第14節 ― 生存記録を焼く者
身分照合広間に、一度だけ警報鐘が鳴った。
火災でも。
侵入でもない。
職員用の伝令鐘だった。
円蓋天井の下。
真鍮管の蓋が跳ね上がり、圧縮空気に押し出された伝送筒が受皿へ落ちる。
乾いた金属音。
その場にいた全員が振り向いた。
七つの照合卓に分けられていた原照合票は、確認を終えていた。
グレアムとミラベルの立会いのもと。
身体検査票。
所持品確認票。
署名照合票。
家族限定情報。
そのほかの原票が、灰色の封印移送箱へ収められている。
あとは蓋を閉じ。
留め金へ共同封印を施し。
地下監査区画へ戻すだけだった。
グレアムの部下が伝送筒を取り上げ、封を切った。
細い紙片へ目を走らせた瞬間。
警邏官の顔から血の気が引く。
「警部」
「読め」
「警察病院からです」
男は一度、言葉を詰まらせた。
「保護中のユスト=フェルが、連れ去られました」
空気が止まった。
「時刻は」
グレアムが問う。
「午後十時十二分ごろ。護衛交代の直前です」
「いま何時だ」
「午後十時五十四分」
「四十二分前か」
「病院が異常を確認したのは、七分前です。負傷した護衛が、意識を取り戻して発覚しました」
連れ去りが、いま起きたのではない。
警察病院が。
四十分近く、証人の消失へ気づけなかった。
「護衛は」
「二名とも負傷。命に別状はありません」
「連れ出した者の人数」
「少なくとも二名。病院職員の外套を着ていたとのことです」
「行先は」
「確認できていません」
グレアムが紙片を受け取る。
短い報告には。
誰が。
どの経路で。
ユストを病院から運び出したのかは記されていない。
断定できるのは。
午後十時十二分ごろ。
保護されていたはずの証人が、病室から連れ出されたことだけだった。
「口封じ」
エレノアが呟く。
「まだ決めないでください」
ミラベルが言った。
だが、記録帳を開く手は速かった。
「ユストさんは、身分継続局を名乗る者に利用されたと証言しました。連れ去りが、その証言を封じる目的である可能性は高いです」
「可能性?」
エレノアが振り向く。
「ほかに何のために連れ去るの」
「分かりません」
「でも」
「だから捜します」
ミラベルは短く答えた。
「生きているうちに」
その言葉と同時だった。
金属が弾ける音がした。
ヘンリク=ザールが、胸元の銀鎖から一枚の権限板を引きちぎっていた。
細い鎖が切れ。
銀の環が石床へ散る。
「動くな!」
グレアムが叫ぶ。
ザールは答えなかった。
広間中央の照合椅子を蹴る。
重い椅子が石床を滑り、警邏官の足元へぶつかった。
全員の視線が一瞬だけ遮られる。
その隙に。
ザールは、封印前の灰色の記録箱を抱えた。
「それを置いてください!」
ミラベルが手を伸ばす。
「これは身分継続局の資料です」
ザールは箱を片腕へ抱え、職員扉へ後退した。
「あなたの事件記録ではない」
「行政封鎖中だ!」
エドガーの声が飛ぶ。
「その資料を移動させる権限は停止している」
「人間へ命令することはできても」
ザールは、引きちぎった権限板を職員扉の認証口へ差し込んだ。
「機械から、私の番号を消すには時間が要る」
認証機の内部で、歯車が回る。
赤い封鎖灯は点灯したままだった。
それでも。
錠が外れる。
「なぜ開く!」
グレアムが怒鳴る。
「旧式認証機だ」
エドガーが答えた。
権限板の失効処理は、すでに中央機関室へ送っていた。
だが。
行政命令が職員の行動を禁じることと。
各扉の認証機から権限番号を消すことは、別の処理だった。
中央機関室の権限台帳を書き換え。
庁内の旧式認証機へ、同期信号を送らなければならない。
封鎖を優先したため。
番号の抹消は、まだすべての扉へ反映されていなかった。
「停止命令は出した!」
エドガーが言う。
「次の同期鐘まで、旧式機械は最後の有効記録を保持する」
「その時間を知っとったな!」
グレアムが駆ける。
ザールは、開いた職員扉の向こうへ滑り込んだ。
扉が閉まる。
グレアムが取っ手を引く。
開かない。
「内側から非常錠を掛けた」
レオンが言った。
「解除方法は」
ミラベルが尋ねる。
「通常鍵では無理だ」
エドガーは扉脇の表示器を確認する。
「反対側の管理錠か、地下制御室から開ける必要がある」
「壊すぞ」
グレアムが警棒を抜く。
「厚い防火扉です。時間がかかります」
ミラベルは、床へ落ちた銀鎖を拾わなかった。
位置だけを記録する。
「ザール部長は、原照合票を封印移送箱ごと持って逃げました」
「ああ」
レオンは閉ざされた扉を見る。
「ユストの連れ去りが、四十二分前」
「ザール部長には、ユストさんを地下へ移送する時間があった」
「本人が運んだとは限らない」
「協力者がいる可能性があります」
「行先は地下保管庫だ」
レオンの答えは速かった。
「根拠は?」
「逃げるだけなら、原照合票を持っていく必要がない」
「途中で捨てるため?」
「捨てれば残る」
「では、焼く」
「ああ」
レオンは、未解決事件箱の移管命令を取った。
「地下には、もう一つ消すべき物がある」
「未解決事件箱・第十三号」
ミラベルが言った。
「原照合票は、六週間前の帰還記録が分割された証拠」
「事件箱は、帰還を作った目的へつながる証拠だ」
「両方を焼けば」
「生存再認は、手続き上の不備へ戻る」
「クラウディアさんを殺した動機も」
「推測へ戻る」
ミラベルは記録帳へ書く。
> ザール、午後十時五十四分。
> 封印前の原照合票移送箱を持って逃走。
>
> 推定目的――証拠焼却。
> 推定行先――地下記録焼却区画。
>
> 未確認――ユスト=フェルの所在。
「ユストも地下だ」
レオンが言った。
ミラベルの鉛筆が止まる。
「断定できますか」
「口封じだけなら、別の場所でもできる」
「はい」
「だが、ザールは記録を焼きに行った」
「ユストさんは記録ではありません」
「ザールにとっては同じだ」
レオンの声が低くなる。
「原照合票は紙の証拠。事件箱は目的の証拠。ユストは生きた証拠だ」
ミラベルは、その言葉をすぐには記さなかった。
人間を。
紙や箱と同じものとして処分する。
それこそが。
ザールの制度犯罪の行き着く先だった。
「連れ去りと逃走が同じ計画なら」
ミラベルは言う。
「ユストさんが地下焼却区画へ運ばれている可能性は高い」
「ああ」
「ですが、所在はまだ未確認です」
「分かっている」
「捜索対象は三つ」
ミラベルは頁を分ける。
「原照合票」
「未解決事件箱」
「ユスト=フェル」
グレアムは、防火扉を調べていた警邏官から離れ、広間全体へ声を張った。
「地上へ出る全出口を封鎖しろ!」
警邏官たちが動く。
「正面玄関だけじゃない! 職員口、荷役口、地下昇降機の地上停止階! 記録庁から出る人間を全員確認しろ!」
「ザール部長の権限番号は、旧式機械ではまだ有効です」
ミラベルが言う。
「人間を見ろ」
グレアムは即座に答えた。
「今回は板じゃない。顔を見ろ。声を聞け。本人を通すな」
警邏官が走り去る。
六週間前。
扉は真鍮板をレオンとして通した。
いま。
警察は初めて。
番号ではなく、人間そのものを止めようとしていた。
エドガーは壁際の伝声管へ向かった。
蓋を開き。
呼出弁を三度押す。
「中央機関室」
返答を待たず、低い声で命じる。
「身分継続局地下保管庫への主蒸気を停止する。対象指定を行う」
エドガーは、ミラベルとグレアムを見る。
一人で命令を完結させなかった。
「焼却炉」
ミラベルが言う。
「証拠を燃やすなら、最初に止める必要があります」
「蒸気消毒区画もだ」
グレアムが付け加える。
「視界を奪われる可能性がある」
「記録搬送機構は?」
「止めないで」
エレノアが答えた。
全員が彼女を見る。
「文書搬送路を使うのか」
レオンが尋ねる。
「地下まで、階段より早いわ」
エレノアは広間奥の文書搬送口を指した。
大型記録箱を地下保管庫へ送る昇降路。
人間用ではない。
だが、保守梯子が併設されていることを。
エレノアは潜入調査の際に確認していた。
ミラベルが彼女の前へ立つ。
「入口」
「ここ」
「出口」
「地下第三搬送口」
「合図」
「到着が二回。危険を見つけたら四回」
「五分です」
「分かった」
「ザール部長へ接触しないでください」
「接触しない」
それだけだった。
決めた手順を。
もう一度、長く説明する必要はない。
エレノアは携帯灯と腰の縄を確かめる。
「兄さま」
文書搬送口を開く前に、レオンを見る。
「何だ」
「勝手に死なないで」
「それは俺の台詞だ」
「先に使った方の台詞よ」
暗い縦穴。
鋼線で吊られた搬送籠。
壁沿いの細い梯子。
エレノアは携帯灯を口へくわえ、梯子へ足を掛けた。
光が縦穴の奥へ降りていく。
ミラベルは時刻を記した。
「午後十時五十七分。文書搬送路へ進入。五分を測ります」
エドガーは伝声管へ向き直る。
「中央機関室」
声が硬くなる。
「焼却炉、蒸気消毒区画、地下保管庫主配管。即時停止」
伝声管の向こうから、返答があった。
だが。
続いて伝えられた一言に。
エドガーの表情が変わる。
「何だ」
グレアムが尋ねる。
「主蒸気は停止できる」
エドガーが答えた。
「ただし、蒸気消毒装置の蓄圧槽に、高圧蒸気が一回分残っている」
「蓄圧槽?」
ミラベルが聞き返す。
「感染性資料を即時消毒するための非常設備だ」
レオンが答えた。
「主配管が破断しても、一度だけ消毒区画を蒸気で満たせるよう、独立した槽へ圧力を残す」
「主蒸気を止めても使える?」
「ああ」
「遠隔で抜けますか」
エドガーが伝声管の返答を聞く。
「中央制御室から排圧できる。ただし、弁の切り替えに十数分かかる」
「地下側から開放することも?」
「非常弁がある」
レオンの声が低くなる。
「ザールなら、場所を知っている」
「では、主蒸気を止めても」
ミラベルが言う。
「一回だけ、大量の蒸気を放出できる」
「ああ」
遠く。
壁の中を走っていた蒸気の音が変わった。
大きな機械が。
順番に息を止めていくようだった。
広間の床から伝わる振動が弱まる。
蒸気灯の明かりが一度揺れた。
「主蒸気停止、確認」
エドガーが言う。
「焼却炉は?」
「圧送機構と燃焼送風は止まる」
レオンが答えた。
「だが、炉床の熱までは消えない」
「紙を燃やせますか」
「火を移す程度の熱は残る」
「時間を稼いだだけですね」
「ああ」
グレアムは防火扉を破る工具を持ってこさせる。
「俺は地上出口の封鎖を確認してから地下へ行く」
「お願いします」
ミラベルが言った。
「ザール部長を、別の出口から逃がさないでください」
「五分後に地下で合流する」
グレアムは部下へ指示を飛ばしながら、地上側の階段へ向かった。
「先に行って死ぬな!」
「誰に言っていますか」
「全員だ!」
レオンは鉄の杖を取った。
「俺たちは通常階段から下りる」
ミラベルが右脚を見る。
「走れませんよ」
「分かっている」
「本当に?」
「君は俺を何だと思っている」
「昨日、倒れかけた負傷者です」
「それ以前は?」
「勝手に先へ行く探偵です」
「正しい認識だ」
「褒めていません」
ブラムが立ち上がる。
ザールが通った職員扉。
原照合票が置かれていた卓。
床へ落ちた銀鎖。
順番に匂いを確かめる。
耳が。
文書搬送路ではなく、床下へ向いた。
低く。
人間には聞き取れない何かを聞いている。
「エレノアさんの合図まで、あと四分です」
ミラベルが言った。
「待っていれば焼かれる」
「一人で行くとは言っていません」
鞄を肩へ掛ける。
「私たちも下ります」
通常階段は、広間の反対側にあった。
地下へ一段降りるごとに、空気が冷たくなる。
主蒸気を止めたため。
壁の配管は沈黙し。
蒸気灯の光も弱くなっていた。
レオンは杖を先へ置く。
右脚。
左脚。
次の段。
急ぐことはできない。
ミラベルは先へ走らない。
半段下に立ち。
レオンが踏み外したとき、支えられる距離を保つ。
「先へ行け」
「調査補助者を置いていけません」
「この速度では間に合わない」
「一人で行っても、ユストさんを運べません」
「俺は――」
「レオンさん」
ミラベルの声が、暗い階段へ響く。
「前と同じように、一人で決めないでください」
レオンの杖が止まる。
ほんの一瞬。
そのあと。
「分かった」
また一段、下りる。
短い返事だった。
ブラムは、二人より数段先にいる。
急かさない。
戻りもしない。
安全な位置で待ち。
二人が追いつくと、再び下へ進む。
地下第一層。
証拠整理区画。
誰もいない。
机上の紙押さえが、主蒸気停止の振動でわずかに揺れている。
地下第二層。
通常保管区画。
封鎖された鉄棚。
行政封印。
警察の帯。
破られていない。
「ザール部長は、ここを通っていません」
ミラベルが確認する。
「別の通路だ」
レオンが言う。
「職員扉から、監査区画の裏へ出た」
「焼却炉へ直接?」
「部長なら経路を知っている」
「知っていることと、使ったことは別です」
「ああ」
レオンは一度、呼吸を整えた。
「だが、目的が焼却なら最短を選ぶ」
ブラムが廊下の角で止まった。
床へ鼻を近づける。
封印移送箱の紙と布。
ザールの靴。
それだけではない。
頭を上げ。
別の方向へ鼻を向ける。
「二つありますか」
ミラベルが尋ねる。
犬は左の通路を嗅ぐ。
次に右。
迷っているのではない。
異なるものを、別々に確認している。
「右は監査区画」
レオンが壁の表示を読む。
「左は、蒸気消毒区画と焼却炉」
「ザール部長は左へ?」
「おそらく」
「右には?」
ブラムは右の空気を短く嗅ぎ。
すぐ左へ顔を戻した。
「残留臭かもしれない」
「何の?」
「分からない」
まだ。
ブラムへ、ユスト本人の匂いを追うよう命じてはいない。
ここで断定することはできなかった。
そのとき。
金属管を叩く音がした。
二度。
短く。
間を置き。
もう二度。
「エレノアさんです」
ミラベルは懐中時計を見る。
五分以内。
「第三搬送口へ到着しました」
続いて。
金属音が四回。
一。
二。
三。
四。
危険を見つけた合図。
二人と一頭は、左の通路へ向かった。
焼却炉へ近づくほど。
主蒸気が止まったはずの地下で、空気が温かくなる。
古い紙。
防虫薬。
煤。
その中へ。
焼けた布の匂いが混ざっていた。
「もう燃やしている?」
ミラベルが尋ねる。
「炉内の残熱だ」
「原照合票へ火が移れば」
「時間はない」
レオンは歩幅を速めた。
右脚が遅れる。
杖の先が石床を滑った。
ブラムが身体を寄せ、転倒を防ぐ。
「離れろ」
犬は動かない。
「レオンさん」
「分かっている」
今度は、命令を繰り返さなかった。
ブラムの身体へ支えられ。
一歩。
さらに一歩。
前へ進む。
焼却炉区画へ続く鉄格子の向こうに。
エレノアの携帯灯が見えた。
彼女は第三搬送口の脇へ身を隠し、こちらへ手を上げている。
声を出すなという合図。
ミラベルとレオンが壁際へ寄る。
鉄格子越しに、区画の中を見る。
中央に、大型記録焼却炉。
厚い炉壁。
半円形の投入扉。
周囲には、焼却前の資料を載せる鉄製台車が並ぶ。
その一台に。
黒い事件箱が載っていた。
蓋には、剥がしかけた封印札。
> 未解決事件箱・第十三号
隣の台車には。
灰色の封印移送箱。
蓋は開けられ。
中に原照合票が残されている。
「両方あります」
ミラベルが囁く。
「まだ燃やされていない」
ザールは焼却炉の前に立っていた。
官吏服の上着を脱ぎ。
袖を肘までまくっている。
主蒸気が止まったため、投入扉の圧送機構は動かない。
手動輪へ両手を掛け。
重い炉扉を開こうとしていた。
だが。
区画にいるのは、ザールだけではない。
焼却炉の奥。
倒れた記録台車の陰に。
一人の男が横たわっていた。
顔の片側へ残る傷。
喉の縫合痕。
両手を後ろへ縛られている。
「ユストさん」
エレノアが小さく言った。
生きている。
胸が、わずかに動いている。
だが。
意識があるかは分からない。
「確認できました」
ミラベルは記録帳へ手を伸ばす。
レオンが止めた。
「いまは書くな」
「でも」
「目を離すな」
ミラベルは記録帳から手を離した。
「分かりました」
ザールは手動輪を回す。
炉扉が少しずつ持ち上がる。
内側から、赤い光が漏れた。
主蒸気が止まっても。
炉床には、まだ熱が残っている。
紙を入れれば。
時間はかかっても、燃える。
「グレアム警部を待つ?」
エレノアが囁く。
「間に合わない」
レオンが答える。
「私が事件箱を取ります」
「駄目です」
ミラベルが即座に止めた。
「ザール部長へ接触しない約束です」
「でも」
「ユストさんを先に」
「ザールが気づく」
「囮が必要ね」
「エレノアさん」
「捕まえようとはしないわ」
エレノアは鉄格子の錠を見る。
「扉を開けて、注意をこちらへ向けるだけ」
「三人で勝手に決めるな」
レオンが低く言った。
「では、調査責任者」
ミラベルを見る。
「指示を」
以前。
レオンが彼女へ求めた言葉だった。
ミラベルは区画の中を見る。
ザール。
事件箱。
原照合票。
ユスト。
確保すべきものは三つ。
だが。
人間と紙を、同じ順位には置けない。
「ユストさんの救出を最優先にします」
ミラベルは言った。
「エレノアさんは格子を開けたら、右側の台車の陰へ。ザール部長へ近づかないでください」
「分かった」
「レオンさんは、ここで待ってください」
「却下する」
「負傷しています」
「ユストを運ぶ人間が要る」
「警察を待てます」
「炉扉が開く」
赤い隙間が広がっている。
「なら、私がザール部長を止めます」
「君に止められる相手じゃない」
「では、どうするんですか」
「炉を止める」
「主蒸気は止まっています」
「消火弁がある」
レオンは、焼却炉上部の配管を見る。
「開けば、炉内へ消火用の蒸気が入る」
「蓄圧槽の蒸気?」
「ああ」
「一回分しかない」
「炉へ正しく入れば、火は止まる」
「ザール部長は、設備を知っています」
「知っている」
「非常蒸気を、炉内以外へ放出することも?」
「可能だ」
ミラベルの表情が固くなる。
「なら、先に弁へ近づかせてはいけません」
そのとき。
ザールの手が止まった。
顔を上げる。
こちらを見た。
「残念です」
低い声が。
鉄格子越しに届いた。
「もう少し、時間があると思っていました」
エレノアが錠から手を離す。
見つかっていた。
ザールは炉扉の手動輪を放した。
逃げようとはしない。
代わりに。
焼却炉横の太い配管へ歩く。
「そこから離れろ!」
レオンが叫ぶ。
ザールは振り返らない。
壁へ埋め込まれた大きな赤い輪。
消毒用蓄圧槽の非常開放弁。
主蒸気が止まっても。
槽内には、地下消毒区画を一度満たせるだけの高圧蒸気が残っている。
ザールは両手で赤い輪を握った。
「あなた方は」
彼は言った。
「記録を守れば、人間を救えると考えている」
「逆です!」
ミラベルが格子へ近づく。
「人間を救うために、記録を残すんです!」
「その区別が、制度を不安定にする」
赤い輪が回る。
一回。
配管の奥で、重い弁が動いた。
ブラムが立ち上がる。
耳を伏せ。
床へ前脚を強く置いた。
「下がれ!」
レオンの顔色が変わる。
二回目。
蓄圧槽から押し出された蒸気が、非常配管へ流れ込む。
壁の圧力計の針が跳ね上がった。
「ザール!」
エドガーの声が、通路の向こうから響く。
追いついたのだ。
「その弁を閉じろ! 消毒槽の圧力が、地下区画へ流れる!」
ザールは赤い輪から手を離さない。
「焼却炉を止めるからです」
「炉内消火へ切り替えろ!」
「そうすれば、あなた方が入ってくる」
三回目。
圧力計の針が赤い範囲へ入った。
安全弁が鳴く。
高い金属音。
直後。
床下で何かが破裂した。
白い蒸気が。
焼却炉区画の隅から噴き上がった。
最初は、細い柱だった。
天井へ達した蒸気が広がる。
配管の継ぎ目。
床の排気口。
蒸気消毒用の壁孔。
一回分の蓄圧蒸気が。
行き場を与えられ、次々と白い噴流になって吹き出した。
「伏せて!」
ミラベルがエレノアの腕をつかむ。
ブラムが二人の前へ身体を入れた。
鉄格子の向こうで。
ザールの姿が白く霞む。
ユストが倒れている台車も。
未解決事件箱も。
原照合票も。
輪郭を失っていく。
「蓄圧槽を閉じる!」
エドガーが制御盤へ向かおうとする。
レオンが止めた。
「正面から近づくな! 噴出口がある!」
「このままでは全区画へ回る!」
「制御室から排圧してください!」
ミラベルが言う。
「ここは私たちが――」
「君たちも退避しろ!」
「ユストさんが中にいます!」
「警察へ任せろ!」
「まだ来ていません!」
蒸気音が、声を食い始める。
言葉が。
半分しか聞こえない。
視界は数歩先まで白く閉ざされた。
熱が鉄格子を通り。
頬を刺す。
ミラベルは袖で口元を覆った。
「レオンさん!」
振り返る。
レオンは動いていなかった。
鉄の杖を握り。
白い蒸気を見ている。
いや。
見えていない。
目の前にあるのは。
焼却炉から噴き出した蒸気ではなかった。
黒鐘塔。
重量錘坑。
落下する身体。
頭上から押し寄せる大量の水。
暗い水路を満たす轟音。
息を吸うたび。
肺へ入り込む冷たい水。
「レオンさん」
返事がない。
配管の振動。
白い流れ。
視界を奪う轟音。
四か月前の地下水路が。
熱を持って。
目の前へ戻っていた。
ミラベルはレオンの腕をつかんだ。
「ここは黒鐘塔ではありません」
レオンの目が動く。
「聞こえますか」
「……聞こえている」
「私を見てください」
「ユストが中にいる」
「分かっています」
「事件箱も」
「分かっています」
「原照合票が燃える」
「それも分かっています」
ミラベルは手を離さない。
「でも、一人で行かないでください」
レオンは白い蒸気の向こうを見る。
ザールも。
ユストも。
証拠も。
何も見えない。
「一人じゃない」
レオンが言った。
ブラムが。
二人の前へ出る。
黒い身体は、蒸気の中でたちまち輪郭を失う。
それでも。
床へ鼻を近づけ。
匂いと空気の流れを確かめていた。
耳が。
人間には聞き分けられない音へ向く。
蒸気漏れ。
圧力弁。
ユストの呼吸。
崩れ始めた鉄棚の軋み。
ブラムは一歩、進んだ。
次の瞬間。
焼却炉区画の奥で、重いものが倒れる音がした。
鉄棚。
記録台車。
炉の周囲へ積まれた資料箱。
何が崩れたのかは見えない。
「エレノアさん!」
ミラベルが呼ぶ。
白い蒸気の向こうから返事が聞こえた。
「ここにいる!」
近い。
まだ無事だ。
「動かないでください!」
「ユストさんが――」
声が蒸気音へ消える。
どこにいるのか分からない。
ブラムが低く一度吠えた。
警告か。
呼びかけか。
人間には区別できない。
エドガーは通路側へ戻り、伝声管へ叫んでいる。
「消毒蓄圧槽を閉鎖! 全排気弁を開けろ!」
返答は聞こえない。
グレアムの怒鳴り声が、別の通路から近づいてくる。
「全員、位置を知らせろ!」
ザールの姿はない。
赤い非常弁も。
焼却炉も。
未解決事件箱も。
すべて。
白い蒸気の中へ隠された。
生存記録を焼こうとした男は。
最後に。
記録だけではなく。
そこにいる人間ごと。
視界から消そうとしていた。
蒸気が、さらに濃くなる。
黒鐘塔では。
水がレオンを地下へ押し流した。
いま。
中央記録庁の地下を満たす白い流れは。
帰ってきた探偵と。
存在を取り戻しかけた男と。
彼らを記録してきた者たちを。
もう一度。
帰路の見えない場所へ呑み込もうとしていた。




