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蒸都ヴァルテリアと偽装記録の探偵〜記録が嘘をつく街で〜  作者: 秋月キアラ
幕間 エル=ネフリドの煤霧駅弁紀行
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34/60

第一食 終列車には弁当がひとつ余る

 列車は、人だけを運ぶものではありません。


 北の肉を。


 南の豆を。


 西岸の塩を。


 まだ互いの名も知らぬ土地の味を、一つの停車場へ運びます。


 それらを小さな箱へ詰め、再び旅へ送り出す者がいる。


 そして、ときおり。


 行き先の記されていない客が、その箱を受け取ることもあるのです。


 これは、煤霧の停車場で売られた、名もない一食の記録。


 終列車が出るまでの、ほんの短い物語です。


 ――ナミ=エル

 ……私は、ただ観ていた。


 偽装された死亡記録でもなく。


 存在しない客車でもなく。


 名簿から消された乗客でもない。


 黒いシルクハットをかぶった小柄な車掌が、終列車のホームで駅弁を買うところを。


     ◇


 深夜。


 ヴェルム=クロウ中央停車場の大屋根には、煤を含んだ雨が降り続いていた。


 最終列車は、すでに三本出た。


 グラン=レール方面行き。


 西環運河線。


 黒鋼山脈へ向かう夜行貨客列車。


 残るのは、午前零時四十分発の環状線最終便だけだった。


 蒸気機関車が吐き出す白煙が、ホームを低く流れている。


 荷運び人夫は台車を倉庫へ戻し。


 新聞売りの少年は売れ残った夕刊を紐で縛り。


 改札係は、今日最後の乗車記録へ終業印を押していた。


 そのホームの端に、小さな駅弁売り場があった。


 看板には、煤で半分ほど黒くなった文字が残っている。


 《鉄環名物 煤釜弁当》


 売り台の上には、木箱がひとつ。


 それ以外の棚は、すべて空だった。


「悪いね。もう店じまいだよ」


 売り子の老婆が言った。


 ドワーフ族だった。


 灰色の髪を布で包み、厚い前掛けを締めている。指は節くれ立ち、爪の隙間には、黒麦粉と釜煤が染みついていた。


 その前に立っていたのが、エル=ネフリドだった。


 黒い車掌礼装。


 深紫の帯を巻いたシルクハット。


 細身の杖。


 銀鎖の懐中時計。


 どこの鉄道会社にも所属していないはずなのに、停車場に立つ姿だけは、誰よりも車掌らしかった。


 彼は売り台に残された木箱を見た。


「一個、ある」


「あれは売り物じゃない」


「弁当に見える」


「弁当だよ」


「価格札もある」


「あるね」


「では、売り物では」


「ないと言ってるだろう」


 老婆は木箱を引き寄せた。


 エル=ネフリドは、動かなかった。


 視線だけが木箱を追う。


 その執拗さは、殺人記録の欠番を見つけたときよりも、わずかに強かった。


「理由を」


「終業後に、あたしが食べる」


「自家消費」


「そうだよ」


「販売記録外」


「いちいち言い直すんじゃないよ」


 老婆は深く息を吐いた。


「最終列車のぶんを一個多く作るんだ。売り切れれば、あたしの夜食。売れ残れば――」


「同じく夜食」


「そういうことだよ」


「合理的」


「分かったなら帰んな」


「売ってほしい」


「話を聞いてたのかい」


「聞いた。ゆえに、価値がある」


 老婆は、初めてエル=ネフリドの顔を正面から見た。


 整いすぎたドワーフの顔。


 穏やかに見えながら、どこにも親しみのない微笑。


 暗い金色の瞳は、木箱ではなく、その中に詰められた時間まで見ているようだった。


「……あんた、どこの車掌だい」


「通過記録を扱っている」


「会社名を聞いてるんだよ」


「会社は扱わない」


「面倒な客だね」


 老婆は木箱を売り台へ戻した。


「二十七クロウ」


 エル=ネフリドは、古びた硬貨を三枚置いた。


「三十あるよ」


「釣銭、不要」


「そういう払い方をすると、帳簿が合わなくなる」


 老婆は三クロウを返した。


 エル=ネフリドは硬貨を受け取り、丁寧に懐へ収める。


「訂正、適正」


「食う前から評価するんじゃないよ」


     ◇


 最終ホームの待合室には、誰もいなかった。


 曇った窓。


 真鍮の長椅子。


 止まりかけた暖房管。


 壁には環状線の路線図が貼られている。


 エル=ネフリドは長椅子の中央へ座り、膝の上に駅弁を置いた。


 木箱には、細い紙帯が巻かれていた。


 《ヴェルム=クロウ名物》


 《鉄環煤釜弁当》


 《製造時刻 午後十時四十分》


 《推奨喫食時刻 午後十一時十分以降》


 普通の客なら、製造時刻だけを見る。


 エル=ネフリドは、推奨喫食時刻を見た。


「三十分」


 紙帯を外す。


 蓋を開けた。


 湯気は出なかった。


 料理は、すでに冷めている。


 黒麦パン。


 黒麦酒で煮込んだ肉。


 灰蕪の甘酢漬け。


 黄銅豆の塩煮。


 歯車形の小さな焼き菓子。


 彩りは地味だった。


 茶色。


 黒。


 灰白。


 鈍い黄色。


 ヴェルム=クロウの街並みを、そのまま木箱へ詰めたような弁当だった。


 エル=ネフリドは、添えられた二股の小さな叉を取った。


 まず、肉を切る。


 冷えた脂が表面へ薄く固まり、その下に、濃い煮汁を含んだ繊維が見える。


 一口。


 静止。


 待合室の時計が、二秒進んだ。


「……良い」


 その声は小さかった。


 だが、暖房管の中で蒸気が一度だけ震えた。


「冷却、適正。脂肪層が肉汁の流出を封じている。温製時より塩味の輪郭が強い。黒麦酒の苦味は、煤煙の残る停車場で食べることを前提に一段深く設定されている」


 誰も聞いていなかった。


 それでも彼は続けた。


「これは、店で食べる煮込みを箱へ移したものではない。移動後に完成する料理だ」


 次に、黒麦パンを取った。


 肉の隣へ置かれていた部分だけ、煮汁を吸って柔らかくなっている。


 外側は硬い。


 内側は湿っている。


「境界がある」


 エル=ネフリドは、断面を眺めた。


「製造直後には存在しない食感。三十分の経過により、肉汁がパンへ七ミリ浸透する。時刻指定は衛生管理ではなく、完成時刻の記録」


 彼は紙帯を見直した。


 午後十時四十分製造。


 午後十一時十分以降推奨。


「時刻表を食べさせる弁当」


 その口元が、ごくわずかに緩んだ。


 灰蕪を口へ運ぶ。


 酸味が強い。


 眉が一ミリほど動いた。


「酸、過剰」


 しばらく噛む。


「……訂正。煤煙下では適正」


 黄銅豆。


「塩、控えめ。肉との交互摂取を要求する配置」


 焼き菓子。


「歯車形である必然性はない」


 もう一口。


「だが、悪くない」


     ◇


「ずいぶん喋る車掌だね」


 待合室の入口に、先ほどの老婆が立っていた。


 閉店後の売り台から、小鍋と布包みを運んできたらしい。


 エル=ネフリドは弁当を食べながら、彼女を見上げた。


「食事中ゆえ」


「食事中じゃなければ、喋らないのかい」


「概ね」


「変な男だね」


 老婆は向かいの長椅子へ腰を下ろした。


 エル=ネフリドは、紙帯の原材料欄を指でなぞる。


「黒麦。鉄環平野産」


「そうだよ」


「蕪。灰霧湖畔」


「冬場はね」


「塩。ドック=セリム経由」


「西岸塩だ」


「豆。南部貨物線」


「よく分かるね」


「肉。北西部から午前便で到着」


 老婆の眉が上がった。


「どうして分かった」


「燻香に黒鋼木片が混ざっている。北西部の保存法。だが、包みには《ヴェルム=クロウ名物》とある」


「ここで作ってるんだから、ヴェルムの弁当だよ」


「原材料の大半は、外部から到着している」


「都市ってのは、そういうもんさ」


 老婆は小鍋の蓋を開けた。


 中には、売れ残った豆と、切れ端のパンが入っている。


「何もかも自分の土地で採れる街なんて、田舎だけだ。ここには畑も牧場も塩田もない。だけど線路がある」


 彼女はパンを一切れ小鍋へ入れた。


「朝、肉が来る。昼、麦が来る。夕方、蕪が来る。夜、塩と豆が届く。それをここで煮て、詰めて、別の列車へ乗せる」


「到着したものを、再び出発させる」


「それが駅弁だよ」


 エル=ネフリドは、木箱を見つめた。


 ヴェルム=クロウの名物。


 だが、その土地だけでは作れない。


 複数の土地。


 複数の貨物列車。


 複数の荷役人。


 複数の時刻。


 それらが一つでも遅れれば、同じ弁当にはならない。


 レシピだけでは再現できない。


 今日の運行そのものが、味を作っている。


「理解した」


「何をだい」


「これは都市の料理ではない」


「喧嘩を売ってるのかい」


「都市へ到着したものの料理だ」


 老婆は少し黙った。


 やがて鼻を鳴らす。


「言い方が気取ってるね」


「事実」


「味はどうなんだい」


 エル=ネフリドは、残った肉とパンを一緒に口へ運んだ。


 十分に咀嚼する。


 飲み込む。


 木箱の中には、灰蕪が一片だけ残った。


「主要構文、良好」


「料理の話をしな」


「肉、良好。パン、良好。豆、良好。蕪、単独では酸味過多。ただし全体構成では必要」


「菓子は」


「意匠先行」


「味は」


「良好」


「最初から、そう言えばいいんだよ」


     ◇


 環状線最終列車の入線を告げる鐘が鳴った。


 遠くで汽笛が応える。


 エル=ネフリドは、最後の灰蕪を口へ運んだ。


 空になった木箱へ蓋を戻す。


 紙帯を丁寧に巻き直す。


 そして懐から、真鍮の切符鋏を取り出した。


「何をする気だい」


「検札」


「弁当に切符はいらないよ」


「これは移動する料理」


「食べ終わったじゃないか」


「到着を確認した」


 小さな音がした。


 ぱちん。


 紙帯に、見慣れない形の穴が開く。


 鉄道会社の検札印ではない。


 駅名でもない。


 日付でもない。


 老婆が紙帯を裏返すと、穿孔は三つの短い線で構成されていた。


「なんて書いてある」


「食事記録、一件」


 エル=ネフリドは立ち上がった。


 杖を持ち。


 シルクハットの位置を直す。


「到着、良好」


「どこへ到着したんだい」


 エル=ネフリドは答えなかった。


 黒い外套を翻し、環状線の列車へ歩いていく。


 改札係は彼を止めなかった。


 車掌も、乗車券を求めなかった。


 まるで最初から、彼がその列車を検める者であると知っていたかのように。


 老婆は、空の木箱を持ち上げた。


 底に、黒麦パンの小さな欠片が残っていた。


 それをつまみ、口へ入れる。


「……冷めすぎてるね」


 けれど、少しだけ笑った。


 午前零時四十分。


 環状線最終列車が、煤霧の中へ出発する。


 空になった駅弁の販売記録には、二十七クロウの売上が一件。


 客の名はない。


 行き先もない。


 それでも、その夜。


 一つの弁当が確かに売られ。


 確かに味わわれ。


 確かに、どこかへ到着した。


 ……私は、それを記録しなかった。


 紙へ残せば、ただの売上になる。


 時刻表へ残せば、ただの乗車になる。


 あの味がどこへ到着したのか。


 それを知る必要があるのは、食べた者だけだったからだ。


――《終列車には弁当がひとつ余る》了

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