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観測余録 ― 第二記録、通過

 事件から五日後。


 ヴェルム=クロウ警察本部の地下記録室には、朝も夜もなかった。


 厚い煉瓦壁。


 鋼鉄の扉。


 等間隔に並ぶガス灯。


 地上を走る高架列車の振動も、工場の始業汽笛も、ここまではほとんど届かない。


 聞こえるのは、気送管を通る圧縮蒸気の低い唸りと、記録官が紙をめくる音だけだった。


 長机の上には、二枚の書類が並べられている。


 一枚目は、灰橋事故の原始編成表。


 一号車。


 二号車。


 三号車。


 四号車。


 五号車。


 六号車。


 そして、七号車。


 最後の欄には、八年間消されていた七人の名がある。


 もう一枚は、その七号車を消すために作られた訂正文書だった。


 《灰橋事故編成記録訂正命令》


 原始編成表から第七車両を削除すること。


 臨時乗車者七名を、正規乗客名簿から除外すること。


 事故編成を六両として再計算すること。


 死者数、補償額、制動距離、運行責任は、訂正後の記録に基づくこと。


 人間を七人消す命令とは思えないほど、整った文章だった。


「これが、ニコルに六両の編成表を書かせた文書か」


 グレアムが尋ねた。


「その可能性が高いです」


 レオンは白い鑑定手袋をはめ、訂正文書を光へ透かした。


「紙は八年前の中央鉄道用紙。インクも当時のもの。欄外番号は、灰橋事故処理記録と連続しています」


「正式な命令か」


「文書としては、正規の処理経路を通っています」


「命令者は?」


「書かれていません」


 責任者署名欄は空白。


 承認者名も空白。


 正式な部署印もない。


 それでも、文書の右上には受理番号がある。


 左下には処理済みを示す穿孔。


 複数部署を通過した小さな確認印。


 誰が命じたのか分からないまま、多くの者が受け取り、転記し、押印し、次の部署へ送っていた。


「命令者はいない」


 グレアムが言う。


「だが、命令だけは正しく働いた」


「ええ」


「役所らしい話だな」


「自慢できる話ではありません」


 レオンは、文書左下の余白へ視線を移した。


 本文の外側に、細い線が二本引かれている。


 狭い間隔。


 不自然なほど平行な二重線。


 その横には、鉄道会社のどの台帳にも存在しない部署符号。


 さらに、小さな黒い印。


 横向きに倒された羽根筆のような形だった。


 レオンの指が止まった。


 グレアムは見逃さない。


「見覚えがあるな」


「似た印を見ています」


「ブラスウェルの手帳か」


 前の事件で押収した黒革の手帳が、証拠棚から運ばれてきた。


 偽装された土地契約。


 書き換えられた死亡記録。


 そこへ残されていた、存在しない部署の印。


 二枚の保護板が、机の上へ並べられる。


 細い二重線。


 存在しない部署符号。


 横向きの羽根筆。


 紙もインクも違う。


 それでも、書式は同じだった。


 グレアムの眉間へ、深い皺が刻まれる。


「また教授か」


 地下記録室の奥で、気送管が鳴った。


 ごとん。


 圧縮蒸気が抜ける。


 誰も新しい書類筒を取りに行かなかった。


「ニコルの手帳や供述に、《教授》へつながる記録はありません」


 レオンが答えた。


「今回の殺人計画へ、第三者が指示した痕跡もない」


「偽造移送命令は、ニコルが作った」


「ええ」


「客車を準備し、ダリウスを殺し、セルマへ罪を着せようとしたのも」


「ニコル自身です」


「教授とやらは、今回の殺人へ関わっていない」


「少なくとも、関与を示す証拠はありません」


 レオンは二つの印を見た。


「八年前、七号車を記録から消した者と、今回ダリウスを殺した者は別です」


「なら、この印は」


「八年前の記録抹消に関する手掛かりです」


「同じ人物か」


「分かりません」


「またそれか」


 グレアムは髭を乱暴に撫でた。


「人間の名か。肩書か。組織か。それすら分からん」


「ええ」


「事件を解くたび、分からないものが増えていくな」


「増えたのではありません」


 レオンは、七行の原始編成表を見る。


「もともとあったものが、見えるようになっただけです」


「同じことだ」


「数え方の違いですね」


「七両の事件のあとで、数え方の話をするな」


 地下記録室の扉の向こうで、小さな物音がした。


 紙の束が壁へ触れたような音。


 続いて、わざとらしい咳払い。


 グレアムは目を閉じる。


「入れ」


 扉が開き、ミラベルが顔を出した。


「聞いていません」


「まだ何も聞いていない」


「では、先回りしただけです」


「全部聞いていたな」


「後半だけです」


 彼女は折り畳んだ新聞を抱えていた。


 一面には、七人の名前。


 その隣には、灰橋事故再調査開始の記事が載っている。


 ミラベルは机へ近づき、二つの印を見比べた。


「同じですね」


「記事には書くな」


 グレアムが即座に言う。


「まだ何も言っていません」


「顔が書いている」


「顔には書けないと、以前説明しました」


「捜査中の証拠だ」


「今回の殺人とは別なんですよね」


「別です」


 レオンが答えた。


「ニコルさんは、誰かに操られて殺したわけではない」


「ええ」


「八年前に被害を受けたことと、自分の意思で殺人を犯したことは別」


「そのとおりです」


 ミラベルは新聞を抱え直した。


「でも、ニコルさんが犯人だからといって、八年前に七人を消した者まで裁かれたことにはならない」


「ええ」


「そこは、まだ終わっていない」


「終わっていません」


 今回の殺人事件は解決した。


 六両で出発した列車が、七両で到着した謎。


 封じられた客車。


 温かい死体。


 偽造された移送命令。


 犯人と、その動機。


 ニコル=ヴェイルは逮捕され、ダリウス=モーンを殺した罪で裁かれる。


 だが、その下には別の記録が残っている。


 七号車を削除した訂正文書。


 署名のない命令。


 存在しない部署符号。


 二重線。


 横向きの羽根筆。


「この文書は、継続調査資料へ回す」


 グレアムが言った。


「事件名は?」


 ミラベルが尋ねる。


「灰橋事故記録不正訂正疑惑」


「長いです」


「警察の記録は、新聞の見出しではない」


「《教授の印》では?」


「却下だ」


「《消された七号車》」


「もっと却下だ」


「では――」


「お前には決めさせん!」


 地下記録室へ、グレアムの声が響いた。


 遠くで記録官が迷惑そうに顔を上げる。


 レオンは鑑定手袋を外した。


「帰りましょう」


「そのために来ました」


 ミラベルが言う。


「朝から何も食べていないでしょう」


「取材相手の食事まで管理するのか」


 グレアムが尋ねた。


「倒れられると、次の取材に困ります」


「次の事件を前提にするな」


 レオンは扉へ向かう。


「警部」


「何だ」


「訂正文書の封印と署名をお願いします」


「俺を置いていく気か」


「責任者の分かる記録にしてください」


 グレアムは一瞬黙った。


 それから、証拠箱の蓋を閉じる。


 封蝋を垂らす。


 警察印を押す。


 署名欄へ、太い文字を書いた。


 グレアム=バルド。


 読みにくいが、誰が責任を負ったかだけは誤魔化せない署名だった。


     *


 警察本部を出ると、ヴェルム=クロウには細かな霧雨が降っていた。


 ミラベルは新聞を頭上へかざす。


「傘は?」


 レオンが尋ねる。


「灰橋で壊れました」


「開く場面がありましたか」


「線路へ落ちそうになったとき、グレアム警部に柄を掴まれて」


「警部を責められません」


「責めていません。新しいものを買うお金がないだけです」


「探偵も、それほど儲かりません」


「よくできた言葉は共有していいんです」


 二人は、霧燈通りへ戻る市内線の小駅へ向かった。


 ホームでは、出勤途中の労働者たちが新聞を開いている。


 紙面が広げられるたび、七つの名が現れた。


 忘れる者もいるだろう。


 読み飛ばす者もいる。


 新聞を包み紙に使う者もいる。


 それでも、一度も書かれていなかった昨日までとは違う。


 高架の向こうから、市内列車が近づいてきた。


 黒い機関車。


 六両の短い客車。


 ミラベルは通過する車両を指で数えた。


「一、二、三、四、五、六」


「六両ですね」


「今度は増えません」


「減る可能性はあります」


「縁起でもないことを言わないでください」


 列車が停止する。


 蒸気がホームへ広がり、扉が開いた。


 入口には、一人の車掌が立っていた。


 背の低いドワーフ。


 黒い礼装。


 白い手袋。


 場違いなほど端正なシルクハット。


 腰には真鍮の切符鋏。


「乗車券を拝見いたします」


 低く、よく通る声だった。


 ミラベルが切符を渡す。


「ミラベル=ワトリア様」


「名前まで確認するんですか」


「記されたものは、すべて」


 ぱちん。


 切符へ、小さな穴が開く。


 続いてレオンの券。


 車掌は、印刷された名を少し長く見つめた。


「レオン=クラウス様」


「何か?」


「いいえ」


 車掌は穏やかに笑った。


「今回も、無事に降車なさったようで」


 レオンの目が細くなる。


「以前、お会いしましたか」


「乗客は多いものです」


 ぱちん。


 二枚目の切符へ鋏が入る。


「お名前を聞いても?」


 ミラベルが尋ねた。


「エル=ネフリド」


 車掌はシルクハットの縁へ指を添えた。


「本列車の車掌を務めております」


「市内線の職員名簿に、登録されていますか」


「お調べになりますか?」


「もちろん」


「それは結構」


 汽笛が鳴った。


 後ろの乗客がつかえ始める。


 レオンはミラベルの肩を軽く押した。


「乗ってください」


「でも、この人」


「発車します」


 二人が客室へ入る。


 扉が閉じた。


 ミラベルは窓越しに、最後尾へ歩いていく車掌を追った。


「怪しいです」


「切符を切っただけです」


「《今回も》と言いました」


「聞き間違いかもしれません」


「私は聞きました」


「食事のあとに調べてください」


「レオンさんも気になっているでしょう」


「座ってください」


「また逃げた」


 市内列車は、霧雨の街を走り始めた。


     *


 最後尾のデッキ。


 エル=ネフリドは一人で立っていた。


 胸元の革箱には、乗客から集めた切符が整然と収められている。


 発駅。


 行き先。


 日時。


 乗客名。


 すべてが正しく記された切符。


 彼は内ポケットへ手を入れ、一枚だけ別の券を取り出した。


 古びた黒い紙片。


 発駅はない。


 行き先もない。


 乗客の名もない。


 端に、消えかけた紫の印があるだけだった。


 エル=ネフリドは、黒い切符へ真鍮の鋏を当てる。


「殺人記録、収束」


 ぱちん。


 一つ目の穴が開く。


「抹消記録、継続」


 ぱちん。


 二つ目の穴。


 二つの鋏痕は、細い二重線のように並んだ。


 車掌は黒い切符を光へ透かす。


「第二記録、通過」


 列車が鉄橋へ入った。


 鋼鉄の柱が朝の光を断ち、最後尾のデッキが一瞬だけ暗くなる。


 明るさが戻ったとき、黒い切符はすでに車掌の内ポケットへ消えていた。


 列車は六両のまま、時刻表どおりに霧の街を走っていく。


 殺人記録は閉じられた。


 だが、名を消した記録は――


 まだ、終着駅へ到着していなかった。

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