第2節 死んでいた男
ヴェルム=クロウでは、死体の身元を調べるとき、最初に遺族を探すとは限らない。
まず、記録院に照会する。
誰が生まれ、誰が死に、誰がどこの土地を持ち、どの契約に名を残し、どの債務から逃げ、どの神殿に祈りを納めたか。
この都市では、それらの大半が紙と印章と照合番号によって管理されている。
人間が「知らない」と言っても、記録院が「知っている」と記せば、その者は存在したことになる。
逆に、人間が「ここにいる」と叫んでも、記録院が「存在しない」と記せば、その者は街のどこにもいない。
肉体より、記録のほうが強い。
それが、煤霧都市ヴェルム=クロウという場所だった。
高架下の死体は、夜明け前にヴェルム=クロウ警察本部の地下検死室へ運ばれた。
雨はまだ降っていた。
石畳を叩く音は少し弱まっていたが、空は相変わらず煤で黒い。朝の気配は薄く、街の上では早くも蒸気鉄道が動き始め、遠くの工場街では始業を告げる汽笛が鳴っていた。
人が死んでも、街は止まらない。
列車は走り、工場は煙を吐き、新聞は刷られ、記録院はその日の台帳を開く。
ヴェルム=クロウ警察本部は、赤煉瓦と黒鉄で造られた堅牢な建物である。
玄関の上には煤けた警章が掲げられ、左右には蒸気圧で動く重い鉄扉が据えられていた。
地下には検死室、留置場、押収品保管庫が並び、さらに奥には、記録院と繋がる照会管が走っている。
真鍮製の気送管である。
書類を筒に入れ、圧縮蒸気で送る。
警察本部から記録院までは、早ければ十分とかからない。
もっとも、返答が早いことと、真実が早く届くことは別の話だった。
グレアム警部は、地下検死室の前に立っていた。
短い腕を組み、濡れた外套を着たまま、床石に小さな水たまりを作っている。灰色の髭の先から滴が落ちるたび、彼の機嫌も少しずつ悪くなっていくようだった。
「まだか」
低い声に、若い警官が肩をすくめた。
「記録院からの一次照会は返ってきました。ただ……」
「ただ、なんだ」
「照合結果が妙です」
若い警官は、真鍮筒から取り出した紙を差し出した。
グレアムは乱暴に受け取り、濡れた手袋を外してから紙面に目を落とした。
照会対象。
エルフ族。
男性。
推定年齢。
身体的特徴。
髪色。
耳の形状。
骨格比率。
衣服。
所持品。
発見場所。
その下に、記録院の印が押されている。
該当候補一名。
名は、アルヴィン=ヴェイン。
没落エルフ家系、ヴェイン家の男子。
旧鉄環平野北西区画の土地相続権者の一人。
グレアムはそこで目を止めた。
「出たじゃないか。身元は分かったんだろう」
「それが……次の行を」
警官の声が小さくなる。
グレアムは紙面の続きを読んだ。
死亡記録あり。
死亡日、四年前。
死因、病死。
記録状態、閉鎖済み。
地下検死室の空気が、わずかに冷えた。
「……四年前に死んでいる?」
グレアムは紙を睨んだ。
「馬鹿な。死体は昨夜上がったんだぞ」
「はい」
「では、こいつは誰だ」
「記録上は、アルヴィン=ヴェインです」
「記録上は死んでいる」
「はい」
「なら、この死体はなんだ」
若い警官は答えられなかった。
その沈黙に、壁際から低い声が差し込む。
「二度目の死体でしょう」
グレアムは振り返った。
レオン=クラウスは、地下廊下の壁に寄りかかっていた。
黒い外套はまだ湿っている。
手袋の先には、昨夜の雨の匂いが残っていた。
彼は検死室の扉ではなく、グレアムの手にある照会書を見ていた。
「お前はなぜまだここにいる」
「帰るなと言われていませんので」
「帰れと言った」
「雨が強かった」
「傘を買え」
「探偵業はそこまで儲かりません」
グレアムは疲れたように目を閉じた。
それから、照会書をレオンに突きつける。
「見ろ。お前の好きそうな紙だ」
レオンは受け取らなかった。
ただ、視線だけを紙面に落とした。
その目つきが、ふっと細くなる。
「死亡記録の閉鎖印が早すぎる」
「何?」
「死亡日から閉鎖処理までが同日です。通常なら、死亡届、照合、遺族確認、財産処理の順に進む。特にエルフ家系で土地相続が絡む場合、記録院は慎重になります」
「慎重?」
グレアムが鼻を鳴らした。
「記録院の連中がか」
「ええ。自分たちの失敗が紙に残ることだけには、驚くほど慎重です」
レオンは淡々と言った。
「それに、死因が病死なら医療記録があるはずです。神殿医か区立診療所の証明印が要る」
若い警官が照会書をめくる。
「添付なしです。一次照会には載っていません」
「便利な病死ですね」
レオンの声には、わずかに冷たいものが混じっていた。
グレアムは検死室の扉を見た。
その向こうには、昨夜のエルフの青年が横たえられている。
今は黒い水も血も拭われ、煤もある程度落とされているだろう。だが、いくら拭っても、記録上の死までは洗い落とせない。
「記録院には再照会を出す」
グレアムは言った。
「死亡届の提出者、処理担当者、関連する土地記録。全部だ」
「よろしいのですか」
レオンが言う。
「バルグレム商会の名が入った契約書と、閉鎖済みのエルフ相続記録。面倒ごとの香りしかしませんが」
「俺は警官だ。面倒ごとを避ける職業じゃない」
「それは初耳です」
「殴るぞ」
グレアムは若い警官へ指示を飛ばした。
「こいつは一旦、身元不明のエルフとして扱う」
レオンの眉が、わずかに動いた。
「身元は出たでしょう」
「記録院が認めない名を、警察の調書には書けん」
グレアムは低く言った。
「記録上死んでいる男を、今さら生きていたとは書けない。正式な再照会が済むまでは、身元不明だ」
「なるほど。記録が矛盾したとき、人間のほうを曖昧にするわけですか」
グレアムはレオンを睨んだ。
「現場を回すには手続きがいる」
「手続きのために、死者の名をまた消す」
「クラウス」
グレアムの声が低くなった。
「俺に説教するな。俺はこいつを捨てようとしているわけじゃない。だが、記録院の正式回答なしに名前を出せば、上が止める。商会も動く。そうなれば、検死すらまともにできなくなる」
レオンは少し黙った。
それは、正論だった。
ヴェルム=クロウでは、真実があまりに早く表に出ると、真実そのものが押収されることがある。
「分かりました」
レオンは言った。
「では、身元不明のままにしておきましょう。今は」
「その“今は”が嫌なんだ」
「よく言われます」
そのとき、地下へ続く階段の上から騒がしい声がした。
「困ります、記者の方はここから先へは――」
「記者だから来ているんです。事件現場に記者が来なくて、誰が来るんですか」
「警察です!」
「それはもう来ているでしょう」
足音が近づく。
濡れた靴が石段を叩き、やがて一人の若い女性が地下廊下に姿を現した。
栗色の髪を帽子の下に押し込み、肩には雨に濡れた短い外套。片手に手帳、もう片方に小型の鉛筆を持っている。
息は少し上がっている。
だが、目だけは妙に生き生きとしていた。
ミラベル・ワトリア。
ヴェルム=クロウ日報の若手記者である。
「グレアム警部。高架下でエルフの男性死体が見つかったと聞きました。しかも、バルグレム商会の契約書を持っていたとか」
グレアムは露骨に嫌な顔をした。
「誰が漏らした」
「街です」
「街は喋らん」
「喋りますよ。高架下の浮浪者、夜警、馬車屋、警察署前の煙草売り。特に煙草売りはよく喋ります」
「帰れ」
「またそれですか」
ミラベルは不満そうに言った。
「市民には知る権利があります」
「死体には静かに寝る権利がある」
「では、その死体がなぜ死んだのかだけでも」
「検死前だ」
「身元は?」
「未確認」
「契約書は?」
「知らん」
「バルグレム商会の関与は?」
「ない」
「早いですね。検死前なのに、そこだけ否定できるんですか」
グレアムのこめかみが、ぴくりと動いた。
若い警官たちは、目を合わせないようにしている。
ミラベルは、その沈黙を見逃さなかった。
彼女は騒がしい記者だった。
だが、騒がしいだけの記者ではない。
人が隠しごとをするとき、言葉より先に沈黙が硬くなる。
編集部で何度も見てきた。
商会の会見でも。
市議会の廊下でも。
警察発表の場でも。
今、この地下廊下の空気は、明らかに硬かった。
ミラベルはさらに一歩踏み込もうとした。
そこで初めて、壁際のレオンに気づいた。
「……あなたが、レオン=クラウスさんですか」
レオンは軽く首を傾げた。
「そう呼ばれています」
「元記録院職員の探偵。霧燈通り十三番地、黒鴉館二階。警察の仕事に勝手に首を突っ込む変人」
「紹介としては概ね正確ですが、最後の一文を書いた人物には訂正を求めたいですね」
「訂正箇所は?」
「勝手に、ではない。たいていの場合、呼ばれます。嫌そうな顔で」
ミラベルは一瞬だけ笑いかけ、それからすぐに記者の顔へ戻った。
「では、クラウスさん。あなたはこの事件をどう見ていますか」
「あなたに話す義務はありません」
「警察よりは話してくれそうです」
「警察より信用されているとは、光栄ですね」
「いえ、警察より口が滑りそうなので」
グレアムが低く唸った。
「ワトリア記者。ここは取材場じゃない」
「事件現場でしょう」
「地下検死室だ」
「なおさら重要です」
「追い出せ」
若い警官が困った顔でミラベルに近づいた。
ミラベルは一歩下がりながらも、手帳を閉じなかった。
「分かりました。では最後にひとつだけ」
「最後という言葉を守る記者を、俺は見たことがない」
「それは、警察が最初から答えないからです」
「質問はなんだ」
ミラベルは、グレアムをまっすぐ見た。
「死体は、本当に身元不明なんですか」
その問いに、廊下の空気が止まった。
グレアムは答えなかった。
若い警官も答えない。
レオンだけが、ほんのわずかに視線を伏せた。
沈黙はときに、証言よりも多くを語る。
ミラベルの目が細くなった。
「……身元に何かあるんですね」
「帰れ」
グレアムの声は、今度こそ命令だった。
ミラベルは唇を結び、帽子のつばを指で押さえた。
「分かりました。今日のところは」
彼女は階段へ向かいかけた。
その横を通る瞬間、レオンが小さく言った。
「ワトリア記者」
ミラベルが振り向く。
レオンはグレアムの手元にある押収品袋へ視線を送った。
その中には、例の契約書が収められている。
グレアムが気づくより早く、レオンは身を少しずらした。
わずか一瞬。
ミラベルの視界に、契約書の上部だけが入る。
土地売買契約書。
ヴェルム=クロウ中央高架線拡張予定地。
バルグレム蒸機鉱業商会。
そして、黒く焼け落ちた署名欄。
ミラベルの目が、紙に吸い寄せられた。
記者の目だった。
好奇心だけではない。
怒りだけでもない。
そこにあるのは、街が隠そうとしているものを嗅ぎ取った者の目だった。
グレアムが振り返る。
「クラウス」
「何もしていません」
「今、何かした顔だ」
「顔に罪はありません」
ミラベルはすぐに表情を戻し、何も見なかったように階段を上がり始めた。
だが、その足取りは来たときよりもずっと静かだった。
地上へ戻る直前、彼女は一度だけ振り返った。
レオンと目が合う。
言葉はなかった。
それでも、ミラベルは理解した。
この事件は、高架下の事故死ではない。
ただのエルフの身元不明死体でもない。
バルグレム商会の契約書。
鉄道用地。
焼けた署名欄。
そして、警察が口を閉ざす身元。
記事になる。
いや、記事にしなければならない。
そう思った。
地下廊下に残されたグレアムは、深々と息を吐いた。
「お前、あの記者に何を見せた」
「事実の端です」
「端から火がつくこともある」
「その場合は、燃え方を観察しましょう」
「本当に嫌な男だ」
レオンは否定しなかった。
彼はもう一度、照会書へ目を落とした。
アルヴィン=ヴェイン。
四年前に死亡。
記録状態、閉鎖済み。
紙の上では、それで終わっている。
だが昨夜、高架下で見つかった男の指先には、青いインクが残っていた。
死んだはずの男が、最後に何かを書いた。
おそらくは、自分の名を。
レオンは静かに呟いた。
「死んでいた男が、署名をした」
グレアムが顔をしかめる。
「詩でも書くつもりか」
「いいえ」
レオンは照会書から目を上げた。
「事件です」
その頃、警察本部の外では、雨が再び強くなっていた。
ミラベル・ワトリアは庇の下で立ち止まり、手帳を開いた。
濡れた指で鉛筆を握り、見たばかりの文字を書き留める。
バルグレム商会。
鉄道用地。
焼けた署名欄。
身元不明のエルフ。
警察、沈黙。
最後に、少し迷ってから、彼女はこう記した。
――死んでいた男?
その疑問符は、雨の染みで少し滲んだ。
だが、消えなかった。




