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第8節 ― 車掌を逮捕せよ

 夜明け前のヴェルム=クロウでは、空より先に工場が明るくなる。


 煤霧の向こうで高炉の火が赤く揺れ、夜勤と早番の交代を告げる汽笛が、街の各所から低く鳴り始める。


 だが、中央駅三番線に夜明けは来ていなかった。


 《黒梟号》は、到着したときの姿のまま留め置かれている。


 先頭の機関車は火を落とされ、黒い車体から細い湯気だけを上げていた。


 六両の正規客車は窓の灯を消し、乗客を失った空の箱となっている。


 その最後尾。


 警察の立入禁止帯に囲まれた《C―214》だけが、何基もの作業灯に照らされていた。


 古い木造車体。


 側面へ後付けされた真鍮の《7》。


 白灰の付着した車輪。


 最後尾で燃える赤い標識灯。


 ダリウスの遺体が運び出されたあとも、左側の窓には水滴の筋が残っている。


 白く曇っていた硝子は、すでに半分ほど透明さを取り戻していた。


 左座席に残った湿りも、配管の熱も、検死官が測った遺体の残温も、時間とともに失われていく。


 だが、消える前に記録された差だけは残る。


 左は温かい。


 右は冷たい。


 左窓は強く曇る。


 右窓の曇りは薄い。


 左座席は湿っている。


 右座席は乾いている。


 そこまでが、現時点で警察の知る事実だった。


 なぜ片側だけが熱を持ったのか。


 機械の故障か。


 長年放置された配管の詰まりか。


 それとも、誰かが意図して作った状態なのか。


 七号車の暖房機構には、まだ誰も手を入れていなかった。


     *


 午前三時四十七分。


 駅長会議室の扉が開いた。


 強く叩きつけられたわけではない。


 それでも室内にいた者たちは、ほぼ同時に顔を上げた。


 入ってきたのは、五十代半ばのヒューマだった。


 黒い礼服。


 銀色の襟章。


 胸には、ヴァルテリア中央鉄道会社本部監察局の徽章。


 後ろには、革鞄を抱えた法務官が二人。


 地域運行部長と駅長も続いている。


 男は会議卓の前で足を止め、まずグレアムへ身分証を示した。


「中央鉄道本部監察局、局長代理ハインツ=ローデンです」


 声は低く、抑揚が少ない。


 怒っているようにも、焦っているようにも見えなかった。


 それがかえって、この男が個人の感情ではなく組織の判断を運んできたことを示していた。


「警察の捜査へ干渉する意図はありません」


「それなら助かる」


 グレアムは会議卓の端へ腰を預けたまま答えた。


 ハインツは表情を変えず、法務官から一通の書類を受け取った。


「ただし、会社には乗客、職員、および鉄道施設の安全を確保する義務があります」


 正式罫紙。


 三つの認証印。


 表題は、


 《黒梟急行一一七号内死亡事件に伴う職員保全措置要請》


 だった。


「犯人の処分書ではないんですね」


 ミラベルが言った。


 グレアムが彼女を見る。


「黙っていろ」


「表題を読んだだけです」


「声に出すな」


 ハインツの視線がミラベルへ向く。


「新聞記者が、なぜこの場に?」


「灰橋停車時と列車到着時の参考人だ」


 グレアムが答えた。


「外部への情報流出が懸念されます」


「それは会社の懸念だ。警察の判断ではない」


「承知しました」


 ハインツは、反論しなかった。


 その素直さも、どこか官僚的だった。


「会社は、セルマ=ルーク主任車掌を犯人と断定してはいません」


 セルマは、壁際に立っている。


 制帽は外していた。


 共通鍵も、切符鋏も、乗務記録も、すべて警察へ預けている。


 濃紺の制服だけが、彼女をまだ車掌に見せていた。


「しかし、現時点で確認されている証拠と証言は、同職員へ集中しています」


 ハインツは続ける。


「そのため会社としては、逃亡、関係者との接触、運行記録や保管設備への接近を防止する目的で、正式な身柄拘束を要請します」


「逮捕しろ、と?」


 グレアムが尋ねた。


「逮捕の法的判断は警察に属します」


「言い方を変えたな」


「会社の権限を越えないよう、正確に申し上げています」


「なら、書類を読ませろ」


 グレアムは自分では受け取らず、警察の記録係へ顎を向けた。


 会社側が持ち込んだ文書も、警察記録の一部として読み上げさせるためだった。


「対象者、セルマ=ルーク。黒梟急行一一七号主任車掌」


 記録係が読む。


「拘束要請の根拠。一、被害者の胸部から発見された旧式乗車券に、対象者の切符鋏と一致する鋏痕が存在する」


「切符は八年前に鋏を入れられたものです」


 ミラベルが言った。


 グレアムが目を閉じる。


「黙る約束は?」


「重要な条件だったので」


 ハインツはミラベルを制止せず、静かに答えた。


「その鑑定結果は、会社も承知しています。切符鋏が今夜使われたと主張しているのではありません」


「では、なぜ根拠へ?」


 ミラベルが尋ねる。


「対象者が八年前の事故と、今夜の証拠品の双方へ関係することを示すためです」


 言葉は穏当だった。


 だが、関係という一語の中へ、疑いをまとめて押し込んでいる。


 記録係が続きを読む。


「二、対象者は、七号車前方扉の錠を開けられる共通鍵を所持していた」


 セルマが答える。


「封印を破らなければ、鍵は使用できません」


「会社も、その点は認識しています」


 ハインツは言った。


「三、対象者は灰橋発車時、最後尾を目視していないにもかかわらず、確認済みとして乗務記録へ押印した」


 セルマは反論しなかった。


「四、対象者は八年前の事故列車に補助車掌として乗務し、公式記録に存在しない七両目と七名の臨時乗客を認識していた。しかし、当初の事情聴取では、その事実を明らかにしなかった」


「それだけか」


 グレアムが尋ねる。


「会社として確認できる主要項目は以上です」


「動機は書かなかったのか」


「動機は警察が判断する事項です」


「慎重だな」


「一職員の名誉に関わりますので」


 ハインツの答えに、ミラベルの鉛筆が止まった。


 セルマを守ろうとしているようにも聞こえる。


 だが同時に、名誉へ配慮した形式を整えたうえで、身柄だけは警察へ渡そうとしている。


「会社は対象者を犯人と断定しない」


 ハインツは繰り返した。


「ただし、現状のまま任意の待機を続けることは、捜査上も組織管理上も適切ではないと判断します」


「駅からは出していない」


 グレアムが答える。


「警官もつけている」


「任意である以上、本人が退出を求めた場合の法的根拠が弱い」


「そのときは令状を取る」


「逃亡したあとでは遅い」


 ハインツの口調は変わらない。


「また、対象者は乗務記録の作成権限と、鉄道施設への広範な知識を有しています。会社はすでに職務権限を停止し、鍵、通行証、記録印の使用を無効化しました」


 セルマが顔を上げた。


「職務停止?」


「正式な懲戒判断ではありません」


 ハインツは彼女へ向き直った。


「捜査終了までの保全措置です。給与と宿舎資格は維持されます」


「会社へ戻るな、ということですね」


「会社施設へ単独で立ち入らないでください」


「分かりました」


 セルマの声は平坦だった。


「異議は?」


「ありません」


 ハインツは小さく頷いた。


 冷酷な追放ではない。


 法務官が作った、穴の少ない処置。


 だからこそ、セルマ一人の周囲へ壁が作られていく様子が、はっきり見えた。


「警部」


 オズワルドが口を開く。


「会社側の判断は妥当です」


「お前は会社の代表ではない」


 ハインツが、オズワルドを見ずに言った。


「本件において、ケイン管理官も事情聴取対象です。会社としての発言は控えてください」


 オズワルドの口が閉じる。


 これまでセルマへ疑いを向け続けた男まで、会社からは同じく管理対象として扱われていた。


 悪意ではない。


 組織は、責任の線を引こうとしている。


 その線が、現在はセルマの周囲を最も狭く囲んでいるだけだった。


「警部」


 ハインツが改めて言う。


「正式拘束を要請します」


 グレアムは書類を見た。


 古い切符。


 共通鍵。


 八年前の秘密。


 虚偽の確認印。


 どれも事実だった。


 一つずつを並べると、セルマへ向かう道になる。


 切符を切った。


 鍵を持っていた。


 七号車を知っていた。


 最後尾を確認しなかった。


 走行中の列車内を自由に移動できた。


 そして、ダリウスは八年前の事故を再調査していた。


「セルマ」


 グレアムが呼んだ。


「はい」


「ダリウスから、何か接触はあったか」


 セルマは、すぐには答えなかった。


 その間に、会議室の空気が一段冷える。


「ありました」


「いつ」


「灰橋到着前です」


「内容は」


「食堂車の給仕を通じて、伝言を受けました」


「何と」


「ヴェルム=クロウ到着後、八年前の乗車券について話したい、と」


 ミラベルの鉛筆が止まる。


 グレアムの目が細くなった。


「それは初耳だ」


「はい」


「なぜ黙っていた」


「私への動機になると思いました」


「実際、なる」


「分かっています」


「伝言を受けた時刻は」


「給仕から聞いたのは、灰橋発車後です」


 オズワルドが顔を上げる。


「なら、ダリウスは灰橋を出たあとも生きていた」


「違います」


 レオンが言った。


 会議室の視線が集まる。


「伝言を受け取った時刻と、ダリウスが給仕へ伝言を託した時刻は別です」


 記録係が給仕の供述書を確認した。


「給仕がダリウスから伝言を受けたのは、二十時五十五分ごろ。灰橋到着前です。セルマ主任車掌へ伝えたのは、二十一時四十分ごろ」


「つまり」


 グレアムが言う。


「灰橋発車後の生存証明にはならん」


「ですが、セルマは八年前の切符がダリウスの手にあると知った」


 ハインツが静かに指摘する。


「正確には、切符について話したいと聞いただけです」


 レオンが答えた。


「同じことだ」


「同じではありません」


「対象者にとって、過去の秘密が暴かれると考えるには十分でしょう」


「動機の一つにはなり得ます」


「鍵もある。機会もある」


「死亡時刻が、走行中を示すなら」


 レオンの言葉に、ハインツの目が動いた。


「検死官は、死亡から一時間前後と」


「通常の室内環境なら、という第一所見です」


「客車が温かかったことは、すでに考慮されているのでは?」


「十分には」


「根拠は」


「遺体の左右で、温度が大きく違いました」


 レオンは、グレアムを見る。


「検死院から、部位別測定の結果は届いていますか」


「さっき届いた」


 グレアムは、会議卓の端に置かれた封筒を取った。


 グラス=モルグ検死院の認証封。


 ヘルガ=ミュラーの署名。


 まだ誰も開いていない。


「先に会社の要請を片づけるつもりだった」


「拘束の根拠に死亡時刻を使うなら、先に確認すべきです」


「俺へ命令するな」


 グレアムはそう言いながら、封を切った。


 数枚の検死記録。


 部位ごとの温度。


 硬直の進行。


 血液凝固。


 衣服の含水量。


 胃内容物。


 グレアムは最初の頁へ目を走らせる。


 眉間の皺が深くなった。


「何と?」


 ミラベルが尋ねる。


「黙る約束は?」


「顔に書いてあります」


「俺まで使うなと言っただろう」


 グレアムは記録係へ紙を渡した。


「読み上げろ」


「遺体表面温度。検死院搬入直後、再測定」


 記録係が読む。


「左上腕、二十九・八度。左腋窩、三十・四度。左側腹部、二十九・一度。左大腿、二十八・七度」


 次の列。


「右上腕、二十三・二度。右腋窩、二十四・零度。右側腹部、二十二・九度。右大腿、二十二・五度」


 室内が静まる。


「背面中央、二十一・八度」


「左側だけが高い」


 ミラベルが呟いた。


「六度以上」


「衣服の状態」


 記録係が続ける。


「外套および上着左側に、局所的な湿潤。左腰から大腿外側へ水分浸透。血液反応なし。暫定分析では、凝縮水、煤塵、機械油成分を含む可能性」


「蒸気暖房です」


 ボルグが言った。


 彼は壁際で腕を組んでいた。


「古い暖房管から漏れた蒸気が、座席と衣服へ入り込んだ」


「遺体の温かさは、体温ではなかった?」


 セルマが尋ねた。


「全部が体温だったわけではありません」


 レオンが答える。


「生きた身体の内側から残った熱なら、左右でこれほど極端な差は出にくい。背中が右側よりさらに冷たいことも説明しづらい」


 ハインツが、記録係の持つ紙を覗く。


「死亡後、走行中に暖房を受けた可能性もある」


「あります」


 レオンは否定しなかった。


「なら、走行中に殺されたこととは矛盾しない」


「矛盾はしません」


「では、セルマ主任車掌への疑いは変わらない」


「しかし、走行中に殺されたという証明にもなりません」


「硬直や血液状態は」


 記録係が追記部分を読む。


「局所加温が認められるため、体温による死亡時刻推定を撤回。硬直、血液凝固、胃内容物を総合し、死亡は発見時刻の約一時間前から二時間半前の範囲と再推定する」


 死体発見は、二十二時四十四分。


 二時間半前なら、二十時十四分。


 範囲は広い。


 だが、灰橋停車中の二十一時五分から二十一時二十三分が、その中へ入る。


「灰橋で殺された可能性が出た」


 グレアムが言った。


「ええ」


 レオンが答える。


「もちろん、走行中に殺された可能性も残ります」


「死亡時刻が絞れないだけでは?」


 ハインツが尋ねる。


「それだけでも、セルマさんへ集中していた証拠の一つが崩れます」


「走行中の列車内に犯人がいる、という前提か」


「はい」


 レオンは、卓上の拘束要請書を見る。


「この文書は、《走行中の封印客車へ出入りできた者》という条件を、重要な根拠にしています」


「共通鍵は事実だ」


「封印も事実です」


「だから車掌が」


「殺害時に、七号車が封印されていたか分かりません」


 会議室の空気が変わった。


「何だと」


 グレアムが尋ねる。


「死亡時刻が灰橋停車中まで遡るなら、殺害が起きたとき、前方扉に封印が施されていなかった可能性があります」


「封印は、ヴェルム=クロウ到着時まで残っていた」


「いつ施されたかは、まだ分かっていません」


 扉が閉じられていたこと。


 窓が閉じていたこと。


 封印が破られていなかったこと。


 それらは、到着時の事実だった。


 殺害時の事実とは限らない。


 ハインツは、すぐには答えなかった。


 会社の法務官が、小さな声で耳打ちする。


 拘束要請書の根拠が、完全に消えたわけではない。


 だが、先ほどまでのように一直線ではなくなった。


「遺体の左側が温められた原因を確定すべきです」


 レオンが言った。


「到着直後のの現場記録では、左右の暖房管の表面温度に差があった」


「弁はまだ開けていない」


 グレアムが答える。


「現場保存のためです」


「今なら、写真と工具痕を記録したうえで確認できます」


「車両を動かさずに?」


 ボルグが尋ねられる。


「床下へ潜れば主弁は見られる。分岐弁は車内の整備蓋からだ」


「配管は冷えています」


 セルマが言った。


「温度は消えても、弁の位置は残る」


 ボルグは頷いた。


 グレアムは拘束要請書を閉じた。


「判断は保留する」


「警部」


 ハインツが言う。


「対象者の逃亡リスクは」


「警察の監視を継続する。駅からは出さない。会社施設への通行証も無効化済みだろう」


「はい」


「それで十分だ」


「正式拘束でなければ、法的には本人の意思で――」


「出ようとすれば、その時点で令状を取る」


 グレアムの声は低い。


「いま逮捕するには、疑いを一人へ集めすぎている」


「証拠が集まっているのでは?」


「集まったのか、集められたのかを調べる」


 ハインツは、数秒間グレアムを見た。


「会社は、警察の判断へ従います」


「最初から、そうしろ」


「ただし、拘束要請を行った事実は記録へ残してください」


「残す」


「対象者を犯人と断定したものではないことも」


「それも残す」


 ハインツは一礼した。


 会社はセルマを犯人にしようとしたのではない。


 少なくとも、書類の上では。


 証拠が一人へ集中している。


 だから安全のために隔離する。


 名誉へ配慮する。


 給与も維持する。


 罪は警察が判断する。


 すべてが正しい言葉で書かれている。


 正しい言葉だけで、一人の人間を組織の外側へ切り離す文書だった。


     *


 三番線は、会議室より冷えていた。


 硝子屋根の向こうで、空がわずかに灰色へ変わり始めている。


 朝日ではない。


 薄くなった煤霧へ、高炉の火が映っているだけだった。


 七号車の周囲へ、新たな照明灯が置かれる。


 現場係。


 機械鑑定員。


 グレアム。


 レオン。


 ボルグ。


 セルマ。


 鉄道会社側からは、設備確認のためハインツの法務官一名だけが立ち会った。


 オズワルドは参考人として、警官二人の間にいる。


 ミラベルもいた。


 グレアムは許可していない。


 だが、置いてきても必ず来ると判断し、最初から条件をつけた。


「線路へ降りない」


「はい」


「車体へ触れない」


「はい」


「検査員の前へ出ない」


「はい」


「勝手に質問しない」


 ミラベルは少しだけ間を置いた。


「はい」


「その間は何だ」


「努力ではなく、守ると決めました」


「最初からそう言え」


 七号車へ触れる前に、正規客車六両の暖房弁が比較記録された。


 同じ列車で、同じ夜に運行されていた車両。


 同じ機関車から、同じ系統の蒸気を受けていた。


 差を知るには、まず通常の状態を測る必要がある。


 現場係が、一号車床下へ照明を当てる。


 ボルグが弁軸の刻みを読む。


「一号車、主蒸気弁。四分の一開」


 写真。


 記録。


 封印。


「二号車、三分の一開」


「食堂車は高めです」


 セルマが説明する。


「厨房と給湯設備があるため」


「三号車、四分の一弱」


「寝台車は夜間、温度を下げます」


「四号車、四分の一」


「五号車、五分の一」


「六号車」


 郵便・制動車の床下へ、照明が移る。


「主弁、四分の一。後部供給口は開放」


 ミラベルが口を開きかけた。


 グレアムが顔を向ける。


 彼女は閉じた。


 代わりにレオンが尋ねる。


「後部供給口は、七号車へ蒸気を送った接続部ですか」


「そうだ」


 ボルグが答える。


「後ろへ車両を増結した場合、ここから暖房用蒸気が流れる。だが、実際の量は追加車両側の主弁で絞る」


「六号車側は開いていた」


「灰橋の作業員が開けたんだろう。制動管と暖房管を接続しなければ、旅客編成として扱えん」


 レオンは、六号車と七号車の間を見る。


 鉄の連結器だけではない。


 制動管。


 蒸気暖房管。


 標識灯用の配線。


 七号車は、単に後ろへぶら下げられたのではなかった。


 灰橋からヴェルム=クロウまで、《黒梟号》の一部として走るよう接続されていた。


「七号車を確認する」


 グレアムが言った。


 現場係は、床下へ入る前に車体下部を撮影した。


 配管。


 錆。


 煤。


 油の垂れ。


 弁軸。


 止め金。


 工具痕。


 古い傷と新しい傷を区別するため、斜めから照明を当てる。


 ボルグが身体を低くし、床下へ潜った。


「主弁はどこだ」


 グレアムが尋ねる。


「照明を右へ。もう少し奥だ」


 狭い車体下で、鏡が差し込まれる。


 旧式の主蒸気弁。


 円形のハンドルはない。


 取り外し式の鉄柄を、四角い受けへ差し込んで回す形式だった。


 弁軸の根元には、開閉位置を示す刻みがある。


 閉。


 四分の一。


 半分。


 全開。


「写真を撮る」


 閃光粉が焚かれた。


 白い光が床下で弾け、煤けた部品の輪郭が一瞬だけ浮かぶ。


 ボルグが顔を近づけた。


「七号車主蒸気弁」


 声が、床下から低く響く。


「全開だ」


 誰もすぐには話さなかった。


「確かか」


 グレアムが尋ねる。


「弁軸が、全開側の止まり位置まで回っている」


「ほかの六両は、最大でも三分の一だった」


「そうだ」


「保管中に、自然に動いた可能性は」


「ない」


「振動で回ることは」


「止め金がある。しかも、柄を差さなければ回しにくい型だ」


「故障で全開位置へ固着した?」


「固着しているなら、最近動かした跡はつかん」


 機械鑑定員が拡大鏡を当てた。


「弁軸周囲の錆が、一部だけ新しく剥離しています」


「最近、回された?」


「その可能性があります。時期までは断定できません」


「柄受けは」


「角に新しい打痕。工具を差した際についた可能性」


 記録係が書き取る。


 七号車。


 主蒸気弁、全開。


 正規客車六両。


 主蒸気弁、五分の一から三分の一。


 異常は、七号車だけにあった。


「車内の分岐弁も見る」


 ボルグが床下から出る。


 制服の肩へ煤が付着している。


 警察が指定した通路を通り、七号車へ入った。


 個室には、遺体の位置を示す白線だけが残っている。


 左側の座席。


 血の染みた背面。


 乾ききっていない湿り。


 窓硝子へ残る水滴の筋。


 遺体があったころより温度は下がっている。


 それでも左右の違いは、まだ目で確認できた。


 左座席下の整備蓋。


 写真撮影。


 ねじ頭の確認。


 埃の状態。


 封印されていた証拠線を警官が切る。


 蓋を外すと、旧式の分岐弁が現れた。


「触るな」


 グレアムが言う。


「位置だけ読め」


 ボルグが照明を傾ける。


「左側分岐弁」


 刻みを確認する。


「全開」


 記録係のペンが動く。


 反対側。


 右座席下の整備蓋。


 こちらも写真と埃を記録してから外す。


「右側分岐弁」


 ボルグは弁軸へ顔を寄せた。


「閉鎖位置に近い」


「完全に閉じている?」


「わずかに隙間はある。だが錆で固着している。蒸気はほとんど流れなかったはずだ」


「つまり」


 グレアムが、左右の座席を見る。


「七号車へ入った蒸気は、左側へ集中した」


「そうなる」


 ボルグは左の暖房管へ触れず、手を近づけた。


「主弁全開。左も全開。右は閉鎖。走行中、機関車から来た暖房蒸気は左の管へほぼ全部流れた」


「温度は」


「列車運行時の暖房圧なら、素手では触れない。管に漏れがあれば、座席の内側へ蒸気が回る」


 ミラベルが、個室の入口から白線を見る。


「ダリウスの左側は、管の上に置かれていた」


「左腰と左腿が、座席の窓側へ強く寄っていました」


 レオンが言った。


「左腕は、座席背と窓の隙間。背中の中央は座席から少し浮いていた」


「だから左だけ温かく、背中は冷たかった」


 グレアムが言う。


「ええ」


「窓も左だけ曇った」


「座席も左だけ湿った」


「衣服の左側へ凝縮水が入った」


 すべての差が、二つの弁へつながった。


 主弁、全開。


 左分岐、全開。


 右分岐、ほぼ閉鎖。


 偶然にしては、熱が一方向へ集まりすぎている。


「保管中から、この状態だった可能性は」


 ハインツ側の法務官が尋ねた。


「整備規則では、どう扱う」


「保管車両の主蒸気弁を全開にはしない」


 ボルグが答えた。


「内部の水を抜く排水弁とは別だ。主弁を全開のまま接続すれば、一気に蒸気圧がかかる」


「古い車両です。規則どおり保管されていた保証は」


「止め金は生きている。軸にも新しい擦れがある」


「故障では?」


「主弁と左分岐だけが都合よく全開になり、右だけ閉じて固着したと?」


 ボルグの声が低くなる。


「機械は古くなる。壊れもする。だが、目的に合う壊れ方を三つ並べれば、それは故障ではなく操作だ」


 レオンは、工具架へ視線を向けた。


 七号車の発見時に記録された、蒸気弁用の着脱式鉄柄。


 ほかの工具は埃と油膜に覆われている。


 その一本だけ、握り部分の油膜が途切れ、黒い鉄肌が露出していた。


「鉄柄は、まだ鑑定へ回していませんね」


「表面保存のため、そのまま封印している」


 グレアムが答えた。


「指紋、油、血液、付着繊維を調べろ。弁軸の打痕とも比較する」


 現場係が頷いた。


 この時点で、誰が弁を開けたのかは分からない。


 だが、弁が開いていた理由は見え始めていた。


「死体を温めるため」


 ミラベルが言った。


 誰も止めなかった。


「そう考えるのが自然です」


 レオンが答える。


「なぜ温める」


 グレアムが尋ねた。


「新しい死体に見せるためです」


 個室へ、短い沈黙が落ちた。


「温かい死体を見れば」


 レオンは続ける。


「人は、つい先ほどまで生きていたと思う」


「検死官も最初は、一時間前後と推定した」


「その時刻なら、《黒梟号》は灰橋を発車したあとです」


「列車は無停車」


「七号車は封印されている」


「犯人は走行中の列車内にいた者へ絞られる」


「その中でも」


 ミラベルがセルマを見る。


「共通鍵を持つ車掌が、最も疑われる」


 セルマは視線を逸らさなかった。


 自分へ向けて作られた可能性のある道を、最後まで見ている。


「セルマ自身が、そう見せた可能性も残る」


 法務官が言った。


「残ります」


 レオンは否定しない。


「弁を操作する知識も、鍵もある」


「では、拘束要請は妥当だ」


「ただし、遺体を温めた事実は、セルマさんの犯行を証明しません」


「なぜ」


「誰でも同じ効果を狙えます」


「誰でも弁の構造を知っているわけではない」


「八年前の事故記録や車両資料へ触れた者なら、知る機会はあります」


「鉄道職員に限られる」


「補償局、事故調査、監査部門も含まれます」


 法務官は口を閉じた。


 ニコルの爪から採取された黒い樹脂状物質。


 袖口の金属粉。


 破られた手帳。


 それらの鑑定結果は、まだ出ていない。


 今ここで、彼へ結びつけることはできない。


 同じように、セルマへ結びつけることもできない。


「死亡時刻の偽装は確定か」


 グレアムが尋ねる。


「医学的な確定は、ヘルガ先生の判断です」


 レオンが答える。


「ですが、主弁全開、左分岐全開、右分岐閉鎖、左側だけ高温、左側だけ湿潤。この組み合わせに、遺体を局所加温する以外の合理的な目的があるか、機械鑑定で確認すべきです」


「ボルグ」


 グレアムが呼ぶ。


「客車を暖めるだけなら、左だけ全開にする理由は?」


「ない」


「凍結防止なら」


「主弁を低く開け、左右へ均等に流す」


「左管の故障確認なら」


「人が乗っていない保管車を、夜行急行へつないで行う作業ではない」


「では、死体が置かれた位置へ熱を集めるため」


「そう考えるのが一番少ない説明で済む」


 ボルグの答えに、グレアムは頷いた。


「死亡時刻は崩れた」


 彼は言った。


「走行中に殺されたと断定できない」


「ええ」


「灰橋停車中に殺された可能性がある」


「ええ」


「なら、殺害時には扉が封印されていなかった可能性もある」


「あります」


「密室は、殺人のあとで作られた?」


 ミラベルが尋ねた。


 レオンは、すぐには答えなかった。


 七号車が灰橋のどこに置かれていたのか。


 誰が移送を命じたのか。


 封印をいつ施したのか。


 ダリウスは、どうやってその車両へ入ったのか。


 まだ、現場を見ていない。


「その可能性があります」


「また可能性」


「次の現場を見れば、減らせます」


 レオンは、七号車の前方連結器を見る。


「犯人が、走行中の密室へ入ったとは限らない」


「殺したあとで封印した」


「それだけでも足りません」


「何が?」


「この客車を、列車の最後尾へつなぐ必要があります」


 ミラベルの目が動く。


「部屋を列車へ?」


 レオンは答えなかった。


 まえがきで伏せられた核心へ、まだ言葉を与える段階ではない。


 グレアムは外套の襟を直した。


「灰橋へ戻る」


「今から?」


 セルマが尋ねる。


「朝になれば、操車作業が始まる。白灰側線の車輪跡も、作業員の足跡も消える」


「作業停止命令は出しています」


「雨は止められん」


 硝子屋根の向こうで、低い音がした。


 工場の響きか。


 遠い貨物列車か。


 西から近づく雷か。


 煤霧に覆われた空からは判断できない。


「警部」


 ハインツが言った。


「セルマ主任車掌の扱いは」


「逮捕しない」


 グレアムは明言した。


「現時点では」


「正式拘束も?」


「しない。警察の監視下へ置く。駅から出さない。単独行動を認めない。会社施設への権限は、そちらが止めた」


「はい」


「それで十分だ」


「逃亡した場合、会社は責任を」


「警察が負う」


「記録へ残します」


「好きにしろ」


 ハインツは反論しなかった。


「判断の理由も、記録へお願いします」


「死亡時刻を示す主要根拠が、意図的な局所加温によって汚染されていた可能性が高い。走行中の密室殺人という前提が崩れた。セルマだけを正式拘束するには足りない」


「承知しました」


 ハインツはセルマへ向き直る。


「職務停止措置は継続します」


「分かっています」


「警察の許可なく、乗務員や会社記録へ接触しないでください」


「はい」


「会社は、あなたを犯人と断定してはいません」


 セルマは、ほんの少しだけ口元を動かした。


 笑みではなかった。


「それを、何度も言わなければならないんですね」


 ハインツは返答に迷った。


 初めて、この男の整った表情に人間らしい亀裂が入った。


「手続き上、必要です」


「そうでしょうね」


 セルマは七号車の窓を見る。


 八年前にも、同じ型の窓があった。


 そこへ七人を乗せた。


 切符を切った。


 名前を聞いた。


 事故後、確認していない名簿へ印を押し、何も言わなかった。


「私は犯人ではありません」


 セルマは言った。


「ですが、責任がないとも思っていません」


「罪をまとめるな」


 グレアムが答えた。


「過失は過失。記録の虚偽は記録の虚偽。殺人は殺人だ」


「警察は、分けるんですね」


「分けなければ、都合の悪い人間へ全部載せられる」


 セルマは少し目を伏せた。


「八年前にも、そうしてほしかった」


「今夜はする」


 短い答えだった。


 セルマは深く頭を下げなかった。


 列車を送り出すときのように背筋を伸ばし、静かに一礼した。


     *


 現場係が、七号車の蒸気系統を再び封印した。


 弁の位置へ証拠線を巻き、番号札をつける。


 主蒸気弁――全開。


 左側分岐弁――全開。


 右側分岐弁――ほぼ閉鎖。


 正規客車六両の主弁は、五分の一から三分の一。


 全開の車両は、一両もない。


 七号車だけだった。


 ミラベルは手帳へ、個室を左右に分けた図を描いた。


 左側。


 暖房管。


 ダリウスの左半身。


 白く曇った窓。


 湿った座席。


 高い表面温度。


 右側。


 ほぼ閉じた弁。


 乾いた座席。


 薄い曇り。


 低い表面温度。


 背面。


 さらに低い温度。


「死体の温かさが、嘘だった」


 彼女が言った。


「死体は嘘をつきません」


 レオンが答える。


「でも、死亡時刻を偽った」


「偽ったのは、死体を温めた人間です」


「同じことでは?」


「違います」


 レオンは、封印された主弁を見る。


「物は、自分から人を騙しません。温度も、数字も、記録も、そこにあるだけです」


「人が意味をつける」


「ええ」


「温かいから、死んだばかり」


「そう読ませた」


「封印されているから、走行中は誰も入れない」


「そう読ませた」


「切符鋏が同じだから、セルマさんが置いた」


「そう読ませようとした可能性があります」


 ミラベルは手帳の図を見た。


「全部がセルマさんへ向くように」


「まだ断定はできません」


「でも、誰かが物語を作った」


 レオンは七号車の中を見た。


 古い切符。


 原始編成表。


 後付けされた《7》。


 封印された扉。


 温められた死体。


 ひとつずつは物証だった。


 並べれば、八年前の亡霊が走行中の列車へ現れ、秘密を知る車掌が監査官を殺した物語になる。


 あまりにも、読みやすい物語だった。


「犯人は、鍵を隠したのではありません」


 レオンが言った。


「読者へ渡す答えを、先に置いたのかもしれない」


「セルマ車掌が犯人だという答え?」


「ええ」


「では、本当の問いは」


 レオンは、六号車と七号車の連結部を見る。


 鉄の連結器。


 制動管。


 蒸気管。


 標識灯の配線。


 それらは、七号車が列車の一部として走ったことを示している。


 だが、いつから一部だったのかまでは示さない。


「犯人が、封印された部屋へどう入ったかではありません」


「では?」


「殺人が起きたとき、その部屋はどこにあったのか」


 灰橋方面の線路で、早朝貨物列車の汽笛が鳴った。


 グレアムがホームの時計を見る。


 午前四時十八分。


「貨物列車を止めろ」


 駅員へ命じる。


「機関車一両と警察用車両を用意しろ。灰橋へ戻る」


 オズワルドが前へ出ようとする。


「私も同行する。鉄道設備の説明が必要だ」


「お前は来るな」


「私は安全管理官だ」


「今は証拠を回収しようとした参考人だ」


「会社側の立会いが」


「ハインツの部下を一人つける。それで足りる」


 オズワルドの顔が赤くなったが、警官が進路を塞いだ。


「クラウス」


 グレアムが呼ぶ。


「はい」


「お前も来い」


「正式な依頼ですか」


「違う。あとで勝手に嗅ぎ回られるより、目の届くところへ置く」


「合理的ですね」


「褒めていない」


「私は?」


 ミラベルが尋ねる。


「駄目だ」


「灰橋停車中の目撃者です」


「目撃したのは霧だろう」


「連結音も聞きました」


「音だけだ」


「だから、現場で距離を確認できます」


「警察がやる」


「私の手帳には、音を聞いた時刻があります」


「手帳を貸せ」


「書いたときの状況を説明する人も必要です」


「今、説明しろ」


「現場を見れば、追加で思い出すかもしれません」


 グレアムの眉間へ深い皺が刻まれる。


「線路へ降りない」


「はい」


「建物へ勝手に入らない」


「はい」


「何にも触らない」


「はい」


「誰かへ勝手に質問しない」


 ミラベルは一瞬だけ黙った。


「はい」


「今の間は何だ」


「今回は守ります」


「今回は、と言うな」


 グレアムは大きく息を吐いた。


「なぜ俺が、殺人捜査で記者の引率まで」


「レオンさんだけでは不安なんですね」


「お前の引率を、こいつへ任せるのが不安なんだ」


「私も同感です」


 レオンが言った。


「どういう意味です?」


「あなたは私の指示を聞きません」


「警部の指示なら聞くみたいに言わないでください」


「どちらも聞かないだろう!」


 グレアムの声が、夜明け前の駅へ響いた。


 七号車の赤い標識灯が、声に震えるように揺れた。


 列車は六両で出発した。


 七両で到着した。


 温かい死体は、走行中の殺人を示していると思われた。


 だが、その温もりは生命の残り火ではなかった。


 全開にされた主蒸気弁。


 全開にされた左側分岐弁。


 閉ざされた右側分岐弁。


 死者の片側だけへ与えられ続けた、偽りの熱。


 死亡時刻が崩れれば、密室が成立していた時間も崩れる。


 犯人が入れなかったはずの部屋は――


 殺人が起きたときには、まだ封じられていなかったのかもしれない。


 あるいは。


 まだ、列車の一部ですらなかったのかもしれなかった。

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