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第4節 ― 温かい死体

 ヴェルム=クロウ中央駅の三番線は、二十二時五十分を過ぎるころには、到着ホームではなく事件現場へ変わっていた。


 七号車――正式な車体番号《C―214》を中心に、赤と白の立入禁止帯が張られている。


 帯の内側には、鉄道職員、駅警備員、警察の先着要員。


 帯の外側には、降車を止められた乗客、事情を聞きつけて集まった駅員、何が起きたのか見ようと首を伸ばす野次馬。


 そのさらに外では、宿の客引きや荷運び人夫が仕事を中断し、煤けた柱の陰からこちらを窺っていた。


 編成表にない客車が、死体を乗せて到着した。


 その噂は、汽車よりも速く駅構内を駆け回っている。


「七号車の中で人が殺されたらしい」


「八年前の事故車だ」


「死体は、まだ生きているように温かかった」


「前も後ろも封印されていた」


「灰橋の亡霊列車が帰ってきたんだ」


 一つの事実が伝わるたび、その周囲へ三つの嘘が生まれていく。


 ミラベルは立入禁止帯の内側に立ち、飛び交う声を聞きながら手帳へ時刻を書き込んだ。


 ――二十二時五十二分。


 ――駅構内で、すでに《八年前の事故車》との噂。


 少し考え、その下へ一行。


 ――発信源、不明。


「それも記事にするつもりですか」


 セルマが尋ねた。


 主任車掌の制帽は、いつもより深く被られている。


 七号車の扉を開け、死体を発見した責任者として、駅長、安全管理部、警察の先着係から立て続けに質問を受けていた。


 それでも姿勢は崩れていない。


 ただし右手だけは、時折、白い手袋の指を握り直していた。


 切断した銅線の感触が、まだ指へ残っているのかもしれない。


「噂が、いつ、どこから広がったかは重要です」


 ミラベルが答える。


「なぜです」


「警察も鉄道会社も発表していない情報を、誰かが先に知っていたら不自然でしょう」


 セルマは彼女を見る。


「あなたが広めたのでは?」


「八年前の事故車だとは言っていません」


「七号車に死体があったことは?」


「大きな声では」


「声量の問題ではありません」


「でも、監査官の名前は皆さんに聞こえていました」


「聞かせたのは、クラウスさんです」


 少し離れた場所で七号車を観察していたレオンが、顔だけを向けた。


「私ですか」


「車外から叫ぶワトリアさんへ、死体はダリウス監査官だと答えたでしょう」


「答えなければ、さらに大声で質問を続けると思いました」


「続けました」


「判断を誤りました」


 ミラベルが手帳を閉じる。


「二人とも、私を何だと思っているんです」


「新聞記者です」


 レオンとセルマの声が重なった。


 言葉は同じだったが、込められた感情は違っていた。


 ミラベルが反論しようとしたとき、駅舎側から重い靴音が近づいてきた。


 一定の速さ。


 迷いのない歩幅。


 集まっていた人々が、押されたわけでもないのに左右へ分かれる。


 現れたのは、濃灰色の外套を着たドワーフだった。


 背は低い。


 だが肩幅が広く、厚い胸板と太い腕のため、周囲のヒューマより小さく見えることはない。


 硬い革帽子。


 短く整えられた黒い髭。


 左眉を横切る古い傷。


 ヴェルム=クロウ警察、グレアム警部。


 その後ろには制服警官が六名。


 記録係が一名。


 さらに、黒い医療鞄を提げた女性が続いている。


 グレアムは立入禁止帯の前で足を止めた。


 古い客車を見る。


 車体中央へ取り付けられた真鍮製の《7》。


 切断された前方扉の封印。


 最後尾で赤く燃える標識灯。


 それから、帯の内側に立っているレオンとミラベルへ目を向けた。


 顔が目に見えて険しくなった。


「なぜ、お前たちがいる」


「列車に乗っていたからです」


 レオンが答えた。


「お前は列車に乗るだけで、死体を増やすのか」


「増えたのは客車です。死体は一人ですよ」


「そういう問題ではない!」


 グレアムの声が、硝子屋根の下へ響いた。


 周囲で事情を知らない駅員まで黙る。


 ミラベルは手帳を開こうとした。


「書くな」


「まだ何も」


「顔が書いている」


「顔には書けません」


「揚げ足も取るな」


「再会場面としては、よい会話だと思います」


「記事にするな!」


 グレアムは一度、深く息を吸った。


 怒鳴っても二人が消えないことを思い出したらしい。


「状況を説明しろ」


 セルマが前へ出る。


「二十二時三十五分、《黒梟号》が三番線へ到着しました。到着確認担当の駅員が、最後尾の赤灯が本来の位置より遠いことに気づき、編成表にない客車を発見しました」


「列車は何両で出た」


「客車六両です」


「到着時は」


「七両」


「追加を承認した者は」


「私は承認していません。運行表にも記載はありません」


「途中停車は」


「灰橋操車場のみ」


「停車時間」


「二十一時五分から二十一時二十三分。十八分間です」


「不明車両の状態」


「正式車体番号《C―214》。側面へ真鍮製の《7》が後付けされています。前後の扉に旧式の封印。窓はすべて閉鎖。前方扉の封印のみ、駅員立会いで切断しました。後方扉は未開封です」


「死体発見は」


「二十二時四十四分ごろ」


「触れた者は」


「私が頸部へ触れ、脈がないことを確認しました。それ以外には、クラウスさんと駅警備員一名が車内へ入りました。両名とも遺体には触れていません」


「クラウス」


 グレアムが低く呼ぶ。


「はい」


「なぜ入った」


「セルマ車掌の許可がありました」


「許可したのか」


「犯罪現場の可能性がありました」


 セルマは答えた。


「鉄道警備員には、殺人現場を保存する訓練がありません」


「今後、こいつを現場保全要員に数えるな」


「警部が到着するまで、誰かが足跡と落下物を見る必要がありました」


「余計なものまで見る」


「それが仕事です」


 レオンが答えた。


 グレアムは彼を睨み、やがて片手を上げた。


「全員の身元と現在位置を押さえろ」


 制服警官たちが動き始める。


「列車の乗客、乗務員、駅員、鉄道職員。不明車両へ近づいた者は全員だ。駅から出すな。貨物門、職員通路、地下搬入口も閉じろ」


「乗客全員ですか」


 駅長が慌てて尋ねた。


「全員だ」


「一等客の中には、商会役員や議員も」


「死体は階級を確かめてから作られるのか?」


「いえ、ですが――」


「帰したあとで犯人だったと分かれば、お前が捕まえに行くのか」


 駅長は口を閉じた。


 人垣の中からオズワルドが進み出る。


「ケインです。鉄道安全管理部の――」


「知っている」


 グレアムは振り返らない。


「安全管理官として申し上げます。このまま三番線を封鎖すれば、後続列車へ影響が出ます」


「もう出ている」


「七号車だけを切り離し、ほかの車両を車庫へ移すべきです」


「事件現場を動かせと?」


「証拠を保存したうえで」


「車両を動かせば、床の紙片も、血液も、連結器の位置も変わる。蒸気暖房管の状態も失われる」


「本線ホームを長時間塞ぐわけには」


「後続を別の番線へ回せ」


「運行計画が」


「安全管理官だろう。安全に管理しろ」


 オズワルドは反論を飲み込んだ。


 グレアムは、黒い医療鞄を持つ女性へ向き直る。


「先生」


「ええ」


 女性が前へ出た。


 五十歳前後のヒューマ。


 灰色の髪を後頭部で束ね、丸い眼鏡をかけている。


 外套の下には白い作業衣。


 ヴェルム=クロウ警察嘱託検死官、ヘルガ=ミュラー。


 以前からグレアムと組んでいるらしく、説明を待たずに手袋を着け始めていた。


「死体は車両中央、左側奥の個室です」


 セルマが言う。


「足元に紙片、眼鏡の破片、金属留め具。胸ポケットに古い乗車券。座席下に《灰橋事故列車 原始編成表》と記された書類があります」


「動かした?」


「いいえ」


「乗車券も?」


「ポケットから見えていた日付を確認しただけです」


「結構」


 ヘルガは医療鞄を警官へ預け、七号車へ向かう。


 グレアムも続こうとする。


「クラウス」


「はい」


「お前は外だ」


「分かりました」


 あまりに素直な返事だった。


 グレアムが足を止める。


「何だ」


「何も」


「何か見つけている顔だ」


「まだ、見た事実を分けている段階です」


「なら、口も出すな」


「検死官の所見が出るまでは」


「そのあとなら出すつもりか」


「必要なら」


 グレアムの眉間へ深い溝ができた。


 扉の前からヘルガが振り返る。


「二人とも、死体の前で縄張り争いをしないでください」


「争っていません」


 グレアムとレオンの声が重なった。


「では静かに」


 ヘルガは七号車へ入った。


     *


 警察の記録係は、七号車の外観から順に記録を始めた。


 車体全長。


 車輪の位置。


 正式番号《C―214》。


 後付けされた真鍮板。


 連結器。


 制動管。


 蒸気暖房管。


 前方扉の切断された銅線。


 証拠布に包まれた鉛封。


 後方扉に残る未開封の封印。


 窓の留め金。


 車輪や踏段へ付着した白灰。


 一項目ずつ声に出され、紙へ記される。


「後部扉を確認しろ」


 グレアムの命令で、二人の警官が車両後方へ回った。


 最後尾の赤灯が、彼らの顔を赤く染める。


「封印線、破断なし!」


「鉛封、変形なし!」


「扉は?」


「施錠されています!」


「窓を一枚ずつ。硝子の割れ、開閉状態、外枠の傷」


 警官たちは左右へ分かれた。


「右側一番、閉鎖!」


「右側二番、閉鎖!」


「左側一番、閉鎖!」


 窓枠は古く、木材の一部は歪んでいる。


 だが、人が通れるほど開いた箇所はない。


 硝子の破損もない。


 外からこじ開けた新しい痕跡も見つからなかった。


「屋根は?」


「昇りますか」


「先に写真を撮れ。足跡があれば、踏んだあとでは遅い」


 保守梯子が運ばれ、屋根も照明と写真記録器によって調べられる。


 煤は積もっている。


 雨に流れた筋。


 古い修理跡。


 だが、人が這ったと断定できる新しい跡は、すぐには見つからない。


 グレアムは七号車を見上げた。


 前方扉の封印は、死体発見時まで残っていた。


 後方扉の封印は、今も残っている。


 窓はすべて閉じている。


 列車が灰橋を出てからヴェルム=クロウへ到着するまで、七号車は走行していた。


 その間に誰かが入ったなら、扉、窓、屋根のいずれかを使ったはずだ。


 だが、どこにも使われた痕跡がない。


「密室ですね」


 ミラベルが小声で言った。


「その言葉を使うには早いです」


 レオンは七号車の窓を見ていた。


「前も後ろも封印され、窓も閉まっています」


「だからといって、最初から《密室》と名づける必要はありません」


「何が違うんです?」


「密室と呼べば、《犯人はどう入ったか》を先に考えてしまう」


「普通は考えます」


「その問いが正しいとは、まだ決まっていません」


「では、何と呼ぶんです」


 レオンは少し考えた。


「扉と窓が閉じた古い客車」


「見出しには向きません」


「記事のために事件が起きたわけではありません」


 ミラベルは手帳へ書いた。


 ――レオン、密室と呼ぶことを避ける。


「それも消してください」


「なぜ見えるんです?」


「隠していないからです」


 七号車の中から、ヘルガの声がした。


「警部。記録係を一人、中へ」


 靴底へ布覆いをつけた記録係が、既存の足跡を避けながら車内へ入る。


 しばらくして、内部から項目を読み上げる声が聞こえ始めた。


「被害者、男性。推定四十代後半。身元、ダリウス=モーン、四十八歳で間違いなし」


 ニコルが、立入禁止帯の外で顔を伏せた。


 両手には警察の保護布が巻かれ、外套の両袖にも別々の証拠覆いがつけられている。


 手帳と書類鞄は警官が預かっていた。


 ミラベルは彼の横顔を見る。


 悲しみ。


 恐怖。


 混乱。


 何とも取れる。


 それを、この場で犯人の表情だと決めることはできない。


「致命傷とみられる損傷、後頭部に一か所」


 ヘルガの声が続く。


「鈍い金属器具による打撃の可能性。創縁に不整。頭蓋骨骨折を伴うとみられます」


「争った跡は」


 グレアムが尋ねる。


「右手の爪に微細な繊維。防御創は外見上、目立ちません」


「不意打ちか」


「可能性はあります。ただし解剖前には断定しません」


「血液は」


「後頭部から座席背面へ。床への滴下は少量。座位で殴打されたか、殴打後すぐ座席へ置かれた可能性があります」


「別の場所で殺され、運び込まれた可能性は」


「否定できません」


 ミラベルがレオンを見る。


「運ばれた可能性」


「まだ可能性です」


「七号車の外から?」


「それも、まだ分かりません」


「そればかりですね」


「分からない段階で分かったふりをするより、ましです」


 ミラベルは手帳へ書こうとした。


「今の言葉も駄目です」


「まだ書いていません」


「鉛筆が動いていました」


 車内で硝子器具の触れ合う音がした。


 衣服を最低限ずらす布音。


 温度計を確認する声。


 死者へ敬意を払うことと、死体を物として測定することが同時に行われている。


 この街では、死は感情だけでは処理されない。


 死因。


 死亡時刻。


 傷の角度。


 血液量。


 胃の内容物。


 硬直。


 体温。


 それらが記録され、検死官と警察官が署名して、初めて制度上の死者になる。


 人が死んだという事実さえ、測定されなければ保険も相続も裁判も始まらない。


 数分後、ヘルガが個室から出てきた。


「第一所見を言います」


 彼女は眼鏡を押し上げた。


「正式な死亡時刻は、検死院での再検査後です。ここで出せるのは幅だけ」


「どれくらいだ」


 グレアムが尋ねる。


「身体には明確な残温があります。顎と首に硬直が始まりかけていますが、四肢では弱い。血液の乾燥状態も新しい」


「結論は」


「通常の室内環境なら、死亡から一時間前後。広く取っても、一時間半以内と考えるのが自然です」


 ホームの空気が張りつめた。


 セルマが駅時計を見る。


 二十二時五十八分。


 死体発見は二十二時四十四分。


 列車到着は二十二時三十五分。


 灰橋発車は二十一時二十三分。


「一時間前後なら」


 セルマが言う。


「灰橋を発車したあとに死亡したことになります」


「通常の環境なら」


 ヘルガは繰り返した。


「その言葉を二度使いましたね」


 グレアムが言う。


「この客車は通常の環境ではありません」


 ヘルガは床下へ視線を向けた。


「蒸気暖房が作動しています。室温は外気よりかなり高い。遺体の冷却速度へ影響します」


「どの程度、死亡時刻を遡れる」


「蒸気供給が始まった時刻、客室の温度変化、遺体が受けた熱量が分からなければ計算できません」


「灰橋で殺された可能性は」


「灰橋到着直後に死亡した場合、発見まで約一時間四十分。暖房条件によっては、現在の残温を示すことはあり得ます」


「だが、最初の推定では一時間前後」


「見かけ上は、です」


 ヘルガの声は平静だった。


「体温は嘘をつきません。ただし、温められた物体の温度を、生命の残りと誤解することはあります」


 レオンの目が動いた。


「遺体の温かさに、偏りはありましたか」


 ヘルガが彼を見る。


「なぜ、そう思うのです?」


「窓です」


 レオンは七号車の左側面を示した。


 死体のある個室の窓は、外側から見ても白く曇っている。


 硝子の内側へ細かな水滴がつき、上から下へ筋を作っていた。


「反対側を見てください」


 警官が線路側へ回り、右窓へ灯りを当てる。


 同じ個室。


 同じ室温。


 同じ外気。


 だが右側の曇りは薄い。


 縁に少量の水滴があるだけで、左窓のように全面が白く覆われてはいなかった。


「左右で違う」


 ミラベルが言った。


「風向きでは?」


 オズワルドが口を挟む。


「停車後、外気の当たり方で差が出ることはある」


「あり得ます」


 レオンは否定しなかった。


「ですが、座席にも差があります」


     *


 グレアム、ヘルガ、セルマ、レオンが、再び七号車へ入った。


 ミラベルも続こうとする。


「お前は外だ」


 グレアムが言った。


「なぜレオンさんは」


「余計な物へ触らない」


「私も触りません」


「触らなくても動かす」


「何を?」


「人の神経をだ」


 扉が彼女の前で半分閉じられた。


「見える場所にいますからね!」


「見えなくても声は聞こえる!」


 個室の周囲には白い紐が張られ、立入位置が指定されている。


 レオンは紐の外で止まった。


 ダリウスが置かれているのは、左側の座席。


 左肩と左腕が窓側へ寄り、左腰から腿にかけて座面へ強く接している。


 座席下には蒸気暖房管が走っていた。


 古い赤褐色の布張り座面。


 窓側の端。


 遺体の左腿が触れている周辺だけ、生地の色が濃く変わっている。


「湿っていますね」


 ヘルガが言う。


 直接触れる前に写真を撮り、清潔な吸湿紙の端を当てる。


 紙へ水分が移った。


「血液ではありません」


「蒸気の凝結?」


 グレアムが尋ねる。


「可能性はあります。遺体の衣服も、左側だけ局所的に湿っています」


「右側は」


「ほぼ乾いています」


 反対側の空席も乾いていた。


 左窓だけが強く曇り、その下の座席だけが湿っている。


 セルマは、左右の座席下を通る配管へ手を近づけた。


 まだ触れない。


「左側から、かなり強い熱を感じます」


 右側へ移る。


「こちらは、左ほどではありません」


「同じ暖房系統ではないのか」


 グレアムが尋ねる。


「主配管から、左右の座席下へ分岐する構造です」


「古い車両なら片側だけ詰まっている可能性は?」


「あります」


「故障か」


「現時点では判断できません」


 レオンがしゃがみ、床板へ顔を近づける。


 整備蓋には触れない。


 隙間から伝わる熱だけを確かめる。


「管の表面温度を測れますか」


「接触温度計があります」


 ヘルガが医療鞄から細い器具を取り出す。


 警察写真を撮ったあと、左側の暖房管へ測定端を当てる。


 数字を記録。


 続いて右側。


 もう一度、左。


「差があります」


「どれくらい」


 グレアムが尋ねる。


「左側が明らかに高い。正確な数値は記録しますが、機械そのものの状態は鉄道技師へ確認させるべきです」


「弁や分岐は?」


「今は開けないでください」


 レオンが言った。


「なぜだ」


「整備蓋を開け、弁へ触れれば、発見時の状態を失います」


「位置だけ見ればよい」


「先に外観写真、蓋のねじ、工具痕、周辺の埃を記録する必要があります」


 グレアムが記録係を見る。


「機械鑑定班を呼べ。誰も蓋へ触るな」


「承知しました」


 この時点で分かるのは、左右の管の温度が違うことだけだった。


 なぜ違うのか。


 故障か。


 長年の錆か。


 誰かが調整したのか。


 まだ確かめられてはいない。


「遺体自体の温度も、左右で分けて測ります」


 ヘルガが言った。


「現場では大きく動かせません。検死院へ運んだあと、左腕、右腕、左右の脇、側腹部、大腿、背部を別々に記録します」


「背中は冷たい可能性があります」


 レオンが言う。


「なぜです」


「座席へ完全にもたれていません。左側だけが窓と座面の間へ押し込まれている」


 グレアムが遺体の姿勢を見た。


 左腕は座席背と窓の間へ入り込んでいる。


 左腿は暖房管の真上。


 右肩は通路側へ傾き、背中の一部は座席から浮いている。


 自然に座った死者の姿勢にも見える。


 だが、熱を受けやすい場所へ左半身を寄せた姿勢にも見えた。


「配置された可能性か」


 グレアムが尋ねる。


「そう見える可能性はあります」


「曖昧だな」


「死体を動かす前に断定するほうが危険です」


 ヘルガが答えた。


「検死院で、衣服の皺、血液の流れ、死斑の位置を確認します。生前の姿勢と、死後に置かれた姿勢が違えば、痕跡が残ります」


 グレアムは頷いた。


「死亡時刻の推定は」


「保留範囲を広げます」


「どこまで」


「現在のところ、発見前一時間以内を中心とする初期所見は残します。ただし、灰橋停車中まで遡る可能性を排除しません」


「走行中に殺されたとは断定できない」


「できません」


 オズワルドが入口から言った。


「なら、この車両が密室であったかどうかも意味を失う」


「失いません」


 レオンが答えた。


「死亡時刻が変われば、どの時間帯に部屋が閉ざされていたかを確認する必要がある」


「言葉遊びだ」


「時刻は、事件の構造です」


「体温が当てにならないなら、何を基準にする」


「体温以外のものです」


 ヘルガが言った。


「硬直、血液、胃内容物、死斑。それに、客車内の熱環境」


「列車会社へ、暖房管の仕様書を出させます」


 セルマが言う。


「この型の客車が、どの圧力でどれほど温まるか。主配管と左右配管の構造も」


「八年前の廃車だぞ」


 オズワルドが言う。


「記録が残っているとは限らない」


「残っていなければ、実車を調べます」


 セルマは冷たく返した。


「鉄道会社は、記録がなければ車両が存在しないとは言えません」


 その言葉に、オズワルドは黙った。


 ミラベルは扉の外から、その会話を手帳へ書き留めた。


 七号車は、記録には存在しなかった。


 だが、今は目の前にある。


 熱も同じなのかもしれない。


 検死記録へ《温かい》と書かれれば、人は死後間もないと思う。


 だが、温かさが生命の残りだとは限らない。


     *


 車外へ戻ったグレアムは、容疑者候補を一人ずつ見渡した。


 ニコル=ヴェイル。


 ダリウスとともに灰橋で降り、一人で列車へ戻った助手。


 オズワルド=ケイン。


 被害者と食堂車で口論し、八年前の事故報告書へ署名した安全管理官。


 偽名《フィオナ=ファルド》を使って乗車したエルフの女。


 主任車掌セルマ=ルーク。


 機関士ボルグ=ダイン。


「被害者と接触していた者を優先して聴取する」


 グレアムが警官へ命じる。


「補償局の書記、安全管理官、偽名の女、主任車掌、機関士。それぞれ別室へ」


「偽名?」


 ミラベルが聞き逃さなかった。


「今はそっちへ行くな」


「でも、フィオナさんは」


「身分証の印影が、名義人本人の記録と一致しなかった」


 エルフの女は警官二人の間に立っていた。


 逃げようとはしていない。


 ただ、七号車へ向ける目に、ダリウスの死を悼む色はなかった。


「ほかには?」


 レオンが尋ねる。


「ニコルは、灰橋で別れたあと、ダリウスが列車へ戻るところを見ていない。オズワルドは被害者と口論。セルマとボルグは、八年前の灰橋事故にも勤務記録がある」


 セルマと、離れた場所にいるボルグの表情が変わった。


「八年前の勤務記録?」


 ミラベルが言う。


「もう調べたんですか」


「署から来る途中に、鉄道警察へ照会させた」


「速いですね」


「お前たちが死体を見つける速度へ追いつくには、このくらい必要だ」


 グレアムはレオンを見る。


「全員、話を聞く理由がある」


「犯人である理由ではありません」


「分かっている」


「ダリウスを憎む理由も、それぞれ違うでしょう」


「それを今から調べる」


「原始編成表と古い乗車券は?」


「位置を写真記録したあと押収する」


「乗車券の鋏痕も保存してください」


「なぜだ」


「八年前に、どこで使用された券か分かる可能性があります」


 セルマの顔が、ほんの一瞬だけ強張った。


 レオンはそれを見た。


 グレアムも見た。


 ミラベルも見た。


 誰も、その場では何も言わなかった。


「クラウス」


 グレアムが言う。


「現場から離れろ」


「左右の窓の曇りは、乾く前に写真を」


「撮らせている」


「座席の湿りも」


「記録した」


「外気温、車内温度、左右の配管表面温度」


「全部、指示した」


「工具架の蒸気弁用鉄柄も、表面へ触れずに」


「分かっている!」


 怒声に、車体の屋根から埃が落ちた。


 レオンは素直に一歩下がった。


「怒られましたね」


 ミラベルが言う。


「必要なことは伝えました」


「何か分かったんですか」


「まだです」


「左側だけ熱い理由は?」


「左側の暖房管が、右より強く熱を持っているからです」


「なぜ?」


「それを調べます」


「死体を温めるために、誰かが何かをした?」


 レオンは答えなかった。


「死亡時刻を新しく見せるため、とか」


「聞こえていますよ」


「聞かせています」


「記事には書かないでください」


「まだ書きません」


「珍しいですね」


「推理を外したら恥ずかしいので」


「それが理由ですか」


「真実ではないことを書きたくない、という理由も半分あります」


「残り半分は」


「恥ずかしいからです」


 レオンは七号車を見た。


 左側の窓だけが白く曇り、硝子の水滴がゆっくり下へ流れている。


 その内側では、左側の座席だけが湿っていた。


 左の暖房管は、右より明らかに熱い。


 ダリウスの左半身には、強い残温がある。


 車内の熱は、開かれた扉と窓硝子を通して、今も外へ逃げ続けていた。


 座席の湿りも。


 配管の熱も。


 遺体の温度も。


 時間とともに失われる。


 現場は、そこにあるだけで変わっていく。


 何もしなくても、証拠は消える。


 だからこそ、最初に見たものが重要になる。


 温かい死体。


 閉じた窓。


 封印された扉。


 左だけ曇った硝子。


 片側だけ湿った座席。


 左右で違う配管温度。


「死体が温かい」


 ミラベルが呟いた。


「はい」


「でも、それは、生きていた時間を示していないかもしれない」


 レオンは、しばらく答えなかった。


 やがて、白く曇る窓を見たまま言う。


「死体が嘘をついているのではありません」


「では?」


「熱の意味を、私たちが読み違えているのかもしれない」


 七号車の左窓を、水滴がまた一筋流れた。


 死亡時刻を示すはずの温もり。


 だが、その温もりが生命の名残ではないのなら。


 この事件で最初に疑うべきものは、封印でも鍵でもない。


 死体に残った――熱そのものだった。

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