第1節 ― 雨と煤煙の下で
その夜、ヴェルム=クロウには、黒い雨が降っていた。
工場の煤煙と、機関車の灰と、蒸気管から漏れた油を抱えた雨粒が、煉瓦の屋根と鉄骨の高架を叩いている。
街路のガス灯は、濡れた硝子の中で黄色く滲んでいた。
側溝には石炭の粉と油膜が流れ、馬車の車輪が通るたび、鈍い虹色が泥水の上へ浮かぶ。
頭上を横切る中央高架線では、貨物列車が途切れることなく走っていた。
警笛。
車輪と軌条の衝突音。
鋲で留められた梁の震え。
鉄骨から落ちる黒い滴。
橋脚の脇から噴き出す白い蒸気。
その下に、男は倒れていた。
*
最初に死体を見つけたのは、高架下で屑石炭を拾っていた老いたエルフだった。
彼は初め、誰かが雨を避けて眠っているのだと思った。
だが、濡れた外套の隙間から白い指が見えた。
長い指の先に、青い色が残っていた。
老エルフが石炭袋を落として声を上げると、その半分は高架を走る列車に奪われ、残りの半分が巡回中の夜警へ届いた。
十分もしないうちに、ヴェルム=クロウ市警の黒い馬車が高架下へ滑り込んだ。
「両側を塞げ!」
橋脚のあいだから、低く太い声が響いた。
「歩行者も荷馬車も通すな。排水溝には入るなよ。足跡も、雨水の流れも変わる。写真班は死体を動かす前に、全方向から撮れ」
声の主は、濃紺の外套を着たドワーフだった。
バルトラム=グレアム警部。
人間よりはるかに小柄だが、雨の現場に立つと、どの警官よりも大きく見える。灰色の髭から水を滴らせながら、部下たちの動きを見渡していた。
「発見者は?」
「馬車で待たせています」
「温かいものを飲ませろ。何度も同じ話をさせるな。最初に見たものが、二度目には警官の質問へ置き換わる」
「はい、警部」
グレアムは死体の前へしゃがみ込んだ。
男は仰向けに近い姿勢で、右肩を橋脚へ預けている。外套は古く、靴も擦り減っていたが、その下のシャツには上等な仕立ての名残があった。
淡い髪の下から、尖った耳が覗いている。
若いエルフだった。
グレアムは首筋を確認し、瞼を押し上げる。
「死後硬直は始まりかけだ」
「死亡は一時間以内でしょうか」
「ここで決めるな。検死官に言わせろ」
外套を開くと、左胸から上腕にかけて、布と皮膚が赤黒く焼けていた。
「蒸気管の事故でしょうか」
若い警官が頭上を見上げる。
「そう見えるな」
「見えるだけですか」
「見たものと、起きたことを一緒にするな。警官が最初に覚える仕事だ」
グレアムは火傷へ触れず、死体の後頭部へ回った。
雨に濡れた髪の下に、裂けた傷がある。
出血を伴う打撃痕。
だが、周囲の石畳に残る血は少なかった。
「頭も打っています」
「事故で転んだ可能性は残せ。今はな」
グレアムが死体の手へ視線を移したとき、封鎖縄の内側から女の声が聞こえた。
「それなら、朝刊の見出しは『高架下の蒸気事故』ですか?」
グレアムの眉間に、深い皺が刻まれた。
橋脚の陰に、若い女が立っていた。
雨に濡れた濃紺の外套。
小さな帽子。
肩から提げた革鞄。
片手には鉛筆。
もう片方には、雨除けの革表紙をつけた記者手帳。
「ワトリア」
「こんばんは、警部」
「どうやって入った」
「普通に歩いて」
「縄があっただろう」
「ありました」
「警官もいた」
「いました」
「なら、なぜここにいる」
「縄と警官がある場所には、記事になるものがあるからです」
ミラベル=ワトリア。
ヴェルム=クロウ日報の若手記者。
警察から追い出されても、翌日には別の事件現場へ現れる女だった。
「出ろ」
「まだ何も聞いていません」
「何も聞かせるつもりはない」
「若いエルフの男性。後頭部に傷。蒸気火傷」
ミラベルは手帳を見ながら数える。
「発見した方は、最初、寝ていると思ったそうです」
「警察が聴取する前に話を聞いたのか」
「夜警が来る前です」
「お前は、なぜ毎回、警官より先に人の話を聞いている」
「警官を見ると、皆さん緊張しますから」
「記者なら安心するとでも?」
「少なくとも手錠は持っていません」
「代わりに鉛筆を持っている。場合によっては、そっちのほうがたちが悪い」
ミラベルは死体を見た。
軽い調子が、わずかに消える。
「発見者の方は、知り合いかもしれないと思ったそうです」
「同じエルフだからか」
「この辺りで仕事を失ったエルフは多いからです。身元不明のまま事故死とされたら、記事は二行になる。名前が分からなければ、一行かもしれません」
「まだ事故とも、身元不明とも決めていない」
「だから、決める前に来ました」
「現場は新聞社の閲覧室じゃない」
「警察だけのものでもありません」
グレアムが立ち上がった。
背丈はミラベルより低い。
だが彼女の前へ立つと、煉瓦壁のような圧があった。
「ここで誰かが死んだ。証拠を一つ踏めば、そいつの名前を見つける機会まで潰す。知りたいなら、まず邪魔をするな」
ミラベルは、自分の靴先を見た。
証拠標識の一つが、すぐ近くにある。
彼女は一歩下がった。
「……ここなら?」
「縄の外まで、あと六歩だ」
「五歩で譲ってください」
「六歩だ」
ミラベルは五歩だけ下がった。
「ワトリア」
「一歩は、記事の公平性です」
グレアムが怒鳴ろうとした、そのとき。
高架の上を貨物列車が通過した。
鉄輪の轟音が声を押し潰し、橋脚が震えた。蒸気排水口から白い霧が噴き出し、雨と混ざって現場を覆う。
列車の音が遠ざかったあと。
雨の向こうから、男の声が聞こえた。
「死体より、紙のほうがよほど正直ですよ。警部」
グレアムの顔に、怒りとは別の疲労が浮かんだ。
彼は振り向かずに言った。
「帰れ、クラウス」
黒い人影が、ガス灯の輪の中へ歩いてくる。
傘は差していない。
雨を吸った黒い外套から、水が絶えず流れ落ちていた。それでも歩調は変わらない。
三十代半ばほど。
細身。
青白い顔。
暗い髪。
疲れているように見えるが、目だけは不自然なほど醒めている。
レオン=クラウス。
私立探偵。
記録鑑定人。
元ヴァルテリア記録院調査官。
そして、記録院を追われた男。
ミラベルは、彼について書かれた噂をいくつも知っていた。
上司を殴った。
禁制記録を盗んだ。
商会幹部の秘密契約を暴いた。
どれも語る者によって内容が違う。
本人を見るのは、これが初めてだった。
「帰れと言われて帰る探偵を、警部は雇っているのですか」
レオンが尋ねる。
「雇っていない。呼んでもいない」
「では、帰る義務もありませんね」
「屁理屈を言いに来たのか」
「土地契約書が見つかったと聞きました」
グレアムの目がミラベルへ向く。
「私ではありません」
彼女は即座に答えた。
「クラウスさんとは今日が初対面です」
レオンが、初めてミラベルを見た。
濡れた帽子。
革鞄。
記者手帳。
鉛筆。
封鎖縄の内側へ、半歩だけ残された靴先。
「新聞記者は、警察の縄を越えるのが職務なのですか」
「探偵は、呼ばれていない現場へ来るのが職務なんですか」
「質問へ質問で返す」
「あなたもです」
「新聞社は教育熱心らしい」
「記録院ほどではないと思います」
ほんの一瞬、レオンの視線が止まった。
記録院という言葉へ反応したのか。
表情からは分からなかった。
グレアムが二人のあいだへ割って入る。
「知り合うなら縄の外でやれ。クラウス、お前もだ」
「見るだけです」
「死体にも現場にも触るな。何か落としたら、お前も証拠袋へ入れる」
「私が入る大きさはありますか」
「作らせる」
レオンは縄の内側へ入った。
ミラベルも続こうとしたが、グレアムに睨まれて止まる。
「不公平です」
「警察は公平を約束する組織じゃない。法を守る組織だ」
「それ、記事に書いていいですか」
「好きにしろ。ただし名前は正確にな」
ミラベルの鉛筆が動いた。
*
レオンは死体のそばへ膝をついた。
最初に、後頭部の傷を見る。
次に、周囲の石畳。
雨水は、死体の右側から左の排水溝へ流れている。
「頭部の下に血だまりがない」
「雨で流れた可能性がある」
グレアムが答える。
「あります。ただ、衣服へ吸われた量も少ない」
「ここで殴られたとは限らないと?」
「まだ言っていません」
「顔に書いてある」
「警部は、紙より私の顔を信用するのですか」
「お前の顔は、都合の悪いことだけよく喋る」
レオンは死体の胸へ視線を移した。
「火傷は左胸と腕に偏っている」
「高架の蒸気排水を浴びたなら、不自然ではない」
「排水口は死体の右側です」
その場にいた者たちが、橋脚の上を見上げた。
白い蒸気を漏らす排水弁が、死体の右上にある。
「身体の向きが変わった可能性もある」
グレアムが言う。
「ええ」
「否定しないのか」
「可能性を否定するには、証拠が要ります」
「今日は随分と慎重だな」
「新聞記者がいますので」
「どういう意味ですか」
縄の外からミラベルが聞いた。
「断定だけが見出しになる」
「訂正も載せます」
「一面と同じ大きさで?」
ミラベルは口を閉じた。
「たまには役に立つな、クラウス」
「褒め言葉として記録しておきます」
レオンは、死体の手を見た。
人差し指と中指の腹に、雨でも落ちなかった青が残っている。
中指の第二関節には、細い帯状の白い跡があった。
「長いあいだ指輪をはめていた」
グレアムが言う。
「婚姻指輪の位置ではありません」
「古いエルフ家の家印環だ。だが、指輪はない」
「財布も?」
「ない」
「ほかの所持品は」
警官が、証拠袋を掲げた。
中には、黒ずんだ銀の懐中時計が入っている。
「外套の内ポケットにありました。今も動いています」
「財布と家印環だけ奪い、銀時計を残した」
レオンが言った。
「物取りにしては、不自然だ」
グレアムが鼻を鳴らす。
「蓋の紋章か頭文字は削られています」
「身元を示す部分だけが」
「ええ」
レオンは死体の靴底へ顔を近づけた。
溝の奥に、煉瓦色の土が固まっている。
現場の石炭滓と煤泥とは、明らかに違っていた。
「赤土です」
「この高架下にはない」
グレアムが答える。
「靴底を左右別に採取させる。現場の泥も比較する」
レオンは頷き、最後に油布で包まれた紙束を見た。
「契約書を」
「証拠品だ」
「だから見たい」
「その言い方をする奴には、見せたくなくなる」
そう言いながらも、グレアムは防水布の下へ証拠板を運ばせた。
厚手の契約紙。
土地番号。
区画図。
権利移転の条項。
右上には、バルグレム蒸機鉱業商会の印章が押されている。
最後の頁。
本来、署名が置かれる欄だけが黒く焼けていた。
紙の縁でも、折り目でもない。
署名欄を囲む罫線の内側へ、意図して火を当てたような焦げ方だった。
炭化した面には、細かな青い粒が張りついている。
「青いインクでしょうか」
若い警官が言った。
「署名を焼いた跡かもしれません」
「かもしれん」
グレアムは短く答えた。
レオンは表題から順に目を通した。
契約番号。
土地番号。
商会印。
本文。
頁番号。
綴じ穴。
そして、焼けた署名欄。
「紙は商会の現行書式。罫線も綴じ穴も一致しています」
「見ただけで分かるんですか」
ミラベルが身を乗り出す。
グレアムの視線を受け、すぐに戻った。
「元記録院職員ですので」
レオンが答える。
「記録院では、契約紙の繊維まで覚えるんですか」
「覚えない職員のほうが多い」
「あなたは覚えた」
「忘れる理由がありませんでした」
その言葉には、かすかな冷たさがあった。
ミラベルは、それ以上尋ねなかった。
レオンは焼けた欄へ顔を近づける。
「灯りを下へ。横から当ててください」
ランタンが下げられた。
斜めの光が、炭化した紙の凹凸を浮かび上がらせる。
焦げの縁。
罫線。
紙の繊維。
表面に残った青い粒。
レオンの目が、ゆっくりと移動する。
「何が見えるんですか」
ミラベルが尋ねた。
レオンは答えない。
「クラウス」
グレアムが促す。
「書かれた跡にしては、紙の奥へ入っていない」
雨音が、急に大きく聞こえた。
「どういう意味だ」
「青いものは残っています」
「だから署名のインクだろう」
「インクなら紙の繊維へ染み込み、筆圧も残ります。焼けたあと、色素だけが表面へ砂のように並ぶとは限らない」
「では、これは何だ」
「乾かして鑑定する必要があります」
「今は分からんのか」
「分からないことを、分かったことにしないだけです」
ミラベルの鉛筆が止まる。
「署名が焼かれたとは限らない?」
レオンは彼女を見た。
「私は、そこまで言っていません」
「でも、その可能性がある」
「記事には書かないことです」
「命令ですか」
「忠告です」
「従うと思います?」
「思いません。ですから、先に責任の所在を明確にしました」
「嫌な人ですね」
「初対面としては正確な観察です」
グレアムは契約書を証拠板へ戻した。
「鑑定はお前に回す」
「正式な依頼書を」
「あとで書く」
「報酬も」
「あとで決める」
「警察の『あとで』は、たいてい忘れられます」
「忘れた頃に、思い出させに来るだろう」
「よくご存じで」
グレアムは部下へ振り返った。
「靴底の赤土を採取。蒸気排水弁は封鎖して、今夜の圧力記録を押収しろ。工具痕も残せ」
「鉄道会社へ連絡します」
「バルグレム系列の管理区だ。連絡する前に警官を置け。帳簿が都合よく雨に濡れると困る」
部下たちが動き出す。
レオンは、もう一度死体を見た。
後頭部の傷。
左側へ偏った蒸気火傷。
少なすぎる血。
指先の青。
失われた家印環。
削られた時計の印。
現場にはない赤土。
そして、署名欄だけが焼かれた契約書。
「クラウスさん」
ミラベルが呼んだ。
「これは、殺人なんですか」
「後頭部に傷があります」
「事故でも傷はできます」
「できます」
「蒸気火傷もある」
「あります」
「死体は、別の場所から運ばれた?」
「その可能性があります」
「犯人は、契約書の署名を消した?」
「まだ分かりません」
ミラベルは鉛筆を握り直した。
「何なら分かっているんですか」
レオンは、死体の顔を見た。
閉じた瞼。
雨に濡れた頬。
かつて何者だったのかを示すものを、ほとんど奪われた顔。
「誰かが、この死体を見つけてほしかった」
「隠す気がなかった?」
「高架下は人目が少ない。ですが、朝までに夜警か石炭拾いが通る。契約書は懐に残され、火傷は見える位置にある。一方で、財布と家印環はない」
「物取りに見せたかった」
「それなら時計も持っていく」
グレアムが言った。
「身元を分からなくしたかった?」
「それなら契約書を残す理由がない」
三人の視線が、焼けた署名欄へ集まった。
レオンは静かに言った。
「身元は隠したい。契約は見つけてほしい」
「矛盾しています」
ミラベルが言う。
「ええ」
レオンの目に、初めてかすかな興味が浮かんだ。
「だから事件になる」
*
写真機の閃光が、高架下を白く染めた。
雨粒が一瞬、空中で止まって見えた。
死体。
橋脚。
排水溝。
蒸気管。
警官たち。
焼けた契約書。
すべてが硝子板の上へ焼きつけられ、次の瞬間には、また黒い夜へ戻った。
死体へ防水布がかけられる。
担架が運ばれてくる。
グレアムは若い警官を呼び寄せた。
「記録院へ身元照会を出せ」
「所持品が少ないですが」
「エルフ族、男性。推定年齢、耳の形、骨格、歯列、古傷、衣服。家印環の装着痕。懐中時計の製造番号。全部送れ」
「土地契約も?」
「契約番号、土地番号、商会印。死亡記録、相続記録、土地権利記録もまとめてだ」
「最優先指定ですか」
「最優先だ」
「記録院が嫌がります」
「俺も嫌がっている。お互い様だ」
警官が馬車へ走る。
ミラベルは縄の外で、手帳へ最後の一行を書き込んでいた。
「記事は朝まで出すな」
グレアムが言った。
「編集長が決めます」
「身元不明。死因未確定。商会名は伏せろ」
「隠すんですか」
「確定していないものを、確定したように書かせないだけだ」
「朝までに警察発表をください」
「善処する」
「それは、何もしないときの言葉です」
「よく知っているな」
「記者なので」
グレアムはレオンへ向き直る。
「契約書を鑑定しろ。夜明けまでに一次所見を出せ」
「急げば紙を傷めます」
「死体より大事か」
レオンは、焼けた署名欄を見た。
「この事件では、同じくらいかもしれません」
「そういう言い方をするから、お前は嫌われるんだ」
「警部は死体を調べる」
レオンは答えた。
「私は、死体をここへ連れてきた記録を調べます」
担架が持ち上げられた。
白い布の下で、男の身体がわずかに揺れる。
時計は証拠袋へ。
赤土は採取瓶へ。
青い色の残る手は、防水紙に包まれた。
死体が警察馬車へ運ばれていくあいだも、レオンはその顔を追わなかった。
彼が見ていたのは、証拠板に挟まれた契約書だった。
土地の名がある。
商会の名がある。
条項がある。
番号がある。
印章がある。
署名だけがない。
あるべき場所は、黒く焼かれている。
その空白の上には、青い粒が残っていた。
書かれた名の亡骸なのか。
それとも、最初から名など存在しなかったのか。
答えはまだ、紙の奥に沈んでいる。
高架の上を、次の列車が通過した。
誰かが死んでも、列車は止まらない。
誰かの名が失われても、記録院は翌朝になれば新しい台帳を開く。
その夜。
雨と煤煙の下から運び出されたのは、名も知れぬエルフの死体だった。
だが、そこに残された焼けた空白は、死体よりも長く、三人の目に焼きついていた。




