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第9節 ― 切られた制動管

 東部保守機関庫から地上へ戻るには、二つの道があった。


 一つは、整備員たちが使う螺旋階段。


 もう一つは、機関庫から中央連絡坑へ延びる資材運搬線である。


 細い軌道を保守用手押し車で進めば、始発前の時間なら地上近くまで短時間で戻れる。ただし、途中には長い下り勾配があり、速度を抑えるため、車両には圧力式の制動器が付いていた。


 鉄製の車台。


 左右の手すり。


 中央の走行腕。


 後部の制動レバーからは、圧力を車輪へ伝える細い管が伸びている。


 人を運ぶための車両ではない。工具や交換部品を載せ、保守員が短い区間を移動するためのものだった。


「本当に、これで戻るんですか」


 ミラベルは車台の上から、蒸気灯の並ぶ暗い坑道を見た。


「歩くより早いですよ」


 機関庫の保守員が走行腕を握る。


「中央連絡坑の手前まで行けます。ブラムも慣れている」


 黒い犬は、すでに車台の前方へ伏せていた。


 煤に汚れた前脚を揃え、進行方向を見ている。乗せられたというより、自分で以前の位置を選んだようだった。


「ヨアヒムさんとも乗っていたんでしょうか」


「何度も。地下点検へ行くときは、ベルナー主任の隣がブラムの席でした」


 保守員が車止めを外す。


 ミラベルは工具箱へ腰を下ろし、鞄を膝へ抱えた。


 三台の機関車を観察した記録。


 オルガから預かった手紙の写し。


 旧第零環支線の地図。


 古い水入れから見つかった、所属不明の車軸番号。


 三地区で同じ順に並んだ汽笛符号。


 どれも、まだ答えではない。


 だが、ヨアヒムが自分の意思で街を去ったという前提は崩れた。三つへ分けられた保守区画も、かつては一本の線路だった。


 人間の記録では三台。


 ブラムが確かめるのは、三度とも同じ左前輪。


 その二つを結びつけるものが、まだ足りなかった。


「出します」


 保守員が走行腕を押し下げた。


 軸が回り、車輪が軌条を噛む。


 手押し車はゆっくりと検査線を離れた。


 蒸気槌と整備員の声が背後へ遠ざかる。坑道へ入ると、残ったのは車輪音と、天井から落ちる地下水の音だけだった。


 カタン。


 カタン。


 左右の壁から、同じ音が追いかけてくる。


 ブラムは身体を低くしたまま動かない。耳だけが、坑道の奥から伝わる振動を拾っていた。


 最初の分岐を越えたところで、ミラベルは手帳を開いた。


「この区間も、以前は第零環支線だったんですか?」


「昔の呼び方なら、そうです」


 保守員は走行腕を上下させながら答えた。


「いまは東部機関庫連絡線。次の境界からは中央区の管理になります」


「軌条は続いているのに?」


「管理札が変われば、別の線ですよ」


 悪意のない言葉だった。


 同じ鉄の道が続いていても、担当部署が変われば別の線路になる。


 ミラベルは手帳へ短く記した。


 線路の実体と、管理上の名称は一致しない。


「何か?」


「確認したことを記録しています」


「クラウス探偵も、何でも書いたんですか」


「いいえ」


 ミラベルは即答した。


「レオンさんは何も説明せずに覚えていました」


「便利ですね」


「周囲には不便でした」


 勾配が始まった。


 走行腕を動かさなくても、手押し車が前へ進み始める。


 保守員は腕から手を離し、後部の制動レバーへ移した。


「ここから速度を落とします」


 レバーを引く。


 空を切るような音がした。


 保守員の表情が消える。


 もう一度、深く引いた。


 抵抗がない。


「どうしました?」


「制動が――」


 手押し車が加速した。


 軌条の継ぎ目を越える間隔が短くなる。


 カタン。


 カタン。


 カタン。


 壁の蒸気灯が次々と後方へ飛んでいく。


 保守員はレバーを何度も動かしたが、圧力計の針は上がらない。


「伏せて!」


 彼が叫んだ。


 ミラベルは工具箱へ片手をつき、身体を低くする。


 その横を、黒い管が鞭のように跳ねた。


 制動レバーの根元から延びる圧力管。


 継ぎ手から外れたのではない。


 途中で破断し、切れた先端が車台を激しく叩いている。


「管が切れています!」


「分かってる!」


 保守員は床へ膝をつき、暴れる管を押さえようとした。


 だが、手押し車はさらに速度を上げる。


 勾配の先に、赤い信号灯が見えた。


 その下に分岐器がある。


 現在の軌道は、そのまま地下回送線の本線へ入る位置になっていた。


「このままだと?」


「本線へ出る!」


「列車は?」


「回送が来る時刻だ!」


 本線へ入れば、走行中の回送列車と正面から衝突する。


 分岐まで、もう三十秒もない。


「切り替えられないんですか?」


「信号箱からでないと――」


 車輪が何かを踏んだ。


 車台が大きく跳ねる。


 保守員は手すりへ肩を打ちつけ、床へ倒れた。


「大丈夫ですか!」


「俺はいい! 伏せろ!」


 ブラムが立ち上がった。


 風へ身体を低くしながら、車台の先端へ進む。


「ブラム、戻って!」


 ミラベルの声に従わない。


 前方の分岐を見たあと、犬は左側の壁へ顔を向けた。


 蒸気灯の下。


 赤い麻縄が、金属環を通りながら坑道の先へ張られている。


 ブラムが吠えた。


 短く、鋭い一声。


 その声が、車輪音を裂いて坑道へ響く。


 ミラベルは息を呑んだ。


 汽笛を聞いても。


 三台の機関車を見ても。


 主人のいない部屋で待ち続けても。


 ブラムは一度も吠えなかった。


 犬はもう一度、赤い縄へ鼻先を向ける。


「何です、あれは!」


 保守員が肩を押さえながら顔を上げた。


「緊急停止綱だ!」


「車両を止められるんですか?」


「分岐を砂利側線へ切り替える!」


 本線へ入る直前。


 左側には、砂利を厚く敷いた短い安全線が設けられている。


 赤い綱を引けば、分岐器が停止位置へ戻り、暴走車両をそちらへ逃がせる。


 だが縄は壁際にあり、車台から腕を伸ばしただけでは届かない。


 通り過ぎれば、次はなかった。


 ミラベルは鞄を床へ置き、手すりをつかんだ。


「何をする!」


「綱を引きます!」


「落ちるぞ!」


「何もしなければ、本線へ入ります!」


 車台の縁へ片足を掛ける。


 走行風が外套を膨らませた。


 坑道の壁が、高速で横へ流れていく。手を触れれば、腕ごと後ろへ引きちぎられる距離だった。


 ミラベルは手すりを握り、半身を外へ出した。


 赤い縄が近づく。


 まだ遠い。


「届きません!」


 保守員が床を這い、ミラベルの外套をつかんだ。


「腰の帯を外せ!」


 ミラベルは片手で留め具を外す。


 保守員は帯を手すりへ一度巻き、残った端を彼女の腰へ回した。


「落ちても、引き戻せるとは思うな!」


「落ちないように支えてください!」


「無茶を言うな!」


 赤い信号灯が迫る。


 ブラムがもう一度吠えた。


 ミラベルは手すりから片手を離す。


 身体をさらに外へ倒す。


 保守員が帯を強く引いた。


 指先が麻縄へ触れる。


 滑る。


 粗い繊維が爪の上を通り過ぎた。


 腕を伸ばす。


 今度は両手でつかんだ。


 衝撃が肩を貫く。


 身体が後方へ引きちぎられそうになる。掌の皮が焼け、赤い麻縄が手の中を滑っていく。


「離すな!」


 保守員の声。


 離せなかった。


 指を開けば、分岐の先は本線である。


 ミラベルは歯を食いしばり、両腕を胸元へ引きつけた。


 綱が張る。


 壁の内部で歯車が動いた。


 続いて、鉄同士が噛み合う轟音。


 前方の分岐器が切り替わる。


 本線へ続いていた軌条が動き、左の砂利側線へ進路を開いた。


 手押し車が分岐へ突っ込んだ。


 車台が跳ねる。


 ミラベルの手から縄が外れた。


 掌へ熱い痛みが走る。


 砂利を噛んだ鉄輪が、甲高い悲鳴を上げた。


 保守員がミラベルを車台へ引き戻す。


 ブラムが伏せる。


 終端の車輪止めへ衝突した。


 木片が飛ぶ。


 車台が横へ振られ、鉄輪を砂利へ深く沈ませる。


 壁まで、あと一歩。


 そこで止まった。


 音が消えた。


 蒸気灯だけが、何事もなかったように燃えている。


 ミラベルは工具箱へ背を預けた。


 息が入らない。


 胸だけが大きく上下する。


 両手を開くと、掌の皮が裂け、血が滲んでいた。


「ブラム」


 ようやく声を出す。


 黒い犬は車台の先端へ伏せている。


「怪我は?」


 ブラムは立ち上がり、四本の脚でミラベルのそばへ来た。


 身体を傷めた様子はない。


 彼女の血の匂いを嗅いだあと、すぐに顔を上げた。


 本線へ耳を向ける。


 遠くから、車輪音が近づいていた。


「列車が来ます」


 保守員が青ざめる。


 暗い坑道の奥へ、黄色い前照灯が現れた。


 もし分岐器を切り替えられなければ。


 手押し車は、あの本線へ入っていた。


 停止側線の奥から、二人と一頭は回送列車が通過するのを見た。


 黒い機関車。


 低い前照灯。


 蒸気に隠れた番号札。


 車輪が継ぎ目を越える。


 カタン、カタン、……カタタン。


 ブラムが頭を上げた。


 列車が通り過ぎるまで、その音を追う。


 ミラベルも聞いた。


 三台の保守列車で聞いた、不規則な間隔。


 だが、いまは番号札も車体も確認できない。


 似た音を聞いた。


 それ以上の意味を与えるのは、あとでよい。


 回送列車の最後尾灯が闇へ消える。


 保守員が、ようやく大きく息を吐いた。


「衝突していた」


「ええ」


 ミラベルは裂けた掌をハンカチで押さえた。


「警察を呼びましょう。車台には、もう触らないでください」


 切断された圧力管は、暴れることをやめ、車台の後部へ垂れている。


 断面は新しい。


 だが、いつ。


 誰が。


 どのように切ったのか。


 それは現場を保全したあと、確認すべきことだった。


 ミラベルはブラムを見る。


 赤い停止綱が、車台の後方でまだ揺れている。


「教えてくれたのね」


 命令ではなく、礼を告げた。


 ブラムは彼女を見返し、ゆっくり隣へ座った。


     ◇


 グレアムが到着したとき、地下連絡坑には市警と鉄道警備隊の蒸気灯が並んでいた。


 停止側線の入口は封鎖されている。


 砕けた車輪止め。


 手押し車の停止位置。


 赤い緊急綱。


 分岐器。


 切れた制動管。


 すべてへ番号札が置かれていた。


 グレアムは挨拶をしなかった。


 まずミラベルの顔を見て、次に包帯を巻かれた両手、そのあと車台の前へ伏せるブラムへ目をやる。


「怪我は、それだけか」


「保守員の方が肩を打っています」


「お前の話だ」


「掌だけです」


「そうか」


 それ以上は言わなかった。


 だが、顎髭の下で奥歯を噛んだのが分かった。


 グレアムは手袋をはめ、車台の後部へしゃがんだ。


 管の断面へ灯りを当てる。


 自然に裂けた形ではない。


 片側から斜めに刃が入り、薄く残された部分だけが千切れている。


「出発前の制動試験は?」


 保守員へ尋ねる。


「正常でした。圧力計も上がり、制動も作動しました」


「試験のあと、車両から離れたか」


「連絡票を取りに行った五分ほどだけです」


「その五分間は無人だった?」


「はい。整備区画内ですから、局員か、立入りを許可された者しか近づけません」


 グレアムは切断面へ目を戻した。


「最初の試験では、管はつながっていた」


 断面を示す。


「そのあと無人になった五分間に、誰かが刃を途中まで入れた」


 次に、勾配の方向を見る。


「完全には切らず、薄い部分だけを残した。走行中の振動と圧力で、勾配へ入ったあと破断するようにな」


「そう考えてよいんですか?」


 ミラベルが尋ねる。


「刃の深さと破断時期は鑑定へ回す。だが、材質疲労でこの断面にはならん」


 確認できる時系列は明確だった。


 出発前の制動試験では正常。


 その後、手押し車が五分間無人になった。


 その間に管へ途中まで刃が入れられた。


 走行中の振動と圧力によって、下り勾配で完全に破断した。


 制動が必要になるまで、異常は表へ出ない。


 偶然ではない。


 人が乗った状態で、最も危険な場所へ達してから制動を失わせる細工だった。


 坑道の奥から複数の足音が近づく。


 鉄道局員たちの間を通り、ゲルハルト=ノールが現れた。


 濃灰色の上着。


 夜間運行監査官の銀章。


 いつもと同じ整った姿だったが、機関庫で会ったときより歩調が速い。


 停止側線へ入ると、壊れた手押し車、血の付いた赤い縄、ミラベルの包帯を順に見た。


「大変な災難でした」


 声は穏やかだった。


「重傷者がいなかったことだけは幸いです」


「災難ではない」


 グレアムが答える。


「原因の鑑定前では?」


 ノールは車台を見る。


「ブラムが機関庫の整備区画へ入ったため、確認手順に混乱が生じたとも聞いています」


「ブラムは許可を受けていました」


 ミラベルが言う。


「現在は機関庫所属の犬ではありません。犬を避けるため、係員が持ち場を離れた可能性はあるでしょう」


「その混乱で」


 グレアムは布に包んだ制動管を持ち上げた。


「管へ刃物が入るのか」


 ノールの微笑が、一瞬だけ止まった。


「刃物と確定したのですか」


「正式には鑑定を待つ」


 グレアムは立ち上がる。


「だが、この車両は制動試験を通過したあと五分間無人になり、その後、勾配で管が破断した。進路の先には運行中の回送列車がいた」


 本線の暗闇へ目を向ける。


「これを事故と呼ぶなら、殺人も人間が偶然死ぬ現象になる」


 ノールは返事をしなかった。


 グレアムは部下へ振り返る。


「機関庫の検査区画を封鎖」


「はい」


「手押し車へ近づけた者を全員確認しろ。配車票、制動点検票、連絡筒の受信記録を押さえる。地下回送線の通過記録は別に保全しろ」


「令状は?」


「いま申請する。鉄道警備隊にも連絡しろ」


 警官たちが一斉に動き始める。


 命令を復唱する声が、煤けた坑道へ響いた。


 グレアムは上着の内側から、薄い事件記録を取り出した。


 最初に黒鴉館へ持ち込んだ紙。


 被害者、なし。


 容疑者、なし。


 目撃者、一頭。


 三行の下へ、新しい記載欄を作る。


 発生場所。


 東部機関庫連絡線、地下勾配。


 被害者。


 ミラベル=ワトリア。


 同乗保守員一名。


 その手が止まる。


 ブラムを見る。


「犬は、法の上で被害者として扱いにくい」


「一緒に殺されかけました」


 ミラベルが言う。


「分かっとる」


 人員欄へ、


 同乗保守犬、ブラム。


 と書き加える。


 事件分類。


 殺人未遂。


 太い字で記した。


「ここからは事件だ」


 紙を閉じる。


「失踪していない男の所在確認でも、犬の奇妙な巡回でもない。誰かが、人の乗った車両へ細工し、走行中の列車へ衝突させようとした」


「私を狙ったと断定できますか?」


「お前を狙ったのか。保守員もろとも落とすつもりだったのか。犬を消したかったのか。そこまでは分からん」


「では、確定しているのは」


「人が乗ると知った車両の制動管へ、故意に刃を入れた者がいる」


 グレアムの声は低い。


「その結果も知ったうえでな」


「ヨアヒムさんの件も、正式捜査へ?」


「関連はまだ断定しない」


 グレアムは答えた。


「だが、同じ調査の途中で殺人未遂が起きた。転居記録、別れの手紙、三台の列車、第零環支線。すべて照会対象へ入れる」


「犬の行動も?」


「犬を証人席へ立たせることはできん」


 グレアムはブラムを見る。


 黒い犬は、赤い停止綱の下でミラベルの隣へ伏せていた。


「だが、犬が通った道には足跡が残る」


 砕けた車輪止め。


 切られた管。


 緊急停止綱。


 直後に本線を通過した回送列車。


「足跡なら、俺たちの仕事だ」


 ノールが静かに眼鏡へ触れた。


「捜査には全面的に協力します」


「そうしてもらう」


 グレアムは答える。


「まず、運行局へ戻るな」


「私が?」


「関係者全員だ。記録へ触れられては困る」


「私を疑っているのですか」


「いまは、全員を疑えるようにするための措置だ」


 事務手続を告げる口調だった。


「不満があるなら、正式な記録へ書け」


 ノールは数秒黙ったあと、穏やかな微笑を戻した。


「承知しました」


 鉄道警備員に付き添われ、停止側線を出ていく。


 ミラベルは、その背中を見送った。


 親切な資料。


 三つの運行記録。


 ヨアヒムの疲労を案じる説明。


 そして、今回の事故説。


 いずれも、それだけなら成立する。


 ノールが犯人である証拠にはならない。


 制動管へ刃を入れた者も、まだ分からない。


 だが。


 誰かが、彼女たちの調査を知っている。


 誰かが、ブラムの巡回を、もう偶然では済ませられなくなった。


 ミラベルは犬の隣へしゃがんだ。


 包帯を巻いた手では、頭を撫でられない。


 何も命じず、目の高さを合わせる。


「ありがとう」


 ブラムは一度だけ鼻を近づけ、血の滲んだ包帯の匂いを確かめた。


 それから立ち上がる。


 停止側線の外。


 地下回送線が続く暗闇へ顔を向けた。


 ヨアヒムから命じられた仕事が、まだ終わっていないかのように。


 ミラベルも立ち上がった。


 これまでは、事件が存在しないという記録を調べていた。


 いまは違う。


 切られた管が。


 砕けた車輪止めが。


 裂けた掌が。


 事件が存在することを、誰にも消せない形で記録していた。

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