第4節 ― バルグレム商会
バルグレム蒸機鉱業商会の本館は、建物というより巨大な機関だった。
ヴェルム=クロウ東工業区の煤霧を突き抜け、黒鉄の塔と幾本もの煙突が空を塞いでいる。煉瓦壁の外を蒸気管が血管のように走り、内部で機械が動くたび、地面まで低く震えた。
正門を通る人間も荷物も、例外なく記録された。
契約番号。
所属。
入館時刻。
真鍮製の時刻機が金属音を響かせ、紙片へ数字を打ち込んでいく。
この建物は、取り込んだものすべてへ番号を与える。
「随分と立派ですね」
正門前でミラベル=ワトリアが塔を見上げた。
手帳を出しかけた指を、グレアム警部が押し戻す。
「まだ何も書くな」
「外観だけです」
「外観にも商会の権利があると言い出す連中だ」
「空を覆っている煙にも?」
「煙は市民へ無料で配っているらしい」
「肺まで直接届きますね」
レオン=クラウスは二人の後ろで、門脇の案内板を見ていた。
契約代理部。
土地権利管理室。
東部資材倉庫群。
「東倉庫か」
グレアムが言った。
「死体の靴底に残っていた赤土と関係があると思うか」
「似た土は、シェリル=ヴェインの外套にも付着していました」
レオンが答える。
「まだ同じものとは断定できません」
「あなたは、その言葉を便利に使いますね」
ミラベルが言った。
「断定を急ぐ記者が近くにいるので」
「まだ何も記事にしていません」
「まだ、ですか」
「門前で喧嘩するな」
グレアムは門番へ警察証を示した。
「市警だ。契約代理部のエドモンド=ブラスウェルと約束がある」
門番はレオンとミラベルを見る。
「お連れの方は」
「記録鑑定協力者と、余計なことを書く記者だ」
「正式な肩書きをお願いします」
「ヴェルム=クロウ日報」
門番の顔が硬くなる。
「新聞記者の取材は広報室を通してください」
「今日は取材ではありません」
「では、御用件は」
「警察権限による同行だ」
グレアムが割って入った。
「臨時訪問者として記録しろ」
三人の名が入館票へ記され、時刻機が動いた。
午前十時四十二分。
レオンは打刻の位置を一度確認してから、票を胸元へ留めた。
*
本館の中央玄関には、鉄道、工場、鉱山、高架線を組み合わせた巨大な都市模型が置かれていた。
台座の内部で歯車が回り、小さな機関車が線路を走る。
駅にも工場にも、人間の模型はない。
「この街そのものですね」
ミラベルが言った。
「違う」
グレアムが模型を見下ろす。
「商会が街をどう見ているかだ。ここには人がいない」
機関車は誰も乗せずに走り、炉は誰も働かせずに燃えていた。
水圧昇降機で五階へ上がると、油と煤の匂いが薄れ、代わりに紙とインクと封蝋の匂いが濃くなった。
廊下の天井には気送管が走り、革筒が壁の中を通過するたび、小さな鐘が鳴る。
言葉が、人間の口より先に紙へ変えられる場所だった。
*
エドモンド=ブラスウェルの執務室は、契約代理部の奥にあった。
正面の窓から、東倉庫群と中央高架線が見える。
壁の地図には、新設予定の貨物支線と精錬所が赤線で描かれていた。
旧ヴェイン家領も、すでに商会の管理区画と同じ灰色で塗られている。
机の前に、二人の人物が立っていた。
一人は、灰色の背広を着たヒト族の男。
整えられた髭。
銀の時計鎖。
薄い白手袋。
立ち姿から言葉遣いまで、商会の信用を身につけたような男だった。
「グレアム警部」
男は穏やかに頭を下げた。
「エドモンド=ブラスウェルです。高架下で発見されたエルフ男性の件ですね」
「事故ではなく、死亡事件と」
「殺人の可能性があると、御署から照会を受けています」
「早耳だな」
「商会書式の契約書が発見された以上、連絡が来ることは予想できました」
もう一人は、濃紺の服を着た女性だった。
白い襟。
後ろで乱れなくまとめられた髪。
胸には小さな記録院章だけがある。
「ヴァルテリア記録院、契約照合課のアデラ=ロームです」
女性は簡潔に名乗った。
「別件の契約確認で出向いていました。ヴェイン家の照会にも、回答できる範囲で協力いたします」
「随分と都合がいい」
グレアムが言う。
「警察の時間を節約できるという意味なら、幸運かと」
アデラはレオンへ視線を移した。
「お久しぶりです。クラウスさん」
「私を覚えていましたか」
「記録不整合調査部にいた方を忘れる職員は少ないでしょう」
「良い意味ではなさそうですね」
「私個人の感想は、記録へ必要ありません」
「相変わらずですね」
「あなたも」
ミラベルは二人を見比べた。
「お知り合いですか」
「同じ記録院にいました」
レオンが答える。
「部署は異なります」
アデラがすぐに補足した。
エドモンドが席を勧める。
「立ち話では済まないでしょう」
グレアムが警察の照会書を机へ置いた。
「アルヴィン=ヴェインを知っているな」
エドモンドの表情は変わらない。
「記録上の人物としては」
「本人と会ったことは」
「ありません」
「四年前の土地移転には関与した」
「当時は補助担当でした。正式な死亡記録と相続処理に基づき、合法的な移転手続を行っています」
「遺体を確認したか」
「商会代理人が確認するものではありません」
「死亡記録を疑わなかった?」
「記録院が認定した死亡を、民間商会が独自に否定することはできません」
アデラが頷く。
「その点は制度上、正確です」
「昨夜、その死者の名で土地放棄契約が出た」
グレアムは続けた。
「商会はどう受け取った」
「正式な署名が添付された契約として、記録院から仮受理の通知を受けました」
「死者の署名だぞ」
「本人確認は、記録院の照合事項です」
「商会は本人へ会っていない?」
「契約代理部は、身元を認定する部署ではありません」
「誰が手続へ立ち会った」
「存じません」
「契約書は空から落ちてきたのか」
「適法な経路を通じて提出されています」
「その経路を聞いている」
「現在確認中です」
エドモンドの答えには、どこにも綻びがなかった。
「昨夜、東倉庫で契約手続を行った記録は」
「承認された手続はありません」
「承認されていないものは?」
「知りません」
「アルヴィン本人へ会っていない」
「はい」
「東倉庫にも行っていない?」
エドモンドの目が、わずかに細くなった。
「本館におりました」
「何時まで」
「夜間会議が終わるまでです」
「出席者と時刻を出せ」
「担当書記に確認させます」
グレアムが手帳へ記す。
エドモンドは警察照会書へ目を落とした。
「現場で発見された書類については、こちらでも確認いたします。ただ、署名欄だけが焼けていたからといって、商会の正式原本である証明には――」
グレアムの鉛筆が止まった。
ミラベルも顔を上げる。
「今、何と言った」
エドモンドは一拍遅れて答えた。
「商会の正式原本である証明にはならない、と」
「その前だ」
「署名欄が焼けていたと」
「誰から聞いた」
「警察の照会内容から、そのように理解しました」
グレアムは書類を指で叩いた。
「ここには、火損した契約書としか書いていない」
エドモンドの右手が、白手袋越しに机の縁を押さえた。
「社内の事前報告に記載されていたのでしょう」
「報告者を確認しろ」
「承知しました」
「署名欄だけが焼けていたことは、公表していない」
エドモンドの微笑は崩れなかった。
「書式から推測した可能性もあります」
「正確な推測だな」
アデラが静かに言う。
「警察照会の内容が、商会内部で口頭共有された可能性もあります。発言だけで判断するのは早計でしょう」
「判断は俺がする」
「もちろんです」
グレアムはさらに尋ねた。
「商会は、アルヴィンが生きていたら困るのか」
「個人の生死と、事業計画は分けて考えるべきです」
「ヴェイン家旧領には貨物線、倉庫、地下水路、新設予定の精錬所がある」
「事実です」
「土地権利が不安定になれば、債券と工事が止まる」
「融資や雇用にも影響します」
「だから一人のエルフは、死者のままが都合いい?」
ミラベルが問う。
「そのような言い方はしていません」
「でも、生きていたら困る」
「本人であると証明されれば、正規の再審手続へ進みます」
「証明される前に殺されたんです」
「それを調べるのが警察でしょう」
「四年前に死者と記録されたから、本人は自分を証明できなかった」
「感情的な議論は、契約の効力を変えません」
ミラベルの手に力が入る。
「ワトリアさん」
レオンが低く呼んだ。
「ですが」
「彼の立場は分かりました」
ミラベルは口を閉じた。
納得したのではない。
これ以上続けても、エドモンドが一行も言葉を変えないと理解しただけだった。
*
執務室の外で、小さな鐘が鳴った。
秘書が扉を開く。
「南排水管用地の契約当事者がお見えです」
「警部」
エドモンドが言った。
「よろしければ、当商会の正式な契約手続を御覧になりますか。昨日の契約にも使われた制度です」
グレアムはレオンを見る。
「見せてもらいましょう」
レオンが答えた。
「契約の安全性について、聞きたいことがあります」
*
隣の契約照合室には、中央へ固定された机と、紙の透かしを見るための白い照合灯が置かれていた。
年老いたドワーフの工房主と、その娘が待っている。
机の上にあるのは、工房裏へ排水管を通すための限定土地使用契約書だった。
「所有権は渡さん」
老工房主が念を押した。
「管を埋める権利と、修理に入る権利だけだ」
「契約本文も、その内容です」
アデラは表題、土地範囲、契約番号を読み上げ、書類を工房主へ向けた。
老人と娘が、本文へ目を通す。
確認が終わると、アデラは別の細長い紙を取り出した。
中央に、不規則な切断線が入っている。
「割符式署名票です」
ミラベルが小声で言った。
アデラは紙を照合灯へ掲げた。
内部の透かしと、左右へまたがる契約番号が浮かび上がる。
「左側が控え割符です。契約名、当事者、番号、署名場所が記載されています。署名後、御本人が保管します」
次に、細い右側を示す。
「こちらが提出署名片。署名欄と立会確認欄があり、契約本文へ取りつけて記録院へ送ります」
「署名者の手元には、何へ署名したかが残る」
ミラベルが言った。
「はい」
「提出署名片を盗んでも、別の契約には使えない?」
「契約番号が合いません。透かしも、切断面も一致しないためです」
「同じ番号の契約を作れば」
レオンが尋ねた。
アデラの視線が彼へ向く。
「同一番号は発行できません。専用番号機が発行と同時に記録院の機械台帳へ転記します」
「内部の人間でも?」
「通常の権限では不可能です」
「通常ではない権限なら」
エドモンドが口を挟んだ。
「クラウス氏。今は正式な契約の最中です」
老工房主が鼻を鳴らす。
「仕組みが安全なら、質問くらいで壊れんだろう」
アデラは表情を変えなかった。
「制度を運用する者が共謀し、複数の記録を意図的に破壊すれば、どの制度にも危険はあります」
「制度の欠陥ではない?」
「犯罪です」
分類を訂正するような、静かな声だった。
「続けます」
工房主は契約本文と控え割符の契約名をもう一度確認し、提出署名片へ名を書いた。
アデラが立会印を押す。
割符を切断線に沿って二つへ分ける。
乾いた音。
契約名が記された左側は、工房主へ渡された。
署名のある右側は、契約本文の最終頁へ置かれる。
番号が並ぶ。
三八一四二。
三八一四二。
透かしと切断面も一致している。
アデラは机の端から、真鍮製の照合圧印器を取った。
提出署名片と契約本文の接合部へ置き、柄を押し下げる。
がちん。
契約本文と署名片にまたがって、細かな接合印が刻まれた。
「署名片を剥がせば、この圧印が途切れます。別の本文へ移しても一致しません」
アデラは完成した契約を、工房主と娘へ示した。
「これで手続は終了です」
老人は控え割符を娘の鞄へしまわせた。
「商会の言葉より、こっちを信じる」
「それが割符の役割です」
アデラが答えた。
工房主たちが退出すると、照合室には事件関係者だけが残った。
*
「昨夜の契約も、同じ手続を?」
グレアムが尋ねた。
「書式上は同じです」
アデラが答える。
「アルヴィンの控え割符は、死体から見つかっていない」
「署名者が保管するものです。紛失した可能性もあります」
「本人には会っていない?」
「記録院窓口では会っていません」
「窓口以外では」
「会っていません」
「土地放棄契約の署名は本物か」
「保存文書との一次照合では、本人筆跡である可能性が高いと出ています」
「死体の指に残っていたものと同じインクか」
グレアムは色を言わなかった。
アデラは契約用紙を整えながら答えた。
「ヴェイン家の青いインクであれば、保存文書との成分照合が必要です」
ミラベルの鉛筆が止まる。
グレアムは少し黙った。
「青い?」
アデラが顔を上げる。
「はい」
「俺は色を言っていない」
アデラの指が、紙の角で一瞬止まった。
「ヴェイン家が古い青色鉱物インクを使っていたことは、保存文書から分かっています。本人の署名なら、その使用を考えるのは自然です」
「現場の契約書にも青があった」
「それは初めて伺いました」
「今、初めて言った」
「では、推測が当たったのでしょう」
声に乱れはない。
レオンはアデラではなく、机へ戻された圧印器を見ていた。
商会の照合室では、契約を固定するための事務器具にすぎない。
「四年前のアルヴィンの死亡処理にも関わったな」
グレアムが問う。
「下級照合官として、土地権利移転に付随する確認を行いました」
「遺体は見たか」
「記録官は遺体を見ません」
「医師の証明と親族確認を見た」
「必要書類はすべて揃っていました」
「そして四年後、同じ死者の署名を照合した」
「保存筆跡との一致を確認しました」
「不自然だと思わなかったのか」
アデラは、わずかに間を置いた。
「記録上死亡している人物の名を用いた契約が提出された場合、死亡記録の誤りか、死者の名を用いた身分詐称が考えられます」
「本人が生きていた可能性も認める?」
「可能性としては」
「契約は止めなかった」
「必要な書式と真正な署名の可能性が揃っていました。照合官は、推測だけで受理を拒めません」
「死者の署名でも?」
「仮受理とし、追加照会へ回しました」
エドモンドが横から言う。
「商会は、その通知を受けただけです。土地権利が確定したわけではありません」
「だが、近日中に鉄道債券を発行する」
レオンが言った。
エドモンドの視線が鋭くなる。
「公開されている商会報告です」
レオンは壁の地図を示した。
「新設精錬所の用地には、ヴェイン家旧領が含まれている。権利争いが残れば、債券評価に影響する」
「事業計画には予備案があります」
「貨物支線と地下水路を敷き直せば、莫大な費用がかかる」
「商会には対応能力があります」
「ですが、アルヴィンの真正な放棄署名があれば、その費用は要らない」
エドモンドの声から、わずかに温度が消えた。
「何を示唆しているのです」
「事実を並べています」
「探偵は、並べ方で印象を操作する」
「商会は、契約の並べ方で土地を動かす」
グレアムが二人のあいだへ照会書を滑らせた。
「エドモンド。会議記録を出せ。出席者、開始時刻、終了時刻、途中退席、署名時刻。今日中だ」
「量が多い」
「死体は待たん」
「商会にも通常業務があります」
「殺人捜査も通常業務だ」
エドモンドは照会書を受け取った。
「適法な捜査には協力します」
「その言葉どおりか、あとで確かめる」
*
三人が契約代理部を出ると、廊下の気送管を革筒が走り抜けた。
鐘が鳴る。
書記が筒を受け取り、番号を読み上げる。
どこかの土地。
どこかの契約。
どこかの名。
紙は、人間より速く商会の中を移動していく。
「二人とも、知りすぎています」
昇降機を待ちながら、ミラベルが言った。
「エドモンドは、署名欄だけが焼けていたことを知っていた。アデラは、青いインクだと知っていた」
「どちらにも説明はつく」
グレアムが答える。
「社内から漏れた。保存記録から推測した」
「信じるんですか」
「信じるかどうかではない。崩せる証拠があるかだ」
「また証明」
「疑わしいだけで逮捕できるなら、お前とクラウスは今頃同じ房だ」
「私は何もしていません」
「昨夜、封鎖縄を跨いだ」
「軽犯罪です」
「認めるな」
昇降機の鉄格子が開いた。
三人が乗り込む。
レオンは、番号のない見本用の割符を手にしていた。
アデラから、持ち出し不能の正式用紙に代わって渡されたものだ。
箱が下降を始める。
灰色の光が、紙の透かしを浮かび上がらせる。
左側。
契約の名。
当事者。
番号。
右側。
署名。
立会印。
二つは切り離されても、同じ紙だったことを証明する。
「これほど安全なら」
ミラベルが言った。
「提出署名片を別の契約へ移すのは無理ですよね」
「外部からは難しい」
レオンが答える。
「番号が合わない。透かしも切断面も合わない。機械台帳にも残る」
「なら、土地放棄契約は本物?」
「署名は本物かもしれません」
「契約も?」
「それは別の問題です」
「同じ紙の話でしょう」
「署名が本物であることは、その署名が正しい契約へ置かれている証明にはならない」
「それを証明するための割符なのに」
「ええ」
「壊せるんですか」
昇降機が一階へ近づく。
下から機械の震動が伝わってきた。
レオンは、光の中へ浮かぶ割符の透かしを見た。
「安全な制度ほど、壊すには内側の人間が必要です」
鉄格子の向こうに、商会の巨大な玄関が開けていく。
機関車の模型が走っている。
歯車が回る。
煙突が蒸気を吐く。
人の姿が一人もない都市を、正確な機械だけが動かしていた。




