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第7節 ― 五人の嘘

 嘘は、必ずしも真実の反対側にあるわけではない。


 多くの場合、それは真実の一部分を覆うために置かれる。


 恥を隠す嘘。


 過失を隠す嘘。


 犯罪ではない罪を隠す嘘。


 過去を守るための嘘。


 そして、人を殺した事実を隠す嘘。


 口から出た瞬間、それらを見分けることはできない。


 どの嘘も、同じ言葉で作られるからだ。


 知らない。


 見ていない。


 そこには行っていない。


 私は、何もしていない。


     *


 午前二時十二分。


 ヴェルム=クロウ中央駅の駅長会議室には、灰橋操車場で過ぎた十八分間が、紙の上へ再現されていた。


 壁には大型の運行時刻表。


 その下へ、警察の記録係が細長い紙を何枚も貼りつけている。


 中央には一本の横線。


 左端に、二十一時五分。


 右端に、二十一時二十三分。


 《黒梟号》が灰橋へ到着してから、再び発車するまで。


 横線の下には、五人の名が並んでいた。


 セルマ=ルーク。


 ボルグ=ダイン。


 エリシア=ハルネ。


 オズワルド=ケイン。


 ニコル=ヴェイル。


 各人の名の横には、本人の証言。


 確認された事実。


 確認できない時間。


 そして、証言と事実が食い違う部分が書き加えられていた。


 会議卓の端では、灰橋操車場とつながった鉄道電信機が、休みなく紙帯を吐き出している。


 夜勤の駅員。


 給水作業員。


 郵便係。


 制動検査員。


 操車係。


 貨物事務員。


 眠っていた者まで起こされ、同じ質問へ別々に答えさせられていた。


 誰を見たのか。


 時計を確認したのか。


 音だけを聞いたのか。


 霧の中の人影を、本人だと思い込んでいないか。


 一つの証言を事実に近づけるには、別の人間による二つか三つの確認が必要だった。


 もう一台の気送管から、鉄道中央記録庫の回答が届く。


 グレアムが封筒を開き、短い文面を読んだ。


「八年前の灰橋操車場職員名簿については、すぐには出せんそうだ」


「なぜです?」


 ミラベルが尋ねた。


「事故後に廃止された旧部署の台帳は、中央記録庫の封鎖保管区画へ移されている。開封責任者の立会いと、警察の正式照会印が必要だと」


「今夜中には?」


「無理だ。早くても夜明け以降」


 グレアムは紙を記録係へ渡した。


「編成記録、運行指令、封印材料管理、廃車側線担当。見習いを含む全職員の名を要求し直せ」


「すでに照会印を送っています」


「なら、寝ずに待てと付け加えろ」


「記録庫の職員も人間ですよ」


 ミラベルが言った。


「殺された奴も人間だ」


「それは、そうですが」


「七人消されたかもしれん事故記録も、人間の話だ」


 グレアムは壁の五人を見た。


「言っておく。嘘をついた者が、そのまま殺人犯とは限らん」


「珍しく、探偵のようなことを言いますね」


 ミラベルが答えた。


「警察の仕事だ」


「警察は、嘘をついた人を疑うのでは?」


「疑う」


「今、限らないと」


「疑うことと、犯人に決めることは違う」


 グレアムは五人の名を、順に指した。


「全員、最初の証言で何かを隠した。だが、隠したものが殺人とは限らん。過失かもしれない。窃盗かもしれない。八年前の責任かもしれない」


「同じ言葉でも、守っているものが違う」


 レオンが言った。


「そういうことだ」


「誰から始めます?」


 ミラベルが尋ねる。


「列車の最後尾を、見たことにした車掌からだ」


     *


 セルマは、会議卓の向かい側へ座っていた。


 制帽は膝の上。


 背筋は伸びている。


 グレアムが一枚の運行確認表を机へ置くと、両手の指だけが制帽の縁へ強く食い込んだ。


「《黒梟号・灰橋出発時確認表》」


 グレアムが表題を読む。


「郵便交換完了。給水完了。制動圧再試験、正常。旅客乗車完了」


 太い指が、最後の項目で止まった。


「最後尾標識灯、確認」


 その欄には、黒い印が押されている。


 セルマ=ルーク。


 主任車掌印。


「お前の印だな」


「はい」


「最後尾の赤灯を見た?」


「確認表には、そう記されています」


「紙の話はしていない」


 グレアムの声が低くなった。


「お前の目で見たかと聞いている」


 セルマは数秒黙った。


「見ていません」


 ミラベルの鉛筆が紙を擦る。


「誰かへ確認させた?」


「郵便交換が終わったあと、私自身で最後尾へ行く予定でした」


「だが行かなかった」


「五号車の制動圧が下がりました」


「床下の確認へ回った」


「はい」


「では、なぜ印を押した」


「灰橋発車後、乗務記録を整理したときです」


「見てもいない項目へ?」


「後部担当車掌から異常報告がなかった。操車場側の出発信号も出た。制動圧も再試験で正常へ戻った」


「だから、見たことにした」


「通常運行では、それで処理されます」


 グレアムの眉が動く。


「通常なら?」


「関連する作業が終わり、異常報告がなければ、主任車掌が全項目を一つずつ目視していなくても、確認済みとして記録します」


「便利な確認だな」


「一人の車掌が、同時に列車の前後へ立つことはできません」


「だから、見ていないものを見たと書く?」


「鉄道の運行記録では、個人の目だけを意味しません。乗務班全体として、異常なしと判断したことを示します」


「記録を読む人間には、その違いは分からん」


 セルマは確認表へ視線を落とした。


「ええ」


「最初の事情聴取で、なぜ《最後尾を見ていない》と明言しなかった」


「制動管の確認を優先したとは話しました」


「聞かれなかったから、言わなかった?」


「……はい」


「処分を恐れたか」


「それもあります」


「ほかには」


 セルマの指が、制帽の上で止まる。


「八年前と、同じだったからです」


 室内が静まった。


「八年前も、私は自分の目で確認していない記録へ印を押しました」


 セルマは言った。


「七人へ臨時乗車券を渡したあと、主任車掌から、乗客名簿への転記は済んだと言われた。私は原簿を見ず、済んだものとして乗務記録へ確認印を押しました」


「実際には転記されていなかった」


「事故後に知りました」


「今夜も、誰からも異常報告がないから、最後尾を見たことにした」


「はい」


「同じ過ちを繰り返したと認めたくなかった?」


 セルマは、しばらく答えなかった。


「主任車掌として、あってはならない過失です」


「それを隠した」


「はい」


「七号車の連結を手伝ったわけではない?」


「違います」


「灰橋で、列車後方へ行った?」


「行っていません」


「確認者は」


「郵便係と制動検査員です」


 記録係が、灰橋から届いた電信紙を読み上げた。


「二十一時六分から十四分まで、セルマ主任車掌は六号車の郵便交換を監督。十四分から二十一分まで、五号車床下で制動管の再検査。検査員二名が継続して確認」


「到着直後は」


「六号車の扉と郵便区画を確認。後部担当車掌が姿を見ています」


 グレアムはセルマの時刻線へ書き加えた。


 ――最後尾標識を直接確認せず、確認済みと記録。


 その横へ、


 ――過失を隠す虚偽。


「アリバイができましたか?」


 ミラベルが尋ねた。


「完全ではない」


 グレアムが答える。


「走行中は列車内を移動できた。共通鍵も持つ。切符鋏も一致した」


「でも、灰橋で七号車を準備した時間はない」


「少なくとも、停車中の大部分は確認された」


 セルマが立ち上がる。


「ほかに質問がなければ、待機室へ戻ります」


「警官をつける」


「承知しています」


 扉へ向かうセルマへ、レオンが声をかけた。


「セルマさん」


「何です」


「車掌の確認印は、あなたが見たことではなく、誰からも異常を報告されなかったことを意味する」


「現場では、そうなる場合があります」


「ですが、記録を読む人間は、あなたが最後尾へ立ち、赤灯を見たと考える」


「ええ」


「その差を知っている者なら、見られていない場所を、確認済みの場所へ変えられますね」


 セルマの目が細くなった。


「車掌の実務を知る者なら、思いつくでしょう」


「鉄道職員でなくても?」


「乗務記録を扱う者なら」


 レオンは頷いた。


「分かりました」


 セルマは警官とともに退室した。


     *


 ボルグの証言は、短かった。


 本人が、長く話すことを嫌ったためでもある。


「灰橋で機関車を離れたな」


 グレアムが尋ねる。


「給水塔の補助圧力弁を見に行った」


「二十一時八分ごろ」


「そのくらいだ」


「十三分か十四分には戻った」


「ああ」


「給水作業員が確認している」


「なら聞く必要はないだろう」


「弁だけを見に行ったのか」


 ボルグは黙った。


 グレアムが電信紙を置く。


「灰橋の老整備員は、お前から《まだC―214を残しているのか》と聞かれたと証言した」


「見えたから聞いた」


「霧の中で?」


「給水塔の西側から、白灰側線の作業灯が見えた。車体の一部もな」


「今夜連結されると知っていた?」


「知らん」


「なぜ、あの車両を気にした」


「八年前の事故原本が、灰橋に残っているとダリウスから聞いたからだ」


「ダリウスに脅された?」


「証言を変えろと言われた」


「何を、どう変える」


「会社から加速命令はなかった。主任機関士が独断で速度を上げ、俺も同意したことにしろと」


「死んだ主任機関士へ、もう一度責任を負わせろと?」


「そうだ」


「拒否した」


「当然だ」


「それで、事故原本が本当に残っているか、老整備員へ聞いた」


「そうだ」


「最初の証言で隠した理由は」


「俺が原本を探していたと知れれば、ダリウスを殺す動機にされる」


「実際、動機にはなる」


「だから黙った」


 グレアムは時刻線へ書き込む。


 ――給水塔での作業は確認。


 ――事故原本とC―214について尋ねたことを隠す。


 横へ、


 ――動機を隠す虚偽。


「七号車へは行っていない?」


「行っていない」


「蒸気暖房を扱う知識はある」


「機関士だからな」


「七号車が、遺体を温めるほど熱くなると予測できた?」


「配管の状態を見なければ分からん」


「走行中、異常には気づかなかった?」


「客車一両の暖房変化なら、給水後の圧力変動へ紛れる」


「機関車の記録筒を調べる」


「勝手にしろ」


 ボルグは立ち上がった。


「嘘をついたことは認める」


「殺人は」


「していない」


「ダリウスが死んだと聞いて、どう思った」


 ボルグは扉の前で振り返る。


「自業自得だと思った」


 記録係のペンが止まる。


「だが、そう思うことと殺すことは違う」


「その言葉は記録する」


「好きにしろ」


 ボルグは警官とともに部屋を出た。


     *


 エリシアについては、先ほどの供述を裏づける確認だけが行われた。


 貨物事務室裏口の錠には、押収されたナイフと一致する新しい傷。


 窓下の白灰には、エリシアの靴底と同型の足跡。


 机と棚には、彼女の手袋に残った油分と一致する接触痕。


「二十一時九分に貨物事務室へ入り、十五分前後に出た」


 グレアムが確認する。


「はい」


「ダリウスの鞄を探した」


「はい」


「原始編成表を奪うつもりだった」


「兄の名を確かめるためです」


「窃盗未遂だ」


「分かっています」


「事務室の中で、連結作業の声を聞いた」


「《あと半車》《止まれ》と」


「どの方向から」


「貨物側線です。霧で場所までは見えませんでした」


「事務室を出たあと、石炭箱の陰でダリウスを待った」


「はい」


「ダリウスは見なかった」


「見ていません」


「ニコルは」


「発車直前、列車へ戻る人影を見ました。銀縁眼鏡が灯りを反射したので、そう思っただけです」


「本人だと断定はできない」


「できません」


 グレアムは、彼女の欄へ短く書いた。


 ――不法侵入と窃盗未遂を隠す。


 ――錠傷、靴跡、本人供述が一致。


 横へ、


 ――別の犯罪を隠す虚偽。


「拘束は続ける」


「はい」


「ナイフは返さない」


「必要ありません」


「復讐を諦めた?」


 エリシアは少し考えた。


「兄の名前が戻るまで、ダリウス以外の人間へ罪を増やしたくありません」


「お前自身も含めてか」


「はい」


 退室する前、エリシアはミラベルを見た。


「兄の名前を」


「消していません」


 ミラベルは手帳を見せた。


 リオル=ハルネ。


 そこに確かに書かれている。


 エリシアは小さく頷き、警官とともに部屋を出た。


     *


 オズワルドは、事情聴取用の椅子へ座る前に、座面を一度確かめた。


「ここは役員室ではない」


 グレアムが言う。


「何も言っていない」


「手が言っている」


 オズワルドは手袋を外し、机へ置いた。


「灰橋で、操車場主任と話したな」


「廃検査客車の移送命令についてだ」


「それだけか」


「それだけだ」


「主任は、別の話もしたと証言している」


 電信紙が机へ滑らされる。


「お前は、《灰橋事故の原本がまだ構内へ残っているか》と尋ねた」


 オズワルドは紙を見なかった。


「言葉の解釈だ」


「なら、正確に話せ」


 短い沈黙のあと、オズワルドは口を開いた。


「ダリウスから、事故の原始編成表を持っていると言われていた」


「いつ」


「グラン=レールを出る前だ」


「何を要求された」


「再調査が始まった場合、補償承認経路の一部を対象から外すこと」


「お前の署名がある部分か」


「私だけではない」


「お前の署名は」


「ある」


「七人を含まない補償記録へ?」


「当時、私は下級監査員だった。上から渡された集計へ署名しただけだ」


「それを、今夜まで隠した」


「会社内部の問題だからだ」


「原本を見つけたら、どうするつもりだった」


「本部へ報告する」


「警察ではなく?」


「社内文書だ」


「再び閉鎖するためでは?」


「違う」


「証明は」


 オズワルドは答えなかった。


 グレアムが続ける。


「二十一時十分から十九分まで、操車場主任の詰所にいた。主任と職員三人が確認」


「なら、私には殺せない」


「詰所から白灰側線まで、走っても数分かかる」


「そうだ」


「だが、お前は八年前の証拠を探し、それを隠した」


「殺人とは別だ」


「別かどうかを決めるのは警察だ」


 時刻線へ書き加えられる。


 ――主任詰所での所在は確認。


 ――事故原本を探した事実を隠す。


 横へ、


 ――地位と過去の責任を隠す虚偽。


「お前は殺人犯ではないかもしれん」


 グレアムが言った。


「当然だ」


「だが、何もしていない人間でもない」


「意味を混同するな」


「分けているから、逮捕せずに話を聞いている」


 オズワルドは立ち上がった。


「法務担当者を呼ぶ」


「呼べ。駅からは出すな」


「私を拘束する権限が」


「事故原本を見つけたら会社へ持ち帰るつもりだったと、自分で認めた」


「報告すると言った」


「言葉の選び直しは、記録したあとにしろ」


 オズワルドは何も答えず、退室した。


     *


 四人の事情聴取が終わった時点で、壁には四つの嘘と、その下に隠されていた事実が並んでいた。


 セルマ。


 最後尾を見ていないのに、確認済みの印を押した。


 ボルグ。


 事故原本と保管車両について調べたことを隠した。


 エリシア。


 貨物事務室へ侵入し、ダリウスの鞄を探した。


 オズワルド。


 事故原本を回収しようとしていた。


 どれも望ましい行為ではない。


 過失。


 窃盗未遂。


 証拠隠滅の疑い。


 過去の事故責任。


 だが、それぞれの嘘の下には、現実の痕跡があった。


 見た人間。


 壊された錠。


 靴跡。


 作業記録。


 電信による証言。


 隠していた別の真実が、嘘を支えるように存在していた。


「残りは一人ですね」


 ミラベルが言った。


 グレアムは、壁の一番下を見る。


 ニコル=ヴェイル。


 その欄だけが、ほとんど空白だった。


「呼べ」


     *


 ニコルは会議室へ入ると、最初に壁の時刻表を見た。


 四人分の線。


 四つの追記。


 自分の欄にだけ残る空白。


 すぐに視線を外し、椅子へ座った。


 焦茶色の外套は証拠保全のため警察が預かっている。


 爪の黒い付着物。


 袖口の金属粉。


 灰橋で付いた白灰。


 いずれも鑑定へ回され、まだ結果は出ていなかった。


「同じことを、何度も話しました」


 ニコルが言った。


「同じ質問に、同じ答えが出るか確かめるのが仕事だ」


 グレアムが答える。


「灰橋へ到着後、ダリウスと列車を降りた」


「はい」


「二十一時七分前後」


「そのくらいです」


「貨物側の荷扱い通路へ向かった」


「はい」


「どこで別れた」


「通路の分岐です」


「時刻は」


「二十一時十分ごろ」


「ダリウスの行き先は」


「駅事務室です」


「誰に会うと?」


「聞いていません」


「何をしに」


「事故原本の残りを受け取ると」


「原本の残り?」


「編成表以外にも、臨時乗車記録や補償前の死亡一覧があると言っていました」


「誰が持っている」


「知りません」


「それで、お前は先に列車へ戻った」


「はい」


「到着は二十一時二十一分」


「そのくらいです」


「十一分かかった理由は」


「霧で道を間違えました」


「どこへ出た」


「貨物側線です」


「何が見えた」


「霧と作業灯だけです」


「作業員は」


「何人かいたと思います」


「話しかけた?」


「いいえ」


「誰かに見られた?」


「分かりません」


 グレアムは、灰橋から届いた電信紙を一枚取った。


「駅事務室の当直者は、ダリウスを見ていない」


 ニコルの目が動く。


「裏の職員口から入ったのでは?」


「正面と職員口、どちらも事務机から見える。顔写真も送った。四人全員、見ていないと答えた」


「別の事務室だったのかもしれません」


「貨物事務室にはエリシアがいた。ダリウスはいない」


「操車場主任の詰所は」


「オズワルドと主任、職員三人がいた。そこにも来ていない」


「記録保管室かもしれません」


「最初は駅事務室と言った」


「監査官は、《事務室へ行く》とだけ言いました。私は駅務室だと思ったんです」


「本人の言葉と、お前の推測が混じった?」


「……はい」


「別れるとき、ダリウスがどちらへ進むか見たか」


「駅舎側へ」


「霧へ消えるまで?」


「数歩は」


「その先は」


「見ていません」


 前の証言では、姿が霧へ消えるまで見届けたと答えていた。


 小さな違いだった。


 霧の中で何歩見たか。


 最後まで見たのか。


 途中で背を向けたのか。


 それだけで、殺人を証明することはできない。


「最初の供述では、姿が見えなくなるまで見たと言ったな」


 グレアムが確認する。


「そうだったかもしれません」


「今は数歩だけ?」


「霧が濃かったので、何歩を《見届けた》と呼ぶか……」


「言葉の違いか」


「はい」


 ニコルは眼鏡を直した。


「ダリウスが、途中で行き先を変えた可能性もあります」


「ある」


 グレアムは否定しなかった。


「誰かに呼ばれた可能性も」


「あります」


「七号車へ自分から向かった可能性も」


 ニコルの視線が、わずかに揺れた。


「七号車へ?」


「事故原本が、そこにあると聞いていたなら」


「私は知りません」


「お前が知っていたとは言っていない」


「ですが、私ばかりを」


「最後に同行していたから聞いている」


 ニコルは口を閉じた。


 レオンは、それまで会話へ入らなかった。


 机の端へ指を置き、ニコルの答えを聞いている。


「クラウス」


 グレアムが呼ぶ。


「何かあるか」


「一つだけ」


 レオンがニコルを見る。


「別れたあと、あなたはダリウスの声を聞きましたか」


「いいえ」


「足音は」


「霧と作業音で、分かりませんでした」


「振り返った?」


「一度は」


「ダリウスは見えた?」


「見えませんでした」


「分かりました」


 それだけだった。


 ニコルは、かえって不安そうな表情を浮かべた。


「ほかには?」


「今はありません」


「私の話を信じたんですか」


「信じるかどうかを決める段階ではありません」


「では」


「確認できるかどうかを調べています」


 レオンは壁の時刻線を見た。


「今のところ、あなたの十一分間を裏づける証言はありません」


「霧の操車場です。誰にも会わないことはあります」


「ええ」


「なら、不自然ではない」


「不可能ではありません」


 ニコルの眉が寄る。


「同じ意味でしょう」


「違います」


 それ以上、レオンは説明しなかった。


 グレアムが記録係へ命じる。


「書け」


 ニコルの欄へ、短い文章が加えられた。


 ――二十一時十分ごろ、ダリウスと別れたと証言。


 ――ダリウスは駅事務室へ向かったとするが、各事務室に目撃なし。


 ――ニコルは二十一時二十一分に単独で帰還。


 ――十一分間の行動を確認する第三者なし。


 ――物的痕跡は鑑定中。


「旧人事記録は?」


 レオンが尋ねた。


「夜明けまで出ない」


 グレアムが答えた。


「ニコルさんの商業学校在籍記録は確認中。灰橋操車場の職員台帳は、封鎖保管庫の開封待ちだ」


 ニコルが顔を上げる。


「なぜ、灰橋の職員台帳に私の名を?」


「八年前の関係者を全員確認している」


「私は学生でした」


「なら、名は出ない」


「当然です」


「それを確認するだけだ」


 ニコルは、しばらくグレアムを見ていた。


「戻ってもいいですか」


「別室へ」


「手帳は」


「鑑定へ回している」


「業務上必要です」


「上司は死んだ。今夜の業務は終わりだ」


 ニコルは何も言わず、椅子を立った。


 扉へ向かう途中、自分の時刻線を一度だけ見た。


 二十一時十分。


 二十一時二十一分。


 二つの時刻の間にある、十一分の空白。


 警官とともに退室する。


 扉が閉じた。


     *


「嘘だと思います?」


 ミラベルが尋ねた。


「どの部分を」


 レオンが答える。


「ダリウスが事務室へ行くと言ったこと」


「実際に言ったかもしれません」


「でも、そこへは行かなかった」


「途中で行き先を変えた可能性があります」


「ニコルさんの《見届けた》も、少し変わりました」


「霧の中で数歩見たことを、どう表現するかの違いかもしれない」


「嘘では?」


「まだ、小さな食い違いです」


 ミラベルは壁の五人を見た。


「セルマさんは、確認していないものへ印を押した」


「ボルグさんは、原本を探したことを隠した」


「エリシアさんは、不法侵入を隠した」


「オズワルドさんは、事故記録を回収しようとした」


「ニコルさんは?」


 グレアムが、最後の欄を太い指で叩いた。


「本当だと証明できるものも、嘘だと決められるものも、まだない」


「誰にも見られていない十一分」


「霧の操車場では、あり得ないことではない」


「ダリウスも見つかっていない」


「そうだ」


「では、二人とも同じ空白の中にいた?」


「途中で別れたというのがニコルの証言だ」


「ほかの証人は?」


「いない」


 壁には、五本の時刻線が並んでいる。


 四人の嘘の下には、それぞれ別の真実が見つかった。


 過失。


 違法侵入。


 事故原本の探索。


 証拠を回収しようとした意図。


 それらは殺人ではない。


 だが、無実を意味するものでもない。


 ニコルの欄だけは、まだ空白のままだった。


 ダリウスは駅事務室へ行った。


 誰も見ていない。


 ニコルは霧の中で道を間違えた。


 誰も見ていない。


 その十一分間だけは、証言を支える他人も、物的な跡も見つからなかった。


 小さな空白だった。


 だが、時刻表では一分のずれが列車を衝突させる。


 記録では一行の欠落が、人間を存在しなかったことにする。


 十一分という空白が何を隠しているのか。


 それはまだ、五人の嘘のどこにも書かれていなかった。

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