第3節 黒鴉館の依頼人
霧燈通り十三番地。
その住所を聞いて、ヴェルム=クロウの住人がまず思い浮かべるものは、探偵ではない。
黒鴉館である。
煤けた煉瓦造りの三階建て。
屋根には黒鉄の風見鴉が据えられ、霧の濃い日には、その輪郭だけが空に滲む。正面の窓枠は古く、雨どいは幾度も修理され、入口のガス灯は昼でも薄く灯っていた。
この街では、建物にも疲労がある。
長く煤を浴び、雨に打たれ、人間と契約と借金を抱え込んだ建物は、どこか生き物めいてくる。
黒鴉館もまた、そんな建物のひとつだった。
一階には喫茶室《煤鳩亭》。
二階の奥には、クラウス探偵事務所。
三階には、下宿部屋がいくつか。
そして、この館の実質的な支配者は、家主であり喫茶室の店主でもある年配のドワーフ女性、マルタ=グレインだった。
翌日の朝。
ヴェルム=クロウの空は、昨日の雨をまだ引きずっていた。
霧は低く、通りを行く馬車の車輪は湿った石畳を鈍く鳴らしている。高架の向こうからは、始発を過ぎた列車の響きが、街全体の骨を震わせるように伝わってきた。
《煤鳩亭》の扉を開けると、焼いた黒パンと豆の煮込み、安い珈琲、そして石炭ストーブの匂いが混ざっていた。
店内は広くない。
丸い木卓が五つ。
古びた長椅子。
壁には煤で黒ずんだ時計。
窓際には、雨に濡れた外套を干すための鉄製の掛け具。
朝の客は、工場へ向かう前の職工が二人、新聞を読む老人が一人、そして窓際の席に座るレオン=クラウスだけだった。
レオンの前には、冷めかけた珈琲がある。
その横には、昨夜の事件に関する走り書き。
さらにその横には、未開封の請求書が三通。
彼が読んでいるのは事件メモであり、見ないふりをしているのは請求書だった。
「レオン」
厨房のほうから、低い声が飛んだ。
レオンは顔を上げなかった。
「聞こえていないふりをしても、家賃は消えないよ」
「興味深い仮説です。実験する価値はある」
「なら今すぐ実験結果を教えてやる。消えない」
マルタ=グレインが盆を片手に現れた。
背は低い。
だが、存在感は警察署の鉄扉より重い。
灰色の髪を後ろで丸くまとめ、太い腕には白い布巾を掛けている。顔には深い皺が刻まれているが、その目は若い警官よりよほど鋭かった。
彼女はレオンの前に、朝食の皿を置いた。
黒パン。
燻製肉。
豆の煮込み。
そして、追加の請求書。
「食事に紙が混じっています」
「家賃の請求書だよ。栄養はないが、あんたには必要だ」
「消化に悪そうだ」
「払えば消える」
レオンは請求書を指先で少しだけ脇へ押した。
「今朝は重要な事件の整理を」
「昨日も聞いたね。先週も聞いた。先月も聞いた。あんたの人生には重要な事件しかないのかい」
「不幸なことに」
「そのわりに、金になる事件は少ない」
「不思議ですね」
「不思議じゃない。あんたが金持ちの依頼人に失礼だからだ」
レオンは珈琲を口に運んだ。
「失礼な依頼人に対して、礼儀正しくする理由が見当たりません」
「そういうところだよ」
マルタは呆れたように言いながらも、彼の皿に燻製肉を一枚余分にのせた。
それを見たレオンは、ほんのわずかに目を細めた。
「これは賄賂ですか」
「延命措置だよ。倒れられると家賃の回収が遅れる」
「合理的ですね」
「うちは慈善事業じゃないからね」
そう言いながら、マルタはレオンのカップに珈琲を足した。
怒鳴る。
請求する。
追い詰める。
そして食べさせる。
黒鴉館では、それが家主の愛情表現だった。
「昨夜も警察に顔を突っ込んだんだって?」
「顔ではなく、観察です」
「警察はそう思っていないよ。朝からグレアム警部が通りの向こうで煙草を三本吸っていた。あれは、あんたのせいで胃が痛い顔だ」
「警部の胃の状態まで把握しているとは、家主という職業は恐ろしい」
「この通りで長く商売をしていれば、誰が金を払い、誰が揉め事を持ち込み、誰が嘘をついているかくらい分かる」
マルタはレオンのメモに目を落とした。
「で、今度は何だい」
「死体です」
「この街じゃ珍しくない」
「記録上、四年前に死んでいる死体です」
マルタの手が、わずかに止まった。
店の奥で、石炭ストーブが小さく爆ぜた。
彼女は何も言わず、視線だけをレオンへ向ける。
「……また記録院かい」
「まだ断定はしていません」
「あんたがその顔をしているときは、だいたい断定している」
「顔に証拠能力はありません」
「家賃の滞納にはあるよ」
そのとき、店の扉に取り付けられた鈴が鳴った。
軽い音だった。
だが、入ってきた客の足取りは軽くなかった。
若いエルフの女性だった。
外套は古く、雨に濡れて裾が重くなっている。帽子の下から覗く髪は淡い銀色で、丁寧に結われていたが、ところどころ乱れていた。
顔立ちは整っている。
だが、その美しさは余裕から生まれたものではなく、崩れかけた古い家屋に残る装飾のようだった。
彼女は店内を見回し、レオンを見つけると、少しだけ息を止めた。
迷い。
恐れ。
疲労。
そして、それらを押し殺そうとする誇り。
没落エルフには、よくある表情だった。
店内の職工たちが、ちらりと彼女を見る。
すぐに視線を戻す。
ヴェルム=クロウでは、没落したエルフは珍しくない。だが、彼女のまとった空気には、ただ貧しいだけではない切迫があった。
マルタが先に声をかけた。
「いらっしゃい。食事かい、それとも人探し?」
女は小さく首を振った。
「レオン=クラウス様に、お目にかかりたくて参りました」
様、と呼ばれたレオンは、珈琲を置いた。
「借金取りでなければ、座ってください」
マルタが睨む。
「借金取りだったら、私が先に話す」
女は困ったように瞬きをした。
それから、レオンの向かいに座る。
近くで見ると、彼女の手袋は古かった。
何度も繕われ、指先の布は薄くなっている。だが、動作は丁寧で、背筋はまっすぐだった。
「お名前は」
レオンが尋ねる。
「シェリル=ヴェインと申します」
その名を聞いた瞬間、レオンの目がほんの少し動いた。
マルタもまた、黙って眉を寄せた。
「ヴェイン家」
レオンは繰り返した。
「旧鉄環平野北西区画に土地を持っていたエルフ家系ですね」
「……ご存じなのですか」
「記録院にいた頃、土地台帳で何度か見ました。今はほとんど名だけが残っている」
シェリルの唇が、わずかに強張った。
名だけが残っている。
それは事実だった。
そして、ときに事実は侮辱よりも人を傷つける。
レオンはそれを承知しているようだったが、謝りはしなかった。
「ご依頼ですか」
シェリルは頷いた。
だが、すぐには言葉が出なかった。
マルタは黙って水の入った杯を置いた。
普段なら客に注文を急かす彼女も、このときは何も言わない。
シェリルは両手で杯を包み込んだ。
水を飲むのではなく、何かに縋るように。
「兄を、探していただきたいのです」
レオンは静かに見返した。
「お兄様のお名前は」
「アルヴィン=ヴェイン」
店内の音が、少し遠のいたように感じられた。
石炭ストーブの燃える音。
カップを拭く布の音。
外を通る馬車の車輪。
それらが一瞬、薄い膜の向こうへ退いた。
レオンは何も言わなかった。
シェリルはその沈黙を、拒絶と受け取ったのかもしれない。慌てて言葉を継いだ。
「分かっています。記録院では、兄はもう死んだことになっています。四年前に病死したと。けれど、違うのです」
彼女は一度、息を吸った。
その息は震えていた。
「兄は死んでいませんでした。少なくとも、あの夜までは」
あの夜。
その言葉が、昨夜の高架下へ繋がる。
レオンは指先を組んだ。
「警察には?」
「行きました」
「何と言われました」
シェリルは目を伏せた。
「現時点では、アルヴィン=ヴェインの殺人事件としては扱えない、と。死亡記録が閉鎖済みである以上、まずは身元不明遺体として処理するしかないそうです」
マルタが低く舌打ちした。
「便利な仕組みだね」
「受付の方が悪いわけではないのだと思います。上の方に確認しても、同じでした。アルヴィン=ヴェインは記録上死亡済み。生存者としての被害届は受け取れない、と」
「死んだことにした相手なら、もう一度死んでも手続きが楽ってわけかい」
マルタの声には、怒りが滲んでいた。
シェリルは続けた。
「兄は四年前、突然、死んだことにされました」
「突然?」
「はい。病に伏せっていた事実はありません。少なくとも、私の知る限りでは。けれど、ある日、記録院から死亡処理が済んだと知らされました。葬儀も、遺体も、医師の説明もありませんでした」
「あなたの家族は抗議しなかったのですか」
「しました。けれど、父はその頃すでに亡く、母は病弱でした。ヴェイン家には、もう力がありませんでした」
彼女の声は静かだった。
だが、その静けさは諦めではない。
何度も同じ説明をし、何度も信じてもらえず、それでも折れないために身につけた静けさだった。
「兄は、その直後に姿を消しました。最初は、本当に死んだのかと思いました。でも、違いました。兄は生きていました。偽名で、下層区に」
「なぜ偽名で?」
「自分の名を使えば、すぐに見つかるからだと言っていました」
「誰に」
シェリルは唇を噛んだ。
「分かりません。兄は詳しく話してくれませんでした。ただ、記録院と商会には気をつけろと」
レオンの視線がわずかに鋭くなる。
「商会とは、バルグレムですか」
シェリルは驚いたように顔を上げた。
「なぜ、それを」
「昨夜の死体が持っていました。バルグレム商会の土地売買契約書を」
シェリルの顔から血の気が引いた。
指が杯を強く握る。
水面が震え、小さな波が立った。
「では……やはり、あれは兄なのですね」
「まだ正式には確認されていません」
「でも、あなたはそう思っている」
レオンはすぐには答えなかった。
窓の外で、霧の中を蒸気乗合車が通り過ぎた。
重い車輪の音が、低く店内へ響く。
「可能性は高い」
レオンは言った。
シェリルは目を閉じた。
涙はこぼれなかった。
ただ、息だけが震えた。
マルタは黙って厨房へ戻り、温かい茶を淹れた。
それをシェリルの前に置く手つきは、先ほどよりも少しだけ優しかった。
「最近、お兄様から連絡があったのですね」
レオンが尋ねる。
シェリルは頷いた。
「三日前です。手紙が届きました。差出人の名は違いました。でも、筆跡は兄のものでした」
「手紙はありますか」
シェリルは鞄から封筒を取り出した。
古い紙。
質は良くない。
だが、丁寧に折られている。
レオンは受け取り、中の便箋を広げた。
文字は細く、少し右へ傾いている。
インクは薄い青だった。
レオンの目が、そこで止まる。
シェリルは気づかずに話し続けた。
「兄は、ヴェイン家の名を取り戻せるかもしれない、と書いていました。古い権利書が見つかるかもしれないとも。もしそれが本物なら、バルグレム商会が鉄道用地として買収した土地に、不正があったことを証明できると」
「権利書は、今どこに」
「分かりません。兄は、それはまだ書けないと。ただ、会って話したいと」
「会う約束は?」
「昨日の夜でした」
レオンは便箋から目を上げた。
「場所は」
「中央高架線の近くです。兄は、人目につかない場所がいいと」
「あなたは行ったのですか」
「いいえ」
シェリルの声が小さくなった。
「怖かったのです。兄に会いたい気持ちはありました。でも、もし誰かに見られたら、私まで……」
そこまで言って、彼女は言葉を飲み込んだ。
誰も責めなかった。
マルタも、レオンも。
ヴェルム=クロウでは、恐れることは罪ではない。
恐れなければ生き残れない場所が、あまりに多いからだ。
「アルヴィンさんは、どのような方でしたか」
レオンがふと尋ねた。
シェリルは、少し戸惑ったように瞬きをした。
事件に関係のあることを聞かれると思っていたのだろう。
けれど、レオンは繰り返した。
「お兄様は、どんな人でしたか」
シェリルの指が、杯から離れた。
「……優しい人でした」
言ってから、彼女は少しだけ首を振った。
「いいえ、違います。優しいだけではありません。意地っ張りで、皮肉屋で、すぐに一人で抱え込む人でした。私が子供の頃、夜になると古い本を読んでくれました。けれど、悲しい結末の物語になると、必ず最後だけ作り替えるのです」
「作り替える?」
「はい。『この結末は記録官が間違えたんだ』と言って。英雄が死ぬ話なら、実は旅に出たことにする。王女が塔に閉じ込められる話なら、窓から逃げたことにする。私はそれが本当の話だと思っていました」
シェリルの口元に、ほんのかすかな笑みが浮かんだ。
すぐに消えた。
「兄は、名前を大事にする人でした。古い家名なんて、もう何の役にも立たないと言いながら、家の文書だけは捨てられなかった。私の名前も、母の名前も、亡くなった父の名前も、決して雑に呼びませんでした」
その声が、少し震えた。
「だから、兄が偽名で生きていたと知ったとき、私は……怒りました。どうして知らせてくれなかったのかと。どうして私だけでも頼ってくれなかったのかと」
「その後悔があるのですね」
レオンが言う。
シェリルは唇を結んだ。
「はい」
その一音には、四年分の時間が詰まっていた。
「それで今朝、警察へ?」
「はい。高架下でエルフの男性の死体が見つかったと聞いて。私は、兄ではないかと……でも、警察は会わせてくれませんでした。記録上、私には兄はいないのだと」
シェリルは初めて、少しだけ声を荒げた。
「そんなはずがありません。兄はいました。私に手紙をくれました。私の名前を呼びました。子供の頃、私に本を読んでくれた兄です。記録院が何と言おうと、兄は、いたのです」
その言葉は、喫茶室の空気を静かに震わせた。
レオンは便箋を畳んだ。
「この手紙を、しばらく預かっても?」
「はい」
「返せる保証はありません」
シェリルは少し戸惑った。
「証拠になる、ということですか」
「証拠になるか、証拠でなくなるか。どちらにせよ、誰かが欲しがる紙です」
彼女は黙って頷いた。
レオンは手紙を内ポケットにしまう。
「依頼内容を確認します。あなたは、アルヴィン=ヴェインが昨夜の死体であるかを確かめたい。そして、彼がなぜ死んだのかを知りたい」
「はい」
「場合によっては、ヴェイン家の過去の記録、土地権利、商会との契約、記録院の死亡処理まで調べることになります」
「お願いします」
「危険です」
「分かっています」
「分かっていない人ほど、そう言います」
シェリルはまっすぐレオンを見た。
「では、分かっていないままでも構いません。私は、兄が二度も消されるのを黙って見ていることはできません」
レオンは彼女を見返した。
感情に動かされた顔ではなかった。
同情に揺れた顔でもない。
彼はただ、紙の上に走る見えない線を追うように、シェリルという依頼人を観察していた。
その沈黙に耐えきれず、マルタが口を開いた。
「レオン」
「分かっています」
「なら、変な言い方をするんじゃないよ」
「それは難しい」
マルタは布巾を握りしめた。
「殴るよ」
「最近、それをよく言われます」
レオンはシェリルへ向き直った。
「シェリル=ヴェインさん。あなたの依頼を受けます」
彼女の表情が、ほんの少しだけ崩れた。
安堵。
悲しみ。
まだ信じ切れない不安。
それらが一度に浮かび、すぐに抑え込まれる。
「ありがとうございます」
「感謝は早い。探偵は奇跡を売る職業ではありません」
「それでも、誰も聞いてくれませんでした」
「聞くことと、信じることは違います」
レオンは冷めた珈琲を手に取った。
「私はあなたの話を信じたわけではない。ただ、記録のほうを信用しないだけです」
シェリルは少しだけ目を見開いた。
マルタは呆れたようにため息をついた。
「もっとまともな慰め方はできないのかい」
「慰めは専門外です」
「家賃の支払いも専門外だね」
「不幸な一致です」
わずかに、シェリルの口元が動いた。
笑ったというには淡すぎる。
だが、その表情には、店に入ってきたときにはなかった人間らしい揺らぎがあった。
レオンは席を立った。
「死者が二度死ぬのは、記録の上では珍しくない」
彼は外套を取る。
「だが、二度目に死体が出たなら話は別だ」
扉の外では、霧がまだ通りを覆っていた。
煤を含んだ朝の光が、ガス灯の周りに鈍く滲んでいる。
ヴェルム=クロウは今日も動いていた。
鉄道は走り、工場は煙を吐き、記録院では誰かの名が紙に書かれ、誰かの名が紙から消される。
シェリル=ヴェインは、両手を膝の上で強く握っていた。
彼女は兄を失ったのではない。
兄がいたという事実を、奪われようとしていた。
そしてその朝、黒鴉館の一階で、ひとつの依頼が成立した。
署名なき死体は、ようやく名を取り戻すための道を得たのである。
レオンは外套の襟を直し、窓の向こうに滲む高架線の影を見た。
「まずは、鉄の門を叩きましょう」
マルタが眉を上げる。
「鉄の門?」
「バルグレム蒸機鉱業商会です」
レオンは、淡い青インクの手紙を内ポケットの上から軽く押さえた。
「死者の名を焼いた紙が、あそこから出てきた。なら、最初に尋ねるべき相手も決まっています」
霧燈通りの向こうで、列車の汽笛が低く鳴った。
その音はまるで、ヴェルム=クロウという都市そのものが、次の証言を拒んでいるかのようだった。




