第4節 ― 第三幕の死
ヴァネッサが仮面支度室へ続く廊下から戻ってきたのは、第二幕開演の鐘が鳴る、ほんの少し前だった。
深い青の外套は、出ていったときと変わらない。
髪も乱れていない。
化粧にも崩れはなかった。
ただ、右手だけが胸元へ置かれている。
オズリックから受け取った短い手紙を差し込んだ場所を、服の上から押さえていた。
「リード嬢」
舞台袖のマティアスが声をかける。
「位置へ。第二幕、開始一分前です」
「分かっているわ」
ヴァネッサは足を止めなかった。
「ヘイル卿との確認は済みましたか」
「ええ」
「王役の支度に問題は?」
「本人に訊いて」
「ヘイル卿は、これから仮面支度へ入ります」
「では、今のうちに訊けばいいでしょう」
マティアスは、返答の棘を受け流すように頷いた。
ヴァネッサを責めることも。
何があったのか問いただすこともない。
「王妃、第二幕位置へ」
いつもと変わらぬ声で、次の合図を整える。
イリスが、ヴァネッサの青い外套へ手を伸ばした。
「髪飾りが少し右へ寄っています」
「そのままでいいわ」
「でも、照明が入ると」
「……直して」
ヴァネッサはすぐに言い直した。
普段なら最初から、そう答えただろう。
イリスも違和感を覚えたらしい。
だが尋ねず、銀の髪飾りを留め直す。
「痛くありませんか」
「平気よ」
「留め具が少し固くて」
「イリス」
ヴァネッサは鏡の中の彼女を見た。
「大丈夫」
その言葉は、イリスへ向けられていた。
けれど。
鏡の中の自分へ言い聞かせているようにも聞こえた。
レオンは、少し離れた場所から様子を見ていた。
「何を話した」
「王と王妃の話よ」
「劇の中の?」
「舞台へ立てば、すべて劇の中の話になるわ」
「便利な答えだ」
「あなたの質問も、昔から便利ね。答えたくないことほど正確に選んでくれる」
「オズリックに脅されているのか」
イリスの指が止まった。
ヴァネッサは鏡越しにレオンを見る。
「開演前に訊くこと?」
「開演後には、答えが変わるかもしれない」
「変わった答えも、あなたなら調べるでしょう」
「否定しないのか」
「何を?」
ヴァネッサは振り返った。
青い外套が、足元で静かに揺れる。
「脅されていること? それとも、あなたに答えたくないこと?」
マティアスの木片が、一度鳴った。
カッ。
「客席へお戻りください」
レオンへ向けた、穏やかな声だった。
「第二幕が始まります」
「質問は終わっていない」
「公演は待ちません」
その言葉に、怒りも威圧もない。
それでも、この劇場では誰も逆らわなかった。
役者の事情も。
探偵の疑念も。
幕が上がる時刻を止める理由にはならない。
レオンはヴァネッサを見たまま、数秒動かなかった。
やがて踵を返す。
「行くぞ、ミラベル」
「はい」
ミラベルは、ヴァネッサへ一度だけ目を向けた。
彼女はすでに舞台袖を見ている。
過去の事件を隠す女でも。
レオンの昔を知る証人でもない。
これから舞台へ立つ《鏡の王妃》の顔へ、戻ろうとしていた。
けれど。
その右手はまだ、胸元へ触れていた。
◇
第二幕は、王妃が七枚の鏡を一つずつ裁く場面から始まった。
一枚目には、王が捨てた幼名。
二枚目には、王が裏切った友。
三枚目には、王となる前に愛した女。
鏡の中には、王の過去を演じる影が浮かぶ。
影たちは、王妃へ問いかける。
王の名を取り戻せば、王は王ではなくなる。
それでも名を呼ぶのか。
王が選んだ忘却を、愛という名で壊すのか。
客席は静まり返っていた。
第一幕より舞台は暗い。
黒い床へ青い灯りが流れ、七枚の鏡だけが、月の欠片のように浮かんでいる。
ヴァネッサは、その間をゆっくりと歩いた。
舞台裏で見せた動揺は、どこにもない。
声は澄み。
足取りは正確で。
指先まで王妃として制御されていた。
「名を失った者は、罪からも自由になるというのですか」
王妃が鏡へ問う。
「名がなければ、誰が誓いを破ったのかも分からない」
鏡の影が答える。
「ならば、罪もまた、名とともに消える」
「いいえ」
王妃は否定する。
「名が消えても、傷は残る」
ヴァネッサの声が、月硝子劇場の最上階まで届いた。
「傷が残るなら、傷つけた者もまた、どこかに残っている」
戯曲へ書かれた台詞だった。
それでもミラベルには、舞台の外へ向けられた言葉のように聞こえた。
隣のレオンは動かない。
視線だけをヴァネッサへ向けている。
舞台を見ているのか。
過去の証人を見ているのか。
ミラベルには分からなかった。
第二幕の終盤。
王妃は、最後に残った鏡を持ち上げた。
その鏡だけには、何も映らない。
王の名が完全に失われたことを示す、空白の鏡。
本来なら。
王妃は、すぐに次の台詞を告げる。
だがヴァネッサは、言葉を発しなかった。
鏡を持ったまま。
舞台中央に立っている。
一秒。
二秒。
楽団の弦が、低い音を引き延ばす。
五秒。
客席の誰も動かない。
十秒。
ヴァネッサは空白の鏡を見ていた。
鏡の中には、照明の暗がりと、彼女自身の瞳だけが映っている。
十五秒。
舞台袖で、マティアスが合図の木片を持ったまま静止している。
左手の指だけを動かし、楽団へ演奏を続けるよう伝えた。
指揮者が応じる。
弦楽器は、途切れる寸前の音を保ち続けた。
二十秒。
観客席のどこかで、婦人が扇を閉じる音がした。
誰かが息を呑む。
ヴァネッサは動かない。
レオンが上着から懐中時計を出した。
蓋を開く。
舞台から視線を外さず、秒針だけを確かめる。
二十五秒。
ヴァネッサの唇が、ようやく動いた。
「ならば」
声はかすかに震えていた。
だが、その震えさえ、王妃の感情に聞こえる。
「あなたが名を捨てたのなら、わたしが拾いましょう」
楽団が一斉に鳴った。
空白の鏡が床へ落ちる。
薄い硝子糖が砕け、青い光を散らした。
客席から、ため息に似たどよめきが広がる。
レオンは懐中時計を閉じた。
「二十七秒」
ミラベルにだけ聞こえる声で言う。
「演出では?」
「第一幕では三秒だった」
「次は二秒にすると言っていました」
「だから測った」
舞台上では、何事もなかったように演目が進んでいる。
王妃が砕けた鏡の中から、一枚の黒い札を拾い上げる。
そこには、王の失われた名が記されているはずだった。
しかし札の表面は、客席から見えない。
王妃だけが読む。
そして、声には出さない。
名を知った者が、その名を胸の内へ隠したまま、第三幕へ進む。
第二幕は、そうして終わった。
幕が下りる。
拍手が起こる。
第一幕よりも大きい。
ヴァネッサの二十七秒の沈黙を、失敗と呼ぶ声はなかった。
レオンは一階中央席へ目を向けた。
ノクス=モリアンが、周囲の客と同じように拍手をしている。
だが彼が見ているのは、舞台ではなかった。
二階桟敷にいるレオンを見上げている。
目が合う。
ノクスは拍手を続けたまま、わずかに笑った。
同じ現象を観測した者へ。
結果の確認を求めるように。
◇
第二幕と第三幕の間には、通常より長い休憩が設けられていた。
王宮の背景を取り払い、舞台を終幕の儀礼堂へ作り替えるためである。
観客の多くが席を立つ。
葡萄酒を求める者。
知人の桟敷へ挨拶に向かう者。
第二幕の感想を語る者。
「最後の沈黙が素晴らしかった」
「王の名を読んで、声を失ったのだろう」
「いや、名を知ることを恐れたのだ」
「王妃が過去を引き受けるまでの時間だ」
同じ二十七秒へ。
それぞれが、異なる言葉を与えていた。
ミラベルは手帳を開きかけた。
だが、何を書くべきか迷って手を止める。
「書かないのか」
レオンが尋ねる。
「まだ、見たことと考えたことが分かれていません」
「珍しく慎重だな」
「褒めています?」
「事実だ」
舞台脇の時計が、第三幕開始五分前を示していた。
レオンは席を立つ。
「どこへ?」
「舞台裏を見る」
「第三幕前は立入り禁止では」
「だから、理由を聞く」
二人が桟敷を出ようとしたところで、通路の係員が前へ立った。
「申し訳ございません。第三幕前は、出演者以外の舞台裏への立入りを禁じております」
「第一幕前には許可された」
「大型装置を移動しておりますので、危険です」
「誰の指示だ」
「舞台監督のロウ氏です」
「ヴァネッサ=リードへ伝えろ。クラウスが話を求めている」
「リード様は第三幕の支度中です」
「仮面支度室か」
「王妃支度室です。仮面支度室は王役専用です」
「オズリックは」
「すでにお支度を終えられたと聞いております」
「誰から聞いた」
「舞台進行係です」
「本人を見たか」
係員は困惑した。
「私は、客席担当ですので」
「クラウス」
背後からグレアムの声がした。
警部が階段を上ってくる。
「係員を尋問するな」
「オズリックを最後に確認した者を探している」
「まだ被害者ではない」
「だから、生きているうちに確認する」
「舞台裏には警官を二人置いてある」
「本人を見たのか」
「黒布を被せた玉座が袖へ運ばれた。中には王役が座っていると報告を受けた」
「顔を見た?」
「仮面支度のあとだ」
「声は」
「聞いていない」
「では、オズリック本人とは確認していない」
グレアムの眉間へ皺が寄る。
「黒い王衣装を着て、専用の玉座へ座り、仮面を被った別人がいるとでも言うのか」
「劇場では、衣装と仮面で別人になる」
「今は芝居の話をしとらん」
「俺もだ」
三度、短い鐘が鳴った。
第三幕開始の合図。
係員が客席扉を開く。
「お席へお戻りください」
グレアムはレオンを睨んだ。
「終わるまで座っていろ」
「異変があれば?」
「俺が動く」
「間に合うといいが」
「縁起でもないことを言うな」
レオンはそれ以上逆らわなかった。
ただ、席へ戻る間も。
舞台裏へ続く扉から、目を離さなかった。
◇
第三幕が始まった。
客席の灯りが、順番に消えていく。
一階。
二階。
三階。
最後に、天井の月硝子灯が落ちる。
劇場は完全な暗闇へ沈んだ。
衣擦れ。
咳をこらえる音。
冊子を閉じる紙の音。
それらも、やがて静まる。
楽団は、まだ演奏を始めない。
最初に聞こえたのは、車輪の音だった。
ごろ。
ごろ。
重いものが、舞台床を進んでくる。
暗闇の中。
左右から四人の舞台係が現れた。
全身を黒い作業衣へ包み、顔も布で隠している。
古い儀礼劇において、舞台装置を動かす者は《名を持たぬ影》として、観客の目に触れることを許されていた。
四人が押しているのは、黒布を被せた巨大な玉座。
高い背。
張り出した肘掛け。
人が座っているかどうかさえ、布の外からは分からない。
玉座は舞台中央まで運ばれた。
前輪が床の印へ触れる。
カチリ。
位置を固定する音。
舞台係の一人が、黒布の下へ手を入れた。
何かを確かめる。
それから影たちは、音もなく後ろへ退いた。
舞台袖で、マティアスが手を上げる。
木片が鳴る。
カッ。
玉座の背後に、乳白色の灯りが点いた。
黒布が白い光の中へ浮かぶ。
二度目の合図。
カッ。
舞台上部から綱が引かれた。
黒布が、一気に持ち上がる。
五百人の息が止まった。
玉座には、王が座っていた。
黒い鏡面仮面。
金の冠。
肩から床へ流れる重い黒衣。
胸元には、幾重もの銀鎖。
両手には黒い手袋。
仮面支度前から着けていた薄い内手袋の上へ、銀黒色の腕甲が固定されている。
右の腕甲だけには、玉座へ接続する小さな金具があった。
身体は、高い背もたれへ真っ直ぐ預けられている。
仮面には、目も口もない。
客席の淡い光だけを映し返していた。
「名なき王……」
どこかで、誰かが囁いた。
オズリック=ヘイルの名を呼ぶ者はいない。
舞台へ現れた瞬間から。
彼は後援会会長でも、元契約法院監査官でもなくなった。
公演冊子へ記された《名なき王》だった。
楽団が低い音を奏で始める。
舞台左から、鏡の王妃が現れた。
第三幕のヴァネッサは、白い衣装をまとっている。
第一幕の銀。
第二幕の青。
それらをすべて脱ぎ、色を失ったような白。
胸元には七枚の鏡片。
砕かれた王の過去が、王妃の身体へ縫いつけられている。
右手には細身の剣。
刃が月灯を受け、冷たい光を放った。
王妃は玉座へ向かって歩く。
一歩。
また一歩。
靴音だけが、広い舞台へ響いた。
王は動かない。
ヴァネッサが、玉座の前で止まる。
「王よ」
その声が、静かに劇場へ広がった。
「あなたの名を見つけました」
返事はない。
「あなたが捨てた名」
王妃は胸元の鏡片へ触れる。
「あなたが殺した名」
王は沈黙している。
「あなたが、誰にも呼ばせなかった名」
剣先が、わずかに持ち上がった。
「名を捨てれば、罪も消えると思ったのですか」
鏡面仮面には、白い王妃が映っている。
目はない。
視線もない。
それでも。
王は王妃を見つめているように見えた。
ヴァネッサが左手を差し出す。
「返してください」
王の名を求める手。
そのとき。
王の右腕が動いた。
ゆっくりと。
肘が肘掛けから離れる。
重い黒衣の袖が持ち上がる。
手が胸の高さを越え。
肩を越え。
黒い手袋が、月白色の光へ掲げられた。
客席から、低いどよめきが起こる。
ミラベルも身を乗り出した。
玄関広間で見た、オズリックの右肩を思い出す。
左手での握手。
外套を脱ぐときも上がらなかった右腕。
胸の高さより上へは動かしにくいと、本人は語っていた。
それなのに。
舞台上の王は、右手を高く掲げている。
「上がった……」
ミラベルが呟いた。
「見えている」
レオンの声は低い。
驚きを示す声ではない。
だが、彼の目は王の腕だけを追っていた。
黒い袖が、肘と肩の形を隠す。
銀の装飾が光を散らす。
動きに硬さがあったとしても、それは王の重い衣装と、儀礼的な所作の中へ溶けていた。
右腕が最も高い位置で止まる。
その直後。
仮面の奥から、声が響いた。
「名は滅びぬ」
オズリックの声だった。
太く。
少し乾いている。
最初の言葉の前に、かすかな喉鳴りが混じる。
玄関広間で聞いた声。
同じ調子。
同じ間。
「役に残る」
声は、仮面の奥から発せられているように聞こえた。
真鍮を通したような、微かな響きがある。
だが。
古い儀礼仮面を通した声なら、その程度の変化は当然にも思えた。
ヴァネッサの表情が変わった。
王妃の演技の中へ。
ほんの一瞬だけ、別のものが混じる。
困惑。
あるいは。
すでに聞いた音を、もう一度聞いた者の目。
彼女は仮面を見つめた。
しかし、演技を止めない。
王妃は差し出していた左手を下ろす。
「ならば」
剣を両手で構えた。
「あなたの名ではなく、あなたの罪を残しましょう」
王の右腕が下りる。
動作の終わりを隠すように、楽団の音が強まった。
ヴァネッサが踏み込む。
白い衣装が舞う。
銀の剣が、王の胸へ向かう。
剣先が黒衣へ触れた。
沈む。
刃が、王の身体へ深く突き立てられたように見えた。
次の瞬間。
鮮血が弾けた。
王の胸元から、濃い赤が広がる。
黒衣の上を流れ。
銀の紋章と白い裏地を染める。
何人かの観客が悲鳴を上げた。
すぐに演出だと思い出し、口を押さえる。
王妃は剣を押し込んだ姿勢のまま、王の仮面を見つめている。
王は声を上げない。
身を強張らせない。
やがて。
王の上半身が、ゆっくりと前へ崩れた。
背が玉座から離れる。
首が落ちる。
鏡面仮面に、王妃の白い姿が大きく映る。
右手も力を失い、肘掛けの脇へ垂れた。
王は剣を受け。
玉座へ沈んだ。
ヴァネッサは剣から手を離した。
倒れた王の左手を取る。
その手へ額を寄せ、最後の台詞を告げる。
「名を失ったあなたを、わたしは忘れない」
声が、わずかに掠れていた。
「けれど、あなたが奪った名もまた、忘れはしない」
月灯が消える。
舞台が暗闇へ沈んだ。
幕が下り始める。
一瞬の静寂。
そのあと。
劇場が揺れるほどの拍手が起こった。
五百人が立ち上がる。
喝采。
足を踏み鳴らす音。
ヴァネッサの名を呼ぶ声。
「リード!」
「ヴァネッサ!」
「王妃へ喝采を!」
悲劇の余韻へ興奮した観客たちは、舞台で王が殺されたことを讃えていた。
オズリック=ヘイルが。
見事に《名なき王》を演じたと信じて。
右手を掲げた。
声を発した。
王妃の剣を受けた。
血を流した。
玉座へ倒れた。
五百人が、そのすべてを見た。
幕が完全に下りる。
舞台と客席が分断された。
◇
幕の裏へ入った瞬間。
ヴァネッサは、王の手を放した。
「灯りを」
舞台係の一人が、興奮した声で近づいてくる。
「素晴らしかったです、リード様。ヘイル卿も、あの腕の――」
「灯りをつけて!」
ヴァネッサの声が、舞台裏を切り裂いた。
喝采を浴びていた王妃の声ではない。
切迫した、生身の女の声だった。
周囲の動きが止まる。
マティアスがすぐに木片を鳴らした。
カッ、カッ。
「作業灯」
頭上に白い灯りが点いた。
舞台の魔法が消える。
月光はガス灯へ戻り。
儀礼堂は木枠と布へ戻る。
玉座に沈む名なき王は。
血染めの衣装を着た、老いた男の身体へ戻った。
ヴァネッサは、王の左手袋を握っていた。
「冷たい」
小さく言う。
イリスが近づく。
「何がですか」
「手が冷たいの」
「舞台裏が冷えたのでは」
「違う」
ヴァネッサは、薄い内手袋の手首へ指を入れた。
肌へ触れる。
すぐに手を引く。
「こんな冷え方ではない」
ブロムが舞台下から上がってくる。
「どうした。支持具が外れなかったのか」
「動かさないで」
ヴァネッサが言う。
「剣を受けたとき」
呼吸を整えようとする。
「この人、息をしていなかった」
誰かが笑いかけた。
冗談だと思ったのだろう。
だが。
ヴァネッサの顔を見て、声を失った。
「剣を押し込んだのよ」
彼女は、自分の両手を見る。
赤い染料がついている。
「生きている人間なら、身体が反応する。息が変わる。腹へ力が入る。胸が動く。舞台剣だと分かっていても」
玉座の男を見る。
「何もなかった」
「ヘイル卿は、演技を」
ローウェル支配人が言いかける。
「演技ではない」
ヴァネッサは断言した。
「最後に手を取ったときも、握り返さなかった」
「王は死ぬ場面だ」
「指先まで死者を演じられる素人がいると思う?」
幕一枚を隔てた向こうで、喝采が続いている。
五百人が、再び王妃の名を呼んでいる。
舞台裏では、誰も動けない。
マティアスが玉座へ近づいた。
「仮面を外します」
「待て」
レオンの声がした。
舞台袖から、彼とミラベルが入ってくる。
後ろにはグレアムがいる。
「どうしてここへ」
ローウェルが声を上げる。
「異変があれば動くと言った」
グレアムは答え、玉座へ近づいた。
「何があった」
「ヘイル卿が反応しません」
マティアスが説明する。
「気絶かもしれない」
ローウェルが縋るように言った。
「重い衣装だ。暑さで」
「手が冷たいの」
ヴァネッサは、彼を見た。
「今、気を失った人間の手ではない」
レオンは玉座の正面へ立つ。
鏡面仮面へ、彼の顔が映った。
黒い面の上に、探偵の目だけが浮かんでいるように見える。
「誰も触れるな」
レオンが言う。
「ヴァネッサ。どこへ触れた」
「左手。内手袋の手首。それから、舞台上で手の甲へ額を」
「首には?」
「触れていない」
「剣は」
「正常よ。刃は柄へ沈んだ」
「確認したのは」
「イリスと私」
イリスが頷く。
「舞台へ出る直前に確認しました。刃の引き込みも、血袋も正常です」
レオンは床へ落ちた剣を見た。
刃は短く縮み、柄の中へ収まっている。
王の身体へは入っていない。
「グレアム」
「分かっとる」
警部が部下へ手を上げる。
「舞台裏を閉じろ。誰も出すな。客席側にも人を回せ」
「まだ、死んだと決まったわけでは」
ローウェルが言う。
「なら医者を呼べ」
グレアムは低く返す。
「同時に現場を守る」
レオンは仮面の固定帯を見た。
黒い帯が、後頭部と首元へ回っている。
金具は高い襟の内側に隠されていた。
「ブロム。外し方は」
「後ろの留め具を二つだ。姿勢保持具を先に外すと身体が」
「支持具はそのまま。仮面だけ外す」
ブロムは玉座の背後へ回った。
太い指が、金具へ触れる。
第一の留め具。
硬い音。
第二の留め具。
仮面が、わずかに浮いた。
レオンが両手で受け取る。
鏡面仮面を、ゆっくり持ち上げる。
内側の真鍮板が露出した。
乾いている。
湿った呼気の跡はない。
汗もない。
長時間、人間の顔を覆っていた仮面には見えなかった。
その下から。
オズリック=ヘイルの顔が現れる。
目は閉じている。
口は、わずかに開いている。
皮膚は灰色がかり、唇から色が失われていた。
舞台化粧は施されていない。
仮面を外す演目ではなかったからだ。
レオンは頸動脈へ指を当てた。
数秒。
場所を変える。
さらに数秒。
鼻先へ手の甲を近づけ。
胸元の動きを見る。
何もない。
「どうなの」
ヴァネッサが尋ねる。
レオンは答えず、オズリックの瞼を持ち上げた。
瞳孔は、作業灯へ反応しない。
グレアムが隣へ立つ。
「クラウス」
「死んでいる」
短い言葉だった。
舞台裏の空気が凍りつく。
イリスが口元を押さえた。
ローウェルは一歩下がり、背景の木枠へ背をぶつける。
ブロムは玉座を見下ろしたまま動かない。
マティアスは、木片を下ろした。
これ以上、出すべき合図がないことを確かめるように。
「そんなはずは」
ローウェルが呟く。
「今、舞台にいた」
「見ていた」
ヴァネッサの声が震える。
「この人は腕を上げた」
誰も答えない。
「喋ったのよ」
彼女はレオンを見る。
「聞いたでしょう。オズリックの声だった」
「聞いた」
「私が剣を刺した。それから倒れた」
「見ていた」
「なら」
ヴァネッサの両手は、赤い染料に濡れている。
自分の血を見ているかのように、顔から色が消えていく。
「私が殺したの?」
「違う」
レオンは即座に答えた。
その速さに。
ヴァネッサ自身が驚いたようだった。
「どうして分かるの」
「剣は身体へ入っていない」
「でも」
「ヴァネッサ」
レオンの声が硬くなる。
「今は、自分が見たことだけを話せ」
過去の偽証を責める声ではない。
証人を、思い込みから現実へ戻す声だった。
「手が冷たかった」
ヴァネッサが言う。
「いつ」
「最後の台詞の前。左手を取ったとき」
「剣を当てる前から?」
「ええ」
「なぜ止めなかった」
「手袋のせいだと思った。王衣装には金属も入っている。舞台袖は冷えるから」
「ほかには」
「呼吸がなかった」
「それに気づいたのは」
「剣を当てたとき。普通なら、少しは身体が反応する」
「声は」
ヴァネッサは、外された仮面の内側を見る。
「同じだった」
「何と」
「午後の音響確認で聞いた声と」
舞台裏の者たちが、彼女を見る。
「オズリックは午後、台詞を蝋管へ記録した」
ヴァネッサは続けた。
「共鳴管の調整のために、何度も聞いたわ」
「今夜の声が、その記録と同じだった?」
「言葉が同じなのは当然よ。でも」
彼女は耳元へ指を当てた。
「最初の《名》の前。小さく喉を鳴らす癖がある。間の取り方。最後の《残る》で息が抜けるところ」
「同じだった?」
「そう聞こえた」
「舞台上で気づいたか」
「気づいた。でも、本人が稽古どおりに言っただけだと思った」
レオンは仮面の真鍮板を見る。
板の奥には、細い音響管を接続するための穴が開いている。
今は、何もつながっていない。
「ブロム」
グレアムが言う。
「玉座はそのまま。剣、仮面、黒布、血袋、全部触るな」
「ああ」
「マティアス」
「はい」
「上演記録簿を出せ」
「舞台監督席です」
「部下と一緒に取りに行け。一人で触るな」
「承知しました」
マティアスは逆らわなかった。
舞台裏の全員が彼の指示を待っている。
だが、今は。
彼自身が、警察の指示へ従った。
「ローウェル支配人」
グレアムが振り返る。
「客を帰すな」
「五百人近くいるんですよ」
「全員だ」
「市政議員も、法院の判事も、商会主も」
「死体の前では、同じ証人だ」
「騒ぎになります」
「もう人が死んどる。今さら騒ぎの心配をするな」
グレアムは部下へ向き直る。
「正面玄関、側面出口、舞台搬入口を封鎖。客の名、座席番号、同伴者を全員記録しろ」
「五百人分ですか」
若い警官が訊き返す。
「五百人が見たんだろう」
グレアムは、玉座の死体を見る。
「なら五百人全員が証人だ」
◇
幕の向こうでは。
喝采が、少しずつ不安のざわめきへ変わっていた。
幕が上がらない。
役者たちが挨拶へ出ない。
楽団も終演曲を始めない。
観客は、それさえ演出の一部かと思って待っていた。
やがて一階の扉が開き、警察官が客席へ入る。
「皆様、そのままお席へお残りください」
最初は誰も意味を理解しなかった。
「何があった」
「終演ではないのか」
「馬車を待たせている」
「私は市政議会の――」
「全員、お席へお戻りください!」
強い声が飛ぶ。
不満が広がる。
立ち上がる者。
出口へ向かう者。
従者を呼ぶ者。
月硝子劇場は、舞台上とは別の混乱へ入り始めた。
ミラベルはグレアムの指示で、客席側へ回った。
新聞記者としてではない。
誰が、どの席から舞台を見ていたのか。
それを失わないためだった。
二階桟敷の扉を開けると、廊下はすでに人で溢れている。
「何があったんです」
婦人がミラベルの腕を掴んだ。
「役者が怪我を?」
「現在、警察が確認しています。お席へお戻りください」
「誰が?」
「まだお答えできません」
「リード嬢は無事なの?」
「はい」
少なくとも身体は。
そう付け加えかけ、飲み込む。
階下から怒号が聞こえた。
「帰らせてもらう!」
「扉を開けろ!」
正面玄関へ、人が集まっている。
ミラベルは階段の手摺から下を見た。
入口には、一人の小柄な案内係が立っていた。
黒い礼装。
深紫のベスト。
黒いシルクハット。
細身の杖。
エル=ネフリド。
彼は警察官のように怒鳴ってはいない。
腕力で客を押し戻してもいない。
ただ、入場券を検めたときと同じ穏やかな顔で、客へ頭を下げていた。
「申し訳ございません」
「どけ。私はヘイル卿の友人だぞ」
「でしたら、なおさらお残りください」
「なぜだ」
「ご友人が、まだ舞台におられますので」
男の顔が変わった。
「どういう意味だ」
「詳しくは警察から」
別の婦人が横を抜けようとする。
エル=ネフリドが杖先を床へ置いた。
道を塞いだようには見えない。
それでも婦人は、足を止めた。
「馬車が」
「馬車は逃げません」
「私は何も見ていません」
「今夜、舞台をご覧にならなかったのですか」
「見たわ」
「でしたら、見たことをお残しください」
声には、逆らいにくい静けさがあった。
客たちは不満を口にしながらも、少しずつ席へ戻っていく。
誰が命じたわけでもない。
劇場職員の名簿にも存在しない男が、自然に人の流れを整えていた。
グレアムが玄関広間へ現れた。
「そこの案内係!」
エル=ネフリドが振り返る。
「はい、警部」
「正面扉を閉鎖する。誰も出すな」
「承知しております」
「まだ命じておらん」
「必要になると思いましたので」
グレアムは一瞬、言葉を失う。
「劇場の職員か」
「今夜は、入場をご案内しております」
「名前は」
エル=ネフリドは微笑んだ。
「皆様の記録が終わりましたら」
「今、聞いとる」
「警部!」
奥から部下が駆けてきた。
「検死官へ連絡しました。裏口で一人、外へ出ようとした男を確保しています。売却反対派の腕章を」
「身体検査して別室へ。乱暴はするな」
グレアムが指示を飛ばす。
もう一度入口を見たとき。
エル=ネフリドは、別の客へ席を案内していた。
警部との会話さえ、自分の役目の一部でしかなかったように。
◇
舞台裏へ戻ったミラベルが見たのは、幕を挟んだ二つの世界だった。
幕の向こう。
五百人の観客は、王が第三幕へ現れたことを知っている。
右腕を上げ。
オズリックの声で喋り。
剣を受け。
血を流し。
玉座へ倒れたことを見ている。
幕のこちら。
オズリック=ヘイルは、玉座へ固定されたまま死んでいる。
ヴァネッサは王妃の衣装へ毛布をかけられ、椅子へ座っていた。
白い衣装には赤い染料が飛び散っている。
手も赤い。
顔だけが、血の気を失っていた。
レオンは玉座の前に立っている。
オズリックの右腕。
外された仮面。
引き込み式の剣。
破れた血袋。
背もたれへ沈んだ身体。
それぞれを、別のものとして確かめるように見ていた。
「レオンさん」
ミラベルが近づく。
「観客は、全員残っています。エル=ネフリドさんが出口に」
「また彼か」
「劇場の人たちは、誰も不思議に思っていません」
「あとで名簿を見る」
「オズリックさんは」
「剣で死んだのではない」
ヴァネッサが顔を上げる。
「では、何で?」
「まだ分からない」
「いつ死んだの」
「それも、まだだ」
「舞台へ出たときは生きていた」
ヴァネッサの声が強くなる。
「腕を上げた。喋った。私の目の前で」
「君は仮面の中の顔を見たか」
「見ていない」
「胸が呼吸で動くところを見た?」
「衣装で見えなかった」
「右腕が上がったのは見た」
「ええ」
「声を聞いた」
「オズリックの声だった」
「剣を当てた」
「私が」
「血が流れた」
「血袋の染料よ」
「身体が倒れた」
「見ていたでしょう」
「見ていた」
レオンは、一つずつ確認した。
腕。
声。
剣と血。
倒れた身体。
「今は、それぞれを分けて考える」
「分ける?」
ミラベルが尋ねる。
「腕が上がったことと、声が聞こえたことは、別の現象だ」
レオンは外された仮面を見る。
「剣が当たったことと、身体が倒れたことも別だ」
「でも」
「一度に説明しようとするな」
声は低い。
「見たことを、見た順番で残せ」
ミラベルは手帳を開いた。
硬筆の先が、わずかに震えている。
それでも書く。
王の右腕が上がった。
仮面からオズリックの声が聞こえた。
王妃の剣が胸へ当たり、血袋が破れた。
王の身体が玉座へ倒れた。
幕の裏で。
手は冷たかった。
仮面の内側は乾いていた。
剣は身体へ入っていなかった。
そして。
オズリック=ヘイルは死んでいた。
「この人は、いつ死んだの」
ヴァネッサが、もう一度尋ねた。
レオンはすぐには答えなかった。
乾いた仮面。
冷えた手。
呼吸のなかった身体。
自力では上げにくいはずの右腕。
午後の記録と同じに聞こえた声。
それらへ、順番に視線を向ける。
「検死を待つ」
やがて言った。
「今、確かなのは」
レオンは、引き込み式の剣を見る。
「君の剣が、この男を殺したのではないということだけだ」
ヴァネッサは、赤く染まった両手を見下ろした。
客席のざわめき。
警官の足音。
蒸気管の唸り。
上演記録簿を運ぶ靴音。
舞台脇の時計だけが、終演予定時刻を越えて進んでいる。
五百人が目撃した第三幕には。
右腕があり。
声があり。
剣と血があり。
王の死があった。
だが。
その四つが、どのようにオズリック=ヘイルの死へつながっているのか。
まだ、誰にも分かってはいなかった。




