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第2節 ― 死んでいた男

 ヴェルム=クロウ市警察本部の地下には、都市で発見された死者を一時的に保管する区画がある。


 窓はない。


 灰白色の石壁に囲まれた廊下を、蒸気管の低い唸りが伝っている。消毒薬と石鹸、湿った布、金属、それから、何度洗っても消えきらない血の匂いが染みついていた。


 地上では、雨がまだ降っている。


 だが検死室まで雨音は届かない。


 聞こえるのは、器具が金属盆へ置かれる音と、壁の時計が刻む秒だけだった。


 高架下から運ばれたエルフの男は、白い石台の上に横たえられていた。


 煤と泥を洗い落とされると、現場で見たときより若く見える。痩せた頬と深い眼窩。それでも眉や耳の線には、かつて丁寧に育てられた者の名残があった。


 レオン=クラウスは石台の脇に立ち、死者の顔ではなく、後頭部の傷を見ていた。


 その隣では、グレアム警部が腕を組んでいる。


 さらに二歩離れた扉際には、ミラベル=ワトリアがいた。


 彼女は本来、そこへ入ることを許されていない。


 グレアムは三度追い出そうとし、三度目に、石台へ近づかないこと、死体と器具へ触れないこと、身元情報を新聞社へ流さないことを条件に、扉の内側へ立つことだけを認めた。


 ミラベルは外套の下へ手帳を隠していた。


 条件を守っているかどうかは、かなり疑わしい。


「頭蓋後部に二度の打撃があります」


 主任検死官が言った。


 痩せた中年のヒト族で、銀縁眼鏡の奥から傷を観察している。


「最初の一撃で意識を失った可能性が高い。二度目が致命傷です」


「即死か」


 グレアムが尋ねた。


「心臓は数分動いていたでしょう。ですが、立ち上がることも、助けを呼ぶこともできなかったはずです」


 ミラベルの指が、手帳の上で止まった。


 数分。


 記録へ書けば、死亡時刻という一つの数字になる時間。


 だが実際には、その中にも呼吸があり、音があり、恐怖がある。


「凶器は分かりますか」


 ミラベルが口を挟んだ。


 検死官はグレアムを見る。


「答えて構わん」


 グレアムは不機嫌そうに言った。


「ただし、記者ではなく捜査補助者へ説明するつもりでな」


「私はいつから捜査補助者に?」


「記者のままなら廊下へ戻れ」


「捜査補助者です」


 即答だった。


 レオンが傷へ視線を向けたまま言う。


「雇用契約が成立したようには見えませんが」


「あなたには聞いていません」


「静かにしろ」


 グレアムの声が石壁へ響く。


 検死官は小さく咳をした。


「平らな面を持つ、硬い金属製の鈍器です。丸い警棒や杖ではありません」


「現場の鉄骨や石では?」


「傷の形が整いすぎています」


 レオンは薄い手袋をはめ、傷の近くへ身を屈めた。


 裂けた皮膚の周囲に、細い平行圧痕が複数並んでいる。血と腫れで輪郭は崩れているが、偶然できた擦り傷ではない。


 一か所だけ、線と線の間隔が広い。


「規則的な突起のある面です」


 レオンが言った。


「一部が欠けている?」


 ミラベルが尋ねる。


「その可能性はあります」


「本数は」


「今、決める必要はありません」


 グレアムも傷を覗き込んだ。


「角のある金属面。平行した突起痕。一か所だけ間隔が広い。詳細図を取れ」


 傍らの警官が記録する。


「高架下で見つかった真鍮片との関係は?」


 ミラベルが問う。


「まだ分からん」


 グレアムは即座に答えた。


「傷と一致するまで、凶器と呼ぶな」


「正しい判断です」


 レオンが言う。


「お前に言われると腹が立つ」


「事実を述べただけです」


 ミラベルがわずかに笑った。


 グレアムは聞こえなかったことにした。


     *


 検死官は白布を胸の下まで下げた。


 左胸から上腕にかけて、皮膚が赤黒く変色している。現場では雨水と煤に隠れていたが、洗浄された身体の上では、熱を受けた範囲がはっきり分かった。


「蒸気火傷は死因ではありません」


「それだけでは死なないという意味ですか」


 ミラベルが尋ねる。


「それ以前の問題です」


 検死官は火傷の縁を示した。


「これは、心臓が止まったあとにつけられています」


 グレアムが腕を解いた。


「根拠は」


「生体反応が乏しい。生きた身体なら血管が拡張し、炎症が広がります。水疱にも体液が溜まる。ですが、この傷にはそれがほとんどない」


「死亡後、どれくらいしてからだ」


「正確には出せません。死亡直後から、一時間以内でしょう」


「殴り殺したあとで、蒸気を浴びせた」


「医学的には、その順です」


「事故に見せるため」


 ミラベルが呟く。


「それもまだ決めるな」


 グレアムが言った。


「死亡時刻を誤らせる目的かもしれん」


「この範囲の火傷では、身体全体の温度は大きく変わりません」


 レオンが答える。


「検死官を欺くには雑すぎます」


「では、事故に見せるため?」


「そう読ませるように作られている」


「同じ意味では?」


「作られた印象と、作った目的が同じとは限りません」


 検死官は死体の背中側を確認した。


「左側だけに熱が集中しています。現場の排水口は右側だったそうですね」


 グレアムが頷く。


「死体の下に血だまりもなかった」


「頭部の傷からは、もっと出血しているはずです」


 検死官は髪の根元と襟元を示した。


「雨で洗われたとしても、残っている量が少なすぎる。傷を受けた場所と、発見場所が違う可能性が高い」


「別の場所で殴られ、運ばれた」


「その見方が自然です」


 ミラベルは、白い石台の上の男を見た。


「殺して、運んで、蒸気を浴びせた」


「順序の細部はまだ確定していません」


 レオンが言った。


「でも、誰かが死体を扱った」


「それは間違いないでしょう」


「物みたいに」


 レオンは彼女の横顔を一度だけ見た。


「犯人にとっては、物より扱いやすかったかもしれません」


「どういう意味ですか」


「物には製造番号や所有印があります。死体には、名札がなければ何もない」


「だが、こいつには契約書が入っていた」


 グレアムが言う。


「財布と家印環は消えている。身元を示すものは奪われた。なのに土地契約だけは残された」


「身元は隠したい。契約は読ませたい」


 ミラベルが、昨夜のレオンの言葉を繰り返す。


 レオンは否定しなかった。


 検死官は死体の右手を持ち上げた。


 爪の際と指の腹に、薄い青が残っている。


「洗浄しても落ちませんでした。おそらくインクです。成分鑑定へ回しています」


 レオンは許可を得て、死者の手を光へ向けた。


 長い指。


 右中指の側面には、長年筆記具を持っていた者に特有の硬化がある。


 その上に、新しい青が残っていた。


「昨夜、何かを書いた?」


 ミラベルが尋ねる。


「雨の中でこれだけ残っているなら、新しい可能性は高い」


「死ぬ直前に?」


「数時間前かもしれません」


「契約書へ署名したと考えるのが自然ですね」


「自然な結論ほど、誰かが用意しやすい」


 グレアムが鼻を鳴らした。


「お前は朝食にパンが出ても、誰が小麦を挽いたか疑うんだろうな」


「毒が入っていれば」


「入っていなくてもだ」


「入っていないと確認するためです」


「面倒な男だ」


「知っています」


     *


 検死官は記録紙をめくった。


「死亡推定時刻は、午後九時二十分から九時三十分の間」


「そこまで絞れるのか」


「発見が早かったことと、雨で冷やされた時間を推定できたためです。ただし蒸気熱の影響があります。捜査上は前後五分ほど幅を取ってください」


「午後九時十五分から九時三十五分」


「それが安全でしょう」


 グレアムは部下へ命じた。


「死因は後頭部への鈍器打撃。蒸気火傷は死後。遺体移動の可能性が高い。圧痕は詳細図を添えろ」


「承知しました」


「契約書の鑑定は」


 今度はレオンを見る。


「乾燥を待っています。一次所見なら昼までに」


「青いものがインクかどうかもだ」


「ええ」


「分かったら俺へ最初に知らせろ」


「私には?」


 ミラベルが尋ねる。


「お前は新聞社だろう」


「今は捜査補助者です」


「期限は、この部屋を出るまでだ」


「短い雇用でした」


 グレアムが彼女を廊下へ追い出そうとしたとき、検死室の扉が二度叩かれた。


 若い警官が顔を出す。


「警部。身元照会室から連絡です」


「もう出たのか」


「最優先照会に、一件一致がありました」


「どの項目だ」


「懐中時計の製造番号と歯列記録です。それから、右中指の家印環痕に対応する旧家記録が」


 警官は手の紙片へ目を落とした。


「名前が出ています」


     *


 身元照会室では、記録院との通信気送管と蒸気式照合機が動いていた。


 歯車が回り、紙送りローラーが一定の音を立てる。


 担当書記が、中央記録院から届いた回答票を差し出した。


「氏名」


 グレアムが読み上げる。


「アルヴィン=ヴェイン」


 ミラベルは、その名を小さく繰り返した。


「アルヴィン=ヴェイン」


 名前を与えられた瞬間。


 白い石台の男が、ほんの少しだけ死体ではなくなった。


 誰かに名を呼ばれ。


 何かを失い。


 昨夜まで生きていた、一人の人間になった。


 ミラベルは手帳を開き、一文字ずつ慎重に記した。


 アルヴィン=ヴェイン。


 だが、担当書記の表情は晴れなかった。


「一致はしています。歯列、時計の製造番号、身体的特徴。すべてヴェイン家の記録と合うのですが」


「何が問題だ」


「死亡記録があります」


 別の紙が差し出された。


 黒い縁取り。


 死亡者記録の様式。


 グレアムは受け取り、上から下へ目を走らせた。


「四年前?」


 ミラベルが言った。


 紙には、はっきりと記されていた。


 アルヴィン=ヴェイン。


 四年前の霧月十二日、病死。


 医師の死亡証明あり。


 親族による身元確認あり。


 埋葬処理済み。


 相続および土地権利移転処理済み。


「間違いでは?」


「同姓同名という可能性も」


「ヴェイン家の第一相続人は一人です」


 書記が答えた。


「時計の番号も死亡者の遺品目録にある。歯列も一致しています」


「なら、目の前の死体がアルヴィンでしょう」


 ミラベルが言う。


「なのに、四年前に死んでいる?」


「記録上は」


 レオンが答えた。


「記録が間違っているんです。死体がここにある。昨夜まで生きていた。それだけでしょう」


「記者にとってはな」


 グレアムは死亡記録を机へ置いた。


「警察には、それだけでは済まん」


「なぜですか」


「この記録には医師の証明がある。親族の確認がある。埋葬記録と相続処理も終わっている。四年間、訂正申請はない」


「目の前に本人がいるじゃないですか」


「死体は、自分の名を証言できん」


 ミラベルの顔が強張る。


「生きていた証拠を集めなければ、死体の名すら呼べない」


「名前が分かっているのに?」


「間違った名を警察が確定すれば、本当に名を奪うことになる」


 ミラベルは、手帳へ書いた名前を見た。


 彼女が書けば、その名は紙の上に存在する。


 だが警察が記録するには、証明が要る。


 その証明を管理する記録院は、彼が四年前に死んだと言っている。


「では、今は何と呼ぶんですか」


「身元確認中の男性遺体」


「名前を使わないんですね」


「軽く扱っているからではない」


 グレアムは死亡記録へ太い指を置いた。


「名前は、一度記せば他人の人生を動かす。相続も、土地も、逮捕状もだ」


「警察は、真実を見つけるためにあるのでは?」


「真実を、他人が否定できない形にするためだ」


 ミラベルは反論しなかった。


 グレアムの慎重さは、死者の名を軽く見ているからではない。


 その名が持つ重さを知っているからだった。


 レオンは四年前の死亡記録を手に取る。


「死亡証明を出した医師は」


「オルバン=ケイル。二年前に死亡しています」


「埋葬場所」


「市営共同墓地です」


「検死記録は」


「ありません。肺熱病による病死です」


「当時は流行していました」


 担当書記が付け加える。


「珍しくない記録は、隠すのに向いている」


 レオンが言った。


「もう偽装と決めたのか」


 グレアムが問う。


「いいえ。偽装するなら選びやすい形式だと思っただけです」


「お前の中では違うらしいな」


「大きく違います」


 そのとき、気送管の受信鐘が鋭く鳴った。


 壁の内側を、真鍮の筒が走る音。


 数秒後、受信箱へ重い音が響く。


 担当書記が革張りの契約筒を取り出した。


「追加回答です。土地権利関係の記録が自動抽出されました」


 筒の中には、数枚の写しが入っている。


 最上部の表題を見た瞬間、書記の顔色が変わった。


 《土地権利放棄・旧移転追認契約書》


 契約当事者。


 土地番号。


 旧権利者。


 バルグレム蒸機鉱業商会。


 そして、旧権利者の欄に。


 アルヴィン=ヴェイン。


「いつの契約です」


 ミラベルが尋ねる。


「昨夜です」


 グレアムは、右上の受付印を確認した。


「午後九時八分」


 検死官が推定した死亡時刻より、十二分から二十二分前。


「署名は」


 レオンが言った。


 最後の頁が開かれる。


 青いインク。


 古いエルフ式の流麗な筆跡。


 アルヴィン=ヴェイン。


 死体の懐にあった契約書では、署名欄だけが焼かれていた。


 だが記録院の契約書には、同じ男の名が明瞭に残されている。


「筆跡照合は」


「四年前以前のヴェイン家文書と比較され、高い一致を示しています」


 担当書記が添付票を読む。


「正式鑑定前ですが、本人筆跡である可能性は極めて高い。筆圧の特徴も合致していると」


 ミラベルが机へ近づいた。


 今度は、グレアムも止めなかった。


「この人は、昨夜、自分の名を書いた」


「記録上はな」


「土地を放棄する契約へ?」


「そう書いてある」


「でも、四年前に死んでいる」


「そう書いてある」


「そして、そのあと本当に殺された」


「検死結果ではな」


 二枚の紙が机へ並んだ。


 四年前の死亡記録。


 昨夜の土地放棄契約。


 どちらにも公印がある。


 番号がある。


 必要な欄が埋まっている。


 どちらも、正式な記録として成立していた。


「この契約が偽物なら」


 ミラベルが言う。


「署名は本人筆跡の可能性が高い」


 レオンが答える。


「では、死亡記録が偽物」


「それを証明する必要がある」


 グレアムが言った。


「また証明ですか」


「警察は証明するためにある」


 グレアムは担当書記へ向き直った。


「記録院へ保全命令を出せ。契約原本、受付簿、立会記録、提出者記録。複写も廃棄禁止だ」


「理由は」


「殺人被害者の身元と死亡時刻に関する重大な記録矛盾」


「記録院は、本人と確定していないと返してきます」


「なら、死亡者名義の契約が殺人事件へ関係していると書け」


「それなら動きます」


「最初からそう言え」


 書記が気送管用紙へ走り書きを始める。


 ミラベルは青い署名を見つめた。


「この署名が本物なら、何が起きたことになるんですか」


 すぐに答える者はいなかった。


 蒸気式照合機が紙を送り出す。


 小さな歯車が回る。


 検死室では、まだ名を呼ばれることを許されない死体が、白い石台の上に横たわっている。


 レオンは、四年前の死亡記録と昨夜の契約書を並べた。


「記録どおりに読むなら」


 彼は言った。


「四年前に死んだ男が、昨夜、自分の土地を放棄した」


 指が、午後九時八分の受付印へ移る。


「そして、その直後に」


 次に、検死報告の死亡推定時刻へ。


「もう一度死んだ」


 ミラベルは、手帳に書いた名前を見た。


 アルヴィン=ヴェイン。


 その名の横へ。


 二つの死が並んでいた。

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