第2節 ― 灰橋の十八分
《黒梟号》がグラン=レールの灯を離れると、窓の外から人の営みが急速に消えていった。
初めのうちは、鉄環平野に並ぶ工場の煙突が見えた。
高炉の赤い火。
夜間操業を示す白い灯。
線路に沿って続く作業員住宅の窓。
それらは列車の速度が上がるにつれて細長い光の筋となり、やがて煤色の夜へ溶けていった。
代わって客室を満たしたのは、規則正しい車輪の音だった。
ガタン、ゴトン。
ガタン、ゴトン。
軌条の継ぎ目を越えるたび、床が小さく震える。
乳白色のガス灯も、窓辺の硝子杯も、折り畳み卓の上に置かれたミラベルの鉛筆も、その振動に合わせてわずかに揺れていた。
「汽車の音って、眠くなりますね」
九号室の長椅子で、ミラベルが言った。
向かい側では、レオンがグラン=レール記録分院から持ち帰った複写資料を読んでいる。
「発車してから、まだ二十分ほどです」
「時間ではなく、音の問題です。一定の揺れを受けていると、頭の中まで列車になっていく感じがしませんか」
「しません」
「即答ですね」
「実際に揺れているだけです」
「そこを、鉄路の子守歌とか」
「車輪と軌条の摩擦音です」
「台無しです」
ミラベルは頬杖をつき、窓を見た。
外はほとんど見えない。
硝子に映るのは、自分の顔と客室のガス灯だけだった。ときおり遠くの信号灯が赤や青の点となって現れ、すぐに後方へ流れていく。
ミラベルは手帳を開いた。
出発前の頁には、《黒梟号》の簡単な見取り図が描かれている。
機関車。
石炭車。
一等客車。
食堂・談話車。
二両の寝台車。
二等客車。
郵便・制動車。
最後尾には、小さな赤い丸。
――機関車一。客車六。
――発車前、最後尾の赤灯点灯を確認。
「また数えているんですか」
レオンが紙面から目を上げずに尋ねた。
「読み返しているんです」
「出発時に三度確認したでしょう」
「記憶は、自分が間違っていることに気づきませんから」
レオンが顔を上げた。
「誰かの受け売りですか」
「今、記者らしいことを言ったと思ったのに」
「記者らしいというより、記録院らしいですね」
「褒めています?」
「事実を述べています」
個室の扉が二度叩かれた。
「失礼いたします」
白い上着を着た食堂車の給仕が、銀盆を胸元へ抱えて立っていた。
「食堂車は二十分後に営業を終了いたします。御夕食を希望される場合は、お早めにお越しください」
「今夜の煮込みは?」
ミラベルが即座に尋ねる。
「牛頬肉の黒麦酒煮込みでございます」
「《黒梟号》に合わせて黒麦酒ですか?」
「料理長へお尋ねください」
「あとで伺います」
「あとで、という言葉は危険ですね」
レオンが言った。
「断られる可能性を考えていない」
「断られてから考えます」
給仕は、二人の会話へ関わらないことを選んだらしい。
「なお、二十一時五分より、灰橋操車場で十八分間停車いたします。停車中も食堂車は営業いたしますが、給水作業のため蒸気暖房が一時不安定になる場合がございます」
「灰橋」
ミラベルは廊下の時計を見た。
二十時四十七分。
「到着まで十八分。停車も十八分ですね」
「左様でございます」
給仕が一礼し、扉を閉める。
ミラベルは外套へ腕を通した。
「何をしているんです」
レオンが尋ねる。
「操車場を見てきます」
「旅客の乗降は原則禁止です」
「原則でしょう」
「規則を聞いた直後に抜け道を探さないでください」
「ホームへ降り、同じ列車へ戻ります。移動ではなく取材です」
「降りて乗ることを乗降と言います」
「言葉の定義に厳しいですね」
「列車に置いていかれたくないだけです」
短い汽笛が鳴った。
床下から制動機の低い唸りが伝わってくる。
ガタン、ゴトンと続いていた車輪音が次第に間延びし、代わりに金属同士が擦れ合う長い音が響き始めた。
ミラベルは窓へ顔を寄せる。
暗い硝子の向こうを、白いものが流れていた。
煙ではない。
地面近くから湧き、線路と枕木を覆い、客車の窓を舐めるように漂っている。
「霧です」
「見れば分かります」
「ずいぶん濃いですね」
「それも見れば分かります」
最初の信号灯が現れた。
ぼんやりとした緑の光。
霧の中では輪郭が崩れ、光そのものが水へ滲んでいるように見えた。
続いて、線路脇の灯が一つ、二つ。
やがて数が増え、闇の中へ淡い光の列を作る。
灰橋操車場。
駅というより、線路の海だった。
旅客用の短いホームを中心に、左右へ何本もの側線が広がっている。
貨車。
石炭車。
家畜運搬車。
材木を積んだ平貨車。
使われなくなった客車らしい黒い影。
それらは霧へ半ば沈み、作業灯の近くにある部分だけを浮かび上がらせていた。
奥には巨大な給水塔が立っている。
塔の上部は霧に隠れ、黒い脚だけが地上から伸びているように見えた。
外から、連結器のぶつかる音が聞こえた。
がしゃん。
少し遅れて、別の方向から。
がしゃん。
夜の操車場では、音だけが距離を失っていた。
近くで鳴ったのか。
遠くで鳴ったのか。
霧と車体に反響し、判断できない。
《黒梟号》は大きく一度揺れた。
二十一時五分。
灰橋操車場へ到着した。
*
列車が止まると、それまで一つだった車内の音が、いくつもの作業音へ分かれた。
給水管を動かす鎖。
石炭を掻き寄せる鋤。
荷車の車輪。
蒸気を逃がす鋭い噴出音。
作業員たちの怒鳴り声。
「給水開始!」
「郵袋三、ヴェルム=クロウ行き!」
「石炭車、後部確認!」
窓の外を白い蒸気が覆う。
ミラベルは扉を開けた。
「行ってきます」
「待ってください」
レオンも資料を閉じ、立ち上がった。
「一緒に降りるんですか」
「あなたが霧の中へ消えないように」
「子どもではありません」
「子どものほうが、呼べば戻ってきます」
二人が通路へ出ると、セルマが乗客たちへ注意を告げていた。
「灰橋操車場で十八分間停車いたします! ホームへ降りる方は、乗車口周辺から離れないでください! 発車合図後の御乗車は保証いたしません!」
「降りてもよいんですね」
ミラベルが言う。
「乗車口周辺から離れないなら」
「給水塔が見えるところまで」
「離れています」
「少しだけ」
「ワトリアさん」
セルマはホームの時計を示した。
「二十一時二十三分に発車します。あなたが霧の中にいても待ちません」
「十五分で戻ります」
「今、乗車口の前にいるでしょう」
「では、十四分で取材を終えます」
「交渉ではありません」
セルマが乗車口を開ける。
冷たく湿った外気が流れ込んだ。
石炭煙。
蒸気油。
濡れた木材。
鉄錆。
いくつもの匂いが混じっている。
ミラベルは鉄製の踏段を降りた。
靴底が石のホームへ触れる。
足元を白い霧が流れていく。
前方は、食堂車の外壁までは見えた。
だが後方へ目を向けると、四号車の半ばから先は白く霞んでいる。
五号車。
郵便・制動車。
最後尾の赤い標識灯。
どれも見えなかった。
「本当に、何も見えませんね」
「だから言いました」
後から降りたレオンが答える。
「赤灯くらい見えると思ったんですが」
「霧は距離を隠します」
「音は隠さないんですね」
霧の向こうから、重い衝撃音が届いた。
がしゃん。
足元の石まで、わずかに震える。
ミラベルが振り返った。
白い霧しかない。
「今のは近かったです」
「操車場ですから」
「《黒梟号》の後ろでは?」
「隣の線路かもしれません」
「確かめてきます」
「駄目です」
「まだ一歩も動いていません」
「顔が動いていました」
「顔だけで追跡はできません」
「次に足が動くので止めました」
ホームの時計が二十一時七分を示した。
そのとき、四号車側の乗車口からダリウス=モーンが降りてきた。
濃茶色の外套。
革手袋。
手には折り畳まれた一枚の紙。
その後ろを、ニコル=ヴェイルが書類鞄を抱えてついてくる。
「監査官」
ニコルが呼んだ。
「本当に、今でなければなりませんか」
「今でなければ困るから停車時間を使うんだ」
「十八分しかありません」
「十八分もある」
ダリウスは足を止めなかった。
二人は駅舎側ではなく、霧に沈んだ貨物側線の方向へ歩いていく。
「駅事務室は反対では?」
ミラベルが声をかけた。
ダリウスが足を止める。
「何の話です」
「監査のお仕事なら、駅員へ会いに行くのかと」
「駅員に会うとは言っていません」
「では、どちらへ?」
「記者へ行き先を報告する義務はありません」
口調は穏やかだった。
だが、目には明確な拒絶がある。
「ヴェイル君」
「はい」
「案内しろ」
ニコルは一度、ホームの時計を見た。
それから頭を下げ、ダリウスのあとへ続いた。
二人の姿は、十歩ほどで霧へ呑まれた。
脚が消える。
外套が薄れる。
最後に、ダリウスの肩とニコルの抱えた鞄が白い中へ溶けていった。
「仕事の話でしょうか」
ミラベルが言う。
「散歩には見えませんでした」
「追いかけたほうが」
「駄目です」
「最後まで言っていません」
「最後まで聞く必要がありません」
別の乗車口が開いた。
深緑色の外套を着たエルフの女が降りてくる。
グラン=レールでフィオナ=ファルドと名乗った女性だった。
彼女は周囲を確かめると、ダリウスたちが消えた方向へ一度だけ顔を向けた。
だが、同じ道は選ばなかった。
ホームから外れ、駅舎裏へ通じる細い通路へ向かう。
「フィオナさん」
ミラベルが呼んだ。
女の肩が小さく震えた。
「何でしょう」
「ホームから離れないほうがよいそうです」
「少し、一人になりたいだけです」
「列車の中では駄目ですか」
「駄目です」
右手が、外套の腰を押さえている。
その下にある何かが動かないよう、確かめているようだった。
「ダリウス監査官を御存じですか」
ミラベルが尋ねる。
女の瞳が細くなった。
「なぜ、そのようなことを?」
「グラン=レールで監査官を見ていました」
「列車へ乗る人間なら、誰でも見ます」
「そういう見方ではなかったように思いました」
「記者は目の動きまで記事にするのですか」
「必要なら」
「では、こう書いてください」
女は静かに言った。
「あの男を見れば、不快になる人間は大勢いる、と」
「理由は?」
「聞かないほうがいい」
「聞かなければ書けません」
「なら、書かないことです」
女は話を打ち切り、駅舎裏の通路へ入った。
外套の裾が一瞬開く。
腰に細長い革鞘が見えた。
ナイフか。
小型の短剣か。
確かめる前に、彼女の姿は霧へ消えた。
「追いかけませんよ」
レオンが先に言う。
「まだ何も」
「右足が出ました」
「立っていただけです」
「追跡を始める立ち方でした」
「そんな立ち方があります?」
「あなたにはあります」
ホーム前方では、給水作業が続いていた。
巨大な鉄管が機関車の水槽へ伸び、黒い車体を蒸気が包んでいる。
その脇を、ボルグ=ダインが工具袋を肩に歩いていく。
「ボルグさん!」
ミラベルが呼んだ。
蒸気音にかき消されたのか、ボルグは振り向かない。
「機関士さん!」
今度は顔だけを向けた。
「何だ」
「機関車を離れて大丈夫なんですか」
「補助機関士がいる」
「どちらへ?」
「給水塔の圧力弁を見る」
「運転台の計器では分からないんですか」
「給水側の圧は別だ」
「取材しても?」
「ついてくるな」
「危険なんですか」
「熱湯と高圧蒸気へ近づきたいなら、止めん」
「止めてください」
「だから言っている」
ボルグは右脚をわずかに引きずりながら、給水塔の裏手へ向かった。
黒い工具袋が肩で揺れる。
やがて、大柄な背中も蒸気と霧へ隠れた。
「皆さん、霧の中へ消えますね」
ミラベルが言った。
「霧ですから」
「もう少し不思議そうにできませんか」
「人が歩いて見えなくなることに、何を不思議がるんです」
「探偵譚なら、この十八分間に何か起きます」
「これは探偵譚ではなく、帰りの列車です」
「それ、前にも聞いた気がします」
「同じ行動を取るから、同じ答えになるんです」
安全管理官オズワルド=ケインは、ホーム中ほどで操車場主任と話していた。
主任は作業用の長外套を着たドワーフで、胸元へ多数の真鍮札を下げている。
手には、夜間作業表を挟んだ板。
オズワルドが、その一項目を指で叩いた。
「この移送命令は何だ」
「白灰側線の廃検査車です」
「今夜動かす予定はなかったはずだ」
「本部から正式命令が届きました」
「いつ」
「二十時四十二分です」
「発信元は?」
「中央運行課。定時気送便です」
ミラベルとレオンは、無意識に顔を見合わせた。
出発前、ニコルが話していた部署。
だが、中央運行課が出す書類など、これ一通ではない。
「符号を見せろ」
オズワルドが言った。
主任は作業板の紙をめくり、命令票を渡す。
オズワルドはガス灯の近くで読み、眉を寄せた。
「この符号は古い」
「ですが、認証印は正式です」
「発信確認は」
「本部専用管から届いています。指令番号も実在します」
「だから動かしたのか」
「命令に従わなければ、現場の責任になります」
「事故が起きれば?」
「命令を出した者の責任です」
「現場はいつもそう言う」
「本部も同じことを言います」
主任は疲れた顔をしていた。
オズワルドが周囲を見回す。
ミラベルと目が合った。
「ここでは話せない」
彼は主任の腕を引く。
「詰所で確認する」
「郵便交換の監督が」
「部下に任せろ」
二人は線路沿いの詰所へ向かった。
濃紺の制服と、低いドワーフの背中が並んで霧へ消える。
「中央運行課」
ミラベルが小声で言った。
「同じ部署名というだけです」
レオンが答える。
「私は何も言っていません」
「言う顔をしていました」
「顔まで読まれるようになりました」
「あなたは分かりやすいので」
「不本意です」
ミラベルは手帳へ、事実だけを書き込んだ。
――二十一時五分、灰橋到着。
――濃霧。四号車半ばより後方は視認不能。
――二十一時七分、ダリウスとニコル、貨物側線方向へ。
――フィオナ、駅舎裏へ。腰に刃物らしき革鞘。
――ボルグ、給水塔圧力弁へ。
――オズワルド、操車場主任と詰所へ。
書き終えたところで、セルマが戻ってきた。
「旅客の行動記録ですか」
「旅行取材です」
「許可なく個人の動向を記事へ載せないでください」
「事件が起きなければ載せません」
「なぜ事件が起きる前提なのです」
「起きなかったことも取材です」
セルマは一度考え、理解を諦めたらしい。
「あと九分です」
ホーム時計は、二十一時十四分。
停車時間の半分が過ぎていた。
六号車の後部では、郵便袋の交換が行われている。
灰色の袋が荷車から積み降ろされ、その一つ一つに都市名と整理番号が印刷されていた。
グラン=レール。
灰橋。
ヴェルム=クロウ。
「ヴェルム=クロウ行き、通常郵袋三。官用封袋一。小荷物箱二」
セルマが読み上げる。
駅員が帳簿へ記した。
「通常三、官用一、小荷物二」
「封印確認」
「異常なし」
セルマの視線は、郵袋と帳簿へ向いている。
彼女の立っている位置からなら、本来は六号車の後端まで見渡せるはずだった。
だが、霧は六号車の半ばから先を覆っている。
最後尾の赤灯も見えない。
遠くで、入換機関車の汽笛が短く鳴った。
続いて、低く転がる車輪の音。
鎖を引く音。
金属管を扱う音。
短い掛け声。
「あと半車!」
「押せ!」
「止まれ!」
それが《黒梟号》の後ろで行われているのか。
何本も離れた側線なのか。
霧の中では分からない。
ミラベルは耳を澄ませた。
重い車輪が、ゆっくり転がってくる。
鉄と鉄が触れる鈍い音。
そして――
がしゃん。
六号車の車体が、わずかに揺れた。
郵袋を持つ駅員が足を踏ん張る。
「今、後ろへ何か連結しませんでしたか」
ミラベルが尋ねた。
「入換作業です」
セルマは帳簿から目を離さずに答える。
「《黒梟号》へ?」
「貨物側線では複数の編成を同時に扱います」
「六号車も揺れました」
「隣の軌道からでも、衝撃は地面を伝わります」
「見て確かめないんですか」
「郵便交換終了後に、最後尾標識を確認します」
「この霧で?」
「近くまで行けば見えます」
「一緒に」
「あなたは行きません」
「なぜです」
「線路内だからです」
「セルマさんは?」
「私は車掌です」
「便利ですね」
「職務です」
セルマは官用封袋を自ら六号車へ運び込んだ。
ホームの時計は二十一時十七分。
停車から十二分が経過していた。
給水塔の方からボルグが戻ってくる。
工具袋を肩にかけ、右手には大型の弁回しを持っていた。
「問題は?」
補助機関士が運転台から声をかける。
「西側の補助弁が固い」
「交換しますか」
「ヴェルム=クロウまでは持つ。戻り便の前に替えろ」
「圧力は?」
「正常だ」
ボルグは運転台へ上がりかけ、ホームにいるミラベルを見る。
「まだいたのか」
「取材中です」
「霧の中で線路へ落ちるなよ」
「ホームにいます」
「霧の中では、ホームも線路も同じ色だ」
ボルグは運転台へ登った。
炉扉が開き、赤い光が霧を内側から照らす。
煤に黒くなった横顔が一瞬浮かび、再び闇へ沈んだ。
ホーム時計の長針は、ゆっくりと発車時刻へ近づいていく。
二十一時十九分。
霧の向こうで、最後の大きな連結音が響いた。
今度は、そのあとに金属管を締める音が続いた。
短い蒸気の噴出。
何かの弁を開いたような、鋭い音。
ミラベルは後方へ目を凝らした。
何も見えない。
「レオンさん」
「聞こえています」
「何をつないだんでしょう」
「分かりません」
「見れば分かります」
「見るためには線路へ降りる必要があります」
「取材には危険が」
「ありません。戻りますよ」
レオンは懐中時計を示した。
二十一時二十分。
発車まで三分。
そのとき、霧の中から人影が現れた。
ニコルだった。
一人である。
走っていたのか、少し息が上がっている。
眼鏡には細かな水滴。
焦茶色の外套の裾と、靴の縁には白い粉が付着していた。
書類鞄は、出ていったときと同じように胸元へ抱えている。
「ニコルさん」
ミラベルが呼んだ。
彼は足を緩めた。
「まだホームにいらしたんですか」
「取材です。ダリウス監査官は?」
「駅事務室へ寄るそうです」
「一緒ではないんですか」
「途中で、先に列車へ戻るよう言われました」
「駅事務室は反対方向では?」
「貨物通路から裏手へ回れると、監査官が」
ニコルは眼鏡を外し、布で水滴を拭った。
手がわずかに震えているようにも見えたが、冷えた霧の中を歩いてきたためかもしれない。
「監査官は間に合うんですか」
「別の乗車口から戻ると言っていました」
「何を確認しに?」
「事故関係の原本です」
「灰橋事故ですか」
ニコルは眼鏡をかけ直した。
「監査官の業務内容を、私から詳しく話すことはできません」
「では、本人へ聞きます」
「そうしてください」
先ほどまでより、幾分疲れた声だった。
ミラベルは彼の外套へ目を落とす。
「白いものがついています」
ニコルも裾を見る。
「石灰でしょうか」
「どこで?」
「貨物側の道に撒かれていました。霧で足元が見えず、線路脇へ降りてしまったので」
彼は袖で払おうとし、白い粉を布へ広げた。
「取れませんね」
「濡れていますから」
レオンが言った。
「乾いてから落としたほうがよいでしょう」
「ありがとうございます」
ニコルはホームの時計を見た。
二十一時二十一分。
「発車しますね。先に戻ります」
「客室は四号車でしょう」
「食堂車側から入ります。監査官が戻るか、確認したいので」
ニコルは三号車ではなく、前方の乗車口へ歩いていった。
何かを終えたような様子はなかった。
何かから逃げるようにも見えなかった。
ただ、停車時間の終わりを気にする乗客に見えた。
彼の靴底から、白い粉が一粒だけ落ちた。
ミラベルが屈みかける。
「触らないでください」
レオンが止める。
「石灰ですよね」
「おそらく」
「おそらくなら、確かめないと」
「操車場の地面から石灰を拾ってどうするんです」
「あとで必要になるかもしれません」
「何に」
「それを今から考えます」
「考えてから拾ってください」
ミラベルは渋々、手を引っ込めた。
だが、手帳へは書いた。
――二十一時二十一分、ニコル単独で帰還。
――外套裾、靴に白い粉。
――ダリウスは駅事務室へ向かったと証言。
遠くで鐘が鳴った。
発車二分前。
セルマが郵便交換帳を閉じる。
「交換終了! 荷車を下げてください!」
郵便係たちが六号車から離れていく。
セルマは後方へ目を向けた。
霧の奥。
最後尾標識を確認するため、二歩ほど進む。
そのとき、五号車の下から作業員の声が上がった。
「主任車掌!」
セルマが振り返る。
「何です」
「二等車の制動圧が、一度規定下限近くまで落ちています!」
彼女の顔色が変わった。
「現在値は?」
「回復しています。ただ、接続部からの漏れかもしれません」
「再試験します。機関士へ伝達!」
「発車が遅れます」
「安全確認なしには出しません」
セルマは後方ではなく、五号車の床下へ向かった。
工具を持った作業員とともにしゃがみ込み、制動管の接続を確認する。
最後尾へ行くはずだった車掌は、そこで足止めされた。
「後ろを見ないんですか」
ミラベルが尋ねる。
セルマは床下を見たまま答えた。
「制動圧が戻らなければ、列車自体を発車させられません」
「標識灯は?」
「制動試験後です」
ホーム時計。
二十一時二十二分。
オズワルドが詰所の方向から戻ってきた。
操車場主任は一緒ではない。
手にしていたはずの移送命令票も見えなかった。
「ケイン管理官」
ミラベルが声をかける。
「何だ」
「廃検査車を、今夜移送するんですか」
オズワルドの足が止まった。
「聞いていたのか」
「聞こえました」
「記事にするような話ではない」
「《黒梟号》へつなぐんですか」
「旅客急行に廃車をつなぐ理由はない」
「では、どの列車へ?」
「知らん」
「安全管理官なのに?」
「操車場にある全編成を、私一人で把握していると思うのか」
オズワルドは苛立ったように言い、一等車へ向かう。
数歩進んだところで振り返った。
「今夜の《黒梟号》は六両だ。グラン=レールで、お前も確認したのだろう」
「確認しました」
「なら、余計な想像をするな」
オズワルドは一等車へ乗り込んだ。
床下で金属を叩く音がする。
作業員が立ち上がった。
「漏れなし! 圧力回復!」
セルマが数値を確認し、前方へ手信号を送る。
「再試験、正常!」
機関車が短い汽笛で応じた。
「全員、乗車!」
セルマの声がホームへ響く。
ミラベルは、周囲を見回した。
ダリウスは戻っていない。
フィオナと名乗った女の姿もない。
「まだ戻っていない人がいます」
「別の乗車口から戻ります」
セルマが答えた。
「確認したんですか」
「各車の乗務員から、扉閉鎖準備の合図が来ています」
「ダリウス監査官も?」
「個々の乗客を数える時間ではありません。乗ってください」
「でも――」
「発車します!」
セルマに促され、ミラベルは三号車へ上がった。
レオンも続く。
セルマは踏段へ片足をかけ、ホームの駅員を見た。
緑の手灯が上がる。
前方から、機関士の汽笛。
長く一度。
白い霧が震えた。
列車が動き始める。
最初に機関車と石炭車の連結器が張る。
次に一号車。
二号車。
三号車。
小さな衝撃が、順番に伝わってくる。
がしゃん。
がしゃん。
がしゃん。
ミラベルは客室へ戻らず、通路の窓から後方を見ようとした。
四号車の窓灯が、霧の中にぼんやりと浮かぶ。
五号車は影だけ。
その先は、白い闇。
「最後尾が見えません」
「霧ですから」
レオンが答える。
「赤灯も」
「列車から、自分の最後尾を見ることはできません」
ホームの灯が後方へ流れていく。
霧の向こうでは、何本もの線路に貨車の影が並んでいた。
一本隣なのか。
何本も先なのか。
動いているのか。
止まっているのか。
判断できない。
《黒梟号》は二十一時二十三分、灰橋操車場を発車した。
停車時間、十八分。
その間に、ダリウスはニコルとともに霧の中へ消えた。
ニコルだけが、発車直前に戻った。
フィオナと名乗る女は駅舎裏へ向かった。
ボルグは給水塔の圧力弁を見に行った。
オズワルドは操車場主任と、廃車移送命令について話していた。
セルマは郵便袋と制動管の確認に追われ、最後尾標識を自分の目で確かめることができなかった。
霧の中では、何度も連結音が鳴っていた。
だが、誰もそのすべてを見てはいない。
列車は速度を上げ、灰橋の灯を後方へ置き去りにする。
グラン=レールを六両で出た《黒梟号》が、灰橋を何両で発車したのか。
そのとき、確かめた者はいなかった。




