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第5節 ― 開演前に死んでいた男

 月硝子劇場の舞台から、物語が剥がされていった。


 背景の月は消されていない。


 黒い王宮も、そのまま残されている。


 玉座の周囲には、鏡の破片を模した硝子糖が散り、床には舞台用の赤い染料が飛び散っていた。


 それでも。


 観客の目を王妃へ導いていた月白色の照明が落とされ、代わりに警察の作業灯が点けられた瞬間。


 そこはもう、悲劇の王宮ではなかった。


 白く。


 平坦で。


 容赦のない光。


 その下で、黒い柱は彩色された板へ戻る。


 銀の剣は、刃が柄へ沈む小道具へ戻る。


 鮮血は、床へこぼれた赤い染料へ戻る。


 そして。


 玉座へ座っていた《名なき王》も、役ではなくなった。


 オズリック=ヘイル。


 六十二歳。


 元契約法院特別監査官。


 月硝子劇場後援会会長。


 黒い鏡面仮面を外された男は、玉座へ固定されたまま、作業灯の下へ顔を晒している。


 舞台上では、あれほど大きく見えた身体だった。


 王冠と黒衣をまとい。


 右手を掲げ。


 五百人を見下ろしていた身体。


 だが役を剥がされると。


 高い玉座と重い衣装の中へ埋もれ、不自然なほど小さく見えた。


 冠。


 鏡面仮面。


 引き込み式の剣。


 破れた血袋。


 玉座を覆っていた黒布。


 それぞれには、警察の番号札が添えられている。


 一。


 二。


 三。


 道具へ番号を与えるたび。


 第三幕は少しずつ演目ではなくなり、殺人現場へ変わっていった。


「右の灯りを、もう半尺下げろ」


 グレアムが舞台上で指示を出している。


「そこだ。首へ影を落とすな」


「はい、警部」


「床の染料を踏むな。舞台用でも、足跡を潰していい理由にはならん」


 若い警官が、慌てて靴を引いた。


 舞台の端では、警察書記が方眼紙へ現場図を描いている。


 玉座の位置。


 車輪の向き。


 黒布を吊っていた綱。


 剣が落ちていた場所。


 血袋から染料が広がった範囲。


 ヴァネッサが踏み込んだ位置。


 大道具係の靴跡。


 幕の向こうにいた観客には見えなかったものが、一つずつ線と数字へ置き換えられていく。


 劇場が物語を作る場所なら。


 警察は、出来事を記録へ変える場所だった。


 どちらも、現実をそのまま残すわけではない。


 何を測るか。


 どこへ線を引くか。


 何を残し、何を動かさないか。


 それを決めなければ、記録は作れない。


 ミラベルは、舞台袖から作業を見ていた。


「入るなと言ったはずだ」


 グレアムが現場へ顔を向けたまま言った。


「一歩も入っていません」


「爪先が線を越えとる」


 床には、舞台用の黄色い線とは別に、警察が白墨で引いた境界線がある。


 ミラベルは足元を見た。


 靴先が、確かに白い線へ触れていた。


 一歩下がる。


「これで?」


「よし」


「私、取材記者でもあるんですけど」


「今は証人だ」


「記録係でもあります」


「警察に書記は足りとる」


「五百人分の証言を整理する人は?」


「それはあとだ」


 グレアムは、ようやく彼女を見る。


「まず、死体が何を残したか調べる」


 舞台下から、金属の留め具を外す音がした。


 ブロム=ガドルが玉座の背後へ膝をつき、姿勢保持具の状態を確認している。


 先ほどまでの怒鳴り声はない。


 太い指で金具へ触れるたび、動きは慎重になる。


「背中の支持板」


 ブロムが言った。


「腰帯が一本。肩の固定が左右に二本。右腕は腕甲と補助棒でつながっている」


「外す順番は」


 グレアムが尋ねる。


「肩を支えてから腰帯だ。先に背中を外すと、身体が前へ落ちる」


「待て」


 ブロムが金具へ手をかけたところで、グレアムが止めた。


「外す前の状態を、もう一度描け」


 書記が玉座の背後へ回る。


 支持板。


 革帯。


 右の肘掛けから伸びる細い補助棒。


 腕甲へ接続された金具。


 黒衣の下へ隠されていた機構が、一つずつ図へ写される。


「元から、こういう装置なのか」


 グレアムが尋ねる。


「姿勢を保つためのものだ」


 ブロムは答えた。


「王衣装は重い。冠と仮面だけでも首へ来る。王役は第三幕の間、玉座から立たん。腰と背を支えなきゃ、台詞の前に姿勢が崩れる」


「右腕だけ補助がある」


「ヘイル卿の肩へ合わせた」


「舞台の途中で、腕を上げるためか」


「動作を助けるためだ」


 ブロムの返事は短い。


「詳しくは、あとで聞く」


「今じゃないのか」


「今は、死体を玉座から下ろす」


 グレアムは、舞台脇へ視線を向ける。


 黒い革鞄を開いた検死官が、白い前掛けを身につけていた。


 痩せたヒト族の男。


 五十前後。


 鼻へ丸眼鏡を載せている。


 舞台の装飾には一度も目を向けず、オズリックの皮膚と衣服だけを見ていた。


「動かして構いません」


 検死官が言った。


「玉座上で確認できることは、記録しました」


「死因は」


「まだ断定しません」


「見当は」


「首です」


 その一語で。


 舞台袖の椅子に座っていたヴァネッサが顔を上げた。


 白い王妃の衣装へ、灰色の毛布をかけられている。


 胸元と両手には、まだ舞台用の赤い染料が残っていた。


 洗い流すことを、グレアムが許可していない。


「首?」


「舞台剣ではありません」


 検死官は彼女へ答えた。


「それだけは、すでに申し上げられます」


「剣は身体へ入っていない」


 レオンが続ける。


 彼は、白墨の境界線ぎりぎりに立っていた。


「刃は正常に柄へ沈んだ。衣装の破れは、血袋を固定していた縫い目だけだ。皮膚へ刺創はない」


「では」


 ヴァネッサの声がかすれる。


「私は、この人を刺していない」


「刺す動作はした」


 レオンは答えた。


「だが、それで殺してはいない」


 ヴァネッサは目を閉じた。


 安堵したようには見えない。


 別の形をした恐怖を受け入れた顔だった。


「それなら私は」


 ゆっくりと言う。


「死体へ剣を突き立てて、手を取って、愛を告げたのね」


「劇中の台詞だ」


「身体は区別しないわ」


 彼女は、赤い指を握り込んだ。


「生きている人へ触れたつもりだった。返事を待った。オズリックが、そこにいると思って」


「だから、異変に気づけた」


「慰めているの?」


「事実を言っている」


「そういうところよ」


 弱い笑みが一瞬だけ現れ。


 すぐに消えた。


「クラウス」


 グレアムが呼ぶ。


「肩側を持て」


「警官がいる」


「お前が一番、余計な場所へ触らん」


「褒め言葉として受け取る」


「違う」


 ブロムが、背中の固定具を外す。


 検死官とレオンが肩を支え、二人の警官が腰と脚を持つ。


 支持板が緩んだ瞬間。


 オズリックの上半身が、前へ落ちかけた。


 身体には、自らを支える力がまったくない。


 四人は慎重に玉座から下ろし、舞台へ敷かれた白い検査布の上へ仰向けに寝かせた。


 王の黒衣が開かれる。


 銀の鎖。


 胸当て。


 高い襟。


 厚い肩衣。


 一枚ずつ、着用状態を記録してから外していく。


 衣装を脱ぐほど。


 オズリックの身体は、《名なき王》から遠ざかっていった。


 最後に残ったのは、灰色の下衣を着た老いた男だった。


     ◇


 右肩には、古い手術痕がある。


 鎖骨の下から肩の外側へ走る、白く盛り上がった傷。


 右の筋肉は、左より明らかに痩せていた。


 検死官が腕を持ち上げる。


 胸の高さを越えたあたりで、関節に強い抵抗が生じた。


「生前も、自力で高く上げることは難しかったでしょう」


 ミラベルの脳裏へ、第三幕の光景が戻る。


 月白色の照明。


 黒い王。


 肩より高く掲げられた右手。


「でも、上がりました」


 思わず言う。


 検死官が彼女を見る。


「舞台では」


 ミラベルは続けた。


「確かに、右腕が上がった」


「腕が上がったことは事実だ」


 レオンが言う。


「その力が、どこから加わったかは別に調べる」


 ブロムの顔が険しくなる。


「俺の機械を疑ってるのか」


「疑う前に、状態を見る」


 レオンは、取り外された右の腕甲へ目を向けた。


 銀黒色の外装腕甲。


 掌側は開いている。


 その下には、薄い黒布の内手袋。


 内手袋は、仮面支度前から身につけ、第三幕が終わるまで外さないものだった。


「内側を見せろ」


 グレアムが言った。


 書記が位置を記録したあと、検死官が腕甲を持ち上げる。


 右手首へ接する革。


 玉座の補助棒と連結していた小さな金具。


 その周囲へ、黒い油が薄く付着していた。


「機械油だな」


 グレアムが指摘する。


「舞台機械用の油です」


 ブロムが答えた。


「連結金具から移った」


「手袋にもある」


 レオンが言う。


 右の内手袋。


 手の甲から手首へかけて、細い黒い擦れ跡が残っている。


 衣装の染料とは違う。


 指で広げたのではなく。


 金属部品と接触し、圧を受けた形だった。


「左にはない」


 ミラベルが気づく。


 左の腕甲には同じ連結金具がなく、内手袋も乾いている。


「右腕だけが、玉座の機構へ接続されていた」


 グレアムが言う。


「最初から説明しただろう」


 ブロムの声が低くなる。


「古傷のある腕を支えるためだ」


「支えただけか」


「それは機構を調べれば分かる」


 レオンは、それ以上追及しなかった。


「油を採れ。腕甲と手袋は別々に保管」


 グレアムが命じる。


「機構の油とも比較する」


 若い警官が証拠袋を用意する。


 ブロムは腕を組み、玉座を睨んでいた。


 自分が調整した装置。


 自分が第三幕で動かした右腕。


 それが何を意味するのか。


 まだ考えないようにしている顔だった。


 検死官は、オズリックの胸と腹へ順に手を当てる。


 肋骨。


 胸骨。


 腹部。


 剣が触れた胸元には、舞台用の染料が少し付着しているだけだった。


「刺し傷なし」


 検死官が書記へ告げる。


「皮下出血もない。舞台剣による圧迫は軽微。死因とは無関係です」


 続いて、高い襟を完全に外す。


 仮面の固定帯が当たっていた箇所。


 その少し下。


 首の前面から左右へ。


 細い暗赤色の線が走っていた。


 照明の影ではない。


 舞台化粧でもない。


 皮膚の内側へ沈んだ痕。


「これは」


 ヴァネッサが立ち上がりかける。


 グレアムが片手で制した。


「そのまま座っていろ」


「仮面の帯ではないの?」


「位置が違います」


 検死官が答える。


「固定帯は、耳の下から後頭部へ回っていました。この痕は、それより低い。喉の前を横切り、首の両側へ続いている」


 眼鏡を押し上げ、作業灯を近づける。


「幅の狭い、柔らかな紐状のもの。表面は滑らかです。麻縄のような粗い繊維ではありません」


「衣装用の紐か」


 グレアムが尋ねる。


「可能性はあります。細い絹紐。平たい織紐。柔らかい布を撚ったもの」


 劇場には、無数の紐がある。


 幕を吊るす太い綱。


 衣装を締める細い飾り紐。


 仮面を固定する帯。


 小道具を操作する細索。


 首を絞めたものも。


 この劇場のどこかにある、ごく普通の道具だったのかもしれない。


「頸部圧迫による窒息」


 検死官は言った。


「正式な判断は検死院で行いますが、死因としては間違いないでしょう」


「声を出せたの?」


 ヴァネッサが尋ねる。


「圧迫の直後なら、短い声を発した可能性はあります。完全に締められれば難しい」


「仮面支度室は防音です」


 イリスの声がした。


 舞台袖の柱の陰に立っている。


 両手を胸の前へ組み、指先が白くなるほど握っていた。


「壁へ、古い儀礼用の布が何重にも張られています。中で台詞を出してもらっても、扉を閉めれば廊下ではほとんど聞こえません」


「今夜、声を聞いたか」


 グレアムが尋ねる。


「いいえ」


「物音は」


「分かりません」


「分からない?」


「第二幕の準備中でした。背景も蒸気機械も動いていましたし、楽団の音も」


 イリスは視線を落とす。


「何か聞こえていたとしても、仮面支度の音だと思ったはずです」


「最後に入った者は」


 グレアムが尋ねかけ。


 途中で片手を上げた。


「それはあとで、一人ずつ聞く。今は身体を調べる」


 検死官は瞼。


 眼球。


 唇の内側。


 爪。


 耳の後ろ。


 一つずつ所見を拾っていく。


 死体は、舞台上の証言とは違う。


 見栄を張らない。


 自分を正当化しない。


 誰かを庇わない。


 誰かを陥れようともしない。


 ただ。


 加えられた力の痕だけを残している。


     ◇


「背面を確認します」


 警官二人が、オズリックの身体を横向きにする。


 検死官が、下衣の背中側を切り開いた。


 肩甲骨から腰にかけて。


 皮膚へ、紫赤色の斑が広がっている。


 舞台用の染料ではない。


 身体の内側から生じた色。


「初期の死斑です」


 検死官が告げる。


「死亡後、血液が重力に従って身体の低い側へ移ったものです」


「背面へ偏っている」


 レオンが言う。


「ええ」


「玉座へ座った姿勢とは合わない」


「座位のまま時間が経過したなら、臀部や大腿後面へ、もっと強く現れるはずです」


 検死官は指で斑を押す。


 紫赤色が一時的に薄くなり、ゆっくり戻った。


「まだ固定していません」


「では、死亡時刻は」


 グレアムが尋ねる。


「死斑だけで分単位の断定はできません」


 検死官は明確に答えた。


「ただし、分布から分かることはあります。この男は死亡後、一定時間、仰向けに寝かされていた」


「そのあと、衣装を着せられ」


 ミラベルが言う。


「玉座へ固定された」


「その可能性が高いでしょう」


「死後、すぐに座らされたわけではない」


 レオンが確認する。


「少なくとも、背面へ死斑が偏るだけの時間は横たえられていた」


 検死官はオズリックの皮膚温を確認し、顎や肘の動きも慎重に調べた。


「硬直は、まだ全身へ強く出ていません。皮膚温、初期死斑、その他の所見を合わせても、正確な死亡時刻は検死院での測定が必要です」


「第三幕の直前ではない?」


 ヴァネッサが尋ねる。


「直前ではありません」


 検死官は答えた。


「玉座が舞台へ入る数分前に死亡した身体ではない」


「どの範囲になる」


 グレアムが訊く。


「現時点では」


 検死官は、舞台脇の時計を見た。


「第一幕終了後から、第二幕前半まで。その間に死亡した可能性が高い、と申し上げておきます」


 第一幕の終了は、午後八時二十三分。


 ヴァネッサがオズリックの手紙を受け取り、仮面支度室の近くへ向かったのは八時二十五分。


 第二幕。


 二十七秒の沈黙。


 王妃が舞台中央へ立っていた、その時間。


 舞台の外では。


 すでに王役の男が、仰向けに寝かされていた可能性がある。


「第二幕の途中には」


 ミラベルが言う。


「もう死んでいたかもしれない」


「そうなります」


 客席側から、興奮した男の声が聞こえた。


「私は確かに見たんだ!」


 幕と壁を隔てているため、姿は見えない。


 それでも声は通る。


「王は自分で右手を掲げた! 自分の声で台詞を言ったんだ!」


 検死官の言葉と。


 観客の証言が。


 同じ舞台の上でぶつかった。


 第二幕前半までには、死亡していた可能性が高い。


 第三幕では、右手を掲げた。


「あり得ない」


 ローウェルが言った。


 舞台袖の奥。


 柱へ片手をつき、青ざめた顔で立っている。


「私は見た。全員が見た。ヘイル卿は舞台へ出て」


「何を見た」


 レオンが尋ねた。


「王を演じた」


「具体的に」


「右手を上げた。台詞を言った。リード嬢の剣を受けて倒れた」


「右腕が上がった」


「そうだ」


「声が聞こえた」


「本人の声だ!」


「剣が当たり、血が流れた」


「それから倒れた!」


「その四つが起きたことは、誰も否定していない」


 レオンの声は静かだった。


「だから調べる」


「何をだ」


「それぞれが、どのように起きたのかを」


 ローウェルは言葉を失った。


 レオンは、それ以上答えなかった。


 一つの説明へ結びつけるには、まだ早い。


     ◇


 検死官が、床へ置かれた鏡面仮面を手に取った。


 黒い表面には、作業灯と警察官の姿が歪んで映っている。


 内側には、声を前方へ返すための薄い真鍮板。


 口元には、小さな音響管の接続口。


 検死官は灯りへ向け、角度を変えた。


「乾いています」


「何がですか」


 ミラベルが尋ねる。


「内側です」


 鼻と口の周囲へ当たる真鍮板。


 曇りはない。


 水滴も。


 汗も。


 何かを拭き取った痕も見当たらない。


「この仮面を着けたまま呼吸すれば、熱と湿気がこもります」


 検死官が言う。


「特に、舞台裏の空気は冷えている。温かい息が真鍮板へ触れれば、薄い曇りが残るはずです」


「第三幕の間、被っていた」


 ミラベルが言う。


「ええ」


「それなのに、乾いている」


 レオンは仮面の内側を見る。


「少なくとも、第三幕の最中」


 真鍮板へ触れない距離から観察する。


「仮面の中で、通常の呼吸は行われていなかった」


 ヴァネッサが、自分の口元を押さえた。


「私の目の前で、声がした」


「聞こえた声は、オズリックのものだった」


 レオンが答える。


「そこは、まだ否定していない」


「なら」


「声が本人のものであることと」


 音響管の接続口を見る。


「第三幕のその瞬間に、本人が喉から発したことは別だ」


 午後の音響確認。


 蝋管へ残された唯一の台詞。


 ――名は滅びぬ。役に残る。


 その場にいる何人かが、同じものを思い出した。


 だが。


 まだ誰も、答えとは呼ばなかった。


「ほかに妙な点は」


 グレアムが尋ねる。


「左手です」


 オズリックの左手には、薄い黒布の内手袋が残されている。


 外側の腕甲は、掌を覆わない形だったため、握った手を開かずに外すことができた。


 左手の指は、深く掌へ折り込まれている。


 右手よりも明らかに強い握り方。


「死後硬直ですか」


 ミラベルが尋ねる。


「断定しません」


 検死官は、すぐに答えた。


「全身の硬直と比べて、この手だけが不自然に強く握られている。生前、何かを掴んだまま死亡した可能性もあります」


「中に何かある?」


「分かりません」


 検死官は、内手袋の縁へ触れた。


 だが指を開こうとはしなかった。


「ここでは外しません。無理に開けば、中にあるものを傷つける恐れがあります」


「検死院で?」


「手の位置を撮影し、指の角度を測り、手袋の繊維を採取してから。記録を残しながら開きます」


「今すぐ確認できないのか」


 レオンが尋ねる。


「急いで証拠を壊すより、残す方を選びます」


 レオンは、握り込まれた左手を見つめた。


「正しい」


「あなたに褒められると、不安になりますな」


「検死官まで同じことを言うのか」


「市警であなたを知る者は、だいたい言います」


 グレアムが鼻を鳴らした。


「俺はもっと前から言っとる」


 わずかな冗談だった。


 誰も笑わなかった。


 舞台上には死体がある。


 客席には五百人の証人がいる。


 その間に垂れた幕だけが。


 演目と事件を分けていた。


     ◇


 検死官が遺体を検死院へ移す許可を出したあとも、劇場の封鎖は解かれなかった。


 玉座は舞台中央へ残された。


 右腕の補助機構。


 姿勢保持具。


 終幕用の解除装置。


 警察が構造を確認するまで、誰も動かせない。


 ブロムは玉座の脇へ座り込み、太い腕を組んでいた。


 自分が操作した機械へ。


 何かを問いかけるように見ている。


 イリスはヴァネッサの背後へ立ち、毛布の端を握っていた。


 ローウェルは、何度も懐中時計を確認している。


 終演予定時刻は、とっくに過ぎていた。


 五百人の客を帰せないことを心配しているのか。


 後援会会長の死によって、劇場の売却がどうなるか考えているのか。


 その顔からは判別できなかった。


 やがて。


 マティアス=ロウが、若い警官とともに舞台へ戻ってきた。


 両手で、黒革の上演記録簿を持っている。


「警部」


「その布の上へ置け」


 グレアムが、証拠用の白布を示した。


 マティアスは指示どおり、帳面を置く。


「今夜の進行記録です」


「休憩時間も含めて?」


「すべて記してあります」


「お前は、第二幕の間、どこにいた」


「舞台監督席です」


「一度も離れていない?」


「定型合図は、副舞台監督へ任せた時間があります。私は記録整理と、第三幕の進行確認をしていました」


 開演前、マティアス自身が説明していた。


 第二幕前半は、予定どおりなら副舞台監督だけでも進められる。


「舞台監督席から出たか」


 グレアムが尋ねる。


「舞台袖と機械合図盤の間を移動しました」


「仮面支度室には」


「入っておりません」


「オズリックと最後に話したのは」


「第二幕前。舞台袖で進行を確認したときです」


「その後、生きている姿を見たか」


 マティアスは少し考えた。


「黒布を掛ける前、玉座へ座った王役を確認しました」


「顔は」


「仮面を着けていました」


「声は聞いた?」


「本番前まで喉を休めることになっていたため、声は出していません」


「身体は動いたか」


「近づいたとき、わずかに頭が動いたように見えました」


「確認したのか」


「いいえ」


 マティアスは、誤魔化さなかった。


「重い冠と仮面による揺れだった可能性もあります」


 舞台全体の動きを、分単位で把握している男。


 全員が信頼する舞台監督。


 その彼でさえ。


 第三幕前の王役が生きていたとは、確認していなかった。


「あとで、最初から聞く」


 グレアムが言う。


「今夜は誰も帰さん。お前もだ」


「承知しました」


 マティアスは静かに答えた。


 現場が混乱しても。


 自分へ疑いが向けられても。


 声を荒らげない。


 それが、二十二年間、舞台を止めなかった男の習慣なのか。


 何かを隠している者の落ち着きなのか。


 今は、まだ決められなかった。


     ◇


 遺体が舞台から運び出されたあと。


 レオンは、空になった玉座の前へ立った。


 ミラベルも、白墨の境界線の外から近づく。


 グレアムは部下への指示を終え、二人の横へ来た。


「整理しろ」


「何をだ」


「お前の頭の中だ。顔を見れば分かる」


「俺の顔が読めるようになったのか」


「長いつき合いだ。面倒な謎を見つけた顔くらい分かる」


「いくつですか」


 ミラベルが尋ねる。


「三つ」


 レオンは床へ落ちていた白墨を拾った。


 客席から見えない、背景板の裏側へ数字を書く。


 一。


「第一の問い」


 その横へ、文字を記す。


 ――誰が、オズリック=ヘイルを殺したのか。


「殺害場所は、仮面支度室の可能性が高い」


 グレアムが言う。


「防音。人の出入りが限られる。首元へ触れても、仮面支度だと言い訳できる」


「殺害時刻は」


 ミラベルが言う。


「第一幕終了後から、第二幕前半まで」


「ヴァネッサが呼び出された時間を含む」


 レオンの声が、わずかに硬くなる。


「彼女だけではありません」


 ミラベルはすぐに言った。


「舞台監督。王役の支度係。必要なら機械主任も入れる場所です」


「分かっている」


「なら、昔の事件と混ぜないでください」


「混ぜていない」


「今の声は、混ざっています」


 グレアムが二人を交互に見る。


「昔話は、現在の証言を取ってからにしろ」


 レオンは答えず、黒い板へ二と書いた。


「第二の問い」


 ――どのように、死体を演技させたのか。


 ミラベルは第三幕を思い出す。


「右腕」


 機械油のついた腕甲。


「声」


 乾いた鏡面仮面と、音響管。


「血」


 引き込み式の剣と、舞台用血袋。


「倒れた身体」


 玉座の姿勢保持具。


「四つです」


「今は、それぞれ別に調べる」


 レオンが言う。


「右腕の機構。蝋管の所在。剣と血袋。支持具の解除」


「組み合わせるのは?」


「全部を確認したあとだ」


 レオンは、三と書いた。


「第三の問い」


 白墨の先が止まる。


 ――なぜ、五百人が死者を生者だと信じたのか。


 幕の向こうから、観客たちの声が聞こえてくる。


「王は自分で腕を上げた!」


「確かに、ヘイル卿の声だった!」


「仮面の中で、王は王妃を見つめていた!」


「三階席からも見えた!」


 ミラベルは、幕を見た。


 同じ舞台。


 異なる座席。


 それでも。


 五百人は、王が生きていたと証言する。


「どうしてでしょう」


 ミラベルが言う。


「それを、これから調べる」


 レオンは答えた。


 公演冊子には目を向けない。


 仮説も口にしない。


 まだ証言を取っていない。


 見えた範囲も。


 聞こえた方向も。


 観客が舞台を見る前に何を知っていたかも。


 何一つ確認していない。


「どれから調べる」


 グレアムが尋ねる。


「第一は、関係者の行動」


 レオンは一の文字を指す。


「第二は、ブロムと音響係へ機構を確認する」


 二。


「第三は」


 ミラベルを見る。


「五百人の証言を、座席ごとに分ける」


「私が?」


「警察が氏名、座席、第一供述を取る」


 グレアムが言う。


「そのあと、新聞社へ参考調査を頼む。正式供述とは別に保管する」


「同じ質問をすればいいですか」


「質問の形を揃えすぎるな」


 レオンが答える。


「見たものを、本人の言葉で話させろ。王が何をしたか、先に言うな」


「公演冊子を読んだかも?」


「それも記録しろ」


「なぜですか」


「まだ分からない」


 レオンは率直に言った。


「だから残す」


 ミラベルは三つの問いを、取材手帳へ写した。


 一、誰がオズリック=ヘイルを殺したのか。


 二、どのように死体を演技させたのか。


 三、なぜ五百人が死者を生者だと信じたのか。


 最後の文字を書き終えたとき。


 舞台袖を通って、検死院へ向かう担架が運び出された。


 白い布の下。


 オズリックの左手は、まだ強く握られたままだった。


 その掌に何が残されているのか。


 まだ誰も知らない。


 右の内手袋には、機械油。


 背中には、仰向けに寝かされていた時間。


 首には、細い紐の痕。


 仮面の内側には、呼吸がなかった証拠。


 そして客席には。


 王が生きていたと証言する、五百人の目撃者。


 死体が残した記録と。


 生者が語る記憶。


 そのどちらが正しいのかを、今は決めることができない。


 ただ。


 両方が同時に正しいならば。


 月硝子劇場の第三幕では。


 まだ説明されていない何かが、確かに演じられていた。

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