第11節 ― 存在しない七号車
午前八時十八分。
ヴェルム=クロウ中央駅の北留置線には、朝の旅客列車が一両も入らない。
駅舎から遠く、煤霧街区の工場壁に挟まれたその場所は、修理待ちの貨車や事故車両を一時的に置くための線路だった。
石炭殻の混じった砂利。
錆びた給水柱。
動かなくなった転轍器。
夜明けを過ぎても空は薄暗い。
工場煙突から流れる煤が、白い朝霧へ灰色の層を重ねていた。
その中央に、七号車は一両だけ切り離されている。
六号車との連結器は外され、制動管と蒸気暖房管の接続口には警察の証拠布が巻かれていた。
最後尾の赤色標識灯も取り外されている。
列車から切り離されてしまえば、それはもう《黒梟号》の七号車ではなかった。
古びた木造の廃検査客車。
本来の車体番号は、《C―214》。
側面へ取り付けられていた真鍮製の《7》は、現場係によって外されている。
四つの新しいねじ穴の下。
長年の煤と黒い塗装に埋もれながら、木部へ直接刻まれた文字が露出していた。
C―214。
八年前、灰橋鉄橋から落ちた事故車《C―207》ではない。
事故後に保管されていた同型車を、八年前の七号車に見せかけたものだった。
七号車の車内には、事件関係者が集められていた。
セルマは、ダリウスの遺体が発見された左側座席の近くに立っている。
濃紺の制服姿。
だが制帽も、共通鍵も、切符鋏も持っていない。
主任車掌ではなく、警察の監視下に置かれた参考人として、この車両へ戻ってきた。
ボルグは反対側の座席へ腰を下ろし、古傷のある右脚を通路へ伸ばしている。
エリシアは車両後方。
オズワルドは前部扉のそばに立ち、車内よりも、外で待機する鉄道本部職員の動きを気にしていた。
そして、通路の中央。
二人の警官に挟まれ、ニコル=ヴェイルが立っている。
拘束具は、まだかけられていない。
ただし左右の警官は、彼がどちらの扉へ動いても止められる距離にいた。
銀縁眼鏡。
灰色の旅行服。
夜を越え、青白くなった顔。
ダリウスに怯え、命令どおり書類を運ぶだけの若い書記。
少なくとも、《黒梟号》がグラン=レールを出たときには、誰もがそう見ていた。
車内前方には、グレアム。
その横にレオン。
ミラベルの前には、小さな折り畳み机が置かれている。
机の上に並んでいるのは、三種類の証拠だった。
頁を破られた、焦茶色の業務手帳。
車体から外された、真鍮製の《7》。
切断された銅線と、黒褐色の封印材が残る鉛封。
その隣には、灰橋から届いた偽造移送命令の複写と、封鎖保管庫から取り寄せた旧人事記録がある。
古い乗車券や原始編成表も、警察の証拠箱には保管されていた。
だが、ここには並べられていない。
七号車がどう作られたかは、すでに分かっている。
今から確かめるのは、誰が作ったのかだった。
「なぜ、ここへ集めた」
オズワルドが言った。
「犯行方法の説明なら、灰橋で終わったはずだ」
「そのとおりです」
レオンが答えた。
「方法だけなら」
グレアムが懐中時計の蓋を閉じる。
「クラウス。始めろ」
*
七号車の窓は開けられていた。
昨夜、車内を満たしていた熱と湿気は、もう残っていない。
左側の窓にも曇りはなく、座席の湿りも乾いている。
ダリウスの血痕だけが、座席背面で暗い褐色へ変わっていた。
夜の怪異は消えている。
残っているのは、人間が作った痕跡だけだった。
「事件の仕組みは、すでに解けています」
レオンは言った。
「ダリウス=モーンは、走行中の《黒梟号》で殺されたのではありません」
白灰側線へ置かれていた《C―214》。
まだ列車へ連結されていなかった古い客車。
「ダリウスは、灰橋停車中にこの車両へ入り、殺された」
レオンは、遺体の位置を示す白い記録線を見る。
「犯人は遺体を左側の暖房管へ寄せ、扉を閉じて旧式の封印を施した」
「そのあと」
グレアムが続ける。
「偽造された移送命令に従い、灰橋の作業員が死体ごと客車を《黒梟号》へ連結した」
「主蒸気弁と左側分岐弁は、あらかじめ全開にされていました」
列車が走り出す。
六号車から暖房用蒸気が流れ込む。
遺体の左半身だけが温められる。
到着時、死体は殺されたばかりに見える。
七号車の扉は、走行中、一度も開いていない。
封印も破られていない。
それは密室だった。
ただし、殺人が終わったあとで作られた密室だった。
「ここまでは、私でなくてもできます」
ニコルが言った。
怯えた声ではなかった。
反論すべき点を見つけた書記の声だった。
「セルマ車掌は封印と客車の構造を知っている。ボルグ機関士は暖房弁を扱える。オズワルド管理官は移送命令の形式を知っている。エリシアさんは灰橋で貨物側へ入っていた」
「そのとおりです」
レオンは認めた。
ニコルの目が、わずかに揺れた。
「犯行方法を実行できた可能性がある者は、あなた一人ではありません」
「なら、私を警官の間へ立たせる理由はない」
「方法だけなら」
レオンは、机の上へ視線を向けた。
「ですが、犯人は方法を考えただけではありません」
偽造命令を作った。
八年前の符号を選んだ。
《C―214》へ真鍮の《7》を取り付けた。
ダリウスを白灰側線へ誘った。
殺害後、前方扉を旧式の材料で封じた。
「それらを行った者の痕跡が残っています」
*
ミラベルが、焦茶色の手帳を開いた。
業務予定。
面会先。
補償申立ての整理番号。
ダリウスからの指示。
細い文字が、余白なく書き込まれている。
だが途中で、紙の厚みが不自然に減っていた。
綴じ糸の近くには、引きちぎられた頁の根元だけが残っている。
「少なくとも三枚」
ミラベルが言った。
「この手帳から、頁が破り取られていました」
「完了した業務記録を処分しただけです」
ニコルが答える。
「補償局の記録を、必要以上に残さないためです」
「ですが、書いた文字まで処分できたわけではありません」
机の上へ、警察文書鑑定室が作成した圧写紙が置かれる。
手帳へ残った空白頁を斜光撮影し、筆圧による凹凸を複数方向から転写したものだった。
灰黒色の紙面に、白い線が浮かんでいる。
最初の一行。
――廃検査客車 C―214。
二行目。
――黒梟一一七号 後部連結。
三行目。
――旧移送符号 R―7。
さらに右端には、
――灰橋着 二十時四十二分。
偽造移送命令の控えが、その隣へ置かれる。
語順。
数字の区切り方。
《黒梟急行》を《黒梟》と略す癖。
車体番号と到着時刻を右端へ寄せる配置。
すべてが一致していた。
「偽造命令の下書きです」
ミラベルが言った。
「私の手帳に残っていた、というだけです」
ニコルは圧写紙を見た。
「誰かが書き、頁を破った可能性があります」
「この手帳は、どこへ置いていましたか」
グレアムが尋ねた。
「寝台個室です」
「施錠は」
「していません」
「なら、誰でも書ける?」
「そうです」
「出発前にも?」
ニコルが黙る。
グレアムは、偽造命令の気送記録を取り出した。
「命令は、十九時十二分に封じられた灰橋行き定時筒へ入っていた」
「私は十九時前後、中央運行課へ照会書を届けました」
「自分で言っていたな」
「業務です」
「発送棚へ近づけた」
「受付職員のいる場所です」
「だが、登録文書は十件。灰橋で筒から出てきた文書は十一件だった」
「私が入れた証拠ではありません」
「そうだ」
グレアムは認めた。
「この筆圧痕だけなら、まだ言い逃れはできる」
ニコルの肩から、ほんのわずかに力が抜ける。
「誰かがお前の手帳で下書きをした。お前が席を外した間に、頁を破った。偽造命令も、別の人間が発送筒へ入れた」
「その可能性があります」
「なら、次だ」
*
グレアムが、封鎖保管庫から届いた人事記録を開いた。
紙は認証複写されたばかりで、古い台帳とは違い、白い。
ただし、そこへ写された文字は八年前のものだった。
「ニコル=ヴェイル」
グレアムが読む。
「現在三十一歳。鉄道補償局文書課書記」
ニコルは動かない。
「八年前、二十三歳」
一行下。
「グラン=レール商業学校夜間課程在籍」
「以前、話したとおりです」
ニコルが言う。
「学生だったと」
「在籍していたことは本当だ」
グレアムは次の欄を読む。
「同時期の勤務先。灰橋操車場、夜間運行記録課」
ニコルの瞳が止まった。
「職位」
グレアムの太い指が、文字をなぞる。
「編成記録見習い」
セルマが顔を上げる。
ボルグの組んでいた腕が解かれた。
「元鉄道職員ではないと答えたな」
「正規職員ではありませんでした」
「見習いは鉄道職員ではない?」
「臨時採用です」
「《鉄道構内の線路配置には詳しくない》とも」
「八年前のことです」
「古い移送符号《R―7》を初めて聞いたとも言った」
「記憶にありませんでした」
グレアムは記録を読み進める。
「担当業務。入換命令の転記。臨時編成表の作成補助。保管客車番号の照合。運行命令控えの整理。封印資材の受け渡し」
ニコルの答えが止まった。
《R―7》を知っていた。
白灰側線の位置を知っていた。
運行指令室の裏口を知っていた。
《C―214》のような保管車両を、どの記録から探せるか知っていた。
古い銅線と鉛封を、どこから入手できるかも知っていた。
「事故当夜の勤務記録」
グレアムが次の頁を開く。
「夜鷲二一六号、臨時編成記録補助」
車内の空気が変わった。
「七号車を、最初から知っていた」
セルマが言った。
ニコルは彼女を見なかった。
「七人の名も」
エリシアの声だった。
「初めて聞いたと言ったのに」
「名簿を見たことはあります」
「ミラ=ヴェイルも?」
ニコルの唇が強く閉じられる。
グレアムは、さらに一行を読む。
「事故後、正式報告用編成表の清書補助」
客車七両と記された原始編成表から、七行目を消す。
六両編成の正式記録を作る。
その作業に、ニコルは関わっていた。
「上司の命令でした」
彼は言った。
声が少しだけ掠れている。
「私が決めたことではありません」
「それは今夜の殺人とは別に調べる」
グレアムが答える。
「だが、お前は古い符号も、編成命令も、白灰側線も知らないという前提で証言した」
「過去を知られたくなかっただけです」
「なぜ」
「事故の責任を負わされると思ったからです」
「それだけか」
「それだけです」
レオンは人事記録を見る。
「筆圧痕と職歴が、同じ人物へ重なりました」
「まだ、私が命令書を書いた証明ではない」
ニコルは反論する。
「書式を知る人間は、ほかにもいる。八年前の勤務者を調べれば、何十人も出るでしょう」
「ええ」
レオンは否定しなかった。
「だから、もう一つあります」
*
現場係が、二枚の硝子板を机へ置いた。
一枚には、黄色く光る微細な粉。
もう一枚には、黒褐色の小さな破片が封じられている。
「黄色い粉は、あなたの右袖口から採取しました」
レオンが言った。
「《黒梟号》へ乗る前、グラン=レールのホームで、すでに付着していたものです」
ミラベルが手帳を開く。
出発前の人物記録。
――ニコル=ヴェイル。
――右袖へ金属粉らしき光。
「当時は、書類留めか真鍮定規の粉だと思いました」
「実際、私は真鍮定規を持っています」
ニコルが言う。
「ええ」
「なら、説明できます」
「定規の真鍮とは一致しませんでした」
グレアムが鑑定書を読む。
「袖口の粉は、銅と亜鉛に加え、微量の錫と砒素を含む旧式鋳造真鍮」
机の上の《7》を示す。
「この番号板と、成分比が一致した」
「鉄道施設には、古い真鍮製品がいくらでもあります」
「そうですね」
レオンが答える。
「ですが、この番号板は、十七時五分にはC―214へ取り付けられていなかった」
灰橋の昼番保管係が確認している。
「十八時七分には、取り付けられていた」
夜番保管係が見ている。
「そして、十九時四十分の《黒梟号》出発前。あなたの袖には、同じ真鍮の粉が付着していた」
「誰かから移ったのかもしれません」
「誰から?」
「中央運行課には、鉄道職員が大勢いました」
「その中の誰かが番号板を取り付け、作業員列車でグラン=レールへ戻り、あなたの袖へ粉をつけた?」
「可能性はあります」
「可能性は」
レオンは認めた。
「次に、黒い付着物です」
ニコルの左手が、わずかに握られる。
「ヴェルム=クロウ到着後。あなたの爪の際と左袖から採取されました」
「機械油です」
「煤油も含まれています」
グレアムが続ける。
「ただし、それだけではない。松脂、鉛粉、旧鉄道用黒色顔料」
七号車前方扉から切断された封印が、机の上へ置かれる。
黒褐色の封印材。
銅線と鉛封の接合部へ塗り込められていたものだ。
「八年前まで灰橋操車場で使われていた、旧式鉛封用の密封材と一致した」
「灰橋を歩けば、古い油や樹脂へ触れることはあります」
「お前は、何へ触れた?」
「霧で道を間違えました」
「どこを通った?」
「覚えていません」
「何かの扉を開けた?」
「いいえ」
「封印資材へ触れた?」
「いいえ」
「なら、爪の内側へ入った理由は?」
ニコルは答えなかった。
「番号板に触れた金属粉は、列車へ乗る前から袖にあった」
レオンが言う。
「封印材は、灰橋を出たあとも爪に残っていた」
「それでも、私がダリウスを殺した証明ではない」
「そのとおりです」
レオンは、また認めた。
ニコルが顔を上げる。
「これは、あなたが《7》を取り付け、前方扉の封印を扱った証拠です」
「殺人とは別です」
「その二つを、なぜ行ったのですか」
「行っていません」
「手帳には偽造命令の下書きが残っている」
「誰かが書いた」
「その命令形式を知る職歴がある」
「ほかにも知る者はいる」
「番号板の真鍮粉が袖にある」
「移された」
「封印材が爪にある」
「霧の中で付着した」
「そして、ダリウスとともに灰橋の貨物側へ向かった」
「途中で別れました」
「それを見た者はいません」
ニコルの声が止まる。
「二十一時十分から二十一分まで」
レオンは続けた。
「ほかの四人の行動には、証人か物的な跡がありました」
セルマには郵便係と制動検査員。
ボルグには給水作業員。
エリシアには壊した錠と足跡。
オズワルドには操車場主任と詰所職員。
「あなたの十一分間だけは、証言を支える他人も、別の場所にいたことを示す跡もなかった」
「それだけで犯人にはできないと、あなた自身が言った」
「ええ」
「では」
「十一分間だけなら」
レオンは、机に並んだ三つの証拠を見る。
破られた手帳。
八年前の職歴。
真鍮粉と旧封印材。
「ですが、空白の十一分へ、何をしていたかを示す物が入りました」
*
ニコルは、しばらく誰も見なかった。
床。
開いた窓。
血の染みた座席。
外された真鍮の《7》。
その視線が、机の上をゆっくり移動する。
「誰かが、すべてを私へ集めた」
やがて彼は言った。
「セルマ車掌へ罪を着せようとした犯人なら、私を次の容疑者にすることもできる」
「では、犯人は誰です?」
ミラベルが尋ねた。
「分かりません」
「あなたの手帳を使い」
「席を外したときに」
「あなたと同じ旧職歴を持っているように見せ」
「職歴は変えられません」
「あなたの袖へ番号板の粉をつけ」
「誰かと接触したときに」
「爪の内側へ封印材を入れた」
「灰橋で何かへ触れたのかもしれない」
「何へ?」
「分かりません」
ミラベルの問いは穏やかだった。
それでも、ニコルの答えは少しずつ短くなっていく。
「ダリウスは、駅事務室へ行ったのですね」
「そう言いました」
「誰にも見られず?」
「途中で場所を変えたのでしょう」
「あなたは霧の中で道に迷った」
「はい」
「でも、《黒梟号》へは発車直前に戻れた」
「汽笛と作業灯を頼りに」
「灰橋の構内を知らないのに?」
ニコルが、ミラベルを見る。
「八年前のことです」
「道は変わっていません」
ローディ主任から提供された構内図は、八年前と現在で主要通路が同じことを示していた。
白灰側線。
運行指令室の裏口。
旅客ホームへ戻る保守通路。
ニコルが見習い時代に、毎晩歩いていた道。
「迷っていなかった」
ミラベルが言った。
ニコルの唇が動く。
「決めつけです」
「では、十一分のあいだ、どこにいたんです?」
「話したとおりです」
「白灰側線へは?」
「行っていません」
「運行指令室の裏口は?」
「行っていません」
「命令書の正本を取りませんでしたか」
「取りません」
「前方扉を封じたのは?」
「私ではない」
「ダリウスを、七号車へ連れていったのは?」
「違います」
「殺したのは?」
「違う!」
声が、古い車内へ響いた。
開いた窓硝子が小さく震える。
二人の警官が、一歩だけニコルへ近づいた。
「私は、七号車を戻しただけだ」
言葉が落ちた。
ニコル自身が、最初にその意味へ気づいた。
顔から血の気が引く。
車内の誰も動かなかった。
「戻しただけ?」
グレアムが繰り返す。
「違う」
「何を戻した」
「今のは」
「七号車を?」
「言葉の間違いです」
「存在を知らなかったはずの七号車を?」
「先ほどの事情聴取で聞きました」
「《戻した》という言葉は、初めて知った人間のものではありません」
レオンの声は静かだった。
ニコルは、もう答えなかった。
グレアムが前へ出る。
「ニコル=ヴェイル」
低い声だった。
「お前を、ダリウス=モーン殺害、鉄道運行命令偽造、列車編成妨害、証拠偽装の容疑で逮捕する」
「証拠は、状況証拠です」
「令状は出ている」
グレアムは内ポケットから逮捕状を開いた。
「筆圧痕だけではない。職歴だけでもない。付着物だけでもない」
三つの別々の方向から来た記録が、同じ男へ集まっている。
「お前には黙秘する権利がある。弁護人を求める権利もある。今から話すことは、すべて記録される」
「私は」
「続きは署で聞く」
左右の警官が、ニコルの腕を取る。
金属の拘束具が開かれた。
小さな機械音。
ニコルの指が震える。
「待ってください」
エリシアが言った。
グレアムが彼女を見る。
「何だ」
「一つだけ」
エリシアは、ニコルの正面に立った。
怒りはある。
だが、それだけではなかった。
八年間、同じ七号車へ家族の名を奪われた者を見る目だった。
「ミラ=ヴェイルは」
ニコルの身体が固くなる。
「あなたのお姉さんですか」
「今は関係ありません」
「あります」
「あなたには関係ない」
「私の兄も、同じ車両にいました」
「黙ってください」
「あなたは、ミラさんの名前を知っていた」
「黙れ」
「八年前、初めて聞いたふりをした」
「黙ってください」
「お姉さんなんですね」
「黙れ!」
ニコルの声が、車内を打った。
警官が彼の腕を強く押さえる。
拘束具の金属が触れ合う。
ニコルは荒い息をしながら、エリシアを睨んでいた。
だが、その怒りは彼女へ向いたものではなかった。
八年前の記録。
上司の命令。
六両へ書き直した編成表。
自分の手で消した一行。
そこにあった名前。
それらすべてへ向けられているように見えた。
「最後に確認する」
グレアムが言った。
「ミラ=ヴェイルは、お前の姉か」
長い沈黙。
留置線の外で、朝の旅客列車が汽笛を鳴らす。
時刻表どおりに走り。
編成表どおりの両数で到着する、日常の列車。
その音を聞きながら、ニコルは目を閉じた。
「はい」
小さな返事だった。
「姉です」
拘束具が、両手首へ閉じられた。
存在しない七号車の犯人は――
初めて、自分の記録へ署名した。




