第1節 ― 月硝子劇場への招待
黒い封筒が《煤鳩亭》へ届いたのは、午後の客足が途切れ、窓硝子へ張りついた霧が、霧燈通りを白く塗り潰し始めた頃だった。
霧燈通り十三番地、黒鴉館。
煤けた煉瓦造りの建物の一階では、蒸気式湯沸かし器が低く唸っている。銅管を渡った熱が、注ぎ口から細い湯気となって漏れ、珈琲と古い木材の匂いに混じっていた。
店主のマルタ=グレインは、分厚い布巾で真鍮のポットを磨いている。
窓際の長卓では、ミラベルが三日分の新聞を広げ、記事の切り抜きを整理していた。
鉄環線の運行再開。
灰橋事故で消されていた七名の氏名。
鉄道会社役員の謝罪声明。
記録院による旧事故報告の再調査。
どの記事にも、最初の報道にあった熱はもう残っていない。
社会が事件を受け入れ始めると、名前は再び数字へ戻っていく。
分かってはいた。
それが新聞というものなのだと。
それでもミラベルは、まだ慣れることができなかった。
「嬢ちゃん」
マルタがカウンターの向こうから声をかける。
「その新聞の山、珈琲をこぼす前に片づけな。あとでクラウスが、読んでもいない紙まで証拠品にするよ」
「紙の山ではありません。資料です」
「机の端から落ちたら、資料も紙屑も同じさ」
「二階は、床まで資料に占領されていますけど」
「あれはもう救出不能だ」
二人は同時に天井を見上げた。
二階から、かすかに椅子を引く音がする。
聞こえてはいるらしい。
しかしレオンが抗議のために下りてくる気配はなかった。
ミラベルが切り抜きを揃え直した、そのとき。
店の扉に取りつけられた真鍮の鈴が鳴った。
冷たい霧が、細い風となって店内へ入り込む。
扉の前に立っていたのは、灰色の外套を着た配達人の少年だった。十五歳にも届かない年頃で、帽子の縁から濡れた髪が覗いている。
「霧燈通り十三番地、レオン=クラウス記録調査事務所で間違いありませんか」
「家賃を払わない探偵なら二階だよ」
マルタが答える。
少年はどう返せばよいのか迷った顔をしたあと、手にした封筒を差し出した。
「こちらを。受領印は不要だそうです」
「ずいぶん信用された届け物だね」
「差出人の方は、受け取らなくても受け取ったことになる、と」
マルタの手が、封筒へ触れる直前で止まった。
「そう言ったのかい」
「はい」
「どんな人だった」
「直接は会っていません。月硝子劇場の受付で渡されました」
少年は帽子を押さえて一礼し、霧の中へ駆け戻っていった。
扉が閉まる。
真鍮の鈴が、短く一度だけ鳴った。
マルタは封筒を裏返した。
光をほとんど返さない、艶のない黒い紙。
縁には髪の毛ほど細い銀線が引かれ、封蝋もまた黒い。
蝋に刻まれているのは、欠けた月と、その前を横切る一輪の薔薇。
月硝子劇場の紋章だった。
宛名は銀色のインクで記されている。
――レオン=クラウス殿。
「レオンさんへの手紙ですか」
「そう書いてあるね」
「依頼でしょうか」
「依頼人は、もう少し困った色の封筒を使うものさ」
「黒より困った色があるんですか」
「黒は困ってるんじゃない」
マルタは封筒をカウンターへ置いた。
「困らせる気の色だよ」
それから天井へ向かって怒鳴った。
「クラウス! 女から黒い手紙だよ!」
二階で何かが倒れた。
数秒後、階段を下りる足音がする。
レオン=クラウスは、白いシャツの袖を肘まで捲った姿で現れた。片手には拡大鏡。右の人差し指には青いインクがついている。
「女という情報は必要か」
「男からなら、もっと安い紙を使うだろうさ」
レオンは答えず、黒い封筒へ目を落とした。
その瞬間。
指先の動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
レオンは驚いても目を見開かない。
腹を立てても、滅多に声を荒らげない。
興味を持ったときほど無表情になり、危険を感じたときほど動作が静かになる。
だからこそ、ミラベルには分かった。
封蝋の紋章を見たとき、彼の中で何かが動いた。
そして、それを隠すために、身体のすべてを止めた。
「差出人をご存じなんですね」
「宛名しか書かれていない」
「差出人が分かっている顔をしました」
「俺がどんな顔をした」
「何も感じていないように見せる顔です」
レオンはミラベルを見た。
マルタが喉の奥で笑う。
「少しは探偵助手らしくなってきたじゃないか」
「記者です」
「どっちも、人が隠したものを勝手に覗く仕事だろう」
レオンは二人の会話を無視し、封筒を持ち上げた。
まず紙の匂いを確かめる。
銀の宛名へ光を当て、封蝋の周囲を拡大鏡で調べる。刃や針が仕込まれていないことを確認してから、暖炉脇の小卓に置かれたペーパーナイフを取った。
「普通の招待状だ」
「まだ開けてもいません」
「普通であることは、調べなければ分からない」
「差出人は危険な方なんですね」
「危険でない人間から、手紙が届いたことがあるか?」
封蝋が割れる。
乾いた音が、店内へ妙に大きく響いた。
封筒の中から現れたのは、二枚の厚い招待券と、一枚の便箋だった。
象牙色の招待券には銀箔が押され、中央に黒い鏡面仮面を被った王が描かれている。その背後には、細身の剣を持つ王妃の影。
演目名は、
――『鏡王の終幕』。
初日公演。
月硝子劇場。
午後七時開場。
午後八時開演。
二階中央桟敷、第一列。
一枚目の招待客名には、レオン=クラウス。
二枚目には。
ミラベル・ワトリア。
「私?」
ミラベルは思わず身を乗り出した。
「どうして私の名前が」
「灰橋の記事を読んだんだろう」
「署名は、紙面の下に小さく載っただけです」
「小さな文字を読む人間もいる」
「あなたの周りには、そういう人が多すぎませんか」
レオンは便箋を開いた。
黒い封筒とは対照的な、薄い月白色の紙だった。
女性の筆跡。
流麗でありながら、装飾へ逃げていない。文字の傾きも、行間も、最後まで正確に整えられている。
舞台上で発せられる台詞のように、読む者の呼吸まで計算された文章だった。
『親愛なるクラウス氏。
月硝子劇場にて、古典悲劇《鏡王の終幕》を上演いたします。
あなたは昔から、演技というものを好まなかった。
人が別の誰かを装うことも。
嘘へ真実らしい身振りを与えることも。
けれど、だからこそ。
今夜の舞台は、あなたに観ていただきたいのです。
ワトリア嬢も、ぜひご一緒に。
彼女はきっと、あなたよりも素直に舞台を観て。
あなたよりも正直に、それを記録してくださるでしょう。
幕が下りるまで、どうぞお席をお立ちになりませんように。
ヴァネッサ=リード』
最後の名を読み上げたのは、ミラベルだった。
「ヴァネッサ=リード……」
ヴェルム=クロウで、その名を知らない者は少ない。
月硝子劇場の主演女優。
《月硝子の歌姫》。
《仮面の薔薇》。
没落したエルフの古典芸術を、上流階級の見世物ではなく、一つの文化として舞台へ戻した女。
新聞の劇評欄には、その歌声と美貌が書かれる。
社交欄には、貴族や商会主との噂が載る。
そして、ときおり。
舞台の外でも、人の心を演じ分ける女だという悪評が、根拠もなく添えられていた。
「月硝子劇場のヴァネッサ=リードですよね」
「同姓同名の八百屋でなければな」
「八百屋は、こんな招待状を送りません」
「売れ残った蕪を処分したいのかもしれない」
「話を逸らしています」
レオンは便箋を、元の折り目から一分もずらさず畳んだ。
「記録院にいた頃、一度だけ事件で関わった」
「一度だけ?」
「一度で充分な事件もある」
声は平静だった。
だが便箋を封筒へ戻す動作だけが、普段より少し慎重だった。
ミラベルは、それ以上すぐには訊かなかった。
レオンの沈黙には二種類ある。
考えているときの沈黙。
そして。
考えたくないときの沈黙。
これは後者だった。
「《赤薔薇仮面舞踏会》」
マルタが、珈琲ポットを棚へ戻しながら言った。
レオンの視線が向く。
「マルタ」
「名前を言っただけだよ」
「それ以上は必要ない」
「あたしは役者じゃない。頼まれてもいない台詞まで喋る趣味はないさ」
ミラベルは二人を見比べた。
「事件の名前ですか」
「昔の話だよ」
マルタはそれだけ言うと、三つのカップへ濃い珈琲を注いだ。
湯気が、三人の間を一瞬だけ曇らせる。
「あの女は、嘘をつくんじゃない」
マルタが低い声で言った。
「相手が信じたい顔を見せるんだよ」
「それは、嘘をつくより難しいのでは」
「だから厄介なのさ」
「マルタ」
「余計なことは言ってないよ」
レオンの制止を片手で払い、マルタは招待券を見た。
「それで、行くのかい」
「依頼ではない。事件も起きていない」
「だったら、たまには事件の起きていない場所へ出かけな」
「劇場には毎晩、役者の遅刻と衣装の紛失と後援者の口出しがある」
「殺人じゃなきゃ、あんたには平和だろう」
レオンは招待券を見つめる。
「初日公演の中央桟敷です」
ミラベルが言った。
「私の給料では、入口にも近づけません」
「行きたいのか」
「演目には興味があります」
「女優にもだろう」
「あなたの過去にも、少し」
「正直なのは美徳とは限らない」
「記者には必要です」
「記者に必要なのは、事実と沈黙の区別だ」
「では、今の沈黙は事実を隠していますか」
レオンは珈琲を飲んだ。
返事はない。
返事をしないことで、必要なことを答えてしまっていた。
「私の名も書かれています」
ミラベルは招待券を取り上げた。
「レオンさんが行かなくても、私は行きます」
「君ひとりで?」
「治安の悪い場所ではありません」
「治安のよい場所では、人は安全だと思って警戒を解く」
「では、護衛をお願いします」
「俺は護衛ではない」
「家賃三か月分でどうでしょう」
「誰が払うんだい」
マルタが訊いた。
「レオンさんが」
「行きな」
即答だった。
レオンが眉間を押さえる。
マルタは黒い封筒を見ながら、ふと鼻を鳴らした。
「月硝子劇場か」
「何かあるんですか」
ミラベルが訊く。
「亡くなった亭主のドランが、昔あそこの蒸気配管を直してた」
マルタは何でもないことのように言った。
「古い儀礼堂へ新しい蒸気管を無理に通したせいで、面倒な仕事だったらしいよ。図面どおりに管を引くと、壁の中で音が返るだの、舞台下の圧が合わないだの。帰るたびに文句を言ってた」
「月硝子劇場の配管を?」
「ああ。ずいぶん昔の話だ」
「何か資料は残っていますか」
「観劇に行く前から事件にするんじゃないよ」
マルタはミラベルのカップへ珈琲を足す。
「ドランは仕事の紙を何でも箱へ突っ込む男だった。残ってるかもしれないし、鼠の巣になってるかもしれない」
「必要になったら見せてください」
「必要にならなきゃ見せないよ」
レオンは黒い封筒を上着の内側へ収めた。
「必要になる前提で話すな」
「あなたが行くと、大抵必要になるんです」
◇
開場時刻の少し前。
三階の下宿部屋から降りてきたミラベルは、普段の取材服ではなく、濃紺の長いスカートと生成りのブラウスを身につけていた。
華美ではない。
それでも劇場街へ出るには、いつもより整えた格好だった。取材手帳と鉛筆は、小型の手提げ鞄へ隠している。
マルタは一目見て頷いた。
「嬢ちゃんは、それでいい」
「ありがとうございます」
「問題は、もう一人だ」
二階からレオンが下りてくる。
黒い上着。
灰色のベスト。
白いシャツ。
古いが、仕立てのよい服だった。
ただし襟元のタイが、わずかに曲がっている。
マルタが無言で手招きした。
「何だ」
「屈みな」
「必要ない」
「屈みな」
レオンは諦めたように腰を屈めた。
マルタは太い指でタイを直し、襟についた糸屑を払う。
「子どもではない」
「子どもなら、もう少し素直だよ」
「観劇に服装の正確さは必要ない」
「劇場ってのは、舞台を見るだけの場所じゃない。自分がどう見られているか確かめに行く場所でもあるのさ」
襟を整え終えると、マルタはレオンの胸を軽く叩いた。
「舞台上の嘘を暴くのは勝手だけどね。昔の台詞まで掘り返すんじゃないよ」
「努力はする」
「それは、掘り返すって意味じゃないか」
レオンが店の扉を開けた。
夕霧が通りを満たしている。
「行くぞ」
ミラベルはマルタへ頭を下げ、レオンのあとを追った。
真鍮の鈴が、二人を送り出すように鳴った。
◇
霧燈通りから劇場街へ近づくにつれ、街の灯りは増えていった。
頭上を高架鉄道が走る。
馬車の車輪が濡れた石畳を削り、蒸気乗合車が白い息を吐いて交差点を曲がる。
新聞売りの少年が、灰橋事故の続報を叫んでいた。
煤。
油。
濡れた石。
馬の汗。
工房から漂う熱い金属。
それらが、ヴェルム=クロウの普段の夜を作っている。
だが劇場街へ入ると、空気が変わった。
香水。
花。
葡萄酒。
磨かれた馬車の革。
上流階級の男女が、従者の差す傘の下を、明るい玄関から次の玄関へ移っていく。
建物の壁には、公演広告が並んでいた。
喜劇。
歌劇。
奇術。
自動人形劇。
エルフ古典悲劇。
中でもひときわ大きな広告には、黒い鏡面仮面を被った王と、銀の剣を持つ王妃が描かれている。
王妃を演じる女の名は、他の出演者より大きな銀文字で印刷されていた。
――ヴァネッサ=リード。
印刷された彼女は、剣を持っているにもかかわらず、戦う女には見えなかった。
誰かを殺した直後なのか。
これから殺すのか。
それとも、自分が刺されるのを待っているのか。
見る者によって、どの顔にも見えた。
「綺麗な方ですね」
ミラベルが言った。
「印刷技術が優秀だ」
「本人の感想を訊いています」
「本人は印刷されていない」
「そういうところですよ」
「何がだ」
「女性に嫌われる理由です」
「困ったことはない」
「嫌われていることに気づいていないだけでは」
「気づく必要がある相手には気づく」
言ってから、レオンは口を閉じた。
ミラベルは横目で彼を見る。
ヴァネッサには気づいていた。
おそらく。
そして、気づいた結果が今の沈黙なのだ。
「私は、記者として招かれたんでしょうか」
「招待券には君の名がある」
「ヴァネッサさんは、私の記事を読んだと思いますか」
「読んでいる」
「どうして断言できるんです」
「君を、俺より正直に記録すると書いた」
「社交辞令かもしれません」
「彼女は、意味のない社交辞令へ人の名前を使わない」
その答えには、知識ではなく経験があった。
ミラベルは追及せず、手提げ鞄の上から取材手帳の位置を確かめた。
まだ事件は起きていない。
依頼さえない。
それでも黒い封筒は、幕が上がる前から何かを始めているように思えた。
◇
月硝子劇場は、劇場街の最も奥まった広場に建っていた。
黒い石造りの巨大な正面壁。
縦に細い窓には乳白色の硝子が嵌め込まれ、内部のガス灯を受けて青白く輝いている。
屋根の上には、仮面を掲げた二体のエルフ像。
一体は笑い。
一体は泣いていた。
その間に吊られた劇場時計は、午後七時十五分を指している。
広場へ、馬車が次々と到着する。
宝石を身につけた婦人。
勲章を飾った軍人。
商会主。
契約法院の法官。
新聞で顔を見た市政議員。
古い礼装をまとったエルフたち。
華やかな場所だった。
だが、その華やかさにはどこか葬儀に似たものがある。
皆が最も美しい服をまとい。
決められた言葉で挨拶を交わし。
自分が何者であるかを、周囲へ誤解なく示そうとしている。
正面階段には黒い絨毯が敷かれていた。
入口の両側には案内係が並び、観客から招待券を受け取って、真鍮の鋏で印を入れている。
階段を上りかけたミラベルが、足を止めた。
「レオンさん」
「見えている」
入口の中央。
他の案内係から少し離れた場所に、小柄な男が立っていた。
黒い礼装。
膝下まで届く細身の外套。
深紫のベスト。
磨き抜かれた革靴。
そして、劇場の案内係には不釣り合いな、黒いシルクハット。
片手には細身の杖。
もう片方には、真鍮の切符鋏。
ドワーフ族の男だった。
しかし、周囲にいるどのドワーフとも違う。
小柄なのに、群衆へ埋もれない。
穏やかに微笑んでいるのに、親しみやすくはない。
整いすぎた顔立ちは、見る者によって若くも老いても見える。
暗い金色の瞳だけが、舞台の照明を待つ鏡のように静かだった。
「七号車の……」
ミラベルが呟く。
灰橋の夜行急行。
存在しない七号車。
すべてが終わったあと、最後尾の連結部に立っていた車掌。
鉄環鉄道局の名簿には存在しなかった男。
エル=ネフリド。
彼は二人が近づくより先に、帽子の縁へ指を添えた。
「こんばんは、クラウス様。ワトリア様」
今夜ここへ来ることを、最初から知っていたかのような挨拶だった。
ミラベルは周囲を見た。
他の客は、誰も彼を不審に思っていない。
劇場の案内係たちも、そこにいることを当然のように受け入れている。
「車掌さん、ですよね」
「前回は、そのような役目を務めておりました」
「今回は劇場の案内係ですか」
「今夜は乗車券ではなく、入場券を検めております」
エル=ネフリドは、真鍮の鋏をわずかに掲げた。
「鉄環鉄道局は、職員を劇場へ貸し出すのか」
レオンが訊く。
「わたしは鉄環鉄道局の職員であると、申し上げたでしょうか」
「では、月硝子劇場の職員か」
「今夜、わたしはここで入場券を検めております」
「答えになっていない」
「役目への答えにはなっております」
レオンは上着の内側から二枚の招待券を出した。
だが、すぐには渡さない。
「職員名簿に、君の名はあるのか」
「名簿をご覧になったのですか」
「見ることになるかもしれない」
「それは楽しみです」
「何が」
「記されたわたしと、ここにいるわたしの、どちらを採用なさるのか」
エル=ネフリドは杖を持つ手を胸元へ添え、優雅に一礼した。
「役職は、場所によって変わるものです」
「名前もか」
男は少しだけ目を細めた。
「名前ほど、役に従順なものもございません」
霧の向こうで、劇場の鐘が鳴った。
一度。
開場を告げる鐘だった。
エル=ネフリドが手を差し出す。
レオンは数秒、その顔を見つめてから招待券を渡した。
真鍮の鋏が開く。
閉じる。
硬い紙へ穴を穿つ音は、夜行列車で乗車券を切ったときと同じだった。
一枚目。
レオン=クラウス。
二枚目。
ミラベル・ワトリア。
エル=ネフリドは券面を確かめ、二人へ返した。
「お二人とも、確かに入場されました」
「まだ入口ですけど」
ミラベルが言う。
「入場とは、扉を越えることだけを指すとは限りません」
「では、何を指すんですか」
「自分に与えられた席を、受け入れることです」
彼は公演冊子を二部取り上げた。
表紙には『鏡王の終幕』。
その下には、出演者と役名が印刷されている。
「配役は、あらかじめ記されております」
レオンは冊子を受け取ったが、開こうとはしなかった。
「舞台上の配役は、だろう」
「もちろんです」
エル=ネフリドは穏やかに微笑んだ。
「今のところは」
背後から次の客が近づいてくる。
彼はすでに二人への関心を失ったように、その客へ身体を向けた。
「どうぞ、最後までご観覧ください」
月硝子劇場の大扉が開いている。
その向こうには、乳白色の灯りに照らされた玄関広間。
磨かれた黒い床。
左右へ上る大階段。
仮面をつけた彫像。
葡萄酒と香水、古い木材の匂い。
劇場の奥からは、楽団が音を合わせる不揃いな響きが聞こえていた。
ミラベルは扉をくぐる前に、一度だけ振り返った。
エル=ネフリドは、次の客の入場券へ鋏を入れている。
黒いシルクハット。
穏やかな笑み。
彼だけが、劇場の案内係を演じているように見えた。
「レオンさん」
「何だ」
「やっぱり、何かおかしいですよね」
「何がだ」
「全部です」
レオンは、入場券に開けられた小さな穴を見た。
それから、黒い封筒と同じ色をした劇場の奥へ視線を向ける。
「その感覚を忘れるな」
「何がおかしいか、分かっているんですか」
「分かっていないから、忘れるなと言った」
二度目の鐘が鳴った。
観客たちが、それぞれ決められた席へ向かって動き始める。
ミラベルも歩き出す。
幕はまだ上がっていない。
役者もまだ舞台へ現れていない。
事件も、まだ起きてはいなかった。
それでも。
黒い封筒が煤鳩亭へ届いたときから、すでにこの夜の演目は始まっていたのかもしれない。
そして、劇場へ足を踏み入れた今。
レオンも。
ミラベルも。
自分たちが何を演じることになるのか知らないまま、配役表にない役を与えられていた。




