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第9節 ― 部屋が列車に乗った

 灰橋へ向かう警察用車両には、客室と呼べるものがなかった。


 貨物用の短い制動車へ、向かい合わせの木製長椅子を取りつけただけである。


 壁には煤が染みつき、天井から下がる小さなガス灯は、車輪の振動に合わせて頼りなく揺れている。


 窓硝子は厚く、古く、外の景色を水中のように歪めていた。


 その向こうで、ヴェルム=クロウの工場群が後方へ流れていく。


 煙突。


 蒸気塔。


 歯車工場の鋸形の屋根。


 朝番の労働者を運ぶ高架列車。


 煤色の朝へ、街が少しずつ溶けていく。


 先頭では、小型の警察機関車が黒煙を吐いていた。


 本来なら早朝貨物を牽引するはずだった機関車を、グレアムが警察権限で徴発したものだ。


 機関士は不満そうだった。


 貨物会社も不満そうだった。


 灰橋操車場を管理する中央鉄道会社は、もっと不満そうだった。


 グレアムだけが、誰の不満にも関心を示していない。


「一時間以内に返すよう、本部から要請されています」


 車両の隅に座る鉄道連絡員が言った。


「早朝貨物が三本、ヴェルム=クロウで止まっています」


「殺人捜査が終われば返す」


「一時間で終わりますか」


「犯人へ聞け」


「まだ犯人が分かっていないのでは?」


「だから調べに行く」


 連絡員は、それ以上何も言わなくなった。


 グレアムの向かいには、レオンが座っている。


 膝の上には、七号車《C―214》の現場図。


 六号車との連結部。


 制動管。


 蒸気暖房管。


 標識灯用配線。


 遺体の位置。


 全開にされた主蒸気弁と左側分岐弁。


 図面の上では、七号車は最初から《黒梟号》の一部だったように整然とつながっている。


 だが、グラン=レールを出たとき、その最後の一両は存在しなかった。


 隣では、ミラベルが手帳へ何かを書き続けている。


「酔っていませんか」


 レオンが尋ねた。


「列車の記事を書く記者が、列車に酔うわけにはいきません」


「顔色が白いですが」


「夜通し起きているからです」


「先ほどから、同じ文字を三度なぞっています」


「強調です」


「《灰橋》という二文字を?」


「重要な地名ですから」


 車両が大きく揺れた。


 ミラベルの鉛筆が紙の上を滑り、《橋》の文字から長い線が伸びる。


「今のは列車のせいです」


「誰も責めていません」


「目が少し笑っています」


「人の顔を記事にしないでください」


 グレアムが腕を組んだまま言った。


「朝から、よく喋れるな」


「眠気を防いでいます」


 ミラベルが答える。


「黙って寝ろ」


「灰橋へ着いたとき、寝過ごしたら困ります」


「この車両で眠れるなら、尊敬する」


 車輪が軌条の継ぎ目を越えるたび、木製の背もたれが身体へ打ちつけられる。


 壁の工具箱からは、金属器具同士の触れ合う音が鳴り続けていた。


 眠るには向かない。


 考えるにも向かない。


 それでもレオンは、現場図から目を離さなかった。


「まだ密室を考えているのか」


 グレアムが尋ねた。


「いいえ」


「嘘をつけ」


「密室へ入る方法については、考えていません」


「同じことだろう」


「違います」


「何が」


 レオンは、図面の七号車を指した。


「扉も窓も閉じた部屋を見ると、人はまず、犯人がどう入って、どう出たのかを考えます」


「普通だ」


「ですが、殺人が起きたとき、その部屋が列車の一部だったとは限らない」


 グレアムが顎髭を撫でた。


「灰橋で連結される前に殺された」


「その可能性が高くなりました」


「なら、殺害時には密室ではない」


「ええ」


「到着したときだけ密室だった?」


「そうなります」


 ミラベルが鉛筆を止める。


「死体を入れてから、扉を封印した」


「おそらく」


「そのあと、部屋ごと列車へ?」


 レオンは答えなかった。


 論理として成立しても、現実の痕跡がなければ、まだ推理にすぎない。


 グレアムも同じことを考えたらしい。


「灰橋に客車があった証拠を探す」


「はい」


「連結命令も」


「はい」


「命令が、どうやって届いたかも」


「はい」


「その三つがなければ、お前の《部屋ごと》は話だけだ」


「分かっています」


「素直だな」


「反論する箇所がありません」


「気味が悪い」


「私を何だと思っているんです」


「面倒な探偵だ」


「職業ではなく評価ですね」


「どちらもだ」


 汽笛が鳴った。


 短く一度。


 警察用列車が減速を始める。


 窓の向こうへ、低い煉瓦造りの駅舎と、何本もの側線が現れた。


 夜には濃霧へ沈んでいた灰橋操車場。


 朝になっても、霧は完全には晴れていない。


 地面近くへ白い靄が残り、貨車の車輪と作業員の脚を半ば隠していた。


 給水塔から、絶えず蒸気が上がっている。


 黒い脚。


 太い給水管。


 塔の上部は朝霧の中へ溶け、どこまで続いているのか分からない。


 遠くで、連結器の音が鳴った。


 がしゃん。


 朝の光の中で聞いても、距離は分かりにくかった。


「この音です」


 ミラベルが窓へ顔を寄せた。


「昨夜、何度も聞きました」


「操車場ですから」


「でも、そのうち一回は、《黒梟号》へ七号車をつないだ音だった」


「そうでしょうね」


「私たちは聞いていたんですね」


「音だけを」


「何の音か分からずに」


「手掛かりは、最初から手掛かりの顔をしているとは限りません」


「記事に使えます」


「使わないでください」


 警察用列車は旅客ホームではなく、操車場の管理線へ入った。


 制動がかかる。


 車輪が軋む。


 連結器が縮み、車両全体が一度前へ揺れた。


 午前五時十一分。


 灰橋操車場へ到着した。


     *


 操車場は、夜間作業の途中で凍結されていた。


 《黒梟号》が停車していた線路。


 郵便袋を交換したホーム。


 給水塔。


 貨物事務室。


 操車場主任詰所。


 白灰側線へ通じる入換線。


 重要箇所には赤い旗が立てられ、警官が見張っている。


 朝番の作業員たちは仕事を止められ、駅舎脇の待機所へ集められていた。


 誰もが不満そうだったが、七号車から死体が出たと聞くと、声を低くした。


 警察用車両の前では、灰橋操車場主任が待っていた。


 昨夜、オズワルドと話していたドワーフである。


 低い背丈。


 四角い肩。


 胸元には、担当線路や保管庫を示す真鍮札が何枚も下がっている。


 眠っていないらしく、目の下に深い影があった。


「灰橋操車場主任、ローディ=バーンです」


 彼はグレアムへ敬礼した。


「夜間勤務も、お前が主任だったな」


「はい」


「昨夜、保管客車C―214を《黒梟号》へ連結した」


「命令に従いました」


「誰の命令だ」


「中央運行課です」


「命令書は」


「保管してあります」


 ローディは、胸元から鍵束を取り出した。


「警察から作業停止命令が出たあと、命令板ごと封鎖しました」


「正本が残っている?」


「はい」


「珍しく、話を悪くしない答えだな」


「褒められている気がしません」


「褒めていない」


 ローディは駅舎の外壁を指した。


 煉瓦壁に、太い真鍮管が通っている。


 鉄道運行指令専用の閉鎖気送管。


「命令は、二十時四十二分に定時便で到着しました」


「《黒梟号》到着の二十三分前」


「はい」


「発信元は」


「中央運行課」


「グラン=レール中央駅の?」


「正確には、中央運行課発送室から中央中継所を経由した、灰橋行き定時筒です」


「発信時刻は」


「十九時十二分」


 ミラベルが手帳から顔を上げた。


「十九時十二分?」


「どうした」


 グレアムが尋ねる。


「ニコルさんが、出発前に言っていました」


 彼女は出発前の記録を開く。


「灰橋方面の定時気送便は十九時十分締め。中央中継所で仕分けられ、一時間半ほどで到着すると」


「本人は、その発送棚へ監査照会書を入れた」


 レオンが続ける。


「ええ」


「時刻は?」


「十九時十分より前です」


 ローディが二人を見る。


「補償局の書記の話ですか」


「今は命令書の経路を確認している」


 グレアムが制した。


「中央側の記録は?」


「先ほど届きました」


 ローディは封筒を差し出した。


 中央運行課発送室。


 中央中継所。


 灰橋受取室。


 三か所の管制記録が複写されている。


 グレアムが記録係へ読ませた。


「十九時十分、灰橋方面定時便締切」


「十九時十二分、発送筒G―19封印」


「十九時三十七分、中央中継所到着」


「二十時六分、灰橋支線管へ再送」


「二十時四十二分、灰橋操車場到着」


「途中保守口の封印は」


「すべて異常なし」


「では、灰橋構内の保守口から入れたのではない」


 レオンが言った。


「ええ」


「偽造命令は、グラン=レールの発送室で筒が封じられる前から入っていた」


 グレアムが記録を見直す。


「《黒梟号》がグラン=レールを出る二十八分前だ」


「犯人は、列車に乗ってから命令を送ったのではありません」


 レオンが言った。


「出発前に、届く時刻まで計算して送り込んでいた」


「発送品目表は?」


 記録係が次の紙を読む。


「灰橋行き登録文書、十件」


「筒から出た文書は」


「十一件」


「一件多い」


「はい」


「偽造命令だけが、発送品目表へ載っていなかった」


 ミラベルが言う。


「誰かが、登録済みの書類に紛れ込ませた」


「発送品目表を作ったあと、筒を封印するまでの間に」


 グレアムがローディを見る。


「発送棚へ書類を置ける者は」


「中央運行課職員。正式照会を持つ本部監査部門。補償局や事故調査部からの使者も、受付職員の立会いがあれば置けます」


「ニコルだけではない」


 レオンが言った。


「ええ」


 ミラベルは頷く。


「でも、ニコルさんは実際に、そこへ書類を届けていた」


「一つの事実です」


「証拠では?」


「犯行の機会を示します。犯行を証明するものではありません」


「分かっています」


「珍しく先に言いましたね」


「学習しています」


 グレアムが二人を睨んだ。


「続きは詰所で聞く」


     *


 操車場主任詰所は、昨夜オズワルドが入った建物だった。


 低い煉瓦造り。


 小さな窓。


 壁の半分を、構内信号図と運行表が占めている。


 中央の長机には、側線配置を再現した金属模型と、転轍器の操作杆。


 奥は、運行指令を受け取る後部事務室。


 手前は、主任と来訪者が話すための執務室。


 二つの部屋は木製の扉で仕切られていた。


 ローディは、当夜用の命令控え帳を棚から取り出した。


「正本を受け取った直後、ここへ複写しました」


 灰色の圧紙文字。


 ところどころ薄いが、内容は読める。


 ――廃検査客車C―214。


 ――白灰側線より出庫。


 ――黒梟急行一一七号後部へ連結。


 ――ヴェルム=クロウ整備工場まで臨時回送。


 ――旧移送符号 R―7。


 右下には、中央運行課の認証印。


 署名欄も複写されているが、角張った運行書式体で記され、個人の筆跡を判別しにくい。


「理由欄は」


 グレアムが尋ねる。


「解体前の最終検査」


「暖房管を接続する指示は」


「正本の欄外に、赤鉛筆で《凍結防止のため通蒸気》とあります」


「控えには」


「複写が薄く、ほとんど残っていません」


 斜めから照明を当てると、頁の端にわずかな筆圧痕が浮かんだ。


 通。


 蒸。


 気。


 三文字の一部だけが、紙の凹みとして残っている。


「犯人は、暖房管を確実につながせる必要があった」


 レオンが言った。


「死体を温めるために」


「まだ、犯人が書いたと断定するな」


 グレアムが答える。


「ですが、中央運行課は命令の発行そのものを否定しています」


「偽造命令を書いた奴が、備考も書いた。そこまではいい」


 ローディは、後部事務室の命令板へ案内した。


 届いた正本は透明な保護袋へ入れられ、板へ留められたまま、警察の証拠線で囲われている。


 黒い運行用紙。


 中央運行課の印。


 実在する当夜の指令番号。


 旧移送符号《R―7》。


 赤鉛筆の備考。


「指令番号は本物か」


 グレアムが尋ねた。


「番号自体は実在します」


 ローディが答える。


「何に使われた番号だ」


「石炭貨車三両の入換命令です。中央運行課の正規台帳にも、そちらの内容で登録されています」


「誰かが、実在する番号だけを流用した」


「そうなります」


「認証印は」


「外形は正規印と一致します。ただし、中央運行課は押印を否定しています」


「偽造か」


「詳細は鑑定しなければ」


 現場係が、正本を命令板ごと撮影する。


 針の位置。


 紙の折れ。


 表面の埃。


 赤鉛筆の線。


 認証印の欠け。


 すべてを記録したあと、保護袋へ封印された。


「正本は押収する」


 グレアムが言った。


「紙、インク、認証印、赤鉛筆、指紋、筆圧。全部調べろ」


「命令へ触れた者は?」


 現場係が尋ねる。


「受取係、ローディ主任、記録係、作業班長」


 ローディが答える。


「ほかには」


「いません」


「犯人は回収しなかった」


 ミラベルが正本を見る。


「控えも正本も、ここへ残した」


「命令が正規に処理されれば、回収する必要はありません」


 レオンが答えた。


「これは《黒梟号》の旅客編成を七両へ訂正する命令ではない。廃客車を工場まで臨時回送する、灰橋構内の作業命令です」


「だから」


 ミラベルが言う。


「中央の旅客編成表は、六両のまま」


「ええ」


「灰橋には、追加車両をつなげた作業記録が残る」


「ですが、偽造だと判明するまでは、正規業務の記録にしか見えません」


「現物は七両。旅客記録は六両」


「そして、灰橋だけには臨時回送の命令がある」


 犯人は命令書を消す必要がなかった。


 命令書が残っていても、そこに犯人の名はない。


 正規の番号。


 正規に見える印。


 古いが、意味の通る移送符号。


 手順どおりに処理した職員たち。


 書類は、犯人を隠すために消されたのではない。


 多くの正規書類の中へ紛れ込み、正しく働くことで犯人を隠していた。


「文書そのものが、共犯者のようですね」


 ミラベルが言った。


「文書に意思はありません」


 レオンが答える。


「また細かいことを」


「使った人間がいます」


「では、誰が書いたかを調べる」


 グレアムが証拠袋を持ち上げた。


「それが捜査だ」


     *


 詰所を出たところで、ヴェルム=クロウ警察から電信が届いた。


 警官が細長い紙帯をグレアムへ渡す。


「押収物の予備鑑定です」


 グレアムが目を通し、レオンへ見せた。


 ニコルの手帳。


 根元から切り取られた三枚から四枚の頁。


 その次に残る空白頁へ、斜光撮影を行った結果。


 複数の筆圧痕が確認された。


「読めますか」


 ミラベルが覗こうとする。


 グレアムが紙を高く上げた。


「近い」


「見えません」


「見せていない」


「では、読んでください」


 グレアムは不機嫌そうに読み上げた。


「完全転写には時間が必要。現在判読できる断片は――」


 紙帯を見直す。


「《C―21》」


 レオンの目が動く。


「《R―》」


 次の断片。


「《20・4》」


「C―214」


 ミラベルが言った。


「R―7」


「二十時四十二分」


「まだ、そうだと決まったわけではない」


 グレアムが制する。


「《C―21》は別の番号かもしれん。《R―》の後ろは読めない。時刻も二十時四分かもしれん」


「でも、偽造命令と同じ並びです」


 ミラベルが言う。


「正本と、手帳の筆圧痕の行配置も比較させてください」


 レオンが言った。


「文字そのものだけでなく、改行位置、数字の置き方、略号の順番も」


 グレアムは電信紙へ追記するよう警官へ命じた。


「手帳の下書きが偽造命令と一致すれば」


 ミラベルが言う。


「犯人が決まりますか」


「まだです」


 レオンが答えた。


「ニコルさんはダリウスの助手です。上司から命令文の草案を書かされた、と反論できます」


「ダリウス自身が計画した可能性?」


「反論としては成立します」


「死んだ本人が、自分の死体を運ぶ命令を?」


「不自然ですが、不可能な反論ではありません」


 グレアムが鼻を鳴らした。


「お前は、犯人へ反論の仕方まで教えるのか」


「弱い証拠を、強い証拠だと思わないためです」


 電信には、続きがあった。


「ニコルの右袖口から採取した金属粉」


 グレアムが読む。


「黄色真鍮を主成分とする。銅、亜鉛、微量の錫。比較試料待ち」


「番号板の削り粉と比べられます」


 ミラベルが言う。


「現場で採取できれば」


「採る」


 さらに一項目。


「左手爪の黒色付着物。煤油、天然樹脂、微量の鉛を含む。旧式封蝋または機械用密封材の可能性。七号車の封印材、工具油と比較予定」


 黒い封印材。


 鉛封。


 ニコルの爪へ残っていた、油だけでは説明できない黒い物質。


「まだ結果は出ていない」


 グレアムは念を押した。


「比較する相手が、ここにあります」


 レオンが言った。


「番号板の真鍮」


「古い封印材」


「弁用鉄柄の油」


「全部、採取する」


 最後に、旧人事記録についての回答があった。


「中央記録庫。封鎖保管区画の開封許可取得」


 記録係が読む。


「八年前の灰橋操車場、旧編成記録課、運行指令課、封印材料庫、保管側線担当者名簿を複写中。午前八時五分の定時気送便で、ヴェルム=クロウ警察へ送付予定」


「あと三時間ほど」


 ミラベルが言う。


「その記録に、何があると思います?」


「人の名前です」


 レオンが答えた。


「それだけ?」


「今は、それだけで十分です」


 八年前の職員台帳。


 古い《R―7》符号を、実務で知る者。


 灰橋の構内配置を知る者。


 C―200型検査客車の構造を知る者。


 古い封印資材を扱えた者。


 誰が、その中に含まれているのか。


 答えは、まだ封鎖記録庫を出たばかりだった。


     *


 白灰側線は、操車場の最も奥にあった。


 旅客ホームからは、貨車列と給水塔に遮られて見えない。


 そこへ行くには、三本の側線を横切り、古い石炭倉庫の裏を回らなければならなかった。


 昨夜の濃霧なら、道を知る者でなければ迷う。


「線路へ降りるなと言われました」


 ミラベルが、線路脇の作業路を歩きながら言った。


「いま歩いているのは作業路です」


 レオンが答える。


「許可されている?」


「警部に確認してください」


「許可していない」


 前を歩いていたグレアムが振り返る。


「作業路から出るなと言った」


「同じことです」


「違う。軌条へ片足でも入れたら戻す」


「分かっています」


 数歩後。


 ミラベルの靴が石灰で滑り、右足が枕木の方向へ出た。


 レオンが外套の袖を掴む。


「危ない」


「入っていません」


「今、入るところでした」


「止めたからです」


「その言い方を、どこかで聞きましたね」


「安全に歩いています」


「私に引かれている状態を、安全に歩くとは言いません」


 グレアムが大きく息を吐いた。


「なぜ連れてきたんだ、俺は」


「参考人だからです」


「自分で言うな」


 白灰側線へ近づくにつれ、地面の色が変わった。


 黒い砂利。


 煤。


 機械油。


 その上を、白い粉が覆っている。


 雪が線路の周囲だけへ降ったようだった。


 だが雪と違い、湿っても溶けない。


 踏めば細かな粉が舞い、靴と外套の裾を白く汚す。


「石灰です」


 ミラベルが屈みかける。


「触るな」


「見ただけです」


「手が伸びていた」


「取材の癖です」


「直せ」


 白灰側線には、二両の古い客車が残されていた。


 一両は車輪を外され、木製台の上へ載せられている。


 もう一両は屋根が崩れ、窓硝子をすべて失っていた。


 その隣。


 三両目が置かれていたはずの場所だけが、空いている。


 線路上の石灰が、長方形に途切れていた。


 車体の下だった部分には、雨や霧が届かなかったのだろう。


 周囲より色が濃く、湿っている。


 車輪が置かれていた箇所には、四つの深い窪み。


 そこから本線方向へ、二本の細長い筋が続いていた。


 白い粉を鉄輪が押し分けた跡。


 昨夜、一両の客車がここから動いた。


 朝番の作業が止められていたため、痕跡はまだ鮮明だった。


「これですね」


 ミラベルが、息を抑えて言った。


「動いた跡だ」


 グレアムが現場係を呼ぶ。


 測量棒。


 車輪幅測定器。


 写真器。


 石灰採取用の硝子瓶。


 警官たちが慎重に軌条の間へ入る。


 四つの車輪跡。


 前部台車。


 後部台車。


 車軸間隔。


 台車中心間。


 数値が一つずつ読み上げられた。


「前部軸間、一・七二」


「後部軸間、一・七二」


「台車中心間、九・六四」


 ヴェルム=クロウから送られた《C―214》の測定値と照合する。


「一致します」


「誤差は」


「石灰上の痕跡を考慮しても、二ミリ以内」


「同型車なら一致する」


 レオンが言った。


「踏段位置と、落下物も」


 空いた車両位置の横では、人が昇降した箇所だけ石灰が大きく乱れていた。


 七号車の踏段と、同じ位置。


 さらに、赤錆の破片。


 黒い塗料片。


 真鍮らしき細かな削り粉。


「真鍮?」


 ミラベルが顔を近づける。


 触れてはいない。


「車体のどこから」


 グレアムが尋ねる。


 現場係が、白い粉の中へ照明を当てる。


 真鍮の粒は、空いた車両位置の中央側面付近へ集中していた。


「何かを、ここで車体へ取りつけた可能性があります」


「七の番号板です」


 ミラベルが言った。


「決めるな」


「位置が同じです」


「比較してからだ」


 削り粉は硝子瓶へ採取された。


 番号札。


 封印。


「ニコルの袖口から出た金属粉とも比較」


 グレアムが命じる。


「七号車の番号板そのものとも」


 レオンが付け加えた。


 白灰側線で使われる石灰には、防腐用の硫黄粉と、漏油検査用の青灰が混ぜられていた。


 七号車の踏段、車輪、連結器から採取された白灰にも、同じ青みがある。


 この側線でなければ付着しない配合だった。


「C―214は、ここに置かれていた」


 グレアムが言う。


「昨夜、ここから引き出された」


「ええ」


 レオンは答えた。


「問題は、引き出される前に何が行われたかです」


     *


 車両保管台帳は、白灰側線脇の小屋にあった。


 灰色の厚紙表紙。


 油と煤で黒くなった頁。


 保管車両は三両。


 B―089。


 E―441。


 C―214。


「二両しか残っていません」


 ミラベルが言った。


「C―214が、ヴェルム=クロウへ着いた客車です」


 ローディが答える。


「八年前の事故車ではないんですね」


「違います」


 ローディは別の旧台帳を開いた。


「八年前の七号車はC―207。事故で灰橋鉄橋西側へ落下し、車体中央から折損。現場解体されています」


「C―214は」


「同じC―200型の検査客車です。事故後、同型車の安全性が問題となり、予備保管へ回されました」


「つまり」


 レオンが確認する。


「犯人は、事故車そのものを復活させたのではない」


「はい」


「同型の別車両を使い、八年前の七号車を再現した」


 C―207。


 八年前に七人を乗せ、橋から落ちた事故車。


 C―214。


 八年間、灰橋の白灰側線へ放置されていた同型保管車。


 現在の事件で使われたのは、後者だった。


 亡霊ではない。


 人間が選び、準備した代用品だった。


「番号板は、いつ取りつけられたか分かりますか」


 ミラベルが尋ねる。


 ローディは保管点検簿を開いた。


「昨日の十七時五分、昼番の車両保管係が点検しています」


「内容は」


「車体刻印C―214を確認。外部番号板なし。前方扉、保管錠。後方扉、旧封印。主蒸気弁、閉。左分岐弁、閉。右分岐弁、錆による閉位置固着」


 ヴェルム=クロウで確認した状態と違う。


 主弁は全開。


 左分岐弁も全開。


 右だけが閉鎖位置に残っていた。


「十七時五分の時点では、真鍮の《7》はなかった」


 グレアムが言う。


「はい」


「主弁と左分岐弁も閉じていた」


「記録上は」


「次に車両を見たのは」


「夜間保管係です」


 夜番の老人が呼ばれた。


 腰の曲がったドワーフ。


 片目に拡大鏡式の単眼鏡をつけている。


「十八時七分ごろ、側線を巡回しました」


「C―214を見た?」


「見た」


「真鍮板は」


 老人は考えた。


「ついていた」


「《7》が?」


「そうだ。新しい板だったから覚えている」


「なぜ報告しなかった」


「車体に、《中央記録監査中》の紙札が下がっていた」


「紙札?」


「本部の検査員が、識別用につけたと思った。廃車を番号で呼ぶことはある」


「人は見たか」


「見ていない」


「扉の封印は」


「後ろは古い封印。前は紙札だけだったと思う」


「銅線と鉛封は?」


「そのときは、まだなかった」


 グレアムは時刻線へ書き加えさせた。


 十七時五分。


 番号板なし。


 主弁閉。


 左分岐弁閉。


 十八時七分。


 真鍮製《7》を確認。


 前部扉に最終封印なし。


 二十一時十七分。


 入換作業員が、前後の封印を確認。


「番号板と暖房弁は、《黒梟号》が灰橋へ着くより前に準備されていた」


 レオンが言った。


「少なくとも番号板は、十八時七分までに」


「偽造命令が発送筒へ入れられたのは、十九時十二分以前」


 ミラベルが続ける。


「犯人は、先に灰橋で客車を作り、そのあとグラン=レールで命令を送った?」


「同一人物が行ったなら、そうなります」


「移動できる?」


 ローディが壁の時刻表を確認した。


「十八時十二分に、灰橋発グラン=レール行きの作業員列車があります。到着は十八時五十八分です」


「十九時十分の定時便締切へ間に合う」


 グレアムが言った。


「ただし、作業員列車の乗客名簿は?」


「鉄道通行証を持つ者は、個人名を記録しません。乗車人数だけです」


「本部職員や補償局職員は」


「臨時通行証があれば乗れます」


「監視員は、顔を覚えていない?」


「朝から呼び出して確認させます」


 番号板を取りつけた者は、灰橋に長く留まる必要はない。


 四本のねじ。


 二つの弁。


 紙札。


 道具と手順を知っていれば、短時間で済む。


 十八時十二分の作業員列車へ乗れば、十九時前にはグラン=レールへ戻れる。


 そこで偽造命令を定時気送便へ紛れ込ませる。


 すべて、《黒梟号》が出発する前に行える。


「番号板を外すと、本来の刻印が出るはずです」


 レオンが言った。


「ヴェルム=クロウで、写真記録を取りながら外させます」


 グレアムが答える。


「ねじも保存する」


「板の真鍮成分も」


 ミラベルが言った。


「袖口の粉と比較するためですね」


 レオンが答える。


「役に立ちました?」


「比較すべき証拠を思い出しました」


「同じでしょう」


「違います」


「あとで正確に書きます」


「書かないでください」


     *


 連結作業班の三人は、白灰側線の前へ並ばされた。


 転轍手。


 入換機関車の機関士。


 連結係。


 全員、夜間勤務を終えられないまま待機させられている。


「C―214を動かしたな」


 グレアムが尋ねる。


「命令票に従いました」


 連結係が答えた。


「白灰側線へ入った時刻は」


「二十一時十七分です」


「根拠は」


「入換機関車の記録筒と、転轍信号の作動記録です」


「車両を引き出したのは」


「二十一時十九分」


「《黒梟号》後部への連結」


「二十一時二十分ごろです」


「作業完了は」


「制動管、暖房管、標識灯配線まで確認したのが二十一時二十二分」


「発車の一分前」


「はい」


「中を確認したか」


「廃車回送なので、していません」


「前方扉は」


「銅線と鉛封で封じられていました」


「後方も?」


「はい」


「窓は」


「閉まっていました」


「人の声や物音は」


「聞いていません」


「扉へ近づいた者は」


「作業開始から連結完了まで、いません」


「暖房管を接続したのは」


 別の作業員が手を上げる。


「私です」


「なぜ廃車へ暖房を通した」


「命令書の欄外へ、《凍結防止、通蒸気》とあったからです」


「主弁は確認した?」


「保管車側で絞られているものと思いました」


「実際は全開だった」


 作業員の顔色が変わった。


「知りませんでした」


「責めているわけではない」


 グレアムが言う。


「命令どおり行ったことを、正確に話せ」


「連結器を固定し、制動管と暖房管をつなぎました。最後に標識灯の配線を移しました」


「標識灯は」


「六号車後部から外し、C―214の後端へ移しました」


「だから、到着駅から見た赤灯の位置が遠くなった」


 ミラベルが言った。


「はい」


 レオンは、作業班の証言を構内図へ重ねた。


 二十一時十七分。


 入換機関車が白灰側線へ入る。


 その時点で、C―214の前後扉はすでに封じられている。


 二十一時十九分。


 客車を白灰側線から引き出す。


 二十一時二十分。


 《黒梟号》の後部へ押し込み、連結器を固定する。


 二十一時二十一分。


 制動管と暖房管を接続する。


 同じころ、ニコルは寝台車へ戻っている。


 二十一時二十二分。


 六号車の赤灯を外し、C―214の後部へ移す。


 制動試験と接続確認を完了。


 二十一時二十三分。


 発車。


 列車の最後尾は、一両分だけ後ろへ延びていた。


 しかし濃霧の中では、旅客ホームから見えない。


 主任車掌は郵便交換と制動管の再試験に追われ、最後尾へ行かない。


 機関士は給水塔にいる。


 安全管理官は主任詰所。


 ほかの乗客は、自分の車両へ戻る時刻を気にしている。


 誰も列車全体を見ない。


「作業員がC―214へ着いた時点で、扉は封じられていた」


 グレアムが言った。


「はい」


「殺人は、それより前に終わっている」


 レオンが答える。


「少なくとも、遺体を入れ、前方扉を封じる作業は」


「二十一時十七分より前」


「ええ」


「連結中に誰かが死体を運び込んだ可能性は」


「ありません」


 連結係が答えた。


「私たちは車両の両側にいました。前扉も後扉も、作業開始から終わりまで封じられたままです」


「では」


 グレアムが空の側線を見る。


「死体は、白灰側線を出る前から中にあった」


 七号車のあった場所。


 四つの車輪跡。


 人が昇降した位置の乱れ。


 真鍮の削り粉。


 そこは、単なる廃車置場ではなかった。


 殺人現場だった。


     *


 グレアムは、構内図の前で時系列を読み上げた。


「十七時五分。昼番保管係がC―214を点検。番号板なし。主弁と左分岐弁は閉鎖」


「十八時七分。夜番が、真鍮の《7》と偽の監査札を確認」


「十九時十分までに、グラン=レール中央運行課の発送棚へ偽造命令が紛れ込む」


「十九時十二分。灰橋行き定時筒が封印される」


「二十時四十二分。偽造命令が灰橋へ到着」


「二十一時五分。《黒梟号》到着」


「二十一時七分。ダリウスとニコルが列車を降りる」


「二十一時十分ごろ、二人が白灰側線のC―214へ入った可能性がある」


 グレアムは、レオンを見る。


「そこから先は推定だな」


「ええ」


「続けろ」


「二十一時十二分前後。車内でダリウスが殺害される」


「二十一時十四分から十六分。遺体を左座席へ配置。古い切符と原始編成表を置き、前方扉を封印」


「二十一時十七分。作業班が白灰側線へ入る」


「その時点で、C―214の前後扉は封印済み」


「二十一時十九分。C―214を引き出す」


「二十一時二十分。《黒梟号》後部へ連結」


「二十一時二十一分。ニコルが単独で寝台車へ戻る」


「二十一時二十二分。制動管、暖房管、標識灯の接続確認を完了」


「二十一時二十三分。《黒梟号》発車」


 グレアムは懐中時計の蓋を閉じた。


「番号板、暖房弁、偽造命令は事前準備」


「灰橋での十八分間に、一から七号車を作ったのではありません」


 レオンが言った。


「犯人は、列車が来る前に舞台を作っていた」


「停車中に行ったのは」


 グレアムが指を折る。


「ダリウスを客車へ誘う」


「殺す」


「遺体を左座席へ置く」


「古い切符と原始編成表を配置する」


「前方扉を閉じ、封印する」


「そこで終わりです」


 レオンが言った。


「偽造命令は事前に届いている。番号板も弁も準備済み。命令書を回収する必要もない」


「九分ほどか」


「二十一時七分に列車を降り、十時ごろ客車へ到着。十六分までに離れれば、実行可能です」


「列車へ戻る時間もある」


「ええ」


「ずいぶん計算している」


「列車時刻、定時気送便、作業員列車、入換作業。すべて時刻表の中へ組まれています」


「偶然ではない」


「周到な準備です」


 グレアムは、白灰側線を見た。


「凶器は」


「七号車の工具架にあったものが使われた可能性がありますが、まだ鑑定中です」


「封印材料は」


「ニコルさんの爪の黒い物質と比較中」


「番号板は」


「袖口の真鍮粉と比較中」


「手帳の筆圧痕」


「偽造命令の下書きである可能性があります」


「旧人事記録は」


「午前八時五分に届く予定です」


 グレアムがレオンを見る。


「お前は、もう犯人を決めているのか」


 レオンは答えなかった。


「決めていないのか」


「名前を言うには、まだ足りません」


「トリックは分かった」


「ええ」


「七号車を用意した者が、犯人だ」


「おそらく」


「なら、あとは誰が準備できたかだ」


 レオンは、白灰側線へ残る車輪跡を見た。


 古い符号を知る者。


 中央運行課の発送棚へ近づけた者。


 C―214を事前に準備できた者。


 灰橋の構内を、濃霧の中でも歩けた者。


 ダリウスを七号車へ誘えた者。


 八年前の乗車券と原始編成表を持っていた者。


 十一分間、誰にも見られていない者。


 それらは、同じ一人を指し始めている。


 だが、まだ鑑定結果と旧職歴が届いていない。


 推理は、証明ではない。


「いま言えるのは、方法だけです」


 レオンが言った。


「では、言え」


 グレアムが促す。


 ミラベルも鉛筆を構えた。


「これは、走行中の密室殺人ではありません」


 レオンは、空の側線を見たまま続ける。


「ダリウスは、列車へ連結される前のC―214へ誘い込まれた」


 まだ列車ではない。


 白灰側線へ置かれた、古い一両の客車。


 線路脇から扉へ近づける。


 窓を開けられる。


 誰でも出入りできる。


「犯人は車内でダリウスを殺し、遺体を左座席へ置いた」


 後頭部を砕く。


 古い切符を胸へ入れる。


 原始編成表を座席下へ押し込む。


 温められる位置へ身体を寄せる。


「前方扉を閉じ、古い銅線と鉛封で封じる」


 後方扉は、保管時から封じられていた。


 犯人が使用したのは前方だけ。


「その時点で、殺人は終わっています」


「作業員が来る前に」


「ええ」


「作業員は、命令書を信じて客車を引き出す」


「連結器をつなぐ」


「制動管をつなぐ」


「暖房管をつなぐ」


「赤灯を後ろへ移す」


「《黒梟号》は、七両編成になる」


「運行記録は六両のまま」


「ええ」


 列車が走り出す。


 主蒸気弁と左分岐弁は全開。


 熱い蒸気が左側の管へ流れ込む。


 死者の左半身を温める。


 左窓を曇らせる。


 座席と衣服を湿らせる。


 到着時、死体は殺されたばかりに見える。


 走行中の密室殺人が完成する。


「犯人は、走行中の密室へ入ったのではありません」


 レオンは静かに言った。


「殺人を終えた密室を、列車へ連結したのです」


 白灰側線の向こうで、入換機関車が汽笛を鳴らした。


 朝霧の中から、重い連結音が響く。


 がしゃん。


 昨夜と同じ音。


 だが今度は、その意味を全員が知っていた。


 六両の列車に、七両目が増えたのではない。


 死体のある一室が、列車へ乗ったのだ。

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