第6節 ― 七号車に乗っていた者たち
午前一時を過ぎても、ヴェルム=クロウ中央駅の灯は消えなかった。
到着列車は別の番線へ回され、乗客を失った《黒梟号》だけが三番線に残されている。
先頭では、機関車の火が落とされ始めていた。
炉から掻き出された石炭殻が、赤い光を放ちながら鉄桶へ落ちる。
水槽の冷える音。
弁から漏れる白い蒸気。
夜間整備員の短い掛け声。
その最後尾では、編成外車両《C―214》が警察の照明灯に囲まれていた。
古い木造車体。
側面へ後付けされた、新しい真鍮の《7》。
切断された前部封印と、今も残る後部封印。
ダリウスの遺体は検死院へ運び出されたが、客車そのものは動かされていない。
死体が消えたあとも、左側の窓には水滴が残っていた。
白く曇っていた硝子は、上端から少しずつ透明さを取り戻している。
座席の湿りも、暖房管の熱も、時間とともに失われていく。
証拠は、そこに置いておくだけで変化する。
時間に食べられる。
一方、駅舎二階の一等待合室では、八年前の灰橋事故が、閉じられた記録の中から姿を現そうとしていた。
公式には六両。
死者二十二名。
補償終了。
記録閉鎖。
その整然とした数字の外側から、もう一両の客車と、七人の乗客が浮かび上がり始めている。
最初に口を開いたのは、偽名を使って《黒梟号》へ乗ったエルフの女性だった。
*
「フィオナ=ファルドという名は、私のものではありません」
彼女は事情聴取用の椅子へ座り、そう言った。
深緑色の外套は警察に預けられ、腰へ隠していた小型ナイフも押収されている。
暗い銀髪が、細い肩へ落ちていた。
グラン=レールで見たときよりも、小さく見える。
警官に囲まれて萎縮しているのではない。
長いあいだ胸の内側へ押し込めていたものを、これから言葉として取り出さなければならない者の姿だった。
机の向こう側では、グレアムが腕を組んでいる。
隣には記録係。
レオンは窓際。
ミラベルは、今度は椅子を与えられていた。
ただし、証拠品を置いた長机から最も遠い位置である。
「本名は」
グレアムが尋ねた。
「エリシア=ハルネ」
「年齢」
「二十九歳」
「出身」
「旧ハルネ領です。今は鉄道会社の採石場になっています」
「偽造身分証は、どこで手に入れた」
「煤霧街区の仲介屋から買いました」
「仲介屋の名は」
「知りません」
「顔は覚えているか」
「はい」
「あとで似顔記録を取る」
エリシアは頷いた。
「偽名を使った理由は」
「本名では、ダリウス=モーンが乗る列車へ切符を取れなかったからです」
「なぜ、ダリウスがお前の名を知っている」
「灰橋事故の再調査を求める遺族と、あの男は何度も会っています」
「お前も遺族だと?」
「はい」
記録係のペン先が止まった。
グレアムは目を細める。
「公式遺族名簿に、ハルネ家はない」
「知っています」
「死者名簿にもない」
「知っています」
二度目の《知っています》だけ、声が低くなった。
「では、誰を失った」
「兄です」
「名前は」
エリシアは、すぐには答えなかった。
名を忘れているのではない。
口にした名が、再び誰かの紙へ書かれ、再び消されることを恐れているようだった。
「リオル=ハルネ」
やがて彼女は言った。
「当時二十六歳。線路工事の臨時労働者でした」
ミラベルの鉛筆が動く。
リオル=ハルネ。
一文字ずつ、確かめながら書いた。
「事故列車へ乗っていた証拠は」
グレアムが尋ねる。
「家を出る朝、兄は灰橋から夜行列車で戻ると言っていました」
「本人の言葉だけか」
「同じ作業班の人からも聞きました。工事が予定より早く終わり、七人が夜行列車へ乗せられたと」
「正式な乗車名簿は」
「ありません」
「切符は」
「会社が用意すると言われたそうです」
「兄本人から聞いたのか」
「いいえ」
エリシアは机の木目へ目を落とした。
「兄は帰りませんでした」
待合室の暖炉が小さく爆ぜた。
「事故の翌朝、私は灰橋へ行きました。橋の下には、壊れた客車が落ちていました。線路の周りには靴や鞄、衣服が散らばっていた」
誰も口を挟まない。
「兄の上着を見つけました」
彼女の声は静かなままだった。
「採石場で働くときに着ていたものです。右袖へ青い布が縫ってあった。破れたところを私が直しました。何度洗っても白い石の粉が落ちなかった。だから、間違えません」
「遺体は」
「見つからないと言われました」
「事故で損壊した可能性は」
「そう説明されました」
「では、死亡はどう確認された」
「確認されていません」
エリシアが顔を上げる。
金色に近い淡い瞳が、グレアムを正面から見た。
「兄は死んだと、口では言われました。でも死亡者名簿にはいない。乗客名簿にもいない。鉄道会社の雇用名簿にも、遺体記録にも、遺留品記録にもいない」
「沿線住民として処理された可能性は」
レオンが言った。
エリシアは頷く。
「事故現場付近にいた、身元不明の部外者」
「ええ」
白い指が、膝の上で強く組まれた。
「事故のあと、灰橋共同墓地へ、名前のない棺が七つ運ばれました」
室内の空気が硬くなる。
「七つ?」
グレアムが聞き返した。
「公式死者とは別に?」
「夜明け前です。墓地番の老人が見ていました。鉄道会社の荷車が二台。棺は七つ。埋葬台帳には、《事故現場付近で発見された身元不明者》とだけ記されていました」
「その記録は残っているのか」
「写しを持っています」
エリシアが外套へ手を伸ばしかける。
警官が身構えた。
「裏地です」
彼女は動きを止める。
「左裾に縫い込んであります」
警官が外套を調べ、小さな油紙包みを取り出した。
中には、何度も折り畳まれた薄い紙が入っている。
灰橋共同墓地の埋葬台帳の写し。
日付は事故の翌日。
身元不明者、七名。
埋葬費用支払者の欄には、鉄道会社の下請け業者名が記されていた。
「どこで手に入れた」
「墓地番の孫から買いました」
「原本は」
「二年前、墓地事務所の火事で焼けました」
壁際にいたオズワルドが低く言う。
「認証印のない写しだ。正式な証拠にはならん」
「あなたの会社は、認証印のある記録を全部六両にしたでしょう」
エリシアが返した。
声は大きくない。
それでもオズワルドの肩が、わずかに後ろへ動いた。
「感情で、書類の価値は変わらない」
「書類で、兄が死んだ事実まで変わったとでも?」
「私は制度上の話をしている」
「私は、人間の話をしています」
グレアムが手を上げた。
「続きは俺が聞く」
台帳の写しが証拠袋へ収められる。
「ダリウスとは、いつ接触した」
「半年前です」
「何を言われた」
「事故の原本が見つかるかもしれない。七人の名を、事故記録へ戻せるかもしれないと」
「金を要求されたか」
「最初は調査費として五十クロウ」
「払った?」
「売れるものを売って」
「そのあと」
「さらに二百クロウ」
ミラベルが顔を上げた。
下層の臨時労働者にとっては、数年分の蓄えに等しい金額だった。
「払えないので、兄の名前だけでも見せてほしいと頼みました」
「ダリウスは」
「証拠を無料で見せれば、価値が下がると言いました」
エリシアの口元が歪む。
「死者の名前にも、値段があるそうです」
グラン=レールのホームで、ダリウスは言っていた。
世の中に、値段のつかないものはありません。
ミラベルの耳に、あの穏やかな声が蘇る。
「だから殺したのか」
グレアムが尋ねた。
「殺そうとは思いました」
エリシアは否定しなかった。
警官たちの目が鋭くなる。
「何度も」
彼女は続ける。
「ナイフも持っていた。今夜、灰橋でダリウスが列車を降りたとき、あとを追おうともしました」
「追わなかった?」
「ニコルが一緒でした」
少し離れた場所に座るニコルが、顔を上げた。
先ほど押収された手帳は、警察の証拠保管箱へ移されている。
彼の膝の上にあるのは、自分の両手だけだった。
「私は駅舎裏へ回りました。ダリウスが戻る通路を探した。でも霧で、何も見えなかった」
「そのあいだ何をした」
「貨物事務室へ入りました」
「無断で?」
「はい」
「目的は」
「ダリウスの鞄です」
ニコルとオズワルドが、同時に反応した。
「鞄?」
グレアムが尋ねる。
「ダリウスは灰橋へ降りる前に、原本をどこかへ預けると思っていました」
「なぜ」
「食堂車でニコルへ、《原本を持ち歩くほど愚かではない》と言っているのを聞いたからです」
ニコルは何か言いかけたが、グレアムに視線で止められた。
「実際には」
「鞄はありませんでした。机と保管棚を探しましたが、原始編成表もなかった」
「職員に見つからなかったのか」
「裏口から入り、数分で出ました」
「ナイフは使った?」
「錠の留め具を外すために」
「血液は」
「ついていません」
押収されたナイフは、すでに簡易検査を受けている。
刃から血液反応は出ていなかった。
グレアムが記録係へ命じる。
「貨物事務室の錠と照合。靴跡も採れ」
「はい」
「ダリウスを最後に見たのは」
「灰橋のホームです。ニコルと一緒に、貨物側線へ歩いていくところ」
「戻る姿は?」
「見ていません」
「七号車の存在は知っていたか」
「今夜、到着するまで知りませんでした」
エリシアは答え、少しだけ迷った。
「いいえ」
「どちらだ」
「今夜使われた客車《C―214》のことは知りませんでした。ただ、八年前の列車には七両目があったという話を聞いていました」
「誰から」
「兄と同じ作業班の生存者です」
「名は」
「三人いました。二人はすでに亡くなり、一人は北方へ移住したと聞いています」
「あとで全員の名を出せ」
「分かりました」
グレアムは椅子の背へ寄りかかった。
「お前の証言が事実なら、八年前の事故列車には七人の無登録労働者が乗っていた」
「はい」
「全員が死亡した」
「はい」
「だが、名前は公式記録にない」
「はい」
エリシアは、今度ははっきりと答えた。
「兄は、あの列車へ乗りました」
それは証言というより、宣言だった。
「記録にないから、乗っていなかったのではありません。列車へ乗ったあと、記録から消されたんです」
レオンは、机の上の公式事故報告書を見た。
客車六両。
死者二十二名。
整った数字。
人は、紙へ書かれたものを事実だと思う。
だが、エリシアの前では、その数字は七人を押し潰す重石に見えた。
*
ボルグ=ダインは、呼ばれてもすぐには椅子へ座らなかった。
事情聴取室へ入ると、最初に暖炉を見た。
次に窓。
そのあと、机の上の事故記録。
最後に、壁際に立つセルマへ目を向けた。
二人の視線が合う。
八年間、同じ事故について語らずにきた者同士の目だった。
「座れ」
グレアムが言う。
「立ったままでいい」
「俺が見上げることになる」
「いつも見上げているだろう」
「同じドワーフに言われると腹が立つな」
「なら座れ」
ボルグは重い音を立てて椅子へ腰を下ろした。
右脚を前へ伸ばす。
「事故の傷か」
グレアムが尋ねる。
「ああ」
「八年前の灰橋事故」
「あれ以外に、橋から機関車ごと落ちたことはない」
「事故列車の補助機関士だった」
「記録にある」
「公式記録では六両編成だ」
「そう書いてある」
「実際は」
ボルグは答えなかった。
グレアムが《原始編成表》を机へ置く。
「七行目がある」
「見える」
「エリシア=ハルネは、七人の臨時労働者が乗っていたと証言した」
「聞いていた」
「お前は知っているのか」
「知っている」
あまりに短い返答だった。
セルマが目を閉じる。
オズワルドが壁から身体を離した。
「ボルグ」
「黙っていろ、ケイン」
「自分が何を認めたか分かっているのか」
「耳は悪くない」
「八年前の公式報告と矛盾する」
「公式報告が間違っている」
ボルグは、グレアムだけを見た。
「七両だった」
記録係のペンが、紙を引っ掻く。
「もう一度聞く」
グレアムが言った。
「事故列車は何両だった」
「機関車一。石炭車一。客車七」
「七号車は」
「古い検査客車だ」
「車体番号は」
「C―207」
ミラベルの鉛筆が止まった。
「今夜の客車はC―214です」
「あれは別の車両だ」
ボルグが答える。
「同じ型式ではある。だが、事故で落ちたのはC―207だ」
「確かか」
グレアムが尋ねる。
「機関士が、自分の後ろへつながれた車両番号を忘れると思うか」
「事故後、C―207は」
「灰橋鉄橋の西側へ落ちた。車体は中央から折れ、火も回った。修理できる状態ではなかった」
「今夜のC―214は」
「同型の検査客車だ。事故後に運用から外され、灰橋の保管側線へ置かれていたのだろう」
「では、八年前の七号車が戻ってきたわけではない」
レオンが言った。
「そうだ」
ボルグは頷く。
「今夜の客車は、八年前の一両を真似て作られたものだ」
亡霊ではない。
同型の古い客車へ《7》を取り付け、古い切符と原始編成表を置き、八年前の七号車を再現した。
誰かが意図して。
「八年前、なぜC―207を連結した」
グレアムが尋ねる。
「工事労働者を運ぶためだ」
「正式な輸送命令は」
「なかった」
「誰の指示だ」
「工事部と運行部だ。遅れていた補修工事を予定日までに終わらせるため、労働者を夜の列車へ乗せた」
「乗客登録は」
「していない」
「なぜ」
「正式契約がなかったからだ」
ボルグは吐き捨てるように言った。
「会社は工事を急がせた。人手を集めた。だが正式雇用にすれば、賃金基準も、宿舎も、事故補償も必要になる。だから、下請けの臨時手伝いということにした」
「違法輸送だな」
「そうだ」
オズワルドが口を挟む。
「当時の運行部の決定だ。現場の機関士が知る範囲では――」
「お前は事故後、補償記録を処理した側だ」
ボルグが振り向く。
「上から渡された報告へ署名しただけだ」
「その署名で七人が消えた」
「私一人の判断ではない」
「だから、罪も分ければ小さくなるのか」
「感情論はやめろ」
ボルグの拳が机を叩いた。
厚い木板が揺れ、記録係のインク瓶が倒れかける。
「感情ではない!」
機関車の炉前で聞いた声より大きかった。
「俺は七両を引いた。重量も知っていた。制動距離も知っていた。霧が出れば危険だと報告した。それでも、遅れを取り戻せと命令された!」
右脚を伸ばしたまま立ち上がろうとし、痛みに顔を歪める。
それでも、すぐには座らなかった。
「橋の手前で信号が遅れた。主任機関士が制動をかけた。だが止まりきれなかった。七両だったからだ。報告書にある六両の重量で計算すれば、制動開始が遅すぎたように見える。だから全部、俺たちの速度超過にされた!」
「座れ」
グレアムが低く命じる。
ボルグは荒い呼吸のまま、椅子へ戻った。
「事故直後、七号車はどうなった」
「橋の西側へ落ちた」
「乗客は」
「全員死んだ」
「確認したのか」
「俺が見た」
ボルグの声から怒りが消えた。
代わりに、もっと重いものが残る。
「機関車から投げ出され、脚を車輪へ挟まれた。動けなかった。橋の下で、C―207が燃えるのを見ていた」
暖炉の火が、彼の瞳へ映る。
「屋根は潰れていた。窓から手が出ていた。中から声も聞こえた。だが蒸気管が破れ、火と熱湯で近づけなかった」
セルマが唇を噛んだ。
「中には七人?」
「七人だ」
「顔は覚えているか」
「全部は」
ボルグは目を閉じる。
「年嵩のドワーフが二人。ヒューマの男が三人。エルフの若い男が一人」
エリシアの肩が震えた。
「それと、若いヒューマの女」
ニコルの指が、膝の上でわずかに組み替えられた。
それだけだった。
「女の人?」
ミラベルが尋ねる。
「二十代半ばくらいだった。灰色の作業服で、首に青い襟巻きを巻いていた」
その言葉のあと、ニコルの指先が一度だけ襟元へ触れた。
霧の冷たさを思い出しただけにも見えた。
誰も何も言わない。
レオンだけが、その小さな仕草を記憶した。
「名前は」
グレアムが尋ねる。
「知らない」
「乗車券は」
「セルマが渡した」
全員の視線が、壁際のセルマへ向く。
彼女はゆっくりと前へ出た。
「規則外の臨時券です」
初めて、自分から七号車について語った。
「無記名の予備乗車券へ、出発地と到着地を手書きしました」
「七枚?」
「七枚です」
「なぜ正規券を発行しなかった」
「正式な乗客登録がなかったからです」
「それでも乗せた」
「灰橋に残せば、翌朝まで宿もありませんでした」
セルマの声は硬かった。
「工事監督は、会社の指示だから乗せろと言った。主任車掌は、空いている客車があるなら積めと言った」
「積め?」
ミラベルが聞き返す。
「人を荷物のように?」
セルマの目が揺れる。
「その言葉を使ったのは、私ではありません」
「でも、従った」
「当時の私は二十九歳でした」
セルマは言った。
「未成年でも、新任でもない。何が正しいか判断できる年齢でした」
自分で逃げ道を塞ぐような言葉だった。
「年齢のせいにはできません。上司の命令だったからとも言えない。乗せたのは私です。臨時券を切ったのも私です。そして、事故のあと、七号車が記録から消えることへ異議を申し立てなかった」
彼女は机の上の古い乗車券を見た。
ダリウスの胸から出た一枚。
「七人は、切符を欲しがりました」
「なぜです?」
ミラベルが尋ねる。
「自分たちが乗客だという証明になると思ったからです」
「補償のため?」
「それもあります」
「ほかには」
「検札を受けたとき、無断で乗り込んだ者ではないと示すためです」
セルマは自分の右手を見た。
八年前、切符鋏を握っていた手。
「私は七枚を切りました」
ぱちん。
小さな音を、彼女は今も覚えているのだろう。
「一枚ずつ、名前を聞きながら」
ミラベルが鉛筆を構えた。
「覚えていますか」
「全員は」
「一人でも」
セルマは目を閉じた。
「リオル=ハルネ」
エリシアが息を呑んだ。
セルマは彼女を見る。
「細身のエルフでした。右袖に青い布が縫ってあった。右手に白い石の粉がついていた」
エリシアの両手が口元へ上がる。
「妹がいると言っていました」
肩が一度、大きく震えた。
泣き声は出ない。
「兄です」
掠れた声だった。
「その人が、兄です」
セルマは目を伏せる。
「すみません」
「謝らないでください」
「私は――」
「今は、謝らないで」
エリシアは涙を拭かなかった。
「名前を言ってください」
「え?」
「もう一度」
セルマは顔を上げる。
「リオル=ハルネ」
ミラベルが手帳へ書いた。
先ほどよりも濃い線で。
リオル=ハルネ。
紙の上に、兄の名前が残る。
公式名簿ではない。
死亡証明でもない。
新聞記事でもない。
それでも、八年間どこにも書かれなかった名が、もう一度、他人の手によって記録された。
「兄は、本当に乗っていた」
エリシアが言った。
「はい」
セルマが答える。
「私は、あなたのお兄さんへ切符を渡しました」
エリシアは目を閉じた。
悲しみが消えたわけではない。
兄が戻ったわけでもない。
だが、兄を待ち続けた自分の記憶が、初めて他人の記憶とつながった。
兄はいた。
列車へ乗った。
切符を受け取った。
そして死んだ。
少なくとも、もう《妹の思い違い》ではなかった。
「ほかの名は」
グレアムが静かに尋ねた。
「ゴルド=マイン」
セルマは、一つずつ記憶を探した。
「ベック=ラウ。サディア=ネイル……」
記録係が書き取る。
「残りは」
「顔と名前が混ざっています。間違った名を記録へ残したくありません」
「若い女性は」
ボルグが尋ねた。
セルマの表情が強張る。
「名前の最初は、ミだったと思います」
ニコルの視線が、ごくわずかに机へ落ちた。
呼吸が乱れたわけではない。
手を滑らせたわけでもない。
同じ姓が出ることを予想しているようにも、単に話の続きを待っているようにも見えた。
「ミラ」
セルマが言った。
「ミラ=ヴェイル」
部屋の中で、ペンの音だけが止まった。
グレアムがニコルを見る。
「お前と同じ姓だな」
「ヴェイルという姓は、珍しくありません」
返答は静かだった。
「知り合いか」
「いいえ」
「親族では」
ニコルは一拍だけ置いた。
「違います」
速すぎる否定ではなかった。
だが、迷いのない答えでもなかった。
「ミラ=ヴェイルという名を、以前に聞いたことは?」
「ありません」
「八年前の灰橋事故については」
「公式記録で知る範囲だけです」
「七号車の存在も」
「今夜、初めて聞きました」
レオンは、ニコルの顔を見た。
驚愕はない。
露骨な恐怖もない。
ただ、ミラの名を聞いてから、視線が一度もセルマへ戻らなかった。
それが記憶を隠す者の反応なのか。
同じ姓を持つ他人の死を、不快に感じただけなのか。
今は区別できない。
「当時、お前は何をしていた」
グレアムが尋ねる。
「学生です」
「どこの」
「グラン=レール商業学校」
「年齢は二十三か」
「はい」
「卒業記録を確認する」
「どうぞ」
「住居記録も」
「構いません」
「家族記録も照合する」
ニコルの指が、膝の上で一度だけ組み直された。
「必要な範囲でお願いします」
それ以上、抵抗はしなかった。
手帳を押収されたときとは違う。
同じ姓だけで追及されても、反論の余地があると考えているようだった。
「八年前の所属記録については、すでに照会を出している」
グレアムが言った。
「ただし、灰橋操車場の旧人事台帳は封鎖保管庫にある。回答は夜明け以降になるそうだ」
「灰橋の人事記録と、私に何の関係が?」
ニコルが尋ねる。
「あるかどうかを調べる」
「私は学生でした」
「なら、台帳に名はない」
「ええ」
「確認すれば済む」
ニコルは、それ以上答えなかった。
レオンも追わなかった。
いま必要なのは、ニコルを犯人に決めることではない。
八年前に七人が存在したと、複数の記憶と記録で確かめることだった。
*
「残る名を、思い出せるか」
グレアムがセルマへ尋ねた。
「時間をください」
「なぜだ」
「間違えたくありません」
セルマは古い乗車券を見た。
「八年前、私は七枚を切りました。でも事故のあと、臨時乗車券の控えはすべて回収された」
「誰に」
「事故調査部です」
「担当者は」
セルマの視線が、オズワルドへ向く。
「彼の上司でした」
オズワルドの顔が固まった。
「私は現場回収班ではない」
「補償記録の整理には立ち会ったでしょう」
「上から渡された名簿を処理しただけだ」
「七人の名はなかった?」
「なかった」
「臨時券の控えも?」
「見ていない」
「私が提出した七枚の控えは、どこへ行ったんです」
「知らん」
「知らないまま、六両の報告へ署名した?」
「事故現場の混乱で、書類が紛失することはある」
「七人の名は、紛失してよい書類ですか」
セルマの問いに、オズワルドは答えなかった。
ボルグが低く笑う。
笑いというより、錆びた金属が擦れた音だった。
「八年経っても同じだな」
「何が」
「書いていないから知らない。なくなったから存在しない。署名しただけだから責任はない」
「私は規則に従った」
「セルマも従った。俺も従った」
ボルグは、自分の右脚を叩いた。
「結果が、これだ」
グレアムが立ち上がる。
「八年前の灰橋事故について、鉄道会社の保管記録をすべて押さえる」
「待て」
オズワルドが言った。
「閉鎖事故記録には、会社機密が含まれている」
「殺人事件の証拠だ」
「裁判所の命令が必要になる」
「夜明けと同時に取る」
「会社法務部への事前通知が」
「先に知らせて、都合の悪い書類を移す時間を与えろと?」
「鉄道会社を犯罪組織のように扱うのか」
「七人を記録から消した会社を、何と呼べば満足だ」
グレアムの声は低かった。
オズワルドは押し黙る。
「事故原本。臨時乗車券の控え。埋葬費用。無登録労働者の輸送命令。補償処理記録。全部だ」
記録係が項目を書き取る。
「灰橋操車場の、八年前の職員名簿も」
レオンが言った。
ニコルは顔を動かさなかった。
「編成記録係、運行指令係、封印材料の管理担当、廃車側線担当」
「見習いも含めて」
グレアムが付け加える。
記録係のペンが走った。
「分かった。旧台帳の開封命令も取る」
ニコルが静かに尋ねた。
「いつまで、ここにいればよいんですか」
「灰橋停車中の行動確認が終わるまでだ」
「私は逮捕されている?」
「されていない」
「なら、帰宅は」
「殺人事件の重要参考人として、任意同行を求めている」
「拒否した場合は?」
「令状を取る」
ニコルは、疲れたように目を閉じた。
「分かりました」
それだけだった。
*
事情聴取が一度中断され、関係者が別室へ分けられていく。
エリシアは窓際へ立っていた。
涙はすでに拭われている。
手には何もない。
それでも、先ほどより確かな何かを持っているように見えた。
リオル=ハルネ。
セルマが覚えていた兄の名前。
公式名簿にはない。
死亡証明書にもない。
補償台帳にもない。
だが、少なくとも三人の記憶の中には残っていた。
妹。
切符を切った車掌。
事故車を見た機関士。
「ミラベルさん」
エリシアが呼んだ。
「はい」
「今、兄の名前を書きましたね」
ミラベルは手帳を開いた。
リオル=ハルネ。
「書きました」
「消しませんか」
「消しません」
「新聞へ載らなくても?」
ミラベルの指が、手帳の縁へ触れる。
署名なき死体事件の記事。
掲載されなかった名。
削られた事実。
「新聞へ載るかどうかとは別に、私の取材記録には残します」
「それでは、公的な記録にはならない」
「まだ、です」
ミラベルは答えた。
「原始編成表が本物だと確認されれば、警察の証拠記録へ入る。埋葬台帳の写しも調べられる。セルマさんとボルグさんの証言も残る」
「それでも消されたら?」
ミラベルはすぐには答えなかった。
簡単に《消させない》と言えば、嘘になる。
新聞社は記事を削る。
会社は記録を閉じる。
警察も裁判所も、常に正しいわけではない。
「一つの記録なら、消されるかもしれません」
彼女は言った。
「でも、同じ名前を別々の場所へ残すことはできます」
手帳を示す。
「ここにも」
警察の記録係が使っていた机を見る。
「警察にも」
原始編成表の入った証拠箱を見る。
「八年前の紙にも」
そして、エリシアを見る。
「あなたの記憶にも」
エリシアは、ゆっくり頷いた。
兄は列車へ乗っていた。
切符を受け取った。
事故で死んだ。
紙の上では消されていても、証言は同じ一両へ集まり始めている。
七号車は、もう噂ではなかった。
乗っていた者がいた。
切符を渡した者がいた。
列車を引いた者がいた。
死んだ者を待ち続けた者がいた。
そして、セルマが読み上げた七人の中に、自分と同じ姓を持つ名があったとき。
ニコル=ヴェイルは、初めて聞いたと答えた。
その答えが嘘かどうかは、まだ分からない。
同じ姓に驚いただけかもしれない。
偶然、視線を伏せただけかもしれない。
青い襟巻きへ、何か個人的な記憶があったのかもしれない。
レオンは、そこへ結論を置かなかった。
ただ、小さな違和感として記憶した。
八年前の七号車へ乗っていた七人は、いま初めて存在を証明し始めたばかりだった。
誰が、その名を知っていたのか。
誰が知らないふりをしているのか。
それを決めるには、まだ証言ではなく――記録が必要だった。




