第2節 ― 仮面の王と昔の女
月硝子劇場の玄関広間は、外から見たときよりも広かった。
天井は三階席の高さまで吹き抜けになっている。
乳白色の硝子を組み合わせた巨大な円形灯が、空中に浮かぶ月のように吊られ、通常のガス灯より青白い光を落としていた。
黒い石壁。
磨き上げられた床。
左右へ分かれて延びる大階段。
銀糸を織り込んだ絨毯。
集まった観客の宝石や勲章までもが、月光に似た冷たい色を帯びている。
大階段の中央には、顔のない王の彫像が立っていた。
頭には冠。
肩からは重い外套。
しかし顔の部分だけが平らに削られ、代わりに黒い鏡が嵌め込まれている。
観客が前を横切るたび、鏡の王は異なる顔を映した。
老いた法官。
羽飾りをつけた婦人。
軍服姿の男。
古い礼装をまとったエルフ。
新聞記者。
探偵。
誰もが一瞬だけ王となり、次の瞬間には別の顔へ塗り替えられる。
ミラベルは足を止め、鏡の中の自分を見た。
濃紺の服。
小さな帽子。
手提げ鞄。
その隣に、黒い上着を着たレオンが立っている。
「この彫像も、演目の一部でしょうか」
「古い劇場には、観客を舞台へ入れるための装飾がある」
「まだ客席にも入っていません」
「劇場へ入った時点で、観客は役割を与えられている」
「エル=ネフリドさんと同じことを言いますね」
鏡の中で、レオンの目がミラベルへ向いた。
「訂正する。今のは忘れろ」
「もう覚えました」
「なら記録するな」
「記者にそれを頼みますか」
レオンは答えず、歩き出した。
玄関広間では、いくつもの会話が重なっている。
劇評。
市政。
鉄道会社の株価。
今夜の招待客。
そして、月硝子劇場の売却問題。
「今夜が最後の初日になるかもしれないそうですわ」
「建物は残すらしい。新しい興行会社が買うのだとか」
「舞台を蒸気見世物小屋へ改装する話もある」
「エルフ古典劇など、ヴァネッサ=リードがいなければ客が入らんよ」
「女優一人で劇場は支えられない」
劇場を惜しんでいるのか。
売却後の価値を品定めしているのか。
声だけでは判別できなかった。
壁際には、制服姿の警察官が立っている。
正面玄関。
大階段の脇。
舞台裏へ続く奥の回廊。
華やかな初日公演にしては、数が多い。
レオンも同じことに気づいたらしく、視線だけで配置を追っていた。
「警察の観覧付きとは、招待状に書かれていなかった」
「売却反対派が騒ぎを起こすのでしょうか」
「騒ぎを防ぐだけなら、入口へ集める」
「では?」
「全員が、同じ三か所を見ている」
ミラベルは警官たちの視線を追った。
正面玄関。
階段。
奥の扉。
「出入口を見ていますね」
「入ってくる者と、出ていく者を数えている」
「何かを防ぐというより、誰かを逃がさない配置です」
「少しは見るようになった」
「褒め言葉として記録します」
「今すぐ忘れろ」
そのとき。
大階段の上で、小さなどよめきが起きた。
◇
誰かが名を呼んだわけではない。
大きな声が上がったわけでもない。
それでも広間にいた者たちの視線が、波のように同じ方向へ動いた。
階段の中ほどに、一人の女が立っていた。
ヴァネッサ=リード。
写真で見るよりも、ずっと静かな女だった。
舞台女優という言葉から想像するような、大きな身振りはない。
両手を広げることも。
微笑みを振りまくこともない。
ただ階段に立ち、広間を見渡している。
それだけで、周囲の声が自然に低くなった。
長い黒髪は、片側だけを銀の飾り櫛で留めている。
耳元には細長い月形の耳飾り。
開演前の挨拶用らしい黒いドレスには、銀糸の蔓草模様と小さな鏡片が縫い込まれていた。
彼女が身じろぎするたび、鏡片が月白色の光を細かく返す。
紫がかった瞳が広間を巡り。
レオンの姿で止まった。
ヴァネッサは驚かなかった。
予定どおりの登場を確認した演出家のように、静かに微笑む。
階段を下り始める。
途中で声をかけた老婦人には、親しい娘の顔を。
商会主には、敬意を知る女優の顔を。
若い劇評家には、賛辞を喜ぶ芸術家の顔を見せた。
足は止めない。
だが誰も、軽く扱われたとは感じていないようだった。
相手が欲しがるだけの表情を。
欲しがる分だけ渡していく。
マルタの言葉が、ミラベルの頭へ蘇る。
――あの女は、相手が信じたい顔を見せる。
ヴァネッサは最後の段を下り、レオンの前で足を止めた。
「こんばんは、クラウス氏」
「こんばんは、リード嬢」
互いに礼儀正しい。
声も穏やかだった。
ただ、その呼び方だけで、二人の間へ細い刃が置かれたように感じられた。
「来てくださったのね」
「招待状には、幕が下りるまで席を立つなと書かれていた」
「昔から、あなたは命令へ素直に従う方だったかしら」
「従うかどうかを確かめるために呼んだのではないのか」
「いいえ」
ヴァネッサは笑った。
「あなたが、まだ命令文の裏を読みたがるのか確かめたかったの」
「期待には応えられたようだ」
「封筒を光へ透かしたでしょう」
「刃物が仕込まれている可能性があった」
「毒針も調べた?」
「当然だ」
「香りは?」
「月硝子劇場の便箋香だ。白霧花、樹脂、微量の鉄粉。君自身の香水ではない」
ヴァネッサの笑みが、ほんの少し深くなる。
「安心したわ」
「何が」
「昔ほど簡単には、私の匂いを信じなくなっていて」
ミラベルは視線を動かさなかった。
動かせば、自分が二人の会話へ聞き耳を立てていると認めるような気がした。
だが離れるわけにもいかない。
ヴァネッサは彼女がいることを承知しながら、最初にレオンだけへ言葉を向けた。
挨拶の順番さえ、一つの演出なのだ。
「以前の事件では、香水が手掛かりだったんですか」
ミラベルは自分から会話へ入った。
レオンがわずかに眉を寄せる。
ヴァネッサは、初めてミラベルを正面から見た。
服装。
手提げ鞄。
指先に残るインク。
帽子の留め方。
レオンとの立ち位置。
そのすべてを、一瞬で読まれたような気がした。
「以前の事件では」
ヴァネッサが答える。
「重要ではないものが、重要だと思われたの」
「誰に?」
「探偵に」
「結果として、重要ではなかった?」
「それを確かめる前に、事件は記録の中へ閉じられたわ」
「閉じたのは君だ」
レオンが言う。
「そう記録されているわね」
「否定するのか」
「あなたは、否定してほしい?」
二人は互いを見た。
恋人同士の視線ではなかった。
かつて言葉を信用し。
同時に、最も重要な一点で信用できなかった者たちの視線だった。
ミラベルは理解した。
二人の間にあるのは、終わった恋ではない。
終わっていない事件だ。
証言。
訂正された供述。
守られた誰か。
暴かれなかった真実。
二人は互いの顔を見るたび、過去の事件記録を読み返している。
「ワトリア嬢」
ヴァネッサが呼んだ。
「はい」
「初めまして。灰橋の記事を読みました」
「ありがとうございます」
「七名の名を並べた記事」
「名前を書き戻しただけです」
「名前を書くことが、最も危険な場合もあるでしょう?」
社交辞令ではない重さがあった。
「あなたは、消された者たちを書き戻した。それでも、殺人を犯した者を悲劇の主人公にはしなかった」
「被害者であることと、人を殺したことは分けるべきだと思いました」
「クラウス氏の教え?」
「いいえ」
ミラベルは答えた。
「レオンさんは、記事の書き方までは教えません」
「教えると、君は反対のことを書く」
レオンが言う。
「反対する価値があれば」
「ほらね」
ヴァネッサが笑った。
レオンへ向けたものよりも、少しだけ素直に見える笑みだった。
「あなたを招いてよかったわ」
「どうして私まで?」
「劇評家ではない人に、今夜の舞台を見てほしかったから」
「私は劇評を書いた経験がありません」
「劇評家は役者を見る。社交欄の記者は客席を見る。芸術欄の記者は戯曲の歴史を見る」
ヴァネッサはミラベルの手提げ鞄を見た。
「けれど、あなたは舞台からこぼれた者を見るでしょう」
「買いかぶりです」
「価値がないと思えば、招待券を二枚も用意しないわ」
「もう一枚はレオンさんのものです」
「そちらは、昔の未払い分」
レオンの目が細くなる。
「俺が何を払っていない」
「最後まで話を聞くこと」
「君が最後まで真実を話したことがあったか」
「真実は、最後に置くものよ。最初に見せれば、誰も舞台を見ない」
「事件は演目ではない」
「あなたにとっては、そうでしょうね」
ヴァネッサの笑みが薄れた。
「だからあなたは、結末へ着く前に幕を破る」
「幕の裏で人が死んでいれば、破るべきだ」
「死んでいなかった者まで、死者として記録されたことは?」
レオンは答えなかった。
沈黙が落ちる。
赤薔薇仮面舞踏会事件で、何があったのか。
誰が嘘をつき。
誰が守られ。
誰が記録の中で失われたのか。
ミラベルには分からない。
ただ、その事件では。
真実を暴くことと、誰かを救うことが、同じ意味ではなかったのだろう。
ヴァネッサが先に視線を外した。
「ごめんなさい。初日の客を玄関で追い返すところだったわ」
「招いた客を追い返すのも演出か」
「戻ってきたくなる別れ方を選ぶのが、よい女優なの」
「俺は戻っていない」
「今、ここにいるでしょう?」
レオンは答えなかった。
◇
「リード嬢」
広間の奥から、苛立ちを隠さない声が響いた。
「客人への挨拶より先に、劇場の現実を気にしてもらえませんかな」
一人の男が、人々の間を早足で近づいてくる。
五十代半ばほど。
痩せた長身。
濃茶色の礼服は上等だが、袖口が少し擦れている。胸元には月硝子劇場支配人の銀章。
ローウェル=ハース。
顔には、客へ見せる笑みと、帳簿を前にした疲労が同居していた。
その後ろから、もう一人の男が歩いてくる。
六十を越えた長身。
腹回りは重く、灰色の髪を後ろへ撫でつけ、口髭を短く整えている。
葡萄酒色の外套。
金色の時計鎖。
契約法院退官者の銀記章と、劇場後援会の紋章。
周囲の者が自分のために道を空けることを知っている人間の歩き方だった。
オズリック=ヘイル。
「何が現実です、支配人」
ヴァネッサが訊いた。
「西側昇降機の圧力弁だ。ブロムが、今夜中に交換しなければ次回公演へ使えないと言っている」
「なら交換を」
「費用がない」
ローウェルは短く答え、オズリックを見る。
「後援会の緊急修繕費を認めていただきたい」
「来月には売却先の技師が全設備を調べる」
オズリックは足を止めなかった。
「今夜動くものへ、今さら金を使う必要はない」
「今夜動くことと、明日も安全であることは別です」
「事故が起きたのか」
「起きる前に直すのが整備です」
「劇場支配人は、起きていない事故へ金を払いたがるのだな」
「会長は、起きていない利益を担保に劇場を売るでしょう」
ローウェルの声が鋭くなった。
近くの客が会話を聞きながら、聞こえていないふりをする。
オズリックの口元から笑みが消えた。
「今夜は祝う日だ。帳簿の話はあとにしろ」
「あとにしてきた結果が、今です」
「売却が成立すれば、負債も修理も買い手が引き受ける」
「職員も?」
ヴァネッサが訊いた。
「契約上必要な者はな」
「必要かどうかを、誰が決めるの?」
「新しい経営者だ」
「今、この劇場を動かしている者ではなく?」
「劇場を買う者には、その権利がある」
ローウェルは何かを言いかけた。
だが視線の先にレオンとミラベルがいることへ気づき、口を閉じた。
表情を整える。
「失礼しました。初日の玄関でする話ではありません」
「すでに充分聞かれた」
レオンが言った。
ローウェルは彼を見た。
「あなたが、クラウス氏ですか」
「そうだ」
「支配人のローウェル=ハースです。今夜は劇場の問題ではなく、公演を楽しんでいただきたい」
「問題のない劇場に、警察官はこれほど要らない」
ローウェルの目が、壁際の警官へ動く。
「警備は後援会の判断です」
「あなたの判断ではない?」
「私は、客を迎える責任者です」
「答えになっていない」
「劇場には、答えを出す順番があります」
ローウェルは丁寧に頭を下げた。
それから、オズリックへ低く言う。
「昇降機の件は、まだ終わっていません」
「公演後に聞く」
「公演後も、劇場が我々のものなら」
ローウェルはそう残し、係員へ呼ばれて奥へ戻っていった。
ヴァネッサは、その背中を見送った。
「経営難は事実らしいな」
レオンが言う。
「劇場に、金の心配がなかった時代などありません」
ヴァネッサの返答は静かだった。
「でも、今夜を最後にしようとしている人はいる」
オズリックが鼻を鳴らす。
「悲劇的な言い方だ。古びた経営を近代化するだけだよ」
「古いものを残すと約束したでしょう」
「価値があるものは残す」
「価値を決めるのは?」
「金を払う者だ」
ヴァネッサは微笑んだ。
先ほどまでの笑みとは違う。
完全に磨かれた、後援者へ見せる顔だった。
「では、今夜の王は、さぞ重い冠を被るのでしょうね」
◇
オズリックはようやく、レオンへ向き直った。
「君がレオン=クラウスか」
「そうだ」
「記録院を追い出された調査官だと聞いた」
「正確には、追い出された記録鑑定官だ」
「そこを訂正する者は珍しい」
「誤った記録を残すよりはいい」
オズリックは一瞬レオンを見つめ、大きく笑った。
「聞いていたとおり、扱いにくい男らしい」
左手を差し出す。
レオンも左手で握った。
不自然な握手だった。
オズリックは右手へ革手袋をはめたまま、外套の前を押さえている。
右腕全体が、身体の脇へ固定されているように見えた。
レオンの視線が右肩へ移る。
ごく短い観察。
オズリックは気づかなかった。
あるいは、気づいても意に介さなかった。
「こちらはミラベル・ワトリア嬢」
ヴァネッサが紹介する。
「七号車の記事を書いた記者です」
「ほう」
オズリックの目がミラベルへ向いた。
若い記者を見下す目ではない。
自分へ役立つか。
害になるか。
それを測る目だった。
「大きな鉄道会社を敵へ回したそうだな」
「記事を書いただけです」
「記事は判決文より厄介だ。判決は関係者しか読まないが、新聞は朝食の席まで入ってくる」
「読まれなければ、書く意味がありません」
「勇ましい」
「褒めていただいているのでしょうか」
「もちろんだとも。若者の勇気は、年長者が費用を払わず称賛できる数少ない美徳だからな」
ミラベルは笑わなかった。
オズリックも、笑うことを期待していないようだった。
「ヘイル卿は、今夜、後援者としてだけではなく舞台へ立たれます」
ヴァネッサが言った。
「第三幕の《名なき王》よ」
「王役を?」
ミラベルは公演冊子を開いた。
第三幕。
名を捨てて王となった男。
その名を取り戻そうとする鏡の王妃。
王は右手を掲げ、最後の言葉を告げる。
――名は滅びぬ。役に残る。
「歴代の王役は、劇場を支えた者が務める慣例だ」
オズリックは満足そうに言った。
「古くは祭司や領主。今夜は、この劇場を現代まで守った者として、私が玉座へ座る」
「守った、ですか」
ヴァネッサが静かに繰り返す。
「経営というものは、祈りだけでは続かん。役者の給金。照明の燃料。建物の修繕費。文化を守るには金がいる」
「その修繕費を、先ほど断っていましたね」
ミラベルが言った。
オズリックの視線が彼女へ向く。
「新聞記者は耳がよすぎる」
「聞こえる場所で話されていました」
「売却前に不要な費用を増やさないのも経営だ」
「危険がある設備でも?」
「危険があるかは、技師が大げさに言っているだけだ」
「舞台の王は、機械に支えられるのでしょう?」
オズリックの顔が、わずかに止まった。
「なぜそう思う」
「公演冊子では、王が右手を掲げます」
ミラベルは、オズリックの右腕を見る。
「ですが、先ほどから右肩がほとんど動いていません」
オズリックは笑った。
「観察の鋭い記者だ」
劇場の係員が、外套を預かろうと近づいてくる。
オズリックは左手で襟の留め金を外した。
左肩を後ろへ引く。
右側の外套が腕へ引っかかる。
右腕は上がらない。
係員がすぐに背後へ回り、右袖を慎重に引き抜いた。
外套の下には濃灰色の礼服。
右肩から鎖骨にかけて、薄い固定具をつけているように布地が盛り上がっている。
「昔の馬車事故だ」
オズリックは言った。
「骨はつながったが、右腕は胸より上へ動かしにくい。日常生活に支障はない」
「舞台では、右手を高く掲げる」
「舞台には、舞台のやり方がある」
「腕を上げる稽古をしたのですか」
「王が手を掲げたように見せる稽古だ」
右腕を上げる。
手を掲げたように見せる。
わずかな言い方の差だった。
ミラベルは、公演冊子の端へ親指を添えた。
「王役の衣装は重いの」
ヴァネッサが言った。
「王冠。鏡面仮面。肩衣。外套。普通の役者でも、支えなしでは長時間同じ姿勢を保てない」
「それでも動くのは右手だけ」
「ええ」
「台詞も一つ」
オズリックが引き取る。
「声には自信がある。午後の音響確認でも、舞台監督から太鼓判を押された」
「音響確認?」
「仮面が声を吸うので、共鳴管を通して客席へ届かせる。古い儀礼堂の音響管へ、ドワーフ製の増幅器を接続してある」
出かける前、煤鳩亭でマルタが語った亡夫ドランの修理話を、ミラベルは思い出した。
壁の中で音が返る。
舞台下の圧が合わない。
古い儀礼堂へ、新しい蒸気管を無理に通した劇場。
「午後は、実際の台詞を言ったんですか」
「もちろん」
オズリックは低く、よく通る声を作った。
「名は滅びぬ。役に残る」
周囲にいた者が、何人か振り返る。
オズリックは満足そうだった。
「音を記録して、客席ごとの響きを確認した。第三幕では、劇場のどこにいても、この声が届く」
「記録?」
「蝋管だ。音響確認では、毎回使う」
ヴァネッサの目が、ほんの一瞬だけオズリックへ向いた。
「音響係が本番前に確認するだけよ」
「今夜の記事へ使うといい」
オズリックはミラベルへ言った。
「第三幕が終われば、誰もが私の王を話題にする」
その言葉には、疑いがなかった。
今夜の公演。
自分の登場。
掲げる右手。
発する台詞。
王妃に刺される最期。
すべてが予定どおり起こり、予定どおり観客の記憶へ残ると信じている。
「ヘイル卿」
ヴァネッサが言った。
「お支度のお時間では?」
「ああ」
オズリックは左手で袖口を整えた。
右手は身体の脇へ置かれたままだ。
「リード嬢。舞台裏の確認が済んだら、仮面支度室へ来たまえ」
「午後に立ち位置は確認したはずです」
「最終確認だ」
「舞台の?」
「ほかに何がある」
答えながら、声だけが少し低くなる。
ヴァネッサは、数秒オズリックを見た。
表情は読めなかった。
「承知しました」
「忘れるな」
「舞台の合図は忘れません」
「舞台の話だけではない」
オズリックはそれ以上言わず、係員を伴って奥の回廊へ去った。
右腕は歩行に合わせてもほとんど振られない。
それでも背筋は、王を演じる者らしく伸びていた。
ミラベルは、公演冊子の第三幕へもう一度目を落とした。
――王は右手を掲げる。
その一行が、先ほどより濃く見えた。
◇
「舞台へ立つ前から、役を自分の所有物へしてしまうとは」
穏やかな声がした。
「ヘイル卿には、王冠が少々重すぎるようですね」
大階段の柱の陰から、一人のエルフの男が現れた。
黒に近い深緑の礼服。
細身の長い身体。
流行よりも古い形の襟。
胸元には、銀の鎖で留められた黒い石。
髪は夜色で、耳の後ろへ静かに流している。
柔らかな微笑み。
知的な目。
整いすぎた人当たりのよさ。
それらの奥にある温度だけが、読み取れなかった。
「モリアン先生」
ヴァネッサが呼ぶ。
「教授とお呼びください」
男は笑みを保ったまま訂正した。
レオンの表情が変わった。
わずかな変化だった。
だが、その一語へ意識が鋭く集まったことを、ミラベルは見逃さなかった。
――教授。
第1の事件。
第2の事件。
記録の余白に何度か残されていた、顔のない呼称。
「ご紹介します」
ヴァネッサが言った。
「『鏡王の終幕』の古典構文監修、ノクス=モリアン教授。元ヴァルテリア記録大学客員教授です」
「元、という語は必要かな」
「肩書は正確に伝えるべきでしょう?」
「舞台女優が正確さを重んじるとは、よい時代になった」
「記録学者が役名に執着するよりは自然です」
「どの名で呼ばれるかによって、人は別の責任を負う」
ノクスの視線がレオンへ移る。
「そう思いませんか、クラウス君」
二人は初対面のはずだった。
少なくとも、ミラベルが知る限りでは。
「俺を知っているのか」
「もちろん」
「どこで」
「記録の中で」
「どの記録だ」
「処分記録。内部調査報告。記録院時代の鑑定書。それから、存在しないとされた依頼人を、存在する者として扱った事件記録」
「一般公開されていないものが含まれている」
「一般という言葉は便利だ。自分が入っていない集団を、すべて一般と呼べる」
「質問に答えろ」
「答えました。記録の中でお会いした」
ノクスは一歩近づく。
人物ではなく、長く探していた本を前にするような目で、レオンを見た。
「ようやくお会いできた」
静かに言う。
「記録院を追われた、優秀な読者に」
「読者?」
「君は、すでにある記録の読み方を壊す。署名が偽物だ。この死者は別人だ。この列車は六両ではない、と」
「壊されて困る読み方なら、真実ではない」
「まだ真実という語を使うのか」
「信じてはいない。調べるだけだ」
「それは信仰より執拗だ」
「教授という肩書は、信者を集めるためのものか」
ノクスの笑みが、わずかに深くなった。
「初対面で、私が最も嫌われやすい部分を選んだ」
「嫌われたがっているんですか」
ミラベルが口を挟む。
ノクスは彼女へ顔を向けた。
「人は、理解できない相手を嫌うと安心するものです。ワトリア嬢」
「私のことも記録で?」
「あなたは新聞で」
「今夜、三人目です」
「三人とも、違う読み方でしょう」
ノクスは公演冊子を軽く持ち上げる。
「同じ文章でも、読む者によって得るものは違う」
「観客も自由に舞台を見る、と?」
「そう信じています」
ノクスは答えた。
「今夜、それが本当か確かめるとよい」
「開演前から講義を始めないでくださいな」
ヴァネッサが言う。
「客席で眠る方が出ます」
「眠った者が、何を見たと証言するかも興味深い」
「教授」
先ほど去ったはずのオズリックの声が、回廊の入口から響いた。
仮面支度へ向かう途中、ノクスの言葉を聞きつけて戻ったらしい。
「今夜の主役を忘れてもらっては困る」
「主役?」
ノクスは振り返る。
「あなたの役は、第三幕の一場面だけです」
「《名なき王》だぞ」
「役名が大きいことと、役が大きいことは別です」
「この劇場を支えた者が王へ座る。それが伝統だ」
「古い儀礼では、王へ座る者は肩書も財産も客席へ置きます」
「細かな解釈だ」
「細部を正確にするのが、私の仕事です」
「費用を出したのは誰だと思っている」
「費用を出した者が、演目の所有者になるとは限らない」
オズリックの顔に、赤みが差した。
「所有権は契約で決まる」
「今夜は、その議論をする場ではないでしょう」
ヴァネッサが遮った。
「王役のお支度が待っています」
ノクスもそれ以上続けなかった。
軽く頭を下げる。
「失礼。完全な講義は、また別の機会に」
謝罪の形だった。
だが、誰にも謝ってはいない。
オズリックは鼻を鳴らし、今度こそ回廊の奥へ消えた。
「教授は、わざと怒らせたんですか」
ミラベルが訊く。
「怒る箇所を選んだだけです」
「同じことでは」
「まったく違います」
答えたところへ、警察外套を着たドワーフが近づいてきた。
バルトラム=グレアム警部。
華やかな観客の中で、彼だけが明らかに場違いだった。
濃紺の外套。
警部章。
腰の警棒と拳銃。
白い礼装手袋ではなく、使い込まれた革手袋。
「クラウス」
「やはりいたか」
「それはこちらの台詞だ。俺は仕事で来ている」
「観劇中の居眠りを仕事と呼ぶようになったのか」
「お前がいると分かった時点で、居眠りは諦めた」
グレアムはミラベルへ、軽く帽子の縁を上げた。
「ワトリア嬢。今夜は取材か」
「招待です。でも手帳は持っています」
「持っていない夜があるのか」
「寝るときは机に置きます」
「枕の下じゃないのか」
「一度やりましたが、角が痛かったので」
グレアムは短く笑い、ノクスへ向き直る。
「モリアン教授」
「グレアム警部」
二人は以前から面識があるようだった。
「警察官まで観客ですか」
「観客ではない。警備だ」
「舞台上で罪が起きると?」
「起きる場所を選ぶ犯人なら、警察も苦労せん」
「実に現場的な答えです」
「教授の答えよりは役に立つ」
グレアムの声に冗談はなかった。
「何があった」
レオンが訊く。
グレアムは周囲を見て、声を落とした。
「売却反対派が騒いでいる。三日前には裏口へ動物の血。昨日、支配人宛てに脅迫状が届いた」
「内容は」
「初日を中止しなければ、《王を玉座から引きずり下ろす》」
「印刷か」
「小型活字。紙も封筒もありふれたものだ」
「王とはヘイル卿?」
ミラベルが訊く。
「売却を進める中心人物だ。舞台の王役でもある。どちらにも読める」
「支配人は、なぜ警備が後援会の判断だと言った」
レオンが訊く。
「ローウェルは、騒ぎを大きく見せたくない。客が減れば売却価格にも響く」
「売却を望んでいるのか」
「借金を考えればな。だが劇場を手放せば、自分の職もなくなる」
「オズリックが死ねば、売却は止まる?」
ミラベルが口にする。
グレアムが彼女を見た。
「まだ誰も死んどらん」
「可能性の話です」
「その可能性を、開演前から大声で話すな」
「ローウェルにも動機がある」
レオンが言った。
「今夜は観劇だぞ」
「脅迫状が届いた場所で?」
「だから俺がいる」
「配置は逃走防止に見える」
「署名運動の連中が、客席から舞台へ上がるという情報もある。刃物を持てば捕まえる。紙を撒くだけなら追い出す」
「署名活動は?」
ミラベルが訊く。
「合法だ。劇場が嫌がっても、それだけでは捕まえん」
グレアムは舞台裏へ続く扉を見た。
「ただ、今夜は妙な連中が多すぎる」
「俺も含むのか」
「真っ先にな」
「正しい判断だ」
ヴァネッサが言った。
「ワトリア嬢には、開演前の舞台裏を見ていただきます」
「聞いておらんぞ」
「新聞社からの申請書が届いているでしょう」
「取材記者の名前が空欄だった」
「今、埋まりました」
グレアムは眉間を揉んだ。
「この劇場は、記録をあとから完成させるのが好きなのか」
「役者が決まってから配役表を書き直すこともあります」
「警察では通用せん」
「だから舞台は、警察より自由なのです」
「自由と無責任を混ぜるな」
グレアムはレオンを見る。
「お前も行く気か」
「オズリックの右肩と、音響設備を確認する」
「事件が起きる前から捜査か」
「右腕を上げられない男が、右手を掲げる役を演じる。興味を持つには充分だ」
「舞台の演出だろう」
「だから見る」
グレアムは大きく息を吐いた。
「壊すなよ」
「何を」
「舞台装置。公演。人間関係」
少し間を置く。
「昔の事件もだ」
レオンとヴァネッサの視線が、同時にグレアムへ向いた。
「警部まで読んだのね」
ヴァネッサが言う。
「警察官だからな。著名な供述訂正記録くらい読む」
「未解決ではありません」
レオンが言った。
「結論は出ている」
「納得していない人間が二人いる事件を、解決済みとは呼ばん」
「三人かもしれません」
ノクスが静かに言った。
「どういう意味だ」
レオンが問う。
「記録には、書いた者と、読んだ者と、書かれた者がいる」
ノクスは微笑んだ。
「結論に納得していないのが、君たちだけとは限らない」
三度目の鐘が、劇場全体へ響いた。
広間の空気が動く。
観客たちは会話を切り上げ、階段と客席入口へ向かい始める。
遠くで楽器の調律音が止まった。
舞台が、観客を待つ沈黙へ入る。
「時間ね」
ヴァネッサが言った。
「第一幕前に、少しだけ裏側をご案内するわ。続きは幕間に」
「公演直前でも大丈夫なんですか」
「公演直前だから、見えるものがあるの」
ヴァネッサは奥の扉を示す。
「役者が役になる前の顔。衣装が人を隠す瞬間。誰の合図で、何が動くのか」
ノクスが公演冊子を閉じた。
「よく見ておくといい」
「何をですか」
ミラベルが訊く。
「舞台のすべてを、と言えば広すぎるでしょうね」
少し考えるように間を置く。
「では、誰が何を待っているかを」
レオンがノクスを見る。
「君は何を知っている」
「まだ何も起きていない」
「起きていないことを知る者の言い方ではない」
「探偵は、事件の前から容疑者を欲しがるものですか」
「教授は、事件の前から講義をしたがるのか」
「優秀な読者がいるなら」
二人の視線がぶつかる。
まだ事件は起きていない。
死者もいない。
血も流れていない。
それでもミラベルには、この二人が同じ場所へ立った時点で、別の何かが始まったように感じられた。
「クラウス」
グレアムが低く呼ぶ。
「目を離すな」
「誰からだ」
グレアムは、ヴァネッサ。
ノクス。
ローウェルが消えた帳簿室の扉。
そして、オズリックが向かった回廊を順に見た。
「全員だ」
「警部らしい答えだ」
「お前も含めてだぞ」
「正しい判断だ」
レオンはヴァネッサのあとを追った。
ミラベルも続く。
舞台裏へ通じる扉の手前で、一度だけ振り返った。
ノクス=モリアンは、顔のない王の彫像の前に立っている。
月白色の光。
黒い鏡。
そこには、ノクスの顔が映っていた。
だが、その角度では。
鏡の王がノクスの顔を借りているのか。
ノクスが王の仮面を被っているのか。
ミラベルには判別できなかった。
扉が閉じる。
客席のざわめきが遠ざかる。
代わりに、舞台裏から別の音が聞こえてきた。
滑車。
蒸気管。
衣装の金具。
誰かの合図。
俳優の声。
まだ一つの演目にはなっていない、無数の断片。
これから誰かの指示によって、それらは一つの物語へ組み上げられる。
ミラベルは、鞄の中の取材手帳へ触れた。
王役の男は、右腕を上げられない。
昔の女優は、過去の真実を語らない。
劇場支配人は、売却を望みながら失うことを恐れている。
教授と呼ばれる男は、初対面の探偵を知りすぎている。
そして警察は、幕が上がる前から出口を塞いでいる。
舞台には。
すでに充分すぎるほどの役者が揃っていた。




