかに頭が動いたように」
「本当に?」
マティアスは誤魔化さなかった。
「仮面と冠の重さで揺れた可能性もあります」
「つまり、第三幕前に生きていたとは確認していない」
「はい」
その一語が、静かに部屋へ落ちた。
劇場の全員が信頼していた舞台監督も。
仮面の奥に、生きた王がいるとは確かめていなかった。
「今日はここまでだ」
グレアムが言う。
「劇場から出るな」
「承知しました」
マティアスは立ち上がった。
「警部」
「何だ」
「第三幕までの合図は、すべて通常どおり出されています」
「だから?」
「舞台は、予定された順序で進みました」
「人が死んでいてもか」
マティアスの表情が、初めて曇った。
「そういう意味ではありません」
「なら、言葉を選べ」
「はい」
マティアスは一礼し、部屋を出た。
扉が閉じる。
グレアムは、証拠袋の黒い記録簿を見る。
「どう思う」
「今は、何も決めない」
レオンが答えた。
「珍しく慎重だな」
「観客の証言と同じだ。見えていない部分を、先に埋めるな」
◇
午前二時を過ぎると。
第一供述を終えた観客から、少人数ずつ退場が許された。
氏名。
住所。
座席番号。
公演中に席を立ったか。
事件後、誰と話したか。
すべてを記録された者だけが、正面玄関へ案内される。
エル=ネフリドは、最後まで扉の脇に立っていた。
「お出口はこちらでございます」
「ようやくか」
「長らくお待たせいたしました」
「二度と来るものか」
「次回公演の予定は、まだ発表されておりません」
「そういう意味ではない!」
怒る客にも。
泣いている客にも。
同じ穏やかな礼を返す。
グレアムが玄関へ現れたとき。
最後の一団が、霧の中へ出るところだった。
「案内係」
呼び止める。
エル=ネフリドが振り返った。
「はい」
「第一供述がまだだ」
「わたしも目撃者でしょうか」
「舞台を見ていないのか」
「入場される方々を見ておりました」
「第三幕は」
「最後列から」
「なら証人だ。名前を」
男はシルクハットの縁へ指を添えた。
「エル=ネフリドとお呼びください」
「住所」
「今夜の役目は、こちらで終わりです」
「質問へ答えろ」
玄関前へ馬車が到着した。
車輪の音。
従者が扉を開く声。
一瞬だけ。
グレアムの視線が外へ向いた。
再び正面を見たとき。
黒い礼装の男はいなかった。
階段にも。
玄関広間にも。
開いた扉の向こうにも。
案内台の上へ、真鍮の鋏だけが残されている。
「……またか」
グレアムは低く呟いた。
◇
夜明け前。
月硝子劇場の乳白色の窓が、朝の灰色へ変わり始めていた。
警察の第一供述は、全観客分の受付を終えている。
詳細な再聴取が必要な者には、後日出頭するよう通知された。
煤霧日報が行った座席別の参考調査は、まだ三人だけ。
印刷工。
観劇鏡を持つ老婦人。
公演冊子を持たない菓子売りの少年。
わずか三人。
それでも。
三人が同じ舞台から得たものは、同じではなかった。
見えた腕の範囲。
仮面の向き。
声の方向。
剣先。
血。
それぞれが違う。
ミラベルは、三枚の灰色の用紙を並べた。
その横には。
市警が取った第一供述の複写が、数枚だけ置かれている。
異なる座席。
異なる身分。
互いに面識のない者たち。
それでも。
同じ言葉が、繰り返し書かれていた。
――王は、鏡の王妃を見つめた。
ミラベルは公演冊子を開かなかった。
まだ。
答えを確かめる段階ではない。
赤い鉛筆で、その一文だけを囲んだ。
「分かったのか」
レオンが背後から尋ねる。
「いいえ」
「なら、なぜ印を」
「分からないことが、分かったからです」
「何が分からない」
ミラベルは三階席を見上げた。
「見えるはずのない王の視線を」
目のない鏡面仮面。
「どうして、何人もの人が見たと話しているんでしょう」
レオンは答えなかった。
窓の外で、朝一番の高架列車が走る。
鉄輪の響きが、月硝子をかすかに震わせた。
五百人の目撃者は。
確かに同じ舞台を見ていた。
だが。
彼らが何を見たのかは。
まだ、一つの証言にはなっていなかった。




