第4節 ― 温かい死体
ヴェルム=クロウ中央駅の三番線は、二十二時五十分を過ぎるころには、到着ホームではなく事件現場へ変わっていた。
七号車――正式な車体番号《C―214》を中心に、赤と白の立入禁止帯が張られている。
帯の内側には、鉄道職員、駅警備員、警察の先着要員。
帯の外側には、降車を止められた乗客、事情を聞きつけて集まった駅員、何が起きたのか見ようと首を伸ばす野次馬。
そのさらに外では、宿の客引きや荷運び人夫が仕事を中断し、煤けた柱の陰からこちらを窺っていた。
編成表にない客車が、死体を乗せて到着した。
その噂は、汽車よりも速く駅構内を駆け回っている。
「七号車の中で人が殺されたらしい」
「八年前の事故車だ」
「死体は、まだ生きているように温かかった」
「前も後ろも封印されていた」
「灰橋の亡霊列車が帰ってきたんだ」
一つの事実が伝わるたび、その周囲へ三つの嘘が生まれていく。
ミラベルは立入禁止帯の内側に立ち、飛び交う声を聞きながら手帳へ時刻を書き込んだ。
――二十二時五十二分。
――駅構内で、すでに《八年前の事故車》との噂。
少し考え、その下へ一行。
――発信源、不明。
「それも記事にするつもりですか」
セルマが尋ねた。
主任車掌の制帽は、いつもより深く被られている。
七号車の扉を開け、死体を発見した責任者として、駅長、安全管理部、警察の先着係から立て続けに質問を受けていた。
それでも姿勢は崩れていない。
ただし右手だけは、時折、白い手袋の指を握り直していた。
切断した銅線の感触が、まだ指へ残っているのかもしれない。
「噂が、いつ、どこから広がったかは重要です」
ミラベルが答える。
「なぜです」
「警察も鉄道会社も発表していない情報を、誰かが先に知っていたら不自然でしょう」
セルマは彼女を見る。
「あなたが広めたのでは?」
「八年前の事故車だとは言っていません」
「七号車に死体があったことは?」
「大きな声では」
「声量の問題ではありません」
「でも、監査官の名前は皆さんに聞こえていました」
「聞かせたのは、クラウスさんです」
少し離れた場所で七号車を観察していたレオンが、顔だけを向けた。
「私ですか」
「車外から叫ぶワトリアさんへ、死体はダリウス監査官だと答えたでしょう」
「答えなければ、さらに大声で質問を続けると思いました」
「続けました」
「判断を誤りました」
ミラベルが手帳を閉じる。
「二人とも、私を何だと思っているんです」
「新聞記者です」
レオンとセルマの声が重なった。
言葉は同じだったが、込められた感情は違っていた。
ミラベルが反論しようとしたとき、駅舎側から重い靴音が近づいてきた。
一定の速さ。
迷いのない歩幅。
集まっていた人々が、押されたわけでもないのに左右へ分かれる。
現れたのは、濃灰色の外套を着たドワーフだった。
背は低い。
だが肩幅が広く、厚い胸板と太い腕のため、周囲のヒューマより小さく見えることはない。
硬い革帽子。
短く整えられた黒い髭。
左眉を横切る古い傷。
ヴェルム=クロウ警察、グレアム警部。
その後ろには制服警官が六名。
記録係が一名。
さらに、黒い医療鞄を提げた女性が続いている。
グレアムは立入禁止帯の前で足を止めた。
古い客車を見る。
車体中央へ取り付けられた真鍮製の《7》。
切断された前方扉の封印。
最後尾で赤く燃える標識灯。
それから、帯の内側に立っているレオンとミラベルへ目を向けた。
顔が目に見えて険しくなった。
「なぜ、お前たちがいる」
「列車に乗っていたからです」
レオンが答えた。
「お前は列車に乗るだけで、死体を増やすのか」
「増えたのは客車です。死体は一人ですよ」
「そういう問題ではない!」
グレアムの声が、硝子屋根の下へ響いた。
周囲で事情を知らない駅員まで黙る。
ミラベルは手帳を開こうとした。
「書くな」
「まだ何も」
「顔が書いている」
「顔には書けません」
「揚げ足も取るな」
「再会場面としては、よい会話だと思います」
「記事にするな!」
グレアムは一度、深く息を吸った。
怒鳴っても二人が消えないことを思い出したらしい。
「状況を説明しろ」
セルマが前へ出る。
「二十二時三十五分、《黒梟号》が三番線へ到着しました。到着確認担当の駅員が、最後尾の赤灯が本来の位置より遠いことに気づき、編成表にない客車を発見しました」
「列車は何両で出た」
「客車六両です」
「到着時は」
「七両」
「追加を承認した者は」
「私は承認していません。運行表にも記載はありません」
「途中停車は」
「灰橋操車場のみ」
「停車時間」
「二十一時五分から二十一時二十三分。十八分間です」
「不明車両の状態」
「正式車体番号《C―214》。側面へ真鍮製の《7》が後付けされています。前後の扉に旧式の封印。窓はすべて閉鎖。前方扉の封印のみ、駅員立会いで切断しました。後方扉は未開封です」
「死体発見は」
「二十二時四十四分ごろ」
「触れた者は」
「私が頸部へ触れ、脈がないことを確認しました。それ以外には、クラウスさんと駅警備員一名が車内へ入りました。両名とも遺体には触れていません」
「クラウス」
グレアムが低く呼ぶ。
「はい」
「なぜ入った」
「セルマ車掌の許可がありました」
「許可したのか」
「犯罪現場の可能性がありました」
セルマは答えた。
「鉄道警備員には、殺人現場を保存する訓練がありません」
「今後、こいつを現場保全要員に数えるな」
「警部が到着するまで、誰かが足跡と落下物を見る必要がありました」
「余計なものまで見る」
「それが仕事です」
レオンが答えた。
グレアムは彼を睨み、やがて片手を上げた。
「全員の身元と現在位置を押さえろ」
制服警官たちが動き始める。
「列車の乗客、乗務員、駅員、鉄道職員。不明車両へ近づいた者は全員だ。駅から出すな。貨物門、職員通路、地下搬入口も閉じろ」
「乗客全員ですか」
駅長が慌てて尋ねた。
「全員だ」
「一等客の中には、商会役員や議員も」
「死体は階級を確かめてから作られるのか?」
「いえ、ですが――」
「帰したあとで犯人だったと分かれば、お前が捕まえに行くのか」
駅長は口を閉じた。
人垣の中からオズワルドが進み出る。
「ケインです。鉄道安全管理部の――」
「知っている」
グレアムは振り返らない。
「安全管理官として申し上げます。このまま三番線を封鎖すれば、後続列車へ影響が出ます」
「もう出ている」
「七号車だけを切り離し、ほかの車両を車庫へ移すべきです」
「事件現場を動かせと?」
「証拠を保存したうえで」
「車両を動かせば、床の紙片も、血液も、連結器の位置も変わる。蒸気暖房管の状態も失われる」
「本線ホームを長時間塞ぐわけには」
「後続を別の番線へ回せ」
「運行計画が」
「安全管理官だろう。安全に管理しろ」
オズワルドは反論を飲み込んだ。
グレアムは、黒い医療鞄を持つ女性へ向き直る。
「先生」
「ええ」
女性が前へ出た。
五十歳前後のヒューマ。
灰色の髪を後頭部で束ね、丸い眼鏡をかけている。
外套の下には白い作業衣。
ヴェルム=クロウ警察嘱託検死官、ヘルガ=ミュラー。
以前からグレアムと組んでいるらしく、説明を待たずに手袋を着け始めていた。
「死体は車両中央、左側奥の個室です」
セルマが言う。
「足元に紙片、眼鏡の破片、金属留め具。胸ポケットに古い乗車券。座席下に《灰橋事故列車 原始編成表》と記された書類があります」
「動かした?」
「いいえ」
「乗車券も?」
「ポケットから見えていた日付を確認しただけです」
「結構」
ヘルガは医療鞄を警官へ預け、七号車へ向かう。
グレアムも続こうとする。
「クラウス」
「はい」
「お前は外だ」
「分かりました」
あまりに素直な返事だった。
グレアムが足を止める。
「何だ」
「何も」
「何か見つけている顔だ」
「まだ、見た事実を分けている段階です」
「なら、口も出すな」
「検死官の所見が出るまでは」
「そのあとなら出すつもりか」
「必要なら」
グレアムの眉間へ深い溝ができた。
扉の前からヘルガが振り返る。
「二人とも、死体の前で縄張り争いをしないでください」
「争っていません」
グレアムとレオンの声が重なった。
「では静かに」
ヘルガは七号車へ入った。
*
警察の記録係は、七号車の外観から順に記録を始めた。
車体全長。
車輪の位置。
正式番号《C―214》。
後付けされた真鍮板。
連結器。
制動管。
蒸気暖房管。
前方扉の切断された銅線。
証拠布に包まれた鉛封。
後方扉に残る未開封の封印。
窓の留め金。
車輪や踏段へ付着した白灰。
一項目ずつ声に出され、紙へ記される。
「後部扉を確認しろ」
グレアムの命令で、二人の警官が車両後方へ回った。
最後尾の赤灯が、彼らの顔を赤く染める。
「封印線、破断なし!」
「鉛封、変形なし!」
「扉は?」
「施錠されています!」
「窓を一枚ずつ。硝子の割れ、開閉状態、外枠の傷」
警官たちは左右へ分かれた。
「右側一番、閉鎖!」
「右側二番、閉鎖!」
「左側一番、閉鎖!」
窓枠は古く、木材の一部は歪んでいる。
だが、人が通れるほど開いた箇所はない。
硝子の破損もない。
外からこじ開けた新しい痕跡も見つからなかった。
「屋根は?」
「昇りますか」
「先に写真を撮れ。足跡があれば、踏んだあとでは遅い」
保守梯子が運ばれ、屋根も照明と写真記録器によって調べられる。
煤は積もっている。
雨に流れた筋。
古い修理跡。
だが、人が這ったと断定できる新しい跡は、すぐには見つからない。
グレアムは七号車を見上げた。
前方扉の封印は、死体発見時まで残っていた。
後方扉の封印は、今も残っている。
窓はすべて閉じている。
列車が灰橋を出てからヴェルム=クロウへ到着するまで、七号車は走行していた。
その間に誰かが入ったなら、扉、窓、屋根のいずれかを使ったはずだ。
だが、どこにも使われた痕跡がない。
「密室ですね」
ミラベルが小声で言った。
「その言葉を使うには早いです」
レオンは七号車の窓を見ていた。
「前も後ろも封印され、窓も閉まっています」
「だからといって、最初から《密室》と名づける必要はありません」
「何が違うんです?」
「密室と呼べば、《犯人はどう入ったか》を先に考えてしまう」
「普通は考えます」
「その問いが正しいとは、まだ決まっていません」
「では、何と呼ぶんです」
レオンは少し考えた。
「扉と窓が閉じた古い客車」
「見出しには向きません」
「記事のために事件が起きたわけではありません」
ミラベルは手帳へ書いた。
――レオン、密室と呼ぶことを避ける。
「それも消してください」
「なぜ見えるんです?」
「隠していないからです」
七号車の中から、ヘルガの声がした。
「警部。記録係を一人、中へ」
靴底へ布覆いをつけた記録係が、既存の足跡を避けながら車内へ入る。
しばらくして、内部から項目を読み上げる声が聞こえ始めた。
「被害者、男性。推定四十代後半。身元、ダリウス=モーン、四十八歳で間違いなし」
ニコルが、立入禁止帯の外で顔を伏せた。
両手には警察の保護布が巻かれ、外套の両袖にも別々の証拠覆いがつけられている。
手帳と書類鞄は警官が預かっていた。
ミラベルは彼の横顔を見る。
悲しみ。
恐怖。
混乱。
何とも取れる。
それを、この場で犯人の表情だと決めることはできない。
「致命傷とみられる損傷、後頭部に一か所」
ヘルガの声が続く。
「鈍い金属器具による打撃の可能性。創縁に不整。頭蓋骨骨折を伴うとみられます」
「争った跡は」
グレアムが尋ねる。
「右手の爪に微細な繊維。防御創は外見上、目立ちません」
「不意打ちか」
「可能性はあります。ただし解剖前には断定しません」
「血液は」
「後頭部から座席背面へ。床への滴下は少量。座位で殴打されたか、殴打後すぐ座席へ置かれた可能性があります」
「別の場所で殺され、運び込まれた可能性は」
「否定できません」
ミラベルがレオンを見る。
「運ばれた可能性」
「まだ可能性です」
「七号車の外から?」
「それも、まだ分かりません」
「そればかりですね」
「分からない段階で分かったふりをするより、ましです」
ミラベルは手帳へ書こうとした。
「今の言葉も駄目です」
「まだ書いていません」
「鉛筆が動いていました」
車内で硝子器具の触れ合う音がした。
衣服を最低限ずらす布音。
温度計を確認する声。
死者へ敬意を払うことと、死体を物として測定することが同時に行われている。
この街では、死は感情だけでは処理されない。
死因。
死亡時刻。
傷の角度。
血液量。
胃の内容物。
硬直。
体温。
それらが記録され、検死官と警察官が署名して、初めて制度上の死者になる。
人が死んだという事実さえ、測定されなければ保険も相続も裁判も始まらない。
数分後、ヘルガが個室から出てきた。
「第一所見を言います」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「正式な死亡時刻は、検死院での再検査後です。ここで出せるのは幅だけ」
「どれくらいだ」
グレアムが尋ねる。
「身体には明確な残温があります。顎と首に硬直が始まりかけていますが、四肢では弱い。血液の乾燥状態も新しい」
「結論は」
「通常の室内環境なら、死亡から一時間前後。広く取っても、一時間半以内と考えるのが自然です」
ホームの空気が張りつめた。
セルマが駅時計を見る。
二十二時五十八分。
死体発見は二十二時四十四分。
列車到着は二十二時三十五分。
灰橋発車は二十一時二十三分。
「一時間前後なら」
セルマが言う。
「灰橋を発車したあとに死亡したことになります」
「通常の環境なら」
ヘルガは繰り返した。
「その言葉を二度使いましたね」
グレアムが言う。
「この客車は通常の環境ではありません」
ヘルガは床下へ視線を向けた。
「蒸気暖房が作動しています。室温は外気よりかなり高い。遺体の冷却速度へ影響します」
「どの程度、死亡時刻を遡れる」
「蒸気供給が始まった時刻、客室の温度変化、遺体が受けた熱量が分からなければ計算できません」
「灰橋で殺された可能性は」
「灰橋到着直後に死亡した場合、発見まで約一時間四十分。暖房条件によっては、現在の残温を示すことはあり得ます」
「だが、最初の推定では一時間前後」
「見かけ上は、です」
ヘルガの声は平静だった。
「体温は嘘をつきません。ただし、温められた物体の温度を、生命の残りと誤解することはあります」
レオンの目が動いた。
「遺体の温かさに、偏りはありましたか」
ヘルガが彼を見る。
「なぜ、そう思うのです?」
「窓です」
レオンは七号車の左側面を示した。
死体のある個室の窓は、外側から見ても白く曇っている。
硝子の内側へ細かな水滴がつき、上から下へ筋を作っていた。
「反対側を見てください」
警官が線路側へ回り、右窓へ灯りを当てる。
同じ個室。
同じ室温。
同じ外気。
だが右側の曇りは薄い。
縁に少量の水滴があるだけで、左窓のように全面が白く覆われてはいなかった。
「左右で違う」
ミラベルが言った。
「風向きでは?」
オズワルドが口を挟む。
「停車後、外気の当たり方で差が出ることはある」
「あり得ます」
レオンは否定しなかった。
「ですが、座席にも差があります」
*
グレアム、ヘルガ、セルマ、レオンが、再び七号車へ入った。
ミラベルも続こうとする。
「お前は外だ」
グレアムが言った。
「なぜレオンさんは」
「余計な物へ触らない」
「私も触りません」
「触らなくても動かす」
「何を?」
「人の神経をだ」
扉が彼女の前で半分閉じられた。
「見える場所にいますからね!」
「見えなくても声は聞こえる!」
個室の周囲には白い紐が張られ、立入位置が指定されている。
レオンは紐の外で止まった。
ダリウスが置かれているのは、左側の座席。
左肩と左腕が窓側へ寄り、左腰から腿にかけて座面へ強く接している。
座席下には蒸気暖房管が走っていた。
古い赤褐色の布張り座面。
窓側の端。
遺体の左腿が触れている周辺だけ、生地の色が濃く変わっている。
「湿っていますね」
ヘルガが言う。
直接触れる前に写真を撮り、清潔な吸湿紙の端を当てる。
紙へ水分が移った。
「血液ではありません」
「蒸気の凝結?」
グレアムが尋ねる。
「可能性はあります。遺体の衣服も、左側だけ局所的に湿っています」
「右側は」
「ほぼ乾いています」
反対側の空席も乾いていた。
左窓だけが強く曇り、その下の座席だけが湿っている。
セルマは、左右の座席下を通る配管へ手を近づけた。
まだ触れない。
「左側から、かなり強い熱を感じます」
右側へ移る。
「こちらは、左ほどではありません」
「同じ暖房系統ではないのか」
グレアムが尋ねる。
「主配管から、左右の座席下へ分岐する構造です」
「古い車両なら片側だけ詰まっている可能性は?」
「あります」
「故障か」
「現時点では判断できません」
レオンがしゃがみ、床板へ顔を近づける。
整備蓋には触れない。
隙間から伝わる熱だけを確かめる。
「管の表面温度を測れますか」
「接触温度計があります」
ヘルガが医療鞄から細い器具を取り出す。
警察写真を撮ったあと、左側の暖房管へ測定端を当てる。
数字を記録。
続いて右側。
もう一度、左。
「差があります」
「どれくらい」
グレアムが尋ねる。
「左側が明らかに高い。正確な数値は記録しますが、機械そのものの状態は鉄道技師へ確認させるべきです」
「弁や分岐は?」
「今は開けないでください」
レオンが言った。
「なぜだ」
「整備蓋を開け、弁へ触れれば、発見時の状態を失います」
「位置だけ見ればよい」
「先に外観写真、蓋のねじ、工具痕、周辺の埃を記録する必要があります」
グレアムが記録係を見る。
「機械鑑定班を呼べ。誰も蓋へ触るな」
「承知しました」
この時点で分かるのは、左右の管の温度が違うことだけだった。
なぜ違うのか。
故障か。
長年の錆か。
誰かが調整したのか。
まだ確かめられてはいない。
「遺体自体の温度も、左右で分けて測ります」
ヘルガが言った。
「現場では大きく動かせません。検死院へ運んだあと、左腕、右腕、左右の脇、側腹部、大腿、背部を別々に記録します」
「背中は冷たい可能性があります」
レオンが言う。
「なぜです」
「座席へ完全にもたれていません。左側だけが窓と座面の間へ押し込まれている」
グレアムが遺体の姿勢を見た。
左腕は座席背と窓の間へ入り込んでいる。
左腿は暖房管の真上。
右肩は通路側へ傾き、背中の一部は座席から浮いている。
自然に座った死者の姿勢にも見える。
だが、熱を受けやすい場所へ左半身を寄せた姿勢にも見えた。
「配置された可能性か」
グレアムが尋ねる。
「そう見える可能性はあります」
「曖昧だな」
「死体を動かす前に断定するほうが危険です」
ヘルガが答えた。
「検死院で、衣服の皺、血液の流れ、死斑の位置を確認します。生前の姿勢と、死後に置かれた姿勢が違えば、痕跡が残ります」
グレアムは頷いた。
「死亡時刻の推定は」
「保留範囲を広げます」
「どこまで」
「現在のところ、発見前一時間以内を中心とする初期所見は残します。ただし、灰橋停車中まで遡る可能性を排除しません」
「走行中に殺されたとは断定できない」
「できません」
オズワルドが入口から言った。
「なら、この車両が密室であったかどうかも意味を失う」
「失いません」
レオンが答えた。
「死亡時刻が変われば、どの時間帯に部屋が閉ざされていたかを確認する必要がある」
「言葉遊びだ」
「時刻は、事件の構造です」
「体温が当てにならないなら、何を基準にする」
「体温以外のものです」
ヘルガが言った。
「硬直、血液、胃内容物、死斑。それに、客車内の熱環境」
「列車会社へ、暖房管の仕様書を出させます」
セルマが言う。
「この型の客車が、どの圧力でどれほど温まるか。主配管と左右配管の構造も」
「八年前の廃車だぞ」
オズワルドが言う。
「記録が残っているとは限らない」
「残っていなければ、実車を調べます」
セルマは冷たく返した。
「鉄道会社は、記録がなければ車両が存在しないとは言えません」
その言葉に、オズワルドは黙った。
ミラベルは扉の外から、その会話を手帳へ書き留めた。
七号車は、記録には存在しなかった。
だが、今は目の前にある。
熱も同じなのかもしれない。
検死記録へ《温かい》と書かれれば、人は死後間もないと思う。
だが、温かさが生命の残りだとは限らない。
*
車外へ戻ったグレアムは、容疑者候補を一人ずつ見渡した。
ニコル=ヴェイル。
ダリウスとともに灰橋で降り、一人で列車へ戻った助手。
オズワルド=ケイン。
被害者と食堂車で口論し、八年前の事故報告書へ署名した安全管理官。
偽名《フィオナ=ファルド》を使って乗車したエルフの女。
主任車掌セルマ=ルーク。
機関士ボルグ=ダイン。
「被害者と接触していた者を優先して聴取する」
グレアムが警官へ命じる。
「補償局の書記、安全管理官、偽名の女、主任車掌、機関士。それぞれ別室へ」
「偽名?」
ミラベルが聞き逃さなかった。
「今はそっちへ行くな」
「でも、フィオナさんは」
「身分証の印影が、名義人本人の記録と一致しなかった」
エルフの女は警官二人の間に立っていた。
逃げようとはしていない。
ただ、七号車へ向ける目に、ダリウスの死を悼む色はなかった。
「ほかには?」
レオンが尋ねる。
「ニコルは、灰橋で別れたあと、ダリウスが列車へ戻るところを見ていない。オズワルドは被害者と口論。セルマとボルグは、八年前の灰橋事故にも勤務記録がある」
セルマと、離れた場所にいるボルグの表情が変わった。
「八年前の勤務記録?」
ミラベルが言う。
「もう調べたんですか」
「署から来る途中に、鉄道警察へ照会させた」
「速いですね」
「お前たちが死体を見つける速度へ追いつくには、このくらい必要だ」
グレアムはレオンを見る。
「全員、話を聞く理由がある」
「犯人である理由ではありません」
「分かっている」
「ダリウスを憎む理由も、それぞれ違うでしょう」
「それを今から調べる」
「原始編成表と古い乗車券は?」
「位置を写真記録したあと押収する」
「乗車券の鋏痕も保存してください」
「なぜだ」
「八年前に、どこで使用された券か分かる可能性があります」
セルマの顔が、ほんの一瞬だけ強張った。
レオンはそれを見た。
グレアムも見た。
ミラベルも見た。
誰も、その場では何も言わなかった。
「クラウス」
グレアムが言う。
「現場から離れろ」
「左右の窓の曇りは、乾く前に写真を」
「撮らせている」
「座席の湿りも」
「記録した」
「外気温、車内温度、左右の配管表面温度」
「全部、指示した」
「工具架の蒸気弁用鉄柄も、表面へ触れずに」
「分かっている!」
怒声に、車体の屋根から埃が落ちた。
レオンは素直に一歩下がった。
「怒られましたね」
ミラベルが言う。
「必要なことは伝えました」
「何か分かったんですか」
「まだです」
「左側だけ熱い理由は?」
「左側の暖房管が、右より強く熱を持っているからです」
「なぜ?」
「それを調べます」
「死体を温めるために、誰かが何かをした?」
レオンは答えなかった。
「死亡時刻を新しく見せるため、とか」
「聞こえていますよ」
「聞かせています」
「記事には書かないでください」
「まだ書きません」
「珍しいですね」
「推理を外したら恥ずかしいので」
「それが理由ですか」
「真実ではないことを書きたくない、という理由も半分あります」
「残り半分は」
「恥ずかしいからです」
レオンは七号車を見た。
左側の窓だけが白く曇り、硝子の水滴がゆっくり下へ流れている。
その内側では、左側の座席だけが湿っていた。
左の暖房管は、右より明らかに熱い。
ダリウスの左半身には、強い残温がある。
車内の熱は、開かれた扉と窓硝子を通して、今も外へ逃げ続けていた。
座席の湿りも。
配管の熱も。
遺体の温度も。
時間とともに失われる。
現場は、そこにあるだけで変わっていく。
何もしなくても、証拠は消える。
だからこそ、最初に見たものが重要になる。
温かい死体。
閉じた窓。
封印された扉。
左だけ曇った硝子。
片側だけ湿った座席。
左右で違う配管温度。
「死体が温かい」
ミラベルが呟いた。
「はい」
「でも、それは、生きていた時間を示していないかもしれない」
レオンは、しばらく答えなかった。
やがて、白く曇る窓を見たまま言う。
「死体が嘘をついているのではありません」
「では?」
「熱の意味を、私たちが読み違えているのかもしれない」
七号車の左窓を、水滴がまた一筋流れた。
死亡時刻を示すはずの温もり。
だが、その温もりが生命の名残ではないのなら。
この事件で最初に疑うべきものは、封印でも鍵でもない。
死体に残った――熱そのものだった。




