第5節 ― 八年前の切符
午前零時を回ったころ、ヴェルム=クロウ中央駅の一等待合室は、臨時の捜査室へ変わっていた。
赤い絨毯の上には、外から泥や煤を持ち込まないよう保護布が敷かれている。
壁際に並んでいた革張りの長椅子は撤去され、駅事務室から運び込まれた長机が三つ、部屋の中央へ置かれていた。
一つは事情聴取用。
一つは押収品の記録用。
もう一つには、七号車から回収された品が、番号札とともに並べられている。
ダリウスの割れた眼鏡。
床へ落ちていた金属製の留め具。
財布。
身分証。
胸ポケットに差し込まれていた、黄ばんだ乗車券。
座席の下から発見された《灰橋事故列車 原始編成表》。
乗車券には、証拠番号四。
原始編成表には、証拠番号五。
たった二つの古い紙が、八年前の事故と、今夜の殺人を結びつけていた。
部屋の隅では、大型の石炭暖炉が赤く燃えている。
それでも、室内の空気は冷たかった。
暖炉の熱が足りないのではない。
殺人事件の関係者が警官に見張られ、互いの沈黙を意識しながら座っているためだった。
セルマは事情聴取用の机の前にいた。
制帽は机の端。
黒髪は乱れていない。
濃紺の制服にも、目立った汚れはなかった。
ただし、膝の上で組んだ両手だけが固い。
その向かいにはグレアム。
右側に警察の記録係。
左側に、鉄道警備隊から呼ばれた文書鑑定士。
レオンとミラベルは壁際に立っていた。
「どうして、私だけ立ったままなんです?」
ミラベルが小声で尋ねた。
「事情聴取を受ける側ではないからでしょう」
レオンが答える。
「椅子が一つ余っています」
「あれは警部が怒鳴り疲れたときに使います」
「聞こえているぞ」
グレアムが言った。
「俺は怒鳴り疲れたりしない」
「では、私が座っても?」
「駄目だ」
「なぜです」
「証拠品へ近づく」
「見るだけです」
「第一の事件で、押収前の契約書を勝手に開いた」
「読めるか確認しただけです」
「開くことを、普通は触ると言う」
ミラベルは不満そうに口を閉じた。
グレアムはセルマへ視線を戻す。
「確認するぞ」
「何度でも」
セルマは答えた。
「《黒梟号》は、グラン=レールを客車六両で出た」
「はい」
「七号車はなかった」
「ありませんでした」
「灰橋での追加連結を、お前は承認していない」
「報告も、承認依頼も受けていません」
「七号車前方扉の封印は、ヴェルム=クロウ到着後にお前が切断した」
「駅員二名、駅警備員一名、安全管理官、クラウスさんの立会いのもとで」
「後方扉は、現在も発見時の封印を維持している」
「はい」
「走行中、六号車後部の扉は」
「施錠していました」
「鍵は」
「私と、後部制動室の担当車掌が所持していました」
「お前の共通鍵で、七号車の前方扉は開いた」
セルマの表情は変わらない。
「旧式客車には、錠型が共通するものがあります」
「つまり、お前の鍵で入ることはできた」
「封印を切れば」
「古い封印線と鉛封を用意できれば、出たあとで封じ直すこともできる」
「理屈の上では」
「実際には?」
「していません」
グレアムは、机の端へ置かれた黒革の小箱を見た。
セルマから一時的に預かった乗務用具である。
共通鍵。
発車笛。
小型の手信号灯。
そして、検札用の切符鋏。
鋏は黒塗りの鉄製だった。
長年の使用によって柄の表面は磨かれ、指を入れる輪の内側だけ、銀色の地金が覗いている。
「その鋏は、いつから使っている」
「十年ほど前からです」
「八年前にも?」
「使っていました」
グレアムが文書鑑定士へ顎を向けた。
「確認を」
鑑定士は、証拠番号四の乗車券を硝子板ごと机の中央へ移動させた。
黄ばんだ厚紙。
褐色の縁飾り。
《グラン=レール発 灰橋経由 ヴェルム=クロウ行》。
日付は八年前。
右端には、小さな穴が開いている。
単純な丸でも、三角でもない。
菱形の右上を斜めに欠いた、不均衡な形。
「鉄道会社では、不正検札を防ぐため、車掌ごとに異なる鋏型を割り当てています」
鑑定士が説明した。
「鋏型と登録番号は、乗務員台帳へ記録されます」
「この穴は?」
「ルーク主任車掌の登録型と一致します」
記録係が台帳の複写を読む。
「車掌鋏四四二号。欠け菱形。登録者、セルマ=ルーク」
ミラベルが身を乗り出した。
グレアムが片手を上げる。
「近づくな」
「見ているだけです」
「その位置から見ろ」
鑑定士は、新しい試験用厚紙へセルマの鋏を入れた。
ぱちん。
古い乗車券の横へ、新しい鋏痕が並べられる。
形。
大きさ。
右上の欠け。
すべて一致していた。
「偶然は」
グレアムが尋ねる。
「考えにくいです。同じ型を複製することは可能ですが、刃の摩耗にも特徴があります」
鑑定士は拡大鏡を使い、新旧の切断面を見比べた。
「左下に、微細な二段切断が生じています。刃先の小さな欠損によるものです。証拠番号四にも、同じ特徴があります」
「つまり」
壁際にいたオズワルドが口を挟んだ。
「その切符は、セルマの鋏で切られた」
「可能性は極めて高いです」
「鋏が一致した。本人は七号車を開けられる共通鍵を持つ。走行中も列車内を自由に動けた。灰橋では最後尾確認を怠っている」
セルマがオズワルドを見る。
「何が言いたいんです」
「君が、最も疑わしい」
「安全管理官が、警察の結論まで決めるのですか」
「会社として、列車内で起きた殺人の責任を明確にする必要がある」
「人を選んでから責任を貼りつける、の間違いでは?」
「君の鋏だ」
「見れば分かります」
「被害者の胸にあった」
「八年前に切ったものかもしれません」
セルマの返答に、部屋が静まった。
グレアムの目が細くなる。
「認めるのか」
「鋏痕が私のものなら、私が切った可能性はあります」
「今夜ではなく?」
「券面の日付は八年前です」
「古い未使用券を今夜切った可能性もある」
「それなら、私が八年前の未使用券を今夜まで保管していたことを、そちらが証明してください」
オズワルドが机へ手をついた。
「態度を考えろ、セルマ」
「ここは警察の捜査室です。会社の懲戒室ではありません」
「二人とも黙れ」
グレアムが、太い指で机を一度叩いた。
低い音だった。
怒鳴るよりも、よく響いた。
「ここで立場を持つのは警察だけだ。会社の役職は扉の外へ置いてこい」
オズワルドは手を引いた。
グレアムはセルマへ向き直る。
「八年前の灰橋事故当夜、お前はどこにいた」
セルマの組んだ指が、わずかに動いた。
今夜初めて見せた迷いだった。
「事故記録を見れば分かります」
「本人の口から聞いている」
「《夜鷲二一六号》に乗務していました」
「役職は」
「補助車掌です」
「担当車両は」
「公式記録では、五号車と六号車」
グレアムの眼差しが鋭くなる。
「公式記録では?」
セルマは黙った。
「実際には何両目まであった」
「事故報告書に記載されています」
「七号車はあったのか」
セルマの指が止まる。
ほんの一瞬。
だが、全員が気づいた。
彼女は、なかったと答えなかった。
「セルマさん」
ミラベルが思わず呼びかける。
「八年前にも七両目があったんですか」
「記者の質問には答えません」
「では、警部の質問には?」
「公式記録が答えます」
「公式記録が六両でも?」
セルマはミラベルを見た。
そこにあったのは怒りではない。
恐れ。
後悔。
長いあいだ触れずにきた傷へ、突然手を伸ばされた者の目だった。
「書かれていることを書いてください」
「書かれていないことは?」
「書かないことです」
「それでは、なかったことになります」
「そうしなければならないこともあります」
言った直後、セルマは口を閉じた。
グレアムは聞き逃さなかった。
「誰に、そうしろと言われた」
「……回答を拒否します」
「警察の事情聴取だぞ」
「弁護士の立会いを求めます」
「七号車についてだけか」
「これ以上は話しません」
オズワルドが乾いた息を吐いた。
「認めたようなものだ」
「黙秘は自白ではありません」
レオンが言った。
「君には聞いていない」
「警察が、八年前の沈黙と今夜の殺人を混同しないために言っています」
グレアムがレオンを見る。
「セルマを庇うのか」
「いいえ」
「なら何だ」
「八年前の秘密を持っていることと、ダリウスを殺したことは別です」
「切符鋏は証拠だ」
「八年前にも同じ鋏を使っていたなら、二つの可能性を示します」
「二つ?」
「八年前に切ったのか。今夜切ったのか」
レオンは古い乗車券を見た。
「同じ穴でも、意味は違います」
「問題は、穴がいつ開けられたかだ」
グレアムが言った。
「見て分かるか」
「切断面を調べれば」
レオンより先に、ミラベルが答えた。
「新しい穴なら、紙の中の白い繊維が見えるはずです」
グレアムが彼女を見る。
「なぜ分かる」
「私の切符があります」
ミラベルは内ポケットから、《黒梟号》の乗車券を取り出した。
グラン=レールで、セルマが鋏を入れたものだ。
「同じ鋏痕です。でも、これは今夜切られた」
鑑定士が受け取り、試験紙と並べる。
新しい穴の切断面は白い。
紙の繊維は立ち、まだ汚れを吸っていない。
対して、八年前の乗車券。
鋏穴の内側は黒褐色だった。
表面の黄ばみだけではない。
切断面そのものへ、煤と油分が入り込んでいる。
毛羽立ちは押し潰され、縁は長い時間をかけて摩耗していた。
「拡大灯を」
鑑定士が言った。
卓上灯が近づけられる。
拡大鏡の下。
紙繊維の奥へ、黒い粒子が沈着している。
「穴の内壁へ、煤塵と油脂が入り込んでいます」
「紙全体が古いからでは?」
グレアムが尋ねる。
「今夜になって穴を開けたなら、切断面だけは新しく露出します。白い繊維と、切断による毛羽立ちが残るはずです」
「古い汚れを塗り込めた可能性は」
「不可能ではありません。ただし、繊維内部への沈着と、長期間の摩耗まで短時間で再現するのは困難です」
「結論は」
「この切符は、今夜切られたものではありません」
鑑定士は断言した。
「正確な年数までは出せませんが、数年以上前に鋏を入れられたと考えるのが自然です。八年前でも矛盾はありません」
室内の視線が、セルマへ集まった。
セルマは古い切符を見つめている。
そこにあるものを知っている目だった。
「セルマさん」
ミラベルが言った。
「八年前、あなたが切った切符ですね」
「鋏痕と紙が、そう示しているのでしょう」
「事故列車の中で?」
「私は、あの列車の補助車掌でした」
「誰へ渡したものですか」
「分かりません」
「本当に?」
「八年前に扱った切符を、一枚ずつ覚えていると思いますか」
「普通の乗車券なら」
ミラベルは硝子板の中の切符を見る。
「でも、これは公式記録に載っていない七号車へつながっている」
「正確には、七号車で発見されたダリウスの胸ポケットから出たものです」
レオンが訂正した。
「今、そこは重要ですか?」
「発見位置は、常に重要です」
ミラベルは言い直す。
「今夜、あなたがこれをダリウスへ持たせたのでは?」
「違います」
セルマは、初めて明確に答えた。
「私は今夜、その切符をダリウスへ渡していない。七号車へも入っていません」
「古い切符だったからといって、疑いは消えない」
オズワルドが言う。
「消えるとは言っていない」
グレアムが答えた。
「だが、証拠の意味は変わった」
「鍵も、機会も、過去の関係もある」
「切符鋏は、今夜七号車へ入った証拠ではない」
レオンが続ける。
「むしろ、八年前の事故とセルマさんを結びつけるために選ばれた可能性があります」
「私へ罪を着せるため?」
セルマが尋ねる。
「切符を置いた者が、鋏型の持ち主を知っていたなら」
「鋏台帳へアクセスできる者は」
グレアムがオズワルドを見る。
オズワルドは不満そうに答えた。
「乗務管理課、安全管理部、事故調査部。正式照会があれば、監査部門や補償局も閲覧できる」
「ダリウスは?」
「特別監査官なら」
「助手は?」
「上司の照会命令があれば、資料を運ぶことはある」
部屋の隅に座っていたニコルの肩が、わずかに動いた。
「私は、鋏台帳など見ていません」
自分から口を開いた。
グレアムが彼を見る。
「まだ、お前へ質問していない」
「ですが、皆さんが私のほうを」
「全員を見ている」
「私は書記です。命じられた書類を運ぶだけで、内容を読む権限はありません」
「権限がないことと、見られないことは違います」
レオンが言う。
ニコルは銀縁眼鏡の奥で瞬きをした。
「私を疑っているんですか」
「まだ誰か一人へ決めてはいません」
「では、そのような言い方をしないでください」
「質問へ答えただけです」
ニコルは口を閉じた。
彼の膝の上には、焦茶色の革手帳があった。
正確には、警官が一度預かり、所持品確認のため本人の前へ戻したものだ。
グラン=レール出発時から、ニコルが何度も開いていた業務手帳。
グレアムが手を差し出した。
「それも確認する」
ニコルの両手が、手帳を包み込んだ。
「これは業務上の覚え書きです」
「被害者の予定も書かれている?」
「一部は」
「なら、確認する」
「補償局の機密情報があります」
「殺された監査官に関係する機密だろう」
「事件と無関係な申立人の名前もあります。警察であっても、自由に閲覧してよいものではありません」
「記録係立会いで、事件関係部分だけを見る」
「お断りします」
ニコルの声が、急に強くなった。
部屋にいた全員が彼を見る。
ニコル自身も、自分の声量に驚いたようだった。
「失礼しました」
すぐに声を落とす。
「ですが、これは個人的な手帳でもあります」
「業務上の覚え書きではなかったのか」
グレアムが尋ねる。
「両方です」
「さっきは申立人の機密だと言った」
「それも含まれています」
「なら、なおさら押さえる」
「必要ありません」
「必要かどうかは、俺が決める」
「事件に関係する頁があるとは限らないでしょう」
「ないなら、確認されても困らない」
ニコルは手帳を握ったまま動かなかった。
爪の際には、採取後も落としきれなかった黒い汚れが残っている。
グレアムが警官へ目配せした。
「無理に奪うな。任意提出を求める。拒否するなら、押収令状を取る」
しばらくの沈黙。
暖炉の中で、石炭が崩れた。
ニコルは周囲を見た。
ダリウスの遺品。
古い乗車券。
警察官。
レオン。
最後にミラベル。
「……分かりました」
手帳を差し出す。
「ただし、事件と無関係な内容は記録へ残さないでください」
「必要のないものまで写す趣味はない」
グレアムは手帳を記録係へ渡した。
表紙。
留め帯。
頁数。
現在の記載位置。
一つずつ確認される。
ミラベルは、記録係の肩越しに手帳を見た。
最初の数頁には、面会予定。
列車時刻。
整理番号。
ダリウスからの指示。
整った細い文字が、余白なく書き込まれている。
だが途中で、紙の並びが不自然に薄くなっていた。
「何頁かありません」
ミラベルが言った。
記録係が手帳の綴じ目を見る。
数枚分の紙片が、糸の近くで残っている。
頁を一枚ずつきれいに抜いたのではない。
根元から引きちぎった跡だった。
「ここです」
記録係が指す。
「少なくとも三枚。多ければ四枚」
「いつ破った」
グレアムが尋ねる。
「覚えていません」
ニコルが答えた。
「業務が終わった頁は処分することがあります」
「いつの業務だ」
「日々の雑務です」
「昨日か」
「分かりません」
「出発前か。列車の中か。灰橋か」
「本当に覚えていません」
ミラベルは、破られた頁の次にある空白頁へ目を留めた。
何も書かれていない。
だが、卓上灯を横から受けると、紙面に細かな起伏が見えた。
上の頁へ強く文字を書いた際、筆圧が次の紙まで届いた痕跡。
線。
数字らしき角。
縦に並んだ短い凹み。
「この頁」
ミラベルが言う。
「表面が平らではありません」
ニコルの顔が動いた。
ほんのわずか。
「古い手帳ですから」
「ほかの空白頁には、同じ凹みがありません」
「記者の方が触るものではありません」
「触っていません。光で見ただけです」
記録係も灯りを傾ける。
紙の起伏が影となって浮かび上がった。
「筆圧痕があります」
「読めるか」
グレアムが尋ねる。
「この場では。黒鉛転写か斜光写真が必要です」
ニコルが椅子から立ちかけた。
「手帳を返してください」
警官が肩へ手を置く。
「座っていろ」
「事件とは関係ありません」
「さっきは、関係がある頁はないとは限らないと言った」
「私的な下書きです」
「何の」
「覚えていません」
「覚えていないものを、関係ないと断定できるのか」
ニコルは答えられなかった。
グレアムは手帳を閉じた。
「証拠品として封印する」
「警部」
「鑑定結果が出るまで返さない」
「補償局の業務に支障が出ます」
「上司は死んだ。今夜の業務は終わりだ」
ニコルの唇が薄く閉じられた。
手帳は白い証拠袋へ入れられる。
封印線。
警察印。
押収時刻。
午前零時四十三分。
筆圧痕の意味は、まだ分からない。
破られた頁へ何が書かれていたのかも。
だが、ニコルが渡したがらなかった手帳には、消したはずの文字の形だけが残っていた。
*
待合室の壁に設置された真鍮製気送管が、大きく鳴った。
ごとん。
続いて、圧縮蒸気の抜ける音。
しゅううっ。
駅員が受取口を開ける。
黒革で包まれた円筒が転がり出てきた。
「警部。鉄道中央記録庫からです」
封印を確認したあと、グレアムが蓋を外した。
中には、二種類の認証複写が入っている。
一つは、《黒梟号》の当日運行記録。
もう一つは、八年前の灰橋事故公式記録。
グレアムは、今夜の記録から開いた。
「列車番号、黒梟急行一一七号」
記録係が読む。
「グラン=レール中央駅、十九時四十分発。機関車一両。客車六両」
ミラベルの鉛筆が止まる。
「灰橋、二十一時五分着。二十一時二十三分発。追加編成、記載なし。到着予定編成、客車六両」
今夜の《黒梟号》は、紙の上では最初から最後まで六両だった。
七号車は現実の線路を走り、ヴェルム=クロウへ到着した。
それでも、正式記録には一度も現れていない。
グレアムは、八年前の記録を開いた。
《灰橋鉄橋脱線事故 最終報告書》
「事故発生時刻、二十一時三十一分」
記録係が読む。
「列車番号、夜鷲二一六号。機関車一両。客車――六両」
暖炉の中で、薪が崩れた。
火の粉が赤く舞う。
「また六両」
ミラベルが呟いた。
「車両一覧。一号車、一等客車。二号車、食堂車。三号車、寝台車。四号車、二等客車。五号車、三等客車。六号車、郵便・制動車」
六行。
そこで終わっている。
七行目はない。
「原始編成表を」
グレアムが言った。
証拠番号五が、硝子板ごと近くへ運ばれる。
こちらには、一号車から七号車までが記されている。
最後の一行。
旧式客車。
臨時労働者輸送。
七名。
「公式記録は六両」
ミラベルが言う。
「原始編成表は七両」
「原始編成表が本物なら、です」
オズワルドが言った。
「犯人が用意した偽造書類かもしれない」
「八年前の書類を偽造し、客車へ隠した?」
「今回の犯人は、車両を一両連結している。それくらいの準備をしていても不思議ではない」
「八年前も六両。今夜も六両」
ミラベルは二つの公式記録を見比べた。
「同じことが二度起きています」
「同じではない」
オズワルドが言う。
「八年前は事故。今夜は殺人だ」
「出来事ではなく、数字です」
レオンが答えた。
「今夜の到着記録まで、出発時の六両を転記している。駅員が赤灯の位置を不審に思わなければ、七号車は記録へ入らなかった」
「八年前も、数えずに転記したと?」
グレアムが尋ねる。
「まだ分かりません」
「またそれか」
「ですが、現実にあったものが、記録へ載らなかった可能性はあります」
ミラベルは手帳へ、二つの六を書いた。
六。
六。
同じ形。
同じ数字。
だが一つは、八年前の七両目を消したかもしれない記録。
もう一つは、今夜の七両目を見落とした記録。
「数字は正しい顔をしていますね」
ミラベルが言った。
「数字そのものは嘘をつきません」
レオンが答える。
「誰が、どこまで数えたかを示すだけです」
「数えずに写せば?」
「写した人間が見なかったものは、記録にも存在しません」
セルマは目を伏せた。
八年前にも、誰かが数えなかった。
あるいは、数えたうえで消した。
「八年前の七号車はあったのか」
グレアムが、もう一度尋ねた。
セルマは答えない。
「七人の乗客は」
唇が、わずかに動く。
声は出なかった。
「切符を渡した相手を覚えているか」
「……回答を拒否します」
グレアムは深く息を吐いた。
「分かった。今はそれでいい」
「警部」
オズワルドが抗議する。
「黙秘を認めるのか」
「認めるも何も、口を縫って開かせるわけにはいかん」
「会社の信用に関わる」
「もう殺人死体が到着している。信用の話をする段階は過ぎた」
グレアムはセルマの前から、古い乗車券を下げさせた。
「ただし駅からは出すな。付き添いをつける」
「承知しました」
セルマは制帽を取り、立ち上がった。
扉へ向かう前に、一度だけ証拠番号四を振り返る。
八年前の乗車券。
欠け菱形の穴。
それは、セルマが今夜七号車へ入った証拠ではなくなった。
代わりに、八年前から閉ざされてきた何かへ通じる鍵になった。
警官に伴われ、セルマが部屋を出る。
扉が閉じた。
机の上には、三つの記録が残った。
八年前の公式事故記録。
客車六両。
今夜の公式運行記録。
客車六両。
七号車から出てきた原始編成表。
客車七両。
そして、別の机には、頁を破られたニコルの手帳。
紙を捨てても、筆圧まで消えるとは限らない。
記録へ載せなくても、列車そのものが消えるわけではない。
「次に調べるものは決まったな」
グレアムが言った。
「八年前の乗客ですか」
ミラベルが尋ねる。
「公式名簿にいない乗客だ」
「七号車へ乗っていた人たち」
「いたなら、だ」
グレアムは事故記録を閉じた。
「死者二十二名。客車六両。補償終了。記録閉鎖」
認証印の押された表紙を、太い指で叩く。
「これだけ綺麗に閉じた記録から、今夜になって一両と一人が飛び出してきた」
「一人ではありません」
レオンが言った。
「何だ」
「八年前の切符があります」
硝子板の下の紙片を見る。
「当時、これを使用した乗客がいたはずです」
「ダリウスではない?」
記録係が事故名簿を調べる。
「当時、ダリウス=モーンが乗車した記録はありません」
「なら、誰か別の人間の切符です」
「七号車の乗客?」
ミラベルが言う。
「可能性はあります」
「その人が八年間持っていた?」
「本人か、その遺族か。あるいは、事故記録へ触れた誰かが」
部屋の外で、駅の大時計が午前一時を告げ始めた。
一度。
重い鐘の音が、煤けた硝子屋根と鉄骨を震わせる。
ミラベルは、自分の新しい乗車券を見た。
今夜開けられた穴の中は白い。
八年前の乗車券の穴は、煤と油で黒く汚れている。
形は同じ。
そこを通り過ぎた時間だけが違う。
「この切符は、今夜作られた偽物ではない」
「ええ」
レオンが答える。
「八年前から、穴が開いていた」
「ええ」
「誰かが八年間、残していた」
「おそらく」
「そして今夜、ダリウスの胸へ入れた」
ミラベルは顔を上げた。
「誰が?」
レオンは答えなかった。
古い切符の鋏穴は、八年という時間を証言した。
だが、その切符を保管していた者の名までは語らない。
破られた手帳の頁も、まだ文字を語らない。
八年前の列車も六両。
今夜の列車も六両。
二つの公式記録は、同じ数字を記している。
その間から消された七両目と、そこへ乗っていた者たちだけが――
今も紙の外側に残されていた。




