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第2節 ― 灰橋の十八分

 《黒梟号》がグラン=レールの灯を離れると、窓の外から人の営みが急速に消えていった。


 初めのうちは、鉄環平野に並ぶ工場の煙突が見えた。


 高炉の赤い火。


 夜間操業を示す白い灯。


 線路に沿って続く作業員住宅の窓。


 それらは列車の速度が上がるにつれて細長い光の筋となり、やがて煤色の夜へ溶けていった。


 代わって客室を満たしたのは、規則正しい車輪の音だった。


 ガタン、ゴトン。


 ガタン、ゴトン。


 軌条の継ぎ目を越えるたび、床が小さく震える。


 乳白色のガス灯も、窓辺の硝子杯も、折り畳み卓の上に置かれたミラベルの鉛筆も、その振動に合わせてわずかに揺れていた。


「汽車の音って、眠くなりますね」


 九号室の長椅子で、ミラベルが言った。


 向かい側では、レオンがグラン=レール記録分院から持ち帰った複写資料を読んでいる。


「発車してから、まだ二十分ほどです」


「時間ではなく、音の問題です。一定の揺れを受けていると、頭の中まで列車になっていく感じがしませんか」


「しません」


「即答ですね」


「実際に揺れているだけです」


「そこを、鉄路の子守歌とか」


「車輪と軌条の摩擦音です」


「台無しです」


 ミラベルは頬杖をつき、窓を見た。


 外はほとんど見えない。


 硝子に映るのは、自分の顔と客室のガス灯だけだった。ときおり遠くの信号灯が赤や青の点となって現れ、すぐに後方へ流れていく。


 ミラベルは手帳を開いた。


 出発前の頁には、《黒梟号》の簡単な見取り図が描かれている。


 機関車。


 石炭車。


 一等客車。


 食堂・談話車。


 二両の寝台車。


 二等客車。


 郵便・制動車。


 最後尾には、小さな赤い丸。


 ――機関車一。客車六。


 ――発車前、最後尾の赤灯点灯を確認。


「また数えているんですか」


 レオンが紙面から目を上げずに尋ねた。


「読み返しているんです」


「出発時に三度確認したでしょう」


「記憶は、自分が間違っていることに気づきませんから」


 レオンが顔を上げた。


「誰かの受け売りですか」


「今、記者らしいことを言ったと思ったのに」


「記者らしいというより、記録院らしいですね」


「褒めています?」


「事実を述べています」


 個室の扉が二度叩かれた。


「失礼いたします」


 白い上着を着た食堂車の給仕が、銀盆を胸元へ抱えて立っていた。


「食堂車は二十分後に営業を終了いたします。御夕食を希望される場合は、お早めにお越しください」


「今夜の煮込みは?」


 ミラベルが即座に尋ねる。


「牛頬肉の黒麦酒煮込みでございます」


「《黒梟号》に合わせて黒麦酒ですか?」


「料理長へお尋ねください」


「あとで伺います」


「あとで、という言葉は危険ですね」


 レオンが言った。


「断られる可能性を考えていない」


「断られてから考えます」


 給仕は、二人の会話へ関わらないことを選んだらしい。


「なお、二十一時五分より、灰橋操車場で十八分間停車いたします。停車中も食堂車は営業いたしますが、給水作業のため蒸気暖房が一時不安定になる場合がございます」


「灰橋」


 ミラベルは廊下の時計を見た。


 二十時四十七分。


「到着まで十八分。停車も十八分ですね」


「左様でございます」


 給仕が一礼し、扉を閉める。


 ミラベルは外套へ腕を通した。


「何をしているんです」


 レオンが尋ねる。


「操車場を見てきます」


「旅客の乗降は原則禁止です」


「原則でしょう」


「規則を聞いた直後に抜け道を探さないでください」


「ホームへ降り、同じ列車へ戻ります。移動ではなく取材です」


「降りて乗ることを乗降と言います」


「言葉の定義に厳しいですね」


「列車に置いていかれたくないだけです」


 短い汽笛が鳴った。


 床下から制動機の低い唸りが伝わってくる。


 ガタン、ゴトンと続いていた車輪音が次第に間延びし、代わりに金属同士が擦れ合う長い音が響き始めた。


 ミラベルは窓へ顔を寄せる。


 暗い硝子の向こうを、白いものが流れていた。


 煙ではない。


 地面近くから湧き、線路と枕木を覆い、客車の窓を舐めるように漂っている。


「霧です」


「見れば分かります」


「ずいぶん濃いですね」


「それも見れば分かります」


 最初の信号灯が現れた。


 ぼんやりとした緑の光。


 霧の中では輪郭が崩れ、光そのものが水へ滲んでいるように見えた。


 続いて、線路脇の灯が一つ、二つ。


 やがて数が増え、闇の中へ淡い光の列を作る。


 灰橋操車場。


 駅というより、線路の海だった。


 旅客用の短いホームを中心に、左右へ何本もの側線が広がっている。


 貨車。


 石炭車。


 家畜運搬車。


 材木を積んだ平貨車。


 使われなくなった客車らしい黒い影。


 それらは霧へ半ば沈み、作業灯の近くにある部分だけを浮かび上がらせていた。


 奥には巨大な給水塔が立っている。


 塔の上部は霧に隠れ、黒い脚だけが地上から伸びているように見えた。


 外から、連結器のぶつかる音が聞こえた。


 がしゃん。


 少し遅れて、別の方向から。


 がしゃん。


 夜の操車場では、音だけが距離を失っていた。


 近くで鳴ったのか。


 遠くで鳴ったのか。


 霧と車体に反響し、判断できない。


 《黒梟号》は大きく一度揺れた。


 二十一時五分。


 灰橋操車場へ到着した。


     *


 列車が止まると、それまで一つだった車内の音が、いくつもの作業音へ分かれた。


 給水管を動かす鎖。


 石炭を掻き寄せる鋤。


 荷車の車輪。


 蒸気を逃がす鋭い噴出音。


 作業員たちの怒鳴り声。


「給水開始!」


「郵袋三、ヴェルム=クロウ行き!」


「石炭車、後部確認!」


 窓の外を白い蒸気が覆う。


 ミラベルは扉を開けた。


「行ってきます」


「待ってください」


 レオンも資料を閉じ、立ち上がった。


「一緒に降りるんですか」


「あなたが霧の中へ消えないように」


「子どもではありません」


「子どものほうが、呼べば戻ってきます」


 二人が通路へ出ると、セルマが乗客たちへ注意を告げていた。


「灰橋操車場で十八分間停車いたします! ホームへ降りる方は、乗車口周辺から離れないでください! 発車合図後の御乗車は保証いたしません!」


「降りてもよいんですね」


 ミラベルが言う。


「乗車口周辺から離れないなら」


「給水塔が見えるところまで」


「離れています」


「少しだけ」


「ワトリアさん」


 セルマはホームの時計を示した。


「二十一時二十三分に発車します。あなたが霧の中にいても待ちません」


「十五分で戻ります」


「今、乗車口の前にいるでしょう」


「では、十四分で取材を終えます」


「交渉ではありません」


 セルマが乗車口を開ける。


 冷たく湿った外気が流れ込んだ。


 石炭煙。


 蒸気油。


 濡れた木材。


 鉄錆。


 いくつもの匂いが混じっている。


 ミラベルは鉄製の踏段を降りた。


 靴底が石のホームへ触れる。


 足元を白い霧が流れていく。


 前方は、食堂車の外壁までは見えた。


 だが後方へ目を向けると、四号車の半ばから先は白く霞んでいる。


 五号車。


 郵便・制動車。


 最後尾の赤い標識灯。


 どれも見えなかった。


「本当に、何も見えませんね」


「だから言いました」


 後から降りたレオンが答える。


「赤灯くらい見えると思ったんですが」


「霧は距離を隠します」


「音は隠さないんですね」


 霧の向こうから、重い衝撃音が届いた。


 がしゃん。


 足元の石まで、わずかに震える。


 ミラベルが振り返った。


 白い霧しかない。


「今のは近かったです」


「操車場ですから」


「《黒梟号》の後ろでは?」


「隣の線路かもしれません」


「確かめてきます」


「駄目です」


「まだ一歩も動いていません」


「顔が動いていました」


「顔だけで追跡はできません」


「次に足が動くので止めました」


 ホームの時計が二十一時七分を示した。


 そのとき、四号車側の乗車口からダリウス=モーンが降りてきた。


 濃茶色の外套。


 革手袋。


 手には折り畳まれた一枚の紙。


 その後ろを、ニコル=ヴェイルが書類鞄を抱えてついてくる。


「監査官」


 ニコルが呼んだ。


「本当に、今でなければなりませんか」


「今でなければ困るから停車時間を使うんだ」


「十八分しかありません」


「十八分もある」


 ダリウスは足を止めなかった。


 二人は駅舎側ではなく、霧に沈んだ貨物側線の方向へ歩いていく。


「駅事務室は反対では?」


 ミラベルが声をかけた。


 ダリウスが足を止める。


「何の話です」


「監査のお仕事なら、駅員へ会いに行くのかと」


「駅員に会うとは言っていません」


「では、どちらへ?」


「記者へ行き先を報告する義務はありません」


 口調は穏やかだった。


 だが、目には明確な拒絶がある。


「ヴェイル君」


「はい」


「案内しろ」


 ニコルは一度、ホームの時計を見た。


 それから頭を下げ、ダリウスのあとへ続いた。


 二人の姿は、十歩ほどで霧へ呑まれた。


 脚が消える。


 外套が薄れる。


 最後に、ダリウスの肩とニコルの抱えた鞄が白い中へ溶けていった。


「仕事の話でしょうか」


 ミラベルが言う。


「散歩には見えませんでした」


「追いかけたほうが」


「駄目です」


「最後まで言っていません」


「最後まで聞く必要がありません」


 別の乗車口が開いた。


 深緑色の外套を着たエルフの女が降りてくる。


 グラン=レールでフィオナ=ファルドと名乗った女性だった。


 彼女は周囲を確かめると、ダリウスたちが消えた方向へ一度だけ顔を向けた。


 だが、同じ道は選ばなかった。


 ホームから外れ、駅舎裏へ通じる細い通路へ向かう。


「フィオナさん」


 ミラベルが呼んだ。


 女の肩が小さく震えた。


「何でしょう」


「ホームから離れないほうがよいそうです」


「少し、一人になりたいだけです」


「列車の中では駄目ですか」


「駄目です」


 右手が、外套の腰を押さえている。


 その下にある何かが動かないよう、確かめているようだった。


「ダリウス監査官を御存じですか」


 ミラベルが尋ねる。


 女の瞳が細くなった。


「なぜ、そのようなことを?」


「グラン=レールで監査官を見ていました」


「列車へ乗る人間なら、誰でも見ます」


「そういう見方ではなかったように思いました」


「記者は目の動きまで記事にするのですか」


「必要なら」


「では、こう書いてください」


 女は静かに言った。


「あの男を見れば、不快になる人間は大勢いる、と」


「理由は?」


「聞かないほうがいい」


「聞かなければ書けません」


「なら、書かないことです」


 女は話を打ち切り、駅舎裏の通路へ入った。


 外套の裾が一瞬開く。


 腰に細長い革鞘が見えた。


 ナイフか。


 小型の短剣か。


 確かめる前に、彼女の姿は霧へ消えた。


「追いかけませんよ」


 レオンが先に言う。


「まだ何も」


「右足が出ました」


「立っていただけです」


「追跡を始める立ち方でした」


「そんな立ち方があります?」


「あなたにはあります」


 ホーム前方では、給水作業が続いていた。


 巨大な鉄管が機関車の水槽へ伸び、黒い車体を蒸気が包んでいる。


 その脇を、ボルグ=ダインが工具袋を肩に歩いていく。


「ボルグさん!」


 ミラベルが呼んだ。


 蒸気音にかき消されたのか、ボルグは振り向かない。


「機関士さん!」


 今度は顔だけを向けた。


「何だ」


「機関車を離れて大丈夫なんですか」


「補助機関士がいる」


「どちらへ?」


「給水塔の圧力弁を見る」


「運転台の計器では分からないんですか」


「給水側の圧は別だ」


「取材しても?」


「ついてくるな」


「危険なんですか」


「熱湯と高圧蒸気へ近づきたいなら、止めん」


「止めてください」


「だから言っている」


 ボルグは右脚をわずかに引きずりながら、給水塔の裏手へ向かった。


 黒い工具袋が肩で揺れる。


 やがて、大柄な背中も蒸気と霧へ隠れた。


「皆さん、霧の中へ消えますね」


 ミラベルが言った。


「霧ですから」


「もう少し不思議そうにできませんか」


「人が歩いて見えなくなることに、何を不思議がるんです」


「探偵譚なら、この十八分間に何か起きます」


「これは探偵譚ではなく、帰りの列車です」


「それ、前にも聞いた気がします」


「同じ行動を取るから、同じ答えになるんです」


 安全管理官オズワルド=ケインは、ホーム中ほどで操車場主任と話していた。


 主任は作業用の長外套を着たドワーフで、胸元へ多数の真鍮札を下げている。


 手には、夜間作業表を挟んだ板。


 オズワルドが、その一項目を指で叩いた。


「この移送命令は何だ」


「白灰側線の廃検査車です」


「今夜動かす予定はなかったはずだ」


「本部から正式命令が届きました」


「いつ」


「二十時四十二分です」


「発信元は?」


「中央運行課。定時気送便です」


 ミラベルとレオンは、無意識に顔を見合わせた。


 出発前、ニコルが話していた部署。


 だが、中央運行課が出す書類など、これ一通ではない。


「符号を見せろ」


 オズワルドが言った。


 主任は作業板の紙をめくり、命令票を渡す。


 オズワルドはガス灯の近くで読み、眉を寄せた。


「この符号は古い」


「ですが、認証印は正式です」


「発信確認は」


「本部専用管から届いています。指令番号も実在します」


「だから動かしたのか」


「命令に従わなければ、現場の責任になります」


「事故が起きれば?」


「命令を出した者の責任です」


「現場はいつもそう言う」


「本部も同じことを言います」


 主任は疲れた顔をしていた。


 オズワルドが周囲を見回す。


 ミラベルと目が合った。


「ここでは話せない」


 彼は主任の腕を引く。


「詰所で確認する」


「郵便交換の監督が」


「部下に任せろ」


 二人は線路沿いの詰所へ向かった。


 濃紺の制服と、低いドワーフの背中が並んで霧へ消える。


「中央運行課」


 ミラベルが小声で言った。


「同じ部署名というだけです」


 レオンが答える。


「私は何も言っていません」


「言う顔をしていました」


「顔まで読まれるようになりました」


「あなたは分かりやすいので」


「不本意です」


 ミラベルは手帳へ、事実だけを書き込んだ。


 ――二十一時五分、灰橋到着。


 ――濃霧。四号車半ばより後方は視認不能。


 ――二十一時七分、ダリウスとニコル、貨物側線方向へ。


 ――フィオナ、駅舎裏へ。腰に刃物らしき革鞘。


 ――ボルグ、給水塔圧力弁へ。


 ――オズワルド、操車場主任と詰所へ。


 書き終えたところで、セルマが戻ってきた。


「旅客の行動記録ですか」


「旅行取材です」


「許可なく個人の動向を記事へ載せないでください」


「事件が起きなければ載せません」


「なぜ事件が起きる前提なのです」


「起きなかったことも取材です」


 セルマは一度考え、理解を諦めたらしい。


「あと九分です」


 ホーム時計は、二十一時十四分。


 停車時間の半分が過ぎていた。


 六号車の後部では、郵便袋の交換が行われている。


 灰色の袋が荷車から積み降ろされ、その一つ一つに都市名と整理番号が印刷されていた。


 グラン=レール。


 灰橋。


 ヴェルム=クロウ。


「ヴェルム=クロウ行き、通常郵袋三。官用封袋一。小荷物箱二」


 セルマが読み上げる。


 駅員が帳簿へ記した。


「通常三、官用一、小荷物二」


「封印確認」


「異常なし」


 セルマの視線は、郵袋と帳簿へ向いている。


 彼女の立っている位置からなら、本来は六号車の後端まで見渡せるはずだった。


 だが、霧は六号車の半ばから先を覆っている。


 最後尾の赤灯も見えない。


 遠くで、入換機関車の汽笛が短く鳴った。


 続いて、低く転がる車輪の音。


 鎖を引く音。


 金属管を扱う音。


 短い掛け声。


「あと半車!」


「押せ!」


「止まれ!」


 それが《黒梟号》の後ろで行われているのか。


 何本も離れた側線なのか。


 霧の中では分からない。


 ミラベルは耳を澄ませた。


 重い車輪が、ゆっくり転がってくる。


 鉄と鉄が触れる鈍い音。


 そして――


 がしゃん。


 六号車の車体が、わずかに揺れた。


 郵袋を持つ駅員が足を踏ん張る。


「今、後ろへ何か連結しませんでしたか」


 ミラベルが尋ねた。


「入換作業です」


 セルマは帳簿から目を離さずに答える。


「《黒梟号》へ?」


「貨物側線では複数の編成を同時に扱います」


「六号車も揺れました」


「隣の軌道からでも、衝撃は地面を伝わります」


「見て確かめないんですか」


「郵便交換終了後に、最後尾標識を確認します」


「この霧で?」


「近くまで行けば見えます」


「一緒に」


「あなたは行きません」


「なぜです」


「線路内だからです」


「セルマさんは?」


「私は車掌です」


「便利ですね」


「職務です」


 セルマは官用封袋を自ら六号車へ運び込んだ。


 ホームの時計は二十一時十七分。


 停車から十二分が経過していた。


 給水塔の方からボルグが戻ってくる。


 工具袋を肩にかけ、右手には大型の弁回しを持っていた。


「問題は?」


 補助機関士が運転台から声をかける。


「西側の補助弁が固い」


「交換しますか」


「ヴェルム=クロウまでは持つ。戻り便の前に替えろ」


「圧力は?」


「正常だ」


 ボルグは運転台へ上がりかけ、ホームにいるミラベルを見る。


「まだいたのか」


「取材中です」


「霧の中で線路へ落ちるなよ」


「ホームにいます」


「霧の中では、ホームも線路も同じ色だ」


 ボルグは運転台へ登った。


 炉扉が開き、赤い光が霧を内側から照らす。


 煤に黒くなった横顔が一瞬浮かび、再び闇へ沈んだ。


 ホーム時計の長針は、ゆっくりと発車時刻へ近づいていく。


 二十一時十九分。


 霧の向こうで、最後の大きな連結音が響いた。


 今度は、そのあとに金属管を締める音が続いた。


 短い蒸気の噴出。


 何かの弁を開いたような、鋭い音。


 ミラベルは後方へ目を凝らした。


 何も見えない。


「レオンさん」


「聞こえています」


「何をつないだんでしょう」


「分かりません」


「見れば分かります」


「見るためには線路へ降りる必要があります」


「取材には危険が」


「ありません。戻りますよ」


 レオンは懐中時計を示した。


 二十一時二十分。


 発車まで三分。


 そのとき、霧の中から人影が現れた。


 ニコルだった。


 一人である。


 走っていたのか、少し息が上がっている。


 眼鏡には細かな水滴。


 焦茶色の外套の裾と、靴の縁には白い粉が付着していた。


 書類鞄は、出ていったときと同じように胸元へ抱えている。


「ニコルさん」


 ミラベルが呼んだ。


 彼は足を緩めた。


「まだホームにいらしたんですか」


「取材です。ダリウス監査官は?」


「駅事務室へ寄るそうです」


「一緒ではないんですか」


「途中で、先に列車へ戻るよう言われました」


「駅事務室は反対方向では?」


「貨物通路から裏手へ回れると、監査官が」


 ニコルは眼鏡を外し、布で水滴を拭った。


 手がわずかに震えているようにも見えたが、冷えた霧の中を歩いてきたためかもしれない。


「監査官は間に合うんですか」


「別の乗車口から戻ると言っていました」


「何を確認しに?」


「事故関係の原本です」


「灰橋事故ですか」


 ニコルは眼鏡をかけ直した。


「監査官の業務内容を、私から詳しく話すことはできません」


「では、本人へ聞きます」


「そうしてください」


 先ほどまでより、幾分疲れた声だった。


 ミラベルは彼の外套へ目を落とす。


「白いものがついています」


 ニコルも裾を見る。


「石灰でしょうか」


「どこで?」


「貨物側の道に撒かれていました。霧で足元が見えず、線路脇へ降りてしまったので」


 彼は袖で払おうとし、白い粉を布へ広げた。


「取れませんね」


「濡れていますから」


 レオンが言った。


「乾いてから落としたほうがよいでしょう」


「ありがとうございます」


 ニコルはホームの時計を見た。


 二十一時二十一分。


「発車しますね。先に戻ります」


「客室は四号車でしょう」


「食堂車側から入ります。監査官が戻るか、確認したいので」


 ニコルは三号車ではなく、前方の乗車口へ歩いていった。


 何かを終えたような様子はなかった。


 何かから逃げるようにも見えなかった。


 ただ、停車時間の終わりを気にする乗客に見えた。


 彼の靴底から、白い粉が一粒だけ落ちた。


 ミラベルが屈みかける。


「触らないでください」


 レオンが止める。


「石灰ですよね」


「おそらく」


「おそらくなら、確かめないと」


「操車場の地面から石灰を拾ってどうするんです」


「あとで必要になるかもしれません」


「何に」


「それを今から考えます」


「考えてから拾ってください」


 ミラベルは渋々、手を引っ込めた。


 だが、手帳へは書いた。


 ――二十一時二十一分、ニコル単独で帰還。


 ――外套裾、靴に白い粉。


 ――ダリウスは駅事務室へ向かったと証言。


 遠くで鐘が鳴った。


 発車二分前。


 セルマが郵便交換帳を閉じる。


「交換終了! 荷車を下げてください!」


 郵便係たちが六号車から離れていく。


 セルマは後方へ目を向けた。


 霧の奥。


 最後尾標識を確認するため、二歩ほど進む。


 そのとき、五号車の下から作業員の声が上がった。


「主任車掌!」


 セルマが振り返る。


「何です」


「二等車の制動圧が、一度規定下限近くまで落ちています!」


 彼女の顔色が変わった。


「現在値は?」


「回復しています。ただ、接続部からの漏れかもしれません」


「再試験します。機関士へ伝達!」


「発車が遅れます」


「安全確認なしには出しません」


 セルマは後方ではなく、五号車の床下へ向かった。


 工具を持った作業員とともにしゃがみ込み、制動管の接続を確認する。


 最後尾へ行くはずだった車掌は、そこで足止めされた。


「後ろを見ないんですか」


 ミラベルが尋ねる。


 セルマは床下を見たまま答えた。


「制動圧が戻らなければ、列車自体を発車させられません」


「標識灯は?」


「制動試験後です」


 ホーム時計。


 二十一時二十二分。


 オズワルドが詰所の方向から戻ってきた。


 操車場主任は一緒ではない。


 手にしていたはずの移送命令票も見えなかった。


「ケイン管理官」


 ミラベルが声をかける。


「何だ」


「廃検査車を、今夜移送するんですか」


 オズワルドの足が止まった。


「聞いていたのか」


「聞こえました」


「記事にするような話ではない」


「《黒梟号》へつなぐんですか」


「旅客急行に廃車をつなぐ理由はない」


「では、どの列車へ?」


「知らん」


「安全管理官なのに?」


「操車場にある全編成を、私一人で把握していると思うのか」


 オズワルドは苛立ったように言い、一等車へ向かう。


 数歩進んだところで振り返った。


「今夜の《黒梟号》は六両だ。グラン=レールで、お前も確認したのだろう」


「確認しました」


「なら、余計な想像をするな」


 オズワルドは一等車へ乗り込んだ。


 床下で金属を叩く音がする。


 作業員が立ち上がった。


「漏れなし! 圧力回復!」


 セルマが数値を確認し、前方へ手信号を送る。


「再試験、正常!」


 機関車が短い汽笛で応じた。


「全員、乗車!」


 セルマの声がホームへ響く。


 ミラベルは、周囲を見回した。


 ダリウスは戻っていない。


 フィオナと名乗った女の姿もない。


「まだ戻っていない人がいます」


「別の乗車口から戻ります」


 セルマが答えた。


「確認したんですか」


「各車の乗務員から、扉閉鎖準備の合図が来ています」


「ダリウス監査官も?」


「個々の乗客を数える時間ではありません。乗ってください」


「でも――」


「発車します!」


 セルマに促され、ミラベルは三号車へ上がった。


 レオンも続く。


 セルマは踏段へ片足をかけ、ホームの駅員を見た。


 緑の手灯が上がる。


 前方から、機関士の汽笛。


 長く一度。


 白い霧が震えた。


 列車が動き始める。


 最初に機関車と石炭車の連結器が張る。


 次に一号車。


 二号車。


 三号車。


 小さな衝撃が、順番に伝わってくる。


 がしゃん。


 がしゃん。


 がしゃん。


 ミラベルは客室へ戻らず、通路の窓から後方を見ようとした。


 四号車の窓灯が、霧の中にぼんやりと浮かぶ。


 五号車は影だけ。


 その先は、白い闇。


「最後尾が見えません」


「霧ですから」


 レオンが答える。


「赤灯も」


「列車から、自分の最後尾を見ることはできません」


 ホームの灯が後方へ流れていく。


 霧の向こうでは、何本もの線路に貨車の影が並んでいた。


 一本隣なのか。


 何本も先なのか。


 動いているのか。


 止まっているのか。


 判断できない。


 《黒梟号》は二十一時二十三分、灰橋操車場を発車した。


 停車時間、十八分。


 その間に、ダリウスはニコルとともに霧の中へ消えた。


 ニコルだけが、発車直前に戻った。


 フィオナと名乗る女は駅舎裏へ向かった。


 ボルグは給水塔の圧力弁を見に行った。


 オズワルドは操車場主任と、廃車移送命令について話していた。


 セルマは郵便袋と制動管の確認に追われ、最後尾標識を自分の目で確かめることができなかった。


 霧の中では、何度も連結音が鳴っていた。


 だが、誰もそのすべてを見てはいない。


 列車は速度を上げ、灰橋の灯を後方へ置き去りにする。


 グラン=レールを六両で出た《黒梟号》が、灰橋を何両で発車したのか。


 そのとき、確かめた者はいなかった。

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