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第3節 ― 存在しない七号車

 ヴェルム=クロウ中央駅は、黒い硝子箱のように夜の底へ沈んでいた。


 高い屋根を支える鋼鉄の梁には煤が積もり、その下で無数のガス灯が黄色く燃えている。


 灯りは硝子天井へ届く前に煙へ呑まれ、ホーム全体を濁った琥珀色に染めていた。


 時計塔の文字盤は、二十二時三十四分を指している。


 到着予定時刻まで、あと一分。


 三番線には駅員たちが並び、手旗と検札鋏を準備していた。


 荷運び人夫は手押し車を押し、待合室からは乗客を迎える家族や宿の客引きが溢れ出している。


 遠くで、汽笛が鳴った。


 低く、長く。


 すぐに軌条が震え始める。


 闇の奥から、二つの白い前照灯が現れた。


 灯りの間には、翼を閉じた黒い梟の紋章。


「《黒梟号》、入線!」


 駅員が叫ぶ。


 信号灯が緑から赤へ変わった。


 蒸気をまとった機関車が、駅構内へ滑り込んでくる。


 巨大な動輪。


 赤い連結棒。


 煤を撒き散らす煙突。


 機関車の後ろには、窓へ暖かな灯を浮かべた客車が続いていた。


 一両。


 二両。


 三両。


 車輪が軋み、制動靴が火花を散らす。


 《黒梟号》はホームに沿って速度を落とし、二十二時三十五分、ヴェルム=クロウ中央駅へ到着した。


 定刻だった。


 少なくとも、時計の上では。


     *


 列車が完全に止まるより先に、ミラベルは九号室の窓からホームを覗いていた。


「着きました」


「見れば分かります」


 向かい側で外套を着直していたレオンが答える。


「三時間もかかっていないのに、ずいぶん長く感じました」


「灰橋で騒いだからでしょう」


「騒いでいません。取材です」


「霧の中へ入ろうとした」


「入っていません」


「止めたからです」


「結果として、安全に到着しました」


「あなたの判断が正しかった証明にはなりません」


 レオンは網棚から革鞄を下ろした。


 記録分院で複写した資料が詰まっているため、持ち上げるたびに革が重く軋む。


 ミラベルも手を伸ばす。


「持ちます」


「菓子をお願いします」


「書類のほうを」


「落とすでしょう」


「落としません」


「灰橋で手帳を二度落としかけました」


「落としてはいません」


「だから、それは――」


「私の判断が正しかった証明にはならない?」


 ミラベルが先回りした。


 レオンは黙って菓子袋を差し出す。


「使い方が違います」


「同じ言葉です」


「意味が違います」


 通路では、乗客たちが個室から出始めていた。


 眠そうな顔で荷物を抱える者。


 帽子を被り直す者。


 子どもの手を引く母親。


 食堂車から戻る途中だったのか、食後酒の硝子杯を持ったまま立っている男もいる。


 乗車口のそばでは、セルマが降車の順番を指示していた。


「一度に通路へ出ないでください! 荷物を確認してから降車を! 寝台内の忘れ物は駅預かりになります!」


「主任車掌」


 四号車から来た若い乗務員が声をかけた。


「四号車の確認が、一室だけ残っています」


「どこです」


「十一号室です。内側から応答がありません」


「乗客名は」


 乗務員は小さな名簿を開いた。


「ダリウス=モーン様」


 ミラベルが足を止めた。


 セルマの眉も、わずかに寄る。


「灰橋から戻っていたんですか」


 ミラベルが尋ねる。


「四号車から、乗車完了の合図は受けています」


 セルマが答えた。


「本人を確認したのではなく?」


「担当乗務員が確認することになっています」


 若い乗務員が困ったように口を挟んだ。


「灰橋では、外から戻る乗客が複数の乗車口へ重なりました。扉の閉鎖と人数は確認しましたが、一人ずつ顔までは……」


「ニコルさんは?」


 ミラベルが通路を見回す。


 少し離れた場所に、鉄道補償局の書記が立っていた。


 ニコルは自分の書類鞄と、ダリウスのものらしい小型旅行鞄を抱えている。


 眼鏡の奥の目は、四号車の先へ向けられていた。


「ニコルさん」


 ミラベルが呼ぶ。


 彼は振り向いた。


「監査官は、十一号室に?」


「そのはずです」


「灰橋から一緒に戻らなかったんですよね」


「私は先に戻りました」


「監査官は別の乗車口から戻ると?」


「そう聞いています」


「誰から?」


「監査官本人からです」


「いつ?」


「灰橋で別れたときです」


「どこで?」


「貨物側の通路です」


 セルマが二人の間へ入った。


「質問は後にしてください」


 若い乗務員へ向き直る。


「十一号室を再確認。鍵がかかっているなら共通鍵を使用します」


「承知しました」


 乗務員が四号車へ戻っていく。


 ミラベルは、その背中を目で追った。


「監査官が列車内にいない可能性がありますね」


「到着直後です」


 レオンが言う。


「別の乗車口から、すでにホームへ降りたかもしれません」


「荷物を置いたまま?」


「ニコルさんに持たせています」


「それなら、なおさら声くらいかけるでしょう」


 レオンは答えなかった。


 視線は、ニコルの抱える二つの鞄へ向いている。


「レオンさんも気になっています?」


「監査官の不在は」


「事件でしょうか」


「人が一人、個室にいないだけです」


「先日の高架下事件も、最初は高架下に死体が一つあっただけでした」


「今回は死体すらありません」


「今のところは?」


 レオンがミラベルを見る。


「その言い方を覚えないでください」


 乗車口が開いた。


 冷たい駅の空気が車内へ入り込む。


 乗客たちがホームへ降り始めた。


 その流れに押されるように、レオンたちも列車を降りる。


 石造りのホームは湿っていた。


 灰橋ほどではないが、ヴェルム=クロウにも薄い煤霧が漂っている。


 ガス灯の周囲で光が滲み、機関車から流れた蒸気が乗客の足元を白く覆った。


「ニコルさん」


 レオンが呼ぶ。


「はい」


 ニコルは、二つの鞄を抱えたまま近づいてきた。


「そちらはダリウス監査官の旅行鞄ですか」


「そうです。先に降ろしておくよう言われていました」


「いつ?」


「グラン=レールを出たあとです」


「灰橋へ着く前」


「はい」


「本人の外套と帽子は?」


「着用していました」


「財布、切符、身分証は」


「本人が持っていると思います」


「確認は?」


「していません」


 ニコルの返答は丁寧だった。


 どの答えにも、わずかな逃げ道がある。


 見た。


 聞いた。


 確認した。


 その三つを慎重に使い分けている。


 ニコルが旅行鞄を持ち替えた。


 その際、左手の爪の際へ、黒いものが付着しているのが見えた。


 インクにも見える。


 だが、乾いた文字用インクよりも粘りがあり、黒い樹脂か、油煙を固めたもののようにも見えた。


 焦茶色の外套の左袖にも、黒い擦れ。


 右袖には、グラン=レールで見た金属粉らしき光がまだ残っている。


「手を怪我しました?」


 ミラベルが尋ねた。


 ニコルは自分の指を見た。


「いいえ」


「黒いものがついています」


「灰橋の構内で転びかけたとき、手摺に触れました。機械油でしょう」


 彼は指を外套の内側で拭おうとした。


「そのままにしてください」


 レオンが言った。


 ニコルの手が止まる。


「なぜです?」


「監査官が見つからないうちは、灰橋で付着したものを落とさないほうがよい」


「私を疑っているんですか」


「まだ、監査官がいない理由すら分かっていません」


「では」


「分からないから残すんです」


 ニコルは指を見つめた。


 やがて、ゆっくり手を下ろした。


 そのとき、ホーム後方から声が上がった。


「主任!」


 列車後部の到着確認を担当していた駅員だった。


 片手には赤い手旗。


 もう片方には照明灯。


 彼は列車の後方を見たまま、困惑した顔をしている。


「主任、こちらへ!」


 セルマが振り返った。


「どうしました」


 駅員は答えず、線路の先を指した。


「赤灯が……」


「赤灯?」


「遠いんです」


 セルマの顔から、わずかに表情が消えた。


「何が遠い」


「最後尾の赤灯です」


 ミラベルとレオンも後方を見る。


 六号車――郵便・制動車の側面が、ホームの終端近くまで伸びている。


 その後端に、赤い標識灯があるはずだった。


 だが、そこに灯はない。


 もっと先。


 ホームの照明が届かなくなり、線路が暗闇へ沈み始める場所に、小さな赤い光が見えた。


 霧に滲んでいる。


 まるで列車の尾だけが、車体から切り離され、遠くへ置かれているようだった。


「六号車の灯では?」


 ミラベルが言う。


「違います」


 駅員は即座に答えた。


「六号車の後端は、あそこです」


 照明灯を向ける。


 黄色い光が郵便・制動車の後部へ届いた。


 そこには連結器があった。


 その連結器は、空ではない。


 さらに後方へ、黒い鉄の鎖と連結器が伸びていた。


 霧と暗闇の中に、もう一両の車体がある。


「……客車?」


 誰かが呟いた。


 セルマはホームの縁へ近づいた。


 駅員が慌てて止める。


「危険です」


「照明を」


 二人の駅員が照明灯を掲げた。


 黄色い光が、六号車の後方を少しずつ撫でていく。


 黒ずんだ車輪。


 古い木製の側板。


 歪んだ窓枠。


 煤と雨に晒され、塗装の剥げた客車。


 《黒梟号》のほかの車両とは、明らかに年代が違っていた。


 車体は低く、屋根も古い型の丸屋根。


 窓に灯はない。


 車内は完全な闇だった。


「何です、あれ」


 ミラベルが息を呑む。


 セルマは答えない。


 六号車の後ろに、一両。


 グラン=レールを出たときにはなかった客車が連結されている。


「編成表を!」


 セルマが叫んだ。


 駅員が詰所へ走る。


 オズワルド=ケインも一等客車から降りてきた。


「何が起きた」


「編成外車両が連結されています」


「編成外?」


「六号車の後方です」


 オズワルドは古い客車を見て、一瞬だけ動きを止めた。


 驚きよりも、恐怖に近い表情。


 だが、すぐに安全管理官の顔へ戻る。


「灰橋で回送車を誤連結したか」


「私は承認していません」


「承認の有無ではない。実際につながっている」


「旅客急行へ車両を追加する場合、主任車掌と機関士への通知が必要です。私は受けていません」


「灰橋の操車場主任は?」


「連結作業を見ていません」


「なぜだ」


「郵便交換と制動管の再試験を行っていました」


「最後尾確認は」


「発車前に行う予定でした」


「予定?」


「制動圧の異常確認を優先しました」


「赤灯は」


「グラン=レール出発時には、六号車後部へ設置されていました」


「はずでは困る」


「私も見ました」


 ミラベルが言った。


 全員の視線が彼女へ集まる。


「出発前に列車を数えました。客車は六両。最後尾は郵便・制動車。赤灯も六号車後部へ点いていました」


「記録は?」


 オズワルドが尋ねる。


「あります」


 ミラベルは手帳を開く。


 ――機関車一。客車六。


 ――最後尾は、赤色標識灯を備えた郵便・制動車。


 ――発車前、最後尾の赤灯点灯を確認。


「時刻は」


「十九時三十五分頃」


「頃では証拠にならん」


「鉄道会社の編成表には、何両と?」


 そのとき、駅員が紙を持って戻ってきた。


「主任車掌、到着予定編成です」


 セルマが受け取る。


 指で一行ずつ追った。


「機関車一。客車六」


 読み上げる。


「一号車、一等客車。二号車、食堂・談話車。三号車、寝台車甲。四号車、寝台車乙。五号車、二等客車。六号車、郵便・制動車」


 紙を裏返す。


 何もない。


「追加車両の記載はありません」


 ホームへ沈黙が落ちた。


 機関車から漏れる蒸気音。


 別の番線を発車する列車の汽笛。


 到着した乗客の話し声。


 どれもが、一瞬だけ遠く感じられた。


「つまり」


 ミラベルが言う。


「六両編成の列車が、七両で到着した?」


「七号車と決まったわけではありません」


 セルマが答える。


「七両目でしょう」


「編成外車両です」


「七号車のほうが分かりやすいです」


「記事の見出しを考えないでください」


「まだ考えていません」


「顔に出ています」


 セルマは照明灯を持つ駅員へ命じた。


「車両を確認します。乗客を近づけないでください」


「警察を呼びますか」


「危険物や人が載っていないか、外部から確認します。そのうえで開扉が必要なら、駅長立会いで行います」


 オズワルドが口を挟む。


「不用意に開けるな。鉄道会社の所有車両かも確認できていない」


「この列車へ連結され、駅構内へ入っています」


「だからこそだ」


「中に人がいる可能性があります」


「灯がない」


「灯がないことは、無人の証明になりません」


 レオンが静かに言った。


 オズワルドが彼を見る。


「誰だ」


「レオン=クラウス。私立探偵です」


「探偵を呼んだ覚えはない」


「私も事件へ呼ばれた覚えはありません」


 レオンは古い客車へ目を向けた。


「今のところは」


 ミラベルがわずかに笑う。


「その言い方、使いましたね」


「黙っていてください」


     *


 セルマがホームを後方へ進み始める。


 駅員二名。


 オズワルド。


 レオン。


 そして、止められる前にミラベルも続いた。


「ワトリアさん」


 セルマが振り返る。


「近づかないでください」


「記録します」


「誰も頼んでいません」


「頼まれなくても、起きたことは記録します」


「危険なら戻ってもらいます」


「そのときは戻ります」


「あなたの《そのとき》は信用できません」


 七両目へ近づくにつれ、車体の古さが鮮明になった。


 側板には長い亀裂。


 金属枠には赤錆。


 窓硝子は波打ち、内部の像を歪めている。


 屋根の縁からは、雨水と煤が混ざった黒い筋が垂れていた。


 車輪には白い粉が付着している。


 踏段にも。


 その白さだけが、黒い車体の中で異様に目立っていた。


 車体中央には、小さな真鍮板が取り付けられている。


 照明灯が、その数字を浮かび上がらせた。


 7。


 磨かれた真鍮。


 古びた車体に対し、そこだけが妙に新しい。


「本当に七号車です」


 ミラベルが囁く。


「《7》と書かれているだけです」


 レオンが答えた。


「同じでは?」


「正式な車両番号とは限りません」


 レオンは番号板へ顔を近づけた。


 四本のねじ。


 周囲の木部には、塗装を削った新しい傷が残っている。


 ねじ頭にも、工具が滑った細い筋。


 だが、まだ触れない。


「写真を」


 レオンが駅員へ言った。


「番号板と、ねじ周辺を拡大して記録してください」


 小型の写真記録器が用意される。


 閃光粉が焚かれ、白い光が一瞬だけ車体を照らした。


 レオンは車両前方の踏段へ視線を移す。


 そこには、白灰に混じって黒い汚れもあった。


 靴底から落ちた油。


 あるいは、封印を扱った手から落ちたものか。


 まだ区別はつかない。


 前方扉には、封印線がかけられていた。


 細い金属線が取っ手と扉枠を結び、中央に鉛製の封印が潰されている。


 黒い封蝋も残っていた。


「封印があります」


 駅員が言う。


「後部も確認します」


 別の駅員が車両外側を回っていった。


 数十秒後、声が返る。


「後部扉にも封印! 破損はありません!」


「窓は?」


「見える範囲では、すべて閉鎖されています!」


 セルマは前方扉の封印へ照明を当てた。


「現在の鉄道局封印ではありません」


「なぜ分かる」


 オズワルドが尋ねる。


「封印線が違います。現在は青鋼線を使います。これは銅線です」


「古い保管封印か」


「おそらく」


「印影は」


 セルマが鉛封を覗く。


 長年の摩耗で紋章の一部が潰れている。


「灰橋保管区……と思われます」


 オズワルドの表情が硬くなった。


「灰橋から来た車両なんですね」


 ミラベルが言う。


「古い封印が残っているだけかもしれない」


「《黒梟号》は灰橋へ停車しました」


「偶然だ」


「偶然が、列車の後ろへ連結されるんですか」


「記者は黙っていろ」


「安全管理官は答えてください」


「ミラベル」


 レオンが低い声で止めた。


 彼は窓へ近づいていた。


 外から内部を覗こうとする。


 だが車内は暗い。


 古い硝子が照明を反射し、こちら側の顔しか映さない。


「灯りを横から」


 駅員が照明灯の位置をずらす。


 反射が薄れた。


 暗い車内。


 古い布張りの座席。


 木製の仕切り。


 床へ落ちた何か。


 さらに奥には、個室らしき扉が並んでいる。


「人は?」


 セルマが尋ねる。


「ここからは見えません」


「声をかけます」


 セルマは扉を強く叩いた。


「鉄道職員です! 中に誰かいますか!」


 返事はない。


 もう一度。


「中に人がいるなら、扉から離れてください!」


 沈黙。


 ただし、完全な静けさではなかった。


 車体の下から、微かな音が聞こえる。


 しゅう。


 しゅう。


 何者かの呼吸にも似た音。


「蒸気が通っています」


 レオンが言った。


 客車下部の配管から、白い蒸気が細く漏れている。


「暖房管?」


 セルマが屈み込む。


「六号車側の暖房管と接続されています」


「廃車に暖房を?」


 ミラベルが言う。


「配管自体は生きているようです」


「なら、中は温かい」


「管の近くは」


 セルマは封印された扉を見上げた。


 編成表にない車両。


 古い封印。


 内部から応答はない。


 それでも暖房用蒸気だけは流れている。


「駅長へ連絡」


 セルマが命じた。


「不明車両を開扉します。鉄道警備員と、警察への通報を」


 オズワルドが制止した。


「待て。封印を壊せば、管理責任が発生する」


「中に人がいる可能性を無視した責任より軽いでしょう」


「鉄道会社の調査員が来るまで保存すべきだ」


「私は、この列車の主任車掌です」


 セルマの声は冷たかった。


「列車へ連結された車両内の安全確認は、私の職務です」


「承認していない車両だろう」


「承認していないから確認します」


 二人の視線がぶつかる。


 先に逸らしたのは、オズワルドだった。


「記録を取れ」


「すでに取っています」


 ミラベルが言った。


「君ではない!」


 駅員が封印の状態を帳面へ記す。


 写真記録器の閃光が再び光った。


 真鍮の《7》。


 銅線。


 鉛封。


 セルマの白い手袋。


 黒い夜へ、一瞬だけ鮮明に浮かび上がる。


「切ります」


 セルマが封印切りを取り出した。


 金属線を挟む。


 ぷつり。


 銅線が切れた。


 鉛封が踏段へ落ちる前に、駅員が証拠布で受け止める。


 セルマが扉の取っ手へ手をかけた。


 動かない。


「鍵がかかっています」


「外側から?」


「保管用錠でしょう」


 腰の黒革箱を開く。


 緊急用の共通鍵を、一つずつ差し込む。


 一つ目は入らない。


 二つ目。


 三つ目。


 四つ目で、鍵が奥まで入った。


「開きます」


 セルマが回す。


 重い金属音。


 錠が外れた。


 扉を引く。


 古い木枠が固着し、初めは動かない。


 駅員が手を貸す。


 二人で引くと、扉は軋みながら開いた。


 車内から、温かな空気が流れ出す。


 古い布。


 木材。


 機械油。


 煤。


 そして、微かな鉄の匂い。


 レオンの表情が変わった。


「止まってください」


「何です」


「血の匂いがします」


 ミラベルも息を吸った。


 温められた空気の中に、確かに何かが混じっている。


 錆びた金属に似た匂い。


「中に誰かいる」


 セルマが照明灯を受け取る。


「私が先に入ります」


「一人では危険です」


 到着した鉄道警備員が、短い警棒と小型拳銃を抜いた。


「後ろにつきます」


「私も」


 レオンが言う。


「探偵へ立入権限はありません」


「犯罪現場である可能性があります」


「まだ分かりません」


「だから、足跡や落下物を踏まない人間が必要です」


 セルマは短く息を吐いた。


「私の前には出ないでください」


「承知しました」


「私は?」


 ミラベルが尋ねる。


「外です」


「記録は」


「外から」


「中が見えません」


「それが目的です」


     *


 セルマ。


 警備員。


 レオン。


 三人が車内へ入った。


 床板が重く鳴る。


 一歩ごとに埃が舞い、手持ち灯の中で白く光った。


 車内のガス灯は消えている。


 窓の外から差す駅の灯と、照明灯だけが頼りだった。


 座席の布は裂け、綿が覗いている。


 壁の木材には細かな傷。


 頭上の荷棚には、古い蜘蛛の巣が残っていた。


 長く使われていない車両だ。


 入口脇には、小さな真鍮製の整備銘板があった。


 煤を布で拭うと、刻印が現れる。


 《廃検査客車 C―214》


「車体番号はC―214」


 駅員が外の記録係へ伝えた。


「外側の《7》は正式番号ではありません」


 セルマが言う。


 レオンは頷いた。


「後から取り付けられた表示です」


 整備銘板の下には工具架があった。


 古い車両保守用の工具が、革帯で固定されている。


 木槌。


 小型の車輪止め。


 配管用の締付具。


 そして、蒸気弁を開閉するための着脱式鉄柄。


 どれも古い油と埃に覆われていた。


 ただ一本。


 蒸気弁用の鉄柄だけ、中央部分の油膜が途切れている。


 布で拭ったように、黒い鉄肌が細長く露出していた。


 柄の端や接合穴には油が残る。


 握る部分だけが、不自然に清潔だった。


「それも記録してください」


 レオンが言った。


「何かあるんですか」


 セルマが尋ねる。


「ほかの工具と汚れ方が違います」


「使われた?」


「可能性があります。まだ触れないでください」


 凶器とは言わなかった。


 蒸気弁を操作しただけかもしれない。


 車両を点検した者が、手を拭いたのかもしれない。


 今はただ、油膜が途切れている。


 その事実だけを残せばよい。


 床には新しい靴跡があった。


 入口から車内中央へ続いている。


 埃を押し退けた跡。


 いくつかは白い粉を含み、踏まれた部分だけ灰色に濁っていた。


「最近、誰かが入っています」


 セルマが小声で言う。


「今夜でしょうか」


「少なくとも、長く前ではありません」


 レオンは靴跡の外側へ足を置き、照明の端で進路を追った。


 跡は個室区画へ続いている。


 車両中央の細い廊下。


 左右に三室ずつ。


 一番奥。


 左側の扉が、数指分だけ開いていた。


 隙間から温かな空気が流れている。


 蒸気暖房管の音も、その部屋から強く聞こえた。


 しゅう。


 しゅう。


「誰かいますか」


 セルマが呼ぶ。


 返事はない。


 警備員が拳銃を構える。


 セルマは扉の取っ手へ手をかけ、ゆっくり引いた。


 扉が開く。


 照明の光が個室内へ差し込んだ。


 最初に見えたのは、革靴だった。


 磨かれた黒い革。


 床へ投げ出された両脚。


 次に、濃茶色の外套。


 座席へ斜めにもたれかかった身体。


 胸元の白い襟。


 整えられていたはずの口髭。


 そして、後頭部から座席へ広がった暗い血。


「……ダリウス監査官」


 セルマの声が掠れた。


 ダリウス=モーンは、古い座席へ沈むように座っていた。


 頭は右へ傾き、片方の目だけが半ば開いている。


 後頭部の髪は血で固まり、座席の背には黒い染みが広がっていた。


 右手は床へ垂れている。


 左手は腹の上。


 指が強く曲がり、何かを掴もうとした形で止まっていた。


 警備員が息を呑む。


「医者を」


「待ってください」


 レオンが言った。


「足元を見て」


 個室の床には、いくつかの物が落ちている。


 薄い紙片。


 金属製の小さな留め具。


 割れた眼鏡の片側。


 血液の飛沫。


 セルマは、それらを踏まないよう壁側へ身体を寄せた。


 手袋をした指を、ダリウスの首へ近づける。


 数秒。


「脈はありません」


「身体は?」


 レオンが尋ねる。


 セルマは左腕と首筋へ触れた。


 目が動く。


「温かい」


「どの程度です」


「亡くなった直後のように」


 レオンは、すぐに遺体全体を見た。


 左肩。


 左脇。


 左腿。


 その下に、壁際を走る太い蒸気暖房管。


 管表面からは、わずかな湯気が上がっている。


「死亡から、あまり時間が経っていない?」


 警備員が言う。


「まだ断定できません」


 レオンは答えた。


「検死官を呼んでください。身体は動かさないように」


 車外からミラベルの声がした。


「何がありました!」


 セルマは返事をしなかった。


「レオンさん!」


「死体です」


 レオンが答えた。


 車外で誰かが息を呑む。


「誰です?」


「ダリウス=モーン」


 その名が発せられた瞬間、車外の空気が変わった。


 オズワルドが車両へ近づく足音。


 続いてニコルの声。


「監査官?」


「入らないでください!」


 セルマが鋭く叫んだ。


「全員、その場を動かないで! 駅員は車両周辺を封鎖! 警察への通報を急いでください!」


「本当に監査官が?」


 ニコルの声が震えている。


「確認中です」


「見せてください!」


「入ってはいけません」


「私は助手です!」


「だからこそ、外で待ってください」


 ニコルが踏段へ手をかけようとした。


 鉄道警備員が身体を入れて止める。


 その際、警備員の白い手袋へ、ニコルの爪から黒い汚れが移った。


 警備員は手袋を見た。


「手を拭かないでください」


 レオンが車内から言った。


「何です?」


 ニコルが顔を上げる。


「灰橋で付着したという汚れです。警察が確認するまで残してください」


「機械油です」


「それを警察が確かめます」


 ニコルの表情が硬くなる。


 オズワルドが苛立ったように言った。


「まだ事件関係者と決まったわけではない」


「だから採取するんです」


 レオンは答えた。


「落としてからでは、関係があったかどうかも確かめられない」


 駅の警備主任が到着し、証拠用の白布を取り出した。


「ヴェイルさん。警察が到着するまで、手を洗わず、外套を脱がないでください」


「私だけですか」


「灰橋で列車を降りた者には、全員同じ措置を取ります」


 ニコルは、短く息を吐いた。


 抵抗はしなかった。


 左右の手へ薄い保護布が巻かれる。


 左袖と右袖にも、それぞれ別の証拠覆い。


 黒い汚れ。


 金属粉。


 この時点では、どちらが事件と関係するのか分からない。


 ただし、失われれば二度と戻らない。


     *


 車内では、レオンがダリウスの身体へ触れず、視線だけで観察を続けていた。


 外套に大きな乱れはない。


 釦も外れていない。


 個室内に、激しく争った痕跡は少ない。


 後頭部への一撃。


 不意を突かれた可能性が高い。


 胸ポケットから、紙の端が覗いている。


「セルマさん」


「何です」


「胸ポケットに紙があります」


「乗車券でしょうか」


「今夜の券なら青い縁取りがあります」


 覗いている紙は黄ばんでいた。


 縁は茶色。


 現在使われる乗車券よりも小さい。


「取り出しますか」


「身元は分かっています。警察が来るまで動かさないほうがよいでしょう」


 ただし紙は、胸ポケットから半分以上出ている。


 照明を傾けると、印刷された数字が読めた。


 駅名。


 日付。


 そして、鋏で開けられた小さな穴。


 レオンが目を細める。


「日付が違います」


「何と?」


「八年前です」


「八年前?」


 セルマが灯りを近づけた。


 券面の日付は現在ではない。


 八年前。


 灰橋事故が起きた年。


 出発地はグラン=レール。


 到着地はヴェルム=クロウ。


 経由地は灰橋。


「今夜の乗車券ではありません」


 セルマが言った。


「なぜ監査官が八年前の券を?」


「分かりません」


 レオンは答えた。


「ですが、偶然ではないでしょう」


 個室内へ視線を巡らせる。


 座席の下に、厚い紙束の角が見えた。


 古びた灰色の表紙。


 半分だけ、座席の奥へ押し込まれている。


「そこにも何かあります」


 警備員が言った。


「触らないでください」


 レオンは灯りを低くするよう頼んだ。


 紙束の表紙には、煤と埃に覆われながらも、薄れた文字が残っている。


 《灰橋事故列車 原始編成表》


 セルマが息を止めた。


「原始編成表?」


「清書前に作られる、最初の編成記録です」


「公式記録では六両です」


「そうですね」


 紙束の端から、番号の列が見える。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 六。


 その下に、もう一行。


 七。


 黒いインクで、確かに記されていた。


 車外からミラベルの声が届く。


「レオンさん、何があったんです?」


 レオンはすぐには答えなかった。


 ダリウスの死体。


 八年前の乗車券。


 座席下の原始編成表。


 本来は《C―214》である古い検査客車。


 外側へ後付けされた真鍮製の《7》。


 閉ざされた窓。


 切られるまで破損していなかった、前後二つの封印。


 そして、蒸気管のそばに置かれた、まだ温かい死体。


 表面上の事実を並べるなら、こうなる。


 ダリウスは、走行中の《黒梟号》の七号車で殺された。


 だが、その七号車は、グラン=レールを出発した時点では存在しなかった。


「列車が、一両増えました」


 レオンは低く言った。


「それは見れば分かります」


 外でミラベルが答える。


「そうではありません」


 レオンは、ダリウスの胸元にある古い乗車券を見た。


「八年前に存在しなかったことにされた一両が、今夜、死体を乗せて戻ってきたんです」


 車外で駅員の警笛が鳴った。


 ホームへの立入を止めるための鋭い音。


 赤い標識灯が、《C―214》の後ろで揺れている。


 六両編成の夜行急行は、七両でヴェルム=クロウへ到着した。


 そして、その存在しない七号車の中には――


 まだ温かい死体があった。

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