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蒸都ヴァルテリアと偽装記録の探偵  作者: 秋月キアラ
第1話 署名なき死体
1/3

第1節 雨と煤煙の下で

観測記録 ― イル=ヴァス


 探偵譚において、死体はしばしば始まりである。


 冷えた床に横たわる身体。

 雨に濡れた外套。

 閉じられた瞼。

 奪われた財布。

 残された凶器。

 そして、誰が殺したのかという問い。


 読者諸君は、まずそこを疑うだろう。


 誰がその男を殺したのか。

 なぜ殺したのか。

 どのように殺したのか。


 それは正しい。


 少なくとも、通常の事件であれば。


 だが、ここに記す事件において、死体は最初の謎ではない。


 最初の謎は、名である。


 男は死んでいた。

 しかし、記録の上では、すでに死んでいた。


 男は署名していた。

 しかし、その署名欄だけが焼かれていた。


 ならば、探偵に問われるべきは何か。


 殺人犯の名か。

 焼けた署名の内容か。

 それとも、ひとりの人間を紙の上から消し去ることを、誰が許したのか。


 これは、雨の夜に見つかった死体の記録である。


 同時に、記録から消された者が、もう一度この世界に書き戻されるまでの記録でもある。


 観測神格イル=ヴァスは、ここに第一の事件を開く。


 題して――


 署名なき死体。

 記録には、二種類の嘘がある。


 ひとつは、書かれた嘘。

 もうひとつは、書かれなかった真実だ。


 前者は、まだ親切である。


 そこには筆跡がある。

 紙質がある。

 インクの癖がある。

 誰かが嘘をついたという、かすかな痕跡が残る。


 だが後者は厄介だ。


 なかったことにされた名前。

 存在しなかったことにされた人生。

 死んだと記された者が、本当はいつまで生きていたのか――それを知る者は、しばしば記録の外側へ追いやられる。


 ゆえに、この事件は一個の死体から始まったのではない。


 彼は、死体になるよりずっと前に、一度殺されていた。


 その夜、ヴェルム=クロウには雨が降っていた。


 煤霧都市の雨は、澄んだ水ではない。


 空を覆う工場の煙。

 鉄道高架から落ちる煤。

 蒸気機関の吐き出した油膜。

 それらを抱き込み、黒く、重く、街路に降る。


 ガス灯の火は滲み、石畳は濡れた獣の背のように光っていた。


 遠くでは夜行列車の汽笛が鳴り、霧の向こうで巨大な鉄の骨組みが震えている。


 ヴェルム=クロウ中央高架線。


 大陸西部を縦断する蒸気鉄道の幹線であり、バルグレム蒸機鉱業商会が誇る鉄の動脈である。


 その下に、男が倒れていた。


 最初に見つけたのは、高架下の排水溝で屑石炭を拾っていた老エルフだった。


 彼は、はじめそれを古い外套の山だと思ったという。


 このあたりでは、雨を避けて眠る者も珍しくない。


 仕事を失った労働者。

 身を持ち崩した役者。

 家名を失ったエルフ。

 夜明けまで生きているかどうかを、誰にも確かめられない者たち。


 高架下は、そういう者たちを一晩だけ隠す。


 そして時折、二度と起こさない。


 老エルフが通り過ぎようとしたとき、ガス灯の薄明かりが雨に揺れた。


 外套の隙間から、白い指が見えた。


 指は長く、細かった。


 泥に沈みかけていながら、どこか不自然に整っていた。


 エルフの手だ。


 老エルフは声を上げた。


 その声は、雨音と高架を走る列車の轟音に半分ほど飲み込まれた。


 それでも、夜警の耳には届いた。


 ほどなくして、警笛が鳴った。


 ヴェルム=クロウ警察の黒い馬車が二台、高架下へ滑り込んでくる。


 車輪が泥水を跳ね上げ、煤けた制服の警官たちがランタンを掲げて降り立った。


 ランタンの火が雨に揺れる。


 黒い水たまり。

 高架の影。

 排水溝から立ち上る蒸気。

 鉄骨を伝って落ちる雨だれ。

 そして、その中央に横たわる若いエルフの死体。


 警官たちの中心にいたのは、背の低い、がっしりしたドワーフの男だった。


 グレアム警部である。


 幅広の肩に濃紺の外套を羽織り、灰色の髭を雨に濡らしながら、彼は死体の前にしゃがみ込んだ。


「また高架下か」


 グレアムは低く呟いた。


 この街では、高架下に死体が出ることは珍しくない。


 酔漢が落ちる。

 浮浪者が凍える。

 借金取りに追われた者が姿を消す。

 安い労働者が点検通路で足を滑らせる。


 ヴェルム=クロウは、死体に慣れた街だった。


 だが、その死体は少しばかり奇妙だった。


 男は若いエルフだった。


 年の頃は二十代半ばから三十手前。

 エルフとしては、まだ青年と呼んでよい。


 銀に近い淡い髪は雨と煤で黒ずみ、額には泥が貼りついている。


 頬は痩せていたが、骨格は美しかった。


 かつてはそれなりの家柄に属していたことを、死んだ顔だけがまだ覚えているようだった。


 衣服は粗末だった。


 古い外套。

 擦り切れた袖。

 何度も修繕された靴。


 だが、外套の内側に覗いたシャツの襟元だけは、妙に上等な仕立てだった。


 貧困と格式が、同じ身体に無理やり縫い合わされている。


 没落エルフには、よくある姿だった。


「身元を示すものは?」


 グレアムが尋ねると、若い警官が首を振った。


「財布はありません。懐中時計もなし。指輪もなし。ただ……これが」


 警官は、濡れた布に包んだ紙束を差し出した。


 グレアムは手袋をはめ直し、それを受け取る。


 紙は厚手だった。


 安物ではない。


 商会や記録院で使われる、繊維の詰まった契約紙だ。


 雨に濡れてはいたが、かろうじて読める文字がある。


 ――土地売買契約書。

 ――ヴェルム=クロウ中央高架線拡張予定地。

 ――バルグレム蒸機鉱業商会。


 グレアムの眉が動いた。


「バルグレムか」


 その名を聞いた瞬間、周囲の警官たちの空気がわずかに固くなった。


 バルグレム蒸機鉱業商会。


 ヴァルテリアの鉄道、鉱山、蒸気機関、都市開発に深く食い込む巨大商会。


 この街で働く者なら、誰であれその名を避けては通れない。


 線路を敷くのも、石炭を掘るのも、蒸気管を通すのも、工場街を動かすのも、彼らだ。


 そして、その商会を敵に回すことは、多くの場合、職を失うことを意味した。


 グレアムは契約書をさらに開いた。


 次の瞬間、彼は目を細めた。


 署名欄が焼けていた。


 紙束のほかの部分は濡れ、煤け、端が少し破れているだけだった。


 だが、最後の署名欄だけが、まるで狙って火を当てられたように黒く焦げ落ちていた。


 雨の夜だ。


 自然に燃えるはずがない。


 まして、署名欄だけが。


「……面倒な匂いがするな」


 グレアムがそう言ったとき、高架の上を夜行貨物列車が通過した。


 鉄骨が唸り、車輪の響きが街を押し潰すように落ちてくる。


 警官たちのランタンの火が震え、死体の顔に赤い光が走った。


 その一瞬、男がまだ何かを言おうとしているように見えた。


 だが、死者は語らない。


 少なくとも、普通の警官には。


「事故で処理できそうですか」


 若い警官が言った。


「高架からの転落。もしくは蒸気管の破裂に巻き込まれたとか」


「そうしたい奴は多いだろうな」


 グレアムは契約書を見つめたまま答えた。


「だが、死体は俺たちの都合に合わせて転がってはくれん」


 そのとき、背後から別の声がした。


「死体より、紙のほうがよほど正直ですよ。警部」


 グレアムの表情が、さらに険しくなった。


 彼は振り向かずに言った。


「帰れ、クラウス」


 雨の幕の向こうから、一人の男が歩いてきた。


 黒い外套。

 灰がかった髪。

 細身の長身。


 手には傘も持たず、雨に濡れることをまるで気にしていない。


 男はガス灯の下で立ち止まり、死体ではなく、グレアムの手にある契約書を見た。


 レオン=クラウス。


 霧燈通り十三番地、黒鴉館二階に事務所を構える私立探偵である。


 元はヴァルテリア記録院の職員。


 現在は、警察にとって厄介な協力者であり、商会にとって不愉快な観察者であり、依頼人にとっては最後の賭け札だった。


「帰れと言われて帰る探偵をご存じで?」


「知っていたら、そいつを雇っている」


 グレアムは吐き捨てるように言った。


 レオンは薄く笑い、死体のそばへ近づいた。


 警官の一人が止めようとしたが、グレアムが片手で制した。


「触るなよ」


「触りません。まだ」


「その“まだ”が嫌なんだ」


 レオンは膝をつくでもなく、少し身をかがめて死体を見下ろした。


 まず顔。


 次に靴。


 それから手。


 最後に、懐から出てきた契約書。


 普通の者なら、まず死因を見ようとする。


 だがレオンは、死体そのものよりも、死体が何を持っていたかに興味を示しているようだった。


「若いエルフ。粗末な外套。上等なシャツの襟。靴底には、この高架下の泥とは違う色の土。後頭部に傷。蒸気の痕跡はあるが……」


 そこで、レオンは言葉を止めた。


 グレアムが眉をひそめる。


「続けろ」


「まだ、続けるほどのことではありません」


「お前がそう言う時は、たいてい面倒なことを考えている」


「面倒なものが落ちているのは、私のせいではありません」


 レオンは契約書を指差した。


「それより、その紙を」


「証拠品だ」


「ええ。だから見たい」


「お前のそういうところが嫌いだ」


「よく言われます」


 グレアムは舌打ちしたが、結局、契約書をレオンの視界に入るように持ち上げた。


 レオンは紙面をじっと見た。


 本文。

 契約番号。

 商会印。

 土地番号。


 そして、黒く焼け落ちた署名欄。


 彼の目がそこで止まる。


「妙ですね」


「何がだ」


「燃え方です」


 レオンは声を落とした。


「雨で濡れた契約書が、自然に燃えることはまずない。仮にランタンの火が移ったとしても、燃えるのは端からです。だがこれは違う」


 彼は、焼けた箇所を見た。


「署名欄だけが焼かれている」


「俺もそう思った」


「では、少なくとも事故だけでは説明しにくい」


 グレアムは苦い顔をした。


「断定しないのか」


「今はまだ」


「珍しいな」


「証拠品の前では、慎み深いのです」


「嘘をつけ」


 レオンは死体に目を戻した。


 高架の柱から落ちる雨だれが、男の外套を叩いている。


 黒い水が髪を伝い、頬を流れ、石畳の溝へ落ちていく。


 その水は血と混じっているのか、煤だけなのか、ランタンの光では判然としなかった。


「誰かが、契約書を奪わなかった」


 レオンが言った。


「燃やしもしなかった。ただ署名だけを消した」


「犯人と決めるのは早い」


「では、誰かが意図的に署名欄だけを焼いた」


「それならいい」


「警部は言葉に厳しい」


「お前が雑なんだ」


 レオンは笑わなかった。


 ただ、焦げた署名欄を見つめていた。


「署名が残っていては困ったのでしょう」


 雨音の中で、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。


 グレアムは契約書を閉じかけて、やめた。


「身元確認は記録院に照会する」


「記録院ですか」


 レオンの口元に、わずかな皮肉が浮かんだ。


「それは頼もしい。あそこは、死者を生者より丁寧に扱いますから」


「クラウス」


「ただし、死んだことにしたい者については、驚くほど仕事が早い」


 グレアムの目が鋭くなった。


「何か知っているのか」


「まだ何も」


「“まだ”か」


「ええ」


 レオンは死体を見下ろした。


「ただ、この男は一度、紙の上で殺されている気がします」


 その場にいた誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 高架の上を、今度は客車が通過した。


 窓の明かりがいくつも連なり、高架下に倒れた死体を一瞬だけ照らしていく。


 その光の列は、まるで街そのものが死者を見下ろし、すぐに忘れていくようだった。


 やがて、若い警官が死体を覆うための布を持ってきた。


 布が顔にかけられる直前、レオンは男の右手を見た。


 指先に、かすかな青が残っていた。


 雨にも煤にも流されず、爪の際に沈むように残った、ほんの小さな青。


 インクだ。


 レオンの目が細くなる。


「警部」


「今度は何だ」


「この男の手を、洗わせないでください」


「理由は」


「彼は最後に、何かを書いた」


 グレアムは契約書の焼け跡を見た。


「署名か」


「おそらく」


 レオンは答えた。


「そして、誰かはその署名だけを殺した」


 高架の上で汽笛が鳴った。


 低く、長く、夜の霧を裂く音だった。


 ヴェルム=クロウの街は、その音に慣れている。


 誰かが生まれても、誰かが死んでも、列車は止まらない。


 契約が交わされ、土地が奪われ、名が消されても、蒸気機関は同じ速度で走り続ける。


 だが、その夜。


 雨と煤煙の下で、ひとつの署名なき死体が見つかった。


 それは、街が隠してきた偽装記録の、最初の綻びだった。

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