第12節 ― 七人の名前
「はい。姉です」
ニコルの声は、七号車の古い壁へ吸い込まれた。
窓の外では、ヴェルム=クロウの朝が始まっている。
北留置線の向こうを、通勤客を乗せた短い列車が走っていく。
窓に並ぶ灯。
規則正しい車輪音。
時刻表に記されたとおりの時刻に、編成表に記されたとおりの両数で走る列車。
誰も、その列車を疑わない。
何両あるのか、数え直す者もいない。
紙に六両とあれば六両。
乗客名簿に名があれば、その者は乗っている。
名がなければ、乗っていない。
ヴァルテリアの鉄道は、そうした信頼の上を走っている。
八年前、その信頼の下へ七人が押し潰された。
グレアムが片手を上げた。
ニコルの手首には、すでに拘束具がかけられている。
だが、左右の警官はまだ彼を七号車から連れ出さなかった。
「供述を続けるなら、すべて記録する」
グレアムは言った。
「いま黙って、弁護人を待つこともできる」
ニコルは、開いた窓の外を見た。
「記録してください」
小さな声だった。
「今度は、消えないように」
記録係が新しい頁を開いた。
ペン先が紙へ触れる。
「ミラ=ヴェイルについて話せ」
ニコルは、ダリウスの血痕が残る左側座席を見つめた。
その下を通る蒸気暖房管は、もう冷えている。
「姉は、線路補修工事の炊事係でした」
彼は話し始めた。
「労働者たちの食事を作り、怪我人の包帯を替え、資材と食料の帳簿もつけていました。でも、正式な雇用記録には載っていなかった」
「兄たちと同じですね」
エリシアが言った。
「ええ」
ニコルは彼女を見なかった。
「正式に雇えば、会社は賃金を支払わなければならない。宿舎も、保険も、事故補償も必要になる。だから姉は、工事請負人の親族が好意で手伝っていることにされていました」
「実際には、毎日働いていた」
「夜明け前から、作業が終わるまで」
事故当時、ミラ=ヴェイルは二十六歳。
弟のニコルは二十三歳だった。
「事故の三日前、姉から手紙が届きました」
ニコルの口元へ、笑みの形だけが浮かんだ。
「工事が終わったら、ヴェルム=クロウへ戻る。給料が出たら、母と三人で暮らせる部屋を借りようと」
「給料は」
ミラベルが尋ねる。
「支払われませんでした」
「事故が起きたから?」
「事故が起きなくても、支払うつもりはなかったと思います。正式な帳簿に、姉の名はなかった」
セルマは、硝子板の下に置かれた古い乗車券を見た。
黄ばんだ厚紙。
欠けた菱形の鋏痕。
八年間の煤が、切断面の奥まで入り込んでいる。
「私は、ミラさんへ切符を渡しました」
セルマが言った。
「青い襟巻きをしていた」
ニコルの瞼が震えた。
「姉が自分で編んだものです。毛糸が足りなくなって、片方の端だけ色が違っていた」
「覚えています」
セルマの声が掠れる。
「切符を受け取ったあと、何度も私へ確認しました。名前を書かなくてもいいのか。この券があれば、正式な乗客として扱われるのか、と」
「あなたは何と答えたんです」
「大丈夫です、と」
セルマは逃げずに答えた。
「切符を持っていれば、あなたも乗客ですと」
「嘘だった」
「はい」
「知らなかったから?」
「知ろうとしなかったからです」
セルマは、自分の右手を見る。
八年前、切符鋏を握っていた手。
「私は切符を渡すところまでが、自分の仕事だと思っていました。名簿へ記載するのは記録係。安全を確認するのは主任車掌。列車を動かすのは機関士。命令を出すのは運行部」
それぞれが、自分の担当だけを終えた。
その隙間へ、七人が落ちた。
「乗車券があれば、事故が起きても乗客として記録されると思っていました」
セルマが言う。
「思っていたのではありません。そうだと、確かめもせず決めていました」
ニコルは、しばらくセルマを見ていた。
「私は、その鋏痕を覚えていました」
セルマの顔が動く。
「何を?」
「欠け菱形。四四二号」
ニコルは古い切符へ目を向けた。
「見習いのころ、車掌鋏の登録簿も扱いました。事故のあと、姉の所持品からこの切符を抜き取ったときも、あなたの登録番号を確認した」
「では」
セルマの声が低くなる。
「ダリウスの胸へ、この切符を入れた理由は――」
「姉が七号車へ乗っていた証拠だからです」
「それだけではありませんね」
レオンが言った。
ニコルは答えない。
「切符の鋏痕を調べれば、セルマさんへ行き着くと知っていた」
車掌鋏四四二号。
古い七号車を知っていた車掌。
共通鍵を持ち、列車内を自由に動けた主任車掌。
八年前の秘密を、最初の事情聴取で語らなかった女。
「あなたは、セルマさんへ疑いが向くことを予想していた」
「彼女には責任があった」
ニコルは言った。
「姉たちを乗せ、事故のあと黙っていた」
「責任と殺人は別です」
「この人たちが黙ったから、八年間――」
「別です」
レオンの声は、強くはなかった。
だが、ニコルの言葉を切断した。
「セルマさんには、八年前の沈黙と、今夜の虚偽確認について責任がある。だからといって、ダリウス殺害の記録へ犯人として載せてよい理由にはなりません」
ニコルが唇を噛む。
「会社は、誰か一人を差し出します」
「だから、セルマさんを差し出した?」
「七人を消した側の人間です」
「あなた自身も、消した側にいた」
ニコルの顔が歪んだ。
「命じられたんです」
「セルマさんも、同じ言葉を使えます」
「同じではない」
「ええ。同じではありません」
レオンは認めた。
「だから、一人ずつ別の責任を調べる必要がある」
切符を切ったこと。
名簿を確かめなかったこと。
七号車を六両へ書き直したこと。
事故責任を一部の乗務員へ押しつけたこと。
告発を受理しなかったこと。
真実へ値段をつけたこと。
人を殺したこと。
どれも別の行為だった。
別の責任だった。
すべてを一人へ載せれば、また同じ偽装記録ができあがる。
「あなたは七人を戻すため、八人目の人間を記録の犯人にしようとした」
レオンは言った。
セルマの指が、わずかに震えた。
「八年前、七人を消した記録と同じです。都合のよい結論を先に決め、そこへ人間を押し込んだ」
「私は、姉の切符を使っただけです」
「切符鋏の意味を知りながら」
「セルマ車掌が逮捕されるとは限らない」
「実際、会社は正式拘束を要請しました」
ニコルの視線が落ちる。
「あなたの計画どおりです」
「計画どおりでは」
「死体を温め、殺害時刻を走行中へずらした。封印された客車へ出入りできる者として、共通鍵を持つセルマさんを浮かび上がらせた。その胸には、彼女の鋏で切られた乗車券を置いた」
偶然ではない。
古い切符を置いた意味は、七人の存在証明だけではなかった。
新しい犯人を作るためでもあった。
「ダリウスは、死者の名前を金へ変えようとした」
レオンは続ける。
「あなたは、セルマさんの過失と罪悪感を、殺人犯を作る材料へ変えた」
「一緒にしないでください」
「死者や生者を、自分の目的のための道具として扱った点では同じです」
ニコルは反論しなかった。
*
「事故の翌朝」
彼は、拘束された両手を見た。
「私は灰橋操車場の記録室にいました」
事故現場から戻ってきたのは、列車ではなかった。
焼けた荷物。
折れた車輪。
血のついた座席布。
死者の所持品。
煤と水に濡れた運行記録。
見習い編成記録係だったニコルは、それらを朝まで分類させられた。
「最初の編成表には、七行ありました」
机の上にある原始編成表。
一号車から七号車まで。
最後の欄には、臨時労働者輸送、七名。
「事故前、主任記録係が読み上げた内容を、私が清書しました」
「ミラさんの名も?」
エリシアが尋ねた。
「自分で書きました」
ニコルは答える。
「ミラ=ヴェイル。二十六歳。炊事補助」
姉が乗る列車の編成表へ、自分の手で名を書いた。
乗客として。
労働者として。
確かに存在する人間として。
「事故の翌日、上司から白紙の用紙を渡されました」
グレアムが尋ねる。
「何を書けと?」
「正式報告用の編成表です」
「七号車を除いて?」
「はい」
「拒否したか」
「最初は」
七号車が抜けている。
姉が乗っている。
七人の名がない。
そう訴えた。
だが上司は、事故列車の正式編成は六両だったと繰り返した。
七号車は、許可なく混入した回送車。
中にいた七人は、正規の乗客ではない。
「訂正しなければ、原始編成表を作った私が、勝手に七号車と無登録乗客を加えた責任者にされると言われました」
「当時、二十三歳ですね」
グレアムが確認する。
「はい」
「商業学校へ通いながら、夜間の見習いをしていた」
「母は病気でした。姉が死に、私まで逮捕されれば、母を養う者がいなくなる」
「だから書いた」
「はい」
「六両と」
「はい」
ニコルの指先が震える。
「姉の名を、自分の手で消しました」
誰も言葉を挟まなかった。
編成表から一行を外せば、ミラ=ヴェイルは乗客ではなくなる。
正式な鉄道労働者でもない。
事故死者でもない。
死亡証明を得られない。
補償の対象にもならない。
制度の中では、生きていたことさえ証明できない。
「姉の荷物も、記録室へ届きました」
ニコルは乗車券を見る。
「青い襟巻き。焦げた鞄。この切符」
「切符だけを持ち出した」
グレアムが言う。
「姉が乗っていたことを示す、最後の紙でした」
「原始編成表は」
「事故原本として回収されました。私は、どこへ送られたのか知りませんでした」
「その後、告発を?」
「一年目だけで十七回」
鉄道警察。
運輸監察局。
労働契約院。
補償審査部。
地方議会の事故調査委員会。
「返答は、どれも同じでした」
公式記録と矛盾する。
事故はすでに調査済み。
申立人は正式な遺族として確認できない。
「姉が死者名簿にいないから、私は遺族ではない。遺族ではないから、姉の死について申立てる資格がない」
ニコルは乾いた笑いを漏らした。
「完璧な記録でした」
セルマが目を伏せる。
ボルグは窓の外を見ていた。
「三年前、ダリウス監査官が閉鎖事故記録を再調査すると聞き、補償局へ入りました」
「姉のために?」
「原本を探すためです」
「ダリウスへ近づき、助手になった」
「最初は期待していました」
特別監査官の権限があれば、閉鎖記録を開ける。
七人の名を戻せる。
弟の証言ではなく、制度が認める証拠を見つけられる。
「半年前、ダリウスは原本を見つけました」
「どこで」
「旧中央記録庫の廃棄予定箱です。原始編成表と、臨時乗車記録の一部。六両へ訂正させた命令文書も」
「公表しなかった」
「値段をつけました」
鉄道会社には、原本の返却と引き換えの金。
遺族には、名前を確認するための調査費。
会社が払わなければ、新聞社へ一部だけを売る。
真実を最も高く買う者へ渡すつもりだった。
「兄の名を見るだけで、二百クロウ」
エリシアの声が硬くなる。
「あなたが払えなければ、別の遺族へ請求すると言っていました」
「だから殺した?」
ニコルは、すぐには答えなかった。
「まだです」
レオンが言う。
エリシアが彼を見る。
「何がです」
「憎んだ理由は分かりました。殺した理由は、まだ説明されていません」
「同じでしょう」
ニコルが言った。
「違います」
「あなたには分からない」
「分かる必要はありません」
レオンの声は静かだった。
「憎しみは行動を説明します。正当化はしない」
*
「先日の署名なき死体事件を、新聞で読みました」
ニコルは、ミラベルへ顔を向けた。
「正確には、読めませんでした」
ヴェルム=クロウ日報へ載った記事。
身元を奪われた死者。
偽装された契約記録。
だが紙面からは、関係商会の名も、記録改竄の仕組みも削られていた。
「あなたは真相を突き止めたのでしょう」
「はい」
「それでも、都合の悪い部分は載らなかった」
ミラベルは否定しなかった。
「名前のある記者が、警察や探偵と調べても消される。それを見て、分かりました」
「何がです」
「文章では足りない」
報告書は閉鎖できる。
告発状は受理しなければよい。
新聞記事は削れる。
証言は、八年も経てば記憶違いと呼べる。
「でも、六両で出た列車が七両で到着すれば、誰にも見なかったことにはできない」
その言葉だけは揺れなかった。
「駅員が見る。乗客が見る。車掌が見る。警察が見る。新聞記者が数える」
ニコルは、七号車の古い壁を見回した。
「街の中央駅へ、存在しない七号車を到着させる。その中から八年前の切符と原始編成表が見つかる。そうすれば、会社も警察も、七号車はなかったとは言えない」
「だから、人を殺した」
レオンが言った。
「七号車を戻すために」
「いいえ」
レオンは即座に否定した。
「あなたが戻したのは七号車ではない」
ニコルの顔が歪む。
「実際に、七号車は到着した」
「C―214へ真鍮の数字を取り付けただけです」
「原始編成表も見つかった」
「ダリウスを殺さなくても、同じ場所へ置けました」
「また消される!」
ニコルの声が車内へ響いた。
「会社へ渡せば焼かれる。新聞社へ送っても削られる。警察へ持っていけば、閉鎖事故だと返される!」
「それでも、殺す必要はなかった」
「ダリウスが原本を握っていた!」
「奪えば窃盗です。殺人ではない」
「綺麗ごとだ」
「法律です」
レオンの言葉は冷たくなかった。
ただ、硬かった。
「殺さずに、七号車を連結すればよかった」
ニコルが息を呑む。
「原始編成表と、七人の遺品を乗せて」
六両で出た列車を、七両で到着させる。
それだけでも、十分に事件になる。
駅員が見る。
警察が調べる。
ミラベルは記事にする。
原始編成表は、証拠として押収される。
「ダリウスが止める」
「彼を告発すればよかった」
「誰も受理しない」
「だからといって、殺してよい理由にはなりません」
レオンは、ニコルの正面へ立った。
「あなたが戻したのは七号車ではありません」
もう一度、はっきりと言う。
「新しい死体を一つ、古い死者の隣へ置いただけです」
ニコルの唇が動く。
声にはならない。
「ダリウスは、七人の死を金へ変えようとした」
レオンは続ける。
「あなたはダリウスの死を、七人の名を取り戻す道具へ変えた。そしてセルマさんを、その犯罪を完成させる八人目の犠牲にしようとした」
「私は、姉を戻したかった」
掠れた声だった。
「姉の名前を、でしょう」
「同じです」
「違います」
レオンは答えた。
「人は戻りません」
ニコルの肩が落ちる。
「分かっています」
「なら、死者を増やさないでください」
長い沈黙のあと、ニコルは目を閉じた。
涙は流れなかった。
泣くことさえ、八年前に使い果たしたようだった。
グレアムが警官へ合図する。
「連れていけ」
ニコルは抵抗しなかった。
前方扉の踏段へ足をかける直前、古い乗車券を振り返る。
「姉の切符を」
「裁判が終わるまで警察が保管する」
グレアムが答えた。
「そのあとは、遺族への返還手続きを取る」
「遺族は、私だけです」
「なら、生きて裁判を終えろ」
ニコルは目を伏せた。
警官に伴われ、七号車を降りる。
砂利を踏む音。
拘束具の短い鎖。
朝霧の中へ消えていく背中。
七号車を呼び戻そうとした男は、七号車から連れ出されていった。




