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第3節 ― 第一幕の裏側

 舞台裏へ通じる扉が閉じた瞬間、月硝子劇場は別の建物になった。


 玄関広間を満たしていた香水と葡萄酒の匂いが消える。


 代わりに鼻へ入ってきたのは、古い木材、熱した機械油、化粧粉、湿った綱、蒸気管から漏れる金属臭だった。


 床は黒く塗られている。


 客席側の磨き上げられた床とは違い、無数の靴跡と車輪痕が交差していた。


 背景幕を運んだ跡。


 大道具の角を引きずった傷。


 落ちた蝋を削り取った白い筋。


 客の目には触れない劇場の歴史が、消しきれない汚れとして積み重なっている。


 頭上には、何十本もの綱が垂れていた。


 その先に何が吊られているのか、床からは見えない。


 高い暗闇で滑車が回り、木と鉄が擦れる。壁の内側から蒸気管の唸りが響き、ときおり圧力弁が短く息を吐いた。


「足元に気をつけて」


 先を歩くヴァネッサが、振り返らずに言った。


 黒いドレスの裾を片手で持ち上げ、床へ引かれた黄色い線の内側を進んでいる。


「その線から出ると?」


 ミラベルが尋ねた。


「背景の森に轢かれるか、王宮に潰されるわ」


 答えとほぼ同時に、巨大な石壁が通路を横切った。


 本物の石ではない。


 木枠へ布と石膏を貼り、灰色に塗った背景だった。四人の大道具係が、声をかけ合いながら車輪台を押している。


 舞台から見れば王城の外壁。


 裏から見れば、角材と縄と釘の集合体だった。


 ミラベルは壁を目で追い、黄色い線の外へ足を出しかけた。


 背後からレオンが肩を掴み、線の内側へ戻す。


「一つを見るなら、周囲も見ろ」


「壁を見ていました」


「壁以外に潰される」


「助けた直後に説教ですか」


「次も助けられるとは限らない」


 ヴァネッサが足を止めた。


「相変わらずね」


「何がだ」


「女性を助けた印象を、自分で台無しにするところ」


「印象を残すために助けたわけではない」


「そういうところよ」


 彼女は小さく笑い、再び歩き出した。


 通路の両側には、衣装や小道具が隙間なく並んでいる。


 銀色に塗られた木剣。


 冠。


 鳥の頭を模した仮面。


 紙の花びらを詰めた籠。


 古いエルフ文字が刻まれた祭壇。


 赤い染料を満たした革袋。


 刃が柄の内部へ沈む舞台剣。


 人を殺すための道具と、人が殺されたように見せる道具が、同じ棚へ整然と収められていた。


 レオンが引き込み式の剣へ視線を向ける。


「触らないで」


 ヴァネッサが言った。


「触れていない」


「次に分解しようとしている顔よ」


「刃の戻りが少し鈍い」


「稽古用。第三幕で私が使うものではないわ」


「油が古い」


「ブロムへ言って」


「言われなくても聞く」


「今夜は探偵ではなく、観客として招いたのだけれど」


「安全でない剣を、観客の前へ出さない保証はない」


 ヴァネッサは肩越しにミラベルを見た。


「昔から、こうなの?」


「私が知ってからも、ずっとこうです」


「お気の毒に」


「本人は親切のつもりです」


「同情しないでくれ」


「事実を述べただけです」


 前方から、乾いた木片を二度打ち合わせる音がした。


 カッ、カッ。


 舞台裏を走っていた人々が、一斉に動きを止めた。


 大道具係は壁を押す手を緩める。


 衣装係は針を持ったまま顔を上げる。


 頭上の作業台にいた男まで、暗がりから身を乗り出した。


 鐘でも、怒鳴り声でもない。


 小さな木片の音だけで、劇場の裏側すべてが呼吸を止めた。


「第二背景、下手へ半尺」


 穏やかな男の声がした。


「月灯は三番だけ圧を落として。楽団へ、序奏は予定どおり。王妃付きの衣装係は、あと三分で袖へお願いします」


 命令というより、確認事項を読み上げるような声だった。


 それでも、誰も聞き返さない。


 背景が半尺だけ動く。


 頭上の灯りが一つ暗くなる。


 伝令役の少年が、楽団席へ駆けていく。


 止まっていた時間が、同じ瞬間に動き始めた。


 声の主は、舞台袖脇の細い机に立っていた。


 四十代後半ほどのヒト族。


 灰褐色の髪へ白いものが混じり、短く整えられている。


 服も灰色だった。


 役者の衣装にも、技師の油汚れにも紛れてしまうほど地味で、胸元に装飾はない。


 片手には今夜の進行表。


 机の上には、黒革の分厚い帳面。


 右手には鉛筆。


 左手には、合図へ使った二枚の木片。


「マティアス」


 ヴァネッサが呼んだ。


 男は、若い大道具係が背景を固定したのを確かめてから顔を上げた。


「リード嬢。舞台袖へ入る時刻を一分過ぎています」


「客人をご案内しているの」


「存じています」


 マティアスの視線が、ミラベルとレオンへ移る。


 人間を値踏みする目ではなかった。


 新しく加わった二人が、舞台裏で危険なく動けるかを確認する目だった。


「ミラベル・ワトリアです。煤霧日報の」


「開演前取材、二名。上手袖、舞台機械室、衣装部屋。仮面支度室への立入りは禁止。第一鐘の二分前に、客席へお戻りください」


「私たちのことも、もう記録に?」


「記録されていない者を舞台裏へ入れると、事故が起きた際に探せません」


 マティアスは進行表の一行を示した。


 細かな文字が、分単位で並んでいる。


 背景転換。


 照明変更。


 役者の入退場。


 楽団への合図。


 蒸気圧確認。


 通路へ入る取材者の人数まで、同じ書式の中へ収められていた。


「取材者の名は、先ほどまで空欄だったそうですね」


 ミラベルが言った。


「名前が決まった時点で記入しました」


「記録より、人が先なんですね」


「舞台では、そうでなければ始まりません」


 含みのない声だった。


 それだけに、言葉が耳へ残った。


 奥で、綱を扱っていた若い男が手を滑らせた。


 吊られていた布背景がわずかに傾く。


 周囲の職人が一斉に支えた。


「止めて」


 マティアスが木片を一度鳴らした。


 カッ。


 動きが止まる。


「右の留め具が摩耗しています。君の引き方ではありません」


 失敗した若者へ、穏やかに言う。


「ブロムへ交換を頼んで。予備の背景を先に使います」


「すみません」


「謝るのは、確認を怠った私です。手を見せて」


 若者の掌へ、縄で擦れた赤い跡がある。


 マティアスは机の引き出しから布を取り出し、近くの者へ渡した。


「冷やしてから巻いてください。第二幕の転換までは、別の者が入ります」


 責める声はなかった。


 大きな失敗として扱うこともない。


 必要な処置と、次の配置だけを決める。


 若者は何度も頭を下げ、仲間に連れられていった。


 周囲の者たちは、すでに自分の仕事へ戻っている。


 誰もが知っているのだ。


 間違えても、マティアスが舞台全体を止めてくれる。


 止めたあと、誰を責めるより先に、次の動きを作ってくれる。


「舞台監督でいらっしゃるんですね」


 ミラベルが言った。


「舞台監督兼上演記録官です」


「二つの仕事を?」


「動かした者が、実際に動いた内容を記す方が早い」


「予定時刻ではなく?」


 レオンが帳面を見る。


「実時刻です」


「予定と違えば」


「赤線を引き、横へ実際の時刻を記入します」


「確認者は」


「支配人です」


「作る者と、正しいと証明する者は別にいる」


「劇場も組織ですから」


「二人が同じ間違いをしたら?」


「クラウス氏」


 ヴァネッサが制する。


「まだ何も間違っていないわ」


 マティアスは気を悪くした様子を見せなかった。


「疑うことは必要です」


 むしろ、わずかに微笑む。


「ただ、舞台はすべてを疑ったままでは動かせません」


「信頼しろと?」


「綱が切れないと信じる。灯りが点くと信じる。役者が台詞を覚えていると信じる。相手が剣を止めると信じる」


 舞台袖へ視線を向ける。


「そのうえで、切れていないか、点くか、覚えているか、剣が正しく戻るかを確認する。信頼と確認を両立させるのが、私の仕事です」


 レオンは返さなかった。


 納得したわけではない。


 だが、マティアスを単なる帳面係として見ることはやめたようだった。


「マティアス=ロウです」


 男は改めてミラベルへ名乗った。


「二十二年、この劇場で舞台を動かしています。記事になさるなら、私より役者を」


「舞台監督がいなければ、幕は上がりません」


「だからこそ、観客には見えない方がいい」


 マティアスが木片を一度鳴らす。


 カッ。


 頭上で綱が引かれ、暗闇から巨大な月の背景が下りてきた。


 マティアス自身は動かない。


 綱を引いた者。


 灯りを調節した者。


 背景を受け止めた者。


 全員が別の人間だった。


 だが、そのすべてが彼の音から始まった。


 舞台裏には大勢の人がいる。


 役者。


 衣装係。


 大道具係。


 照明技師。


 音響係。


 蒸気技師。


 楽団。


 全員が自分の仕事を知っている。


 そして。


 次に何をすべきか迷ったときは、マティアスの木片を待っていた。


     ◇


 奥で、激しい金属音が響いた。


 蒸気の白い筋が通路を横切る。


「その弁を閉じるな! 圧が逆流するぞ!」


 怒鳴り声とともに、煤と油にまみれたドワーフが現れた。


 幅の広い肩。


 太い腕。


 赤褐色の髭を短く編み、真鍮の留め具で束ねている。革の前掛けには大小の工具が差し込まれ、片目には跳ね上げ式の拡大鏡。


「ブロム」


 マティアスが呼んだ。


「右の留め具が摩耗しています。手を空けられるときにお願いします」


「手が空く前に、劇場が壊れそうだ!」


「今のところ壊れていません」


「今のところ、で安心するな!」


「安心していません。だからあなたを呼びました」


 ブロムは一瞬口を閉じた。


 それから鼻を鳴らし、工具を持ち替える。


「あとで見る」


「お願いします」


「取材中ですか」


 ミラベルが訊いた。


「見れば分かる!」


 ブロムは彼女たちを見た。


「見物なら黄色い線から出るな。ここでは王妃より背景幕の方が人を殺す」


「同じ説明を受けました」


「なら覚えがいい」


「ブロム=ガドル。舞台機械主任よ」


 ヴァネッサが紹介する。


「この劇場の機械の半分を直し、残り半分を怒鳴って動かしている人」


「逆だ。怒鳴るのが先で、直すのが後だ」


「動けば同じでしょう?」


「女優は、壊れた機械も台詞で動かせると思っている」


「あなたは、壊れた女優も油で直そうとするわ」


「少なくとも静かになる」


 ブロムは、レオンが通路の奥を見ていることに気づいた。


「そいつには近づくな」


 黒布を被せられた大きな物体が、車輪台へ載せられている。


 高い背。


 左右へ張り出した肘掛け。


 布の下から、歯車と細い金属棒が覗いていた。


「王の玉座か」


 レオンが尋ねる。


「本番前の機械へ触るな」


「見ているだけだ」


「そういう目をした奴は、見たあと手を出す」


 レオンは黒布から覗く右側の機構を見る。


「左右で構造が違う」


「演者の身体へ合わせている」


「オズリックの肩に?」


「王衣装は重い。座っているだけでも、肩と腰を支えなきゃ姿勢が崩れる」


「右の肘掛けから、腕へ棒が延びている」


「腕甲につなぐ補助具だ」


「何を補助する」


「王らしく見せる」


 ブロムは布を引き、機構を隠した。


「仕掛けを全部知ったら、客は役者じゃなく歯車を見る。舞台の外では黙っていろ」


「右腕を本人が上げる必要は?」


 レオンが重ねる。


 ブロムの眉が寄る。


「腕を痛めた演者が、長い袖と腕甲の重さに負けないよう支える。それ以上は公演後だ」


 答えは嘘ではない。


 だが、すべてでもない。


 ミラベルにはそう聞こえた。


「王の衣装も見られますか」


 彼女が尋ねる。


「衣装は俺の仕事じゃない」


「こちらです」


 細い声がした。


 若いエルフの女性が、通路の奥から駆けてくる。


 腕には黒い衣装布と銀色の金具。


 首から針山を下げ、淡い金髪を後ろで束ねている。耳の先には細かな火傷痕があった。


「王妃の肩飾りを直していました。ご案内が必要なら」


「ありがとう、イリス」


 ヴァネッサが言った。


 女性はミラベルたちへ頭を下げる。


「イリス=セーヴァです。ヴァネッサ様の衣装係と、代役を務めています」


「代役も?」


「台詞合わせと立ち位置の確認だけです」


「彼女なら本番も務まるわ」


 ヴァネッサが言う。


「私より少し背が低いけれど、照明の中なら客席は気づかない」


 イリスの顔がわずかに強張った。


「そのようなことは」


「褒めているのよ」


「王役の衣装も、イリスさんが?」


「一部だけです。王役には専任の支度係が入ります」


 イリスは作業台へ、黒い手袋と銀黒色の腕甲を置いた。


「これは?」


 ミラベルが尋ねる。


「王の内手袋と外装腕甲です」


 イリスは薄い黒布の手袋を持ち上げた。


 指先まで覆うが、舞台衣装としてはかなり薄い。


「内手袋は、仮面支度室へ入る前に役者本人が着けます。汗で仮面の留め革や衣装を傷めないためです」


「ヘイル卿も、もう?」


「先ほどお渡ししました。第三幕まで外さない予定です」


 次に、金属と硬革で作られた腕甲を示す。


「外側の腕甲は、前腕と手の甲へ固定します。掌側は開いているので、指を曲げたままでも装着できます」


「左右で違うんですね」


 右の腕甲には、小さな連結金具がついている。


 左側は装飾が中心で、より軽い。


「右側は玉座の補助具へ接続します」


 イリスが言った。


「肩を痛めている方なので、袖と腕甲の重さを支えるために」


 レオンは金具を見た。


「本人が腕を動かしても、機構が追従する?」


「調整はブロムさんが」


「そこから先は公演後だ!」


 ブロムの声が飛んだ。


 イリスは驚いて腕甲を置く。


「すみません」


「お前が謝ることじゃない」


 ブロムはレオンを睨んだ。


「質問が多い奴が悪い」


「探偵ですから」


 ミラベルが言う。


「記者も多い」


「記者は、質問を書き残すだけです」


「余計に悪い」


 通路の奥から声がした。


「リリア! 王妃の第二外套はどこだ!」


 イリスの肩が跳ねた。


 ミラベルは聞き間違いかと思った。


「今、何と?」


「古い呼び名です」


「芸名?」


「劇場で使う名です」


 答えが少し早かった。


 マティアスが、帳面から顔を上げる。


「衣装補助の登録名は《リリア=ノア》です」


「本名と違う?」


 レオンが尋ねた。


「本名。芸名。役名。組合登録名。劇場では、一人が複数の名を持つことがあります」


 マティアスはイリスへ視線を向けた。


「ただし、取材記事へは本人が名乗った名前を使ってください」


 イリスの表情が少し緩む。


「はい。イリス=セーヴァでお願いします」


「十二年前の上演記録にも、《リリア=ノア》がある」


 レオンは公演冊子の巻末を開いていた。


 過去の復元公演に関わった役者と舞台係の一覧。


 確かに、その名が印刷されている。


 イリスの年齢とは合わない。


「同じ登録名を、以前の者から引き継ぐ場合があります」


 マティアスが答える。


「珍しくはありません」


「誰が決める」


「劇場と組合です」


「本人は?」


「クラウス氏」


 ヴァネッサが間へ入った。


「取材へ連れてきたのであって、尋問をさせるためではないわ」


「質問しただけだ」


「あなたの質問には、答えなかったことまで記録される」


 レオンはイリスを見る。


 彼女の指には針傷がある。


 左の親指には古い包帯。


 抱えた布を握る手に、力が入っていた。


「衣装について教えてください」


 ミラベルが話題を戻した。


「第一幕と第三幕で、王妃の衣装は変わるんですよね」


 イリスは、ほっとしたように頷いた。


「第一幕では、鏡片は背中へ縫います。自分では見えない場所に真実がある、という意味です」


「第三幕では?」


「胸元へ移します。王の名を知り、自分が何を見るか選んだ証です」


「衣装が、台詞の代わりに意味を伝える」


「古い儀礼劇では、祭壇から遠い者や、言葉の異なる部族も見ていました。色や形だけでも、物語が分かるように作られています」


 ミラベルは、銀色の肩飾りを見た。


 客は自由に舞台を見ていると思う。


 だが、明るい衣装。


 動く鏡。


 鳴る音。


 それらは、見るべき場所を先に示している。


 ノクスが玄関で話していたことを思い出した。


 しかし、ここで結論を出すには早い。


 ミラベルは手帳へ、短く一行だけ記した。


 ――衣装は、観客へ役の意味を教える。


     ◇


 マティアスの木片が二度鳴った。


 カッ、カッ。


「舞台上に必要のない方は、客席へお戻りください。開演二分前です」


 取材終了を告げる声にも、威圧はなかった。


 ただ、この劇場では誰もが従った。


「続きは幕間に」


 ヴァネッサがミラベルへ言う。


「舞台裏へ戻っても?」


「私が呼ぶわ」


「仮面支度室は?」


「入らないで」


 返答が早かった。


「あそこは第三幕の王役が使う部屋よ。重い仮面を固定するため、古い防音布が残っている。外の音も、中の声もほとんど聞こえないわ」


「誰が入れる」


 レオンが尋ねる。


「舞台監督。衣装係。王役。必要なら機械主任」


「ヴァネッサは?」


「衣装や立ち位置の確認が必要なら」


「今夜も?」


 ヴァネッサはレオンを見る。


「まだ事件は起きていないわ」


「起きてからでは遅いこともある」


「昔もそう言ったわね」


 イリスの手が、銀の留め具へ触れた。


 小さな金属音がする。


 ヴァネッサは何事もなかったように舞台袖へ向き直った。


「第一幕の位置へ」


 マティアスの声が通る。


 役者たちが動き始める。


 老いた祭司。


 名を失った兵士。


 鏡を運ぶ侍女。


 顔を白く塗った合唱隊。


 先ほどまで笑い、急ぎ、汗を拭っていた人々から、個人の表情が消えていく。


 ブロムは床下へ続く鉄梯子を下りた。


 イリスはヴァネッサの裾を最後に整え、暗がりへ退く。


 マティアスが舞台を見渡す。


 照明係が彼を見る。


 楽団の指揮者が腕を構える。


 大道具係が綱へ手をかける。


 全員が、自分の持ち場にいる。


 それでも。


 最後の一歩だけは、マティアスの合図を待っている。


 木片が閉じた。


 カッ。


 客席の照明が落ちる。


 暗闇の向こうで、五百人分の呼吸が一つにまとまった。


 二度目の合図。


 カッ。


 弦楽器が低く鳴る。


 幕が上がり始める。


 ヴァネッサが一歩、光の中へ踏み出した。


 直前までミラベルと話していた女は、もうそこにいない。


 銀の肩飾りをまとった《鏡の王妃》が、月白色の舞台へ現れた。


 客席の空気が変わる。


 五百人の視線が、一斉に彼女へ集まった。


「客席へ」


 マティアスが小声で促した。


 ミラベルは、すぐには動けなかった。


 背景の裏側を見た。


 血袋も。


 引き込み式の剣も。


 蒸気管も。


 合図を出した男も知っている。


 それでも今。


 木と布の壁は王宮となり。


 真鍮の灯りは月となり。


 一人の女は王妃となった。


 虚構であることと。


 舞台の上で世界が成立することは。


 矛盾しないらしい。


「ワトリア嬢」


 レオンに呼ばれ、ミラベルは我に返った。


 二人は袖裏の細い通路を通り、二階中央桟敷へ戻った。


     ◇


 第一幕は、名を捨てて王となった男の不在から始まった。


 王自身は姿を見せない。


 舞台の奥にあるのは、黒い布を被せられた空の玉座だけ。


 合唱隊が王の名を問う。


 誰も答えられない。


 鏡の王妃は、王がかつて名を持っていた証拠を求め、城の中から七枚の鏡を集める。


 一枚目は、幼い日の顔。


 二枚目は、兵士の顔。


 三枚目は、恋人の顔。


 鏡が増えるほど、王の姿は曖昧になっていく。


 観客はヴァネッサを見ていた。


 彼女が舞台左へ歩けば、五百人の顔も左へ動く。


 手を上げれば、指先へ視線が集まる。


 背後で侍女が鏡を入れ替えても、ほとんど誰も見ていない。


 ミラベルは意識して、ヴァネッサから目を外した。


 舞台の端。


 暗がりから伸びる手。


 鏡を運ぶ侍女の足元。


 背景幕の下から一瞬だけ覗く作業靴。


 月灯が明るくなる直前、天井の闇で回る歯車。


 主役を見なければ。


 舞台を成立させている別の人々が見えてくる。


「何を見ている」


 レオンが囁いた。


「見られていない人たちです」


「ノクスの講義に感化されたか」


「反証しようとしています」


「結果は」


「今のところ、悔しいですが正しいです」


「正しい部分だけを使え。話した者まで信じるな」


「ヴァネッサさんにも同じことを?」


 レオンは答えなかった。


 舞台上で、王妃が六枚目の鏡を割った。


 鋭い音。


 客席からどよめきが上がる。


 鏡は本物ではない。


 薄い硝子糖。


 割れる場所も、音が鳴る瞬間も決められている。


 それでも、月白色の光を散らす破片は美しかった。


 第一幕の終わり。


 王妃は最後の一枚を抱き、空の玉座へ問いかける。


「あなたが名を捨てたのなら、わたしは何を呼べばよいのです」


 返事はない。


「王よ」


 王妃が呼ぶ。


「名なき王よ」


 黒布に覆われた玉座の右側で、小さな金属音がした。


 客席の大半は、気づかなかっただろう。


 レオンの視線が、舞台奥へ動く。


 ミラベルも見た。


 布の下で、何かがわずかに沈んだように見えた。


 その直後、月灯が消える。


 幕が下りた。


 拍手が劇場を満たす。


 舞台脇の時計は、午後八時二十三分を示していた。


     ◇


 幕が下りた舞台裏に、拍手の余韻はなかった。


 役者は第一幕の衣装を脱ぎ、第二幕のものへ着替える。


 汗を拭く者。


 水を飲む者。


 台詞を確認する者。


 壊れた鏡を片づける小道具係。


 背景を入れ替える大道具係。


 第一幕が終わった瞬間から、第二幕の準備が始まっていた。


「第二背景、入替え七分」


 マティアスの声が通る。


「合唱隊は、衣装を替えた者から確認。月灯二番、圧を上げすぎないでください」


 帳面へ時刻を書き込む。


「第一幕終了、八時二十三分」


「予定どおりですか」


 ミラベルが尋ねた。


「ほぼ」


「ほぼ?」


「王妃の六枚目の鏡で、台詞の間が三秒長かった」


「秒は記録しないと」


「上演記録には書きません。演出注意へ残します」


「三秒でも分かるんですね」


「二十二年やっていますから」


 マティアスは副舞台監督へ進行表を渡した。


「第二幕前半は定型合図です。予定どおり進めてください。異常があれば、呼び鈴を二度」


「承知しました」


「舞台監督がいなくても、進められるんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「決められた部分だけなら」


 マティアスは答えた。


「一人が倒れても、舞台全体が止まらないように、合図は分担してあります。ただし変更が出れば、私が判断します」


 彼がすべてを動かしている。


 だが、すべてを一人で動かすようには作っていない。


 だから舞台は、毎晩続けられるのだろう。


 ヴァネッサが戻ってきた。


 第一幕の銀の肩飾りを外し、イリスに手伝われて第二幕用の深い青の外套を羽織っている。


「最後の台詞を伸ばしたな」


 レオンが言う。


「客席の呼吸を待ったの」


「予定外だ」


「舞台は時計ではないわ」


「マティアスは記録している」


「彼は、必要なことを記録するのよ」


「三秒です」


 マティアスが答えた。


「次は二秒にするわ」


「予定どおりにしてください」


「予定どおりでは、今夜の客には短かった」


 そのとき。


 黒い短衣を着た使い走りの少年が、通路を駆けてきた。


「リード様」


 息を切らし、折り畳まれた紙を差し出す。


「ヘイル卿からです」


 ヴァネッサの手が止まった。


「どこに?」


「王役の下衣へ着替えて、仮面支度室の近くでお待ちです」


 イリスの顔から、わずかに血の気が引いた。


 ミラベルは見逃さなかった。


 ヴァネッサは手紙を開く。


 数行だけの短い文らしい。


 最後まで読むと、元の折り目へ戻した。


「何と?」


 レオンが尋ねる。


「舞台の立ち位置を確認したいそうよ」


「第一幕前にも聞いた」


「ええ」


「手紙を見せろ」


「なぜ?」


「立ち位置の話だけか確かめる」


 ヴァネッサは紙を胸元へ収めた。


「昔と変わらないのね」


「君もだ」


「なら、互いに安心でしょう」


「第二幕の支度があります」


 マティアスが言った。


「残り九分です」


「すぐ戻るわ」


「仮面支度室へ?」


「その近くまで」


 ヴァネッサはイリスへ向き直った。


「青の外套は、このままでいい。髪飾りを用意しておいて」


「私も参ります」


「必要ないわ」


「ですが」


「イリス」


 声は優しい。


 それでも拒絶だった。


「ここにいて」


 イリスは唇を噛み、頭を下げた。


「はい」


 ヴァネッサは青い外套の裾を翻し、舞台裏の奥へ歩いていく。


 仮面支度室へ続く通路。


 古い防音布の垂れた、照明の届かない廊下。


 奥へ進むほど、舞台裏の喧騒が吸い込まれていく。


 レオンが一歩、あとを追おうとした。


「クラウス氏」


 マティアスが呼ぶ。


「取材許可区域は、ここまでです」


「彼女は入った」


「出演者です」


「オズリックもいる」


「第三幕の出演者です」


「衣装係は?」


「王役の支度担当が入っています」


「名前は」


 マティアスは進行表を確認した。


「登録上は、リリア=ノア」


 イリスが顔を上げる。


「ですが、イリスさんはここにいる」


 ミラベルが言った。


「同じ登録名を使う支度係が、もう一人入っています」


「一つの名前を、複数の人間が使っている?」


 レオンが尋ねる。


「舞台裏では、一人が複数の仕事をし、一つの登録枠を交代で使うことがあります」


 マティアスは穏やかに答えた。


「詳細は公演後に。今は、第二幕を始めなければなりません」


 誤魔化そうとしているようには見えなかった。


 舞台を止めないために、質問へ割く時間を区切った。


 それだけに見えた。


 マティアスは副舞台監督へ頷いた。


 木片が一度鳴る。


 第二幕準備の合図。


 役者と係員が、それぞれの位置へ動き始める。


 舞台脇の時計は、午後八時二十五分。


 青い外套の最後の裾が、防音布の向こうへ消えた。


 その時点で。


 月硝子劇場の記録上は。


 まだ何一つ、予定から外れてはいなかった。

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