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第1節 ― 六両編成の夜行急行

 グラン=レール中央駅には、夜が来ない。


 太陽が鉄環平野の向こうへ沈んでも、巨大な硝子屋根の下には、炉の火とガス灯と信号灯が残る。


 赤。


 青。


 黄。


 白。


 幾重にも交差する線路の上を、小型の入換機関車が走り回り、客車と貨車を切り離し、別の列車へつなぎ替えていく。


 鋼鉄の車輪が軌条を噛む。


 連結器がぶつかる。


 検査工が長柄の槌で車輪を叩くたび、澄んだ金属音が高い天井へ跳ね返り、蒸気の唸りへ溶けていった。


 駅は建物というより、巨大な生き物だった。


 石炭を食べ、水を飲み、人と荷物を呑み込み、定められた時刻になると、それらを大陸の各地へ吐き出していく。


 その生き物の腹の下を、ミラベル=ワトリアは手帳を片手に駆けていた。


「すみません、最後にもう一つだけ!」


 停車中の蒸気機関車は、人間の家屋ほどの高さがある。


 黒く塗られた円筒形の胴体。


 銀色の鋲。


 赤い動輪。


 太い連結棒。


 前面には、翼を閉じた梟の紋章が描かれている。左右の前照灯にも小さな梟の意匠があり、夜になれば闇の中で二対の目が光るように見えるのだという。


 グラン=レールとヴェルム=クロウを結ぶ夜行急行。


 《黒梟号》。


 運転台の窓から顔を出したドワーフの機関士は、煤で黒くなった眉間へ、さらに深い皺を寄せた。


「さっきも最後と言った」


「今度こそ最後です。この機関車は、客車を何両まで引けますか?」


「通常編成なら、勾配区間を含めて八両。平坦線だけなら十両以上」


 ボルグ=ダイン。


 五十六歳。


 《黒梟号》の主任機関士。


 肩幅が広く、太い首が作業服の襟へ埋まっている。煤けた帽子の下からは鉄灰色の髪が覗き、運転台の縁へ置かれた左手には古い火傷が残っていた。


 先ほど機関車から降りた際、右脚をわずかに引きずっていた。


 ミラベルは、それも手帳へ書いている。


 記事に必要かどうかは、あとで決めればよい。


 見たときに残さなければ、必要になったときには思い出せない。


「十両も引けるのに、今夜は六両なんですね」


「引けることと、安全に止められることは別だ」


「止めるほうが難しい?」


「重いものは動きたがらん。いったん動いた重いものは、今度は止まりたがらん」


「気難しいですね」


「人間より素直だ。重さを測れば、どれだけ止まりにくいか分かる」


 ミラベルは、その言葉を囲んだ。


「蒸気圧は?」


「書くな」


「安全上の理由で非公開、としておきます」


「勝手にしろ」


 ボルグが運転台へ引っ込んだ直後、機関車の腹から白い蒸気が噴き出した。


 ミラベルは短い悲鳴を上げ、後ろへ跳ぶ。


 蒸気は靴先を白く包み、すぐに薄れて消えた。


「今のは、わざとでしょう!」


「弁の点検だ」


 運転台の奥から、低い声だけが返ってくる。


「発車まで二十一分です」


 背後から聞こえた声に振り返ると、レオン=クラウスが立っていた。


 黒い外套。


 黒い手袋。


 黒い革鞄。


 色彩に乏しい姿は、汽車と煤煙に満ちた駅の中へよく馴染んでいる。


 右手には旅行鞄。


 左手には、分厚い書類を収めた革鞄。


 肩から提げた鞄にも、紙の角が覗いていた。


 グラン=レール記録分院で複写させた土地台帳、旧輸送契約、鉄道敷設以前の測量記録。


 どれも、四年前に記録上死んだことにされたエルフ――アルヴィン=ヴェインへつながる資料だった。


 高架下で起きた殺人そのものは解決した。


 だが、アルヴィンを四年前に紙の上で殺した者は、まだ見つかっていない。


 レオンは、その手掛かりを探すためにグラン=レールまで来た。


 ミラベルは取材という名目で同行した。


 実際には、かなりの部分を勝手についてきた。


「二十一分もあります」


「二十一分しかありません。荷物を寝台へ置きたいんですが」


「先に行ってください」


「こちらの小さい鞄は、あなたの新聞と菓子です」


「夜行列車に菓子は必要です」


「ヴェルム=クロウまで三時間もかかりません」


「時間の問題ではありません。旅情です」


「旅情のために、私が三十斤近い紙と砂糖を運ぶんですね」


「盗まれたら困るでしょう」


「ですから、早く客室へ――」


「ミラベル=ワトリアさん」


 鋭い女の声が、二人の会話を断ち切った。


 濃紺の制服を着た女性が、乗務手帳を手に歩いてくる。


 背筋は、線路脇に立つ信号柱のように真っ直ぐだった。


 黒い髪は頭の後ろで固くまとめられ、制帽の徽章には銀の翼が刻まれている。


 《黒梟号》主任車掌、セルマ=ルーク。


 三十七歳。


「取材許可は発車十五分前までです」


 セルマが言った。


「あと六分あります」


「機関車だけで十八分使いました」


「機関士さんの説明が丁寧だったので」


 運転台から、金属を打つ音が一度だけ響いた。


 抗議かもしれない。


 セルマは反応しなかった。


「乗客の案内を始めます。通路を塞がないでください」


「食堂車の献立だけでも」


「各卓に献立表があります」


「寝台車の防犯設備は?」


「扉に鍵があります」


「窓から侵入された場合は?」


「走行中の列車の窓から侵入する者がいたなら、その人物へ取材してください」


 ミラベルは感心して手帳へ書き込んだ。


「書かないでください」


「よい言葉でした」


「記事に載せないでください」


「検討します」


 セルマの眉が、ごくわずかに動いた。


「クラウスさん」


 彼女はレオンへ向き直る。


「お連れの方を、発車十分前までに三号車へ乗車させてください」


「承知しました」


「私ではなく、彼女へ言ってください」


「聞いています」


 ミラベルが答える。


「返事は?」


「善処します」


「約束できないときに使う言葉ですね」


 セルマはそう言い残し、乗車口へ向かっていった。


 ミラベルは、その後ろ姿を見送る。


「怖い人ですね」


「規則に忠実なだけでしょう」


「レオンさんとは気が合いそうです」


「どのあたりが?」


「他人に厳しいところです」


「私は自分にも厳しいですよ」


「それは初耳です」


 大時計の下で、発車案内の鐘が鳴った。


 一度。


 少し間を置いて、二度。


 ホームにいた乗客が、いっせいに動き始める。


 荷運び人が革鞄を担ぐ。


 旅行者が切符を確かめる。


 子どもが機関車の煙を見上げる。


 黒い制服の駅員たちは乗車口へ立ち、切符と身分証を照合していた。


 ヴァルテリアでは、列車へ乗るにも名前が要る。


 誰が、どこから、どこへ移動するのか。


 どの座席を使用するのか。


 どの荷物を持ち込んだのか。


 それらはすべて記録される。


 人は切符を買っただけでは、列車の中の人間にならない。


 切符へ名を記し、乗客名簿へ存在を登録されて、初めて正規の乗客になる。


 ミラベルは人の流れに逆らい、ホームの先頭側へ歩き出した。


「どこへ行くんです」


 レオンが呼び止める。


「数えます」


「何を」


「列車を」


「見れば分かるでしょう」


「見ただけのことは記事に書けません。確認したことを書きます」


 先頭では、二人の整備員が前照灯を点検していた。


 黒い機関車。


 石炭車。


 その後ろへ、客車が続く。


 ミラベルは手帳の新しい頁を開いた。


「では、数えます」


 先頭の客車は、一等客車。


 深緑色の窓枠。


 磨かれた真鍮の取っ手。


 個室ごとに小さなガス灯が灯っている。


「一」


 二両目は、食堂・談話車。


 広い窓から、白い卓布と吊り灯が見える。


「二」


 三両目。


 寝台車甲。


 ミラベルとレオンが乗る車両だ。


「三」


 四両目。


 寝台車乙。


 一等寝台より簡素だが、長距離旅行者に必要な設備は揃っている。


「四」


 五両目。


 二等客車。


 向かい合わせの長椅子が並び、荷棚にはすでに大きな荷物が積まれていた。


「五」


 六両目。


 郵便・制動車。


 前半分は郵便袋と小荷物を積む貨物区画。


 後部には車掌用の制動室があり、車体最後尾には赤い標識灯が掲げられている。


「六」


 ミラベルは、六号車の後ろを見た。


 線路は空いている。


 連結器は口を開いたまま、黒い油を光らせていた。


 その先に客車はない。


 ミラベルは手帳へ記した。


 ――機関車一。客車六。


 さらに一行。


 ――最後尾は、赤色標識灯を備えた郵便・制動車。


「そこまで書く必要がありますか」


 レオンが背後から手帳を覗いた。


「後ろから何両目、と書くより分かりやすいでしょう」


「記事の主題は、《快適で安全な夜行急行の旅》では?」


「編集長からは、そう言われました」


「従う気がない顔ですね」


「快適かどうかは、実際に乗らなければ分かりません。安全かどうかも同じです」


「安全性を体験で確かめるのはやめてください」


「事故が起きなければ安全だった、と書きます」


「そうしてください」


「事故が起きたら?」


「記事を書く前に避難してください」


 ミラベルは笑い、手帳を閉じた。


 そのとき、駅舎側から一人の男が急ぎ足で近づいてきた。


 三十歳前後。


 痩せた身体。


 灰色の旅行服に焦茶色の外套。


 銀縁の眼鏡。


 腕には、鉄道補償局の紋章が押された革製の書類鞄を抱えている。


 男はホームへ出ると、まず大時計を見た。


 次に《黒梟号》の後方へ目を向ける。


 最後尾を一度見たあと、乗車口へ急ごうとして、ミラベルたちに気づいた。


「失礼。取材の方ですか」


「ヴェルム=クロウ日報のミラベル=ワトリアです」


 ミラベルは即座に名乗る。


「こちらは私立探偵のレオン=クラウスさん」


「紹介しなくて結構です」


 レオンが言った。


「探偵の方ですか」


 男は軽く会釈した。


「ニコル=ヴェイルと申します。鉄道補償局で書記をしています」


「補償局」


 ミラベルが手帳を開く。


 ニコルは困ったように微笑んだ。


「私は取材対象ではありません。今夜は、上司の随行ですので」


「上司というのは?」


「ダリウス=モーン特別監査官です」


 名を口にした直後、ニコルは再び大時計を見た。


「遅れているんですか」


「中央運行課へ監査照会書を届けていました」


「中央運行課?」


「各操車場や支線管理所へ送る書類を扱う部署です。灰橋方面の定時気送便が十九時十分締めでしたので、発送棚へ直接入れるよう命じられまして」


「気送便なら、すぐ届くんですか」


「直通ではありません。中央中継所で宛先ごとに仕分けされます。灰橋のような中間操車場なら、到着は一時間半ほどあとでしょう」


 ミラベルの鉛筆が走る。


「書くほどのことではありません」


 ニコルが言った。


「鉄道の書類がどう運ばれるのか、旅行記事には面白いかもしれません」


「地味すぎませんか」


「私は好きです」


「記者は変わったものを好むんですね」


「変わったことを見落とすと、あとで困りますから」


 その会話へ、別の男の声が割り込んだ。


「ヴェイル君」


 ニコルの肩が固くなる。


 上質な濃茶色の外套を着た男が歩いてきた。


 四十代後半。


 頭髪には白いものが混じっているが、口髭は丁寧に整えられている。


 手袋は柔らかな革。


 靴には泥一つない。


 グラン=レールの煤煙の中にいても、彼の周囲だけ別の階級に属しているようだった。


 ダリウス=モーン。


 鉄道補償局特別監査官。


「遅かったな」


「申し訳ありません。御指示どおり、中央運行課の発送棚へ――」


「入れたのなら説明は要らない」


「はい」


「控えは?」


「こちらです」


 ニコルは書類鞄を開こうとした。


「今出すな。ホームで機密文書を広げるつもりか」


「申し訳ありません」


「何のために鞄があると思っている」


 ニコルは鞄を抱え直した。


 ダリウスは、初めてミラベルへ目を向ける。


「ヴェルム=クロウ日報」


「ミラベル=ワトリアです」


「存じていますよ。先日の高架下の事件を記事にした方でしょう」


「記事にはなりませんでした」


「そうでしたか」


 残念そうには見えなかった。


「新聞社にも、掲載するに足る事実と、掲載する価値のない憶測を分ける判断力があるのでしょう」


 ミラベルの指が、手帳の縁を強く押す。


 レオンは横目でそれを見たが、何も言わなかった。


「灰橋事故についても同じです」


 ダリウスは続ける。


「古い帳簿には、どこにでも数字のずれがある。転記の誤り、重複、日付の書き違い。そうしたものを陰謀と呼びたがる者がいる」


「遺族にとっては、数字一つでも重要なのでは?」


「もちろんです。だからこそ、専門家が慎重に確認する。中途半端な情報を新聞が広めれば、不要な期待を抱かせることになる」


「期待させることと、隠すことは違います」


「隠す?」


「一般論です」


 ミラベルは答えた。


 ダリウスの笑みが、わずかに薄くなる。


 ニコルが口を挟んだ。


「監査官、そろそろ御乗車を。面談資料も確認していただく必要が」


「その前に、発送控えがすべて揃っているか確認しておけ」


「はい」


「前回のように留め金を閉め忘れるなよ」


「気をつけます」


「気をつける、ではなく確認するんだ。君の失敗を、私の監督責任として報告されては困る」


「承知しました」


 ダリウスは先に四号車へ向かって歩き出した。


 ニコルは頭を下げ、そのあとを追おうとする。


 その拍子に、書類鞄の金具が外れた。


 乾いた音。


 数枚の書類と、真鍮製の細い定規が床へ落ちる。


「申し訳ありません」


 ニコルは慌てて膝をついた。


 ダリウスは振り返りもしない。


「またか、ヴェイル君」


「今度は確かに閉じたつもりで」


「つもりは記録にならない」


 一枚の紙が、ミラベルの足元へ滑ってきた。


 彼女は拾い上げる。


 鉄道補償局の書式。


 事故補償記録再点検一覧。


 いくつもの整理番号の上に、《灰橋》という文字が見えた。


 ニコルが手を差し出す。


「ありがとうございます」


 声は穏やかだったが、動きは早かった。


 ミラベルは紙を返した。


「大切な書類ですか」


「古い補償記録の照合表です。内容より、紛失した場合の責任が大きい書類です」


「先ほど中央運行課へ届けたのも、これと同じもの?」


「関連する照会書です。事故当時の入換記録と、閉鎖された運行原簿の所在確認を求めています」


「灰橋事故を、本当に再調査しているんですね」


「監査官の御判断です」


 ニコルは書類を揃え、真鍮定規を鞄へ戻した。


 紙を扱う指は細く、爪の際には黒いインクが残っている。


 右袖口の布地には、小さな擦れがあった。


 そこへ、金属粉のようなものが一瞬だけ光った。


 文書金具か、真鍮定規の粉かもしれない。


 ニコルは書類を収め、今度こそ留め金を確かめた。


 片方。


 もう片方。


 指で二度押す。


「ヴェイル君!」


「はい。今行きます」


 ニコルはミラベルへ一礼し、ダリウスを追って四号車へ乗り込んだ。


 ミラベルは手帳へ短く書く。


 ――ニコル=ヴェイル。鉄道補償局書記。


 ――出発前、中央運行課の発送棚へ監査照会書。


 ――灰橋方面、定時気送便。


 ――真鍮定規。右袖口に光る粉。


「疑っているんですか」


 レオンが尋ねる。


「何をです?」


「彼を」


「いいえ」


 ミラベルは答えた。


「見たことを書いただけです」


「右袖の粉まで?」


「必要かどうかは、あとで決めます」


「全部その理屈ですね」


「だから取材漏れがないんです」


 発車を促す笛が鳴る。


 セルマがホームを歩きながら、乗客へ呼びかけた。


「《黒梟号》、ヴェルム=クロウ行き! 十九時四十分発! 御乗車の方は、切符と身分証を御用意ください!」


 レオンは二つの鞄を持ち直す。


「今度こそ乗りますよ」


「あと一人だけ」


「誰です」


「あの方です」


 ミラベルが示した先に、鉄道会社本部の制服を着た男がいた。


 濃紺の上着。


 銀の釦。


 襟元には本部職員を示す二本線。


 胸には《安全管理部》の徽章。


 四十四歳。


 オズワルド=ケイン。


 彼はホームの駅員から、編成書類を受け取っていた。


「後部の荷重表は、灰橋へ送ってあるな」


「はい。通常編成六両。総重量も規定内です」


「制動試験の記録は」


「こちらに」


 オズワルドは一頁ずつ素早くめくり、最後に署名欄を確かめた。


「主任車掌の確認印が薄い」


「押し直しますか」


「印影番号は読める。このままでいい」


 ミラベルが近づく。


「安全管理官の方ですか?」


 オズワルドが顔を上げた。


「新聞記者か」


「ヴェルム=クロウ日報です。今夜の《黒梟号》には、安全管理部の方も乗車されるんですね」


「定期確認だ」


「通常の旅客列車にも?」


「事故は、特別な日にだけ起きるわけではない」


 簡潔な答えだった。


「灰橋操車場でも確認を?」


 その地名を口にした瞬間、オズワルドの視線が鋭くなる。


「なぜ灰橋を」


「《黒梟号》は途中で給水停車しますよね」


「時刻表にある」


「十八分間。旅客の乗降は原則なし。給水、石炭補給、郵便袋の交換」


「よく調べている」


「記者ですから」


「なら、事故記録と今夜の運行を混同しないことだ」


「事故記録?」


 ミラベルが聞き返す。


 オズワルドの口が一瞬止まる。


「灰橋と聞けば、誰でも八年前の脱線事故を思い出す」


「私は停車予定の話をしただけです」


「だから混同するなと言った」


 オズワルドは書類を駅員へ返す。


「数字を正確に書け。今夜の編成は六両。定員、荷重、制動力、すべて規定内だ」


「六両」


 ミラベルは、自分の手帳を見た。


「確認しました」


「なら、それ以上はない」


 オズワルドは一等客車へ向かいかけ、足を止めた。


 進行方向から、ダリウスが戻ってきたためだった。


 二人は、互いに相手がそこにいることを喜んではいない顔をした。


「ケイン管理官」


 ダリウスが先に声をかける。


「監査官」


「今夜も会社を代表して、列車の安全を守るのですか」


「職務だ」


「八年前にも、その職務が十分に果たされていればよかった」


 オズワルドの頬が引きつる。


「その話を、ここでするつもりか」


「私は何も責めていませんよ。当時の報告書へ署名した者が、内容を覚えているか確かめただけです」


「報告書は正式な調査を経て作られた」


「もちろん」


「今さら書き換える理由はない」


「何が見つかったかによるでしょう」


「何を見つけた」


 オズワルドの声が低くなる。


 ダリウスは答えず、笑った。


「食堂車で話しましょう。人目のないところで」


「人目なら、すでにある」


 オズワルドはミラベルを見る。


 彼女は手帳を胸元へ寄せた。


「まだ何も書いていません」


「嘘をつけ」


「見出しは考えていません」


「同じことだ」


 オズワルドは一等客車へ乗り込んだ。


 ダリウスはその背中を見送り、口髭を撫でる。


「記者という仕事も大変ですね」


 彼はミラベルへ言った。


「他人の機嫌を損ねて、ようやく一行の言葉が取れる」


「監査官のお仕事も似ているのでは?」


「私は言葉ではなく、証拠を扱います」


「その証拠を、新聞へ渡すことは?」


「価値に見合う相手になら」


「真実にも値段があるんですか」


「世の中に、値段のつかないものはありません」


 ダリウスはそう言い、四号車へ戻っていった。


 ミラベルは、その言葉を手帳へ記した。


 ――世の中に、値段のつかないものはない。


「今の会話は記事に?」


 レオンが尋ねる。


「編集長に消されます」


「それでも書くんですね」


「書かなければ、消される前から存在しないことになります」


 ミラベルは手帳を閉じた。


 高架下事件で掲載されなかった原稿。


 商会名を削られた記事。


 名前を載せてもらえなかった死者。


 真実を見つけても、世の中へ出せるとは限らない。


 何を記録として残せるかを決める権限は、記者より上にいる人間たちが持っている。


「今回は、明るい旅行記事でしょう」


 レオンが言った。


「《黒梟号で行く快適な夜の旅》。食堂車の煮込み料理と、寝台の柔らかさを書く」


「分かっています」


「事件は起きません」


「どうして断言できるんです?」


「起きないでほしいという意味です」


「探偵らしくない言い方ですね」


「探偵は、事件を望む職業ではありません」


 レオンは列車を見上げた。


「起きたあとで呼ばれる職業です」


 セルマの笛が鳴った。


「発車五分前! すべての乗客は御乗車ください!」


「今度こそ乗ります」


 レオンが言う。


「あと――」


「乗ります」


「はい」


 二人は三号車へ向かった。


 その途中、一等車の前で、ひとりのエルフの女性が駅員と話しているのが見えた。


 細身の身体を、深緑色の外套で包んでいる。


 髪は夜の森を思わせる暗い銀色。


 肌は白く、目元には長旅の疲れが滲んでいた。


 二十九歳ほど。


 大きな荷物はない。


 肩掛け鞄が一つだけ。


 だが外套の腰のあたりが、わずかに膨らんでいる。


 短剣か、工具のようなものを隠している形だった。


「こちらの切符は、フィオナ=ファルド名義です」


 駅員が言った。


「はい」


「身分証の印影が少し薄いようですが」


「古い証書ですので」


「出生地は?」


「北方です」


「北方のどちらです」


「今はもうありません」


 駅員が困った顔をする。


 女性は視線を上げた。


 その先に、四号車の窓がある。


 窓辺を通り過ぎたダリウスを見た瞬間、彼女の目から疲労が消えた。


 代わりに浮かんだのは、凍るような憎悪だった。


 ほんの一瞬。


 ダリウスが窓の向こうへ消えると、女性は再び静かな顔へ戻る。


「問題がありますか」


「いえ。目的地はヴェルム=クロウですね」


「そうです」


「御乗車ください」


 駅員は切符へ鋏を入れた。


 女性は一等車ではなく、五号車の二等客車へ向かう。


 ミラベルは、その後ろ姿を見た。


「今の方」


「見ました」


 レオンが答える。


「ダリウス監査官を知っているようでした」


「その可能性はあります」


「車内で聞いてきます」


「取材を拒否されたら?」


「別の聞き方を考えます」


「それを世間では、しつこいと言います」


「記者は粘り強いんです」


「同じ行為を好意的に表現しただけでしょう」


 二人は、ようやく寝台車へ乗り込んだ。


 セルマが乗車口で切符を確認する。


「三号車、九号室。二名」


「二人用個室ですか?」


 ミラベルが尋ねる。


「そうです」


「鍵は内側から?」


「内側からも外側からも。乗務員は緊急用の共通鍵を所持しています」


「すべての客室を開けられる?」


「緊急時のみです」


「共通鍵が盗まれた場合は?」


 セルマはミラベルの切符へ鋏を入れた。


 小さな欠け菱形の穴が開く。


「記事には、《共通鍵は車掌が肌身離さず管理している》と書いてください」


「実際には?」


 セルマは腰の鎖を持ち上げた。


 鎖の先に、数本の鍵を収めた黒革の小箱がある。


「肌身離さず管理しています」


「触れれば分かります?」


「触れた時点で鉄道警備員を呼びます」


「触りません」


「賢明です」


 ミラベルが通路へ入る。


 セルマはレオンへ視線を向けた。


「クラウスさん」


「何でしょう」


「本当に、記者の方と同じ客室でよろしいのですか」


「ほかに空きが?」


「ありません」


「では、質問の意味は」


「確認です」


「御心配なく。先に眠ります」


「質問に答えず?」


 ミラベルが振り返る。


「答えなければ、いずれ諦めるかと」


「それで私が諦めたこと、ありますか?」


 レオンは少し考えた。


「ありませんね」


「でしょう?」


「では、眠ったふりをします」


 セルマは二人を通した。


 客車内には、外の喧騒を切り離すような静けさがあった。


 床には深い赤色の絨毯。


 壁は濃色の木材。


 真鍮の手すり。


 天井には乳白色のガス灯が並び、列車がまだ動いていないのに、炎はかすかに震えている。


 九号室へ入ると、左右に寝台兼用の長椅子があった。


 中央には小さな折り畳み卓。


 壁際には網棚。


 窓の下には、細い蒸気暖房管が走っている。


 室内はすでに温かかった。


 ミラベルは窓へ手をかける。


「開けないでください」


 レオンが言った。


「まだ動いていません」


「煤が入ります」


「暑いです」


「外套を脱いでください」


「旅情がなくなります」


「煤まみれになることが旅情なら、ヴェルム=クロウの日常で十分でしょう」


 レオンは書類鞄を網棚へ置いた。


 ミラベルの菓子袋は、卓の下へ押し込む。


「扱いが違いませんか」


「中身の価値が違います」


「砂糖菓子も、食べればなくなる貴重品です」


「記録は食べなくても、誰かがなくします」


 ミラベルは向かい側へ腰を下ろした。


 窓の外では、最後の乗客が走っている。


 駅員が大時計を確かめる。


 ホームの各所で手旗が上がる。


 前方から短い汽笛。


 続いて、制動試験を知らせる鐘。


 床下で、何かが締めつけられるような音がした。


 車体が、ごく小さく揺れる。


「何の音です?」


「制動管の確認でしょう」


「詳しいですね」


「記録院にいた頃、鉄道契約も扱いました」


「機関車は?」


「知りません」


「密室としての客車は?」


 レオンは彼女を見た。


「なぜ、客車を密室として考えるんです」


「内側から鍵を閉めれば、立派な密室でしょう」


「走っている列車なら、逃げ道が少ないだけです」


「屋根へ出るとか」


「死にます」


「窓から隣の客室へ」


「死にます」


「連結部を渡る」


「普通に扉を使ってください」


 ミラベルは窓の外へ顔を近づけた。


 ホームの向こう。


 最後尾の郵便・制動車。


 その後端にある赤い標識灯へ、駅員が火を入れた。


 夕闇の中で、赤い一点が静かに灯る。


「赤灯、点きました」


 ミラベルは手帳を開く。


「それも書くんですか」


「確認です」


 先ほどの記録へ追記する。


 ――発車前、最後尾の赤灯点灯を確認。


「旅行記事に必要でしょうか」


「必要かどうかは、あとで決めます」


「やはり全部その理屈ですね」


 ホーム中央で、セルマが銀の笛をくわえた。


 長く、鋭い音が硝子屋根の下へ響き渡る。


 駅員の手旗が振られた。


 遠くで信号腕木が上がる。


 機関車が低く吠えた。


 最初は、何も動いていないように見えた。


 次の瞬間、連結器が先頭から順番に張っていく。


 がしゃん。


 がしゃん。


 がしゃん。


 鈍い衝撃が、六両の客車を後方へ伝わった。


 最後に三号車が小さく揺れ、車輪が回り始める。


 ホームの柱が、ゆっくり後ろへ流れた。


 駅員が手を上げる。


 荷運び人が帽子を振る。


 向かいの列車が、蒸気の向こうへ隠れていく。


 《黒梟号》は十九時四十分。


 定刻どおり、グラン=レール中央駅を発車した。


 機関車一両。


 客車六両。


 最後尾は、赤い標識灯を掲げた郵便・制動車。


 それを、ミラベルは自分の目で見た。


 手帳にも書いた。


 駅員も確認した。


 車掌も確認した。


 安全管理官も、六両編成だと言った。


 運行表にも、そう記されている。


 列車は確かに六両だった。


 この時点では、まだ。

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