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第3節 ― 黒鴉館の依頼人

 雨は夜明け前に弱まった。


 だが、ヴェルム=クロウの空が明るくなったわけではない。煤煙と朝霧が混ざり、街の上へ灰色の蓋をしている。屋根から落ちる雫が蒸気管へ触れるたび、白い息となって通りへ流れた。


 霧燈通り十三番地。


 黒鴉館は朝霧の中で、巨大な鳥が翼を畳んでいるように見えた。


 三階建ての古い煉瓦造り。


 尖った屋根飾り。


 雨に濡れた黒鴉の鉄細工。


 二階の出窓には、古びた金文字で、


 L. Kraus

 Private Inquiry & Record Examination


 と記されている。


 一階の喫茶室《煤鳩亭》には、焼いた黒パンと濃い珈琲の匂いが満ちていた。


 窓際の丸机では、レオン=クラウスが昨夜の覚え書きを広げている。


 後頭部――二打。


 平行圧痕。


 死後火傷。


 赤土。


 指先の青。


 家印環なし。


 時計あり。


 契約書――署名欄焼損。


 その横には、焼けた契約書の転写が置かれていた。


 レオンは拡大鏡を通して、署名欄の黒い焦げ跡を見つめている。


「クラウス」


 厨房から声が飛んだ。


 返事はない。


 二度目は、皿が机へ置かれる音を伴った。


 黒パン。


 半熟の卵。


 燻製肉。


 湯気の立つ珈琲。


「注文した覚えがありません」


「注文を待っていたら、昼まで何も食べないだろ」


 マルタ=グレインは、両手を腰へ当てた。


 黒鴉館の管理人であり、《煤鳩亭》の店主でもある年配のドワーフ女性だ。小柄だが腕は太く、鉄灰色の髪を後ろでまとめている。


「昨夜は食べました」


「珈琲は食事じゃない」


「砂糖を入れました」


「口が動くなら、パンも食べな」


 マルタは、向かいに座るミラベルへもう一枚のパンを渡した。


「嬢ちゃんも食べるかい」


「いただきます」


 ミラベル=ワトリアは迷わず答えた。


 警察本部を出たあとも事件を諦めず、レオンについて黒鴉館まで来たのだった。


「新聞記者は、他人の朝食にも遠慮しないのですか」


「倒れるまで食べないより健全です」


「あんたも見習いな」


 マルタに言われ、レオンはようやく黒パンへ手を伸ばした。


 ミラベルは珈琲を飲みながら、机の覚え書きを見る。


「四年前の死亡記録について、警察は調べるんでしょうか」


「グレアム警部は調べます」


「記録院が、素直に資料を出しますか」


「素直である必要はありません。正式命令には従う」


「正式記録を疑うために、正式な手続を使うんですね」


「制度の中にある記録を調べるなら、制度の扉を使うしかない」


「あなたは、その扉から追い出された」


 マルタの手が、珈琲ポットの上で止まった。


 レオンは表情を変えない。


「よく調べていますね」


「記者なので」


「噂も記事にしますか」


「三種類以上集めて、共通した部分だけを残します」


「それなら、私について残るのは、性格が悪いという事実だけでしょう」


「事実なら仕方ありません」


 マルタが喉の奥で笑った。


「気が合ってきたじゃないか」


「どこがです」


 二人の声が重なった。


 そのとき。


 店の扉の上で、鈴が鳴った。


 朝の常連が来るには、まだ早い。


 入ってきた女は、敷居を越えたところで立ち止まった。


 エルフだった。


 淡い金髪を低い位置でまとめ、濃灰色の外套を着ている。上質な仕立てだが、袖口は擦れ、肩には丁寧な補修の跡があった。


 眠っていない目。


 冷えきった指。


 胸元へ抱えた小さな革鞄。


「こちらが……クラウス探偵事務所でしょうか」


「二階です」


 レオンが答えた。


「ただし、そこへ上がる前に座ったほうがいい」


 マルタが暖炉に近い椅子を引く。


「顔が真っ白だよ。茶を飲みな」


「何もいただくつもりは」


「では、茶だね」


 返事を待たず、マルタは厨房へ向かった。


 女が椅子へ腰を下ろしたとき、外套の裾から乾いた泥が落ちた。


 赤褐色。


 黒い煤泥の多い霧燈通りには似合わない土だった。


 レオンの視線が一瞬だけ下がる。


 ミラベルも見ていた。


 女は革鞄を膝へ置いた。


 留め具の隙間から、生成り色の新しい封筒が覗いている。郵便物ではないらしく、切手も消印もなかった。


 女はそれに気づくと、慌てて鞄を閉じた。


「私はミラベル=ワトリアです」


 ミラベルは正面を避け、女の斜め横へ座った。


「ヴェルム=クロウ日報の記者ですが、今は取材ではありません」


「今のところは」


 レオンが付け足す。


「余計なことを言わないでください」


「あとから知られるより親切です」


「二人とも、客を挟んで喧嘩するんじゃないよ」


 茶を運んできたマルタが言った。


「話なら二階でしな」


     *


 二階の応接室には、壁一面の本棚と都市地図、鉄道時刻表、事件ごとに束ねられた書類が並んでいた。


「人が住んでいるというより、事件が巣を作っているみたいですね」


 ミラベルが部屋を見回す。


「褒め言葉として受け取ります」


「違います」


 マルタは女を革椅子へ座らせ、茶を置いた。


「クラウスが失礼なことを言ったら呼びな」


「ここは私の事務所です」


「建物はあたしのだよ」


 そう言い残して、マルタは階下へ戻った。


 レオンは丸机の向こうへ腰を下ろす。


「お名前を」


「シェリル=ヴェインです」


 ミラベルが息を止めた。


「アルヴィン=ヴェインとの関係は」


「妹です」


 朝霧の向こうから、列車の汽笛が聞こえた。


「警察には?」


「今朝、行きました。兄は四年前に死亡しているから、昨夜の遺体との関係は確認できないと」


「正確には、確認中です」


「私には同じです」


 シェリルの目に、初めて怒りが浮かんだ。


「四年前にも言われました。記録がある。医師の証明がある。埋葬記録がある。だから兄は死んでいると」


「埋葬には立ち会いましたか」


「いいえ」


「身元確認をした親族は」


「私ではありません。両親はすでに亡くなり、近しい親族もほとんど残っていません」


「死亡通知へ異議を申し立てた?」


「しました。正式な死亡証明があるという理由で、却下されました」


 レオンは記録を取らず、彼女の顔を見ていた。


「アルヴィンは、亡くなる前にバルグレム商会と争っていた」


 シェリルの指が、茶器を包む。


「ヴェイン家の土地移転は不正だと言っていました。家が認めたのは、一時的な鉄道通過権だけだった。それが恒久譲渡として記録されたと」


「原本は」


「記録院です。家の控えは、相続処理のときに大半を差し押さえられました」


「アルヴィンが死亡したから」


「はい」


 レオンは短く間を置いた。


「依頼内容を聞きましょう」


「兄を探してください」


「昨夜の遺体は、兄である可能性が高い」


「分かっています」


「それでも探してほしい?」


 シェリルはレオンを見た。


「兄は死んでいませんでした」


 一度、息を吸う。


「少なくとも、三日前までは」


 彼女は革鞄を開いた。


 新しい封筒へ一度指を触れ、さらに奥から、郵便印のある古びた封筒を取り出した。


「三日前に届きました」


 宛名は、シェリル=ヴェイン。


 差出地は北環状区。


 レオンは許可を得て封筒を開いた。


 中の便箋には、鮮やかな青いインクで文字が綴られていた。


 親愛なるシェリル。


 突然の手紙を許してほしい。


 私は生きている。


 これまで名乗れなかった理由を、今はまだ書けない。


 だが、このまま死者として隠れ続けることはできない。


 ヴェイン家の土地が正式に商会へ移れば、私たちの名も、父たちが守った契約も、二度と戻らない。


 三日後、私は記録院の担当者と会う。


 自分がアルヴィン=ヴェイン本人であることを申請し、死亡記録の再審と、土地権利移転の停止を求める。


 今度こそ、私自身の名で署名する。


 成功したなら、すぐに戻る。


 便箋の最後には、


 アルヴィン=ヴェイン


 と署名されていた。


 青い文字。


 記録院の土地放棄契約へ残されたものと、よく似た筆跡だった。


「この青は、ヴェイン家のものですか」


「はい。家の正式な文書に使っていたインクです。兄は小瓶を一つ持っていました」


「市販品ではない」


「鉱石の粉と樹脂を混ぜます。作り方を知っているのは家の者と、古い文書を扱う人くらいです」


「リュシアン=アスト」


 レオンが言う。


 シェリルの目が揺れた。


「兄は、四年前から相談していました」


 レオンは手紙を机へ置いた。


「筆跡は兄のもの?」


「間違いありません。兄は名前の最初の文字を書くとき、必ず線を一度戻します」


 ミラベルが署名へ目を凝らす。


 最初の文字の一部だけ、インクがわずかに濃い。


「この手紙が届いてから、兄と連絡を取りましたか」


 レオンが尋ねた。


「いいえ」


「昨夜、会った?」


 シェリルの指が、革鞄の上で止まった。


「会っていません」


 答えが早い。


「では、なぜ黒鴉館へ?」


 シェリルの顔がわずかに強張る。


「記録院を追われた鑑定人が、霧燈通りにいると聞いたことがありました」


「誰から」


「覚えていません」


 レオンは追及しなかった。


 ミラベルは、シェリルの膝の上にある革鞄を見る。


 新しい封筒。


 東倉庫地区に似た赤土。


 手紙には記されていない黒鴉館。


 彼女は昨夜、別の誰かから場所を聞いている。


 おそらく。


 死んだ兄本人から。


「昨夜は、どこにいましたか」


 レオンが尋ねる。


「自宅です」


「一人で?」


「はい」


「兄からの連絡を待っていた」


「そうです」


「何時頃まで」


「ずっとです。兄は、九時を過ぎれば戻ると言っていましたから」


 言い終えたあと。


 シェリルは、自分の言葉に気づいた。


 部屋が静かになる。


「手紙には、時刻がありません」


 レオンが言った。


「言葉の綾です」


「『戻ると書いていた』ではなく、『戻ると言った』」


「同じ意味です」


「そうでしょうか」


「クラウスさん」


 ミラベルが止める。


 レオンはシェリルから視線を外さない。


「昨夜、お兄さんと直接話したのでは?」


「会っていません」


「では、新しい封筒には何が入っています」


 シェリルの両腕が、鞄を抱き締めた。


「何も」


「何も入っていない封筒を、雨に濡らさず胸へ抱えてきた?」


「私物です」


 声が震えている。


 レオンは、それ以上問いを重ねなかった。


「三日前の手紙は預かります。鑑定と複写が終われば返却します」


「警察へ渡すのですか」


「必要なら」


「記録院にも?」


「なぜ恐れるのです」


「恐れてはいません」


「四年前、お兄さんを死者にした機関だから?」


 シェリルは答えなかった。


 ミラベルが、静かに口を開く。


「お兄さんから何かを預かったのなら、今すぐ渡す必要はありません」


 シェリルが顔を上げた。


「ただ、それがお兄さんの署名したものを証明できるなら、いずれ見せてもらわなければなりません」


「私は何も預かっていません」


「分かりました」


 ミラベルは否定しなかった。


「今は、そういうことにします」


「なぜ……」


「あなたは私たちを信用していないからです」


 シェリルの瞳が揺れる。


「警察も、記録院も、商会も、四年前にお兄さんを死者へした。その記録を調べていた人が、今は探偵をしている。新聞記者に話せば、記事として使われるかもしれない」


「私は」


 ミラベルは言いかけ、口を閉じた。


 まだ何も証明していない。


 信じろと求められる立場ではない。


「信じてくださいとは言いません。ただ、お兄さんが何を守ろうとしたのかを知りたいんです」


 シェリルは俯いた。


 しばらくして、かすかな声で言う。


「兄は、土地だけを取り戻したかったのではありません」


「では、何を」


 レオンが尋ねた。


「名前です」


 シェリルは顔を上げた。


「自分の名前を、もう一度、自分のものにしたかった」


 抑えていた感情が、声の端へ滲んでいた。


「四年前から、兄はどこにもいませんでした。死亡記録では死者。権利書では旧所有者。相続記録では処理済み。警察では、行方不明者ですらない」


「生きている人間として扱われなかった」


 ミラベルが言う。


「はい」


 シェリルは机の上の青い署名を見た。


「兄は言っていました。金がなくても、土地がなくても、生きてはいける。でも、自分の名前が存在しなければ、誰かに生きていたと伝えることもできないと」


 レオンの視線も、青い文字へ落ちる。


 アルヴィン=ヴェイン。


 死者として処理された男が、三日前に自分の名を書いている。


「高架下の遺体が兄だった場合」


 レオンが言った。


「あなたの依頼は、彼の死を調べることになります」


 シェリルの唇が震えた。


「兄が、何に署名したのかを調べてください」


「記録院では、土地権利放棄となっています」


「兄は土地を放棄しません」


「署名は本人の可能性が高い」


「それでもです」


「なぜ言い切れる」


「戻るために来た人が、すべてを手放すはずがない」


「家族の確信は証拠ではありません」


「分かっています」


 シェリルは、涙を見せまいとするように目を伏せた。


「だから、証拠を見つけてください」


 レオンは彼女を見た。


 外套に残る赤土。


 手紙にはない黒鴉館の住所。


 新しい封筒。


 昨夜の時刻。


 彼女は嘘をついている。


 だが、自分を守るためだけの嘘ではない。


「シェリル=ヴェインさん」


 レオンは言った。


「依頼を受けます」


 彼女の表情が、ほんの少しだけ崩れた。


「ありがとうございます」


「感謝は早い。探偵は奇跡を売る職業ではありません」


「それでも、誰も聞いてくれませんでした」


「私は、あなたの話を信じたわけではない」


 シェリルの目が曇る。


「ただ、記録のほうを信用しないだけです」


 彼女は、わずかに目を見開いた。


     *


 シェリルが黒鴉館を出る頃には、霧が通りを白く覆っていた。


 マルタが呼んだ小型馬車へ乗り込むまで、彼女は革鞄を胸へ抱いたままだった。


 馬車が霧燈通りの角へ消える。


 レオンとミラベルは、二階の出窓からそれを見送った。


「昨夜、お兄さんに会っています」


 ミラベルが言った。


「根拠は」


「手紙にない黒鴉館を知っていた。戻ると『言った』。九時を過ぎれば帰ると知っていた。赤土と、新しい封筒もあります」


「どれも単独では弱い」


「でも、全部が同じ方向を指しています」


「ええ」


「気づいていたのに、どうして追及しなかったんですか」


「今問い詰めれば、会っていない、封筒には何もないと答えるだけです」


「嘘を重ねさせないため?」


「見抜いたと知らせれば、次はもっとうまく隠します」


「探偵らしい、嫌な考え方ですね」


「褒め言葉として受け取ります」


「違います」


 ミラベルは、シェリルが座っていた椅子を見た。


「記録院へ証拠を渡すのが怖いんだと思います」


「兄を四年前に死者へした機関です」


「兄が生きていると知っていたと認めれば、自分まで罪に問われる」


「相続詐欺。死亡記録の隠匿。死者名義の権利行使への協力」


「だから、会ったことを言えない」


「推測です」


「でも、私たちを騙すことが目的ではない」


 レオンは、アルヴィンの手紙を保護紙の間へ挟んだ。


「依頼人は嘘をついています」


 ミラベルは頷く。


「でも、誰かを守るための嘘です」


 朝霧の奥で、長い汽笛が鳴った。


 机の上には、アルヴィン=ヴェインの青い署名がある。


 三日前に書かれた、生きている男の名。


 そして、昨夜シェリルへ渡されたはずのもう一枚の紙だけが、まだ革鞄の中へ隠されていた。

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