第15節 ― 名犬は探偵の帰路を知る
白い蒸気の中で。
ブラムだけが、噴き出す前の音を聞いていた。
右の壁へ顔を向ける。
耳を伏せる。
次の瞬間。
煉瓦の継ぎ目から、細い蒸気が槍のように走った。
「下がって!」
ミラベルが身を引く。
熱い白線が、直前まで彼女の顔があった場所を横切った。
反対側の鉄棚へ蒸気が衝突する。
革表紙がめくれ。
濡れた紙片が、床へ散った。
ブラムは蒸気へ驚いた様子を見せない。
壁の内部を移動する圧力の音を追うように、頭をゆっくり動かしていた。
「いまのを、先に聞いたんですか」
問いかけても。
振り返らない。
一歩進み。
すぐに止まる。
床へ鼻先を近づけたあと、ミラベルの進路へ大きな身体を入れた。
「退いてください」
動かない。
「向こうに、ユストさんがいます」
白い蒸気の先。
倒れた台車の陰に、ユスト=フェルがいる。
先ほどまで、かすかに人影が見えていた。
いまは輪郭さえ分からない。
ミラベルが右へ回ろうとすると。
ブラムも右へ動く。
左へ行こうとすれば。
また道を塞いだ。
「ブラム」
ミラベルは足を止めた。
命令ではなく、問いかける。
「この道は危ないの?」
黒い耳が、壁へ向く。
低い振動。
配管の奥で。
金属が膨らむような音がした。
「伏せろ!」
レオンの声。
ブラムがミラベルの身体へぶつかる。
二人が床へ沈んだ直後。
天井近くの消毒孔から、高温蒸気が噴き出した。
白い奔流が、通路全体を薙ぐ。
立っていれば。
顔と喉を、まともに焼かれていた。
蒸気が薄れる。
ミラベルは咳き込みながら、床へ片手をついた。
「危険な場所を塞いでいたんですね」
「圧力音を聞いた可能性が高い」
レオンが壁際から答えた。
声が掠れている。
蒸気そのものではなく。
地下を満たす轟音に、呼吸を乱されていた。
「なら、偶然ではありません」
「証明はできない」
「いまは記録する必要もありません」
ミラベルは立ち上がった。
「生きて出てから書きます」
エレノアの声が、蒸気の奥から聞こえた。
「ユストさんがいる! でも、棚が倒れて――」
金属が擦れる。
何かを持ち上げようとする音。
「無理に動かさないでください!」
ミラベルが叫ぶ。
「このままでも下敷きになるわ!」
声は、焼却炉区画の左奥から聞こえる。
だが、正面の通路には、蒸気の噴出口が並んでいた。
ブラムは白い流れを見る。
次に、床へ鼻を近づけた。
ユストが寝かされていた場所に残る。
安価な消毒薬。
港湾機械油。
保管庫の包帯から追ってきた、同じ人間の匂い。
ブラムは右へ曲がった。
焼却炉から離れる方向だった。
「そっちではありません!」
ミラベルが呼ぶ。
犬は振り返る。
それから、再び右へ進んだ。
「遠回りするつもりだ」
レオンが言った。
「正面は蒸気管に囲まれている。資料棚の裏を回る」
「道を知っているんですか」
「知らない」
「では」
「ブラムは、蒸気の薄い方を選んでいる」
白い流れは。
どこも同じには動いていない。
床近くを這う蒸気。
天井へ昇る蒸気。
壁の孔へ吸い込まれる蒸気。
ブラムは視界ではなく。
熱と音と空気の流れを追っていた。
「行きましょう」
ミラベルが言った。
「俺が先に行く」
「歩けるんですか」
「歩かなければ着かない」
レオンは杖をついた。
右脚へ体重を移した瞬間、顔が歪む。
「私も一緒に行きます」
「支えるな」
「方向を間違えないよう、触れているだけです」
「迷っていない」
「では、早く行きましょう」
ブラムのあとを。
ミラベルとレオンが進む。
倒れた棚と壁の間。
人一人が横向きで通れる隙間だった。
床には、焼けた紙と割れた薬瓶が散っている。
ブラムは足を置く場所を選び。
二人が追いつくまで、曲がり角で待った。
正面通路より、蒸気は薄い。
壁の小孔から噴き出してもいない。
反対に。
白い流れが、奥へ吸い込まれていた。
「排気の裏側です」
ミラベルが言った。
「外へ抜ける道がある」
レオンが答える。
「脱出に使えますか」
「まだ出口を確認していない」
「仮説ですね」
「そうだ」
短い掛け合いに。
ミラベルは、レオンの呼吸が戻りつつあることを知った。
黒鐘塔の水ではない。
ここは中央記録庁の地下。
彼は一人ではない。
先にはブラムがいる。
隣にはミラベルがいる。
奥では、エレノアがユストを呼び続けている。
隙間を抜けると。
焼却炉区画の側面へ出た。
蒸気が一瞬だけ薄くなる。
未解決事件箱・第十三号は、台車の上に残っていた。
黒い蓋へ熱い蒸気が当たり、封蝋が柔らかくなっている。
隣の原照合票も。
束の端が濡れているだけで、まだ燃えていない。
焼却炉の投入扉は。
半ば開いた状態で止まっていた。
「証拠品二点、現存」
ミラベルが確認する。
「ザール部長は?」
非常弁の向こう。
職員用の細い通路扉が開いている。
「逃げました」
「出口はグレアムが塞いでいる」
「記録にある出口は、ですね」
「ああ」
追う時間はなかった。
崩れた鉄棚の下で。
ユストが動いた。
喉から、声にならない息が漏れる。
棚の横枠が。
右腕と胸元へ覆いかぶさっていた。
エレノアは隣へしゃがみ。
支柱を持ち上げようとしている。
「動かない!」
「一人で持ち上げないでください!」
ミラベルが駆け寄る。
「では、どうするの!」
レオンは棚の傾きと、倒れた台車を見た。
「上の箱を減らす」
「どれを?」
「右側だけだ。左を動かすな」
ミラベルとエレノアが、棚上の箱を二つ落とす。
古い記録が床へ散る。
棚が、わずかに軽くなった。
「次は?」
エレノアが尋ねる。
「俺が棚を浮かせる。二人でユストを引け」
レオンは鉄の杖を、横枠の下へ差し込んだ。
「その杖で?」
「ほかに使える物がない」
「折れませんか」
「黒鐘塔の杖じゃない」
地下街の職人が作った、簡素な鉄製杖。
飾りも。
仕込み機構もない。
ただ。
人間の身体を支えるための鉄だった。
「ブラム」
レオンが呼ぶ。
犬はユストの足元へ立った。
「外套を引け」
ブラムは動かない。
ミラベルが、ユストの上着の裾を示した。
「この人を、棚の下から出したいの」
ブラムはユストの呼吸を確かめる。
それから、上着の裾をくわえた。
「上げるぞ」
レオンが杖へ体重を掛ける。
棚が軋む。
負傷した右脚が震える。
鉄の杖が横枠を押し上げた。
「いまです!」
ミラベルがユストの腰へ腕を入れる。
エレノアは、傷ついた喉と頭を守る。
ブラムが外套を引く。
ユストの身体が。
少しずつ棚の下から出た。
右腕。
胸。
最後に脚。
「出ました!」
「下がれ!」
レオンが叫ぶ。
三人がユストを引いた。
ブラムも離れる。
鉄の杖が大きく曲がった。
支えを失った棚が。
床へ落ちる。
轟音。
石床が揺れ。
白い蒸気の中へ、煤と紙片が舞い上がった。
「レオンさん!」
返事がない。
ミラベルはユストをエレノアへ預け、倒れた棚へ回る。
レオンは床に倒れていた。
上半身は見える。
だが。
棚の横枠が、右脚の上へ落ちていた。
曲がった杖は。
手の届かない場所へ転がっている。
「動かないでください」
「動けない」
「感覚は?」
「ある」
ミラベルが靴先へ触れる。
わずかに動いた。
完全に潰されてはいない。
それでも。
一人で抜け出すことはできなかった。
ブラムが駆け寄る。
レオンの顔。
右脚。
棚。
順に嗅ぐ。
低く鼻を鳴らした。
「ユストを連れて行け」
レオンが言った。
ブラムは動かない。
「聞こえただろう」
黒い耳が、レオンへ向く。
「帰れ、ブラム」
白い蒸気の中で。
命令だけが、はっきりと聞こえた。
ブラムは顔を背けなかった。
立ち上がりもしない。
レオンの横へ伏せる。
「帰れと言った」
犬は、レオンの外套の肩をくわえた。
棚の下から引き出そうとする。
「無理だ。先にユストを――」
「その子は、帰れと言われて帰る犬じゃありません」
ミラベルが、棚の反対側へ回った。
熱を持つ支柱へ、レオンの外套の端を巻く。
「帰れない人を、連れて帰る犬です」
「二人で動かせる重さじゃない」
「持ち上げません」
「では」
「横へずらします」
棚の奥側は。
蒸気で濡れた紙束の上へ乗っていた。
大きくは動かない。
だが。
右脚を抜くための隙間なら、作れるかもしれない。
ミラベルはブラムの前へしゃがんだ。
「ブラム」
犬が、レオンの外套から口を離す。
「レオンさんの脚を、この下から出したいの」
支柱へ巻いた布を示す。
「これを、一緒に引いてくれる?」
ブラムは支柱を嗅ぐ。
次に。
レオンの右脚。
床の濡れた紙。
何を動かせば。
誰が自由になるのか。
確かめるように周囲を回った。
外套の端をくわえる。
「俺が合図する」
レオンが言った。
「痛みが増したら止めろ」
「分かりました」
ミラベルも布を握る。
「少しずつです」
ブラムの前脚が、石床をつかんだ。
「引いて」
一人と一頭が。
同時に身体を後ろへ移す。
最初は動かない。
もう一度。
棚の奥が、わずかに滑った。
「止めろ」
レオンの声で、二人とも止まる。
「脚は?」
「まだだ。だが、軽くなった」
「もう一度」
三度目。
棚が半手ほど横へ動く。
レオンの右脚と鉄枠の間に。
わずかな隙間が生まれた。
「いまです!」
ミラベルは布を放し。
レオンの膝裏へ腕を入れた。
右脚を引く。
レオンが歯を食いしばる。
靴。
脛。
膝。
順に棚の下から抜ける。
最後に踵が外れた。
ブラムが後ろへ跳ぶ。
棚は、再び床へ落ちた。
レオンは仰向けになったまま。
大きく息を吐く。
右脚は不自然に曲がってはいない。
だが。
自力で立てる状態でもなかった。
「骨折は?」
「分からない」
「動かさない方が」
「ここにいれば蒸される」
非常蒸気は。
まだ排気量を上回っている。
エレノアが、ユストを支えながら近づいた。
「意識が戻ったわ」
ユストは自力では立てない。
それでも。
目を開いていた。
「ここは……」
「身分継続局の地下です」
ミラベルが答える。
「また……閉じ込めるのか」
「いいえ」
「外へ出られる?」
「出ます」
出口は、まだ見つかっていない。
けれど。
ここへ残るという選択はなかった。
「ブラムが道を探します」
「犬が?」
「この中では、私たちより詳しいです」
レオンが上半身を起こそうとする。
ミラベルが背を支えた。
「立つな」
「立てません」
「では、どうする」
「私たちが支えます」
エレノアがレオンの右側へ回る。
「兄さまの右腕は私」
「お前に体重を掛けられない」
「思っているより力はあるわ」
「思っているより、俺は重い」
「四か月で痩せたでしょう」
「いま話すことか」
「話せるなら意識はある」
エレノアは、レオンの右腕を肩へ回した。
ミラベルは左肩を引かないよう、腰と背を支える。
「ユストさんは?」
ミラベルが尋ねる。
「私が支える」
エドガーが、蒸気の向こうから現れた。
外套の袖で口元を覆っている。
「非常弁は?」
「制御室側から閉じられない。ザールが手動固定具を掛けた」
「解除は?」
「焼却炉側の弁へ戻る必要がある」
「戻れません」
ミラベルが言った。
「なら、別の排気路を探す」
「現行図にありますか」
「ない」
「行政庁舎でしょう」
レオンが言う。
「管理者が知らないのか」
「現行設備では、中央煙突へ統合されている」
「現行設備では?」
「焼却炉の建設前に使われていた、自然排気路が残っている可能性はある」
「場所は」
「記録は地下設備庫だ」
その言葉を。
ブラムが遮った。
一度。
低く鼻を鳴らし。
壁際へ歩く。
煉瓦の下部にある細い隙間へ、鼻を向けた。
白い蒸気が。
その隙間へ吸い込まれている。
「空気が流れています」
ミラベルが近づく。
煤で黒くなった格子。
周囲の設備より古く。
半分錆びた金属札が残されていた。
> 旧排気路
> 地上煤煙庭へ接続
> 通常使用禁止
「地上まで続いています」
「札が正しければな」
レオンが答える。
「空気は流れています」
ミラベルは格子へ手を近づける。
熱気ではない。
冷たい外気が。
隙間から地下へ引かれていた。
「少なくとも、行き止まりではありません」
エドガーとエレノアが、錆びた非常留具へ手を掛ける。
動かない。
「逆だ」
レオンが言った。
「左開きの刻印がある。反対へ回せ」
二人が力を込める。
錆が割れ。
格子が内側へ倒れた。
狭い煉瓦の通路が現れる。
大人なら、身体をかがめなければ通れない。
奥は暗く。
携帯灯の光も、途中の曲がり角で消えていた。
ブラムが先へ入る。
数歩進み。
振り返った。
「通れます」
ミラベルが言った。
「犬が通れることしか分からない」
「では、人間も確かめます」
「君が先へ行くな」
「なら、エレノアさんです」
レオンは順番を考える。
「ブラムの後ろにエレノア。次にユストと兄さん。君。最後に俺だ」
「最後は駄目です」
「右脚が使えない。途中で詰まれば全員を塞ぐ」
「置いていく前提の順番です」
「違う」
「同じです」
蒸気音が増す。
言い争う時間はなかった。
ミラベルは、ブラムを見る。
「レオンさんも一緒に帰れる道を、見つけてくれる?」
ブラムは。
レオンの右脚。
ミラベル。
狭い排気路。
順に確かめた。
そのまま奥へ入り。
少し先から、低く一度吠える。
「呼んでいます」
「エレノア。先へ」
「分かった」
エレノアが携帯灯を持ち、ブラムのあとへ続く。
エドガーはユストへ肩を貸した。
「歩けるか」
「少しなら」
「無理なら言え」
「言ったら、戻すのか」
「運ぶ」
ユストはエドガーの顔を見る。
官吏服。
行政権限章。
自分を騙した者たちと、同じ役所の人間。
それでも。
エドガーは番号で呼ばなかった。
「ユスト=フェル」
エドガーが言う。
「君の名で、地上へ出る」
ユストは。
ゆっくり頷いた。
二人が排気路へ入る。
次に、レオン。
ミラベルは短い縄を腰へ回し、後ろから身体を支えた。
「家畜みたいだな」
「歩けないのに文句は言えるんですね」
「歩けないとは言っていない」
「右脚をつけていません」
「事実の指摘が多い」
「レオンさんから学びました」
レオンは、左脚と両腕で進む。
負傷した右脚を、床へ擦らないよう引き寄せる。
旧排気路は。
人間を運ぶための道ではなかった。
煉瓦壁は煤で黒く。
天井は低い。
ところどころに。
外気で回る古い排気羽根が残されている。
主蒸気が止まり。
非常弁から地下へ流れ込んだ白い蒸気が。
いま。
強い上昇気流となって、地上へ吸い出されていた。
分岐へ着くたび。
ブラムは足を止める。
一方からは、配管の破裂音。
もう一方からは。
地上の雨音。
犬は、雨音の方へ進んだ。
「左です!」
先頭のエレノアが伝える。
「ブラムが左へ曲がった!」
「地上音は?」
「聞こえる! 荷車の音も!」
「なら続け」
ユストが途中で膝をつく。
エドガーが身体を支えた。
「休めるか」
「止まるな」
ユストが掠れた声で言う。
「また、壁の中へ戻りたくない」
「戻さない」
エドガーは腕を自分の肩へ掛け直した。
「歩くぞ」
後方から。
熱い蒸気が追ってくる。
ミラベルは、レオンの腰へ回した縄を離さなかった。
「近すぎる」
レオンが言う。
「何がですか」
「蒸気が来たら、君が先に焼かれる」
「離れたら、レオンさんが止まったことに気づけません」
「止まらない」
「さっき棚の下にいました」
「予定外だ」
「事件では、予定外が起きます」
レオンは何も返さなかった。
左手で壁を押し。
一歩分、前へ進む。
やがて。
ブラムの吠える声が聞こえた。
二度。
短く。
帰路誘導の合図のように。
「出口です!」
エレノアの声。
排気路の先に。
灰色の光が見えた。
鉄格子。
その向こうを。
雨が落ちている。
格子の下。
煤に埋もれた蹴り出し板を、エレノアが踏む。
錆びて動かない。
ブラムが前脚を重ねる。
「もう一度!」
一人と一頭が、同時に力を掛ける。
留具が外れた。
格子が外側へ倒れる。
雨の音が。
一気に排気路へ流れ込んだ。
中央記録庁の裏手。
古い排気設備と石炭箱が並ぶ、煤煙庭だった。
エレノアが最初に外へ出る。
続いて、ブラム。
ユストとエドガー。
次に、レオン。
出口の段差で。
右脚が床へ触れた。
身体が崩れる。
ミラベルが腰の縄を引く。
エレノアも腕を取る。
三人で。
レオンを雨の中へ引き出した。
最後に、ミラベルが地上へ出る。
白い蒸気が排気口から噴き出し。
雨へ触れ。
夜の煤霧へ溶けていった。
「全員いますか」
ミラベルが見回す。
「エレノアさん」
「いるわ」
「エドガーさん」
「いる」
「ユストさん」
ユストは石炭箱へ寄りかかっている。
息をしている。
自分で顔を上げた。
「いる」
「レオンさん」
「見れば分かる」
「返事をしてください」
「いる」
最後に。
ブラム。
黒い犬は。
排気口の前にはいなかった。
「ブラム?」
ミラベルが振り返る。
煤煙庭の反対側。
古い文書搬出口へ続く石段の前に立っている。
雨の中。
身体を低くして。
暗い階段を見つめていた。
低い唸り声。
人間へ向けては。
ほとんど聞かせたことのない声だった。
「何かいます」
エレノアが携帯灯を向ける。
石段の奥で。
人影が止まった。
ヘンリク=ザール。
官吏服の上着はない。
髪は蒸気と汗で額へ張りつき。
右手には。
引きちぎれた権限板だけを握っている。
別の地下通路を使い。
文書搬出口から地上へ逃げようとしていた。
ザールが一歩進む。
ブラムも一歩前へ出た。
吠えない。
飛びかかりもしない。
ただ。
太い前脚を雨に濡れた石床へ置き。
進路を塞ぐ。
「退け」
ザールが言った。
ブラムは動かない。
「私は生存再認部長だ」
権限板を見せる。
「命令に従え」
犬は番号を読まない。
権限章も。
役職も。
誰が扉を開ける権利を持つかも知らない。
覚えているのは。
真鍮板に残った匂い。
蒸気の中を逃げた人間。
誰かを地下へ残し。
一人だけ地上へ出ようとする者。
ザールが右へ動く。
ブラムも右へ動く。
左へ動けば。
同じように道を塞いだ。
「犬へ指示しろ!」
ザールが叫ぶ。
「ブラムは、あなたを襲っていません」
ミラベルが答えた。
一歩も近づいていない。
ザールが退けば。
犬も進まない。
逃げようとしたときだけ。
黒い身体が、その道へ立つ。
「退かせろ!」
「その子は、自分でそこにいます」
雨が、黒い毛を濡らす。
胸元の灰白色の毛だけが。
暗い煤煙庭で浮かび上がっていた。
ブラムは唸る。
だが。
襲わない。
退かない。
ただ待っている。
遠くで警笛が鳴った。
石造りの廊下を。
重い足音が近づいてくる。
「ザール!」
グレアムの声が響いた。
煤煙庭の扉が開く。
警部と警邏官たちが、雨の中へ入ってきた。
「動くな!」
ザールが振り返る。
その一瞬も。
ブラムは飛びかからなかった。
逃げ道だけを塞いでいる。
グレアムが距離を詰め。
ザールの腕を背後へ回した。
権限板が石床へ落ちる。
手錠の錠が閉まった。
「ヘンリク=ザール」
グレアムが言う。
「クラウディア=メルツ殺害、生存再認記録の偽装、証拠焼却未遂、ユスト=フェルの監禁および連れ去りに関する容疑で逮捕する」
「直接証拠はないはずです」
「だから調べる」
「犬の行動を証拠に?」
「犬だけじゃない」
グレアムはザールを警邏官へ渡す。
「焼却炉に残した記録と事件箱。非常弁。逃走経路。病院から消え、地下で見つかった証人」
ザールの好きな記録は。
これから一つずつ、元の場所へ戻される。
警邏官が彼を連行する。
ブラムは追わない。
ザールの腕が確保された瞬間。
低い唸り声を止めた。
雨の中を戻ってくる。
「終わったの?」
エレノアが尋ねた。
「逮捕は成立しました」
ミラベルが答える。
「事件の記録は、まだ終わっていません」
焼却炉区画には。
警察の救助班と機関技師が入った。
非常弁が閉じられ。
排気が続けられる。
高温蒸気が薄れたあと。
未解決事件箱・第十三号が回収された。
黒い外箱は濡れ。
封蝋の一部は溶けている。
それでも。
内部の文書は残っていた。
原照合票も。
端が蒸気を吸い、波打っている。
署名。
照合時刻。
承認印。
クラウディアの監査保留記録。
必要な箇所は失われていなかった。
グレアムの部下が、煤煙庭へ報告に来る。
「警部。証拠品二点、確保しました」
「焼失した記録は」
「現時点では確認されていません」
ミラベルは記録帳を開いた。
濡れた指で。
時刻を書く。
> 原照合票。
> 確保。
>
> 未解決事件箱・第十三号。
> 確保。
>
> ユスト=フェル。
> 生存。
> 本人名により保護。
「俺は?」
レオンが尋ねた。
右脚へ応急固定を施され。
石炭箱へ背を預けたまま、警察医を待っている。
ミラベルは記録帳から顔を上げた。
「負傷者一名」
「名前は」
「本人確認未了の男性」
「まだそれを使うのか」
「正式記録が戻るまでは」
「融通が利かない」
「クラウディアさんも、そういう方だったそうです」
レオンは答えなかった。
否定もしなかった。
ブラムが、彼の前へ来る。
濡れた外套。
曲がった鉄の杖。
固定された右脚。
呼吸。
順番に確かめる。
そのまま、レオンの足元へ伏せた。
「帰れと言ったはずだ」
ブラムは顔を背けた。
エレノアが笑う。
「兄さまの命令は聞かないのよ」
「必要なときだけ聞かない」
「必要だから聞かなかったんでしょう」
ミラベルは、ブラムの横へしゃがんだ。
「ありがとう」
命令でも。
評価でもない。
ただ、伝える。
ブラムはミラベルを見たあと。
煤煙庭の開いた排気口へ顔を向けた。
地下から。
最後の白い蒸気が、夜空へ流れ出している。
黒鐘塔から流されたレオンは。
四か月をかけ、黒鴉館へ帰った。
ユストは。
他人の存在へ組み込まれたあと。
自分の名を持って、壁の外へ出た。
そして今夜。
一頭の犬が。
番号も。
権限も。
身分証も読まず。
帰れなくなった者たちを。
同じ道から、地上へ連れ帰った。
ブラムは、探偵の名前を知らない。
その者が法律上。
生きているのか。
死んでいるのかも知らない。
ただ。
地下へ入った者と。
地上へ出るべき者を。
一つの連続した存在として覚えている。
だから。
名犬は。
死んだ探偵の帰路を知っていた。




