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第6節 ― 七号車に乗っていた者たち

 午前一時を過ぎても、ヴェルム=クロウ中央駅の灯は消えなかった。


 到着列車は別の番線へ回され、乗客を失った《黒梟号》だけが三番線に残されている。


 先頭では、機関車の火が落とされ始めていた。


 炉から掻き出された石炭殻が、赤い光を放ちながら鉄桶へ落ちる。


 水槽の冷える音。


 弁から漏れる白い蒸気。


 夜間整備員の短い掛け声。


 その最後尾では、編成外車両《C―214》が警察の照明灯に囲まれていた。


 古い木造車体。


 側面へ後付けされた、新しい真鍮の《7》。


 切断された前部封印と、今も残る後部封印。


 ダリウスの遺体は検死院へ運び出されたが、客車そのものは動かされていない。


 死体が消えたあとも、左側の窓には水滴が残っていた。


 白く曇っていた硝子は、上端から少しずつ透明さを取り戻している。


 座席の湿りも、暖房管の熱も、時間とともに失われていく。


 証拠は、そこに置いておくだけで変化する。


 時間に食べられる。


 一方、駅舎二階の一等待合室では、八年前の灰橋事故が、閉じられた記録の中から姿を現そうとしていた。


 公式には六両。


 死者二十二名。


 補償終了。


 記録閉鎖。


 その整然とした数字の外側から、もう一両の客車と、七人の乗客が浮かび上がり始めている。


 最初に口を開いたのは、偽名を使って《黒梟号》へ乗ったエルフの女性だった。


     *


「フィオナ=ファルドという名は、私のものではありません」


 彼女は事情聴取用の椅子へ座り、そう言った。


 深緑色の外套は警察に預けられ、腰へ隠していた小型ナイフも押収されている。


 暗い銀髪が、細い肩へ落ちていた。


 グラン=レールで見たときよりも、小さく見える。


 警官に囲まれて萎縮しているのではない。


 長いあいだ胸の内側へ押し込めていたものを、これから言葉として取り出さなければならない者の姿だった。


 机の向こう側では、グレアムが腕を組んでいる。


 隣には記録係。


 レオンは窓際。


 ミラベルは、今度は椅子を与えられていた。


 ただし、証拠品を置いた長机から最も遠い位置である。


「本名は」


 グレアムが尋ねた。


「エリシア=ハルネ」


「年齢」


「二十九歳」


「出身」


「旧ハルネ領です。今は鉄道会社の採石場になっています」


「偽造身分証は、どこで手に入れた」


「煤霧街区の仲介屋から買いました」


「仲介屋の名は」


「知りません」


「顔は覚えているか」


「はい」


「あとで似顔記録を取る」


 エリシアは頷いた。


「偽名を使った理由は」


「本名では、ダリウス=モーンが乗る列車へ切符を取れなかったからです」


「なぜ、ダリウスがお前の名を知っている」


「灰橋事故の再調査を求める遺族と、あの男は何度も会っています」


「お前も遺族だと?」


「はい」


 記録係のペン先が止まった。


 グレアムは目を細める。


「公式遺族名簿に、ハルネ家はない」


「知っています」


「死者名簿にもない」


「知っています」


 二度目の《知っています》だけ、声が低くなった。


「では、誰を失った」


「兄です」


「名前は」


 エリシアは、すぐには答えなかった。


 名を忘れているのではない。


 口にした名が、再び誰かの紙へ書かれ、再び消されることを恐れているようだった。


「リオル=ハルネ」


 やがて彼女は言った。


「当時二十六歳。線路工事の臨時労働者でした」


 ミラベルの鉛筆が動く。


 リオル=ハルネ。


 一文字ずつ、確かめながら書いた。


「事故列車へ乗っていた証拠は」


 グレアムが尋ねる。


「家を出る朝、兄は灰橋から夜行列車で戻ると言っていました」


「本人の言葉だけか」


「同じ作業班の人からも聞きました。工事が予定より早く終わり、七人が夜行列車へ乗せられたと」


「正式な乗車名簿は」


「ありません」


「切符は」


「会社が用意すると言われたそうです」


「兄本人から聞いたのか」


「いいえ」


 エリシアは机の木目へ目を落とした。


「兄は帰りませんでした」


 待合室の暖炉が小さく爆ぜた。


「事故の翌朝、私は灰橋へ行きました。橋の下には、壊れた客車が落ちていました。線路の周りには靴や鞄、衣服が散らばっていた」


 誰も口を挟まない。


「兄の上着を見つけました」


 彼女の声は静かなままだった。


「採石場で働くときに着ていたものです。右袖へ青い布が縫ってあった。破れたところを私が直しました。何度洗っても白い石の粉が落ちなかった。だから、間違えません」


「遺体は」


「見つからないと言われました」


「事故で損壊した可能性は」


「そう説明されました」


「では、死亡はどう確認された」


「確認されていません」


 エリシアが顔を上げる。


 金色に近い淡い瞳が、グレアムを正面から見た。


「兄は死んだと、口では言われました。でも死亡者名簿にはいない。乗客名簿にもいない。鉄道会社の雇用名簿にも、遺体記録にも、遺留品記録にもいない」


「沿線住民として処理された可能性は」


 レオンが言った。


 エリシアは頷く。


「事故現場付近にいた、身元不明の部外者」


「ええ」


 白い指が、膝の上で強く組まれた。


「事故のあと、灰橋共同墓地へ、名前のない棺が七つ運ばれました」


 室内の空気が硬くなる。


「七つ?」


 グレアムが聞き返した。


「公式死者とは別に?」


「夜明け前です。墓地番の老人が見ていました。鉄道会社の荷車が二台。棺は七つ。埋葬台帳には、《事故現場付近で発見された身元不明者》とだけ記されていました」


「その記録は残っているのか」


「写しを持っています」


 エリシアが外套へ手を伸ばしかける。


 警官が身構えた。


「裏地です」


 彼女は動きを止める。


「左裾に縫い込んであります」


 警官が外套を調べ、小さな油紙包みを取り出した。


 中には、何度も折り畳まれた薄い紙が入っている。


 灰橋共同墓地の埋葬台帳の写し。


 日付は事故の翌日。


 身元不明者、七名。


 埋葬費用支払者の欄には、鉄道会社の下請け業者名が記されていた。


「どこで手に入れた」


「墓地番の孫から買いました」


「原本は」


「二年前、墓地事務所の火事で焼けました」


 壁際にいたオズワルドが低く言う。


「認証印のない写しだ。正式な証拠にはならん」


「あなたの会社は、認証印のある記録を全部六両にしたでしょう」


 エリシアが返した。


 声は大きくない。


 それでもオズワルドの肩が、わずかに後ろへ動いた。


「感情で、書類の価値は変わらない」


「書類で、兄が死んだ事実まで変わったとでも?」


「私は制度上の話をしている」


「私は、人間の話をしています」


 グレアムが手を上げた。


「続きは俺が聞く」


 台帳の写しが証拠袋へ収められる。


「ダリウスとは、いつ接触した」


「半年前です」


「何を言われた」


「事故の原本が見つかるかもしれない。七人の名を、事故記録へ戻せるかもしれないと」


「金を要求されたか」


「最初は調査費として五十クロウ」


「払った?」


「売れるものを売って」


「そのあと」


「さらに二百クロウ」


 ミラベルが顔を上げた。


 下層の臨時労働者にとっては、数年分の蓄えに等しい金額だった。


「払えないので、兄の名前だけでも見せてほしいと頼みました」


「ダリウスは」


「証拠を無料で見せれば、価値が下がると言いました」


 エリシアの口元が歪む。


「死者の名前にも、値段があるそうです」


 グラン=レールのホームで、ダリウスは言っていた。


 世の中に、値段のつかないものはありません。


 ミラベルの耳に、あの穏やかな声が蘇る。


「だから殺したのか」


 グレアムが尋ねた。


「殺そうとは思いました」


 エリシアは否定しなかった。


 警官たちの目が鋭くなる。


「何度も」


 彼女は続ける。


「ナイフも持っていた。今夜、灰橋でダリウスが列車を降りたとき、あとを追おうともしました」


「追わなかった?」


「ニコルが一緒でした」


 少し離れた場所に座るニコルが、顔を上げた。


 先ほど押収された手帳は、警察の証拠保管箱へ移されている。


 彼の膝の上にあるのは、自分の両手だけだった。


「私は駅舎裏へ回りました。ダリウスが戻る通路を探した。でも霧で、何も見えなかった」


「そのあいだ何をした」


「貨物事務室へ入りました」


「無断で?」


「はい」


「目的は」


「ダリウスの鞄です」


 ニコルとオズワルドが、同時に反応した。


「鞄?」


 グレアムが尋ねる。


「ダリウスは灰橋へ降りる前に、原本をどこかへ預けると思っていました」


「なぜ」


「食堂車でニコルへ、《原本を持ち歩くほど愚かではない》と言っているのを聞いたからです」


 ニコルは何か言いかけたが、グレアムに視線で止められた。


「実際には」


「鞄はありませんでした。机と保管棚を探しましたが、原始編成表もなかった」


「職員に見つからなかったのか」


「裏口から入り、数分で出ました」


「ナイフは使った?」


「錠の留め具を外すために」


「血液は」


「ついていません」


 押収されたナイフは、すでに簡易検査を受けている。


 刃から血液反応は出ていなかった。


 グレアムが記録係へ命じる。


「貨物事務室の錠と照合。靴跡も採れ」


「はい」


「ダリウスを最後に見たのは」


「灰橋のホームです。ニコルと一緒に、貨物側線へ歩いていくところ」


「戻る姿は?」


「見ていません」


「七号車の存在は知っていたか」


「今夜、到着するまで知りませんでした」


 エリシアは答え、少しだけ迷った。


「いいえ」


「どちらだ」


「今夜使われた客車《C―214》のことは知りませんでした。ただ、八年前の列車には七両目があったという話を聞いていました」


「誰から」


「兄と同じ作業班の生存者です」


「名は」


「三人いました。二人はすでに亡くなり、一人は北方へ移住したと聞いています」


「あとで全員の名を出せ」


「分かりました」


 グレアムは椅子の背へ寄りかかった。


「お前の証言が事実なら、八年前の事故列車には七人の無登録労働者が乗っていた」


「はい」


「全員が死亡した」


「はい」


「だが、名前は公式記録にない」


「はい」


 エリシアは、今度ははっきりと答えた。


「兄は、あの列車へ乗りました」


 それは証言というより、宣言だった。


「記録にないから、乗っていなかったのではありません。列車へ乗ったあと、記録から消されたんです」


 レオンは、机の上の公式事故報告書を見た。


 客車六両。


 死者二十二名。


 整った数字。


 人は、紙へ書かれたものを事実だと思う。


 だが、エリシアの前では、その数字は七人を押し潰す重石に見えた。


     *


 ボルグ=ダインは、呼ばれてもすぐには椅子へ座らなかった。


 事情聴取室へ入ると、最初に暖炉を見た。


 次に窓。


 そのあと、机の上の事故記録。


 最後に、壁際に立つセルマへ目を向けた。


 二人の視線が合う。


 八年間、同じ事故について語らずにきた者同士の目だった。


「座れ」


 グレアムが言う。


「立ったままでいい」


「俺が見上げることになる」


「いつも見上げているだろう」


「同じドワーフに言われると腹が立つな」


「なら座れ」


 ボルグは重い音を立てて椅子へ腰を下ろした。


 右脚を前へ伸ばす。


「事故の傷か」


 グレアムが尋ねる。


「ああ」


「八年前の灰橋事故」


「あれ以外に、橋から機関車ごと落ちたことはない」


「事故列車の補助機関士だった」


「記録にある」


「公式記録では六両編成だ」


「そう書いてある」


「実際は」


 ボルグは答えなかった。


 グレアムが《原始編成表》を机へ置く。


「七行目がある」


「見える」


「エリシア=ハルネは、七人の臨時労働者が乗っていたと証言した」


「聞いていた」


「お前は知っているのか」


「知っている」


 あまりに短い返答だった。


 セルマが目を閉じる。


 オズワルドが壁から身体を離した。


「ボルグ」


「黙っていろ、ケイン」


「自分が何を認めたか分かっているのか」


「耳は悪くない」


「八年前の公式報告と矛盾する」


「公式報告が間違っている」


 ボルグは、グレアムだけを見た。


「七両だった」


 記録係のペンが、紙を引っ掻く。


「もう一度聞く」


 グレアムが言った。


「事故列車は何両だった」


「機関車一。石炭車一。客車七」


「七号車は」


「古い検査客車だ」


「車体番号は」


「C―207」


 ミラベルの鉛筆が止まった。


「今夜の客車はC―214です」


「あれは別の車両だ」


 ボルグが答える。


「同じ型式ではある。だが、事故で落ちたのはC―207だ」


「確かか」


 グレアムが尋ねる。


「機関士が、自分の後ろへつながれた車両番号を忘れると思うか」


「事故後、C―207は」


「灰橋鉄橋の西側へ落ちた。車体は中央から折れ、火も回った。修理できる状態ではなかった」


「今夜のC―214は」


「同型の検査客車だ。事故後に運用から外され、灰橋の保管側線へ置かれていたのだろう」


「では、八年前の七号車が戻ってきたわけではない」


 レオンが言った。


「そうだ」


 ボルグは頷く。


「今夜の客車は、八年前の一両を真似て作られたものだ」


 亡霊ではない。


 同型の古い客車へ《7》を取り付け、古い切符と原始編成表を置き、八年前の七号車を再現した。


 誰かが意図して。


「八年前、なぜC―207を連結した」


 グレアムが尋ねる。


「工事労働者を運ぶためだ」


「正式な輸送命令は」


「なかった」


「誰の指示だ」


「工事部と運行部だ。遅れていた補修工事を予定日までに終わらせるため、労働者を夜の列車へ乗せた」


「乗客登録は」


「していない」


「なぜ」


「正式契約がなかったからだ」


 ボルグは吐き捨てるように言った。


「会社は工事を急がせた。人手を集めた。だが正式雇用にすれば、賃金基準も、宿舎も、事故補償も必要になる。だから、下請けの臨時手伝いということにした」


「違法輸送だな」


「そうだ」


 オズワルドが口を挟む。


「当時の運行部の決定だ。現場の機関士が知る範囲では――」


「お前は事故後、補償記録を処理した側だ」


 ボルグが振り向く。


「上から渡された報告へ署名しただけだ」


「その署名で七人が消えた」


「私一人の判断ではない」


「だから、罪も分ければ小さくなるのか」


「感情論はやめろ」


 ボルグの拳が机を叩いた。


 厚い木板が揺れ、記録係のインク瓶が倒れかける。


「感情ではない!」


 機関車の炉前で聞いた声より大きかった。


「俺は七両を引いた。重量も知っていた。制動距離も知っていた。霧が出れば危険だと報告した。それでも、遅れを取り戻せと命令された!」


 右脚を伸ばしたまま立ち上がろうとし、痛みに顔を歪める。


 それでも、すぐには座らなかった。


「橋の手前で信号が遅れた。主任機関士が制動をかけた。だが止まりきれなかった。七両だったからだ。報告書にある六両の重量で計算すれば、制動開始が遅すぎたように見える。だから全部、俺たちの速度超過にされた!」


「座れ」


 グレアムが低く命じる。


 ボルグは荒い呼吸のまま、椅子へ戻った。


「事故直後、七号車はどうなった」


「橋の西側へ落ちた」


「乗客は」


「全員死んだ」


「確認したのか」


「俺が見た」


 ボルグの声から怒りが消えた。


 代わりに、もっと重いものが残る。


「機関車から投げ出され、脚を車輪へ挟まれた。動けなかった。橋の下で、C―207が燃えるのを見ていた」


 暖炉の火が、彼の瞳へ映る。


「屋根は潰れていた。窓から手が出ていた。中から声も聞こえた。だが蒸気管が破れ、火と熱湯で近づけなかった」


 セルマが唇を噛んだ。


「中には七人?」


「七人だ」


「顔は覚えているか」


「全部は」


 ボルグは目を閉じる。


「年嵩のドワーフが二人。ヒューマの男が三人。エルフの若い男が一人」


 エリシアの肩が震えた。


「それと、若いヒューマの女」


 ニコルの指が、膝の上でわずかに組み替えられた。


 それだけだった。


「女の人?」


 ミラベルが尋ねる。


「二十代半ばくらいだった。灰色の作業服で、首に青い襟巻きを巻いていた」


 その言葉のあと、ニコルの指先が一度だけ襟元へ触れた。


 霧の冷たさを思い出しただけにも見えた。


 誰も何も言わない。


 レオンだけが、その小さな仕草を記憶した。


「名前は」


 グレアムが尋ねる。


「知らない」


「乗車券は」


「セルマが渡した」


 全員の視線が、壁際のセルマへ向く。


 彼女はゆっくりと前へ出た。


「規則外の臨時券です」


 初めて、自分から七号車について語った。


「無記名の予備乗車券へ、出発地と到着地を手書きしました」


「七枚?」


「七枚です」


「なぜ正規券を発行しなかった」


「正式な乗客登録がなかったからです」


「それでも乗せた」


「灰橋に残せば、翌朝まで宿もありませんでした」


 セルマの声は硬かった。


「工事監督は、会社の指示だから乗せろと言った。主任車掌は、空いている客車があるなら積めと言った」


「積め?」


 ミラベルが聞き返す。


「人を荷物のように?」


 セルマの目が揺れる。


「その言葉を使ったのは、私ではありません」


「でも、従った」


「当時の私は二十九歳でした」


 セルマは言った。


「未成年でも、新任でもない。何が正しいか判断できる年齢でした」


 自分で逃げ道を塞ぐような言葉だった。


「年齢のせいにはできません。上司の命令だったからとも言えない。乗せたのは私です。臨時券を切ったのも私です。そして、事故のあと、七号車が記録から消えることへ異議を申し立てなかった」


 彼女は机の上の古い乗車券を見た。


 ダリウスの胸から出た一枚。


「七人は、切符を欲しがりました」


「なぜです?」


 ミラベルが尋ねる。


「自分たちが乗客だという証明になると思ったからです」


「補償のため?」


「それもあります」


「ほかには」


「検札を受けたとき、無断で乗り込んだ者ではないと示すためです」


 セルマは自分の右手を見た。


 八年前、切符鋏を握っていた手。


「私は七枚を切りました」


 ぱちん。


 小さな音を、彼女は今も覚えているのだろう。


「一枚ずつ、名前を聞きながら」


 ミラベルが鉛筆を構えた。


「覚えていますか」


「全員は」


「一人でも」


 セルマは目を閉じた。


「リオル=ハルネ」


 エリシアが息を呑んだ。


 セルマは彼女を見る。


「細身のエルフでした。右袖に青い布が縫ってあった。右手に白い石の粉がついていた」


 エリシアの両手が口元へ上がる。


「妹がいると言っていました」


 肩が一度、大きく震えた。


 泣き声は出ない。


「兄です」


 掠れた声だった。


「その人が、兄です」


 セルマは目を伏せる。


「すみません」


「謝らないでください」


「私は――」


「今は、謝らないで」


 エリシアは涙を拭かなかった。


「名前を言ってください」


「え?」


「もう一度」


 セルマは顔を上げる。


「リオル=ハルネ」


 ミラベルが手帳へ書いた。


 先ほどよりも濃い線で。


 リオル=ハルネ。


 紙の上に、兄の名前が残る。


 公式名簿ではない。


 死亡証明でもない。


 新聞記事でもない。


 それでも、八年間どこにも書かれなかった名が、もう一度、他人の手によって記録された。


「兄は、本当に乗っていた」


 エリシアが言った。


「はい」


 セルマが答える。


「私は、あなたのお兄さんへ切符を渡しました」


 エリシアは目を閉じた。


 悲しみが消えたわけではない。


 兄が戻ったわけでもない。


 だが、兄を待ち続けた自分の記憶が、初めて他人の記憶とつながった。


 兄はいた。


 列車へ乗った。


 切符を受け取った。


 そして死んだ。


 少なくとも、もう《妹の思い違い》ではなかった。


「ほかの名は」


 グレアムが静かに尋ねた。


「ゴルド=マイン」


 セルマは、一つずつ記憶を探した。


「ベック=ラウ。サディア=ネイル……」


 記録係が書き取る。


「残りは」


「顔と名前が混ざっています。間違った名を記録へ残したくありません」


「若い女性は」


 ボルグが尋ねた。


 セルマの表情が強張る。


「名前の最初は、ミだったと思います」


 ニコルの視線が、ごくわずかに机へ落ちた。


 呼吸が乱れたわけではない。


 手を滑らせたわけでもない。


 同じ姓が出ることを予想しているようにも、単に話の続きを待っているようにも見えた。


「ミラ」


 セルマが言った。


「ミラ=ヴェイル」


 部屋の中で、ペンの音だけが止まった。


 グレアムがニコルを見る。


「お前と同じ姓だな」


「ヴェイルという姓は、珍しくありません」


 返答は静かだった。


「知り合いか」


「いいえ」


「親族では」


 ニコルは一拍だけ置いた。


「違います」


 速すぎる否定ではなかった。


 だが、迷いのない答えでもなかった。


「ミラ=ヴェイルという名を、以前に聞いたことは?」


「ありません」


「八年前の灰橋事故については」


「公式記録で知る範囲だけです」


「七号車の存在も」


「今夜、初めて聞きました」


 レオンは、ニコルの顔を見た。


 驚愕はない。


 露骨な恐怖もない。


 ただ、ミラの名を聞いてから、視線が一度もセルマへ戻らなかった。


 それが記憶を隠す者の反応なのか。


 同じ姓を持つ他人の死を、不快に感じただけなのか。


 今は区別できない。


「当時、お前は何をしていた」


 グレアムが尋ねる。


「学生です」


「どこの」


「グラン=レール商業学校」


「年齢は二十三か」


「はい」


「卒業記録を確認する」


「どうぞ」


「住居記録も」


「構いません」


「家族記録も照合する」


 ニコルの指が、膝の上で一度だけ組み直された。


「必要な範囲でお願いします」


 それ以上、抵抗はしなかった。


 手帳を押収されたときとは違う。


 同じ姓だけで追及されても、反論の余地があると考えているようだった。


「八年前の所属記録については、すでに照会を出している」


 グレアムが言った。


「ただし、灰橋操車場の旧人事台帳は封鎖保管庫にある。回答は夜明け以降になるそうだ」


「灰橋の人事記録と、私に何の関係が?」


 ニコルが尋ねる。


「あるかどうかを調べる」


「私は学生でした」


「なら、台帳に名はない」


「ええ」


「確認すれば済む」


 ニコルは、それ以上答えなかった。


 レオンも追わなかった。


 いま必要なのは、ニコルを犯人に決めることではない。


 八年前に七人が存在したと、複数の記憶と記録で確かめることだった。


     *


「残る名を、思い出せるか」


 グレアムがセルマへ尋ねた。


「時間をください」


「なぜだ」


「間違えたくありません」


 セルマは古い乗車券を見た。


「八年前、私は七枚を切りました。でも事故のあと、臨時乗車券の控えはすべて回収された」


「誰に」


「事故調査部です」


「担当者は」


 セルマの視線が、オズワルドへ向く。


「彼の上司でした」


 オズワルドの顔が固まった。


「私は現場回収班ではない」


「補償記録の整理には立ち会ったでしょう」


「上から渡された名簿を処理しただけだ」


「七人の名はなかった?」


「なかった」


「臨時券の控えも?」


「見ていない」


「私が提出した七枚の控えは、どこへ行ったんです」


「知らん」


「知らないまま、六両の報告へ署名した?」


「事故現場の混乱で、書類が紛失することはある」


「七人の名は、紛失してよい書類ですか」


 セルマの問いに、オズワルドは答えなかった。


 ボルグが低く笑う。


 笑いというより、錆びた金属が擦れた音だった。


「八年経っても同じだな」


「何が」


「書いていないから知らない。なくなったから存在しない。署名しただけだから責任はない」


「私は規則に従った」


「セルマも従った。俺も従った」


 ボルグは、自分の右脚を叩いた。


「結果が、これだ」


 グレアムが立ち上がる。


「八年前の灰橋事故について、鉄道会社の保管記録をすべて押さえる」


「待て」


 オズワルドが言った。


「閉鎖事故記録には、会社機密が含まれている」


「殺人事件の証拠だ」


「裁判所の命令が必要になる」


「夜明けと同時に取る」


「会社法務部への事前通知が」


「先に知らせて、都合の悪い書類を移す時間を与えろと?」


「鉄道会社を犯罪組織のように扱うのか」


「七人を記録から消した会社を、何と呼べば満足だ」


 グレアムの声は低かった。


 オズワルドは押し黙る。


「事故原本。臨時乗車券の控え。埋葬費用。無登録労働者の輸送命令。補償処理記録。全部だ」


 記録係が項目を書き取る。


「灰橋操車場の、八年前の職員名簿も」


 レオンが言った。


 ニコルは顔を動かさなかった。


「編成記録係、運行指令係、封印材料の管理担当、廃車側線担当」


「見習いも含めて」


 グレアムが付け加える。


 記録係のペンが走った。


「分かった。旧台帳の開封命令も取る」


 ニコルが静かに尋ねた。


「いつまで、ここにいればよいんですか」


「灰橋停車中の行動確認が終わるまでだ」


「私は逮捕されている?」


「されていない」


「なら、帰宅は」


「殺人事件の重要参考人として、任意同行を求めている」


「拒否した場合は?」


「令状を取る」


 ニコルは、疲れたように目を閉じた。


「分かりました」


 それだけだった。


     *


 事情聴取が一度中断され、関係者が別室へ分けられていく。


 エリシアは窓際へ立っていた。


 涙はすでに拭われている。


 手には何もない。


 それでも、先ほどより確かな何かを持っているように見えた。


 リオル=ハルネ。


 セルマが覚えていた兄の名前。


 公式名簿にはない。


 死亡証明書にもない。


 補償台帳にもない。


 だが、少なくとも三人の記憶の中には残っていた。


 妹。


 切符を切った車掌。


 事故車を見た機関士。


「ミラベルさん」


 エリシアが呼んだ。


「はい」


「今、兄の名前を書きましたね」


 ミラベルは手帳を開いた。


 リオル=ハルネ。


「書きました」


「消しませんか」


「消しません」


「新聞へ載らなくても?」


 ミラベルの指が、手帳の縁へ触れる。


 署名なき死体事件の記事。


 掲載されなかった名。


 削られた事実。


「新聞へ載るかどうかとは別に、私の取材記録には残します」


「それでは、公的な記録にはならない」


「まだ、です」


 ミラベルは答えた。


「原始編成表が本物だと確認されれば、警察の証拠記録へ入る。埋葬台帳の写しも調べられる。セルマさんとボルグさんの証言も残る」


「それでも消されたら?」


 ミラベルはすぐには答えなかった。


 簡単に《消させない》と言えば、嘘になる。


 新聞社は記事を削る。


 会社は記録を閉じる。


 警察も裁判所も、常に正しいわけではない。


「一つの記録なら、消されるかもしれません」


 彼女は言った。


「でも、同じ名前を別々の場所へ残すことはできます」


 手帳を示す。


「ここにも」


 警察の記録係が使っていた机を見る。


「警察にも」


 原始編成表の入った証拠箱を見る。


「八年前の紙にも」


 そして、エリシアを見る。


「あなたの記憶にも」


 エリシアは、ゆっくり頷いた。


 兄は列車へ乗っていた。


 切符を受け取った。


 事故で死んだ。


 紙の上では消されていても、証言は同じ一両へ集まり始めている。


 七号車は、もう噂ではなかった。


 乗っていた者がいた。


 切符を渡した者がいた。


 列車を引いた者がいた。


 死んだ者を待ち続けた者がいた。


 そして、セルマが読み上げた七人の中に、自分と同じ姓を持つ名があったとき。


 ニコル=ヴェイルは、初めて聞いたと答えた。


 その答えが嘘かどうかは、まだ分からない。


 同じ姓に驚いただけかもしれない。


 偶然、視線を伏せただけかもしれない。


 青い襟巻きへ、何か個人的な記憶があったのかもしれない。


 レオンは、そこへ結論を置かなかった。


 ただ、小さな違和感として記憶した。


 八年前の七号車へ乗っていた七人は、いま初めて存在を証明し始めたばかりだった。


 誰が、その名を知っていたのか。


 誰が知らないふりをしているのか。


 それを決めるには、まだ証言ではなく――記録が必要だった。

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